過去への旅路(3)-人文研講演
魏志東夷伝にみる住まいの描写
京都大学人文科学研究所(人文研)で今年度より始まった新規共同研究「3世紀東アジアの研究」(代表:森下客員教授)のスピーカーとして講演することになりました。日程・会場等の概要は以下のとおりです。
日時: 2018年6月22日(金) 14時00分~17時00分
会場: 京都大学人文科学研究所分館 大会議室(2階)
講演: 浅川滋男(公立鳥取環境大学大学院教授)
演題: 魏志東夷伝にみる住まいの描写―建築考古学的成果との対照考察―(仮題)
研究班員以外でも来聴歓迎とのこと。たいした話もできませんが、聴講希望の方がおられましたらご連絡ください。さて、本講演の依頼が届いたのは4月13日(金)のことでした。驚いたことに、先方は拙論「正史東夷伝にみえる住まいの素描」(『文化財論叢』Ⅱ)に興味を抱いたので、その内容を講演してほしいとのご要望です。驚きました。いったい私はいつこの論文を書いたのか。記憶が鮮明ではないので、調べてみました。
浅川(1995)「正史東夷伝にみえる住まいの素描」『文化財論叢Ⅱ』
奈良国立文化財研究所40周年論文集:pp.795-819、同朋舎出版
思い起こせば曰くつきの論文です。この論文を発表した1995年、恩師が大学を退官されました。本稿はその退官記念論文集のために準備したものだったのです。編者は福州で再会したプー先生。しかし結局、論文は集まらなかった。退官祝賀の論文を書いたのは私一人だったようです。結果、奈文研40周年論文集に使いまわすことに決めました。こちらは数十名が執筆したのですが、すんなり同朋舎から出版されました。奈文研は京大(建築)より機能しています。
論文公刊に先立ち、ほぼ同じ題目で講演を依頼されました。同志社大学考古学研究室の木曜定例研究会にお呼ばれしたのです。正確な年月日は覚えていないのですが、自分が38歳だったという記憶があるので、おそらく1994年のはずです。木曜定例研究会の主催者は森浩一さん(1928 - 2013)でした。教授室の扉をあけると、畳が(たしか)二畳敷かれています。そこが客座でした。例の、彫りの深い哲学者のような顔立ちの方と初めて面会した瞬間です。オーラのある方でした。じつは当時、奈文研と森さんの関係は良好なものではありませんでした。森さんが某雑誌の座談会で「奈文研はオレがつくった(ようなもの?)」という類の発言をされたため、当時の所長が激怒し、所員全員に当該座談会ページのコピーを配布していたのです。まもなく正式な抗議文が雑誌の編集部に提出されました。そのあたりのことは森さんにお伝えしました。
京都大学人文科学研究所(人文研)で今年度より始まった新規共同研究「3世紀東アジアの研究」(代表:森下客員教授)のスピーカーとして講演することになりました。日程・会場等の概要は以下のとおりです。
日時: 2018年6月22日(金) 14時00分~17時00分
会場: 京都大学人文科学研究所分館 大会議室(2階)
講演: 浅川滋男(公立鳥取環境大学大学院教授)
演題: 魏志東夷伝にみる住まいの描写―建築考古学的成果との対照考察―(仮題)
研究班員以外でも来聴歓迎とのこと。たいした話もできませんが、聴講希望の方がおられましたらご連絡ください。さて、本講演の依頼が届いたのは4月13日(金)のことでした。驚いたことに、先方は拙論「正史東夷伝にみえる住まいの素描」(『文化財論叢』Ⅱ)に興味を抱いたので、その内容を講演してほしいとのご要望です。驚きました。いったい私はいつこの論文を書いたのか。記憶が鮮明ではないので、調べてみました。
浅川(1995)「正史東夷伝にみえる住まいの素描」『文化財論叢Ⅱ』
奈良国立文化財研究所40周年論文集:pp.795-819、同朋舎出版
思い起こせば曰くつきの論文です。この論文を発表した1995年、恩師が大学を退官されました。本稿はその退官記念論文集のために準備したものだったのです。編者は福州で再会したプー先生。しかし結局、論文は集まらなかった。退官祝賀の論文を書いたのは私一人だったようです。結果、奈文研40周年論文集に使いまわすことに決めました。こちらは数十名が執筆したのですが、すんなり同朋舎から出版されました。奈文研は京大(建築)より機能しています。
論文公刊に先立ち、ほぼ同じ題目で講演を依頼されました。同志社大学考古学研究室の木曜定例研究会にお呼ばれしたのです。正確な年月日は覚えていないのですが、自分が38歳だったという記憶があるので、おそらく1994年のはずです。木曜定例研究会の主催者は森浩一さん(1928 - 2013)でした。教授室の扉をあけると、畳が(たしか)二畳敷かれています。そこが客座でした。例の、彫りの深い哲学者のような顔立ちの方と初めて面会した瞬間です。オーラのある方でした。じつは当時、奈文研と森さんの関係は良好なものではありませんでした。森さんが某雑誌の座談会で「奈文研はオレがつくった(ようなもの?)」という類の発言をされたため、当時の所長が激怒し、所員全員に当該座談会ページのコピーを配布していたのです。まもなく正式な抗議文が雑誌の編集部に提出されました。そのあたりのことは森さんにお伝えしました。