はてなキーワード: 譜代とは
家康だけでなく秀吉も島津氏を恐れ、その弱体化を図るために義弘を優遇して逆に兄の義久を冷遇する事で兄弟の対立を煽ろうとしたが、島津四兄弟(義久、義弘、歳久、家久)の結束は固く、微塵も互いを疑うことは無かった。この流れで義弘を17代目当主という見方が出来たとされるが、義弘は「予、辱くも義久公の舎弟となりて(『惟新公御自記』)」と義久を敬うこと終生変わらなかった。しかし、『樺山紹劔自記』では「弟・家久の戦功を妬む様は総大将に相応しい振る舞いではない」と人間くさい一面も紹介されている。
敵に対しても情け深く、朝鮮の役の後には敵味方将兵の供養塔を高野山に建設している。
祖父・島津忠良から「雄武英略をもって他に傑出する」と評されるほどの猛将だった。
許三官仕込みの医術や茶の湯、学問にも秀でた才能を持つ文化人でもあった。また、家臣を大切にしていたので多くの家臣から慕われ、死後には殉死禁止令下であったにも関わらず13名の殉死者も出すに至っている。
義弘は主従分け隔てなく、兵卒と一緒になって囲炉裏で暖をとったりもしていた。このような兵卒への気配りもあってか、朝鮮の役では日本軍の凍死者が続出していたが島津軍には一人も出なかった[11]。
義弘は家臣らに子が生まれ、生後30余日を過ぎると父母共々館に招き入れて、その子を自身の膝に抱くと「子は宝なり」とその誕生を祝した[11]。また元服した者の初御目見えの際、その父親が手柄のある者であれば「お主は父に似ているので、父に劣らない働きをするだろう」と言い、父に手柄のない者には「お主の父は運悪く手柄と言えるものはなかったが、お主は父に勝るように見えるから手柄をたてるのだぞ」と一人一人に声を掛けて励ましている[13]。
三ツ山城を攻めたときに重創を負いその湯治場として吉田温泉(えびの市)を利用して以来、島津家の湯治場として度々利用していたが、自身のみならず家臣らにも利用させた。
九州平定後、義弘が秀吉から拝領した播磨国の領地を管理する際、現地で井上惣兵衛尉茂一という人物が検地などで義弘に協力した。そのお礼として、義弘は井上に島津姓と家紋を授けた。この井上が、島津製作所の創始者・初代・島津源蔵の祖先であると島津製作所の歴史に記されている[14]。
秀吉への降伏の際に島津家は本拠である薩摩一国以外の領土を全て奪われることを覚悟していたが、秀吉方の使者として交渉にあたった石田三成の取りなしにより大隅一国と日向の一部が島津領として残った。この事から義弘は三成に対して深く感謝し、その後も深い交誼があったため関ヶ原の戦いにおいて島津家中において東軍参加を主張するものが主流派であったが義弘は自身の三成に対する恩義と親交を理由に西軍に積極的に参加したとも言われており、最初は東軍に参加するつもりで軍を出していたという説は江戸時代に島津家が徳川将軍家に臣従していくにあたって創作されたものであるともいわれる。
愛妻家であり、家庭を大事にする人情味溢れる性格だったといわれている。朝鮮在陣中に妻に送った手紙の中に、「3年も朝鮮の陣中で苦労してきたのも、島津の家や子供たちのためを思えばこそだ。だが、もし自分が死んでしまったら子供たちはどうなるだろうと思うと涙が止まらない。お前には多くの子供がいるのだから、私が死んでも子供たちのためにも強く生きてほしい。そうしてくれることが、1万部のお経を詠んでくれるより嬉しい」という内容のものがあり、義弘の家族を心から愛する人となりが窺える。
武勇と実直な人柄から、福島正則ら武闘派の武将たちに大いに尊敬されていたようである。その為、関ヶ原の撤退戦においても松平忠吉や井伊直政ら徳川譜代のみが追撃を行い直政自身が深手を負う結果に繋がった。
若い時の義弘は特に血気盛んだったようである。弘治3年(1557年)の蒲生城攻めの際、23歳の義弘は真っ先に攻め入って一騎討ちを制したり自らの鎧の5ヶ所に矢を受けて重傷を負ったりしたほどの決死の勇戦を見せたという。また、木崎原の戦いにおいて、日州一の槍突きとうたわれた柚木崎正家を討ち取っている。
慶長4年(1599年)、剃髪・入道し惟新斎と号したがこれは祖父・忠良の号・日新斎にあやかったものである。
木崎原の戦いにおいて伊東祐信、柚木崎正家との戦いの折に愛馬が膝を突き曲げて敵の攻撃をかわし義弘の命を救っている。この馬は後に「膝突栗毛(膝跪騂)」と呼ばれ義弘の主要な合戦にのみ従軍するようになり、人間の年齢にして83歳まで生きた。姶良市に墓と墓碑が建てられている。
慶長の役の際、義弘は正確な時を知るために7匹の猫を戦場に連れて行ったという逸話がある。猫の目の明るい所では細くなり、暗い所では丸くなる特性から、時刻を読みとったとされ7匹のうち2匹が日本に生還した。この2匹を祀った神社が鹿児島の仙厳園にある「猫神神社」である[15]。
晩年は体の衰えが顕著になり、1人で立ち歩き、食事を摂ることも不可能になっていた。それを見かねた家臣が昼食を摂る際、「殿、戦でございます」と告げると城外で兵たちの鬨の声が聞こえてきた。それを聴いた義弘の目は大きく見開き、1人で普段からは考えられないほどの量の食事を平らげたという。
関ヶ原で敵中突破をした後、生き残った家臣らは義弘に薩摩への早期帰還を勧めた。しかし義弘は大坂で人質になっている妻子らを救出するため、「大坂城で人質になっている者を捨て、どの面下げて国に帰ることができようか」と述べ、妻子の救出に向かったという(『惟新公関原御合戦記』)。
義弘の肝の太さを示す逸話がある。義弘の小姓らが主君の不在をいいことに囲炉裏端で火箸を火の中で焼いて遊んでいた。そこに義弘がやってきたので、小姓らは慌てて火箸を灰の中に取り落とした。それを見て義弘は素手で囲炉裏に落ちていた火箸を拾い、顔色一つ変えず静かに灰の中に突き立てた。後で家臣が「大丈夫でございますか?」と尋ねると「大丈夫だ。まったく小姓どもは悪さばかりして手を焼かせおる」と笑って返した。家臣が義弘の手を見ると、その掌が真っ赤に焼きぶくれていたという(『武功雑記』)。なお、同じ内容の逸話が加藤嘉明にも存在するため、島津家か加藤家のどちらかが模倣した可能性が高い。
戦陣医術に詳しく、『上井覚兼日記』によると天正12年(1584年)10月1日から7日までの一週間にかけて、島津忠長と上井覚兼に対して金瘡医術の伝授を行い、秘伝の医書を与えている。金瘡医術とは戦傷全般とこれに付随する病気、およびこれから派生する婦人病を扱った医術のことである[16]。
茶の湯を千利休、古田織部に学んだ茶人でもあり、茶書『惟新様より利休え御尋之条書』や織部から薩摩焼の茶入の指導を受けた書状が残る。
出生
天文14年(1545年)、猿楽師の大蔵信安の次男として生まれる。長安の祖父は春日大社で奉仕する猿楽(現能)金春流の猿楽師で、父の信安の時代に大和国から播磨国大蔵に流れて大蔵流を創始した。この頃に生まれたのが長安であったという。
父の信安は猿楽師として甲斐国に流れ、武田信玄お抱えの猿楽師として仕えるようになったという。長安は信玄に見出されて、猿楽師ではなく家臣として取り立てられ、譜代家老・土屋昌続の与力に任じられたという。この時、姓も大蔵から土屋に改めている。長安は蔵前衆として取り立てられ、武田領国における黒川金山などの鉱山開発や税務などに従事したという。
武田信玄没後はその子・勝頼に仕えた。天正3年(1575年)の長篠の戦いでは、兄・新之丞や寄親の土屋昌続は出陣して討死しているが、長安は出陣していない。天正10年(1582年)、織田信長・徳川家康連合軍の侵攻(甲州征伐)によって武田氏は滅亡する。
ただし一説では、武田勝頼から疎まれたため、武田氏を自ら離れて猿楽師に戻り、三河国に移り住んでいたとも言われている。
遠江国佐野郡懸川宿の年寄に対する掟書(『德川家奉行衆連署傳馬掟書』慶長6年1月、個人蔵)[2]。伊奈忠次、彦坂元正と連署しており、「大久保十兵衛」[3]と記され黒印が押されている
甲斐武田家が滅んだ後、長安は徳川家康の家臣として仕えるようになる。家康が甲州征伐の際に逗留用の仮館を長安が建設したが、この時に家康がその館を見て長安の作事の才能を見抜き、仕官を許したといわれている。また、一説では家康の近臣で、旧武田家臣の成瀬正一を通じて自分が信玄にも認められた優秀な官僚であり、金山に関する才能に恵まれていることを売り込んで、家康に仕えるようになったともいわれている。
長安は大久保忠隣の与力に任じられ、その庇護を受けることとなる。この際に名字を賜り、姓を大久保に改めた。天正10年6月、本能寺の変で信長が死去して甲斐が家康の所領となる。しかし当時の甲斐は、武田家滅亡後の混乱から乱れていた。そこで家康は本多正信と伊奈忠次を所務方に任じて、甲斐の内政再建を命じた。ただし、実際に所務方として再建を行なったのは長安であるとされている。長安は釜無川や笛吹川の堤防復旧や新田開発、金山採掘などに尽力し、わずか数年で甲斐の内政を再建したと言われている。
天正18年(1590年)の小田原征伐後、家康は関東に移ることになる。この時、長安は青山忠成(江戸町奉行)、伊奈忠次、長谷川長綱、彦坂元正らと共に奉行(代官頭)に任じられ、家康が関東に入った後の土地台帳の作成を行なった。これは家康が後に関東で家臣団に所領を分配する時に、大いに役立ったと言われている。
また、関東250万石のうち、100万石は家康の直轄領となったが、この時に長安は長谷川長綱、彦坂元正、伊奈忠次と共に関東代官頭として家康直轄領の事務差配の一切を任されている。
天正19年(1591年)には家康から武蔵国八王子(後に横山)に8,000石の所領を与えられた。ただし、八王子を以前に支配していた北条氏照の旧領をそのまま与えられた形となったらしく、実際は9万石を与えられていたという。長安は八王子宿(現・東京都八王子市)に陣屋を置き、八王子十八人代官を置き、宿場の建設を進め、浅川の氾濫を防ぐため土手を築いた。石見土手と呼ばれている。
長安はまた、家康に対して武蔵の治安維持と国境警備の重要さを指摘し、八王子五百人同心の創設を具申して認められ、ここに旧武田家臣団を中心とした八王子五百人同心が誕生した。慶長4年(1599年)には同心を倍に増やすことを家康から許され、八王子千人同心となった。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが起こると、長安は忠次と共に徳川秀忠率いる徳川軍の輜重役を務めている。戦後、豊臣氏の支配下にあった佐渡金山や生野銀山などが全て徳川氏の直轄領になる。すると長安は同年9月に大和代官、10月に石見銀山検分役、11月に佐渡金山接収役となる。
慶長6年(1601年)春に徳川四奉行補佐にて甲斐奉行、8月に石見奉行、9月には美濃代官に任じられた。これらは全て兼任の形で家康から任命されている。異例の昇進と言ってもよく、家康が長安の経理の才能を高く評価していたことがうかがえるものである。
慶長8年(1603年)2月12日、家康が将軍に任命されると、長安も特別に従五位下石見守に叙任され、家康の六男・松平忠輝の附家老に任じられた。7月には佐渡奉行に、12月には所務奉行(後の勘定奉行)に任じられ、同時に年寄(後の老中)に列せられた。
慶長10年(1605年)、大久保長安を普請奉行として武蔵御嶽神社の本社を普請。
慶長11年(1606年)2月には伊豆奉行にも任じられた。つまり長安は家康から全国の金銀山の統轄や、関東における交通網の整備、一里塚の建設などの一切を任されていたのである。現在知られる里程標、すなわち1里=36町、1町=60間、1間=6尺という間尺を整えたのも長安である。
これら一切の奉行職を兼務していた長安の権勢は強大であったと言われる。また、7人の息子を石川康長や池田輝政の娘と結婚させ、忠輝と伊達政宗の長女・五郎八姫の結婚交渉を取り持ち、忠輝の岳父が政宗となったことから政宗とも親密な関係を築いていたと言われている。そのため、その権勢や諸大名との人脈から「天下の総代官」と称された。この頃、長安の所領は八王子8,000石(実際は9万石)に加えて、家康直轄領の150万石の実質的な支配を任されていたと言われている。
慶長17年(1612年)7月27日、中風にかかり、家康から烏犀円を与えられている(『駿府記』)[4]。
しかし晩年に入ると、全国の鉱山からの金銀採掘量の低下から家康の寵愛を失い、美濃代官を初めとする代官職を次々と罷免されていくようになる。さらに正室が早世するなどの不幸も相次ぐ中で、慶長18年(1613年)4月25日、中風のために死去した[5]。享年69。
長安の死後に生前の不正蓄財が問われ、また長安の子は蓄財の調査を拒否したため、慶長18年(1613年)7月9日、長安の嫡男・藤十郎(37歳)、次男・外記(36歳)、三男・青山成国(30歳)、四男・達十郎(29歳)、五男・内膳(27歳)、六男・右京長清(23歳)、七男・安寿(15歳)、以上7人は切腹となった。また縁戚関係の諸大名も改易などの憂き目にあった(大久保長安事件)。
ほとんど外様に近い立場から[6]老中(加判)に就いた唯一の人物であり、その謎めいた生涯は多くのフィクションの対象となっている。
無類の女好きで、側女を70人から80人も抱えていたと言われている。
金山奉行などをしていた経緯から派手好きであり、死後、自分の遺体を黄金の棺に入れて華麗な葬儀を行なうように遺言したという[7]。
同じく京の守備を命じられた浅野幸長に使番佐久間加右衛門を派遣した。
しかし、この時家康は福島等豊臣家譜代の者を全面的には信用しておらず、
別に徳川譜代の臣伊奈昭綱を日ノ岡に急行させ、検問するようにも命じていた。
佐久間加右衛門はこの検問にて通行証を持たぬゆえ通過を認められなかった。
しかし主命を果たそうとする加右衛門は関所の者と口論になった。
「我が主は内府様に命じられての京の守護役であり、これから使いに参る浅野殿も京の守護役である
その御用筋にて使いに参るゆえ通されよ。」と頼むが
関所の門番は「相成らんと申せば相成らん」と申すばかりで聞き入れない。
加右衛門はさらに強く頼むがついには数人に囲まれ六尺棒で打ち据えられてしまう。
※この時はこれを堪え頭を下げ主命を果たす逸話と果たせず追い返される逸話があるようです。
「あの場で刀を抜いて闘っては相手は多勢であり、手籠めにあえばますます恥をさらしてしまうと思い
刀も抜けずにおりました。なにぶんにも男の面目は立ちませぬゆえ切腹いたします。
されば今生の残る思いに、殿にお願いがござります。事の次第を殿より伊奈昭綱殿にご通知くだされ、
佐久間加右衛門は臆病者にあらず、立派に腹を切って果てたと。」
正則は加右衛門の話を聞き、加右衛門の名誉のためには立派に腹を切らせてやらねばならぬと思い
切腹を許しこの家来の不幸に泣いた。
そして福島正則は事情を書いた手紙を添え佐久間加右衛門の首を徳川家康に送り
正則はあくまで伊奈の首を要求し、正則との関係を悪くできない情勢だっただけに
小山田 信茂(おやまだ のぶしげ)は、戦国時代の武将。甲斐武田氏の家臣で譜代家老衆。甲斐東部郡内領の国衆。武田二十四将の一人に数えられる。
信茂の勝頼離反から滅亡
天正9年12月、織田信長・徳川家康は武田領攻めを開始し(甲州征伐。総大将織田信忠、副将滝川一益)、信濃木曽郡の国衆・木曾義昌が離反する。また、これに伴い相模の後北条氏も武田領への侵攻を開始した。義昌の離反を契機に信濃領国は動揺し、翌天正10年(1582年)2月2日に勝頼は信濃諏訪上原(長野県茅野市)に出兵し、『甲乱記』に拠れば信茂もこれに従ったという。2月29日に織田信忠は伊那郡高遠城の仁科盛信(信盛)を攻め、信忠は矢文で盛信に降伏を促し、信茂らが勝頼から離反したと伝えているが、この段階で信茂が勝頼から離反していることは虚報であると指摘されている[15]。
勝頼は天正9年に新府城(山梨県韮崎市)を新たに築城し甲府から本拠を移転しており、『信長公記』によれば同年3月3日に勝頼は新府城を放棄し、小山田氏の郡内へ逃れたという。『甲陽軍鑑』によれば勝頼嫡男の信勝は新府城における籠城を主張したが、これに対して信濃の国衆・真田昌幸が上野岩櫃城(群馬県東吾妻町)への退避を提案した。しかし勝頼側近の長坂光堅が小山田を頼り郡内の岩殿城(大月市賑岡町)へ逃れることを主張したという。一方、『甲乱記』では信勝や昌幸の提案を記さず、勝頼が信茂に対し郡内への退避を諮問したとしている。
なお、岩殿城は小山田氏の詰城とされているが、小山田氏の本拠である谷村城(都留市谷村城)からは距離があることから、岩殿城を小山田氏の城とするか武田氏の城とするかで議論がある[16]。なお、天正9年3月20日に岩殿城へ武田勝頼が在番衆を派遣している事実も注目されている[17]。
武田勝頼一行が郡内領へ退避するさなか信茂は勝頼から離反。勝頼は田野(甲州市大和町)において織田方の滝川一益の軍勢と戦い、武田宗家は滅亡した(天目山の戦い)。
信茂離反に関して、武田側の史料では、まず『甲陽軍鑑』に拠れば勝頼一行は郡内領への入り口である鶴瀬(甲州市大和町)において7日間逗留し信茂の迎えを待っていたが、3月9日夜に信茂は郡内領への道を封鎖し、勝頼一行に対して木戸から郡内への退避を呼びかけると見せかけ、信茂の従兄弟・小山田八左衛門と勝頼の従兄弟・武田信堯(のぶたか)が信茂の人質を郡内へ退避させ、信茂は勝頼一行に虎口から鉄砲を放ったという。信堯は正室が御宿友綱の妹で、信茂とは相婿の関係にある。なお、『武田三代軍記』『理慶尼記』でも同様の話を記し、『理慶尼記』では信茂の離反を7日の出来事とし、信茂が郡内への入り口を封鎖した地を笹子峠(大月市・甲州市)としている。一方、『甲乱記』では信茂離反の日付を記さず、勝頼は柏尾(甲州市勝沼町)において信茂を待ち、駒飼(甲州市大和町)に移動したところで信茂の離反を知ったとしている。
甲斐善光寺
一方、織田・徳川方の史料として、『信長公記』では勝頼は小山田の館まで辿り着いたが、信茂は勝頼の使者をはねつけたと簡潔に記している。『三河物語』では小山田八左衛門が登場し、勝頼が郡内領へ逃れる途中に小山田八左衛門を信茂のもとに派遣したが帰還せず、信茂離反を知ったという。
織田氏・徳川氏勢により甲斐が平定された後、信茂は嫡男を人質として差し出すために信長に拝謁しようとしたが、織田信忠から武田氏への不忠を咎められ処刑された。
『信長公記』では3月7日条に成敗した「小山田出羽守(信茂)」の名を記し、『甲陽軍鑑』では武田信堯や小山田八左衛門らの名も記している。一方、『甲乱記』、『甲斐国志』に拠れば、3月24日、甲斐善光寺で嫡男、老母、妻、女子とともに処刑されたという。享年44。長生寺『月日過去帳』・森嶋本『甲斐国志草稿』に記される伝存しない同寺所蔵の位牌によれば戒名は「青雲院殿武山長文居士」。信茂の命日は『甲乱記』、長生寺『月日過去帳』に「24日」と記され、『甲乱記』では3月11日の勝頼自害から13日後としている。
武田家において信玄の「弓矢の御談合七人衆」に両職の山県・馬場ら重臣と共に名を列ねている。
武田の小男と恐れられた山県昌景に「若手では小山田信茂、文武相調ひたる人物はほかにいない」と評される。
設楽ヶ原の戦いにおいては、早々に撤退して戦線を崩した武田信廉・穴山信君ら一門衆とは反対に、山県昌景隊の後備として最前線で戦い続けている。
鉄道唱歌(作詞:福山寿久)には「川を隔てて聳ゆるは 岩殿山の古城蹟 主君に叛きし奸党の 骨また朽ちて風寒し」と詠われており[20]、小山田信茂は「奸党」とまで蔑まれている。
信長というと、短気で気分しだいで人を殺していたとか思われがちだが、
20年来の宿老の佐久間信盛を解任する際も、暴君なら理由もなしに追い払ってしまうものだが、
信長は以下の長文をわざわざ直筆で書いている。
一、佐久間信盛・信栄親子は天王寺城に五年間在城しながら何の功績もあげていない。世間では不審に思っており、自分にも思い当たることがあり、口惜しい思いをしている。
一、信盛らの気持ちを推し量るに、石山本願寺を大敵と考え、戦もせず調略もせず、ただ城の守りを堅めておれば、相手は坊主であることだし、何年かすればゆくゆくは信長の威光によって出ていくであろうと考え、戦いを挑まなかったのであろうか。武者の道というものはそういうものではない。勝敗の機を見極め一戦を遂げれば、信長にとっても佐久間親子にとっても兵卒の在陣の労苦も解かれてまことに本意なことであったのに、一方的な思慮で持久戦に固執し続けたことは分別もなく浅はかなことである。
一、丹波国での明智光秀の働きはめざましく天下に面目をほどこした。羽柴秀吉の数カ国における働きも比類なし。池田恒興は少禄の身であるが、花隈城を時間も掛けず攻略し天下に名誉を施した。これを以て信盛も奮起し、一廉の働きをすべきであろう。
一、柴田勝家もこれらの働きを聞いて、越前一国を領有しながら手柄がなくては評判も悪かろうと気遣いし、この春加賀へ侵攻し平定した。
一、戦いで期待通りの働きができないなら、人を使って謀略などをこらし、足りない所を信長に報告し意見を聞きに来るべきなのに、五年間それすらないのは怠慢で、けしからぬことである。
一、信盛の与力・保田知宗の書状には「本願寺に籠もる一揆衆を倒せば他の小城の一揆衆もおおかた退散するであろう」とあり、信盛親子も連判している。今まで一度もそうした報告もないのにこうした書状を送ってくるというのは、自分のくるしい立場をかわすため、あれこれ言い訳をしているのではないか。
一、信盛は家中に於いては特別な待遇を受けている。三河・尾張・近江・大和・河内・和泉に、根来衆を加えれば紀伊にもと七ヶ国から与力をあたえられている。これに自身の配下を加えれば、どう戦おうともこれほど落ち度を取ることはなかっただろう。
一、水野信元死後の刈谷を与えておいたので、家臣も増えたかと思えばそうではなく、それどころか水野の旧臣を追放してしまった。それでも跡目を新たに設けるなら前と同じ数の家臣を確保できるはずだが、1人も家臣を召し抱えていなかったのなら、追放した水野の旧臣の知行を信盛の直轄とし、収益を金銀に換えているということである。言語道断である。
一、山崎の地を与えたのに、信長が声をかけておいた者をすぐに追放してしまった。これも先の刈谷と件と思い合わされる事である。
一、以前からの家臣に知行を加増してやったり、与力を付けたり、新規に家臣を召し抱えたりしていれば、これほど落ち度を取ることはなかったであろうに、けちくさく溜め込むことばかり考えるから今回、天下の面目を失ってしまったのだ。これは唐・高麗・南蛮の国でも有名なことだ。
一、先年、朝倉をうち破ったとき(=刀根坂の戦い)、戦機の見通しが悪いとしかったところ、恐縮もせず、結局自分の正当性を吹聴し、あまつさえ席を蹴って立った。これによって信長は面目を失った。その口程もなく、ここ(天王寺)に在陣し続けて、その卑怯な事は前代未聞である。
一、大まかに言えば、第一に欲深く、気むずかしく、良い人を抱えようともしない。その上、物事をいい加減に処理するというのだから、つまり親子共々武者の道を心得ていないからこのような事になったのである。
一、与力ばかり使っている。他者からの攻撃に備える際、与力に軍役を勤めさせ、自身で家臣を召抱えず。領地を無駄にし、卑怯な事をしている。
一、信盛の与力や家臣たちまで信栄に遠慮している。自身の思慮を自慢し穏やかなふりをして、綿の中に針を隠し立てたような怖い扱いをするのでこの様になった。
一、信長の代になって30年間奉公してきた間、「信盛の活躍は比類なし」と言われるような働きは一度もない。
一、信長の生涯の内、勝利を失ったのは先年三方ヶ原へ援軍を使わした時で、勝ち負けの習いはあるのは仕方ない。しかし、家康のこともあり、おくれをとったとしても兄弟・身内やしかるべき譜代衆が討死でもしていれば、信盛が運良く戦死を免れても、人々も不審には思わなかっただろうに、一人も死者をだしていない。あまつさえ、もう一人の援軍の将・平手汎秀を見殺しにして平然とした顔をしていることを以てしても、その思慮無きこと紛れもない。
一、こうなればどこかの敵をたいらげ、会稽の恥をすすいだ上で帰参するか、どこかで討死するしかない。
一、親子共々頭をまるめ、高野山にでも隠遁し連々と赦しを乞うのが当然であろう。
右のように数年の間ひとかどの武勲もなく、未練の子細はこのたびの保田の件で思い当たった。そもそも天下を支配している信長に対してたてつく者どもは信盛から始まったのだから、その償いに最後の2か条を実行してみせよ。承知しなければ二度と天下が許すことはないであろう。
また、秀吉が浮気したときに、奥さんの禰禰にこのような手紙も送っている。
私の命に従い、この度、この地(安土城)にはじめて尋ねてくれて嬉しく思う。
その上、土産の数々も美しく見事で、筆ではとても表現できない程だ。
そのお返しに、私の方からも「何をやろう」かと思ったが、そなたの土産があまりに見事で、何を返せば良いのか思い付かなかったので、この度はやめて、そなたが今度来た時にでも渡そうと思う。
そなたの美貌も、いつぞやに会った時よりも、十の物が二十になるほど美しくなっている。
藤吉郎(秀吉)が、何か不足を申しているとのことだが言語同断けしからぬことだ。
どこを探しても、そなたほどの女性を二度とあの禿ねずみは見付けることができないだろう。
これより先は、身の持ち方を陽快にして、奥方らしく堂々と、やきもちなどは妬かないように。
ただし、女房の役目として、言いたいことがある時はすべて言うのではなく、ある程度に留めて言うとよい。
又々 かしく藤吉郎 女ども
のぶ
社会、組織はルールで成り立つ。ただ、ルールといっても端っこのほうでは多少裁量の余地はある。
ルールをルール通りに運用すれば過ちがない代わりに、事情を加味してくれないから冷たいとなる。ザ・官僚
後、讒言にはかなり弱いな。
そこで裁量を生かしたり、事情を加味すことにより恩を与えて忠誠心を持たせたりする。ザ・狸おやじ
といっても、ザ・狸おやじばかりになれば社会は腐敗していく。ザ・狸おやじもそれはわかってるから、大名たちの移動で大大名は遠く、かつ、中間に譜代大名を配置する。関東近くは旗本、譜代のみと反乱を起こしにくいようにしたんだろうけど。
けどさあ、被害者がいるのに、「こいつに恩を与えたいから」でもみ消したりとか法律を無理やり運用するとか、
あるいは「今やばいから」とあんまり恩を与える価値にない奴を血祭りにあげるのとか心象良くないよ。
http://www.nikkei.com/article/DGXLASFS17H4O_X10C17A5PP8000/
ぶっちゃけ、何が問題がいまいちピンと来ない人が多いと思うので、自分なりに考えをまとめてみたい。
日本における天皇とは憲法にも明記されているとおり、国の象徴である。
そして、その天皇家の血筋を絶やさないために連綿と受け継いできた、不敬な言い方をすればバックアップにあたるのが皇室である。
ここで本質的に重要なのが「血筋」を絶やさないことである以上に「家」を絶やさない、ということ。
なぜ「家」を絶やしてはいけないか、について皆さんにしってもらいたくて、この文章を書いているので、最後まで読んでもらいたい。
そして、その基本的なルールが「万世一系」、つまり男系宮家を維持し続ける、ということだ。
これはざっと分かりやすく言えば、皇室以外の完全な民間出身男性を宮家に迎え入れない、ということ。
そして、その歴史の上にはじめて、現在の民主的な国民国家の象徴として祀り上げられて然るべき「天皇」という存在を国民誰もが(程度の差こそあれ)尊重することができている。
日本の歴史上、天皇家に娘を嫁がせて「外戚」として権勢を奮った人物は多数いるが、「息子」を天皇家の婿に入れた人間はいない。
蘇我・藤原・平・徳川といった、時の最高権力者でさえ、息子を天皇家に婿入りさせようなどとはしなかった。
これは、現代日本の法規範である皇室典範まで受け継がれており、典範には、女性皇族が皇族以外と結婚した場合、皇室から離脱すると規定している(女性皇族が結婚後も皇室にとどまる女性宮家の創設には皇室典範の改正が必要になる)。
ここで素朴な疑問として「でも、皇室男子が少ない現状、バックアップを増やすのはいいことじゃん」と思う人も多かろう。
一見すれば、昨今の男女同権思想の立場からも、賛同の声が聞かれると思う。
だが、これは現代、日本という国の歴史における今この一点の判断で、安易に変えてしまってもいいルールなのだろうか。
これを分かりやすくするために、大河ドラマ『直虎』を例に出し、女性宮家を認めることのリスクを説明したい。
ことの重大さが伝わりやすくなるよう、ある程度設定を改変するがご了承いただきたい。
ここに、1000年以上、自分たちを「井伊の民」と自覚してきた民と、そしてその領主である井伊家がある。
井伊家は相次ぐ争乱により、直系の跡取り男児は、先代当主直親(三浦春馬)の子、虎松(寺田心)しかいなくなってしまう。
そこで、井伊家では虎松が成人し、当主を名乗れるようになるまで井伊家の血を次ぐ先々代当主の娘・直虎(柴崎コウ)に任せることにした。
ドラマではこの時点で直虎は既に出家し「生涯結婚することはない」という状態であったが、今回は直虎が出家をしていなかった場合を考えよう。
直虎は当主の重責を果たす中で、いつもそばにいてくれた幼馴染で小野家の現当主・政次(高橋一生)との愛を育んでしまった。
しかし、小野家は元々井伊家と敵対していた今川家の家臣。そのまま結婚し、子が生まれれば小野家の第一子となり、井伊家の名字は無くなってしまう。
そこで政次を井伊家に婿入れさせることになり、井伊政次と井伊直虎の子・政虎(仮)が生まれてきた。
さて、ここで、考えてみよう。井伊家の跡取りは虎松か政虎か。
筋から言えば、前領主の子であり本家本流の虎松が跡取りとして正当であるはずだ。
しかし、もう一方の政虎は現当主の嫡子である。井伊の民にとっては「自分たちの象徴」「井伊のアイデンティティ」である直虎の一人息子が政虎なのだ。
これは、井伊という国を真っ二つに割りかねない、致命的な問題なのだ。
井伊の民は、政虎を当主として認めることができるだろうか。
自分たちを「井伊の民」と名乗らしめるのは「井伊家」という一つのストーリーであり、1000年に渡る自分たちのアイデンティティの中心にあるのは井伊の「家」である。
政次は井伊の血筋とは全く関係のない小野家の人間であり、その子・政虎には井伊家の血が入っていたとしても、小野の物語を受け継いだ人間である。
もちろん、婿入りはしていたとしても、人が生き、人が伝え、人が託した物語とは、制度上の言い訳で誤魔化しきれるものではない。
もっと、肌で感じる「何か」のはずだ。
虎松ではなく政虎が当主になるとは、その瞬間1000年の歴史ある「井伊のストーリー」が、「井伊と小野のストーリー」あるいは「井伊のストーリー(小野編)」に変わってしまう、ということだ。
※日本では馴染みがないが、イギリスやフランスの王家では、女系宮家が婿に迎えた男子やその子が王統を継いだ際に「●●朝」の名前が変わる。1000年続いた井伊谷の「井伊朝」が「井伊・小野朝」あるいは「小野朝」に変わる。間違いなく日本の「大和朝」は一つのターニングポイントを迎える。
しかも、小野家にはなんと先代当主を死に至らしめた事件の黒幕という噂もある。
であれば、今回の一連の騒動は、小野による井伊家乗っ取りだと誰もが思うだろう。
さて、今回の例では、井伊の人々の思いも虚しく、最終的に息子への情愛に流された直虎が、自らの子である政虎に井伊家を継がせ、小野家臣団と井伊家臣団は統合されてしまう。
その後、反発した井伊家譜代の家臣団は弾圧を受け、排斥。井伊の民にとって「井伊」という言葉はその土地を意味するだけのものとなってしまった……。
つまるところ、史実通り井伊家が井伊家として徳川末代まで残ったのは、この時の直虎が出家をしており、子を為さず、直系の後継者・虎松を育てたからなのだ。
皇室の女性宮家を認める、というのは近い将来この事態を受け入れる、受け入れてもよいと認めるということである。
認めるか、認めないかの判断を下すのはもちろん、主権者である我々日本国民一人ひとりだ。
女性宮家=民間男性から生まれた子供が、将来天皇になる、というのは、約2000年の間、我々日本人が連綿と受け継ぎ、守り抜いてきた1つの大きなストーリーを終わらせるということに他ならない。
あまつさえ、女性宮家が迎え入れた民間男性が外国人だとすればどうなる。イギリス皇太子や、韓国大統領、中国共産党書記長の息子とも結婚することさえ可能なのだ。
その可能性は、日本人として、認めていいのか。受け入れていいのか。
いざその瞬間、女性宮家が婚約者を発表したときに、過去・現在・未来全ての日本人が絶句するような相手でないと、誰が言い切れよう。
少なくとも、その時点から先にある「日本国象徴としての天皇」は、遡ること2000年間の全日本人が知り、崇敬し、仰いだ「天皇」ではない。別の何らかの意味合いを持った「天皇」である。
天皇家が今のかたちで現存しているのは、過去全ての日本人が「天皇家に取って代わる」という最後の一線を踏み越えることのなかった歴史の上に成り立っている。
北の増田家(一)が謀略によってあっさり滅亡したことで増田家(四)は周囲から孤立した。
さいわい増田家(八)が増田家(五)との戦いに集中していることは、いろいろな情報源から明らかになっている。
控えめにみつもっても二倍の国力差を埋めるべく、増田家は用意周到に戦いの準備を整えた。
増田家(三)も戦の準備を着々と整え、戦う前に勝負は決まっている状態を作って南下をはじめた。
なお、増田家(五)を増田家(八)と折半する戦略は、増田家(五)が好意的な態度を示していたことから否決された。
増田家(四)を併合して増田家(三)が圧倒的な存在になれば、増田家(五)は戦うまでもなく屈するはずだった。
せいぜい、敵に滅ぼされない程度に耐えてくれていればよい。
総兵力六万を号する増田軍は自慢の鯖街道を伝って一路、南進。国境を越えた増河のほとりで、
「背水の陣か……」
敵軍は増河が馬蹄形に屈曲した部分の内側に立てこもっており、カーブする上流と下流が約1kmまで最接近した部分に戦列を連ねていた。
側面からの攻撃は難しく、まずは正面から攻撃するしかない。その点では利に適っている。
だが、すいすい背水の陣は危険な戦法だ。兵は死力を尽くして戦うかもしれないが、負ければ河に退路を塞がれて壊滅は免れない。
この一戦に負ければ後がないとの増田家(四)の覚悟が伝わってくる。
当主は足止め部隊を残して敵軍を無視して先に進む妄想をもてあそんだが、
ここは海岸へ向かう重要な渡河点の近くであり、足止め部隊が負ければ、背水の陣になるのは自分たちの方だ。
敵がゲリラ戦に走らず、雁首そろえて出てきてくれたことを幸いとして、叩き潰すにしくはない。
増田軍六万は敵軍の前に堂々と展開した。
右翼には裏切りによって味方についた旧増田家(二)一門を中核とする増田勢、
中央にはもっとも頼りになる譜代勢、そして左翼には本領の国人衆と北の傭兵軍団。
前衛には降伏直後で信用されていない旧増田(一)勢が配置された。
秘蔵のカラトラヴァ騎士団は全軍の後方に配置され、名にしおう増田騎馬軍団の出現と、両翼部隊の万が一の裏切りに備えている。
それも旧増田(一)勢を使いつぶしにして波状攻撃をしかけることで最終的には数の優位を活かせる算段だ。
増田家(士)が増田家(十)攻めに使ったのと同類の戦法である。
一方、増田軍は二倍以上の敵を前にして多くの兵士が脱糞を済ませていた。
おかげで、はらわたを刃物にえぐられても感染症で死ぬ可能性が低下した。大量のうんこも背水に排水できた。
増河は赤く染まる前に茶色く染まった。
下っ端には到底勝てると思えない状況なのだが、当主は泰然自若としていた。
それがブラフなのか、本当に秘策があるのかは、火蓋を切るまでわからない。
戦いを先にしかけたのは劣勢の増田軍であった。すべての敵を視界におさめておきたい事情は彼らも同じだった。
激しく銅鑼をうちならし、一部の兵が増田軍前衛に突っ込んでくる。
昨日までの敵にむりやり戦わされている前衛部隊はそれでも勇敢な兵士たちであり、敵の攻撃を真っ向から受け止めた。
しばしもみ合い両者が離れた時には、大地は両軍の血で汚されていた。
「追えーっ!」
前衛部隊から誰かの声があがり先制攻撃をしかけて来た敵を追う。釣られて六万にのぼる増田軍全体が動き出した。
迎え撃つは増田軍の歩兵戦列。堅固に隊列をくみ、長柄の先をそろえた彼らは肝を据えて、馬蹄形陣地の栓になった。
増田軍の第一波はおしかえされ、前衛の指揮官は冷や汗を流しながら、まずは弓と投石で敵を崩そうとする。
飛道具で狙われた長柄兵は置き楯の後ろに隠れ、増田軍(四)の弓兵が応射する。
味方の支援の下に増田軍前衛が突撃すると、矢の雨が止んだ一瞬をついて、長柄兵が再配置され敵を押し返す。
その繰り返しは増田家(三)当主を苛立たせたが、確実に敵の体力を削っていった。
「両翼からも弓兵を寄騎にまわしてやれ!」
噂の手銃がたくさんあれば……と当主は唇を噛んだ。
いよいよ損耗が深刻になってきた増田軍の第一線は大量の矢を浴びながらやっと後退する。
だが、後退は交代であり、すぐ後ろには第二線の歩兵が穂先を連ねていた。
しかも、第一線と二線の間には浅い溝が掘られていて、いきおいをえて突撃した増田軍前衛は転んだところを刺されて大損害を被った。
「下がらせよ」
不機嫌そうに当主は言い捨て、こちらも前線にたつ部隊を変更させる。
両翼と中央から抽出させた精鋭部隊だ。さらに両翼の部隊には一部に増河をわたらせて敵の側面や背後に出るように命じた。
直接攻撃するにはもう一度、河を渡らなければならないので実害を与えるのは難しいが、心理的に与える影響は大きい。
もっとも増田軍は敵の迂回を歓迎していないらしく、渡河部隊は岸にたどり着く直前に伏兵の攻撃を受けた。
増田軍の中から悲鳴があがる。川岸に展開した増田軍の騎兵は水中で身動きの取りにくい敵を、馬上から次々としとめて行った。
同じ騎兵が相手をしようとしても武具が水を吸っていて分が悪い。何よりも渡河中で相互支援ができなかった。
おかげで両翼での戦いも思うようには進展しない。
「ワタシたちが出ましょうか?」
カラトラヴァ騎士団グランドマスダー、アトビーノは増田騎馬軍団の出現を受けて、当主に進言した。
「……しばし待て」
増田騎馬軍団に河を渡ってくる力がなく、迎撃に専念するなら、突破力のあるカラトラヴァ騎士団は中央での決め手として使いたい。
両翼にはせいぜい騎馬軍団を引きつけてもらおう。
増田家の当主はそんな判断で両翼の渡河作戦を続行させたのだけど、それをみた増田家の当主はわずかな焦りをみせた。
「やむをえぬ……我が自ら出るぞ。馬廻衆は続けぇ!!」
彼は第二線の直後まで本陣を進めて、盛んに督戦した。
「大将首だ!」
「ヒャッハー!!」
著名なションベンタレ(魚類、別名タカノハダイ)の前立てを目撃した増田兵が戦場の中央に殺到する。
その先から屈強な怖いお兄さんたちに追い散らされても次々と新手が押し寄せてくる。
血と泥と汗の渦、その中心に増田がいた。先に脱糞していなければ、脱糞していたかもしれない。
激闘は数刻の長さに感じられたが、実際には太陽はほとんど動いていなかった。
「御館様!これ以上は!!」
敵を刺して折れた槍を捨て、太刀を抜いて馬廻りが叫んだ。
同士討ちの危険を無視して弓矢が当主の近くまでびゅんびゅん飛んでくる。
「おのれ!ここまでか!?」
増田軍は第三線への切り替えをめざし、二度目の後退をはじめた。
「もらった!つっこめぇーーッ!!」
敵が下がるのを知った増田家当主は中央の譜代衆に命令をくだした。
最大の手柄は自分たちが収める。複数の地域を支配する家ならではの狡猾さが現れていた。
下がる増田軍は一気に圧力を増やされ、今度は思ったところで踏みとどまれなかった。
後ろは河なのにずるずると下がり続けてしまう。それをみて、敵は嵩にかかって攻め立ててくる。
もはや増田軍は風前の灯火。ついに殿をつづける当主を見捨てて、武具も脱ぎ捨て河を泳ぎ渡る兵士が出没しはじめた。
忠誠心の期待できない増田家(六)出身兵の行動だったが、動揺は増田軍全体に広がっていく。
「もうだめだぁ」
「お助けを」
武器を捨てるもの、敵の慈悲にすがるもの、戦意を失ったものがパラパラと現れる。
「御館様、ここはお下がりください」
「敵の勢いが激しすぎます」
「ここで生きながらえて意味があろうか。死中に活を得ん!」
最前線に躍り出て、鞘を抜き放つと、太刀を陽の光にかざして叫ぶ。
鎮北将軍といえば、かつて増田家(六)の血筋が東北の支配に任じられた極めて高位の官職であり、
増田家(六)の血筋を奪ったことで無理矢理名乗っているのであろうが、当主にとっては非常に不快である。
「あの僭称者の希望通りにせよ!首をとった者には一城、いや一国を授けるぞ!」
「「おおっ!!」」
目前に高価な肉をぶら下げられて六万人が一人の殺害に心を合わせた。
まさに殺到が起こり、圧死者が敵味方に発生する。もはや人の津波である。汗の蒸気が霧になり、戦場を覆った。
ちなみに戦場の喧噪の中で鎮北将軍は、ちんぽこ将軍と聞こえた。
もはや六万人の大半が馬蹄型の内部に入り込み、隊列の入れ替えも難しい状況だった。
目端の利く指揮官は川沿いを走らせることで、敵の側面攻撃を狙った。
太鼓の乱打音を受けて対岸に配置されていた増田軍(四)投石機部隊が偽装を撤去、全力射撃を始めたのだ。
「せーの!」
数十人が力をあわせて綱を引き下げると、腕木が旋回し、反対側にくくられた飛礫が高速で飛翔していく。
敵だらけなので狙いを付ける必要もない。ただ発射速度を優先して撃ちまくる。
綱を引くだけなら戦闘訓練なしの人材でも行える点も便利だった。
増田軍は決戦のために領内の投石機をかき集めていた。新造もおこない三十メートルに一基の密度で砲台を築いている。
さらに吊り井楼まで投入され、一挙に高所にあがった精鋭弓兵が対岸の的を射まくった。
増田兵が吹き飛び、苦悶の声をあげて倒れ、死体が折り重なっていく。射撃から逃れる遮蔽物といえば、その死体しかない。
増河屈曲部は地獄絵図と化した。
増田家(三)の当主は絶句する。ただ配置するだけではなく、偽装も完璧とは信じられない。
最近の設置であれば動きを察知できたはずだ。自分たちの進撃路は完全に読まれていたと言うのか。
「やつは海から一日行程以上離れない。そして、ここの先には有名な漁港がある……」
賭けに勝った増田家(四)当主はひとりごちた。長年にわたる地道な諜報活動のたまものであった。
東北で勝ち抜いたのが、以前から国境を接している増田家であることが幸いした。
他の二家であれば、ここまでの情報は集められなかったはずだ。
射程三百メートルを超える投石機の猛射撃によって増田軍はやむなく馬蹄型空間の中心に集められていった。
当初はひとりあたり六平方メートルあった空間が一平方メートルになってしまい、
武具や馬の存在を考えれば満足に体の向きを変えることさえできない。
本陣だけは馬廻りのスクラムで空間が確保されていたが、押しつぶされるのも時間の問題に思われた。
「ワレラが退路を切り開きもうす」
「よし、いけ!」
カラトラヴァ騎士団は蝟集する味方を吹き飛ばして後方へ走った。
だが、そこには敵の視界外から長駆して進出してきた騎馬軍団が展開を終えていた。
本当の増田騎馬軍団だ。両翼に伏せていたのは増田軍(四)の騎兵にすぎない。内通者によって、その誤認は導かれていた。
彼らは重騎兵との正面衝突をさけ、騎射でもっぱら馬を狙った。
「卑怯者ガ!!」
増田典厩は騎士の主張を鼻で笑う。彼らは戦場からの脱出を試みる敵をことごとく網に掛けていった。
そうこうしている間にも増田軍本隊は末期状態に陥っており、三国の出身者が混在しているせいで同士討ちさえ起こっていた。
「まて、拙者は増田軍だ」
「どの増田軍だ」
「味方だ」
「俺がどの軍か分かるのか」
「増田軍だ!」
もはやグダグダである。一部の兵士にいたっては自分の空間を確保するためにあえて味方を殺傷していた。
「降れ!降れ!」
「勝負はもう着いた」
もっともな勧告が正面から聞こえてきて、傷つき疲れ果て恐怖のあまり脱糞した増田軍はついに武器を放棄した。劇的な逆転であった。
カラトラヴァ騎士団のみが何とか組織を維持して戦場を離脱する。
増田家(三)の当主は三国の太守から一転、毎年サバ一年分の捨て扶持を与えられる身になった。
「おのれ!我が青ザリガニを大事に育てていることがバレるとは!!」
……そんなことは誰も知らなかった。
前回
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次回
かつて十一を数えた増田家のうち、すでに四家が領土を喪失した。
明日は我が身に同じ苦難が降りかかることを恐れず、あるいはその恐怖から逃れるために
最北の増田家(一)は、せっかく手に入れた増田領(二)を増田家(三)に奪われ、増田島の北に押し込まれている。
そこで、ゆいいつ残された海路で増田家(四)と連絡し、増田家を挟撃することを目標にしている。
だが、増田家(四)は他方面も抱えており、なかなか色よい返事をしてこない。
増田家は足りない兵力を補うため、豊富な資金を放出して北方の異民族を傭兵にしはじめた。
滅びた増田家(二)であるが、落城前に降伏したため、当主以下おおくの人物が生き延びている。
現時点の増田島では城主切腹の代わりに城兵を助命する風習はさいわい存在していない。
そもそも攻めた増田家と守った増田家も親戚なので、あまり目覚めの悪いことはできなかった。
旧増田領が失陥したあとも、旧増田衆の大半は人質がいるために、増田家(一)で働かされている。
しかし、根無し草の使い走り状態に耐えかね出奔するものが後を絶たない。
サバイバルに成功した増田家(三)は、被害をおさえて増田家(一)を確実に詰め、
地道に南北軸の鯖街道を一層整備して増田家(四)の急襲や北方三家統一後の兵力移動に備えている。
現状では増田家(一)との海上での戦いが最も激しかったりする。
主な戦力:譜代衆、カラトラヴァ騎士団、旧増田家(二)国人衆、水軍衆
恐ろしき当主がひきいる増田家(四)であるが、周辺諸国に比べると勢力の伸張に劣る結果になっている。
最初につぶして手に入れた増田家(六)領は四方に通じる土地であり、
土地を交易路に活かせればよいのだが増田家(七)が潰れてしまったことで、その意味も失われてしまった。
増田家(八)が商売相手なら大量輸送が可能な海路を使えばいいのである。
仇敵である増田家(五)との休戦を何とか成立させたが、敵意は残留しているため、
まだ北にも南にも進めずにいる。
プリンセスめいキングに定評のある(新情報)増田家(五)は、はやばやと地方勢力としての生き残りを模索しはじめた。
彼らが陰に依る大樹に有望視しているのは前から繋がりのある増田家(三)であるが、
国力差が大きくなりすぎたら家臣扱いされてしまう。発言力を確保するためにも戦力増強は必要なのであった。
しかし、現実は西で接する増田家(八)からの散髪的な攻撃を受けはじめ、領土は守り通しているものの、
消耗戦により頭が寂しくなりはじめている。
無惨にも最初に滅びた増田家(六)の名跡はいちおう姫を捜し出した増田家(四)が継いだ形になっている。
だが、増田家(五)も縁のない土地をこじつけで治めるノウハウは豊富なので、内政状況は悪くない。
いずれ旧増田領が大規模な戦場になることが多くの島民に予想されていて、人口の流出が進んでいる。
主な流出先であった増田家(七)が先に戦場になったのは皮肉であるが、そこから人が戻ってきているわけでもない。
占領されたて増田家(七)領では、増田家に保護されていた宗教が水面下で一揆の準備を進行させている。
新領主が自分たちの既得権益に少しでも手を入れられたら実力を誇示する構えだ。
それどころか、領主が変わったのを奇貨として、権益ではなかったものまで既得権益に組み込もうと図った。
さいわい増田家(七)の公文書が無事だったため、それには失敗したが、
頭の弱い雑魚ナメクジ当主を言いくるめて増田領(八)での布教活動を認めさせた。
軍事方面では北方の国境要塞には占領軍の支配に抵抗する旧増田家(七)の武将も一部に存在する。
しかし、皮肉にも旧主が地方軍の反乱をおそれて中央集権体制を構築していたため、
独自に補給する組織のない地方軍の抵抗は長続きしないものと観測されている。
増田家(八)は成功体験によって妙な自信をえた。それがプラスに働くか、マイナスに働くかはまだ未知数である。
占領地行政の関係もあり、元々強かった文官系人材(ただし彼らも戦場に立つ)の力がいや増している。
当主は「領内の全公衆便所に紙運動」をはじめた。財政的に無理なので相伴衆が当主に先回りして誤魔化している。
「東に進み、西は防御」の方針だけは当主が便所でうなりながら確定させた。
主な戦力:官軍、譜代衆、地侍衆(草を含む)、傭兵軍団、水軍衆
主な家臣:増田大学、増田出羽守、増田金吾、増田中弐(元増田家(十)当主)ほか
動きの鈍い増田家(九)であるが、増田家(士)の圧力が刻々と増しており、
東での火遊びをする余裕が失われつつある。
彼らには戦力を集中して決戦に勝利するしか生き残る道はない。
国力の差を領内で戦い補給を円滑にすることと、内線作戦による各個撃破で埋める計画である。
主な家臣:増田うこん
陥落した増田家(十)の領地は、剽悍で飢えた増田軍(士)が賢者モードに入るまで散々劫掠された。
中心地の増屋を筆頭に先進地域のダメージはきわめて大きく、他の地方へ散っていった住民も多数にのぼる。
だが、増田(十)領といえども人口の大半を占める層は他の地域と大差のない一次生産者の人々であり、
増田家(士)も一度破壊しているが、全体が文明の価値に暗いわけではなく、
元当主が増田家(八)に加わり再起を図っている。後から彼の元につどう旧臣も多い。
増田家(士)に迷いはなかった。彼らにとって天下統一とは目の前に現れる敵を倒し続ければ自然と成るものなのだ。
前回
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開始時点
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増田 |
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まず、勝手に動いたわけでもないし西軍につくつもりだったわけでもないよ。
当初は家康からの要請を受けて手勢率いて伏見城に向かったわけ。
でも伏見城に着いたら城将に「聞いてない」とか言われて、
この無礼に怒った義弘は「じゃあ西軍についてやる」「ぶっ殺してやる」って言い出して、
本当に西軍に走った。
「夜襲でぶっ殺すからやらせてくれ」とか攻撃的な作戦をいろいろと献策したんだけど
例の茶坊主や首脳陣が保守的な方針ばっかり好むから却下されてしまった。
茶坊主の腹心である島左近も積極襲撃策を提唱して却下されてる。
せっかく当時最高レベルの凄腕の戦争屋を手勢に置きながら、茶坊主は使いこなせなかったんだね。)
関ヶ原本戦では積極的に行動するでもなく傍観。
その頃までには茶坊主の戦下手と煮え切らなさを何度も目の当たりにして
もう西軍全体での勝利に見切りをつけていた。
茶坊主達本隊が決戦しないで逃げ出すもんだから殿軍を受け持ったりも。
気付いたら西軍が敗走、戦場に取り残される。
取り残されたんじゃなくて、西軍が負けるまで残ってた。
やる気がなくなってるんだからもっと前に勝手に撤退すりゃいい(そういう大名は一杯居た)んだが。
プライドの持ち方が狂ってるとかあたまおかしいという批判ならその通り。
サラッと書いてあるが
だが後ろは山道だったので、ジジイが「難路だるいわー」「それなら正面の徳川本陣ぶち割るわー」と言い出して、
本当に正面に向かって撤退した。
福島正則に見逃してもらい、
「あいつらなんかあぶねーからよけよう…」と交戦を避けた福島は命を拾い、
真面目に追いかけた徳川四天王の1人井伊直政は命を落とす事になった。
他にも譜代の家臣やら兵やらたくさん捨石にしている。
義弘は命をなんだと思ってるのか。
まあ消耗品だと思ってるよね。
連絡ミスされたぐらいで西軍について弓を引くという行動は完全にクレイジーだが、
おめおめと後方に逃げたりその場で自害したりせずに
マジキチな武威を見せ付けたことで
「西の端まであのマジキチ一家を成敗に行くのは危ないな」と家康に思わせた。
ただの脳筋ジジイが勝手にピンチになって周囲に迷惑をかけまくっただけ。
冷静でも勇敢でもない、ただの馬鹿だ。
島津オタという奴等は義弘の頭がおかしいことぐらいはわかってる。
人の命を鴻毛の如く考える畜生ぶりもよく知っている。
「超頭悪い」
「だからかっこいい」
もう少し研鑽を積め。
http://d.hatena.ne.jp/FXMC/20090202/p1
まあ、そんなもんでしょう。ライトノベルサイト杯ってのは、つまるところ【ライトノベル論壇杯】なわけで。彼らはもともと中二病と内輪受けじみたネタが好きな人たちの集まりで、大手サイトの影響力がそれを加速したというだけのこと。
私のように「論壇外」のサイト主や、サイト持ちでない一般読者、さらにラノベ原作アニメだけ見てる人たちなんてのはまったく参加してない、論壇の方々による論壇のための賞で、これを一般化することは論壇の方々が主催してる限り不可能だ。全く真っ白な方が主催したとしても、それが受け入れられた時点で「論壇関係者」になってしまう。こうやって語っている私だって【親藩】【譜代】ではなく【外様】であるというだけで、この構造からは逃れられない。
これ、どうなんでしょうね。
自分は「論壇」の外にいるんだ、と言いたいなら、【外様】じゃなくて【公家】に喩えるべきじゃないか、と。
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ト、;;;;;;;;;;;;;;;` ` '' ー -- ‐ '' ";;;;;;;;;,:ィ;:;!
,';:``' ‐ョ 、 ,_ ;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;; , - '"l;:;:;:;:l だまりゃ!麿は畏れ多くもわかつき女史にベストツンデレ賞を献上し
l;:;:;:;:;:;:;ミ ` ` '' ー -‐ '" ,リ;:;:;:l
l;:;:;:;:;:;:;:ゝ く三) (三シ `ヾ;:t、 女史から献本を賜った身じゃ!
fミ{;:;:;:;:f'´ , ---_,, _,ィ 、_,,ィ,.--、 };f }
l トl;:;:;:;:l 、,ィ或tュ、゙:ミ {,'ィt或アチ l:l,/ すなわち女史の臣であって、id:kim-peaceの家来ではおじゃらん!
゙i,tヾ:;:;:! `ヽ 二ノ ト ` ‐''"´ l:l:f
ヽ`ー};:l ,r'、 ヽ リ_) その麿を差し置いてラノサイ杯を開催するとは言語道断!
`"^l:l ,/゙ー、 ,r'ヽ l
゙i ,ノ `'" 丶. ,' 今から「ライトノベル論壇」とレッテルを貼って、嫌みを言ってすぐ撤収するから
゙l、 ′ ,, ィrェェzュ、,_ 〉 } /
',ヽ ヘヾ'zェェェッ',シ' //ヽ 心しておじゃれ!!
} 丶、 ` ー--‐ '"'´,/ノ:.:.:ヽ
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ここではAA記法が使えないみたいなので、きれいに表示されないのが残念です。
http://d.hatena.ne.jp/iris6462/20090201/1233457111
こことか、
http://d.hatena.ne.jp/FXMC/20090202/p1
こことかのことである。
批判するからには、ラノサイ杯のなにかが悪いと思っているのだろう。しかし、何度読んでもさっぱりわからない。
「なにが悪い」と主張しているのか、である。
たとえば上の記事では、大手サイトが紹介した作品に得票が集中してるんじゃないの?という疑いが挙げられているが、じゃあそれのなにがいけないのか?ということがどこにも書かれていない。
下の記事では、投票者がFXMC氏の言う「ラノベ論壇の人間」に限定されてしまうこと、ライトノベルを読むことと語ることに熱心である人々に限定されてしまうことに苦言を呈しているが、じゃあそれのなにがいけないのか?ということがどこにも書かれていない。
なぜだろう?
ラノサイ杯は小説の人気投票をして耳目を集めて、知らない作品を紹介しあおうというイベントだと主催者がアナウンスしている。
1.その目的そのものが悪いのか?知らない作品に触れる機会を増やすなんてとんでもない!と怒っているのか?
2.それとも、目的のための手段が間違っている!と言いたいのか?このやり方で人気投票したって知らない作品に触れる機会は増えない!と怒っているのか?
3.あるいは、甚大な弊害が生まれる!と言いたいのか?kim-peace氏の睡眠時間が減るじゃないか、やめろ!と怒っているのか?
批判エントリを読んでも、なにを問題としているのかさっぱりわからない。
なぜこの人たちは、「なにが悪いか」を書かないのだろう?
ここから先は推測である。
この人たちの文章を読んでいると、理由は書いていないが「ラノサイ杯はこうあるべきだ」という理想像があるらしいというのがわかる。繰り返すが、そうあるべき理由はどこにも書いていない。そして、自分の中の理想像と、現実のラノサイ杯とでずれている点を挙げて、そこが問題だ、と言っている。何度も繰り返すが、それがなぜ問題なのかはどこにも書いていない。
前提が間違っていたのではないか。
これは、批判ではない。
そう考えると、すべてのつじつまが合う。
批判するべき合理的な問題点が挙げられないのに、自分の中の理想像と現実との齟齬についてあたかも問題があるかのように糾弾する文章をなんと呼ぶべきかについては、紳士的な表現がなかなか思いつかなかったので、ここでは触れない。
興味深いのは、主催者や傍観者が、「なにも問題が起きていない」にもかかわらず、「批判ではないが批判に見える文章」を読んで、あたかもなにか問題が起きているかのように錯覚していることである。これはじゅうぶん「問題」である。時間の無駄という甚大な弊害を生むからだ。
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2/4追記
ブックマークコメントによって、くだんのFXMC氏からの補足が入り、「なにが悪いか」についてのやや詳しい解説が入った。以下、引用である。
>私が指摘してるのは開放性と内輪性を無自覚に都合よく使い分けてる点。開かれた企画です! 票が偏ってます。そういうサイトが投票してるから当然。どうせ論壇の企画なんだからぶっちゃけろと
これだけの短いコメントから真意を読み取るのはなかなか困難だが、おそらくこういうことだろう。
これは2008年下半期ライトノベルサイト杯の企画説明から読み取ったものであろう。以下、引用する。
>本企画は、「はてなキーワード機能を使い、ライトノベル関連サイトの管理人がおすすめのライトノベルについて語る」ためのものです。
>ラノベ感想・書評サイトはもちろんですが、「サイト持ち&ラノベ読み」であれば誰でも投票できます。マンガ系でもゲーム系でも、ラノベに関する話題も取り扱っている方は是非投票して欲しいと思います。
>「あんまりラノベ読まないしなぁ・・・」→読書量を気にする必要はありません。
○「票が偏ってます。」という主催者の主張
これはおそらくkim-peace氏が『ベン・トー3』の帯に対して発したコメントのことだろう。
http://d.hatena.ne.jp/kim-peace/20090201/p2
>「母集団に偏りがあること」「順位付けを目的として開催しているわけではないこと」にも
>配慮をして頂けると嬉しいです。
>公開している結果をどう捉えるかは受け手の方にもよるかと思いますので、
>単純な「得票数順」以外にも「投票者別一覧」や「各種近似値グラフ」なども見て頂ければと。
(色々とそれっぽい単語でサイトを検索してみたが、これ以外には見つからなかった)
FXMC氏は「この二つの主張を使い分けている」という点を問題視している。残念ながらはてなブックマークのコメントは短いので、例によって「なにが問題なのか」「なにが悪いのか」については言及していない。
○「サイトを持っていてライトノベルを読んでいる人であればだれでも投票できる」という主張
この二つの主張を同じ人間が使い分けることに、なんの問題があるのだろう?矛盾しているわけでもないし、どこにも嘘がない。というか、使い分けているわけではない(矛盾していないのだから使い分ける必要はない)。
「サイトを持っていてライトノベルを読んでいる人」という母集団による投票なのだから、そのように票が偏るのである。当たり前だ。
したがってこれは、問題点ではない。
またしても、本エントリの標題である疑問に立ち戻ってしまう。なぜ「なにが悪いか」を書かないのだろう?
ここから先は、再び推測である。
冒頭に挙げたFXMC氏のエントリを読み返してみると、「ライトノベル論壇杯に改題しろ」という主張がある。さらに、興味深いコメントのやりとりが入った。
>hatikaduki 2009/02/03 11:25 偏向や内輪性も含めて「ライトノベルサイト」杯という言葉で表現しきってると思うんですけどね。
>耳障りが良すぎるのが隙につながるのかも知りませんが、「論壇杯」てのも不正確な感じが。
>FXMC 2009/02/03 21:03 「耳障りが良すぎる」をダブルミーニングで取っていいなら、その表現は完璧ですね。
>同じモノでもどこから見るかで違った姿が見えるものです。「私から見える像」をあらわす言葉としては【論壇杯】で十分。もちろんhatikadukiさんから見える像、個々の参加者の目に映る像、主催者の自己認識、全て異なります。ただ、あんまり見栄えのいい姿ばかり見てる/見せてると、勘違いしたりされたりしちゃうから、見たくないだろうところに私が鏡を向けてみせただけ。
>どのみち、私ごとき弱小サイト主が他人になにかを強要することはできませんので、あとは主催サイドや第三者がどういう判断を下すか丸投げです。
最初読んだときは「ライトノベル論壇杯に改題しろ」という主張はスルーしていたが、どうやらこのコメントを読むに、「ライトノベル論壇杯に改題しろ」という主張はかなりFXMC氏の主張のコアな部分であるらしい。まとめっぽい文章もあったのでこちらも引用する。
>私としてはね。分野別に分けるとか、細かい制度を改善したところで「中二病と内輪ネタが好きな論壇の人たちの内輪の企画」であることは変えようがないし、別に変える必要はないと思うのですよ。ただ、「中二病と内輪ネタが(略)の企画」が、【ライトノベルサイト杯】なんて御立派な看板をつけて、「開かれた企画ですよー」ってな建前で行われてることに、開かれたイベントという理想と内輪の馴れ合いという実態の乖離や、政治利用を許すスキがあるというだけで。だから「中二(略)企画」だと誰の目にも明らかなように、【ライトノベル論壇杯】なり、【ライトノベル平和賞】なり、勘違いも政治利用もしようのない名前に変えてしまえといっているのです。
どうやらFXMC氏は、ラノサイ杯に投票する人々は、様々な要素によって「中二病と内輪ネタが好きな論壇の人たち」に限定される、と考えているらしい。明記されてはいないが、kim-peace氏が主催する以上は、『平和の温故知新』を読んでおり、さらにkim-peace氏やその周辺の人々を嫌っていない人間、という層にも限定される、と考えている可能性が大きい。そして、こちらは明記されているが、自分のような人間は投票しづらい、とも書かれている。これのどこが「開かれた企画」なのか、とFXMC氏は糾弾しているらしい。
しかし、前述のとおり、kim-peace氏は「『サイト持ち&ラノベ読み』であれば誰でも投票できます」という投票資格について伸べているのであって、けっして「『サイト持ち&ラノベ読み』の総意をとります」などとは伸べていない。要するに開かれた企画という言葉はkim-peace氏発のものではなく、FXMC氏が独自に使ってこれに独自の解釈を加えているだけであり、「開かれた企画」云々に関するFXMC氏の言及はすべて無意味である。
すると、残るのは「ライトノベルサイト杯」という名称そのものへの批判である。
最後の推測は、こちらの文章から導いた。
>私のように「論壇外」のサイト主や、サイト持ちでない一般読者、さらにラノベ原作アニメだけ見てる人たちなんてのはまったく参加してない、論壇の方々による論壇のための賞で、これを一般化することは論壇の方々が主催してる限り不可能だ。全く真っ白な方が主催したとしても、それが受け入れられた時点で「論壇関係者」になってしまう。こうやって語っている私だって【親藩】【譜代】ではなく【外様】であるというだけで、この構造からは逃れられない。
>(皆さん、避けようがないトートロジーになってるの気づきましたか? ラノサイ杯は論壇関係者のための賞だ。投票した奴はみな論壇関係者だ。だって投票してるから。別に非難してるわけじゃなく、投票を集めるというやり方自体が「避け得ない構造上の問題」としてこういうトートロジーを発生してしまうのだ。任意投票の投票者は、必ず母集団に対して偏向を生じる)
(文中の太字強調は筆者による)
まとめると、FXMC氏の主張は次のようなものだと考えられる。
kim-peace氏のサイトを読んでいて、自分でもサイトを持っていて、企画に賛同して任意投票を行う人間のみの集団であれば、賛同しないサイト持ち、サイト持ちでない一般読者、さらにラノベ原作アニメだけ見てる人たちなどは参加できない。すなわち、
○「ライトノベルサイト杯」と題すると、「すべてのライトノベル読みから投票を集めている」との誤解を招くから、名称を変更せよ。
なぜ最初からこう書かないのか。疑問は再び、本エントリの題名に戻るわけである。