今日の日中、このニュースを知ったときは、会社の席上だというのに落涙しかけました。大ショックです。今もまだ信じられません。「訃報:沢田としきさん51歳=絵本作家」(4/28毎日新聞)。
沢田としきさん、大好きなイラストレーター・絵本作家でした。沢田さんの絵が大好きだったのはもちろん、あたたかなその作品世界やイラストのタッチそのままのやわらかく、やさしいお人柄も大好きで、イラストレーターとしてだけでなく、人間的にも尊敬できる方でした。
沢田さんの思い出を書きます。いつも以上に個人的なことばかりになるかもしれませんし、ショックでいつも以上にわやわやの文章になっているかもしれません。
もうずいぶん昔の話ですが、仕事でご一緒したことがあります。その頃は、六本木にアトリエをかまえていらっしゃって、よく通ったものでした。沢田さんは音楽好きの方(そもそも、沢田さんと最初にお仕事でご一緒することになったきっかけも音楽だったのですが)、六本木のアトリエには、アナログレコードやCDがずらり。仕事の話がいつのまにやら音楽談義になるのが常で、ついつい打ち合わせが長くなってしまったのが、なつかしく思い出されます。当時は、六本木にまだWAVEが健在だったころ。沢田さんとの打ち合わせの後で、話題に出たCDを探しに行ったりしたこともありました。
沢田さんは、昔はジャズやブルースなども聴かれていたようですが、その頃は、ワールドミュージック、とくに中南米やアフリカの音楽を好んで聴いていました。とくに、アフリカ、の音楽への情熱は大変なものがあって、ご自身でも、アフリカの太鼓を演奏するほどでした。何度かライヴにも呼んでもらったことがありますが、かなり本格的なもので、初めて演奏を見聞きしたときは、仕事の話をしているときとぜんぜん違う沢田さんの姿にびっくりしたものです。
そんな沢田さんの音楽好き、アフリカと太鼓への思いが結実したのがこの絵本↓。沢田さんの代表作であり、そして、アフリカと打楽器をテーマにした絵本の最高峰でしょう。
こんな本をこそ一緒に作りたかった、そんなふうに当時思わされた1冊でした。大好きな本で、何度も何度も読み返しています。
好きな本はたくさんありすぎて、どれをあげていいのかわからない、というか、全部ここで紹介したいぐらい。↓これも大好きな1冊で、娘に読ませたら、娘もすっかり気に入り、いまでは親子でときどき読み返す本になっています。
これもすてきな本です。元はPARCO出版で出ていたんですよね。最初に出た3巻は箱入りのセットもあり、ぼくはそれでもってます。OH!文庫はその編集版、小学館のはその後に出たもの。
沢田さん名義の本はもちろん、絵だけを担当された絵本や物語もだいたい持っています。担当ジャンルの違いもあって、もうずっとお仕事でご一緒する機会もないままだったのですが、その後も、ライヴのほか、展覧会をされるときには案内をいただいていましたし、本を贈っていただいたこともあります。展覧会にはもちろん毎回駆けつけていましたので、手元の本のいくつかは、沢田さんのサイン入りです。この文を書くために、いくつかの本を引っ張り出して、沢田さんのサインを眺めていたら、もう涙が止まらない……。
コミック時代の作品↓。絵の感じも中身も、ちょっと時代を感じさせるもので、お会いしたころ、すでにこのような世界からはすっかり離れてしまっていた沢田さんに、この本や、『街角パラダイス』(CBSソニー出版)、『Weekend』(プレイガイドジャーナル社)といった、今となっては、こうした版元から沢田さんの本が出ていたこと自体ちょっと不思議な感じのする本たちも持っているんだ、という話をしたら、沢田さんは、はずかしい、と苦笑しつつ、よく見つけたねえ(その当時すでに品切れ・絶版だった)と、なんとなくうれしそうでもあったのを、よく覚えています。
沢田さん、唯一の画集↓。ご一緒した本の仕事は、沢田さん名義のものではなかったので、これを終えたら、次は沢田さんの本をやりましょう、などと、駆け出しのくせにというか駆け出しだからこその青臭い企画の話もよくしたものです。そんなときに、よく沢田さんは、画集・作品集を作りたい、と話していました。駆け出しの編集者にそんな企画をまとめる力も、そもそも企画を通す力ももちろんありません。絵本やカバーの仕事を重ねて、チャンスがあったら、ぜひやらせてください、そんな夢みたいな話を、自分ではけっこう本気でしていたものです。実際、ぼくはかなり本気で、チラシからハガキからカバー画から、目についた沢田さんの絵は、一時期、片っ端からせっせとファイリングしていたほどなのです。もし、あれを実現できていたらなあ……。
沢田さんは、上の本以外にも、たくさんのすてきな仕事を残されています。作品リストについては、こちらをご覧ください。
沢田さんといえば、六本木のアトリエでのお姿がぼくにはもっとも思い出深いのですが、ほかにも、下北沢でよく出入りされていたカフェでもよくお会いしましたし、関東エリアの個展には必ず行きましたから会場のギャラリーでもよくお会いしました。あと、ライヴを観にいったら(ブラジルのアーティストでした)偶然会場でお会いして、終わった後、ご飯を食べにいったこともありました。ぼくは語学をやっていたりしたもので、沢田さんのお嬢さんが学校で使う辞書のことで相談されたりしたこともありました。ぼくなんて、編集者としては、実質的には大した付き合いではぜんぜんなかったのに、次から次にいろんなことが思い出されて、止まりません。
本を一緒に作る機会を作れなかったのも心残りですが、心残りといえば、もう1つありました。仕事の打ち合わせをしているときに、沢田さんが、ある本を探しているんだ、という話をされました。絶版の写真集、それも洋書の写真集だというのです。古本探しといえば、まさにこちらの得意分野。これはふだん仕事でお世話になっているのをお返しする最大のチャンス。本といっても、こちらの不得手な美術書、しかも写真集、しかも洋書と、かなりハードルの高い相手ではありましたが、まかせてください、絶対見つけてみせます!と大見得を切ったのでした。もちろん、ネット通販などない時代です。都内の美術書に強い古書店を片っ端から回りました。仕事が終わって、沢田さんと日常的にお会いすることがなくなって以降も、ずっとその本は探し続けていました。が、結局、見つけることはできませんでした。Amazon他で、簡単に古書を含む洋書が買えるようになってからは、他人が代わりに探す意味もないかなといつのまにかあきらめてしまったのですが、今となっては、沢田さんからの唯一といっていい頼まれ事に応えられなかったのが、悔しくて悔しくてなりません。
うれしいほうでの最大の思い出は、仕事でご一緒したその本ができあがったときのこと。見本を届けにいったときだったかな、沢田さんが、本に使った版画をおもむろに取り出すと、それをくださるというのです。しかも、3枚も。……こんなこと書いてると、また涙が止まらない。
沢田さん、あのときのご一緒した仕事は、ぼくの地味でダメダメな編集者人生において、出来はともかく、仕事の楽しさではベストの1つでした。そのときいただいたプリントは、ぼくの宝物です。額装して、本の部屋の壁に飾っています。その後、こちらにいろいろあって、お仕事でご一緒する機会を作れなかったのが本当に残念です。そして、いつかまた、と思っていたのが、永遠に失われてしまったことも。51歳……沢田さん、早すぎますよ……。
沢田さん、ありがとうございました。