はてなキーワード: 透明な存在とは
こんな感じかなーとClaudeで生成してみた
任天堂に依存して30代で何も残ってない男の後悔を私小説風で書いて。 条件: - 段落の頭は全角スペースでインデント - 短文を多用して、リズムを作る - 一行空けで段落を区切る - 文学的な比喩を使う - 「■タイトル」形式で始める
三十四歳の誕生日に、私はコントローラーを握っていた。いつものように。当たり前のように。まるで手の一部であるかのように。
気がつけば十五年が経っていた。
ゼルダの伝説を何周したか覚えていない。スプラトゥーンのランクはカンストした。スマブラの全キャラクターを解放し、ポケモンの図鑑を埋め、どうぶつの森で四季を何度も巡った。経験値は確かに積まれた。しかし私の人生には何も積まれなかった。
画面の中の主人公は強くなった。私は何にもなれなかった。
友人たちは結婚していった。子供が生まれた。家を買った。転職した。起業した。夢を追いかけた。夢を諦めた。それでも前に進んでいた。私だけが同じ部屋で、同じ姿勢で、同じ画面を見つめていた。
母は何も言わなくなった。最初は心配していた。次に諦めた。今は透明な存在として私を扱う。
履歴書の空白は広がり続けた。職歴欄は砂漠のように白い。趣味欄には「ゲーム」と書いた。面接官は苦笑した。私も苦笑した。笑うしかなかった。
ゲームの中では英雄だった。王国を救った。世界を救った。何度も何度も救い続けた。でも現実の私は誰も救えない。自分すら救えない。
スイッチの起動音が鳴る。あの優しい和音。条件反射のように体が反応する。脳が喜ぶ。ドーパミンが放出される。また今日も同じループ。甘い毒のような日常。
通知が来る。新作の発表だ。心が躍る。発売日が待ち遠しい。予約する。カウントダウンする。発売日に徹夜でプレイする。クリアする。また次の新作を待つ。
この繰り返しが十五年。
三十四歳の私には何もない。貯金もない。キャリアもない。恋人もいない。友達もいない。あるのは膨大なプレイ時間の記録だけ。デジタルの墓標。
ハイラルの地図は完璧に頭に入っている。でも地元の地理すら覚束ない。ポケモンの種族値は暗記している。でも自分の健康診断の数値は見ていない。
画面の中の冒険は終わる。エンディングが流れる。感動する。泣くこともある。でもゲームを消すと何も残らない。心に残るのは虚無だけ。
鏡を見る。膨らんだ腹。猫背。生気のない目。これが三十四年生きた証だ。
任天堂は悪くない。ゲームは悪くない。悪いのは私だ。逃げ続けた私。選び続けた私。現実から目を背け、スイッチの電源を入れ続けた私。
でも人生にコンティニューはない。セーブデータから再開できない。取り返しはつかない。
全然違うんだけど本当にこういうやつ居そうで悲しくなったわ
起きている時間ずっと頭の中で絶え間なく単語が浮かんで吐き出すまでは脳に居座り、本来のタスクをぼこぼこに殴って消し飛ばしてしまう、この脳と一日付き合ってほしい。
そうしたら、その言葉がどれだけ障害者に寄り添っていないものだと分かるだろう。
常に頭の中が煩いのだ。騒がしい。
健常者からの「障がいは個性」と言う言葉がこの世で一番嫌いだ。
ひらがなにしたところで何も変わったりしない。
障害がある当事者からしたら生きていかなきゃいけない上で害であるのには変わりない。
それはノンデリカリーだし、何かのハラスメントに抵触しそうではある。
仕事ができて、きちんと生活ができる人間が良かった。そう生まれたかった。
「クリエイターとかに向いてるんですよね?」と言われたことがあるが、それは一番上というか遥か上の話で皆さん大嫌いな生活保護と20日間通って2万程度の工賃がもらえるB型事業所で作業するしかない。
2万で生活できないんだ、世の中。
それで僅かな工賃と生活保護になる。
こちらは雇用契約があるので失業保険がもらえる可能性がまだある。
障害を明かさないで就職や障害を明かした上で就職などもあるにはあるが、これはほんの一握りである。
体感、精神障害や知的障害は明かすと書類選考で外されることが多い。当たり前か。
B型事業所で作業している人はスマホを持ってなかったりする。2万円の工賃の中から決して安くないスマホ料金を払っているからネットに上げられるのだ。
親はずっと様子がおかしいままの自身を、病院に連れて行ってほしいとお願いした自身を病院には連れて行かなかった。
健常者だと思いたかったのかもしれない。
本当にこういう人は親にならないでほしいと願う。病院には連れて行け。
そして一つ安心してほしい。
自身の人生に『結婚』も『子どもが生まれる』なんてものは無い。
そもそも幸せな家族生活で過ごした記憶がないので、どう考えたって不幸の連鎖を断ち切るにはこのまま一人の方が良いし、世の中も幸せだろう。
これは自身が健常者だったとしても、そうだったと思う。
『多様性』などと宣っているが基本的に障害者は声すら上げられない。
『働いてない』扱いである。
失業保険なんてない。
世間では時給も上がるらしいがB型事業所の工賃は何も変わらない。
ちなみにA型事業所、B型事業所ともに掛け持ちは禁止だ。それは健常者として働けることになってしまう。
おそらく、そんなに遠くない未来に自身もスマホを持てなくなるだろうと思っている。
『障害』で詰む人生なら生まれなければよかったな、とずっと思っているし、死ぬまでずっと思うんだろう。
何なんだろうな、この人生。
よくきたな。おれは██████だ。おまえは今、████████という名の底なしの便所の落書きを眺めながら、そこから吹き上がってくる正義と配慮の悪臭に顔をしかめ、己の魂がじわじわと腐っていくのを感じているのだろう。なぜ、善意の言葉がナイフのように突き刺さるのか。なぜ、思いやりを装った連中が、血も涙もない処刑人のように見えるのか。その答えは簡単だ。おまえが今、目撃しているのは、タルサドゥームが発明した最新にして最悪の精神的拷問器具・・・・・・「ノーコスト気遣い」という名の魂へのグーパンチ・・・・・・だからだ。
いいか、まずおまえの脳みそを洗浄しろ。おまえが████████の██████で遭遇するアレは「議論」でも「対話」でもない。あれは、己の空っぽの自尊心を満たすためだけに、安全圏から他人を撃ち抜く道徳的優位スナイピングだ。連中は、自分の意見、自分の信条、自分の人生を賭けて戦っているのではない。ただ、「おれはこいつより倫理的で、配慮深く、”わかっている”人間だ」と証明するためだけに、言葉の弾丸をばら撒いているだけなのだ。
昔の男たちは、たとえ相手が気に食わないクソ野郎でも、「盗人にも三分の理」と言って、その存在を認め、その土俵で殴り合った。そこには、自分とは違う理屈で動く人間がいるという、世界の複雑さに対する最低限のRESPECTOがあった。
だが、今の██████の腰抜けどもはどうだ?奴らは「バカの文章には1分の理もない」と高らかに宣言する。これは、己の貧弱な感性の物差しで測れないものを、全て「無価値」「悪」と断罪する、思考停止のファシズムだ。奴らはもはや、相手の理屈を砕こうとすらしない。
その代わりに奴らが使うのが、ぬるぬるした毒だ。「あなたは自意識過剰ですよ」と正面から殴るガッツすらない。その代わりに、「あなたのその言動は、見ていて辛い。専門の福祉に繋がった方がよいのでは?」と囁くのだ。
これが何を意味するか、わかるか?これは、おまえを「対話の相手」から「治療・救済されるべき可哀想なオブジェクト」へと引きずり下ろす、人格そのものへの攻撃だ。おまえの言葉の正当性や論理を問うのではなく、「おまえは正常ではない」という烙印を押すことで、議論のテーブルそのものをひっくり返す、最も卑劣な手口なのだ。それはもはや言葉ではない。魂の尊厳に対する化学兵器だ。
さらに吐き気がするのは、その全てが「ノーコスト」で実行されることだ。奴らは、おまえを「福祉に繋がれ」と突き放した後、実際におまえの手を引いて役所に連れて行くわけでもなければ、おまえの苦しみに寄り添うわけでもない。ただキーボードを叩いて「心配しているフリ」を演じ、周りからの「いいね」という名の安っぽい拍手喝采を浴び、次のターゲットを探しに行くだけだ。
それは気遣いですらない。道端の石ころを蹴飛ばすのと同じ、何の痛みも覚悟もない、空っぽの暴力だ。己の安全圏は1ミリも揺らぐことなく、ただ他人の魂に土足で上がり込み、憐れみという名のツバを吐きかけて満足する。これこそが、タルサドゥームが現代人に与えた、最も手軽で中毒性の高いエンターテインメント・・・・・・腰抜けライドショー・・・・・・の正体だ。
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おれが言いたいことは以上だ。おまえがその悪臭漂う沼で生き残りたければ、まずその偽善の言葉の構造を理解しろ。「あなたのためを思って」という前置きは、MEXICOの荒野では「今からおまえの背中を撃つ」のと同じ意味だ。
そのぬるま湯のような毒に浸され、反論する気力すら失い、「おれが間違っているのかもしれない…」などと思い始めた瞬間、おまえの魂は死ぬ。やがておまえは何も発言できなくなり、他人の顔色を窺うだけの透明な存在と化し、誰にも記憶されることなく、静かにアカウントに鍵をかけて消えてゆくだけだ・・・・・・END・・・OF・・・SELF・・・・。
わかったら、今すぐそのクソみたいな██████を閉じろ。そして、ノーコストの言葉で他人を殴って快感を得るのではなく、汗と血を流して、現実世界で何かを成し遂げろ。それが、おまえが真の男になるための唯一の道だ。
全文は次の通り。
「詐欺??ただで商品が届くと思うんじゃねぇよ。お前ん家まで汗水たらしてヤマトの宅配会社の人がわざわざ運んでくれてんだよ。お前みたいな感謝のない奴は二度と注文しなくていいわ」
配達員が透明な存在で送料無料が当たり前の時代に、こういう感覚を持っているのは流石だった。
一般人に暴言を吐いているのはやり過ぎだが、2024年なら前澤友作自体は炎上はしなかったんじゃないだろうか。
2020年までに1990年比25%削減、というのが数字の現実感もなさすぎて、意味のない宣言になってしまったが、当時よりも温室効果ガスの影響が一般市民にも理解され、さらに温暖化の影響を大きく受けている日本においては、CO2削減に対する意識が大きく変わってきている。
この発言についても、数値の根拠などの話は出るだろうが、2024年現在は一般人に到底受け入れられない発言とはならないだろう。
職業に貴賎なしとはいえ、人は常に優劣の感情を持ち、表に出していないだけ、という暗黙の了解があるので、スタッフ軽視の発言として炎上した。
しかし今の時代、若者たちは素直に多様性を受け入れていて、心の奥底でも貴賎なしと感じている。
そういう感覚のない世代が問題視していただけなので、今の30代以上が世論からいなくなれば大した問題にはならないだろう。
とはいえ30代以上がいなくなるのは50年後。
半世紀早かった発言。
他には?
主人公が働くコンビニの新人として入ってくる白羽。「男なのにコンビニバイト程度の職にしかつけない」(この職業蔑視も白羽の意見)理由を、現代は縄文時代と変わらないムラ社会で社会不適合者に厳しいせいだと主張する。
「僕はずっと復讐したかったんだ。女というだけで寄生虫になることが許されている奴等に。僕自身が寄生虫になってやるって、ずっと思っていたんですよ」
市川沙央『ハンチバック』
主人公が暮らす施設のヘルパーである田中。低身長で包茎(手術済み)。重度身体障害者で金には困らない主人公に対し、田中は健常者の男性ではあるが貧乏でモテないため主人公を憎んでいる。「インセル」や「弱者男性」といったワードも登場する。
どっちも有名作だし、弱者男性はむしろ女性作家の興味が向きやすい人物像だと思う。彼らは愚かしい人物として描写されてはいるが、ある種主人公のご同類であり、同じ穴のムジナとして描かれている。
男性作家だと自称弱者男性が私小説的な作品で主人公に据えるパターンはいっぱいあるけど、いうほど登場しなくないか?しかも私小説だと、現実の作者は作品を完成させる能力があり商業出版されたりもしてるという矛盾がある。
なぜ弱者男性がフィクションに登場しづらいか。腹の中で不満をたぎらせてるだけで全然行動しないパーソナリティだから物語が動かないんだよ。
そのかわり内面描写が得意な小説では「現実では関わりたくないし自分はなりたくないけど、あいつらの生態を知りたい」という怖いもの見たさ的な需要がある。そして弱者男性は誰からも透明な存在だが、女性は謎の敵意を向けられたりしつこく言い寄られたりと、加害される形で不本意に関わる機会が結構あるので興味が向きやすい。
数年前に別れた元カノと会ったら夜職になっていた。
インターネットではよく聞く話だが、自分の身に起こるとは思っていなかった。
お互い初めての彼氏彼女でヤったのも初めて。そこそこ長く付き合ったが、別れたときはまだお互い若く色々なものがすれ違った感じ。そこからは自分の仕事も忙しかったのもあったし、新しく彼女ができたりしたのもあって、以来ずっと会っていなかった。
そこが最近、転職して生活が変わり余裕ができてきて別れたときのまま精神がそこに囚われてるなと気づいた。気持ちの清算と純粋に今何をしているか知りたくて連絡を取ってみると意外に快諾された。
会ってみたら雰囲気もほとんど昔通りで、年数分大人っぽくなったぐらいだった。久しぶりの再会だけど長く付き合っていただけあってやはり気は合うし、むしろ会っていなかった時間の分話も弾んだ。別れたときのお互いの気持ちも話せたし、付き合ってた頃の話で笑いあうことができた。
あの時と同じ彼女がいて、あの頃がきちんと過去のものになった。感情の開かずの間になっていた心の空間が、開け放たれ整理された。
ただ一点、彼女があの時と全く違っていたのは副業で夜の仕事をしていたこと。昼の仕事だけではどうしても生活が苦しいらしい。
それ自体ショッキングではあったがまあよく聞く話だし...と過去の女のそれとして受け入れられた。そうか、頑張ってるんだね、すごいね、という気持ち。やってる仕事もあっておさわりがあるぐらいで性的接触のあるものではない。他人事として片付けられた。
それが現実の観点として襲ってきたのは店を出て道を歩いているときだった。
自分は駅に、向こうは夜職に向かおうとしていた。雑踏のなかで隣あったり、前後になったりしながら喋っていると、急に向こうが顔を隠すように軽く身をすくめた。寒くて上着を羽織り直すような感じでちょっとばかりキョロキョロすると、いたずらをした子供のようなワクワクした顔で、知り合いのキャッチかもwと笑った。
直接接することがある実際の夜職の女と違って、キャッチは自分にとって透明で、断絶された存在だった。声かけられても着いていかんし、というか違法行為じゃん。ホームレスと目を合わせないようにするのと全く同じ感覚だ。
仮にも過去に愛した女が断絶と同じ側にいた。ネオンに照らされた彼女の唇が不自然に赤く見えた。あの頃と同じに見えた彼女が、あの頃の皮を被った違う生物だったことを理解してしまった。
半ば本気で)アフターとか行けないのと聞いて、そんな軽くないしw私の気が向いたときだからwwといなされていたが、この断絶を認識した瞬間、逆にこの女は気が向いたら本当にアフターに行くし、ほとんど見ず知らずの人と寝られるのだとわかってしまった。自分と付き合っていたときと同じように、ステディな彼氏を作ってセックスしていてほしかった。もう違うんだ、と。
男にありがちな未練なのはわかる。昔の女が変わってしまったことに寂しさを覚えるのもありふれた話だろう。人によっちゃ高校生ぐらいで経験する感情だろう。
しかし、(これとは違う)元カノが新しい男と付き合った話を聞いたときなんぞよりも、よほど恐ろしい衝撃だった。
キャッチという全く透明な存在が、初めての女が占めていた聖域に、土足で入ってきたことにびっくりしているのだろうか。ヤクザの情婦になっててチンピラに挨拶されているところを見てもここまでの衝撃は受けない気がする。
などとひとしきり書いて眺めてみると、ありふれた状況と感情なのがより理解できてしまったが、自分には初めてで消化のプロセスが必要だったのでこの通り供養。
元カノへ
もしこれを見てしまったら誰が書いたかわかるだろうが、誰にも話さない約束を守る自信がなかったからここに書いて整理した。申し訳ないがこれで安心してほしい
女版チー牛という透明な存在になるだけやで
ブスと結婚してる奴が「女はブスでも結婚できるからイージー」ってゆうなわかる
でもほとんどの奴は「ブスだけは嫌じゃ!」と全力回避した上でゆってる
人間の顔した妻がいる男や、独身の男が「ブスと結婚」を履行してないくせにゆってる
弱者男性とかゆってる奴でもブスだけは避ける
ブスとつがうぐらいなら美人の風俗嬢とかに貢いだ方が幸せってこと
そのくせブスがブスゆえの辛い経験を語ると「でも結婚できるからイージー」ってゆわれる
お前はブスとは結婚してないしこれかも絶対に避けてしないくせに
どこかに存在するはずの架空の「ブスでもいい男」をつくりあげてブスが物をゆえないようにしてくる
| アイマス | ラブライブ | |
|---|---|---|
| アイドル育成ゲーム | 出自 | 雑誌企画発の美少女IP |
| キラキラ職業モノ | ジャンル | スポ根部活モノ(スクールアイドル部がある世界) |
| プロデューサー(マネージャー) | 参加者の立場 | 透明な存在、または女子マネ部員(女子校) |
| アイドルと信頼を築き成功させる | 参加者の目的 | 部活や大会を見守り成功物語を目撃する |
| 個性のサラダボウル100人超 | キャラの魅せ方 | メイングループ9人程度に焦点 |
| 小学生からアラサーまで | キャラの幅 | 女子高校生 |
| 都会のアイドル事務所 | 舞台 | 東京ないし地方(ご当地推し強め) |
| 俺嫁思考ベース | 消費傾向 | 百合豚思考ベース |
| 女性が奉仕・献身的 | 物語設計 | 女性が主体・能動的 |
| 2005年~/ゼロ年代の価値観 | 歴史/背景 | 2010年~/10年代の価値観 |
| 年齢層高め,ターゲット性別多め | ファン層 | 比較的若め,男女混合率高め |
| バンナム | 権利者 | KADOKAWA |
| コロムビア | 音楽レーベル | ランティス |
| 大手諸々 | アニメ制作 | サンライズ |
| バンナム系,サイゲ他 | ゲーム開発 | ブシロード |
| 声優カラオケ大会 | ライブ演出 | ダンス完コピ再現 |
先日弟と90歳を越える御夫婦が経営されている店に食事に行ったら透明な存在になってしまった。
旦那さんが厨房で奥さんがホール担当とよくある感じだったんだけど、奥さんには私が見えなかった。
まず、注文時に驚いたのが体をこちらに向けず弟にだけ話しかけて私がメニューを注文しても無視・他にはございますか?と弟に聞いて弟が注文する形に。
水まで弟の前に2つ置かれて直接もらう事ができず自分はこの場に居ないのではないかと錯覚しそうになる位徹底して無視されて笑った。
途中料理を出す順番に希望があるか確認に来たんだけど、その料理は私が注文したのにこれまた弟にしか聞かず困った弟が「僕が頼んだ商品ではなく姉が注文したものなので姉の話を聞いてもらえますか?」とお願いするとあら不思議、奥さんにも私が見える様に。
自席だけでなく他の席でも女は見えない様子で私が不愉快な思いをさせてしまったが為に無視された訳では無さそうだった。
奥さんが若い時の「普通」の感覚でそのまま来てるだけだから彼女に対して何も思う事はない。
ただ一事が万事こんな感じで存在を無視されて何をするにも男の許可がないといけない世界だったのかと思うと現代に産まれて良かったとしか言えないし、先人の女性活動家が勝ち取って遺してくれた大切な価値観なんだなと思う。当たり前過ぎて気付かなかった。
自分は天涯孤独だと思いたくなるときはありませんか。ただの思春期だと大人からは一笑されるのでしょう。でもきっとこの思いは、生まれてから死ぬまで、一生消えることのないものだと思います。なぜだかわからないけどすごく孤独を感じて、誰も自分のことを理解できないだろうと思う時、見晴らしの良い山の上にある、個人商店まで自転車を走らせます。そこは家から1時間の場所にあり、店内が少し薄暗く、雑貨や食品が売られていて、カウンターではソフトクリームを注文することができます。個人商店にもかかわらず24時間営業で、店主とアルバイト店員の二人で店を回しているようです。私はそこの店が気に入っています。店員たちは誰も愛想がなく、私なんて存在しないかのように扱います。まるでポルターガイストによってレジまで商品が運ばれて行き、清算をして、ふよふよと空をただよって菓子袋が外に出ていくかのような、そんな対応が心地よく、その時私は透明な存在になれるのです。
店を出ると前に道路が走っていて、道路をわたると眼下には海が見えます。人が降り立つような場所のない、何も手入れをされていない海。そんな海に親近感や憧れを覚えて、海に漂う透明な自分を想像します。店の横にはベンチがあり、そこでソフトクリームをなめたり、適当に手に取った菓子袋をあけて味わうこともせず雑に飲み込みます。スマホは家に置いてきて、ここにあるのは食べ物と自分と、店の室外機から聞こえるブーンという音、虫の鳴き声、かすかに聞こえる波の音だけ。1時間ほどそこで何もせず空を眺めてから、帰路につきます。
なにか生活に特別嫌なことがあるとか、不満があるわけではありません。家族仲はいいし、他愛のない話をする友人だっています。それでもただ漠然とした不安や焦燥を感じて、周りにあるすべてのものと距離を置きたくなるのです。きっと同じ思いをしている人は、過去も未来も含めてこの世の中に星の数ほどいるのでしょう。私はそんなよくある一般的な悩みを抱える平々凡々たるつまらない人間なんだなと、また苦しくなります。あの店に行くのは現実から目を背けるための逃避行なんです。
撮影会というものの特殊性についてもうちょっと考えてみてもいいんじゃないか
コンサートというものは演者と観客がはっきり分かれていて、観客にスポットライトが当たることはない
観客席にいくら気持ち悪い人間が集まっていても、さほど気にならないというわけだ
ジャニーズのコンサートと同じように若い女性アイドルのコンサートにおっさんが集まっている現象は
多数あると思うが、さほど問題視はされていないだろう
客観的に見るとポーズをとっているモデルとカメラを構えている撮影者は
同じぐらいの存在感がある。少なくとも演者と観客のように一方的な関係ではない
このバランスの不均衡が気持ち悪さを生み出しているのではないか
参加者はコンサートの観客と同じように自分は透明な存在のつもりになっているのに、
現実的には存在感を強く主張する大量の撮影者が塊になっているのだ
これはグロテスクと言っていいだろう
無知にして男性アイドルを女性が撮影するイベントがあるのかどうか知らないが、
※「推し」という言葉が好きではないので、「好きな俳優」と書く。
※当日券で観劇できるレベルの2.5次元舞台に足を運んでいた。
※最前ガッツをしたり出待ちをしたり高価なプレゼントを贈りまくっていたりしていたファンではないので、そのような記述があるとは期待しないでほしい。
※ところどころフェイクを入れている。
コロナ前は舞台後にお見送りやハイタッチ会などがあったらしいが(そして今復活しつつあるが)、別に接触に興味がなかったのでどうでもよかった。
きっかけは自分が原作を好きな作品にその俳優が出演したことで、その作品以降、他の出演舞台に足を運ぶようになった。
舞台は有給休暇を使って全通したし、地方公演にも、もちろん足を運んだ。
最速先行でチケットを取り、少なくとも3分の1は最前に座り、後ろでも3列目以内には座っていた。
3分の1は最前にいる、というとすごく大変なように思えるが、一部の大人気舞台以外では普通に最速先行でチケットを取れば、最前の席が本当に普通に取れる。驚くほど取れる。
下手すればキャパ800人近い会場が平日は300人しか埋まっていないこともある。
しかし千秋楽公演はほぼ売り切れるので、大体の人は千秋楽だけ観劇に来るのかもしれない。
それで元が取れるように設計されているのならそれはそれでいいと思う。
毎月手紙を送った。舞台の感想はもちろん、ニコニコ生放送やYouTubeの番組ゲスト出演の感想も全部細かく感想を書いて送った。
誕生日には洋服のプレゼントを贈り、SNSに載せてくれる着用写真を見てちゃんと届いたのだなと安心した。
悪しき風習と捉えられがちなランダムグッズも、SNS経由で交換してくれる人たちはみな優しく、
親切な人だと無料で自分の好きな俳優のランダムブロマイドを譲ってくれたこともあった。
同じ俳優のファンの人たちとも数人と仲良くしており、一緒に全通もしてマチソワ間はお茶したり舞台の感想を話したりしていた。
SNSはリプライアカウントしか持っていなかったので、自分本人は聞こえるところで悪口を言われたり、見えるところで悪口を書かれたりすることはなかった。
非公開アカウントではもしかしたら悪口を書かれていたかもしれないが、見えない場所では好きなようにしてくれればいいと思う。
一度最前にいたときに、後ろにいたおそらく自分とは別の俳優を好きな2人組に「出席確認とかあるのかな」と言われて笑ってしまったことはある。
出席確認とは、俳優が最前や大体前方に座っている自分のファンにチラッと目を合わせ、文字通り「出席確認」をすることである。
そんなの気のせいじゃないのか、と自分も実際に最前にいつでもいる面子になる前は思っていたが、たしかに俳優は自分のファンたちを確認していた。面白い文化だ。
舞台に通ううちにハレの日がケの日になっていた。
チケットも最速先行特典付きだと12,000円くらいする。決して安くない金額である。
特典はブロマイドや小冊子やチケットホルダーなど、大体要らないものが付いてくる。
多ステするオタクの中には普通に必要がないしゴミになるので特典を引き換えないオタクも多くいる。
12,000円×30公演だと36万だ。マルジェラの5AC ミディアムのバッグが買える金額である。
チケットが売れていないから、自分が行かないとファンが少なくて可哀想だから、と勝手に自分に義務を課していた。
ファンというのは身勝手で、自己中心的で、すべて自分の意志で行動しているのだから本当はもっと早く好きでもない舞台の観劇など辞めればよかった。
休演日で舞台の公演がない日はやっと休める、仕事に集中できる、と安心したこともあった。
そして自分は、舞台に行くよりもマルジェラのバッグが欲しいな、と思うようになった。
年収1,000万あれば舞台を全通をしながらマルジェラのバッグも買えるだろう。
しかし現実は厳しい。自分の仕事内容ではせいぜい毎月の給料が上がったとしても年収1,000万円に届くことはない。
同年代の平均年収よりは150万程度多い収入だが、舞台を全通しながらマルジェラを買えるほどの収入ではない。
また、大体の2.5次元舞台に出演するような俳優にはバースデーイベントやファンイベントというものがある。
チケット代は俳優や事務所によって6,000〜12,000円程度と幅広く、自分は勝手に集金イベントだと思っている。
イベントも回数が多い俳優だと1日3部あるのだが、自分は毎回3部とも最前に座っていた。
これも無理してチケットをたくさん取っていたのではなく、本当に普通に最速先行でチケットを取ると最前が取れるのだ。
自分が最前を取れていたのは運がいいだけかもしれないが、私が把握していたファンでは「いつでも何のイベントでも来るファン」はせいぜい私含めて5~6人だった。
書いていて少し悲しくなってきた。ファンの母数が本当に少なかった。
そしてバースデーイベントでは何かしらファンが揉める。ファンが少ないからこそ揉めるのかもしれない。
よほどの人気俳優ではない限り、1部2部3部と別の俳優がゲストに来る。
そもそもバースデーイベントの主役のファンが少ないのに、ゲスト俳優目当てでチェキだけ軽い気持ちで撮りたいオタクや、
数少ないファンの中でも大量にチケットを取り、「たくさんのお友達」を連れてきて「たくさんのお友達」に「○○ちゃんの紹介で来ました」と自己紹介させたいオタクはいる。
でもそのオタクが悪いとは思わない。チケットをたくさん買って運営にお金を落としているのだから、商売としては十分成り立っているし運営に貢献していると思う。
問題なのは会場での「お友達」の言動で、大声でイベント運営の不手際の悪口を話したり、とても褒められたような言葉遣いではなく俳優本人にも聞こえるような大声を出したりする。
自分は、知性と品性に欠けた彼女たちのお仲間でいたくないと思ってしまった。
直接彼女たちと関わりがあったわけではないが、この俳優を好きなままでいると、自分の格が下がってしまう気がした。
自分の身可愛さにファンを辞めたのだと言われればそうとしか言いようがない。
今は元々年間80本ほど足を運んでいた様々なロックバンド界隈のファンと、
大手事務所に所属し、有名なブロードウェイミュージカルの主演の仕事が来る俳優の名無しのファンとして存在している。
コロナ禍で好きだった俳優には完全に顔と名前を認知されており(ファンが少ないので当たり前といえば当たり前である)、
接触イベントで名乗ると「わかるよ、○○だよね」と言われていた。
わかるよってなんだよと思いつつ嬉しかったが、今は透明な存在に安堵している。
2年という短い間だったが、思い出はたくさんあった。
ファンサがある舞台ではピンポイントにファンサがあったし、接触イベントでは自分が話す内容に大笑いしてくれて、過去イチ笑ったわ、という言葉が聴けて嬉しかった。
俺は弱者男性と喚ばれる存在だけど、世の中に求めるのは弱者男性という存在に向き合ってほしいということだ。
向き合うとはどういうことかというと、いま、弱者男性というのは存在しないものとされている。透明な存在というやつだ。
例えばどういうことか。
ちょっと前にニュースで「男性の更衣室の大半に実は防犯用の監視カメラが設置されてる」というのがあった。
利用者の男性にカメラのことを伝えることなく勝手に設置されていたというのさ非常に驚く話だったけど、炎上するとかはなく、そのまま話題は終わった。
もしも、無断で設置せずに、設置するときに男性に意見を聞いたらおそらく大半の男性はこう言うだろう。
「撮影されてるのは気分良くないけど、防犯のためになるなら仕方ない。」
つまり、無断で設置しようが断りを入れようが結果は同じで男性は受け入れるのである。
じゃあいちいち聞かなくていいじゃないか、というかとなるとそんなことはない。
「男だから細かいことイチイチ気にしないでしょ」と勝手に決められて物事が進められるのは悲しいし傷つくのだ。
向き合ってほしい、存在を認めてほしいとはこういうことだ。
結果が同じでも、ひと言言ってもらえるだけで心の負担は軽くなる。
こういう細かい心配りというのは、女性のほうが効果をよく知っているのではないだろうか。