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はてなキーワード: 立脚とは

2026-04-29

anond:20260429153117

真面目に止めた方がええで

仮想現実日本のほうに自分立脚するようになっておかしくなるから

現実に生きている感覚を持てず、現実が身近なものでもなくなっていて、現実との付き合い方もわからなくなっていて、現実との付き合い方をどう学べばいいかもわから

アニメ漫画ゲーム映画ドラマで誤魔化しているうちに大人になって、大人になっても誤魔化し続けて

その結果が今の日本から

まともに考えられる知能があったら反日統一高市自民党を大勝させて杜撰政治されて苦しむハメになってねンだわ

2026-04-22

BeYourLover:進化の中で、生活の新しい美学定義する

速いテンポで変化する現在、1つのブランド生命力は、製品のものだけでなく、成長し続け、突破し続けるコアにある。BeYourLoverは、常に進化の道を歩んでいるライフスタイルブランドであり、既定の枠組みを固守せず、過去の成績に溺れず、持続的な革新ベースに、生活温度を伝えると同時に、新しい価値と良質な体験を用いて、現代人のためにより質感のある生活図を描いている。

一、持続的進化ブランド生命力の核心暗号

本当に時間の試練に耐えられるブランドは、永遠に「上に成長する」姿勢を持っており、BeYourLoverの魅力は、この永遠にまらない進化力に由来している。

ディルドの反復から理念アップグレードサービス最適化から体験革新まで、BeYourLoverは常に生活ニーズの変化に追いつき、固有の境界を打破し、探索の中で突破し、革新の中で成長している。それは線香花火のような流行追従者ではなく、長期主義を初心として、進化のたびにブランドの基礎を沈殿させ、「持続的な進歩」を遺伝子に刻み込まれた堅持にし、ブランドを常に生き生きとした生命力を維持させ、時代と同じ周波数で、生活に同行させる。

二、価値革新生活に新たなインスピレーションを注ぐ

生活の素晴らしさは、新しい可能性を発見し続けることに由来し、BeYourLoverは常に新しい生活価値提案者になることに力を入れている。

それは伝統的なブランド思考定式化から飛び出して、現代人の生活シーンと感情需要立脚して、満たされていない期待を掘り起こして、もっと現在生活理念に合うことを伝えますシンプルで快適な生活態度であれ、洗練された実用的な生活様式であれ、品質温度考慮した生活の追求であれ、BeYourLoverは革新的な視点生活を再定義し、新しい価値主張を用いて、人々に生活を見る新しい視点を開き、日常平板にしないようにし、生活により良い選択を持たせる。

三、品質を守る:究極の製品サービスで愛を実現する

進化革新の最終的な着地点は、ユーザーにより良い体験をもたらすことであり、BeYourLoverが一貫して守ってきた初心でもある。

ラブグッズ製造において、ブランドますます精進し、材質の選択から技術の磨きまで、設計の工夫から実用的な性能まで、すべての細部に工夫を凝らし、よりニーズに合った、より品質感のある製品提示するためだけに、サービス体験では、常にユーザーを中心に、サービスプロセス最適化し、サービスの質感を向上させ、親切で専門的で効率的サービスで、すべての選択が心を込めて扱われるようにしています

良いブランドは、生活の同行者であり、より素晴らしい創造である。BeYourLoverは持続的な進化原動力とし、価値革新を導きとし、品質サービスを基礎として、前進の道で絶えず自己突破している。未来、それは依然として初心と愛を持って、生活のより多くの可能性を探索し続け、より良い製品、より良いサービス更新価値を用いて、一人一人がより理想的生活出会い自分だけの生活美学を生きることに付き添う。

2026-04-14

anond:20260414005744

たとえばですが、様々な事象たとえば、イラン情勢を考えた時

「そうなるのは必然である」という考えに立脚するところからスタートする。「誰がやってもなるべくしてなる」と見る。

ところが理想主義に走る人ほどなぜか「誰が」になってしまう。結果「トランプがー」とか「高市がー」になる。

2026-04-02

島国根性戦争反対

抑止論は現実戦争が起きる可能性を前提に思考を展開するが。

戦争反対者、

特に理念戦争反対者は「戦争が起きる可能性そのもの」への忌避があり、

可能性だけだとしても、

それを前提とする議論のものも反対すべき戦争の要素に含む。

しかもこの場合戦争可能性の検討は極めて内向的日本事情にの立脚しており、

外国軍事情勢等との整合まで殆ど網羅できていない。

から日本が本格的に防衛政策上の軍事的な検討をし始めること自体が悪という認識であるため、

他国における防衛政策上の軍事検討善悪が全く視野に入っていない。

従って日本戦争反対論者の実質は、

戦争反対ではなく「日本国内軍事議論反対」とすべきだろう。

日本特に言葉にすることすら忌避してきた。

戦争とか戦争状態という言葉絶対に使わず

有事とか存立危機事態といった抽象語で曖昧化してきた。

戦争は口にするだけでも悪だということだ。

だけれど世界情勢が戦争の気配を一気に強めて来たので、

日本社会の中だけで戦争への言及を避けていれば済んでいた環境が大きく変わった。

島国の中だけで穏やかに閉じてた「平和」は、もう望むことはできなくなったのだ。

2026-03-31

映画ビニールハウス を見た

何もかもうまくいかない人生物語、62点。

 

息子が少年院で母は認知症自分ビニールハウス暮らし中流階級の(旦那失明ボケ始めていて、奥さんは完全にボケている)家庭にエッセンシャルワーカーで入っている疲れた天海祐希みたいな顔の主人公ボケ被害妄想を爆発させた奥さん罵倒されながらも出所する息子と暮らす家を借りるため一生懸命生きていたがある日、ひょんなことから浴室でもみあいになり奥さんが死んでしまう。今の生活を守るために主人公は死んだ奥さん自分母親すり替えを決行。悲劇歯車が回り始める。

みたいな話。

 

なんかさぁ、人生上手くいかないにもほどがあるよな。

冒頭、主人公自分の頭を自分でバシバシ叩いているシーンから始まる。たぶん主人公はずっと自分を責めてるんだよね。子供少年院自分に心を開いてくれていないし、認知症母親との関係もよくない。仕事では一生懸命世話してる奥さん自分を殺そうとしていると因縁を付けられ、それを聞いた家族からは責められ、自傷カウンセリンググループに参加してそこの参加者に情けを見せたら依存され付きまとわれ、誠意のかけらもない男と肉体関係を持っている。

そりゃあさぁ、やんなっちゃうよな。

主人公だって根っから悪人ってわけじゃないんだよ。今作で起こる悲劇のすべての発端は奥様の死を隠ぺいしたことなんだけどそのシーンで主人公は震える手でスマホに119を押す。で、通話ボタンを押そうとしたその時に息子から電話がかかってきて「俺、母さんと暮らしたい」と告げられる。少年院では冷たい態度だったのに。

ビニールハウス暮らしで何もかもを切り詰めて自分を殺して仕事をしてきたのは全部息子と暮らすためだったんだよね。人生最大の絶望の瞬間に人生最大の希望が降ってきた。そしてその希望がすべての崩壊を招く。人生ってうまくいかない。

ネタバレしていくとこの奥様入替を行った結果、当然目が見えないながらも旦那さんは違和感を抱きはじめる。でも旦那さんは元教授自身自身の知性に立脚した存在だと思っていて、それが認知症で侵されていくアカギの末期みたいになってて、自分の妻を妻と認識できなくなっているんじゃないかという疑心暗鬼を生んでしまう。そうして自分自分で亡くなる前に死にたいアカギと同じ結論に悩みに悩んでなった結果、旦那さんは奥さん(主人公母親)と心中してしまう。人生ってうまくいかない。

でもこれも、すり替えからこの悩みは発生していて旦那さんは施設に入ろうとしていたけど奥さんには拒否されてそれにも絶望していた。だから、仮にすり替えてなくても旦那さんが本当の奥さん心中してた可能性は高いんだよね。主人公母親が殺される寸前に真実を明かそうとし、声を聴いた旦那さんは「別人だ!妻じゃない!」と叫び、でも結局一緒に死のうと言って殺して自殺してしまう。認知症の進行だと思ったのか、別人だとしても妻と死のうとした自分にとってはもう一緒だと思ったのかはわからないけど、結果は同じだったんだなぁって虚しくなる。

グループセラピー出会った疲れ果てた生駒里奈みたいな、たぶんちょっと発達障害の気がある女の子共依存のような関係を持ちかけられるも当然それを支え切れるわけもなく拒否してしまい、彼女不安定になり付き合っているDV彼氏殺害してしまう。そのDV彼氏は実は主人公と肉体関係を持っている男だった、というのはあまりにできすぎてるので正直いらんかったかな。

そして息子は母親には告げずに出所し、悪友たちと遊ぶ場所を探しているところにたまたま主人公ビニールハウス発見しここいいじゃん!と侵入酒盛りを始める。そこにタンスに隠していた奥さん死体を燃やそうと主人公が戻ってくる。住人が帰ってきた!と息子たちは隠れ、それに気づかず主人公ガソリンをまき、火をつける。

燃え盛るビニールハウス呆然と眺める主人公ビニールハウスが焼け落ちた音とともに映画は終わる。

息子がどうなったかは描かれないし、主人公がどういう結末を迎えるのかも描かれない。旦那さんの心中ビニールハウスへの放火は同時進行で行われるので、主人公自分母親が死んだことも知らないし、さらに同時進行でメンヘラ女は肉体関係を持っていた男を殺害している。

ほぼ同時進行で主人公自分自身決断から周囲の人間をすべてを失ってしまう。人生ってうまくいかない。

 

という悲劇まみれの話なんだけど、意外にカラッとしていて編集が非常によい。

ラスト主人公の顔と焼け落ちるビニールハウスの音で物語バサっと終わる話はしたけど、旦那さんが首つって死ぬところも風呂桶を蹴っ飛ばした瞬間に画面がバサっと切り替わるし、メンヘラ彼氏殺害するところもカッターナイフをクビに突き立てたところで画面がバサッと切り替わる。省略の妙味というか、鬱々としたストーリーなんだけど見せ方は意外と露悪的じゃないのがいい。

ただ個人的には主人公が「貧困」のメタファーじゃないけど大きなテーマ従事するためか「なぜそうなってしまったのか」ということがほぼ全く語られないがちょっと気になったかな。何となく想像することはできるけど、なんでビニールハウス暮らしなのか、何で息子は少年院に入っているのか。そういうところがほぼ伏せられているので、なんか「そういう設定」感がぬぐえなくて、リアリティちょっと薄く感じたのはマイナス

 

まぁそんな感じかな。

韓国貧困と言う実際の重い社会的テーマを下敷きに喜劇的なまでの悲劇をしっかり描かれていたと思うのでおもーい韓国ノワール系の映画社会派映画好きな人にはオススメ

anond:20260331131507

竹中平蔵氏などが提唱する「解雇規制を緩和(撤廃)すれば、労働市場流動性が高まり、結果として賃金が上がる」という論理(いわゆる竹中理論)は、新自由主義的な経済学に基づいた理想論に過ぎません。

現実労働市場特に日本におけるフリーランス低所得化や格差拡大の現状を鑑みると、この理論には致命的な欠陥がいくつも存在します。

1. 「交渉力の非対称性」の無視

竹中理論の最大の誤謬は、「経営者労働者が対等な立場契約を結んでいる」という幻想立脚している点です。

現実: 解雇規制がなくなれば、企業側は「嫌なら辞めろ(あるいはクビにする)」という強力なカードを常に持つことになります

批判: 労働者生活がかかっているため、不当な低賃金や劣悪な労働条件でも受け入れざるを得なくなりますフリーランス発注元(クライアント)に対して買い叩かれ、弱い立場に置かれている現状こそが、「規制のない市場」で起こる賃金下落の生きた証拠です。

2. フリーランスの「低所得不安定」という先行事

竹中氏は「雇われない働き方」を推奨しますが、現在フリーランスの多くは、高給取りの専門職ではなく、実質的には「労働者」でありながら社会保障最低賃金の網から外された低所得層です。

批判: 解雇規制をなくすということは、正社員をすべて「使い捨て可能フリーランス状態」に引きずり下ろすことに等しいと言えます

企業固定費人件費)を削るために、給料を上げるどころか、「代わりはいくらでもいる」という論理賃金を最低限まで抑制するインセンティブが働きます

3. 生産性向上と賃金上昇の「デカプリング乖離)」

流動性が高まれ生産性の高い企業に人が集まり賃金が上がる」という理屈も、日本の現状では機能しません。

批判: 日本企業文化デフレマインドの中では、解雇が容易になれば、企業は「イノベーションによる利益拡大」ではなく、「リストラによる目先のコストカット」で利益を確保しようとします。

結果: 労働者所得が減れば国内の消費が冷え込み、さら企業の業績が悪化するという「負のスパイラル」を加速させるだけです。

4. 教育・訓練コスト放棄

解雇規制があるからこそ、日本企業は「長く雇う前提」で社員教育投資を行ってきました。

批判: 解雇自由になれば、企業コストをかけて人を育てることをやめ、「即戦力安く買う」ことだけに執着します。

フリーランス自身スキルアップ費用をすべて自己負担し、その結果として疲弊している現状を見れば、規制緩和が日本労働力全体の質の低下を招くことは明白です。

結論

竹中理論は、「労働者を単なる交換可能な『部品リソース)』」としてしか見ていない冷徹計算式です。

解雇規制の緩和は、企業にとっては「究極のコスト削減ツール」になりますが、労働者にとっては「生存権の脅威」でしかありません。フリーランスの多くが直面している「買いたたき」「報酬未払い」「不安定生活」という地獄を、全労働者に拡大しようとする暴論である批判せざるを得ません。

真に賃金を上げるために必要なのは解雇自由化ではなく、「労働者交渉力を高めるセーフティネットの拡充」と「適正な利益分配の強制」です。

2026-03-19

anond:20260319155111

姿勢わからんでもない。

 

でも多文化主義文化相対主義っていうのは、

かに19世紀的な西欧絶対主義に対して必要アンチではあった(今もなのか?)けども、

相対主義であるからには、やはり正義とか倫理的善悪判断自体を、そもそも機能不全にするところがあって、

オッサンの俺はポストモダン批判世代だったので、その辺気になる

 

わざと露骨に意地の悪いこと言っちゃうと、

お前は今回、「まずは」と言いながら文化制度説明に終始したけども、

永遠に「では次に」とは言いださない、弾圧圧政評価についてしゃべらない。

だって、それ言い出すと、お前がせっかくよく学び理解した宗教文化みたいなもんを「人がこれだけ死ぬぐらいなら破壊もやむなし」とか言わないといけないかもしれないでしょ? あるいは「文化尊いので人が死んでも無視で」か?

そのどちらも言わないためには、永遠に、まずは知ることが大事と言って、決定的な決断はしないままに文化の内容について言える事実のみを話す。言えないことは言わない。決断評価永遠に先送りにすることができる。

いくら西欧絶対主義が嫌いだからって、相対主義にとどまり続けようとすると、そうならざるを得ないんと思うんだよね。どっかでは、やはり私は西欧倫理観に与する(あるいは、与さない)と言って、なにがしかを言わねばならない。

言わねばならないのに、言わずに先送りすることは、相対主義への立脚ですらないかもしれない。それは判断留保ではなく、「言わない」という決断の積み上げであるからだ。

そういう点が、間違いかもしれないと、俺は懸念する。

 

まあ、お前はこの後、その間違いは避けるかもしれないけどね。

2026-03-18

anond:20260318134835

合意行為みたいな要素をごまかして

主体性を捨てることに立脚するのって頭悪いだけなんだけど

頭悪いから気がつけないんだよな

2026-03-15

anond:20260315113549

筒井》(略)軍隊の中には階級制度立身出世主義もいろいろあるが、結局本質的特徴としてはモラリティしかないんだというわけです。軍隊に限らず、組織が大きくなるほど上層部では自己疎外が起きて、立脚すべきモラリティーが喪失してしまう。そうなったとき、それを持っている人に対して「利用とあこがれ」の両局面が生じるのだと三島は指摘します。

 

髙杉》青年将校の動きを上層部が強く統制・弾圧できなかったのは「彼らがやっているのはけしからんことではあるが、本来あるべき軍人的な純真さを持っているのは彼らのほうだ」という後ろめたさがあったからだ、と。たしかに鋭い指摘です。

二・二六事件はなぜ起き、何を残したのか 事件研究第一人者らが語る

大正という時代の申し子だった青年将校たち

 

髙杉》軍縮のもたらした影響の一つに、軍隊内での指導者威信が低下したことが挙げられます。具体的に言うと、先ほど申し上げたように軍縮後のフォローが十分ではなかったため、クビを切られる立場軍人たちに「自分たちは利用された。宇垣らは我々を踏み台にして政界進出しようとしたのだ」という疑念が生まれた。そしてそれはある程度その通りでした。結果として軍上層部への信頼や統制力が弱まり青年将校たちが言うことを聞かなくなっていった面もあったのかな、と。

 

 

筒井青年将校運動に関し、三島由紀夫面白いことを言っています五・一五事件から二・二六事件あたりまで、青年将校が上官たちから危険視されつつある意味でちやほやされた局面があるんですが、なぜそうなったかというと「軍隊という特殊一社集団において、その集団モラリティー(士道)を体現するものと目されたかである」と(末松太平『完本 私の昭和史』所収「利用とあこがれ」/中央公論新社)。軍隊の中には階級制度立身出世主義もいろいろあるが、結局本質的特徴としてはモラリティしかないんだというわけです。軍隊に限らず、組織が大きくなるほど上層部では自己疎外が起きて、立脚すべきモラリティーが喪失してしまう。そうなったとき、それを持っている人に対して「利用とあこがれ」の両局面が生じるのだと三島は指摘します。

 

 つまり上層部陸軍大学校出のエリート軍人から見れば、青年将校は愚直で単純で、それゆえうまく利用してやろうと思っているんだけど、自分たちが失ってしまった本来軍人らしさを彼らのみが持っているから、憧れも感じている。髙杉さんが今言ったことは、この三島の指摘と関係しているように感じます

 

 

髙杉》青年将校の動きを上層部が強く統制・弾圧できなかったのは「彼らがやっているのはけしからんことではあるが、本来あるべき軍人的な純真さを持っているのは彼らのほうだ」という後ろめたさがあったからだ、と。たしかに鋭い指摘です。

 

 

筒井軍人というのはどういう内面を持った人々なのかという洞察が、戦後日本では十分なされていません。戦後軍隊存在しないみたいなことになったせいかアルフレッド・ド・ヴィニーの『軍隊服従と偉大』(岩波文庫)のような本がない。これは困ったことで、現在のように安全保障重要になってきた時代であればこそ、軍人をよく理解しなければいけないのですが、石川明人さんの著作のような例外を除き、今参考になる深い本がほとんどない。

 

 私自身は高校生の頃かに、末松の『私の昭和史』を読んで衝撃を受けました。これが非常に人間的な内容でね。末松は軍人テーマにした徳冨蘆花小説寄生木(やどりぎ)』を愛読していたらしく、「バルザックを思わせる」(三島文学者のような文章を書くんですよ。末松の本で、青年将校とは意外にヒューマンな人たちなのだな、と理解しました。

 

 

髙杉》青年将校が書いたものはわりと文学的文章が多いですよね。あまり軍人らしくないと言いますか。

 

 

筒井西田陸軍士官学校で、詩人となる三好達治同級生でしたし、二・二六事件の中心人物となった村中孝次は厨川白村(くりやがわはくそん)やクラシック音楽を好んでいた。大岸はアメリカ思想家エマーソンを愛読していたそうです。大正教養主義が強い時代に育った軍人たちはみんなそういった感じで、それが昭和になってから二・二六事件など、さまざまな事件に反映されていると思います

 

構成斎藤岬

 

 

(『中央公論3月号では、クーデターとして「甘い」理由や、事件を機に政党政治が衰退したとは単純に言えない理由事件後も大衆の「社会的平準化」の希求が続いたことなどを詳しく論じている。)

 

 

筒井清忠(帝京大学学術顧問)×髙杉洋平(帝京大学准教授

 

筒井清忠〔つついきよただ〕

1948年大分県まれ京都大学大学院文学研究科博士課程単位取得退学文学博士。専門は日本近現代史歴史社会学京都大学教授帝京大学文学部長などを歴任。『西條八十』(読売文学賞山本七平賞特別賞)、『昭和期の陸軍』など著書多数。

 

◆髙杉洋平〔たかすぎようへい

1979年愛知県まれ海上自衛隊生徒を経て國學院大學大学院法学研究科博士課程後期修了。博士法学)。宮内庁書陵部編修課(非常勤)、日本銀行金融研究所個別事務委嘱)などを経て現職。著書に『昭和陸軍政治』『帝国陸軍』などがある。

 

https://news.yahoo.co.jp/articles/28016164825dfbb8306bf249db4b558e309f362c?page=2

2026-03-08

最近流行りの名目GDPの推移を根拠にした「バブル経済90年代まで存続していた説」

名目GDPの増加は80年代プラザ合意以降円高が進行した結果ドル換算ででの見かけ上の増加であり、

株価地価は90年を境に下がっている

東京協和信用組合安全信用組合も94年にはもう破綻

おそらく団塊ジュニアからの怒りをそらすための風説と思われる

この説に立脚した著者の記事は読む価値なし

2026-03-01

anond:20260301120519

分析プロ以外の意見価値がないかというと、全くそんなことはないはずです。

意見を書いてくれたことを感謝します。

自分ごとの感想にこそ価値があると思います

かつて、富をインテリゲンチャが独占しているのがけしからんということで、むちゃくちゃなことが起こったと思います

このことを忘れないために、私は日々考えるのです。

インテリゲンチャといわれた属性の、現代版の人たちは、自分立場が何の上に立脚しているか自覚しているのかと。

かくいう私もいわゆる無産階級です。

脇目もふらず一生懸命ただただ生きているのですが、時々、他の人が妬ましく感じられることがあるのです。

この感情が正当でないにせよ、普遍的であるならば、目を背けてばかりではいけないと思います

上記は全て嘘です。

本当は全てがどうでもいいです。

医師あなたきちがいですと告げられたその日から全てがどうでもよいのです。

今は一刻も早く死ぬことだけを考えています

憂さ晴らしにつき合わせてすみませんでした。ハバナイスデイに相当する日本語挨拶を知りませんが、それを言いたい気分です。ごきげんよう

2026-02-20

anond:20260220094759

財務省の「デフレ愛好」を打破せよ

 だが、安倍政権では、雇用環境を中心に「失われた20年」を終わりにすることができたが、野田佳彦民主党政権から負の遺産であった消費増税緊縮財政をうながす財務省抵抗によってデフレ脱却は未達だった。この反省高市政権立脚しているともいえる。それゆえの積極財政であり、そこに「責任ある」という文句を付け加えることで、財務省やそのシンパたち(政官界、財界マスコミなど広範囲存在するデフレ愛好の既得権者たち)をけん制する狙いがある。

 サナノミクスでは、雇用環境改善賃金上昇、ブラック企業などの減少)と設備投資の増加を、日本経済成長への期待にむずびつける上で、積極財政がきわめて重要位置にあることを強調している。

 経済の最重要アクセルである設備投資を見てみると、ようやく今の日本設備投資GDP比率でみて、「失われた20年」に陥る前の水準に回復したばかりである。この状況を安定化させることがなによりも重要だ。直観的にいえば、「失われた20年」プラスその後の回復期を含めた30年分の設備投資の遅れを回復することが最優先になる。これはまさに中長期的な課題10年ほどの期間が必要だ。

 そのためには、意図的需要を強めることで経済を適度に過熱させる「高圧経済」の出番となる。具体的には、GDPギャップをプラス2%前後の水準で維持することを目指す。企業部門設備投資積極的に行うことで、手元資金だけでは足りずに、借入れを増やしていき、マイナスの純貯蓄主体になる。負債を増やすことは同時に資産を増やすことでもあり、この資産負債の拡大するバランス日本経済の将来の成長によって裏付けられる。この日本経済の将来の成長の舞台市場)もまた政府が主導して構築していこうというのが、サナノミクスの意欲的な試みだ。

2026-02-17

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インタビュー

「右」と「左」の対立はもういらない? 対話で見えた予想外の世界線

2026年2月12日

https://digital.asahi.com/articles/ASV1G2HJNV1GULLI003M.html

 

Re:Ron対話 宇野重規×梶原麻衣子

 【宇野】 朝日新聞で論壇時評を2025年3月まで2年間担当し、そのとき梶原さんの『「“右翼雑誌」の舞台裏』(星海社新書24年)を読みました。

 論壇とは何なのか、いつも考えていて、論壇時評といっても取り上げる雑誌はやっぱり朝日新聞っぽいものを選んでいるんじゃないのか、と感じることがある。「WiLL」や「Hanada」も時々読んでいたけど、取り上げることは限られていた。一方で本屋さんに行くと、論壇時評で取り上げるような雑誌は1、2冊くらいで、「WiLL」「Hanada」がずらっと山積みになっていて。ただ正直に言うと、熟読するのはやや抵抗あるな、とも。

 そんななかで梶原さんの本を読んで、面白いと思いました。現場学園祭のノリで編集していく様子が楽しそうで、何より梶原さんがちゃん対話しようとしていたのが印象的だった。まずは自分たちが考えていることを知ってもらい、そして相手がどう思うかも聞いて話し合おうという企画を色々と練っている。うまくいかなかったものも含めて、いわゆる「左」とか「右」というのを超えた対話を実現しようとする努力が伝わってきました。

 【梶原】 実は「WiLL」編集部にいたときコラムニスト勝谷誠彦さんの「あっぱれ!築地をどり」という連載を、入社当時から19年に退社するまで13年近く担当していました。

 朝日新聞論調を、東京本社所在地にちなんで「築地をどり」という流派になぞらえ、いわばおちょくるものです。とにかく朝日新聞を隅から隅まで毎日読んで、ネタを探す。細かい記事読者投稿まで読んで、今月はこれにツッコミを入れるぞ!というのを勝谷さんと相談して作っていく。

 たぶん朝日新聞の人はあまりきじゃなかったと思うし、応答が返ってくることはほとんどなかったんですけど、日々の紙面に対してツッコミを入れることで、一つのやりとりが成立していたと思う。私にとっても鍛錬になりました。

 24年の論壇時評(7月25日朝日新聞)で「Hanada」の記事石丸伸二・前広島県安芸高田市長についての地元の人たちによる座談会)を取り上げてもらったときは、編集部内がどよめいていたそうです。読んでくれている、というのは編集者としてすごくうれしいと思います

 【宇野】 実際読んでみると面白い記事もあるわけで、それを雑誌に対する一方的思い込みでこれはダメだっていうのはおかしいですよね。

 ただ、いまどきのネット空間では、見出しすら半分くらいしか見ずに、とりあえず相手にかみつく。批判する対象も丁寧に読むというのは、それだけで誠実かもしれません。

 具体的にはどういうのがありましたか? 梶原さんが見た「朝日新聞っぽさ」というのが浮かび上がってくるかと。



 【梶原】 衝撃だったのは連載初回で、04年11月中国の原潜とおぼしき船が日本領海内を航行した際の記事です。朝日新聞の社説(同11日付)で小見出しに「中国潜水艦?」って書いているんですけど「?」の級数ものすごく小さいんです。他のメディアはもう「ほぼ中国船」といった形で報じているけど、まだ違う可能性があるからなのか、あるいは中国に対して気を使っているからじゃないか、と。

 他にも、旭日(きょくじつ)旗に対して韓国から批判的な声が高まるなかで、朝日新聞夏の甲子園大会開会式で、毎回、旭日旗を元にしたような社旗ボールにくっつけてヘリから落とす。それに対してここでは言えないような下品ないじり方をしていたんですけど、客観的には面白い意見は違うけど存在否定しているわけではなく、風刺というか笑いにしてしまおう、という精神は良かったのではないかと思うんです。

 連載のネタにはならないけれど、朝日新聞を読んでいて説得されるようなこともありました。読み続けることで変化も分かるし、相変わらず、というところもあって、定点で見ていくことに意味があったと思います

 【宇野】 立場が違うとどうしても殺伐としたやりとりになって、特に今のネットでは相手を斬らなかったら自分が斬られるというか、どちらが先に相手ののしり倒すかみたいな感じがある。それに比べると、笑い、ユーモアからかいを含めた風刺は大切ですね。雑誌という媒体性質なのか、あの時期はまだそういう対話が成り立ったのか……。

 【梶原】 編集長の花田紀凱さんの方針で、雑誌新聞に対して批判の目を向けなければ、というスタンスで、朝日新聞特集を何号もやっていました。

 【宇野】 花田さんが週刊文春などで鍛えたジャーナリズム感覚のようなものでしょうか。ただ、その大前提には、朝日新聞というのは権威であって、それをたたいたり、ちょっとおちょくったり、それ自身面白い、というのがあったわけですよね。

 【梶原】 論調の違いや歴史認識に関して言えば、非常にシビア批判もたくさんあった。でも、そうじゃない視点から面白くいじり倒すというのもあって、「品はないけど愛はあった」というか。


 たとえば、朝日新聞記者年末年始ホームレスの人たちと寝袋で寝たという記事があって、もちろんその動機とかそこで見えてくるものは当然あると思うけど、ちょっと離れたところから見ると、「朝日記者は高給取りなのに、それは偽善では……」みたいな。そんな視点です。

 【宇野】 権威とされているものツッコミを入れたりひっくり返したりするのは、ジャーナリズムメディアの基本でもありますね。

■「敵」がいなくなった保守

 【梶原】 でも、権威があってそれをたたく構図、「革新」と「保守」というか、「左」と「右」といった構図がずっとあったけれど、徐々に「保守」のほうが強くなってきた。第2次安倍政権になってさらにそれが見るも明らかな状態になっているにもかかわらず、まだ左派カウンターを打つだけでやっていこうとしてしまった。本来保守側が論を立てなければならない側になったのに、保守側の意識が変わらなかった。ここが雑誌を作っていて難しかったところです。

 【宇野】 まさに朝日新聞というのが批判する側の言説の権威としてあるのが大前提で、逆に言うと、朝日新聞権威の座から転げ落ちてしまうと今度は敵がいなくなってしまう。ということで今度は、裏側から朝日新聞頑張れ!とエールを送っているところもある。

 加えて、保守なかにも「正論」や「諸君!」(09年休刊)といった既存の「ガチ論壇誌」があって、「WiLL」「Hanada」はそれともまた少し距離を置いた媒体で、面白くなきゃ、読者を楽しませなきゃ、という感覚がすごくある。でも、これも保守の“正規軍”があってこそ。それもだんだん力がなくなっていくんですよね。



 そんななかで、雑誌は売れるけど、自分たちが対抗する相手保守の牙城(がじょう)みたいなものが弱くなって、何に向かって茶々を入れていけばいいのか見えにくくなってきた。メディア政治の潮流がどんどん変わっていくなかで、梶原さんは居心地が悪くなって、結局飛び出した。何が一番大きなきっかけだったのですか?

 【梶原】 やっぱり第2次安倍政権の時期に抱いた違和感がすごく強くて。政権朝日新聞をはじめメディアからたかれるなか、こちらがそれを押し返すという構図がありました。でも本来は、保守からできる保守派の政治批判というのも当然あって、安倍政権にまだできていないこと、もっとやってもらわなければということが結構残っていたんです。実際、あそこまで政権が続いても憲法改正はできていません。

 なぜそれができないのか、を突きつけていかないといけない。岩盤支持層であればあるほど、その人たちがグラグラすることによって政治危機感を覚えるし、支持が離れることになって初めて本気になる。何をしても応援しています、できないことはやらなくていいよ、という状態が続いてしまうと、政治の側の「現状を変えよう」という動機けが希薄になる。

 だからこそ、保守から批判ちゃんとしないと、自分たちが思い描くような政治にはならないんじゃないか、という思いがありました。

 ところが実際には、北方領土返還をめぐる日ロ交渉が失敗し、四島返還事実上遠のいたにもかかわらず、「安倍さんは頑張ったからいいじゃないか」といった意見や、「モリカケ問題」の文書改ざん擁護する声も出てきた。最終的に、やっぱり憲法改正を言わないほうが正しいという意見まで雑誌に載るようになって、そうすると一体何のために雑誌をやってきたのか、安倍政権擁護するあまり今までずっと訴えてきた保守側の意見とも違うものまで雑誌掲載されたことで、これはさすがに許容できないと思った。葛藤がどんどん大きくなっていって、体調も崩してしまいました。

 【宇野】 ある意味で筋を通そうとしたわけですね。保守の原点、特に安倍政権本来の志は憲法改正であったとすると、それは置いておいて、むしろ政権を続けること自体目的化しているとしたら、それは本来めざしていたものからそれているんじゃないのかと。当然これは保守の側から出てきてしかるべき疑問だと思いますが、右派系の月刊誌を含めたメディアの多くも安倍さんの人気に乗っかって応援団のようになってしまった。おかしければおかしいと言うのがむしろ筋なのではというのは、本当にそう思います


本来の「保守」とは?

 私は『保守主義とは何か』(中公新書、16年)という本も書きましたが、保守って、自分たちの大切にしている価値があって、それが絶対だとか、一切変えちゃいけないとまでは言わない。でも大切なもの放置しておくとだんだん失われていくので、必要な変化は認めた上で、でも大切な価値はこれだ、とそれを守り抜いていく。それが保守保守たるゆえんだと思う。

 でも現代保守は何を守ろうとしているのか。あいつはおかしいというカウンターははっきりしているけれど、肝心の自分たちが守ろうとしているものがよく分からなくなってきているのではないでしょうか。

 【梶原】 保守の側にもそういうことを言う人は出てきてはいますが、大勢ではありません。今は良い意味でも悪い意味でも右とか左とかではない時代になってきています

 まだちゃんとあったほうが良かったと思うのは、自分が何に立脚してものを考えているのかがあった上で、あなたはそういう価値観だから私とは意見が違いますね、とある程度分かったほうがまだ話はできると思うからです。

 【宇野】 確かに保守主義って生まれときから明確な敵があったんですよね。フランス革命20世紀社会主義アメリカ流の「大きな政府」(ニューディール政策)と対象は変わったが、常に敵があるときに元気が良くて論理も鋭い。だけど21世紀になったぐらいから、だんだん明確な敵が分からなくなっていった。

 【梶原】 今は私も、保守派の人と話していても話が通じないことがありますネットの言説の影響が大きいと思うけれど、とても変わってきています

 たとえばLGBT問題で、本来日本の文化で言えば西洋の男女二元論のような捉え方とは違うはず。ところが保守派は、性別絶対的なものであると主張し、LGBTを許容する発想を危険視するようになっています。「女のふりをした男が女湯に入ってくる」というようなレアケースを持ち出すことで危険性を訴え、「LGBT思想蔓延(まんえん)すると女性を守れない」と印象付けようとしていました。

 そういう時だけ「女性を守れ」と言いますが、日ごろ「痴漢撲滅、女性を守れ」などとは言っていない。LGBTを推進する左派に対抗したいというイデオロギーのために「女性を守れ」の方便が持ち出されているだけです。また、「LGBTを許容することで性別不明の人間同性愛者が増える」とも言うのですが、保守派が認めようが認めまいが、当事者はすでにこの社会暮らしているわけで、「認めなければ存在しない」かのような言い方には違和感しかありませんでした。

 【宇野】 今の保守右翼を論ずる上でのポイントで、かつてのようなイデオロギーに基づくような明確な敵はいない。

 むしろもっと素朴な違和感、何か嫌だという感覚がある。そこからスタートするのは議論の仕方としてはありだとは思う。ただ、お互いになぜ嫌なのか、考えてみると自分のこういうものを脅かすと感じるから嫌なんだ、くらいまでいけば、それならお互いの大切な部分をなるべく傷つけないように、どうしたら共存が図れるか、といった議論もできる。けれど、たぶんそこまでいっていない。

 【梶原】 移民などに対してもそうですが、海外で起きている事例とか、嫌悪をあおるような動画を見聞きして、それをそのまま取り込んで日本でも近い将来こうなる、といった言い方がすごく増えています防衛本能みたいなところから出てくるのは分かるけど、社会の違いがあるのでそのままそうなるわけじゃない。これも保守の人には分かるはずと思っていたんですが……。

 【宇野】 もちろん、地域によっては外国人労働者が増えて、住んでいる人との間に摩擦やトラブルが起きることもある。そのとき、お互いに反発があるなかで、どう一緒にやっていくのか、どうルールを決めていくか、という議論ならいいけれど、今あるのは「なんちゃって排外主義」というか、漠然とした排外主義的な気分。本来自分たちのものであるものが、いつの間にか外国人に奪われているのではないか、という不安感だと思います。そうした不安自体否定しないけれど、相手存在否定する、いなかったことにする、というのは違う。

 そもそも梶原さんは最初から自分右派的な意見を持って雑誌に行ったときも「最右翼」と自認されていましたけど、何かきっかけがあったんですか?


■なぜ保守右派的な思想に?

 【梶原】 さかのぼってみると、父が自衛官で、小学校時代に父の仕事について担任先生から、「あなたのお父さんの仕事って嫌われてるよ」と言われたり、PKO派遣1991年議論になったときに、父は行きたいと言ったけど母がそれを止めて、「あなた正義心で世界のために命をかけようとしているんだろうけど、死んでも誰も感謝しない、この国は」という言い方をしていたり。実は母も自衛官の娘で、そういう立場の人がそんな風に言うこの国とは一体なんなのだろう、とすごく疑問に思ったんです。

 父の仕事が他の仕事と比べて特別すごいとは思っていないけれど、でも誇りを持ってやっていることだし、自分観閲式に行ったりして親しみもあったので、なんでそんなことを言われるんだろう、という思いがありました。大学に行ってからいろいろ雑誌を読んだりするなかで、それって憲法の話からきていたのか、それで存在否定されてこうなっちゃうのか、と。そのあたりからだんだん保守系の雑誌を読むようになって、自分にはしっくりくるなと思った。

 そして2002年北朝鮮による拉致問題の大きな進展があったとき、こんなことが起きていると知らなくて、それを解決できずにきていたんだとショックを受けて。そこから保守派の考えになったのが大きかったと思います

 【宇野】 お母様の言葉が重たいですね。もちろん個人意見として、憲法9条についての考えが多様なこと、自衛隊という存在に対して否定的な考えがあるのはしょうがない。でも実際問題として、この国のために働いて亡くなったところで、誰もそれを嘆いてくれないというのはおかしいんじゃないか、というのはそう思います。国のあり方としてどこかおかしいっていうのは、非常によく分かる感覚です。

 拉致問題にしても、この国のあり方とか外交とか特定の国に対する姿勢とかを考えるとき、決定的に重要事実を知らなかったのはショックですよね。大切な事実や前提が分からなければ対話も始められない。

 その後も、お父様やお母様とはそういう話はしていますか?

 【梶原】 憲法の話とかをするようになったのは編集部に入ってからでした。雑誌も購読してくれて、感想も聞かせてくれました。母方の祖父仏壇雑誌を供えることもあって、軍に入って終戦を迎えた後に警察予備隊にも入隊していましたから、戦後の風潮に対する何らかの思いがありながらも言えないこともあったんだろうな、と感じました。あまり多くを語らない人だったのですが、もうちょっと聞いておけば良かったと思います

 私自身も編集部に入る前から「WiLL」の読者だったので、編集者になっても雑誌を読んで毎月楽しみにしている気持ちは読者と共有できている、という感覚がありました。

 【宇野】 思いがある問題意識を書いて、それが読み手に届いて共有され、一緒にやっている感覚ジャーナリストとして幸せですね。

 【梶原】 読者から電話やお手紙などのリアクションもすごく多くて。批判ももちろんありましたが、でもそこでまたコミュニケーションが生まれた。

 ただ、第2次安倍政権期に入って私自身も疑問を持つようになったとき、読者から手紙いただきました。「保守雑誌は本当のことを書いてくれるから読んでいた。リベラル媒体と違ってちゃんとフェアにやってくれると思っていたのに、安倍擁護ばかり

2026-02-14

日本初の女性首相が、リベラル政治家であってくれれば良かった

戦争反対を叫ぶ声が、母性信仰立脚したものでなければ良かった

でもそうはならなかったんだよな

2026-02-09

パヨチンの終焉

今回の選挙でお花畑理想論

先の大戦でのトラウマをえぐる陰謀論

デマ経済論で対立を煽って最終的に共産主義へと導く

昭和左翼残党型パヨチンが完全に息の根を止められたわけですが

かといって完全に対抗勢力が滅亡してもそれはそれで困るんだよね

共産主義を完全に捨て去って資本主義立脚した責任ちゃんと背負うリベラル勢力が欲しい

チームみらい辺りがそうなってくれないか

2026-02-02

anond:20260202000705

科学定義として、再現性を前提にした知識とそこから派生する方法としてみます

盲信しないことという定義面白いですが、再現性を常に前提にすることを、盲信しないと解釈しても、大きな問題が起こらないように論を組み立ててみます

科学者がいなければ起こらなかった問題は例えば人口増です

科学的な方法により食料の貯蔵や植物栽培可能になり人口指数関数的に増えました

ここでいう科学的な方法とは、例えば計画的栽培計画的な分配、計画的な移動が該当しま

科学的な方法放棄すれば人口の増分は皆んな死にます

これが、やめたらもっと酷いことになるの例です

この問題が生じてから、優に数千年経過したのちに今があるというつもりで考えます

科学的な方法立脚してこれまでに蓄積した人口の増分は、生きてる人間だけ数えても数十億人以上に上るでしょう

全員科学者になるとは、計画的に生き、計画に従って死ぬことを指しま

例えば寿命を72年と設定して、71歳になったら人工的に死亡しま

このプロセスを履行することこそ科学者になるの意味なのです

科学には、あなたが思っている以上に恐ろしい側面があるのです

2026-01-28

SNS見てれば○○に賛成、○○に反対と言った主張が日々流れてくるんだけど、個人的には主張の内容より「なぜ〇〇だと思うのか、どういう価値観立脚しているのか」の方が知りたいんだけど答えてもらえるとは限らんのよな

2026-01-20

anond:20260120153741

でもさー、戦後、彼らの理想に向けて改革してたら、自衛隊とか存在しなかったと思うよ。

単純に君の意見を聞きたいんだけど、それで今よりまともな国の形を保てたと思う?

理想結構だけど、現実立脚して理想を目指すって、『戦争はいかんから対立をなくしましょう』で進められるほど簡単な話じゃないと思うよ。

彼らの理想に向かう姿勢は、下手に実行されると地獄を招きそうだから嫌なんだよ。

戦争はいかんから核武装しましょう』の方がまだ平和に向かいそうな気がするんだよね。

2026-01-17

中道主義」が創価学会池田大作言葉とかマジでショックなんだが

立憲民主党公明党選挙協力は分かる

合流も戦術としてはありだろう

しかし党名が池田大作が傾倒してた言葉だってのはちょっと比例区で党名書きたくねぇ

別に普段中道って使う分には気にならないんだが明らかにそういう文脈じゃねーか

公明党は「公明党のもとに新たに集う政党」とか立憲民主党を吸収したかのように言うし

日蓮仏法に基づき、肉体、物質にも、心、精神にも偏することのない生命全体像立脚した「中道主義」を掲げ、「生命尊厳」の時代を築きゆくのが、創価大運動なのである

新・人間革命11巻(池田大作 第3代創価学会会長))

仏教創始者である釈尊快楽主義と苦行主義という両極端を排し、中道に生きることを教えた。いわゆる「苦楽中道である。これはほかでもない、釈尊自身生き方でもある。(略)

これら仏法に脈打つ中道思想実践論として具体的に展開されてきたのが、池田先生である。(略)

 先生はトインビー博士との語らいを振り返りつつ、「中道」の意義をこう語った。

「この言葉中道)はアウフヘーベン止揚)に近い言葉と考えていただきたい。すなわち、物質主義精神主義止揚する第三の『生命の道』のあることを、私は確信しております

聖教新聞オンライン

https://www.seikyoonline.com/article/7686CA766542C74B17A90DDCF39D1922

2026-01-10

anond:20260110133102

その反論は、事実認識と推論の両方で自己放尿している。

まず、きもいという評価議論ではなく感情自己放尿であり、論点から逃げた瞬間に敗北が確定している。

人間的に引くかどうかはアルゴリズム挙動とも、レコメンド最適化問題とも一切関係がない。ここを混同する時点で、議論能力の水準が露呈している。

次に「ちゃんとした動画が1桁になることはない」という断言だが、これは観測範囲の狭さを普遍命題に誤昇格させた典型例だ。

高度理論、専門数学理論物理、低リソース言語圏の学術講義研究者個人の未編集録画、これらの多くは構造的に拡散しない。

サムネも煽らず、アルゴリズム最適化もされず、初学者を切り捨てる内容だからだ。

再生数は品質の単調増加関数ではない。再生数は「平均的視聴者にとっての即時理解可能性」と「消費コストの低さ」に強く依存する。ここを理解できていない時点で、YouTubeの仕組みを語る資格はない。

さらに「聞きかじったのがまぐれ当たりしただけかな」という推測は、反証不能人格攻撃に過ぎない。

まぐれかどうかは問題ではない。問題は、アルゴリズムが視聴履歴入力としてレコメンド分布更新するという事実が成立しているかどうかだ。

この点については、YouTube自身の公開資料実装思想、そして実際の挙動がすでに答えを出している。反論側は代替モデルを一切提示していない。ただ「そんなはずはない」というお気持ち表明をしているだけだ。

貴様反論は「自分の見ている世界が全てだ」という幼稚な前提に立脚している。

自分タイムラインに現れないもの存在しない、自分理解できない価値価値ではない、という態度だ。

それは思考ではなく、自己放尿だ。視界を自分で狭め、その中でぬくぬくしながら他人嘲笑しているに過ぎない。

アルゴリズム残酷だが公平だ。高度なものを見ない者には、高度なもの永遠に提示されない。その現実直視できないなら、議論に参加する資格はない。

2025-12-17

飯田一史の批判三宅香帆の反論は、それぞれどこが間違っているのか

表題のとおりです。

事の発端は、12月12日飯田一史さんは記事「『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』はどこが間違っているのか(抄)」 https://ichiiida.theletter.jp/posts/0aa160a0-d70f-11f0-aa07-8582de6095b5 (以下、飯田批判)において、三宅香帆さんの著作『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(集英社新書https://shinsho.shueisha.co.jp/kikan/1212-b/ (以下、三宅本)の誤りを指摘したことでした。

これに対し、翌日の13日に三宅香帆さんは記事「「『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』はどこが間違っているのか」はどこが間違っているのか」https://note.com/nyake/n/na2d317b47bc5 (以下、三宅反論)を投稿し、飯田批判に対する反論を試みました。

このエントリでは、両者の主張に対する見通しを良くすることを目的に、飯田批判三宅反論論点を整理したのち、それぞれの問題点を指摘していきます

まとめたのは人文系の話には疎い人間のですので、誤りも多いかと思いますので、まあ話半分で読んでもらえればと思います

なお、飯田批判は、飯田一史さんの新著『この時代に本を売るにはどうすればいいのか』(星海社新書https://ji-sedai.jp/book/publication/konojidaini.html から抜粋であることを念の為補足しておきます

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📰 0. 三行要約(問題点

飯田批判は、特に三宅本は(出版流通における)「書籍」と「雑誌」を分けていないかダメだ」という主張に相当問題があると思う。

三宅反論は、そもそも反論」できてない。言い換えると、飯田論理展開をあまり追えておらず、誤読を基に論理を展開するため実のある話があまりない。

三宅反論は、三宅本の議論の前提に基づく問題を、あたか飯田データ処理の問題すり替えていて、個人的にあまり心象が良くない。

以下、飯田批判三宅反論についてより詳細に検討していきます

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📚 1. 飯田批判論点

飯田批判の主張とその根拠、主張を正当化する論証について整理を行います

理屈が明晰な箇所もある一方、煙に巻くような箇所もあって、議論を追うのはすこし大変だったような印象です。

まあ私の読解力の問題のような気もします。

読みやすくするため、飯田批判の主張のうち、

三宅本への指摘に該当するものには「◎」

・直接的には指摘ではないものには「◯」

という記号を付けておきます

また、論拠を準備していない主張には大括弧[]で囲っておきます

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(「・働き始める前から読書量は減り、働き始めた後も日本人読書量は減らない」の節)

◎主張1-1. 三宅本は、労働により読書量が減少することを前提にする。

しかし、これは誤りであり, 読書量は労働が始まってから変化してはいない。

<主張1-1の論証>

根拠1-1-1. データ書籍の月間平均読書冊数

根拠1-1-2. データ:1ヶ月に読む本の冊数の割合

根拠1-1-1および1-1-2は, 読書量の低下は, 労働が始まる前の現象で、それ以降では起きていないということを示す。

これは、三宅本の前提を棄却するデータであり、ゆえに主張1-1が示される。

<論証おわり>

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◯主張1-2. 書籍における「買う」(=出版売上)と「読む」(=読書量)の間の関係は明白ではない。

<主張1-2の論証>

根拠1-2-1. 「積ん読」という言葉存在

根拠1-2-2. データ: 紙の書籍推定販売金額と月の平均読書冊数

根拠1-2-3. アメリカイギリスでの調査.

根拠1-2-1, 1-2-2, 1-2-3のいずれも、書籍に関しては、「買う」の増減から「読む」の増減を帰結することやその逆を主張することは難しいことを表している。

<論証おわり>

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(「・「雑誌」と「書籍」も別の話」の節)

◯主張2-1. 雑誌における「買う」(=出版売上)と「読む」(=読書量)の間の関係は明白である

<主張2-1の論証>

根拠2-1-1. データ: 紙の雑誌推定販売金額と月の平均読書冊数

根拠2-1-1は、雑誌に関しては、「買う」と「読む」の間に相関があることを示している。

<論証おわり>

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◎主張2-2. 三宅本では、書籍雑誌区別ができていない。

<主張2-2の論証>

根拠2-2-1. 三宅本のp.38の記述

根拠2-2-1は、三宅本において雑誌書籍区別できていないことを示している。

<論証おわり>

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[◎仮設2-3. 三宅本は、「読書離れ」を論ずる際には雑誌書籍区別するべきである。]

(これは明示的に飯田批判にあらわれていないが、以下の主張2-4の論証において機能する暗黙の前提である、と私は思う。)

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◎主張2-4 三宅本は、『読書世論調査』における「読書時間」の減少を根拠に「読書離れ」の存在を主張する。しかし、これは不適切である

<主張2-4の論証>

根拠2-4-1. 「読書時間」は「書籍+雑誌との接触時間である。主張2-1から雑誌接触時間は減少傾向であると推察されるので、

読書時間」の減少は(書籍ではなく)雑誌との接触時間の減少と解釈するのが自然である

根拠2-4-2. そもそも読書時間」もそれほど減っていない。

根拠2-4-3. 『読書世論調査』の総括では, 読書率はあまり変化がない.

根拠2-4-1, 2-4-3から、 「読書時間」の減少は書籍との接触時間の減少を導くのは難しい。

[仮設2-3]から, 「読書離れ」は特に書籍読書時間減少を意味すると解釈するべきであり、

三宅本のやり方では書籍読書時間減少を導くことはできない。

また, 根拠2-4-2の存在は、特に読書時間の減少が生じていないことを示唆する。

<論証おわり>

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(「・労働時間は減り、自己啓発時間も減っている」の節)

◎主張3-1. 三宅本は、日本人現在長時間労働であることを前提にしている。

しかし、労働時間を「全産業平均」の観点で見たとき、この前提は不適当である

<主張3-1の論証>

根拠3-1-1. 厚生労働省「わが国の過去50年間(1973年2023年)の労働時間の推移についての考察

<論証おわり>

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◎主張3-2. 三宅本は、次の(i), (ii), (iii), (iv)を主張する:

(i) 1990年代から自己啓発市場が拡大した.

(ii) 自己啓発労働による自己実現)のための読書(=「情報摂取型、「ノイズを除去する」「〈社会〉を遠ざける」)時間が増加した.

(iii)代わりに、人文書小説などのための読書(=「アンコントローラブル」な「ノイズ」や「他者文脈」を含む)時間が減少した

(iv) 読書離れと自己啓発書の伸びはまるで反比例グラフを描く

しかし、(ii), (iii), (iv)は誤りである

<主張3-2の論証>

根拠3-2-1. 黒田山本論文

根拠3-2-2. グラフを書くだけの定量的根拠はない(提示されていない)

根拠3-2-1から労働者の 「自己研鑽」 = 「学習自己啓発・訓練(学業以外)」の時間は減少している。

これは(ii)を否定する。

主張1-1および(ii)より(iii)は成り立たない。((iii)が成り立つためには(ii)が成り立つ必要があるため。)

根拠3-2-2は、(iv)を否定する。(少なくとも、(iv)の主張を肯定するだけの理由はない。)

<論証おわり>

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◎主張3-3. 三宅本では、自己啓発市場の拡大から自己啓発書のほうが文芸よりも市場が大きいかのように解釈する。

言い換えれば、次の(1),(2)を主張する:

(1)自己啓発市場は拡大している

(2)(1)が正しいのであれば、「自己啓発書のほうが文芸よりも市場が大きい」は正しい。

しかし、これは誤りである

<主張3-3の論証>

根拠3-3-1 牧野論文.

根拠3-3-2. データ: 日本出版市場推定発行金額

根拠3-3-1は、「年間ベストセラーにおける自己啓発書の冊数割合は増大している」ことを主張する。

これは(1)の根拠としている。これ自体問題はない。

しかし, 根拠3-3-2は 自己啓発本の市場小説市場よりはるかに小さいということを意味する。

これは、(1)が正しいのに「自己啓発書のほうが~」が間違っているので、(2)は正しくない。

以上から、これは誤りである

<論証おわり>

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[◎主張3-4, 三宅本は, 上の(1), (2)が成立するとしていたことが原因で、(i)から(ii)および(iii)を導いた]

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🧠 2. 飯田批判の怪しい箇所

以下で、飯田批判を読んでいたときに、個人的に気になった点を列挙します。

飯田主張2-4について:「書籍」と「雑誌」の区別本質的か?

主張2-4の背後には「書籍雑誌分別するべきである」という暗黙の前提(仮設2-3)があるように思う。

三宅本の「読書から雑誌」を除外することは本当に妥当かを考えたい。

・「書籍」と「雑誌」の違いを整理しておく。

といっても自分出版業界人間ではないので正しい理解かは怪しいのだが、調べた範囲のことをまとめておく。

(間違ったこと言ってたらごめんなさい)

書籍」「雑誌」の辞書的な定義はたとえば布川ほか編『出版事典』(出版ニュース社)のp.217およびp.167にある。

ざっくりまとめると「書籍」と「雑誌」の違いは一定編集方針の下で定期的に刊行されているかどうかという部分のようである

これは、1985年ユネスコ出版統計上の「図書」と「新聞及び定期刊行物」の違いともおおむね合致しているように見える。

("図書新聞及び定期刊行物出版及び配布についての統計国際的標準化に関する改正勧告". 文部科学省. https://www.mext.go.jp/unesco/009/1387396.htm

より実際的な取り扱いは, "既存雑誌が「創刊」とは、これ如何に". 出版科学研究所オンライン. https://shuppankagaku.com/column/20070111/

によれば、

そもそも本というのは「書籍」と「雑誌」に大別されますが、出版業界では「雑誌コード」が付されたものを厳密に「雑誌」と区分しているのです。

一見雑誌のように見える本も、このコードがなければ「雑誌」ではなく「書籍」ということになります

ということらしい。(しかし、これはあくまコラムの中の記述でありカチッとした話ではないことに注意)

書籍」と「雑誌」の実際上の取り扱いの違いは、「雑誌コード」の有無、つまり流通上の取り扱いの違いから生まれてくるという。

日本では、「書籍」はISBNコードを持ち、「雑誌」はISSNコード雑誌コードを持っている。

その中間にあたるムック本では、ISBNコードだけでなく雑誌コードも付随しているようなものは「雑誌」の対象とするようである

("「雑誌」の定義出版統計". 出版科学研究所オンライン. https://shuppankagaku.com/column/20060911/

ともかく、「書籍」と「雑誌」を分けるのは明らかに内容やジャンルではない。定期的に刊行するかどうかであったり、それを根拠雑誌コードが付いているかどうかだったりである

コミック誌を除外したとしても、『anan』のようなファッション誌もあれば『文學界』や『オール読物』のような文芸誌も、また『Nature』や『ナショナルジオグラフィック』のような理工系雑誌もまとめて「雑誌」にカテゴライズされる。

さらに言えばサイエンス社の『SGCライブラリシリーズ書物は, それぞれ内容的に全く独立しており実質的単行本ではあるのだが、『SGCライブラリ151』までは『数理科学』の臨時別冊という扱いだったのでそのカテゴリは「雑誌」になっている。(なお『SGCライブラリ152』以降は「書籍である

一方、書肆侃侃房の『文学ムック たべるのがおそい』は確かにムック本ではあるが、雑誌コードを取得しておらず取り扱いは「書籍」であった。

このように「書籍」と「雑誌」の区分そもそも出版流通上の区分であり内容面での区分ではないばかりか、その区分出版物の実情と必ずしも合致しているわけでもない。

この区分はかなり表面的、形式的ものであると見るべきだろう。

・以上を踏まえて、飯田批判、つまり書籍」や「雑誌」という出版流通における区分の不徹底でもって三宅本を批判したこと妥当性ついて吟味してみよう。

飯田批判とはなんだったのか。

それは、「「書籍+雑誌との接触時間」の減少を根拠に「読書離れ」の存在を主張するのは不適切である」(主張2-4)という批判である

そして、なぜ飯田が「不適切である」と主張するかといえば、「書籍」と「雑誌」は分けて考えるべき(仮設2-3)だからと考えているからであり、

特に三宅本の「読書離れ」の定義としては「書籍読書量(≒読書時間)の低下」を採用するほうがより妥当である、という飯田が信念を持っているかである

ここで注意したいのは、主張1-2, 2-1は「「書籍+雑誌との接触時間」の減少を根拠に「読書離れ」の存在を主張するのは不適切である」(主張2-4)の根拠ではない。

飯田はその直前に「「書籍読書量と出版売上」の相関は弱い(主張1-2)一方で、「雑誌読書冊数と出版売上」が正の相関関係にある(主張2-1)という事実を指摘してはいものの、飯田はこれらを「読書量を測定するにあたって「書籍」と「雑誌」を区別するべきである」(仮設2-3)の根拠にはしていない。主張2-4は仮設2-3からは出てくるものの、主張1-2, 2-1には立脚していない。三宅反論で大いに誤読したのは、主張1-2, 2-1があたかも主張2-4の根拠になっているかのような書きぶり、配置の魔術ゆえであろう。

ともかく、飯田批判妥当性を吟味する際はこの信念「三宅本の「読書離れ」の定義としては「書籍読書量(≒読書時間)の低下」を採用すべきである」という部分に注目すればよい。

三宅本で対象としている「読書」は、大方「人文書小説などのような(「ノイズ」や「他者文脈」を含む)書物を読む行為」と解釈するのが妥当だろう。

したがって「読書離れ」は「人文書小説などの書物を読む頻度が減ったり、そのために費やす時間が減少している」ということだろう。たとえば理工書や技術書ファッション誌、ゴシップ誌などを読むことは端から三宅本の「読書」に含まれていないと見るべきである

転じて言えば、たとえば「雑誌」であっても文芸誌を読む場合は「読書」に含まれるべきだろうし、「書籍」であっても理工書を読むことは「読書」に含まれない(と三宅本では考えている)かもしれない。

要するに、「読書」といったときに、読まれるべき書物を分類できていないと批判するならば、むしろそのジャンル文芸歴史書哲学書・理工書・サブカルゴシップファッションなど)の違いに着目するべきなのであり、出版流通における「書籍」「雑誌」という区分は、少なくとも直接的には重要でないだろう。もしこれが重要なのであれば、それは驚くべきことなので、別でこれを論証すべきである

もちろん、おそらく「雑誌」の出版売上の中でファッションゴシップ支配的で文芸誌や理工系雑誌は影が薄いだろうから、その意味で「書籍」「雑誌」の区分で売上を観測することがジャンルの傾向をよく記述するとは言えるかもしれない。言い換えれば、「ジャンルによる読書量の違い」を捉えるにあたって「出版流通におけるPermalink | 記事への反応(0) | 20:21

2025-12-05

キリンさんは好きだが、ぞうさんもっと好き。そんなジレンマについて

キリンさんは好きだが、ぞうさんもっと好き、というこの世界最小規模の価値対立は、一般に「草食動物間選好矛盾」と呼ばれる。呼ばれないが、呼ばれたことにして話を進めたい。なぜなら、この矛盾直視しない限り、我々は首が長いのか鼻が長いのか、自分がどちら側に立脚して生きているのかすら判断できないかである

まずキリンさんだが、あの異常に長い首は、最初の一本の草を誰が食べるかという太古のメタゲーム副作用であると言われる。しか専門家によれば、その首が長すぎて脳への血流を保つために特殊ポンプ構造を持つことになり、そのポンプを維持するためにさらに高い血圧必要になり、その血圧が高すぎて葉っぱを食べているだけでめまいが起きるという噂も存在する。もちろん噂の大半は噂であるため、噂が噂であること自体が噂となる。これがキリン循環論法だ。

一方、ぞうさんもっと好きである。好きすぎて、なぜ好きなのか誰も説明できないほど好きである。鼻が長いのは有名だが、長い鼻を持つ者にしか見えない「象界(ぞうかい)」というパラレル知覚領域があるという研究2021年に出ていないが、出たと仮定すると大変ロマンがある。象界の住民たちは常に重低音で会話しており、言語は鼻を通じて振動で伝わるため、インターネット回線無意味である。この時点でキリンさんは敗北している。なぜならキリンさんにはインターネット必要からだ。首が長いとWi-Fiの届かない高さに頭が行ってしまうため、常に「二段ルーター問題」を抱えている。

だが、問題は単純な比較では終わらない。キリンさんを好きでありながら、ぞうさんの圧倒的存在感に心が揺れてしまうという心理的ねじれは、個体内で二強政党制が形成されるのと同じである。これは選好の二大政党制と呼ばれ、キリン党とぞう党が内面議席を争う政治ドラマが日々展開される。多くの場合キリン党は「高さから世界を見る」という高尚な政策を掲げるが、ぞう党は「まあ鼻でなんとかなる」という実務的な政策提示し、大衆(つまりあなた)の支持を集める。一方、ゾウ党の公約の半分は鼻で適当に書いたものなので信用できないが、なぜか勝ってしまう。

さらに深刻なのはキリンさんとぞうさんを同時に愛することが倫理的可能なのかという問題である。両者は形態学的にあまりにも異なるため、「一貫した好き」という概念が成立しない。たとえばキリンさんを撫でようと思えば高所作業車必要になるが、ぞうさんを撫でようとすると逆に地面側で作業しなければならない。この高度差は心の高度差として内面化され、精神ジェットコースターを生む。高揚した直後に大地へ叩きつけられるような感情変動は、もはや恋愛に近い。

最後に、結論を出そうとしても出ない。なぜならこの矛盾には解決概念存在しないからだ。「キリンさんは好きだが、ぞうさんもっと好き」という言明自体が、論理的証明拒否し、観測した時点で形を変える量子的ゆらぎのようなものからである観測するとぞうさんが好きになり、観測しないとキリンさんが好きで、観測をやめた瞬間に両方どうでもよくなる。

まりこれは、好悪の問題ではなく、観測者の姿勢問題である

そして、あなたがこの記事を読み終わった今、どちらが好きなのかをあえて問うことはしない。問うた瞬間にすべてが崩壊するからである

2025-11-26

朝日新聞連載Re:Ronダイバーシティ共生記事 「でたらめ」は「噓」より強大な敵 その違いと深刻な問題害悪とは 哲学者三木那由他寄稿2025年6月17日 16時00分

さて、フランクファートの言う嘘とでたらめの違いはおおよそ次のようにまとめられる。

 嘘は何が真理であるかを気にしたうえで相手を真理から遠ざけるような言明である

 でたらめは、そもそも何が真理であるかを気にさえせずになされる言明である

このとき、この子どもは自分が花瓶を割ったという事実理解したうえで、親がそれに気づかないよう考慮してこの発言をしている。つまり、この子どもにとっては自分が実際に花瓶を割ったかどうかはどうでもいい問題ではなく、自分が花瓶を割ったのが事実だとわかっているからこそこうした発言をしている。その意味では、この子どもは真理、すなわち何が事実で何がそうでないかということには、あくまで関心を持っている。これはフランクファートによると、嘘に該当する。

私が子どものころには、親が子どもに向かって「あなた橋の下で拾われてきたんだよ」と言うことがしばしばあった。なぜ「橋の下」なのか、なぜそのような発言一種の習慣として広まっていたのかはよくわからないが、私(1985年まれ)と同世代前後のひとであればどこかで聞いたことがあるのではないだろうか。これはフランクファートの議論に照らすとでたらめの一種だろう。言い換えると、このとき子どもが実際には橋の下で拾われたわけではないという事実は、そもそも関心を払われてさえいない。フランクファートがでたらめと呼ぶのはこのたぐいの発言である

嘘をつくひとは、「私たちは真理を目指すべきだ」という目的意識を正直なひとと共有したうえで、その目的を阻害するような発言をしていると言える。これは真理からひとを遠ざけるという害をもたらすが、しかしそれはあくまで「私たちは真理を目指すべきだ」、言い換えると「何が事実であり、何が事実でないかをできるだけ見極めようとすべきだ」という前提を維持したうえでのことだ。

 しかし、でたらめはそもそも真理への関心を持たずになされるのであった。つまり、でたらめを言うひとは何が事実であり、何が事実でないかを見極めようとする必要があるという前提をそもそも共有していないのである。そのような発言が横行するとどうなるだろう?

もそも事実を気にしていないでたらめがさも普通発言のように広まってしまうと、そうはいかないのだ。こうなると、でたらめの存在によるノイズが大きすぎて、もはや個々の言明を取り上げて「これは正しい」「これは間違っている」と選り分けることなんてできないと感じるひとも出てくるだろう。

 フランクファートは、でたらめは「真理に対する嘘よりも強大な敵」と呼んでいる。

環境気候について考えるうえで科学的に確かめられた事実無視すべきではないし、医療について専門的な知見の積み重ねを脇に置くべきではないし、統計をろくに取ることな社会集団について意思決定をすべきではないはずだ。しかし、でたらめはそうした真理に立脚する意志をくじき、そのような本来捨てられるべきでない前提を無効化してしまう。

また、別の哲学者ジェニファー・ソール(犬笛の研究で知られる)は、2024年の著書『犬笛とイチジクの葉』(Dogwhistles and Figleaves)で、でたらめが持つ社会的機能にも注目している。

別の言い方をすると、私はでたらめを言い続けることで、あなたを振り回し、あなたに及ぼす自分の力を誇示することができる。それゆえ、でたらめを1回言うくらいでは大して害はないかもしれないが、でたらめを言い続け、それを撤回しないこと、そうした振る舞いを相手に許容せざるを得なくすることは、相手支配するひとつ形式であると私は考えている。

 でたらめの厄介なところは、それが一見するとあまり荒唐無稽で、面白おかしものに見えかねないところだろう。対等なひと同士のあいだでたまに個人的になされるくらいだったら、実際でたらめは単に面白おかしチャーミングな発言しかいかもしれない。しかしそれが広く不特定多数に広まったり社会的な力のある者によって発せられたりするとき、でたらめは面白くもおかしくもない、シリアス問題となる。

 放置すれば害をもたらし、でたらめだと指摘してもソールの言うように分断を招くだけだとすると、これは大きなジレンマとなる。

https://digital.asahi.com/articles/AST6D20T1T6DULLI005M.html

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