たしか、ヴォネガットが、民族をまるごと嫌いになるだなんて、そんな大変なことができるか、という主旨のことを書いていたっけなあ、と、それらしい文章を手持ちの本で探してみるが見つからない。
検索してみると、ポーランド文学者の沼野充義さんが、「うろ覚えだがヴォネガットの言葉」と断ったうえで、こんなふうにツイートしているのが見つかった。
《ユダヤ人が嫌いだとか、黒人が嫌いだ、というのは理解しがたい。この男が嫌いだとか、あの女が気に食わない、ということなら分かる。しかしユダヤ人が嫌いだとなると、いっぺんに何百万人を憎むことになる。一人の人間にそんな精神的エネルギーがあるものか》。
しばらく前のことだが、自分の気に入らない書店について、ディスるなどというレベルではなく、口を極めて罵るといったていのことを書いている人がいて、話題になっていた。というか、炎上していた。
さらには、後日、ある書店員がそれにとても強いことばで応える、ということもあった。何か言わずには、返さずにはいられない、その気持ちはわからないではないけれど、でも、悲しいことだなあ、とも思う。
自分が気に入らない店には、行かない、という選択肢がある。それがいちばんよい。その人にとっても、お店にとっても、双方にとって、それがいちばんよい。
自分の気に入らない店を、ことばをきわめて罵る、それを文章のかたちにして発信するというのは、とてもエネルギーの要る行為だ。
だから、そのエネルギーを、好きなものをほめることに回したらどうだろう、と思う。
苦楽堂の社主、石井伸介さんがあるとき言っていた。本の世界は、総力戦でないといけないと。やれることはなんでもすべきだし、小売のタイプも、販路も、売り方も、とにかくいろいろなものがあったほうがいいし、使えるものはなんでも使ったほうがいい。ぼくも全面的に同感だ。いまの出版界の置かれている状況を思えば、内輪もめしている場合ではない、と思う。
人は余裕がないと、周りのことを許せなくなるものなのか、自分の感性や好みに合わない者を悪者にしたりしがちだ。ことがうまくいかないときに、誰かを悪者にして安心する「犯人捜し」的な言動も多くなるような気がする。いまの出版界は、まさにそのような感じになってしまっていると思う。
しばらく前にも、やはりそうした言動が、それもプロの書き手による言動が目について、とても残念に思ったことがあった。
- 「(文芸時評)文化の拠点とは 小説も書店も「独自性」で輝く 磯崎憲一郎」(6/27 朝日新聞)
磯崎氏は、このように書いている。
《日本全国で書店数の減少が続いているという。少し前の記事になるが、二〇一七年八月二四日付の本紙朝刊(東京本社発行の最終版)では、「書店ゼロの街 2割超」という見出しを掲げ、全国の二割強に当たる四二〇の自治体・行政区が、地域に書店が一店舗もない「書店ゼロ自治体」になっているとした上で、この事態を「『文化拠点の衰退』と危惧する声も強い」と報じている》。
問題は続く一段だ。
《恐らく死ぬまで紙の本を読み続けるであろう世代の一人として、個人的には、成る丈多くの書店に存続して欲しいと願ってはいるがしかし、冷静に、客観的にこの状況を分析してみるならば、かつては少ないながらも海外小説や文庫の古典が並べられていた売り場を、売上ランキング上位の小説とダイエット本と付録付き女性誌に明け渡してしまった結果、街の書店の地位はコンビニとネット通販と情報サイトに取って代わられた、というのが本当の所なのではないか? つまり「文化拠点」が衰退しているのではなく、「文化拠点」である事を自ら放棄した必然として、書店は減少の一途を辿(たど)っているように見えて仕方がない》。
文中の《「文化拠点」である事を自ら放棄した》に違和感を覚える本好き本屋好きはおそらくぼくだけではないだろう。「違和感」ということばでは弱すぎるかもしれない。書店関係者ならば「怒り」に近いものを覚えるかもしれない。
「海外小説」や「文庫の古典」を必要としている人がいるのと同じように、「売上ランキング上位の小説」「ダイエット本」「付録付き女性誌」にもそれらを必要としている人がいるのだと思う。
「海外小説」や「文庫の古典」と、「売上ランキング上位の小説」「ダイエット本」「付録付き女性誌」の、いずれかがいいとか悪いとかの話ではない。本としてはどちらも、どれもあっていいし、あったほうがいい。
本に関わっている人が、本の多様性を否定してはいけないのではないかと思う。
あるジャンルを否定することは、作り手はもちろんのこと、その本を買ったり読んだり必要としたりしている人たちをも否定することになってしまいかねない。だから、不用意にすべきではないと思うし、何より、自分が書き手の立場ならば、自分の読者が、自分の本と、そういうジャンルの本の両方を買う可能性にだって、思いをいたらせるべきではないか、と思う。
ここでも、やはりある種の内輪もめが起こっている。本を書いて生計を得ている人が、本を売って生計を得ている人たちのことを、こんなふうに書いて、いったいどんな益があるのだろう。
ぼくたちは、それでできないことを探すほうが大変という感じの、スーパー万能ツールに進化したスマホを、いまや小学生から老人まで手にしている時代に生きている。
情報ソースとして、教養や娯楽を与えてくれるものとして、本や雑誌が上位の存在であった時代はとうの昔に終わってしまったし、今後大きく復権することも難しいことは、誰の目にも明かなはず。
それでも。いま本を読んでいる人は、本屋に通っている人は、それでも本を選択している人たちだ。
だから、いま本に関わる人たちがすべきは、書店が文化の拠点でないと嘆くことでも、そうなってしまったのは書店の商品セレクトの問題だと難詰することでもないと思う。
本の書き手、本の作り手がすべきことは、とにかく、読まれる本・雑誌、魅力のあるコンテンツ、商品をつくることだろう。そして、それを今なお必要としてくれている読者のもとに届けるにはどうすればいいのか、何をするのがいいのかに、心をくだくべきだろうと思う。
誰かをディスったりこきおろしたりしている時間は、我々、本に関わる仕事に携わっているものにはないと、そのように思う。その時間やエネルギーを使って、こんな本があるよ、こんな本がおもしろかったよ、こんなすてきなお店があったよ、そんなことをどんどん発信していけばいいのではないかと思う。
おもしろくなければ、気に入らなければふれなければいい。わざわざ、本の世界の当事者側から、
「やっぱ本屋はだめだね」
「やっぱ出版はオワコンだよね」
などと言ってるに等しい情報を発信する必要は、それも全国紙の紙面で発信する必要はまったくないように思うのだ。