ごぶさたです。ただいま戻りました。
カウンタを見れば、休筆期間中ものぞいてくださった方がたくさんいるようで……気にかけていただき、ありがとうございます。
最近読んでいた本で、こんな一節に出会いました。
《ドレスデン(引用者註:第二次対戦中に米英軍の無差別爆撃で8割方が焦土化したドイツの都市)が爆撃を受けていたときのこと。我々は地下壕で、手で頭を覆うようにして座っていた。いつ天井が落ちてこないとも限らない。そのとき、ある兵士がふと言った。大邸宅に住む公爵夫人が、雨の降りしきる冷たい夜にふともらした、といった口調で。「こんな夜、貧乏人たちは何してるんだろうなあ」。誰も笑わなかった。それでも、私たちは、兵士がそんなことを口にしたのがうれしかった。少なくとも私たちはまだ生きているじゃないか! 彼はそのことを証明してみせたのだ。》(原文は英語。訳は空犬流超訳。)
カート・ヴォネガットの自伝的エッセイ『A Man Without A Contry』(Random House)の一節です。どこがどう、と説明しにくいのですが、この一節を読んだら、妙に気分が楽になった感じがしたのです。
同じ頃読んでいた別の本の、こんな文章にも心を動かされました。
《……私も三十年間、勤め人生活をおくっていますが、生活者には、本などとまったくかかわりのないところで、さまざまな困難に打ちあたることがあります。それこそ、この詩(空犬註:直前にラルボーの詩が引用されている)の「私」のように、うなだれて地下鉄に乗りこむことなど、めずらしくもないでしょう。生きているかぎり、当然のことです。
しかし、本がある。どんなときにも読書というものがある。本好きはそれを救いとすることができます。むずかしい局面に立たされたとき、なにもその局面に直接的に関係する本をさがして読むこともありません。なんでもいい、いま自分がいちばん読みたい本を読むのがいちばんいいのです。》
まさに「さまざまな困難に打ちあた」り、毎日「うなだれて地下鉄に乗りこ」んでいた者が、ある日、このような一節に出会ったときのことを想像してみてください。まるで、こちらの情けない様子を誰かがどこかから見ていて、少し景気づけてやるとするか、と言わんばかりに、この本を手に取らせたかのようではありませんか。
『〈狐〉が選んだ入門書』(ちくま新書)の「はじめに」の一節です。昨年、惜しくも亡くなられた著者の〈狐〉こと山村修氏については、本日記でも取り上げました。手だれの書評で多くの読書人(どころか、日刊紙の読者であるふつうのおじさんたちまで)を、ふだんは手にしないような本に向かわせた人の言葉です。沁みました。
このような本たちの後押しも受け、そしてたくさんのコメントやメールにも後押しされて、ようやく戻ってくることができたわけです。なんといっても、「しかし、本がある」のだし、「どんなときにも読書というものがある」のですから。
というわけで、毎日更新はできそうにないですが、またしばらくはぽつぽつと駄文を連ねてみようと思います。「本がある。どんなときにも読書というものがある」というのを、狐氏のような華麗な文章術にはほど遠いレベルで、ではありますが、空犬なりのやり方で伝えていければいいかなあ、などと、思ったりするのであります。
追記です。たくさんの方にご心配いただいたことなので、私的なことながら少し経過報告も。
実を言うと、仕事上のトラブルは解決したわけではなく、いろいろやっかいな事態がいまなお継続中なのです。残念なことに(泣)。ただ、だからといって、いつまでも引きこもりのようなものをしていてもしかたないし、苦しいながらも、文章を書きたい気持ちも多少なりとも戻ってきて、書きたいネタもたまってきているので、えいやで復帰することにしました。
そのような不安定な状況故、トラブルの具合次第では、またパタりとお休みになってしまう可能性もないわけではないのですが、まあ、そのときはしかたないですね。
休止前後にコメントやメールをくださったみなさんに、この場を借りてあらためて御礼申し上げます。