先週、近所の新古書店(ブックオフ)が閉店になりました。
新古書店については、別にアンチというわけではないのですが、新刊書店が好きで応援したいと考える身にとっては微妙な存在であるのはたしかです。そもそも、本の買い物をする場所としてあまり楽しい場所にも思えなかったため、ふだん利用することはほとんどありませんでした。それでも、たまに日曜の昼間などにのぞくと、コミックの棚の前は、熱心に立ち読みする子どもたちでいっぱいでした。
ぼくが住んでいる町は、徒歩でふらりと行けるような近所には、本屋さんがありません。図書館はありますが、これも自転車ならばともかく、徒歩で気軽に行ける距離ではありません。歩いてふつうに行ける距離にある唯一の「本屋さん」が、この新古書店でした。
新古書店で自由に立ち読みができることの是非はさておき、学校帰りや休日の空き時間を、自らの行動圏内にある唯一の本屋さんで、本やまんがにふれて過ごそうと考えていた子どもたちが、確実にいたわけです。その子たち、とくに、本屋さんがある別のエリアに自由にアクセスする手段をもたない小学生と就学前の子どもたちは、これからはどうするのだろう。そんなことをふと考えてしまいました。
吉祥寺のヨドバシカメラに用事があって、買い物をしたときのこと。会社帰りの買い物ですから、時間は夜です。そんな時間にも、タブレットのコーナーにはどう見ても小学生にしか見えない子どもたちが複数いて、ゲームか何かをして遊んでいる。上の、おもちゃのフロアにあるコミック売り場では、その年齢の子どもは一人も見かけないのに。そんな光景を、一度二度ではなく、何度も目にしています。別に吉祥寺の話にかぎったことではないのでしょう。
教科書のデジタル化については、新聞などのメディアにしょっちゅう取り上げられていますから、そのような動きが進んでいることは、小中高大の学生のお子さんが周りにいない方、教科書に縁のない方でもご存じでしょう。別に近未来の話ではなく、すでに全国に導入例があります。今すぐ全国的に一斉にデジタルに置き換えられて、冊子状の教科書類がなくなるという話ではないでしょうが、教科書のデジタル化がさらに進んでいくのはほぼ間違いないこと。複数の教科書やノートやプリントでぎっしりだった子どもたちのランドセルの中身がタブレットだけ、となるのもそんなに先の話ではないかもしれないわけです。
これまでは、本が好きか嫌いか、親がどの程度本に親しんでいたか、子どもに本を与えていたか、などにかかわらず、ふつう、すべての子どもたちが、教育を受ける過程で「必ず」、教科書という紙を冊子状に閉じた「本」を手にしてきたわけです。手にする、だけではなく、それを徹底的に読み、使うことを求められてきたわけです。「本」にふれる機会がゼロ、というのは、義務教育を受ける機会を意図的に放棄しないかぎりは、これまではなかったわけです。
でも、教科書のデジタル化が進んだらどうなるんでしょうね。
幼いときから、赤ちゃん絵本の代わりにスマートホンやタブレットの子ども向けアプリを見せられ、いくつにもならないうちに、絵本の代わりにスマートホンやタブレットを自分で操作してゲームなどのアプリを楽しむようになる。小学校に入ると、教科書やノートはタブレットに一元化されている。近所の徒歩圏には、本屋さんも古本屋さんもない。このようにして育った子どもたちが、長じて、娯楽や教養や情報をはたして「本」というメディアから得ようと思うでしょうか。
『ノンちゃん雲にのる』などの創作や『くまのプーさん』などの翻訳で知られる石井桃子さんの随筆集『プーと私』を読みました。こんなくだりが出てきます。
《子どもは、衣食住すべての点で、自分ひとりでまかなうことができません。そういうものを手に入れるのに、子どもは、だれか、間に仲介者を必要とします。本と子どもの間を仲だちすることを仕事にする人間、これが児童図書館員であると、私は思いたいのです。そのために、児童図書館員は、子どもを知り、本を知らなければなりません。》
この「児童図書館員」は、児童書や漫画を扱う本屋さんに置き換えてもいいでしょう。また、直接本を届ける機会は少ないかもしれませんが、児童書や漫画や学習参考書などを手がけるの広義の子どもの本の編集者に置き換えてもいいでしょう。もっと言えば、子どもと本のことを考える人ならば、それは本の世界で仕事をする人でなくてもいいのだと思います。「本と子どもの間を仲だちする」ことは、その気になれば、いろいろな立場の人がいろいろなやり方でできることではないかと思うのです。
子どもたちに本を届けるにはどうしたらいいか。大きくなっても本を手にしたいと思うようになってもらうにはどうしたらいいか。トークイベントを企画したり、町本会の活動に関わったりするとき、そんなことを、いつも考えています。