はてなキーワード: ノーマとは
クィア理論は、ジュディス・バトラーやイヴ・コソフスキー・セジウィックらによって展開された、異性愛中心主義(ヘテロノーマティヴィティ)を脱構築する試みとして登場した。規範を「行為の反復」として相対化し、ジェンダーやセクシャリティを流動的なパフォーマンスとして再定義することで、抑圧からの解放を目指したはずである。しかし、21世紀に入りこの理論が制度化・政策化される過程で、皮肉にも新たな規範の再配置と生権力の装置として機能し始めた。ミシェル・フーコーが『性の歴史』や『監獄の誕生』で分析したように、権力は単に抑圧するのではなく、知識・言説を通じて主体を生産・分類・管理する。クィア理論は、旧来の生物学的性規範を批判しながら、自ら新しい「正常/異常」の線引きを導入し、人間本性を再定義し、さらには一部の逸脱者を「脱人間化」するプロセスを促進している。
代表的な事例が、女性専用スペースの「解放」政策である。英国では、性自認を重視した刑務所配置方針が長年続けられた結果、生物学的男性でありながら女性として認識されるトランス女性囚人の割合が急増した。2025年3月31日時点で、イングランド・ウェールズの刑務所には339人のトランスジェンダー囚人が確認されており、前年比15%増という急拡大を見せている。過去の公式データでは、こうしたトランス女性(出生時男性)のうち、性的犯罪歴を持つ者の割合が58.9%〜62%に達し、生物学的女性囚人(3.3%)や男性全体(約17%)と比較して極めて高い男性型犯罪パターンを維持していることが明らかになった。
同様の再配置はスポーツ分野にも及ぶ。国際オリンピック委員会(IOC)は2026年3月、女性カテゴリー参加資格を生物学的女性(SRY遺伝子スクリーニングによる一回限りの判定)に限定する新方針を発表した。これまで性自認を尊重した参加が認められてきた結果、生物学的男性の身体的優位性による不公平が深刻化し、女性アスリートの安全と競技の公正が脅かされる事例が相次いだ。トイレ、更衣室、温泉などの日常空間でも、性自認優先の通知や条例が導入され、生物学的性の境界が曖昧化された。
これらは、クィア理論が唱える「規範の撹乱」ではなく、新しい規範の再配置である。生物学的性を「社会的構築物」と位置づけ、性自認を優先する言説は、フーコーのいう生権力として、身体と生を新たな基準で管理する装置となった。旧来のheteronormativityを批判しながら、性自認という内面的真理を「知識/権力」の対象に据え、人口を分類・最適化する——まさにフーコーが警告した、権力が「生」を対象化するメカニズムだ。
クィア理論は、人間本性を「本質的」なものではなく、パフォーマティブに構築されるものとして再定義した。これにより、ジェンダー・ディスフォリアを抱える若者への「アファーマティブケア」(性自認肯定医療)が推進された。しかし、英国カス・レビュー(2024年最終報告)やその後の追跡調査では、思春期抑制剤やクロスセックスホルモン治療のエビデンスが「極めて弱い」ことが指摘され、長期的な精神衛生・身体的影響(骨密度低下、認知発達への懸念)が懸念されている。2025年以降、イングランドでは思春期ブロック剤の使用が原則禁止され、ホリスティック(包括的)な心理社会的支援へシフトする動きが加速した。
この再定義は、フーコーの医療化理論を逆手に取ったものだ。19世紀に同性愛が「逆性的感覚」という医学的カテゴリとして生産されたように、クィア理論は性自認を新しい「内面的真理」として医療・教育・法制度の対象に据えた。結果、生物学的現実(進化的に形成された性的二形性や犯罪パターンの性差)を「抑圧」と位置づけ、流動性を強制する新しい規範を生み出した。
ここで特に問題なのは、こうした人間本性の再定義が社会契約や民主的なプロセスをほとんど経ずに急速に制度化された点である。ホッブズやルソーが描いた社会契約は、個人の加害性や自由の限界を相互に認め、合意に基づく規範を構築する仕組みである。民主的プロセス(議会審議、科学的レビュー、国民的合意形成、公衆討議)は、これを支える現実的な装置だ。しかし、クィア理論の影響下で性自認優先政策がアカデミアや一部の運動から行政・法制度へ波及した過程では、こうしたプロセスが大幅にバイパスされた。生物学的現実や潜在的加害性の検討が十分に行われないまま、政策が「進歩的」トレンドとして導入された事例は枚挙にいとまがない。
社会契約や民主的プロセスは、一種の「遅延効果」を持つと見るべきだ。思想やトレンドの変化が熱狂的に進行する中で、即時的な制度反映を「遅らせる」安全装置。審議の時間、科学的エビデンスの蓄積、利害関係者の声の反映——これらがなければ、流動的な人間像の再定義が現実の害(身体的・心理的・社会的コスト)を十分に考慮せずに固定化されてしまう。クィア理論は脱構築を掲げながら、この遅延効果を「抑圧の装置」と位置づけ、民主的チェックを弱めながら生権力を再配置した。
ここで注目すべきは、医療基準自体の改定による「非医療化」が、フーコーの医療化理論でこそ最も鮮やかに説明できる点である。DSM-5(2013年)では「Gender Identity Disorder(性同一性障害)」を「Gender Dysphoria(性別違和)」に改称し、アイデンティティそのものを病理化する表現を廃止した。ICD-11(2019年)では「Gender Incongruence(性別不一致)」を精神疾患章から「性的健康関連条件」章へ移動させ、精神疾患としての分類を正式に解除した。これらは一見、クィア理論が推進した「反医療化」の勝利のように見える。
しかし、フーコーの医療化理論から見れば、これは非医療化の名の下に行われる新たな医療化・生権力の再配置にほかならない。フーコーは、権力が「病理化」だけでなく「脱病理化」によっても主体を生産・管理することを繰り返し指摘した。旧来の病理化(行為を「種」として内在化し、管理対象とする)を批判するように見せかけつつ、「合意と害の不在」という新しい基準で逸脱を再分類する。適合する軽度の逸脱(規範撹乱的な多様性)は「正常な多様性」として保護・特権化され、適合しない重い衝動(非同意・暴力要素の強いパラフィリック障害)は、より強く「ただの犯罪」として切り捨てられる。これにより、クィア理論は反医療化を装いつつ、性自認を新しい内面的真理として医療・制度的介入の対象に据え、人口の生を再最適化する装置を構築した。まさにフーコーが警告した「権力の生産性」の典型である。
さらに深刻なのは、逸脱の「軽重」による選別が、犯罪者の脱人間化を促進している点だ。合意ベースの軽度パラフィリアや規範撹乱的な表現は、クィア理論によって「多様性」として保護・特権化される。一方、非同意・暴力要素の強い性的衝動(パラフィリック障害)は、「ただの犯罪」として切り捨てられ、道徳的・社会的に脱人間化される。DSM-5がパラフィリア自体を非病理化しつつ、害を伴うものを障害とする区別を設けたのも、この二重基準を制度化した例である。
フーコー的に見れば、これは生権力の典型的な逆説だ。クィア理論は「反医療化」を掲げて旧来の病理化を批判したが、結果として新たな分類装置を構築した。「クィアであること」が文化的・道徳的資本となり、十分に「クィア」でない逸脱者(重い反社会性+性的衝動の複合型)は、規範の外側に排除される。犯罪者は「宿命的な怪物」としてではなく、社会が管理すべき生として扱われるべきなのに、理論は「軽い逸脱」の保護と「重い逸脱」の脱人間化を同時に推進する二重基準を生んだ。これにより、管理される自由(自発的な衝動抑制治療や専用環境の選択肢)は十分に整備されず、宿命的な渇望を持つ人々をさらに孤立させる。
フーコーは、権力は「抑圧」ではなく「生産」であり、抵抗そのものが新たな権力装置を生むと繰り返し指摘した。クィア理論はまさにこの螺旋に巻き込まれた。規範を脱構築しようとしたはずの運動が、性自認という新しい真理を生産し、身体と生を再管理する生権力として機能している。人間本性を流動的に再定義した結果、生物学的現実や加害性の潜在性を直視する機会を失い、脆弱層(生物学的女性や子供)の安全権を再配分する事態を招いた。
社会契約や民主的プロセスという「遅延効果」を欠いた再定義は、こうした生権力の再配置を加速させた。人間らしい社会とは、逸脱の宿命を認めつつ、害の度合いに基づく透明な線引きと、加害衝動者への「選択肢」(任意の医療的介入や構造化された環境)を拡大する社会である。フーコーの物差しで測れば、クィア理論の実践は規範の単なる置き換えに過ぎない。脱構築の名の下に生まれた新たな抑圧を避ける——それが、今求められる成熟した視点だろう。
なんかGの話ってリアルの知り合いにはしづらいけど達成感あったから書かせて
早朝4時に娘の叫びで起こされた、でっけ〜Gがいたんだと
嫌だけどまあ完璧に排除はできないよなぁ、と思いつつゴキッシュをあちこちに撒いてもう一眠りした
5時頃朝飯の支度してたら、パントリーでガサガサって音すんの
弱ったソイツがのた打ち回りながら隙間に逃げ込んでいくのが見えた 確かにデカかった
もう全身の毛が逆立つってああいう感じだよね、外で出会う分にはウヘェだけど家の中だと本当無理
見失っちまったんで娘に泣きつかれながら登校させつつ出勤
帰りにドラッグストアに寄ってG対策を色々買って帰って、ひとっ風呂浴びようと思って脱衣所に来たわけ
そしたらひっくり返ったヤツがいんのよ
タヒんでるって頭では分かっててもマジでこえー
ヤツを最大限予防するにはどうしたらいいんだろうな
それなりに掃除と整頓はしてるんで薬剤系あれこれ見てるんだけど迷ってる
入口付近のブラックキャップはそろそろ1年経つんで付け替えた、カバーめんどいけど燻煙やっとくか…ノーマットみたいなやつも気になる
クィアのメディア批評には、どのような表象が生まれても最終的な批判の矛先が「シスヘテロ的欲望」に向けられるシスヘテロの悪魔化が定着しつつある。
問題の核心は、「性的すぎる」批判と「性的でなさすぎる」批判が、まったく逆の現象を対象にしながら、同一の犯人(シスヘテロ的まなざし)を指名する点にある。
アブデラティフ・ケシシュ監督の本作(2013)は、カンヌでパルム・ドールを受賞した一方で、レズビアンコミュニティから激しい批判を受けた。主な論点は、約10分に及ぶ性描写シーンが「実際のレズビアンの経験というより、ヘテロ男性のポルノグラフィー的ファンタジーに近い」というものであり 、監督の男性的なまなざしがレズビアンの身体を対象化・フェチ化しているという指摘だった。
原作コミックの作者であるジュル・マロ自身も、その性描写を「滑稽で過度」と批判した。これは正当な批評である。しかし注目すべきは、批判の着地点が常に「男性視線がレズビアニズムを搾取した」という一点に収束し、その他の解釈——たとえば監督の美学的選択、フランス映画の身体表現の伝統、あるいは原作との差異——がほとんど議論されないことだ。
一方、2018年のハリウッドメジャー初のゲイ主人公ティーン映画『Love, Simon』は、性描写をほぼ排除し、恋愛とカミングアウトの感情的側面を中心に据えた。だがこれもまた批判された——今度は「ストレートに受け入れやすくするため、クィアのセクシュアリティを無害化・消毒している」という理由で。
批評家のジェイコブ・トビアは、「男性的なゲイ男性は魅力的な主人公になれるが、フェミニン・ジェンダーノンコンフォーミングなゲイ男性はコメディリリーフに追いやられる」と指摘した。『Love, Simon』が「ホモノーマティビティ(heteronormative assumptions を内面化したゲイ規範性)」を再生産しているという分析は学術的にも支持されている 。しかしここでも「ストレートへの媚び」という説明図式が優先される。
| 表象の特徴 | 批判の内容 | 帰責先 |
|---|---|---|
| 性描写が露骨・長い | 男性の視線でレズビアンをフェチ化 | シスヘテロ男性の欲望 |
| 性描写がない・少ない | クィアのセクシュアリティを脱性化し、ストレート視聴者に媚びる | シスヘテロ社会への同化欲求 |
| 同性カップルを登場させる | 「キスがあるだけ」では不十分、中心的物語として描くべき | シスヘテロ的周縁化 |
この表が示すのは、結論(シスヘテロが悪い)が先にあり、証拠(表象の内容)が後から当てはめられるという推論の倒置だ。「非反証可能な命題」であり、いかなる反例も体制側の隠蔽として吸収できてしまう。
ハリウッドがクィアカップルを描く際の「ハードル上昇」も同様の論理で動いている。米ハリウッド系ケーブル局 Hallmark Channel は2019年、同性カップルのキスシーンを含む広告を一時撤回して批判を受けた。その後方針を転換し同性カップルを番組に登場させたが、今度は「単に登場させるだけでは足りない、物語の主軸として描くべきだ」という要求が生まれた。
注目すべきは、批判の基準が常に現状より一段上に設定され、達成されるたびに次の「不十分さ」が告発されるという無限後退の構造だ。この構造のもとでは、どれほど努力したコンテンツも必ず「ストレートの論理に回収されている」と断罪される余地が生まれる。このお決まりの展開が繰り返されたことに、クィアへの加害欲求など持たないのに敵視され続けたストレートたちは疲れ切っている。
クィアからの要求が累積・エスカレーションするにつれ、シスヘテロ側からの反発もまた組織化・激化してきた。重要なのはこの反発が均質ではなく、正当な批評的懸念・疲労感・政治的操作・むき出しの差別が入り混じった複合体であるという点だ。
最も象徴的な事例がDisneyとスター・ウォーズ・フランチャイズをめぐる論争だ。Disney+ の The Acolyte(2024)はレズビアン監督レスリー・ヘドランドによるスター・ウォーズ初の女性クリエイター主導作品だったが、低視聴率を理由にキャンセルされ、イーロン・マスクは「Go Woke, Go Broke(ウォークになれば潰れる)」と投稿して祝意を示した 。保守派ファン層から「LGBTQアジェンダを押しつけている」という批判が噴出し、あるアンケートでは米国人の52%超が「Disneyはファミリー向けエンタメへのLGBTQ+促進をやめるべきだ」と回答したとも報告されている。
2023年のバドライト=ディラン・マルバニー事件は、二重拘束の地獄を如実に示した事件だ。トランス女性インフルエンサーとのスポンサー契約への保守派ボイコットで、ABインベフの米国売上は10%超下落し、バドライトは20年以上守ってきた「米国最多販売ビール」の座を失った。Kid Rockはバドライトの箱を銃で撃つ動画を投稿し、フロリダ州知事ロン・デサンティスも公式批判した。
同時に、LGBTQ+コミュニティからもバドライトは批判された。今度は「マルバニーへの支持が不十分だった」「声明が曖昧」という理由で。企業がトランスインクルージョンに動けば保守派が離れ、クィア側は生ぬるいと批判する。ブランドは文字通り、どちらに動いても批判される二重拘束に陥った。
問題は、「同性愛の存在そのものへの(宗教的・生理的な)否定」という差別と、「政治的意図が作品の完成度を損なっている」という批判、「クィアをどう表現してもLGBTQ+コミュニティから"まだ足りない"と批判される」という消耗感、クィア側の言説がこの三類型を区別せず、すべてを「シスヘテロ的抑圧」として均質化する傾向があることだ。差別と、正当な美学的批評と、「要求の際限ない上昇に疲れた」という感覚をひとまとめにすることで、本来なら対話可能だった穏健層は「敵」に分類されてしまう。
要求がエスカレートし続け、かつどのような表象も必ず「不十分」か「間違っている」と判定される構造が固定化すると、実際に損するのはクィア当事者自身だ。
「シスヘテロが悪い」という枠組みへの依存は、結果としてクィア表象の場そのものを消耗させるリスクを持っている。DEIへの政治的逆風が強まる中、広告主はLGBTQ+メディアから撤退し始めており、「ゴールドラッシュは終わった」と編集者たちは述べている。この撤退が差別によるものか、要求の非現実的なエスカレーションへの疲労によるものか──個人的には後者の色が濃く──クィアは無駄に敵を増やす愚行で自滅したと私は感じている。そして確信しているのは、今後どれだけLGBTQ+メディアやコミュニティへの逆風が強まろうと、クィアが自分たちのやり方(シスヘテロの悪魔化、ダブルバインド、エスカレーション)が間違っていたのではないか、度が過ぎていたのでは、と反省する可能性は『ゼロ』だということである。悪いのは100%、"悪魔のようなシスヘテロのヘイターども"に決まっているのである。
コロナ初期のニューメチャシコの田舎町エディントンで保安官をしている白人の主人公。ヒスパニック系市長のマスク政策に反発し、ノーマスクの老人を助けたのがSNSにアップされ称賛されたことで舞い上がり市長選に立候補する。一方、主人公の母親は陰謀論者で、心に傷を抱える妻はロックダウンの中影響を受け陰謀論にハマっていく。そんな中、ジョージフロイト事件を機にBLM運動が過熱。町は混沌に陥っていく。
みたいな話が前半。
とにかく分断された映画だったって印象。
主人公は白人で反マスクの家父長制に侵された個人主義の保守的な存在として描かれるが、一方で全体主義によって排除されようとしている老人(マスクをすると息ができないと主張する)や、作中でほぼすべての人に無視されるホームレスに水を与えたりする個人の守護者としても機能する。
一方でヒスパニックの市長は町を守るという名目でマスクの着用を義務付けたり半ばロックうダウンに近い状態を町に敷いてそれに対応できない人たちを排除し、一方で自身の支援者らに対しては自宅の敷地内で大掛かりなパーティーを行ったりするような二枚舌さがある。
主人公が愛する妻は先代の保安官長という町の守護者であり主人公家の家長であった父親から性的虐待を受けており、そこから自身の虐待経験からカルト教団を立ち上げた男に影響を受けていく。
市長の息子は自身の境遇からもBLM運動に影響を受けるがそこであっさりと出会った女の子と楽しむ立場に転身。
その友人の白人の少年は女の子漁りにBLMに参加するが最終的にいろいろあってSNSの英雄となり1年後には保守系の活動者として圧倒的なカリスマを得る。
その白人の少年が思いを寄せる女の子は同じく白人の身でありながらBLMに傾倒しているがその視点は「白人と言う特権階級」を下敷きとしていてどこか空虚。
その元カレで黒人保安官はなぜか黒人だからという理由だけで立ち上がれよ!と言われるが本人はそんなことより仮想通貨やテクノロジーに興味がある普通の若者。
中盤で起こる事件の捜査に現れる先住民居住区の捜査官は皮肉なことに最も法律を重視し公平な裁きが下されるべきであると考えている。
といった、それぞれがまったく別の思想、全く別の目的で動いている。まるでフラットなSNSのタイムラインのようにそれぞれが自分の主張を自分の支持者にだけ投げつけ続けるようなストーリー性のない分断がそのままエディントンという町にぶち込まれそれぞれがほとんど影響を与え合わずに並行して進行していく。
映画内でもそれぞれが各自のSNSの画面に向けて話す場面がめちゃくちゃ登場する。一番影響力のない主人公が外部に主張するシーンだけ一生画面の中央に置かれたスマホの画面の中に閉じ込められているのかわいそうでよい。
市長選で現市長と主人公が対決する構図になっても、市長はデータセンターの建築と町の発展をテーマに戦うが、主人公は市長は知事の操り人形で性的に危険な人間だというテーマで戦い、その主張は一生交わらない。市長も主人公もBLM運動にはほとんど興味がなく、主人公は陰謀論に侵された母親や妻とも向き合おうとしない。
なので一生「これ何の話してるんやろな」となる。
そして本当に中盤も中盤で主人公が家父長制と自分のプライドを守るために妻が市長にレイプされたとSNSにウソの告発を行い、性的じゃない政的に利用されたことで妻は完全に夫を見限り家を出てカルト教団に合流、SNSで市長にレイプされたのは嘘だと逆告発を行い、主人公はプライドも信用も妻も失いついにブチ切れてしまい、一度は守ったホームレスを撃ち殺し本当に排外主義に出る。暴力での市長の排除を行う。
と、同時におそらくエディントン市民としては初のコロナ罹患者となる。
そして市長の殺害をBLMの盛り上がりにつなげて、アンティファという極左過激派集団の仕業であると発表。するとガチのアンティファと思われる武装集団がエディントンに襲来、大銃撃戦に発展する。
この辺はもう話がめちゃくちゃだけど、SNS上の分断なんか関係なく得体のしれないが実在する脅威は訪れ世界を破壊尽くしていくというコロナそのもののメタファーとしての武装集団なのかなと思ったり。その戦闘の結果、主人公は頭をぶっ刺され脳に障害をが発生し全身麻痺のような症状になっちゃうのも、重症コロナの後遺症みたいだしね。
そして主人公は見事市長に当選するも意思は失われ陰謀論者の母親が実権を握り、リベラル派の視聴から保守派の市長に変わるも何も関係なく元々SNSのアルゴリズムから始まった分断、諍いの象徴のようなデータセンターは建築される。エディントンという先住民の土地を奪って作られた町で、奪われた町と残った土地のド真ん中に建てられるというのも実に皮肉。
見てて一番思ったのは日本ってSNSと"社会"のコネクトがまだまだ弱いよなということ。少なくとも俺が生息している地域やコミュニティにおいてはSNSでバズった思想みたいなものがコミュニケーションの中で表出することってほとんどないし、ほとんどの人間はこの映画のようにツラも名前も晒してSNSで自分の思想を表明したりもしない。
エディントンではそういう設置をされたからと言うのもあるけど、町という存在する箱の中に、人という存在するモノがあるためにSNSであればミュートすればすむことが、嫌でも可視化されて小競り合いを起こしてしまう。もしかしたらそもそもアメリカは既にそういう状態であるということかもしれないけど、普通の地域に住む日本人の感覚では正直あんま共感できなかったというのが本音かな。
というわけで、やりたいこと自体はめっちゃわかるんだけどじゃあこの各自がなんか好き勝手に動いた結果、なんかゴチャゴチャして悲劇が起こって最終的にはコロナ(過激派武装組織)によってドカーン!ってなっておしまい!っていうのが面白いかっていうと、別にそんなことはなかったかな。
少なくとも映画的なエンタメ精神は全然なかったので「ミッドサマー」とか「ヘレデタリー」みたいな感じの映画を期待して見に行ったらつまんなすぎて頭沸騰しちゃうと思うので、まぁなんか社会派みたいなツラして映画語りたい奴だけ見ればいい映画だと思う。
最近、プロサッカーチームのジュビロ磐田がファンサービス企画の参加者にマスク着用を義務付けるSNS投稿をし、いわゆる“ノーマスク界隈”の方々に見つかって炎上するということがあった。
https://x.com/jubiloiwata_yfc/status/2016451843250098565?s=46
この“ノーマスク界隈”の方々は、自分の主観ではあるがSNSでことあるごとに発生しては多数から白い目を向けられがちな界隈のように見受けられる。
マスクの着用による感染症対策への効果という部分の論点については正直なんでも良い。肯定も否定もしない。
なんなら正直な話、ノーマスク派の人が投稿しているマスクの効果が無い理屈を見ると「ほうほう」となる部分もあることは否めない自分がいるし。
(自分より遥かに頭の良い方からしたらそういった意見も嘲笑ものなのかもしれないが。自分は難しい理屈とかよく分からないので本当にその程度の認識。)
ただ、その上でやっぱり「マスク意味無いから強要するな!」と騒いでいる人に対してはどうしても白い目を向けてしまう。
また、「わたし、“氣”付いてしまいました…」的な陰謀論者に対しても同様。
彼らは恐らくだが、「私たち少数派は分かっている真実に世間の多数は目を向けていない、愚かな世界だ。同調圧力だ。」みたいなマインドなんだと思う。
特にSNSでは少数派のヤバい側扱いをされるような人間が、その理論が正しいかどうかを誰かに対して一方的に捲し立てる光景が見られる。
繰り返しになるが、個人的に思うのはその理論が正しいか正しくないかなんてのは今はどうでも良い。
なんなら時が経てば世間の価値観そのものがひっくり返り、現代において少数派の陰謀論者扱いをされている人たちの方が正しかったとなる時代が来るかもしれない。
現代においてマスク=安全性が高まるという価値観が多数派になっており、それによってマスクを着けていない人を見ることで不安に駆られる人がいるのなら、その人たちのためにその場のルールに従うだけだよねという、本当にそれだけの考え方。
自分がそこにノーマスクで入ることにより、病院の利用者がそれに対して不信感を抱くだろう、それなら何も文句言わずにその場のルールに従いますという…本当それだけ。
正直、「私の方が正しい。正しいことを言っている少数派を迫害するのは同調圧力だ。」と言われても知らねえよという感覚でしかない。
だってそれが正しいとしても、世間の多数派をひっくり返して全員に納得させられるだけの言論活動を出来ていないあなたが悪いんだから。
特定の場面でマスクが云々と喚いてノイジーマイノリティ的な悪目立ちをするくらいなら、然るべき理屈を持って然るべきアプローチをし、多数派を納得させてくださいよとしか言えない。
それこそ「地動説」みたいに誰しもが疑う余地のない絶対的な根拠さえあれば多数派をひっくり返すことなんて容易な訳だからさ。
それが出来ていない時点で所詮お前ら少数派が思い込んでいる「真の正しい話」とやらは現状たくさんあるうちの価値観の一つに過ぎない。
価値観の一つに過ぎないうちは多数派を不快にさせないようコミュニティの中でただ黙って従って大人しくしててください、と思う。
それこそ騒いでいるのに理解されない少数派からしたらあなたたちの自認は「地動説」を唱えた当時のガリレオ・ガリレイなのかもしれない。
悪いけど増田としては当時の時代に生きていたとして、「地動説」を唱えられることで多数派が不安な気持ちに陥るようなことがあったのなら、普通にガリレオを軽蔑していたと思う。
理論や理屈というものは多数派が納得し得るだけの確固たる根拠が提示できないうちは、普通に過ごしている世間一般の人々を不快な気持ちに駆り立てるような行動を取らない、というのが人間らしく社会で生きるためのあるべき立ち回りだと思っている。
話は変わるが、親指を相手に向けて上に立てる「サムズアップポーズ」は日本だとポジティブな意味合いで解釈されているが、イスラム圏だと侮辱的・性的な意味を持っているためやってはいけないらしい。
ノーマスク云々の件で白い目を向けるのって、結局はノーマスクたる理論の正確性云々よりもそういう問題じゃないのかなと思う。
日本人のこちらからしたら別に敵意は無いしむしろ良い意味だよとサムズアップポーズをする。でもそんなの受け取り手からすれば知ったことではない。
それなら多数派の価値観に合わせて不快な気持ちにさせないようにしましょうねというだけの話。
郷に入っては郷に従えとはよく言ったものだ。
だから病院でのマスク着用という話も効果があるないの問題では無く、「効果がある」という価値観が多数派になっている時点でマスクをしない人を見ることで不安な気持ち・不快な気持ちになる人が出てくる訳なので、それはもう理論云々の戦いは一旦諦めて人間らしく社会を生きる上で郷に従いましょうね、というところに着地しないものですかね。
結局あなたたち少数派は自信を持って多数派を取り込めるだけの確固たる根拠とアプローチ方法、プレゼン技術が無いからこうして目先の噛みつけるものに噛みついて醜態晒しているだけに過ぎないんですよ。
どうぞそのまま多数派に理解されない異端者としてバカみたいに生きててください。増田はもう何も考えずに人間らしく、マスクを着けて大人しく社会に帰属しますので。
勿論あなたたちが多数派の言説をひっくり返す大逆転劇を見せる日が来たのなら、増田はそれに従ってのうのうと生き続けようと思うので。
親に勝手に幼少期の姿をSNS投稿された子どもたちもそろそろ成長して高校生とか大学生ぐらいってとこか。
知らぬ間に親の承認欲求を満たす道具にされてるんだもんなー。可哀想。時代の流れだね。
今はただの一般人でも子供が産まれたら我が子をSNSに投稿して自慢したり「おもちゃ持ってきた!」とか「おままごとに参加させられてる」とかって無駄に自慢風に世間に発信するのが当たり前だもんな。
ほんまにすごい時代に感じる。
さすがに顔面ノーマスクで投稿してる親は少ないだろうけどそれでもね。
うちの押入れから親が撮り溜めたぶっっといアルバム見つけて自分の幼少期ってこんなんだったんだって眺めるあのしみじみとした感じはもうないんだろな。
最近腐女子に対して「○○はホモじゃない!」「ゲイじゃないキャラを勝手にゲイにするな!」と批判している人をよく見かけるが、こういう意見を見かけるたびに「それなら異性愛者という根拠もなくね?」って思ってしまう。
「いやいや、ゲイなら原作でそう描くはずでしょ」とおもうかもしれないが、それこそヘテロノーマティビティ(異性愛規範)なんだって。
カミングアウトしていなければその人を異性愛者と決めつけるのはただの差別だし、カミングアウトしていない同性愛者の存在を無視してるんだわ。
例え原作で女性キャラにときめいている描写があっても、両性愛者の可能性はあるしね。
まあ恋愛ものの二次創作全般嫌いという人には何も思わないよ。男女百合BL全部の二次創作を等しく批判するならそれは真っ当だと思う。
キャラの性的指向を勝手に決めつけて恋愛させるっていうのは確かに良くないことではあると思う。
ただ、それをしてるのは男女も百合も同じなのに腐女子だけ叩くっていうのはダブスタじゃないかという話。
「異性愛者である根拠もないし同性愛者である根拠もない、だから恋愛もの二次創作は等しく悪いよね」ならわかるけど、BL(腐女子)だけ批判するのは「別に異性愛者という根拠もないけどそのキャラはホモじゃないに決まってる!二次創作BLだけキモいから叩く!」ってことでしかないし、何の正当性もない。
多分「自分の好きな男性キャラがゲイだったら嫌だ!」「普通のカッコイイ男性キャラは異性愛者であってほしい!ゲイの可能性があるなんて受け入れられない!」「LGBTキャラは俺様がシコれる美少女百合か可愛い男の娘かネタとして面白いオカマキャラしか認めない!それ以外は全部ポリコレか腐媚び!」って心理なんだろうな。
昔は「ホモは変態だしそれを好きな腐女子も変態!」という直球の差別が行われていたけど、今はそれが許されないご時世だからあくまでキャラ改変が悪というスタンスに切り替えたんだろうな。でもキャラ改変が悪なら全部の非公式CP二次創作が悪だし、全然ミソジニーとホモフォビアが隠せてない。
の動画を見た。
まず出来ることがあるとすれば、右車線を走っていた軽バンがクラクションを鳴らすことだろう。
それも全力で。
そうすればLuupと事故を起こした左車線の車も加速をしなかったかもしれない。
事故を起こした車は、左を走っていたバイクに気を取られていたのだと思う。
バイクがなぜか加速をしなかったので(Luupに気づいて接触を回避するため?)、
そのバイクをかわそうとして加速をかけたところに
まったくノーマークで、おそらく死角になっていた右からのLuupに気づかずにもろにぶつかってしまった。
Luupが飛び出してきたことに対して軽バンはクラクションを全開で鳴らしつつハザードを付けて車を停止させているべきだった。
そうすれば事故を起こした車は、何事か異変が起きている可能性に気づけたかもしれない。
というか会社名どころかカラーリング自体も、どこからみても知ってれば会社名がわかる車体である。
そんな車に乗っててたとえ相手が悪くても、かつ周囲に危険を知らせる目的であっても、クラクションは鳴らせない。
おそらくは、そんなクラクションの鳴らせ方をしていれば、単純に運転手がキレてるだけだと思われるだろう。
結果として重大な事故を回避したという功績は一切知られることはなく、下手したら通報されて怒られてる可能性すらある。
そういう日本社会は非常に愚かだと思う。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/2556622
調理担当がノーマスクなんて!とか言ってるけど今時チェーン店でもマスクの着用義務なんてないよ?
チェーン店以外ならそれこそマスクして調理してる人なんて皆無だし
ブクマカはマスクを呪術的アイテムと思ってる節があるけど、作った物をすぐ食べるのが前提の飲食店においてマスクをするかどうかなんて衛生上大した意味はない。
これは食中毒の発生メカニズムを考えたらすぐわかるんだけどね。
あとブクマカって「コロナはまだ終わってない!」とかいうけどそれならなおさら外食しちゃダメじゃん。
あれだけ避けろって言われてた三密だよ?
ブクマカってコロナは終わったと思ってる奴はアホ!!とか吹き上がるくせに自分は都合よく警戒レベルの線引きしてるよね。