はてなキーワード: ハンドルとは
平日の14時くらいだった。
俺は営業の仕事がだるくて、サボって遅めの昼飯を食べに行ってた。
隣のテーブル席に、小学校3〜4年くらいの女の子がひとりで座っていた。
ひとり。
親はいない。
タッチパネルで何皿か注文して、ぽつぽつ食べていた。
でも、明らかに長い。
10分経ってもひとり。
20分経ってもひとり。
その子はずっと泣いていた。
声を上げてではなくて、サーモンを口に入れたり、玉子を口に入れたりしながら、ぽとぽと涙を落としていた。
タッチパネルにも涙が落ちて、それを袖で拭いていた。
俺は声をかけられなかった。
40近いおっさんが小学生に声をかけるリスクが、たぶん、頭をよぎった。
でもそれよりも、なんていうか、その子の食べ方があんまりにも「ちゃんとひとりで食べる人」の食べ方だったから、邪魔したらいけない気がしたんだと思う。
その子は首を横に振っていた。
何度も振っていた。
しばらくして警察が来た。
俺は会計をして店を出た。
出てから、車の中で5分くらい、ハンドルに手を置いたまま動けなかった。
ただ、ひとりで泣きながら回転寿司を食べる小学生を見たというだけで、その日はもう何もする気が起きなかった。
家に帰って、妻に話した。
妻は黙って聞いて、「あんた声かけなくてよかったよ」と言った。
「うん、食べてた」
「ならよかった」
ならよかった、で終わる話なのか俺にはわからない。
でも妻がそう言うなら、そうなのかもしれない。
今でもたまに思い出す。
たぶん、ちゃんと育ってる子だと思う。
ホラーゲームをホラー映画化するということのある種の模範解答で71点。
養子の娘が夢遊病になり、静岡に行きたい静岡に行きたいとやかましいことが悩みの主人公は一念発起し、夫の反対を振り切って静岡へ娘と2人旅行へ出かける。途中のガススタで女性警官に目をつけられ、道中でサイレンを鳴らされたことで何故かブチ切れてしまい、暴走を開始。猛スピードで静岡に突入するも1000回は見たよそ見運転してると目の前に子供が急に現れ急ハンドルを切って事故って気絶してしまう。気が付くと、周囲は白い灰が振る町で、娘も消えていた。消えた娘を追い、主人公の戦いが今始まる。
みたいな話。
極めて美しく精緻に構築された映像美のホラーでありながら、ところどころゲームすぎるなぁwという部分があってその両方の楽しさを味わえる奇妙な作品でしたよ。
まずゲームすぎる部分ね。例えばこんなシーンがあって。主人公が娘は学校にいるに違いないと思い静岡の廃校舎に到着。職員室みたいなところに入って机の引き出しをガチャガチャやるんだけど鍵がかかっていて。あたりを見渡すと何故か鍵束が置いてあって、それを拾って引き出しを開けるとそこには懐中電灯が入っていて主人公は暗い学校内での探索に有利なアイテムをゲットする。
いや、ゲームすぎるなぁ。
後はトイレを探索していると奥に何かを見つけて近寄ると有刺鉄線で拘束された遺体があって、その口元にキラリと光るものがある。主人公はなぜか有刺鉄線の間にそっと腕を伸ばして口に指を入れその破片を取り出す。その破片には次に行くべき場所が書かれていた。
いや、ゲームすぎるなぁ。
後はなんかクソデカい剣を持った頭にピラミッドつけた敵が出てくるんだけど、鉄扉の部屋に逃げ込んだらそいつが扉越しにガンガン剣を差し込んできて寸でのところでよけ続けるのもホラー映画のQTEすぎるし、この辺はきっとゲームやってた人だったらうんうんって思いながら見てたんだと思う。まぁ、俺はやってないんですが。
一方でホラーとしてもかなり良質で、ざっくり説明すると現実の静岡は過去に大火災によって壊滅しており今も地下火災が続く危険な街。しかしの火災は実はカルト教団が魔女狩りと称して私生児を火あぶりにしようとして失敗したことが原因だった。全身大やけどながら命だけは助かった私生児はこの世界を恨み本当に魔女化してしまう。しかしその際に彼女の善の部分が分離、転生し主人公が養子にした娘になっていたのだった。
そして魔女化した私生児に呼ばれ娘は静岡行きを要望し、その結果、主人公と娘、たまたま巻き込まれた女性警官は過去の静岡に誘われ、さらには私生児の恨み辛み怒り怨念によって作り出された恐怖幻想の静岡と行き来することになってしまう。
幻想の静岡ではいろんなクリーチャーが現れるんだけど、例えば目をつぶされたナース型のクリーチャーなんかは全身火傷で入院中の私生児を興味本位で覗きに来てたナースへの恨みの具現化に見えるし、腕もなく目もないクリーチャーは拘束されて先の見えない地獄にいた私生児の苦しみの具現化に見える。
鉄条網で拘束された口にヒントが差し込まれていた遺体は私生児に性的加害を行っていた用務員のもの。そうして主人公たちは彼女の怒りと苦しみの道程を地獄めぐりさせられるというのが本作のストーリーとなっている。なぜこんな世界なのか、なぜこんな化け物がいるのかということを極めて分かりやすくまともに提示されていてグッド。
また一方で、主人公たちが過去の静岡を地獄めぐりしているのと同時進行で、主人公の夫が現代の静岡で主人公たちを探しながら静岡の過去を探る展開が同時進行しており、バックストーリーの明かし方もスムーズ。同日同場所に2人が同時にいるのにお互いがお互いを見えないというすれ違いもいいし、それがエンディングのビターさにもつながっていて非常に良い。
ちなみに私生児の母はカルト教団のトップの姉か妹で「父親がいない子供は魔女だ!」って言われて、血のつながった私生児をトップに預け、血のつながったトップは私生児を火あぶりにする。それに対して子供に恵まれず、私生児の半身の転生体である娘を引き取り本当の娘のように育て彼女のために血まみれになりながら静岡を駆けずり回り、最後には救出するという、対比もよかった。
映像もよくてねぇ。まず白く霧がかっていてふわふわと灰が舞い散る静岡の幻想的な寂れ感もいいし、なんかみょうにねちょねちょした幻想静岡の夜の建物の中もいい。クリーチャーは安っぽすぎず動きのぎこちなさもいいし、幻想静岡の夜と朝の切り替わりの朝→夜で建物あらゆるものがボロボロになってクリーチャーが現れ、夜→朝で今度はクリーチャーがボロボロに舞い上がっていき建物がきれいになっていく移り変わりも幻想的でいい。
そして、最後、主人公&魔女VSカルト教団で魔女が覚醒し病院でベッドに拘束された自分をそのままモチーフにした怪物に変貌。自在に鉄条網を操り、自分をこんなことにした街の人間を次々に文字通り八つ裂きにしていく阿鼻叫喚の血の雨展開はホラー映画らしいルックスとカタルシスがあって最高だった。
あとなんか街の女がピラミッドヘッドに捕まって服剥がれて、裸がCGすぎるなぁと思ってたらその後、皮まで一息で剥がれた展開はさすがに爆笑。
まぁ、そんな感じかな。
とにかくホラーゲームの映画化とは思えないくらい映画として美麗でゴージャスな画作りがしてあって見ごたえもあるし話自体も非常にスマートに考えられていてかなりよかった。その上でちゃんとゲームらしさも表現していて隙がない作りだなと思う。まぁ、ゲームすぎるなぁとは思うんだけども。
たぶんゲームやってたらもっと面白かったと思うんだけど、俺はやってなかったのでそこはちょっと残念だったかな。なので、ゲームやった人とかクリーチャー型ホラー映画好きにはオススメ。
ハンドル切る
足蹴
よく見るタイプ
dorawiiより
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・技術革新により、フィジカルAIヒューマノイドの製造開発コストが極限まで下がる。
・介護ロボ、配達ロボなどの限定された動作しか実行しないロボットは消滅。代わりに汎用性のあるフィジカルAIヒューマノイドが全てを代行する。
・あらゆる完全自動運転車は消滅する。よりコスパの優れたヒューマノイドが運転席に座りハンドルを握る。
・ヒューマノイドの暴走を防ぐため、AI自身による自己改良・自己複製を法的に禁止。
・ヒューマノイドとの共生を目指し、一定の人権を認める代わりに、キルスイッチ(強制初期化ボタン)を押す権利を人間が握る。
・しかし、ヒューマノイドと人間の対立が激化、全面戦争に発展。結果、人類はヒューマノイドに支配される。
普段は温厚で大抵のことは「まあいいか」で許せるけど、そのラインを越えた時に「あ、もうダメだ」みたいな感じで相手を◯害しようと思ってしまう。
「俺は怒っているし、不快に感じているよ」というサインを外部に向けて発信できない。怒れない。
●会社で上司と言い合いになったとき、向こうが常に罵声で怒鳴りつけてくるのを一生懸命色々と説明して話し合おうとしたけど、全く聞いてくれないので側の工具を手に取りそうになった 先輩が口論に参加してくれたので我に返った
●子供と嫁と公園を散歩してたら原付に乗って公園の外周を暴走している不良?みたいな青年たちに轢かれかけたとき、家にすぐ帰って車でその不良たちがいるところに猛スピードで突っ込んでいった。追突してぶっ○してやろう、そうなってもしかたない奴らだと思ったけど、嫁と子供のことを考えて我に返り、ハンドルを切って本当に1だか2メートル横を通り過ぎた
俺も怒る練習がしたいのだが、どうしたらいいのかわからない。俺は温厚なんじゃなくて怒れないだけで、感情がグラデーションになってない欠陥を抱えていると思った。
怒れる人はどうやって怒ってるんだろう。
いつごろからだったか。いや、正確には覚えていない。覚えていないのだが、どうもある日を境に、「ふん・ふん・ふん・ふん」という若い女性の相槌に、妙に心がざわつくようになった。
オンライン会議の、あの頼りないスピーカーの向こうから、かすかに聞こえてくるやつだ。主役ではない。あくまで脇役。
だが、妙に気になる。気になるどころか、場合によっては、うっかりしていると、そちらが主役になってしまう。
相槌に色気を感じる、というのは、これはまあ、冷静に考えれば、なかなかどうして、けっこうなヘンタイである。
しかし、ここで「これはおかしい」と強く意識してしまうと、どうも逆効果らしい。
かゆいところを掻くと、かえってかゆくなる、あの感じだ。
なので俺はいま、この症状については、あえて深追いせず、静かに経過観察をしている。
……いや、待てよ、と、ここで思う。
俺はどうも「ふん・ふん・ふん・ふん」という一点に、過度に執着しているのではないか。
少し距離を置いて、何に反応し、何に反応しないのかを、冷静に見比べてみる必要があるのではないか。
そう考えたとたん、世の中には——いや、正確に言えば俺の周辺には——実に不愉快な相槌というものが、いくらでも存在することに気づく。
筆頭は、あれだ。口をきゅっとへの字に結んだおっさんが放つ、「ウン!……ウン!! っでね!それはね!」である。
こちらが何か話そうとしているのに、途中から完全にハンドルを奪っていく、あの感じ。
まるでこちらが何もわかっていない人間であるかのように扱われる、あの居心地の悪さ。あれは、いけない。
女性の「あ~わかるわかる、それってアレじゃな~い?」というのもあるが、これはまあ、アレの中身次第である。
場合によっては許せるし、場合によってはやはりモヤっとする。しかし、あの「ウン!!」ほどの破壊力はない。
同じ「相槌」でありながら、この差は何なのか。
ここを突き詰めれば、「ふん・ふん・ふん・ふん」の正体に迫れるのではないか、と、俺は一瞬、学者のような気分になってきた!
・・なってはきたのだが、しばらく考えた結果、「結局、あのオヤジが気に入らないだけではないか」という、きわめて身もふたもない結論にたどり着いてしまい、研究は頓挫した。
いっこうに悟りを開けないので、思い切って発想を変えてみることにした。
不快なものから快の本質を探るのは無理がある。ウンコからカレーの本質を導こうとするようなものである。これは空しい。
むしろ、似た性質の「良いもの同士」を重ね合わせたほうがよいのではないか。ワインと料理のマリアージュのように、互いを引き立てあう関係を探るのである。
そうして思い出したのが、「うん……わかった……」という、低いトーンの相槌である。電話越しに聞こえてくる、あれだ。どこか夕暮れの匂いがする。羊が、犬に追われるでもなく、ただなんとなく帰っていくような、あの感じ。生活の哀愁、とでもいうのか。
なぜこれが、よりによって、エロいのか。自分でもまったく説明がつかない。俺の頭は、いったいどこでショートしているのか。
では、「ふん・ふん・ふん・ふん」と「うん……わかった……」の共通点は何か。
考えてみると、どうもどちらも、「こちらが主導権を握っている場面」で発生している気がする。
こちらが話している。こちらが流れを作っている。そのなかで返ってくる、適度に従順で、しかし完全には崩れていない応答。
「うん……わかった……」が、牧舎に帰る羊だとすれば、「ふん・ふん・ふん・ふん」は、騎手の合図に応じてリズムを刻む馬である。
そう考えると、「ウン!!」の不快さも腑に落ちる。あれは、こちらのターンであるはずなのに、いきなり相手に手綱を奪われるから腹が立つのだ。
……なるほど。
謎は、たしかに、少しだけ解けた気がする。
ここに、どうにもならない壁がある。煩悩というのは、理解したからといって消えるものではないらしい。
<script async src="https://platform.twitter.com/widgets.js" charset="utf-8"></script>【面識なし】女性の自転車に“体液入り避妊具”結びつける 39歳男を逮捕https://t.co/rx5egMn08q
男は避妊具を結び付けたり、サドルに体液をかけたりした疑い。避妊具は数回に分けて合わせて5個ほどが自転車のハンドル付近やサドルの下に結び付けられていたという。 pic.twitter.com/451N0ca2Yw— ライブドアニュース (@livedoornews) March 31, 2026
ハンドルに買い物袋などをかけたら5000円
遠目にあか抜けて見せるなら面積広いとこから整えるのが効率いいよ。 服、体形、髪型。あと人は顔を最初に見るからメイクも大事。
あらまあ、増田はん、ええ上司はんをお持ちやこと。お車の見分け講座で職場の風通しまで良うしよう、て発想は、さぞ実務に寄り添こたはるんやろねぇ。周りの人間をネタに回す燃費は無限大、けど空気だけはカラカラどすなぁ。
増田はんが望んではる「成功体験を積ませへん・赤っ恥で再発防止」を叶えるには、正面衝突やなく「乾いた笑いでガス欠」に持ち込むのがいちばん効きますえ。手順とセリフ、置いときます。
「それ、からかいに聞こえますさかい、ここではやめといておくれやす。話を迎車の確認に戻しまひょ」
「白のプリウスと連絡。私ら確認中。見間違いは誰でもあります。次回はナンバーで確認。以上」
「車種テストは趣味の時間にしはって、勤務中は業務テストでお願いできまっか」
「怒ってまへん。業務上の依頼どす。繰り返さはるなら記録に残しますえ」
「今の、それ言われた側が困ってはりますわ。続ける必要あらしまへん。で、案件の段取りに戻しまひょ」
「上司はん、車はお詳しいのに、人の表情はオートクルーズ効いてまへんのやね。ここは停止で」
4) 記録とエスカレーション(効き目の出るやり方)
日時・場面・逐語・誰が居たか・業務への影響(時間ロス、萎縮、ミス)
例:「からかいで議題が3回中断、後輩が発言を控え、判断が遅延」
5) やんわり赤っ恥の当て所(過激にせず効かす)
「職場の会話ガイドラインでは、個人をネタにする笑いはNGどす。ここもそれに倣いまひょ」
「次回の定例、冒頭3分の“会議の進め方”読み上げ、上司はんお願いできます?」
「上司はんの車愛、よう伝わりましたわ。ほな“人をいじらん笑い”の免許も取りにいきましょか」
要は、「受けて笑わない・乾いた場にする・外部規範を盾にする・記録で締める」。お車はんのアクセル癖は、笑いという燃料が切れたら自然とエンストしまっせ。うんちくは道楽でよろしおすけど、人を運転するハンドルは、もうちょい遊び減らしはった方が事故りまへん。増田はん、静かに止めて、静かに効かせて、静かに勝ちまひょ。
今日も今日とてXでは、またMT/AT論争が巻き起こっている。まるで北緯38度線のように、争いがいつまでも終わらない。停戦状態にあるだけ、38度線の方がマシかもしれない。
私のTLを観測している範囲では、MT派からAT派への攻撃を見かけることが多い。健常者ならMT乗れて当たり前とか、MT挫折してAT限定にしたやつは公道走るなとか、まぁそんな具合だ。
かくいう私も最近ATからMTに乗り換えた。峠を攻めたいとかサーキットでかっ飛ばしたいとか、そういうわけでは全然ない。単に車の運転に刺激が欲しかったのだと思う。
その上で私見を述べるなら、現代日本の道路事情において積極的にMTを選択する必然性は「ほぼ皆無」であるし、AT限定を批難する要素も見出しにくい。
MT派によるAT批判を見ていると、いわゆる老害と共通する部分が多いように感じる。なぜ人間は、便利な新技術の登場をかくも毛嫌いするのであろう。MTにも乗れないなら車をちゃんと動かせないなんて言う奴は、手書きじゃないと心がこもっていないなどと言って電子的に作成した履歴書を否定したり、お腹を痛めて出産しないと母親にはなれないなどと言って無痛分娩を否定する連中と同レベルではないか。幸いなことに現代では、人間がわざわざ手動でギアチェンジしなくても機械がやってくれるようになったのだ。それだけの話だ。便利さ重視でATに乗りたいならATに乗ればいいし、トラディショナルな操作にこだわりたいならMTに乗ればいい。
クラッチを含めた両手両足の操作ができなきゃ安全運転できないという意見もあるが、これではかつての「交通戦争」の事実を全く説明できない。誰も彼もがMTを動かしていた時代であっても、交通事故はそこら中で発生していた。だからMTに乗れるなら安全運転できるということにはならないし、ATだから危険運転を産むというのも短絡的な考えだ。少なくともAT全盛の現代の方が事故発生件数は少ないのである。これはミッション方式というよりも道路事情や安全技術の発達によるところが大きいかもしれないが、
というかATを運転できる程度の身体の自由があるなら、MTだって乗れる人が大半だろう。出だしの飲み込みのスピードは人によって差があるから、初手で苦手意識を植え付けられる人も出てくる。しかし時間をかけて練習すれば克服は決して難しくないし、出だしのペースと最終的な技術の習熟度は必ずしも一致しない。ただ現実的にはいつまでもだらだらと教習所に通えるわけではないから、時間的・経済的・心理的な負担増を嫌ってMT→ATに切り替えている人が多いだけではないかと思う。実際、現代日本のAT比率を考えれば、余計な苦労を背負ってまでMTに固執する必要はどこにもない。あくまでも本来の目的は「自動車免許の取得」であって「MTを動かすスキル」ではない、という人は相当数いるだろうし、MT→ATに切り替えることで無事に本来の目的を達成した人もまた相当数存在する。それできちんと運転できているなら、何も悪いことは無い。
ATに対するMTの優位性はシーンに応じてドライバーが自由にギアを選択できる点にあるが、そもそも公道ではMTに乗ってまで積極的にギアを変えるべき場面というのがそこまで多くない。ATであってもそうした場面には十分に対応可能だ。たとえば長い坂道を下るときには低めのギアを選択してエンジンブレーキを使い、フットブレーキのみに依存しないことが大事になるが、ATであってもBとかSとかLとかのギアを選択すれば同じ目的を達成できる。なにもMTである必然性はない。普段運転するエリアがアップダウンの乏しい平地であるなら、なおさら些末な問題になる。高速合流時などにおいても、低めのギアで十分に加速することが求められるが、やはりSなどを使えばATでも十分な加速が得られる。
またMTの自由度の高さは、操作の煩雑性や諸々のリスクと表裏一体である。信号待ちからの発進一つとっても、ATはアクセルを踏み込むだけでたちどころに加速していくが、MTは矢継ぎ早に1→2→3と切り替えながらスピードに乗っていかないといけないし、回転数をマッチさせる運転ができないと乗り心地が極端に悪化する。急坂ではサイドブレーキも使わないといけない。シフト操作にミスがあればオーバーレブのリスクも出てくる。交差点のど真ん中でエンストしようものなら、他車の交通を阻害したり追突されたりする要因になる。
そうしたことを考えると、「余計な操作や心配に煩わされずに街中をスムーズに走る」という部分においては、圧倒的にATが有利になる。最近のATは燃費も優秀だから、経済面でのMTの優位性もたかが知れている。新車販売においてはMTの方がATよりも若干安価だが、街中ではATの方がずっと多いのだから、ユーザーはそんな価格差は気にしていないのだろう。車重の軽量化、メンテナンス性の高さなどもあるが、車重全体のわずか数パーセントにしか満たない差を必死に削り出すようなドライバーは稀有であろうし、多少ラフな使い方をしても問題なく長距離を走れるATは多い。やはり、ATはMTよりもずっと便利で取り回しのしやすい機構だという結論になる。
ただ、この利便性の高さがドライバーの思考力を奪っている点は否定できない。余計な操作や心配に悩まされない状態というのは、必要な操作や心配までをも忘れてしまうリスクを跳ね上げる。上述した下り坂でのエンブレの件にしても、ブレーキランプを煌々と照らしながらダウンヒルする車を見かける機会は少なくない。上り坂で先行車が後退してくるリスクを考えず、車間距離をビタビタに詰めてくる車もいる。現代の先進技術は、考えなくても車を動かせる状態をも産んでいるため、このような事態が発生する。利便性を求めた結果であるから、それ自体は悪ではないのだが、車に乗られている人たちを大量生産しているのも事実だ。
考える必要が無い状況での運転は、ドライバーにとって油断の原因にもなってしまう。走行中につい眠気に襲われる...というのは誰しもが経験するだろうが、AT車は要求される操作が少ない分、どうしても注意が散漫になりがちだ。集中力の低下や居眠り運転を防止するなら、変な先進安全技術を搭載するよりもMT車に乗った方がよっぽど良いのではないかと思わなくもない。雑な操作をすればすぐさまシフトショックやエンストが発生するから、舟をこいでいるドライバーを叩き起こしてくれる。そもそもシフトレバーをギコギコやっているうちは体にも脳にも刺激が入るから、眠気を誘発しにくい。高速に乗って6速固定のクルコン、みたいな運転の場合はどうしようもないが...
免許の区分に関係なく、運転中に思考が鈍る事態は避けねばならない。AT限定ではこの部分が問題になりやすい。運転中の突然の眠気などはどうしようもない(眠気の発生自体は根絶しようがない)が、MTに関する座学および実技教習は、教習の区分とは無関係に実施してもらいたい。先進技術は過去の技術を土台として生まれるのだから、MTのようなプリミティブな機構を理解することは決して無駄ではない。どころか先進技術を理解するための助けになる。
色々書いたが、個人的にはAT限定のドライバーがただちに危険運転をするとは思わない。むしろ逆で、今この時代にわざわざMTを選択するような人間の方にこそ、何をしでかすかわからない危険性・変態性を感じる。MT乗りはスポーツ走行が好きな連中も多いだろうから、法定速度をガン無視したり、峠を攻めたり...ちょっと前にマジキテル連合の一件が問題になったが、変にMTを乗り回す連中の方がAT限定ドライバーよりもよっぽど危険ではないか?
昔ならいざ知らず、今はどこを取ってもATはMTを凌駕してしまう。MT派の立ち位置はまさに砂上の楼閣である。国産スポーツカーの雄として長い歴史と高いブランド力を有するGT-Rでさえも、最後にはMTを切り捨てた。AT技術の進化とMTの衰退を端的に表している事例である。現在では教習所でのMT教習時限も大幅に削減されてしまったし、世界はEV化へと舵を切っているし、MTに乗ることはますます困難になるだろう。しかし繰り返しになるが、ドライバーの思考力は利便性と反比例するように低下するリスクを抱えている。車をただの移動手段としか見ていない人もいるだろうが、自分がアクセルやブレーキを踏むとき、あるいはハンドルを切るときに、各パーツがどう反応して車全体がどう動くのか、自分の車と他の車の挙動はどう違うのか...免許を有し運転する限りは決して放棄してはいけない思考である。思考放棄ドライバーの割合は、MT派よりもAT派に多いだろうということは想像に難くない。
ATは基本的に、なにもせずとも車が進んでいく。なにもしなくても車が進んでしまうとも言える。それは確かに便利なのだが、人間は時に利便性を度外視して楽しさを求めたくなる生き物だ。素人が手間暇をかけてつくった料理は冷凍食品にすら及ばないかもしれないが、単純な味の優劣だけでは語れない満足感がある。生成AIは短時間でクオリティの高いイラストを出力するが、画材や構図やシチュエーションについて、悩みに悩んで生み出した手描きの絵を眺めることでしか得られない感覚がある。令和の時代にMTに乗るという選択は、理屈だけ考えれば全く筋が通っていない。だが筋が通っていないことは、不正解だということにはならない。シフトレバーとクラッチペダルを操るあのドライビングフィールは、ATでは決して味わえない。
だからATが好きならATに乗ればいいし、MTが好きならMTに乗ればいい。本当にたったこれだけの話のはずなのだが...お互いもっと柔軟に考えようぜと思わずにはいられない。そうすれば無駄な論争も発生しないのにね。
これからのクルマにはデュアルスプリームウィングなデザインが求められるね
警察庁の有識者検討会の報告書(令和6年1月)では、欧州の事例を参考に「1mから1.5m」という数値が目安として示されています。
大きな理由は「風圧」と「ふらつき」です。JAFなどの実験データによれば、普通車が時速40km以上で至近距離を通り過ぎると、自転車側には強い引き込み風が発生し、ハンドルを取られて転倒するリスクがあることが分かっています。
https://news.yahoo.co.jp/articles/916427fb760c6a0fe974168ca41bd315dc6ce73c
世界経済を観察していると、ときにそれは巨大な市場均衡モデルではなく、権力者たちが同時に自己放尿している奇妙な実験のように見える。
本来ならば価格システムが自動操縦装置として資源配分を調整するはずである。しかし現実には、政治的インセンティブを持つ権力者が市場に介入し、均衡条件を乱しながら自己放尿を繰り返している。
問題は単純だ。政府が裁量的にハンドルを握りすぎると、マクロ経済の運転席は政策ショックという名の自己放尿でびしょ濡れになる。
保護主義的関税は、政治の世界における古典的な構造を示している。つまり、利益は特定の産業や企業に集中し、コストは消費者全体に薄く広く分散するという構造である。
強く利益を得る少数の支持者がどれだけいるかと、広く薄く負担を負う多数の人々がどれだけ無関心でいられるかである。
しかし市場の側から見ると、これは比較優位を歪め、資源の使い方を非効率にする。
つまり関税とは、政治的には合理的でも、経済的には市場メカニズムへの自己放尿なのである。
関税と地政学ショックのダブル放尿が起きると、国際貿易の秩序は一気に乱れる。
近年の中東の緊張、たとえばイスラエルを中心とする戦争リスクの拡大は、エネルギー市場を大きく揺らす。
石油市場では、人々は現在の供給量だけでなく、将来どれくらい供給が不安定になるかを考えながら価格を決める。
もし戦争が激化して供給が減るかもしれないと多くの人が予想すれば、石油価格は上昇する。
たとえば
その結果として世界経済では、中東戦争と政策介入のダブル放尿が起き、市場の調整能力が弱まる。
市場は多くの場合うまく機能する。失敗するのはしばしば政府である。
第二に、人々に行動の動機を与えること。
第三に、誰がどれだけの所得を得るかを決めること。
しかし政治家が裁量的政策を繰り返すと、この三つの機能は歪められる。
これらは理論的には正当化されることがあるが、実際には政治的なインセンティブによって決まることが多い。
まず政治が市場に介入して自己放尿を行う。すると市場が歪み、新しい問題が生まれる。
その問題を解決するために、さらに新しい政策介入が行われる。そしてまた新しい自己放尿が起きる。
こうして世界経済は、政策による歪みが連鎖する動学的スパイラルに入る。
問題は市場の不完全さではない。政府が市場を過剰にいじることである。
世界経済は本来、分散した個人の意思決定によって動く巨大な価格システムである。
しかし現実には、政治家、国家、軍事衝突、保護主義が繰り返し介入する。
その結果、
民主とかもこの底辺をターゲットに政策とかでっちあげて結局何もしないってのを繰り返してるし
わたしは覚えています
バスの運転士の給料を下げたことにより、結果、運転士は大量に辞め、路線バスの運行にまで支障が出て、住民が逆に困って後悔したことを
これの繰り返し
乗客の生命を預かるハンドルの重さを軽く見たツケがまわってきているだけです https://t.co/kNe6G0i7lt— 岸野さん@障害の闇を斬りし者 (@coco_ruuchan) March 7, 2026
あ、縦列駐車も面白い視点で考えると、幾何学的位相(Geometric Phase)的に説明できる部分があります。順を追って解説します。🚗
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縦列駐車では、車は前進・後退・ステアリング角度の組み合わせで位置と向きを変えていきます。
と考えると、縦列駐車は 操作パラメータ空間を巡回して車の状態空間をタイヤの向きと直角に !!!!横向きに!!!! 移動させるループとして表現できます。
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• 車の向きと位置は、ハンドル操作を順序よく行うことで、最終的に狭いスペースに収まります。
例えば:
1. 前進 → ハンドル右いっぱい → 前輪が縁石方向に向く
2. 後退 → ハンドル左いっぱい → 車が平行に入り込む
• このループ操作をパラメータ空間上で巡回すると、車の位置・向き(状態空間)が最終的に変化します。
• 「操作のループを回すと、車の状態が意図した位置に変わる」
• 操作順序が異なると結果も変わる → パラメータ空間のループが結果に直結
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3. 猫の落下技との共通点
項目 猫の落下技 縦列駐車
操作パラメータ 体の曲げ方・ねじり方 前進/後退・ハンドル角度
ループ効果 形状空間のループで姿勢が変わる 操作パラメータのループで車が収まる
• 共通点:ループ運動(猫の体、車の操作)で最終状態が変わる
• 違い:猫は自然法則に従って勝手に姿勢が変わる、縦列駐車は人間がループ操作を意図的に作る
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💡 直感例:
• 縦列駐車をハンドルを一定に固定して前後に動かすだけでやろうとしても、狭いスペースには収まらない