円堂ノート(4)
4.八角円堂と行基
(1)円堂3案の比較
以上、回廊・掘立柱塀等の囲繞施設で囲まれた伽藍の中央に建つ「円堂」の復元を三案示した。A案は基壇上の八角堂の本瓦葺き屋根と土庇状の裳階の十六角形檜皮葺き屋根が錣葺きのように近接しあう。訪問者の目線からは「円」に近い裳階の造形が目立ち、八角堂は裳階に隠れてしまい幾分印象が弱くなる。建具有B案はずんぐりしたプロポーションになるが、建具無B案は薬師寺玄奘三蔵院玄奘塔の造形に近くなる。C案は最も美しい八角堂と称賛される興福寺北円堂を意識した復元案であり、単体としてみると「円」状裳階の上の八角堂上部が際立ってみえる。A案→建具無B案→C案の順で、軽やかさ・華やかさが増している。一方、伽藍全体の俯瞰図をみると、C案と建具有B案は囲繞施設に対してヴォリュームがやや大きい。囲繞施設と整合性のある比例となっているのはA案であり、建具無B案がそれに次ぐ。単体でみれば建具無B案やC案に分があるものの、伽藍全体との整合性から評価するならば、A案や建具無B案が秀でている。発掘調査された遺構のサイズを軽視するわけにはいかないので、妥当な復元案はA案及び建具無B案ではないか、と考えている。
(2)平城宮東院庭園出土「五角斗」雛形の応用
平城宮東院庭園跡で「五角斗」の雛形が出土している[箱崎・浅川・西山 1999 ]。奈良時代に設計図はなく、1/10の模型を制作してから、現寸の建築を造営した。このような1/10の雛形を様(ためし)と呼ぶ。東院庭園で出土した五角斗は大斗の様とされ[川越編2003 ]、八角小堂の柱頭に据えられていたものと推定されている(図18)。八角形建物の場合、桁などの隣接しあう水平材は135°で交差する。その接点に置かれる斗は左右両方の水平材に対してほぼ垂直に収まるので、斗は末広がりの五角形を呈する。東院庭園の模型制作から復元事業にあたり、当初は隅楼を八角屋根に復元する予定であり、五角斗を使用する可能性もあったが、再発掘調査の結果、隅楼はL字形を呈することが判明したので、敢えて八角斗を使用する必要はなくなった。東院庭園出土の五角斗の場合、五角斗に両側から接する水平材は138°で交差するが、今回の復元案では151°となった。裳階が正十六角形ではないため角度の開きが大きめになったと思われる。
菅原遺跡円堂復元の場合、A案・B案では裳階の隅木を支える2列の巻斗のみ五角斗とし、C案では八角堂側柱上の大斗も五角斗とした。平城宮跡東院庭園出土の五角斗データを用いた復元設計は、おそらく今回が最初になるだろう。
(1)円堂3案の比較
以上、回廊・掘立柱塀等の囲繞施設で囲まれた伽藍の中央に建つ「円堂」の復元を三案示した。A案は基壇上の八角堂の本瓦葺き屋根と土庇状の裳階の十六角形檜皮葺き屋根が錣葺きのように近接しあう。訪問者の目線からは「円」に近い裳階の造形が目立ち、八角堂は裳階に隠れてしまい幾分印象が弱くなる。建具有B案はずんぐりしたプロポーションになるが、建具無B案は薬師寺玄奘三蔵院玄奘塔の造形に近くなる。C案は最も美しい八角堂と称賛される興福寺北円堂を意識した復元案であり、単体としてみると「円」状裳階の上の八角堂上部が際立ってみえる。A案→建具無B案→C案の順で、軽やかさ・華やかさが増している。一方、伽藍全体の俯瞰図をみると、C案と建具有B案は囲繞施設に対してヴォリュームがやや大きい。囲繞施設と整合性のある比例となっているのはA案であり、建具無B案がそれに次ぐ。単体でみれば建具無B案やC案に分があるものの、伽藍全体との整合性から評価するならば、A案や建具無B案が秀でている。発掘調査された遺構のサイズを軽視するわけにはいかないので、妥当な復元案はA案及び建具無B案ではないか、と考えている。
(2)平城宮東院庭園出土「五角斗」雛形の応用
平城宮東院庭園跡で「五角斗」の雛形が出土している[箱崎・浅川・西山 1999 ]。奈良時代に設計図はなく、1/10の模型を制作してから、現寸の建築を造営した。このような1/10の雛形を様(ためし)と呼ぶ。東院庭園で出土した五角斗は大斗の様とされ[川越編2003 ]、八角小堂の柱頭に据えられていたものと推定されている(図18)。八角形建物の場合、桁などの隣接しあう水平材は135°で交差する。その接点に置かれる斗は左右両方の水平材に対してほぼ垂直に収まるので、斗は末広がりの五角形を呈する。東院庭園の模型制作から復元事業にあたり、当初は隅楼を八角屋根に復元する予定であり、五角斗を使用する可能性もあったが、再発掘調査の結果、隅楼はL字形を呈することが判明したので、敢えて八角斗を使用する必要はなくなった。東院庭園出土の五角斗の場合、五角斗に両側から接する水平材は138°で交差するが、今回の復元案では151°となった。裳階が正十六角形ではないため角度の開きが大きめになったと思われる。
菅原遺跡円堂復元の場合、A案・B案では裳階の隅木を支える2列の巻斗のみ五角斗とし、C案では八角堂側柱上の大斗も五角斗とした。平城宮跡東院庭園出土の五角斗データを用いた復元設計は、おそらく今回が最初になるだろう。
(3)行基と円と密教と
行基は、仏教の源郷たるインドに強い憧憬を抱いた仏教者ではなかったか。行基自身は渡唐していないが、師とされる道昭(629-700)は遣唐留学僧として玄奘(602-664)に師事した。当時の中国で最もインド仏教の知識を有した高僧であり、その知識を弟子の道昭に伝え、帰国後、間接的ではあるけれども、行基は道昭からインドの情報を吸収した可能性がある。行基と道昭に係わる史書の記載には潤色を含むというので注意を要するが、行基の造営とされる堺市大野寺の土塔(727年ころ)は十三重塔の最上部に円形の粘土ブロックを残すモニュメントであり、屋根も壁も本瓦を直葺きにしていた。日本建築史上類をみないこの建築は、インド的な巨大ストゥ-パを和風化したようにみえる。とくに頂部の円形構造物(おそらく伏鉢)の「円」はサンスクリット語のマンダラに相当し、9世紀以降に隆盛する真言密教の曼陀羅との関係を想起させる。
天平8年(736)、大仏造営のため聖武天皇がインド僧菩提僊那、林邑僧仏哲等を招聘した際、行基は大宰府でかれらを迎え、平城京まで案内した。おそらく行基は菩提僊那からもインドの情報を吸収したものと推察される。行基は天平15年(743)大仏造営の勧進就任を経て、同17年(745)大僧正に任命される。行基の入滅(749)後しばらくして、東大寺別当良弁が南大門の正面(南方)約1kmのところに頭塔を造営する。頭塔は五重の土塔であり、壁面に44体の石仏を貼り付けている。いわばボロブドール(8世紀後半)の日本版というべきモニュメントであり、大野寺の土塔をさらに南アジアの立体マンダラ風に仕上げたものと推察される。
この時代、インドではバラモン教の呪術を取り入れた「密教」が流行し始めていた。密教は、一方では、中国中原地域を経由して日本にまで伝来し、他方ではチベット・ブータン地域や東南アジアにまで拡散していった。東南アジアの仏教と言えば「上座部」というイメージがあるけれども、たとえば、インドネシア・ジャワ島にはボロブドール(仏教・8世紀)とプランバナン(ヒンドゥ教・9世紀)が併存しており、カンボジアのアンコール遺跡群のでも、バイヨン(12世紀末以降)は仏教・ヒンドゥ教習合のモニュメントである。ヒンドゥ教と密教(大乗仏教の最終形)はバラモン教呪術の継承という点で類似する側面をもっており、むしろインドネシアやカンボジアの上記モニュメントはヒンドゥ教と覇を競った後期密教が東南アジアに拡散したことの例証になるではないだろうか。
日本の場合、空海が日本に帰国する9世紀初頭以降、密教(真言宗)が波及していくというのが常識的な理解だが、筆者浅川の見方は異なっている。8世紀に造営された東大寺大仏(毘盧遮那仏)こそがその鍵を解くものである。華厳教の総本山東大寺の本尊仏「毘盧遮那」はサンスクリット語ヴァイローチャナ(vairocana)の漢音訳であるのに対し、9世紀に空海がもたらした真言密教の本尊「大日如来」はヴァイローチャナの意訳である。すなわち、「毘盧遮那=大日如来」という等式が成立し、華厳教はすでに真言密教の要素を多分に含んでいたと考えるのが妥当である。言い換えるならば、8世紀に造営された東大寺こそが先駆的な密教系の寺院であり、その本尊たる毘盧遮那大仏は平安密教の大日如来にほかならなかった。華厳教が密教であるならば、密教のシンボルというべき宝塔/多宝塔も存在したであろうと思いがちだが、奈良時代の日本に宝塔/多宝塔は未だ出現していない。その代わりのモニュメントとして位置づけられるのが、頭塔や土塔ではないかと思っている。
チベット・ブータン地域では直訳の仏典だけでなく、多くの密教系遺産がよく保全されている。じっさい、東大寺頭塔の形状や配置はチベット・ブータン地域の伽藍とよく似ている。戒壇状テラスの壁面に多数の仏像を配し、その頂部に円形のストゥーパ(舎利塔)を置く立体マンダラの造形はもちろんのこと、伽藍正門の正面から一定の距離を隔てて立地する配置の類似性にはとくに注目したい[浅川2019ab、浅川2021 ]。
これまでみたように、古代アジア世界における密教の拡散という視点から、行基と係わりの深い大野寺や東大寺の仏教遺産を評価するならば、古代インドやチベットの後期密教との類似性を無視できないと思われる。とりわけ行基の場合、インドへの憧憬を円(マンダラ)の造形に託した感がある。このたび発見された、行基の供養堂と目される菅原遺跡の場合も、円形(に近い)基壇の外側に16本の柱を環状に配列するものであり、日本建築史上類例のない平面をしている。木造建築の技術では、きわめて実現し難い「円」への指向と執着こそが、行基のインドへの憧憬を具体的に表現するものではないだろうか。【完】
【参考サイト】
元興寺文化財研究所(2021)「菅原遺跡-平城京西方の円堂遺構-」
http://www.gangoji.or.jp/index/2020sugawara.pdf 2021年5月24日閲覧
【参考文献】
浅川滋男(1994)「平城宮第1次大極殿復原模型の製作」『奈良国立文化財研究所年報』1994:pp.68-71
浅川滋男(2019a)「从东大寺头塔的复原看宝塔的起源-与藏传佛教窣堵波的结构和配置相比较」『中国建筑学会建筑史分会年会及学术研讨会 2019 论文集(上)近70年建筑史研究与历史建筑被保护 -中华人民共和国的建国70周年纪念』中国建筑学会 建筑史分会年会・北京的工业大学:pp.58-72
浅川滋男(2019b)「从东大寺头塔的复原看宝塔的起源-与藏传佛教窣堵波的结构和配置相比较」『2019年中国科技史学会建筑史专业委员会年会及国际学术的研讨会论文 集』中国科学技术历史学会建筑史专业委员会・福州大学:pp.71-85
浅川滋男(2021)「東大寺頭塔の復元からみた宝塔の起源-チベット仏教の伽藍配置との比較を含めて」『能海寛と宇内一統宗教』同成社:pp. 187-220
泉高父(1175)「行基年譜」、井上薫編(1997)『行基事典』国書刊行会
川越俊一編(2003)『平城宮発掘調査報告XV 東院庭園地区の調査』本文篇:pp.134-135 図版篇:PL103
蕭 黙(1981)『敦煌建築研究』文物出版社
奈良大学(1982)「菅原遺跡」『奈良大学平城京発掘調査報告書』第1集
箱崎和久・浅川滋男・西山和宏(1999)「平城宮東院庭園出土の八角柱と五角斗」『奈良国立文化財研究所年報』1999-Ⅰ:p.16-17
*復元設計のために参照した堂塔については各修理工事報告書を参照。
*「円堂ノート」連載
(1)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2452.html
(2)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2454.html
(3)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2456.html
(4)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2460.html
行基は、仏教の源郷たるインドに強い憧憬を抱いた仏教者ではなかったか。行基自身は渡唐していないが、師とされる道昭(629-700)は遣唐留学僧として玄奘(602-664)に師事した。当時の中国で最もインド仏教の知識を有した高僧であり、その知識を弟子の道昭に伝え、帰国後、間接的ではあるけれども、行基は道昭からインドの情報を吸収した可能性がある。行基と道昭に係わる史書の記載には潤色を含むというので注意を要するが、行基の造営とされる堺市大野寺の土塔(727年ころ)は十三重塔の最上部に円形の粘土ブロックを残すモニュメントであり、屋根も壁も本瓦を直葺きにしていた。日本建築史上類をみないこの建築は、インド的な巨大ストゥ-パを和風化したようにみえる。とくに頂部の円形構造物(おそらく伏鉢)の「円」はサンスクリット語のマンダラに相当し、9世紀以降に隆盛する真言密教の曼陀羅との関係を想起させる。
天平8年(736)、大仏造営のため聖武天皇がインド僧菩提僊那、林邑僧仏哲等を招聘した際、行基は大宰府でかれらを迎え、平城京まで案内した。おそらく行基は菩提僊那からもインドの情報を吸収したものと推察される。行基は天平15年(743)大仏造営の勧進就任を経て、同17年(745)大僧正に任命される。行基の入滅(749)後しばらくして、東大寺別当良弁が南大門の正面(南方)約1kmのところに頭塔を造営する。頭塔は五重の土塔であり、壁面に44体の石仏を貼り付けている。いわばボロブドール(8世紀後半)の日本版というべきモニュメントであり、大野寺の土塔をさらに南アジアの立体マンダラ風に仕上げたものと推察される。
この時代、インドではバラモン教の呪術を取り入れた「密教」が流行し始めていた。密教は、一方では、中国中原地域を経由して日本にまで伝来し、他方ではチベット・ブータン地域や東南アジアにまで拡散していった。東南アジアの仏教と言えば「上座部」というイメージがあるけれども、たとえば、インドネシア・ジャワ島にはボロブドール(仏教・8世紀)とプランバナン(ヒンドゥ教・9世紀)が併存しており、カンボジアのアンコール遺跡群のでも、バイヨン(12世紀末以降)は仏教・ヒンドゥ教習合のモニュメントである。ヒンドゥ教と密教(大乗仏教の最終形)はバラモン教呪術の継承という点で類似する側面をもっており、むしろインドネシアやカンボジアの上記モニュメントはヒンドゥ教と覇を競った後期密教が東南アジアに拡散したことの例証になるではないだろうか。
日本の場合、空海が日本に帰国する9世紀初頭以降、密教(真言宗)が波及していくというのが常識的な理解だが、筆者浅川の見方は異なっている。8世紀に造営された東大寺大仏(毘盧遮那仏)こそがその鍵を解くものである。華厳教の総本山東大寺の本尊仏「毘盧遮那」はサンスクリット語ヴァイローチャナ(vairocana)の漢音訳であるのに対し、9世紀に空海がもたらした真言密教の本尊「大日如来」はヴァイローチャナの意訳である。すなわち、「毘盧遮那=大日如来」という等式が成立し、華厳教はすでに真言密教の要素を多分に含んでいたと考えるのが妥当である。言い換えるならば、8世紀に造営された東大寺こそが先駆的な密教系の寺院であり、その本尊たる毘盧遮那大仏は平安密教の大日如来にほかならなかった。華厳教が密教であるならば、密教のシンボルというべき宝塔/多宝塔も存在したであろうと思いがちだが、奈良時代の日本に宝塔/多宝塔は未だ出現していない。その代わりのモニュメントとして位置づけられるのが、頭塔や土塔ではないかと思っている。
チベット・ブータン地域では直訳の仏典だけでなく、多くの密教系遺産がよく保全されている。じっさい、東大寺頭塔の形状や配置はチベット・ブータン地域の伽藍とよく似ている。戒壇状テラスの壁面に多数の仏像を配し、その頂部に円形のストゥーパ(舎利塔)を置く立体マンダラの造形はもちろんのこと、伽藍正門の正面から一定の距離を隔てて立地する配置の類似性にはとくに注目したい[浅川2019ab、浅川2021 ]。
これまでみたように、古代アジア世界における密教の拡散という視点から、行基と係わりの深い大野寺や東大寺の仏教遺産を評価するならば、古代インドやチベットの後期密教との類似性を無視できないと思われる。とりわけ行基の場合、インドへの憧憬を円(マンダラ)の造形に託した感がある。このたび発見された、行基の供養堂と目される菅原遺跡の場合も、円形(に近い)基壇の外側に16本の柱を環状に配列するものであり、日本建築史上類例のない平面をしている。木造建築の技術では、きわめて実現し難い「円」への指向と執着こそが、行基のインドへの憧憬を具体的に表現するものではないだろうか。【完】
【参考サイト】
元興寺文化財研究所(2021)「菅原遺跡-平城京西方の円堂遺構-」
http://www.gangoji.or.jp/index/2020sugawara.pdf 2021年5月24日閲覧
【参考文献】
浅川滋男(1994)「平城宮第1次大極殿復原模型の製作」『奈良国立文化財研究所年報』1994:pp.68-71
浅川滋男(2019a)「从东大寺头塔的复原看宝塔的起源-与藏传佛教窣堵波的结构和配置相比较」『中国建筑学会建筑史分会年会及学术研讨会 2019 论文集(上)近70年建筑史研究与历史建筑被保护 -中华人民共和国的建国70周年纪念』中国建筑学会 建筑史分会年会・北京的工业大学:pp.58-72
浅川滋男(2019b)「从东大寺头塔的复原看宝塔的起源-与藏传佛教窣堵波的结构和配置相比较」『2019年中国科技史学会建筑史专业委员会年会及国际学术的研讨会论文 集』中国科学技术历史学会建筑史专业委员会・福州大学:pp.71-85
浅川滋男(2021)「東大寺頭塔の復元からみた宝塔の起源-チベット仏教の伽藍配置との比較を含めて」『能海寛と宇内一統宗教』同成社:pp. 187-220
泉高父(1175)「行基年譜」、井上薫編(1997)『行基事典』国書刊行会
川越俊一編(2003)『平城宮発掘調査報告XV 東院庭園地区の調査』本文篇:pp.134-135 図版篇:PL103
蕭 黙(1981)『敦煌建築研究』文物出版社
奈良大学(1982)「菅原遺跡」『奈良大学平城京発掘調査報告書』第1集
箱崎和久・浅川滋男・西山和宏(1999)「平城宮東院庭園出土の八角柱と五角斗」『奈良国立文化財研究所年報』1999-Ⅰ:p.16-17
*復元設計のために参照した堂塔については各修理工事報告書を参照。
*「円堂ノート」連載
(1)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2452.html
(2)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2454.html
(3)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2456.html
(4)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2460.html