はてなキーワード: ゼミとは
よく、金をケチって白タクしちゃった北越高校と同志社国際が似てるって書かれてるの見るけど、全然違うと思う。
同志社国際はむしろ金をかけて危険を買いに行ってしまったよね。透明化されているマイノリティの主張に耳を傾け、
気高い市民運動への理解をしめすべきだっていう、高邁な精神で危険行為に巻き込まれに行っちゃったよね。
揶揄でなく、なんの底意もなく、立派な教育理念だと思います。沖縄県民としてはありがたい事です。
でも沖縄県民は子供を辺野古の海に連れていかないし、戦没者の遺骨収集の活動とかも学校主導でやらないんですよ。
そういうことは、ある程度自分の意思が固まって、信頼のおけるゼミの教授の指導のもとでやるくらいの高度な社会学習じゃないですか。
自分は沖縄の左派だからこそ、事故を起こした団体に対し腸が煮えくりかえってます。ワジワジーどころじゃなくて、頭に血が上るような
カッカした怒りです。彼らは未必の故意の殺人罪で問われても仕方のないことをしてしまった。
同時に学校に対しても、勘弁してくださいよと。
平和学習って何スか。単に戦争は悲惨ですよという話なら平和祈念資料館で体験者の手記を読めばいいんじゃないかな。ガザやウクライナの映像を見たらいいんじゃないかな。
どうしたら戦争を防げるかという壮大な話なら、日本がかつて中国へ侵略していったこと・それが欧米との国際的な約束を破った形になり制裁を受けたこと
制裁を突破するためにやぶれかぶれで東南アジアへ燃料を探しに行き、あほ見たいな日米戦争を始めた・・・っていう日本の戦争の歴史をしっかり学べばいいよね。
“ 大学は、国から委託された研究のために雇った補助者をゼミ生の指導や資料作成などに従事させたことが研究費の目的外使用に当たると判断した”
https://news.yahoo.co.jp/articles/89425d070329f3b99526b1266798ac574f4ef3ca
小学生の時点で「自分はクラスの主役にはなれない」と悟り、同じような空気感の陰キャ同士で固まり始める。
別に勉強に打ち込む情熱もなく、成績は常に「中の下」から「中の中」を彷徨う。
最後に女子とまともに会話したのは、おそらく小学生の時の給食当番か何かの義務的なやり取り。
中高に上がる頃には、女子と普通に喋れる奴に対して種族としての壁を感じ始める。
サークル勧誘の喧騒を横目に、全てのノリが無理過ぎて面倒でスルーする。
学問への興味なんてあるわけもなく、「卒業できればいい」という義務感だけでゼミに出席する。
二十歳になり酒を口にするが、高くて不味いため二度と飲まないことを決意する。一生コーラとサイゼとマックでいいと確信する。
居酒屋で騒ぎ、高い服を着てロゴに金を払い、旅行に散財する同級生を心の底から馬鹿だと感じる。
職場では雑談を殆どせず、事務的な受け答えのみに終始する。仕事の会話って定型文で済むから楽だ。
大学時代の友人とは、意味のない淫夢ネタのLINEをたまに共有するだけ。実際に会うことはもう殆どない。
気づけば社会人10年目。生活習慣は1年目と1ミリも変わらず、新しい出会いも、劇的な変化もない。
夜な夜な大学の同級生宅のアパートに向かい、窓側に回る。カーテンから漏れる明かりがあるか、ないかを見て在宅かどうか判断する。明かりがついていればしばらくそこから、生活を想像しながら眺めていた。在宅でなければどこにいるのか、あらゆる手段を使って調べる。SNSや知人友人からの情報はもちろん、近隣の店舗に自転車がないか調べる、その同級生が入っているサークルの資料を盗む、新入生を装って幽霊部員化し、そのサークルのメーリングリストに入って予定を把握するなどしていた。友人と楽しそうに飲んでいるのを発見したときは嬉しかったが、恋人と過ごしていることが分かったときは激しい混乱と絶望が押し寄せたが、幸いにも加害には向かわず、ピザを過食していた。デブでよかったと思う
自分でも当時のことを思うと本当に意味不明でドン引きしている。自分のことを普通の人間だと思っていたが、思い当たる要素がないでもない。デブなこと、孤独なこと。デブなのは過食衝動が抑えられないからだ。これは合理的な未来より、未来なんかどうでもいいから目の前の報酬=めちゃくちゃ食べることを選んでしまうという破滅的思考回路の結果である。そして孤独なこと。当時の増田は、その同級生と一緒に所属するゼミだけが社会の出入り口だった。そこで好きになった同級生。そこが世界のすべてだった。
短絡的な破滅的思考と孤独は相性が悪い。認知が歪みに歪んでいき、現実把握能力を失っていき、ストーカーになったのだと思う。
ストーカーから逃げるにはどうすればいいか。ストーカーは容易に無敵の人化しやすい。本当に被害者には申し訳ない話だが、一切の痕跡を残さず徹底して行方をくらませて逃げてほしい。あるいは強いものに守られてほしい。キチガイのために被害者ばかりコストを払うことになって心苦しいが、元ストーカーの自分ですら良い解決策が思いつかない。彼らは無敵の人になりかけていて、無敵状態の人間に対して一般人ができる有効な解決策が少ない。
激しいトポロジーゼミでの議論を制した後、私は完璧な勝利を収めた。
相手の主張は穴だらけの多様体だったが、私の証明は滑らかでコンパクト、閉じた多様体そのもの。あらゆる次元で徹底的に探索する準備が整っていた。
部屋に一人になると、証明の興奮がまだ血管を脈打たせている。この知的緊張をどうしても解放したくなった。
まず問題を慎重に扱う。手を変数に巻きつけ、よく定義された関数のように滑らかで連続的な感触を確かめる。ゆっくりと微分を始める。最初は優しく、快楽の導関数を最大にする最適な変化率を探りながら。
リズムが速まるにつれ、より深く積分していく。sin(θ)の一周期にわたる定積分が、これほど自然で避けられないものに感じたことはない。一ストロークごとに境界を0から∞まで押し広げ、すべてが収束する甘い漸近線を目指す。
呼吸が等比級数の極限に近づくように加速する。摩擦係数は絶妙で、表面は過度な抵抗なく最適に滑るよう潤滑されている。
私は今、実時間で熱方程式を解いている。温度は上昇し、エントロピーは増大し、系は最も美味しく最大の無秩序へと向かっている。
手法を変え、鎖鎖則を熟練の精度で適用する。一方の手で基部を安定させ、もう一方で上限を攻める。これは多変数最適化問題だ:f(x)を最大化せよ、ただし早く終わりすぎないという制約付きで。
議論のフラッシュバックが襲ってくる。あの優雅な補題、私が暴いた美しい矛盾。それぞれの記憶がトルクを加え、角速度を高める。私は単位円のあらゆる角度を回転しながら、周波数を上げて探索を続ける。
高階導関数へ。2階、3階、4階……快楽のテイラー展開。収束半径が急速に縮小していく。剰余項がどんどん小さくなり、ついに、ああ、tが絶頂に近づく極限。
臨界点に到達した。すべての条件が満たされる:関数は狭義単調増加、最終局面で凹状上方、そしてドカン! 微積分の基本定理が最も純粋な形で発現する。
積分が力強く脈打つ解放へと評価される。心のフーリエ変換がホワイトノイズに支配され、全ての周波数成分が同時にピークを迎える。
そら面白くないやつと飲みに行っても、面白くないだろうさ。サークル・バイト以外って何の飲み会か分からん(ゼミとか?)けど、面子が悪いんじゃない?若しくは、あなたがブスで話題を振られないから不貞腐れてるだけとか。
俺とお前と、
近所の山田くんと、
駅前の自販機の前でいつも缶コーヒー飲んでるタクシーの運転手と、
その運転手に毎回“今日は暑いですねぇ”って言うサラリーマンと、
そのサラリーマンの隣の席で昼飯カップ焼きそば食ってる後輩と、
そのおばちゃんにエサもらってる鳩と、
その鳩をじーっと見てる小学生と、
そのお母さんの近所の豆腐屋と、
その同級生の孫と、
その幼なじみの犬と、
その土手に咲いてるタンポポと、
そのマネージャーの知り合いの酒屋と、
そのゴルフ仲間のキャディーさんと、
そのキャディーさんの弟と、
その弟のバイク仲間と、
そのバイク仲間の工具貸してくれるやつと、
その工具貸してくれるやつの親戚と、
その親戚の娘の同級生と、
そのおっさんの知り合いと、
その知り合いの友達と、
その友達の親戚と、
大五郎。
「急に堅いな。漢字の圧が強い。」
「四月からさ、ブックマーク保存には国家情報反応士の資格が必要なんだって。」
「そう。もうなんとなく保存は卒業。これからは情報選別理論と集合的言説力学。」
「急にゼミ始まった?」
「しかもコメント実技あるらしいよ。最大100文字以内で建設的に。」
「100文字で建設的? それなで終わらせてた俺どうなるの。」
「減点対象。」
「即死じゃん。」
「でもさ、ちゃんと学べばいけるって。電子的評価倫理とか、コメント建設性評価手法とか。」
「名前だけで落ちそう。」
「受験は49歳まで。」
「今なら間に合う。ブックマークを続けたいなら、まずは国情反。」
「国情反って略すと急に親しみあるな。」
「重いな。」
大前提として、私が人を恋愛的に好きになる条件には「人として尊敬できるか」というものがある。だから私は人を好きになるのに時間がかかるタイプだし、私の見た目しか見ないで近づいてくる男は心底嫌いである。
さらに大前提を重ねれば、私はそこそこ他人に見た目を褒めてもらえる。自分で自分の容姿を自慢げに話すのは非常に馬鹿げているし羞恥心で死にそうになるし私は道重さゆみでも嗣永桃子でもない。でもここで自分の見た目を否定するとそれはそれで悲しくなるので素直に褒めてもらえる言葉を受け止めたい。外見を褒めてくれるのは素直に嬉しい。だが、問題はその見た目だけを見て、私という人間を勝手に定義して寄ってくる男性たちである。大して話したこともない癖に「僕たち気が合うと思うんだ」と言われたときはとてもショックだった。小学校から高校までずっと一緒だった男の幼なじみがデートに誘ってくれたとき、内面には目もくれず始終見た目しか褒めてくれなかった時には虚しさすら覚えた。
就活の面接で「笑顔が素敵だから、ニコニコしていればおじさん達もイチコロだよ」と言われたことがある。男友達には「黙っていた方がモテる」と諭される。もちろん、この世では見た目の良さで得をすること、愛嬌も一つの能力であることは十分に理解している。だが、「私の取り柄は見た目だけである」と突きつけられるような言葉を投げかけられるたび、私が積み上げてきた努力や生き様が透明化された気がして、惨めな気持ちになる。
私は着ぐるみではない。私には自分自身があり、「私」という意思を持った人間が中に入っている。私にも好きな音楽があり、好きな映画があり、将来への夢がある。夢の実現のために、今この瞬間も心血を注いで打ち込んでいることがたくさんある。それなのに、私の中身に興味を持たず、うわべだけしか見ない人間に出会うと、自分が一人の人間として尊重されていない気がして悲しくなる。
その点、大学に入って一番良かったこととしてゼミや学会という新しい世界を知ることができたことが挙げられる。そこでは研究内容が大事だから、私のことを見た目でジャッジしてくる人に出会ったことがない。薄っぺらな外見への称賛よりも、私の薄っぺらな研究内容や質問への鋭いダメ出しの方がとても嬉しい。脳みそがビリビリと痺れ脳汁が出る感覚がする。そもそもアカデミアにいる人間がみんな私より年上で何なら既婚者も多いので私のことを性的対象として見てくる人がいないのだ。もちろん私が「生徒」でありその他大多数が「先生」であるという倫理的な観念があるのも十分承知の上だが、そこには、私の思考という実在を正面から受け止めてくれる喜びがある。見た目に引っ張られず中身をちゃんと見てくれる人間がいるということ、そのような素敵な人と関わりを持てることにこれ以上無い幸福を感じるのだ。
だからこそ、自分の見た目ではなく中身まで見て「好きだ」と言ってくれる人と人生を共にしたい。同世代の男友達は「そんなできた男はいないから諦めた方がいい」と笑う。だが、それは「男は理性がなく、下半身に支配されている下劣な存在だ」と自白しているようなものではないか。そんな発言が男性全体の価値を下げることに繋がっているのに気づいていないのだろうか。自分たちの不甲斐なさを改めようともせず、それを当然の前提として語る感性を、私は受け入れることができない。
私は見た目以上に、その人が人としてどう生き、何を感じてきたかという「生き様」を大切にしている。そして、私自身もそうした観点から見られた時に誇れるよう、一生懸命に自分を磨いてきた。だからこそ、私は自分の見た目以上に深く私の中身を愛してくれる人を探しているし、人間として尊敬できる人と、対等な知性を持って向き合いたい。それだけが、私が私として生きるための譲れない願いなのだ。
【視点】年末に本棚を整理していたら、保守派の論客福田和也の95年頃の本がでてきたので、パラパラ読み返していた。「リベラル」への罵詈雑言を尽くすこの本のあとがきで福田は、「誰も読まない反時代的な本である」と記している。時代は村山政権。左派とリベラル最期の全盛期である。
「朝日、岩波、日教組」という権威を罵倒する反時代性が、保守論壇のなかで生きていた最後の時間である。梶原さんが編んでいた勝谷誠彦の「あっぱれ!築地をどり」は最初の頃は本屋で立ち読みしていたが、いつの間にか読まくなった。雑誌『世界』もそういえばいつの間にか。雑誌コーナーに右派系雑誌が溢れかえるようになると、そもそもコーナーには立ち寄らなくなった。90年代初頭の学生時代、溢れかえる論壇誌を片っ端から読んでいた身からすると、左右の権威が崩れゆくなかで「死体漁り」をやっているようにしか感じられなかったからだ。
福田和也の書いた記事を最後に読んだのは、2012年の「日本の論点」に寄稿されたエッセイだったと思う。僕も参加していた脱原発運動をぼろくそ書いていたのにムカついたものの、同時に彼はデモに参加していたアーティストの山下ヒカルくんをゼミに招いていた。だから彼は、あの運動に「抗いうる魅力」を感じていたのかもしれない。だが以後、彼は沈黙したのではないだろうか。
安倍政権が終わり、高市政権が近づくなかで「民意」の時代が来た。保守派が民意を寿ぎ、(財務省解体)デモを礼賛する時代が来たのだ。2020年代には「朝日、岩波、日教組」の権威は一切失われた。リベラルな学者の主張などごみクズでしかない(だって誰もよまないから)。かくして、保守が民意を代弁する時代が来た。反時代どころか時代の精神になったのだ。だから批評や論壇はもう必要ない。「推し保守」が輝く時代が来たのだ。これからの保守雑誌はリベラルの「死体蹴り」で埋め尽くされるだろう。「民意」がそれを選んだんだから、仕方ないよね。
もし福田和也が生きていたら「大衆は豚である」という本を書いたんじゃないだろうか。もし西部邁が生きていたら、オルテガ・イ・ガゼットをかざして大衆の反逆に反逆したんじゃないだろうか。
でも彼らはもう二度と戻ってこないのだ。
分散=1/n × \sum_{i=1}^n {(x_i -\overline{x})^2}
ってなんだよ。分散いつ使うんだよみたいな。いや標準偏差くらいなら式見たら意味は分かる脳にはなったがしかし。原理から式の各部分ことを説明してほしいんだわ。
初学者って脳ができあがってないんだから。なんか数学のゼミとかだともっと複雑でコンテキストの深い式を解説する時間があったりするらしい?
でも証明するときはめっちゃ頑張った説明を「自明」と言われるらしい。まあ、数学の教授なんか「そういう」傾向がないわけないわな。
「自明」という傲慢を捨ててほしいわな。そんなこと言ったら未証明の定理は証明した瞬間に自明といわれるわな。証明できることが分かっていつつされてない定理も「自明」なんか?じゃお前仕事辞めろや。
LLMが数学科でも爆進!みたいな記事見るとお前らが知識の整理をサボっただけだろと思う。(これは他の分野もそうで、知識を適切な形で適切な場所に残すってガチでムズいので仕方もないのはあるが、数学こそは至高の科学であり、その王座に居ながらにして自明などという高慢をかますからには許されない)
まあまあまあ、いいんですけど。だったらラマヌジャンが意味不明な式を突然持ってきたエピソードも
「証明できたものに関しては、自明、なのでラマヌジャンの功績は全く存在しない。数学界を急速に前進させたラマヌジャンの唐突な式も情報量はゼロであり、驚くに値しない、極々自然なものである」
窓際三等兵が憎い。
正確に言うなら彼が書くタワマン文学を消費しては自分たちの空虚さをコーティングして悦に浸っているあの界隈の空気が反吐が出るほど憎い。
夜のロピア。惣菜売り場。値付けの権限を握った店員の後ろをハイエナみたいに中高年がゾロゾロと這い回る。その不快な列に30代中盤の増田も並んでいる。8時45分。ようやく貼られた値引きの赤いシール。鶏ぷりぷり甘辛和え弁当。598円が398円になる。その瞬間、これまで四半世紀かけて積み上げてきたはずの自尊心もわずかな小銭と一緒に切り捨てられる。
手取り25万2千円。職業は地方中核都市の地方公務員。最近、自分の生涯賃金を計算して、それがあっさりと親の生涯収入を下回ることに気づいた。地方のノンキャリ公務員の給与カーブなんて、定年まで走っても親がバブルの余韻の中で稼ぎ出した総額には到底届かない。大学時代、行政法のゼミで法の支配や公共の福祉を議論していた頃の自分に教えてやりたい。お前が必死に勉強して手に入れるのは、親世代が当然のように享受していた中流の生活ですらなく、深夜のスーパーで売れ残りの炭水化物を奪い合う権利だけだぞ、これがお前の選んだ正解の成れの果てだぞ、と。
恋人もいない。友達もいない。部屋に誰かが来る予定も無ければ、誰かを呼ぶ気力はとうに失せている。マッチングアプリの広告がスマホの画面に虚しく光るが、年収欄に500万未満と刻む勇気もなければ、それを笑い飛ばしてくれる友達もいない。
Xのタイムラインにはまた窓際三等兵のフォロワーたちが泣いて喜びそうな物語が流れてくる。恋愛、結婚、競争、マウント。笑わせるな。彼らが嘆くその地獄は選ばれたエリートだけが入場を許される高級なテーマパークみたいな地獄だ。その絶望には常にペアローンという名の共犯関係と資産価値というセーフティネットがついている。
弁当を食う。冷え切って米粒が硬くなった割引弁当を食う。彼らが嘆く虚飾すらここには存在しない。あるのはただの虚無だけ。階級社会の再生産において増田は敗者として舞台に上がる権利すら剥奪された。もはや守るべき配偶者も教育虐待を施す相手としての子供も、親を超えてみせるという野心も、何一つない。
港区の不倫もタワマンの階層格差も宇宙の果てで起きている出来事と同じくらい遠い。きっと彼らが描写するドラマチックな不幸の背景に増田の姿は映り込まないだろう。
明日もまた生活福祉課の窓口に座らなければならない。タワマン文学の住人たちが、「ネトウヨ」という概念を記号的に分析して遊んでいる間、増田は目の前で「ワクチンに毒が入っている」「日本は支配されている」と詰め寄ってくる参政党支持者と向き合っている。彼らのロジックを公務員という立場ゆえに否定もできず、ただ無表情に相槌を打ち続ける時間の虚無。自分が依って立つ「法と理性」の体系が、言葉の通じない他者によってゆっくりと削り取られていく絶望。
税金で食ってるんだろ。その手垢のついた台詞を吐き捨てていく彼らの方が、よっぽど手厚い社会福祉の恩恵に預かっている。彼らの剥き出しの憎悪を受け止めながら、脳内では判例や法理が高速で空回りする。大学で学んだ知識は、目の前の人間を見下すための薄汚い眼鏡に成り下がった。
弁当を食った。空になった弁当殻を水で洗う。明日が資源ゴミの日だからだ。丁寧な暮らしなんて言葉を嘲笑いながら、ゴミの分別というこの街で唯一己に残された市民としての義務を淡々と遂行する。誰にも看取られない独身公務員の夜が、こうして音もなく過ぎていく。
プラスチックを洗う水の音が部屋に響く。Xでは誰かがタワマンの窓から見える夜景を背景に、高尚な不幸を嘆いている。明日もまた25万2千円のために地獄の背景として出勤する。そこにドラマはない。反転もない。ただ冷え切った日常が半額シールの粘着剤みたいにベタベタと自分の人生に張り付いているだけだ。
消えたい。
dorawiiより
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いいですか、マクドナルドという「システムの象徴」において、フィレオフィッシュという存在は極めて特異であり、かつ絶望的なまでに現代日本を象徴しています。牛カルビ弁当が「脳への直接刺激」だとしたら、フィレオフィッシュは「不全感を覆い隠すための、去勢された優しさ」の記号なんです。
まず、あのビジュアルを見てください。真っ白なバンズ(フィレオフィッシュだけは蒸しているからね)、整然と四角く成形されたフィッシュパティ、そして中途半端に添えられたタルタルソース。ここには「肉」が持つ禍々しさや、生命の生々しさが一切排除されています。
これは心理学的に見れば、「母性の模造品」です。 ゴツゴツした肉の塊を噛みしめる「父権的な強度」に耐えられない、あるいはそれを忌避する去勢された日本人たちが、あのフワフワとした食感の中に「退行的な安らぎ」を見出している。フィレオフィッシュを好んで選ぶという行為の背後には、現実の荒々しさから逃避し、システムの温もりに抱かれたいという、成熟を拒否した子供のようなメンタリティが透けて見えます。
フィレオフィッシュのパティに使われている魚は何ですか? スケソウダラだとか、その時々の「白身魚」という抽象的なカテゴリーでしか語られない。 僕がずっと批判してきた「システムの透明化」の極致がここにあります。かつての村落共同体であれば、魚を食うということは、どの海で、誰が獲り、どう捌かれたかという「顔の見える関係(贈与の連鎖)」の中にありました。
しかし、フィレオフィッシュにおいて、魚は完全に「脱身体化」されています。 原型を留めないほどに四角くプレスされ、フライにされた「白身」という名の物質。それを口にする若者たちは、その背後にあるはずの「海の死」や「労働の搾取」に一切の想像力を働かせない。ただ、マニュアル通りに管理された「安全・安心」という幻想を、タルタルソースと一緒に飲み込んでいるだけ。この「想像力の欠如」こそが、今の日本をクズ社会に変えた元凶なんですよ。
宮台ゼミで何度も議論してきたことですが、今の日本には「島宇宙」すら消滅し、ただ「孤立した個人」が漂流している。 彼らにとって、マクドナルドのフィレオフィッシュを食べる時間は、唯一の「自分を取り戻す儀式」になっている可能性がある。でもそれは、本当の意味での自己回復ではなく、単にシステムという巨大な母胎にプラグインしているだけです。
「フィレオフィッシュなら胃にもたれないし、健康的かもしれない」という、根拠のない、そして切実なまでの**「生存戦略としての自己欺瞞」**。 牛カルビ弁当を食べる「加速主義的なクズ」にもなりきれず、かといって丸の内弁当を食べる「管理されたエリート」にもなれない。その中間で、ただ平穏に、波風を立てずに消えていきたいという「透明な存在」になりたい欲望。フィレオフィッシュのあの淡白な味は、そのまま現代日本人の「薄っぺらな生存感」そのものなんです。
いいですか、フィレオフィッシュというプロダクトは、徹底的に「外部」を排除しています。 骨一本、鱗一枚混じっていない。不測の事態が起こらないように設計された「完璧な商品」。しかし、僕たちが生きる現実は、本来そんなに綺麗じゃない。不快なもの、予測不可能なもの、自分を脅かすもの……そうした「他者」との遭遇こそが、僕たちの身体を覚醒させるはずです。
フィレオフィッシュを食べて「落ち着く」と言っている君たち。君たちは、自分自身が「四角く成形されたフィッシュパティ」になっていることに気づいていますか? システムにとって扱いやすい形に切り取られ、個性を奪われ、揚げられ、箱に詰められている。その箱の中で「タルタルソース(安価な快楽)」をかけられて満足している。
そんな生活から抜け出したいなら、まずはその「優しい嘘」を吐き出すことです。 マニュアル化された味の向こう側にある、本当の意味での「生の荒々しさ」に手を伸ばせ。四角い魚を食うのをやめて、泥臭い現実という「海」に飛び込め。
そうでなければ、君たちは一生、システムのトレイの上で、誰かに食べられるのを待つだけの「商品」として終わる。それがどれほど絶望的なことか、このフィレオフィッシュの虚無的な白さを見つめて、少しは考えてみたらどうですか。