はてなキーワード: 中原中也とは
それは怒りだったのかな。
結婚して子供が生まれて、という、そういう家族や親族がもつであろう期待に応えられない、という「親不孝」感というか、葛藤が
人知れずずっとあったはずで、その苦しみを自分が理解されてこなかったことのストレスとしては、とらえては来なかったと思う。
そう思うと、家族や親族に顔を出しにくくなる、というのは自然なことじゃないかな。
一方的に宣言する形になったもっとも大きな動機は、知らず知らずのうちに期待されるロールモデルによるストレスだっただろうし、
そこから決別する、だからもう期待しないでくれ、そしてお母さんに迷惑がかかるだろうからもう親族の集まりにも顔をださないよ、ということなんだろうと思える。
息子が近いうちに同棲するかもと言うので大人だしあんたの人生だから好きにすれば良いよ、ということを伝えたら、息子に親族の集まりにも二度と顔を出すつもりはないし実家に帰る頻度も減ると一方的に言われた。声を荒げてはいないけど今までの人生で溜め込んだ怒りをぶちまけたような感じだった。
親が望んでなさそうな道を子供が歩もうとするとき、その決別の思いが、
親や親族、あるいはふるさとに対して一時的に強い感情に形を変えてぶつけられたのではないかな。
親が子の幸せをずっと願っている、ということをひしひしと受け止めながら。
中原中也もそうだったし。
ケーブルテレビSTBでは見られない場合が多いようなのでBSパススルーとか
地域によってはSTBで見られるようになったかもしれないので最新情報要確認
・04 木村庄之助 きむらしょうのすけ
・05 桃太郎電鉄
・06 『キングダム』
・07 [漢字を読みましょう]いんど ぱり ぶらじる さんふらんしすこ ろんどん とるこ べるりん すいす
・08 『ゴッドファーザー』
・09 井戸田潤 いとだじゅん
・13 カシュクール
・14 草(かんむり
・15 沖縄(県
・16 つんく♂
・18 なかやまきんに君
・19 7(つ
・21 [共通]ユキ
・22 [AC]叡 えい
・27 [3択]6 7パーセント
・29 アメリカ
・30 [3択]田安(家
・32e Hard
・xx 佐野常民 さのつねたみ
中原中也ってまだ生きてたんだ
最果タヒさんの詩集『死んでしまう系のぼくらに』『夜景座生まれ』と、あとは図書館で数冊をパラ読みした。著作が映画化されているらしいが、見てない。本しか触れてない。
否定的な感想なのでブログには投稿するか悩んで、結局、こちらに持ってきた。ただの感想。
まとめ
最果タヒさんの詩はあまりに散文的で、これは本当に詩なのか、日記じゃないのか、小説と変わらないんじゃないのかとすら思う。実際、同作者の小説『十代に共感する奴はみんな嘘つき』も少し読んだけど、境が曖昧だと感じた。これなら全部小説でも良いじゃんと思うけど、当事者からすると違うのかもしれない。
詩そのものについては、単純に口調とテンポが私に合わない。あんまり真摯な感じがしない……と感じる。でも私が思う真摯な感じとこの人の真摯さが違うだけかもしれないし、この方に真摯なつもりなんてないだけかもしれない。
使われている言葉は、それっぽい言葉を並べてるだけに見える。色んな言葉が出てくるけど、そのひとつひとつの定義って、なんなんだろう? どういう意味で使ってるんだろう? そういうのが見えてこない。だから真摯には感じない。急に言葉が連想ゲームみたいに飛ぶのも、え? 寝ぼけてんの? って感じ。
あと、わざと間違った/厳密に間違いではないけどまず使わない言葉使いや組み合わせ、漢字の開き(ひらがな)が多用されてると、絞れ!になる。そういうのはアクセントに使うのがいいのであって、多用されると醒めるし、詩全体がぼやけてしまう。
これがぼやけたことを狙っている詩や短い詩ならまだ良いけど、長くて散文的だから、ただぼやける。何を言ってるのか分からない。批評を色々読んだけど、「わからなさ」を評価されている面もあり、それでいいのか、じゃあ私に合わないだけか、となる。
ちなみにこの「わからなさ」とは「共感できなさ」のことではない、と言い添えておく。
また、死にたい、殺されたい、の表明が素直球すぎて上滑りしてる。死にたさについて、現実世界の死について、空想上の死について、犯罪について殺人についてを描いている部分があるが、それはただの比喩なのかもしれない。(以下、長いので略してます、ごめんなさい。詩を引用する時に略すのってどうなんだろ……。よくないかも。)
❝(前略)今日も、撃ち殺されなかったと泣きながら眠る夜はただ一人で、(後略)❞
❝あいされたい
それはべつに深刻ではなく。ころされたい、でもいい。❞
❝せめて他殺で。惨殺で。❞
確かに、「死にたい」「あの人に殺されたい」「今日も死ねなかった」と思う人はたくさんいるだろうし、私にもそういう欲求はあるが、なんでだかこの直球ぐあいは合わなかった。反対に、この表現がいい!と思う人もいるでしょう。軽くなんてない、という人もいれば、軽くて何が悪い、という人もいるでしょう。
例えば『死んでしまう系のぼくらに』p.23「線香の詩」から1行目❝大切なものが死んだあとの大地はすこし甘い匂いがする❞のっっっってなんでなんですか!?
次に蝉が出てくるので夏だろう、じゃあスイカやかき氷を食べた庭かな? 大切なもの……有機物か?無機物か?ペット火?人か? 人じゃなければ何かを土に埋めて、それがなんらかの作用で甘い匂いをさせてるのかな?
って、そんなことは考えても考えなくても良くて、まあ私は考えるほうが好きだが、まあとにかくこういうのがなくてもいいけどとにかく「説得力」が足りない。
読んでて、否応なしに「そうなのか」となる、もしくは「そんなわけないだろ」と言えるのがさ、好きなんだよな。「そんなわけないだろ」すら言えずに、「意味わかんねーよ」じゃ、ちょっと良いとは言えない。
例えば宮沢賢治の「やまなし」は詩じゃなくて小説(童話)だけど、❝『クラムボンはかぷかぷわらったよ』❞って説得力えぐいでしょ。「クラムボンは、かぷかぷ、笑う」んだよ。まあこれも好みの問題かもだ。
私は作品の批評で、「分からない」からいい、分からないのがいいんだ、みたいなのは嫌だ。
感想においては「気づかせてくれる」とか「感性が素晴らしい」とかって、何も考えないで生きてるのかよ!と叫びたくなる。もちろん、詩歌(詩、短歌、俳句)って「新しい視点」が評価されるし、私もそういう作品は好きなんだけど、どうしてか嫌だ。単純に感性が素晴らしいって褒め言葉が嫌いなだけかもしれない。私がそう言われると、「感性は、普通ですよ。思ったことを表現するために、頑張ったんですよ」と思うからかもしれない。私の話じゃん。私の話だよ。
この記事は、最果タヒの詩について、否定的感想をあまり見つけられなかったので、公開しました。「最果タヒ 批評/感想」とかで調べるとね、いくつかは出てきますしリンク貼らないけどめちゃくちゃ良い記事もありました。でも、ほとんど見つけられなかった。なので公開しました。私のこの記事はただの感想で、うまい批評なんかじゃないし分析もできてないけど。
でも詩でこんだけ売れてて若者人気もあるってすごいよね、は本音で、昨今は詩歌の中では短歌ブームらしくて色んな本が出たり特集が組まれてるけど、現代詩もそういうふうに盛り上がると嬉しいなとは思います。
読んでくれた方、ありがとうございました。
この記事に対する反論も良いですが、おすすめの現代詩あったら教えてください。読むので。
現代より前の詩……工藤直子/金子みすゞ/谷川俊太郎とか、中原中也/島崎藤村/室生犀星/萩原朔太郎とかは既読なので、それ以外の「現代詩」のおすすめが、知りたいです。よろしくお願いします。
メモを取っているので一冊にかける時間が長い。とはいえ、世界史の教科書では一行で終わっていた出来事の細部を知るのは面白い。
東アジア史が中心。
価値観が現代とは変わってしまっている点が多数あり、今読むときついと感じる箇所も。
旧約聖書を読み始める。
旧約聖書を読了。学生時代に新約聖書を通読したから一応全部読んだことになる。
生物の標本にまつわる本を読みだす。やはり生物学は面白い。ネタが尽きない。
ジョジョを読み終えた。それにしてもハルタコミックスばっかりだ。
十三機兵防衛圏については友人に薦められたからクリア後のノリで買った。
今年はたくさんいけた。行かない月もあった気がするが、それはそれ、そのときの気分に従った。
「シン・ウルトラマン」★★
「プラットフォーム」★
「12モンキーズ」★★★
(長くなったのでブコメ)
「日本人が口癖のように言う『死にたい」は、正確に翻訳すると『ハワイ行きたい』くらいの意味になる」
などという不埒なジョークがTwitterでバズったのはいつのことだっただろうか。
あの時、「我々の高尚な希死念慮がハワイ如きで解消されるものか」と怒り狂った人間と、即座に会社を辞めて航空券を予約した人間と、どちらが多かったのだろうか。
なんにせよ言葉は可塑的だ。
同じ語でも文脈・シチュエーション・なんなら話者にすら応じて無限に語義を変える。
大学を出て、人に文章を見せたり、逆に他人の文章を読む機会が増えた今、それをひしひしと感じる。
「あなたにとって○○と言う語は××的な意味を持つのでしょうが、辞書的には違います」
なんて、我々は常に言葉の意味を巡って対立するし、いつまで経っても話が進まない。
などと宣う輩も少なくないが、漢字から語義が定義できるなら「豆腐」が食えるわけねーだろバカ。
前置きが長くなった。要するに、言葉は空虚で、我々は常に言葉の向こう側にある意味を察して生きている。
あるいは、我々はこんな小さな脳味噌に格納できるなけなしの語彙に、無限とも言える感情の機微を無理やり詰め込んでいるのかもしれない。
ならば、我々が口癖のように言う「死にたい」も、その例外ではないはずだ。
「死にたい」なんて短絡な語彙に、我々の高尚な希死念慮が収まるものか。
字面こそ同じであれ、そこには千差万別の剥き出しのゲンナマの感情が、千差万別の「死にたい」がある。
そもそも、死んだことのない人間が「死にたい」と思うとき、「死」そのものを渇望しているわけがない。
願望には期待がある。我々が未知のものに期待を抱く時、それは空想で、うち大抵は的外れな期待である。
夏の東北は涼しいだろうな、みたいな。かつて仙台で楽天が夏にデーゲームをやって、えげつない数の熱中症患者を出したらしい。
話が逸れた。
我々が死に対して抱く願望はなんだろう。少なくとも「死」そのものではない。(よほど知的好奇心がない限りは)知らないものを求めるわけがないのだ。
私の「死にたい」は、突き詰めれば「自己の再構築への欲求・転生への欲求」であった。
自分が置かれた立場・シチュエーションに全く不満のない私が「死にたい」と思う時、それは「状況に対応できない、愚鈍な自分へのフラストレーション」であった。
自分という存在をリセットすることで、あらゆる困難に立ち向かう「理想の自分」が生まれるのではないか、という淡い希望を抱いていたのだ。
ハワイの例も、考えれ見れば「あらゆる責任の放棄・直面した現実からの逃避」の言い換えだったのかもしれない。
また、私の友人は死にたい理由について「自罰」であると答えた。「罪を背負う私は、罰として痛みを負うべきだと思っていた」と。
死ぬことが罰か。裏を返せば、死を望む彼女にとって、生こそ褒美だったとも言えるかもしれない。こればかりは本人にしか分からない。
「汚れつちまつた悲しみは 倦怠のうちに死を夢む」
というのはかの有名な中原中也の詩の一節であるが、彼は死ぬことでその「汚れ」を綺麗さっぱり洗い流したかったのだろうか。
なんにせよ、死を知らない我々が死を望むとき、その望みの本質は、「死」そのもの以外のどこかにあるはずだ。
https://anond.hatelabo.jp/20200101232410
はてな村で好まれそうな話題だなとは思って投稿したものの、想定以上に反応があって驚いてます。
酔った勢いで書いたものであるので、文体が一致してなかったり論理が破綻してたり誤字脱字がひどいですね。
結果、説明不足だったり変な文章だったりが原因でいくつかこれは補足しておきたいなと思ったコメントがあるので補足させてください。
解説本を読むことで原典にあたった際の新鮮な驚きが減るのは確かと思います。ネタバレ効果というか。小説系では顕著と思います。
また、解説者の解釈が固定化されるという懸念も確かにあるかと思います。
しかし、私の記憶では「これは私の解釈だが」「多数の説の中で、私が支持するのは」など、
俺の解釈が絶対だという態度で解説してた解説者はいなかったし、異説も提示していることが大半でした。
ここまでやってくれたらあとは受け取る側のリテラシーかなぁ、と思います。
また、100分で名著の解説で実施していることは「あらすじ」+「執筆背景解説(作者の人生の中で著作の占める位置など)」+「解説者の解釈解説」と思っていますが
この内「執筆背景解説」が一番の目玉であり、知識のつながりを作ってくれるところで、この部分は原典だけ読んでも絶対に得られない補助線です。
私は持久スポーツを趣味にしていますが、例えばフルマラソンなら当たって砕けろでもまぁ、レース中の数時間もがき苦しみ、暫く足がまともに動かなくなる覚悟があればゴールは出来るでしょうが、
ウルトラマラソンとか、アイアンマンになると当たって砕けろではまぁ無理で相応の準備がなければ、失敗したという経験を経験値に変えることも出来ずに敗退すると思っています。
特に古い思想書は知的作業としてウルトラマラソン級だと思いますし、かつ何かを求めて読むわけでしょう。
ウルトラマラソンで周りの景色も何も見えないぐらいつらい状態になって、制限時間オーバーで失格になっても兎に角意地になって歩き続ける人がたまにいて、マラソンならそれでもいいかなと思いますけど、
古典を読む場合最後のページにたどり着ければよい、というものではないですよね。
途中の景色を楽しむためには相応の準備というものが必要なのではないかな、よほど読書体力に自身があるのでなければ、背景を知識として持っておくのは良い方にしか働かないのではないか、と私は思います。
100分で名著の一番の強みは「TV番組であること」であり一番の弱みもまた「TV番組であること」であると思っています。
強みとしては、インタラクティブな解説(動く図形とか、アニメとか、俳優の朗読とか)が可能になること
弱みとしては「解説者の準備期間、解説時間に制限がかかること」「番組上では注釈を実質的に挿入できないこと」「月に1冊のペースでしかラインナップを増やせないこと」ですね。
特に月イチのペースでしか増やせないのは大きな制約で、解説本の中で出てきた関連本に解説が欲しくても、100分で名著で解説される可能性は極めて低いと言わざるを得ません。
そういう意味で、名著巡りの入り口にしかならないといえばならないのだと思います。
100分で名著をメインに追いつつ、他にも手を出してみようとは思っています。
私は実は番組はあまり見ていません(3割くらいかな)。毎週火曜日この時間にTVに向かっていることが難しいからです。
理想は両方こなすことだと思いますし、伊集院光さんのリアクションは時々ハッとさせられることもありますが、私はどちらかを取れと言われたら解説本だけ読みます。
番組が「あらすじ」+「執筆背景解説」+「解説者の解釈解説」で割合が2:2:6~1:5:4まで変動するとしたら
解説本は執筆背景解説に一律+3、解説者の解釈解説が一律-2って感じです。
(逆に、あらすじだけ知りたい場合100分で名著は重厚長大で、もっと手軽な選択肢があると思います。)
そりゃ、番組の中で解説にちらっと出てきた著者の友人の来歴とか、著書とか、いちいち全部触れられないですよね。
つまり、私が元投稿で言った「本の解説で繰り返し取り上げられる要素(人名、思想、歴史上の出来事など)があることがわかった」現象は
番組を見るより解説本を読んだときのほうが顕著に起こると思われます。
なので、もし元投稿を見て「知識がつながるって面白そう」という点に興味を持っていただけたなら、解説本の方をメインにされることを私はお勧めします。
頑張って読んだ、という感覚はありませんでした。
おそらく、原典には「頑張らないと読めない」ものもたくさんあると思いますが、解説書の段階では頑張らずに済みました。
正直、興味をそそられたかどうかにはレベル差があるので、結局読まない原典もあると思います。
古典名作だと聞いて読んでつまらなかったら被害甚大ですが、水際で食い止めてくれたことになると思います。
読みたくない本、という感覚もなくて、どちらかといえば「知らない本は読めない」ですね。
恥ずかしながら「エチカ」だとか「夜と霧」だとか「全体主義の起源」なんて知らずに生きてきたので
まず読みたくないかどうかも解説書読んで判断しようと思ってました。
食わず嫌いよりは、試食コーナーの匂いで避けた、の方がまだマシかなと言う感覚です。
シャワーを使う際には、本はタオルにくるんで蓋に挟んで防水します。
このスタイルで読書して2年位になりますが、多少湿ることはあっても、問題になるほどビシャビシャになったことはないですね。
以前スウェーデンに出向していた友人から聞いた話ですが彼の国では大学とは必ずしも高卒すぐ入るものではなく、
暫く働いてから勉強したいことを見つけて入る人も相当にいるらしいですね。
その彼が聞いた日本との違いを顕著に表しているセリフが「高卒のガキに大学教育はもったいない」「日本人は高校生の時職業決めるんでしょ?すごいね」です。
後者は嫌味なのかな?と言う気がしないでもないですが、前者は今本当に身にしみています。
大学教育をきちんと受け止められる18歳って、そんなに多くないですよね、、、
以下私の勝手な解釈です。見当違いのことを言ってるかもしれないですが、、、
私と趣味が合いそうだなと思ったら、まずは以下をお勧めします。
スペシャル版なのでちょい分厚いですが、これが私の一押しです。
日本の大乗仏教諸派の成り立ちと違いについて、今まで何度か教わったし読んだはずなのですが全く頭に入ってこなかったのがすらすら入ってきました。
読了後は、まるで自動車教習所に通ったあと今まで目にも入らなかった交通標識が急に意味を持ち出したような感じで、街中のお寺から情報を取れるようになりました。
私自身が茶道やってる事が大きいかもしれませんが、日本人が外国人に、英語で日本文化を説明する起点として最高と思いました。
実際、ボストンで友人とあったとき(作者の天心はボストン美術館の東洋部部長です)なんと役に立ったことか、、、
全編、声に出したい日本語だと思いました。言葉がやや古いのですが、原典も薄くて読みやすいです。
維摩さんというレジェンド級のアマチュア(在家信者)がプロ(菩薩軍団)をやり込めまくる話です。
「煩悩は湧くに任せよ、とらわれないことが大事だ」というフレーズがとても頭に残っています。
一番実践しやすい仏教な気がしました。アメリカの方で流行っているzenとかsatoriってこれを目指してるのかな?と思っています。
↓と思った記事
https://aishinbun.com/clm/20181218/1888/
人間は自己愛ゆえに苦しまねばならぬ、というのがメインの本と理解しました。それだけでも納得感あるのですが、
本人的にはキリスト教最高!で異教徒を折伏するために書いた本らしいのに仏教が目指してるところと同じっぽいのが面白くて読んでました。
原典が思いっきり重そうなのですが、いつか読みたい本の一つです。
いろんなことを言ってるわけですが、
私は趣味を持て、幸せになれるぞ?という本だと理解しました。ラッセルさんの趣味の定義とは「~を収集すること」らしいです。つまりスタンプラリーですね。
何かに対して情熱を持ってスタンプラリーしてるうちは人生に飽きない、ということかと思いました。
解説本読破もそのノリでやってやらぁと思ったのを覚えています。
正確には100分で名著シリーズではないのですが、この「一週間で資本論」が成功したので100分で名著が始まったらしいです。
資本家の行動原理が今とぜんぜん変わらず、ギグ・エコノミーとかも19世紀の理論で説明できることに驚きました。
経済を理解するためというよりは自分の身の振り方を考える上で有用だなと思った本です。
リストがほしいというコメントをいただいたのでリスト載せます。
趣味が合いそうだなと思ったら、参考にしてください。
(抜け漏れあったので追加。まだ何冊か忘れてる気がする、、)
・点と線
・かもめ
・人間失格
・斜陽
・三四郎
・こころ
・茶の本
・奥の細道
・昔話と日本人の心
・死者の書
・銀の匙
・世論
・ペスト
・ゴルディアスの結び目
・1984
・苦海浄土
・夜と霧
・野火
・ソラリス
・マクベス
年末年始休みは読書もはかどり、新たに買った原典も既に8冊終わりました。
今のところ、全て期待通りの内容でとても充実した休みになっており今年ずっとこの調子で読み勧めていけたら、、、(無理だろうけど)と思ってます。
どういうふうに仕事の本を差し込んだら、自分の中の読書熱にうまく歩合出来るかを考えるのが今年の課題かな。
動物本とか、読んでて飽きることがあるんですよね。
なお、私が100分de名著を知ったきっかけは単身赴任中の父がずっと見ており、解説本を纏めて実家に持って帰ってきたのがきっかけでした。
私も読み出して以来、お互いの話題の共通点も増え、お互いの読書の幅も広がって、
初めて父と同等の視点で知識交換をできるようになったような気がしており、その点でもこの番組には深く感謝しています。
(私の専門のITのことでは以前から教える立場でしたが、これとはなんとなく異なる現象のような気がしてます。)
良い1年を!
笑止。
それでも嘘はついていないの。私の大学でのあだ名はローラ。ロシアと中国のダブルの母とミャンマーと日本のダブルの父を持つ私はどこをどう見ても外国人。
ちなみに母方の親戚が住むロシアには長期休暇には帰るが幼稚園から日本に住んでいる。日本語はお茶の子さいさい。ついでにいえば学部こそ理系だけど、日本文学を学ぶサークルに入っている。こんな顔して中原中也の詩集が愛読書。そして極め付けはこの根暗な性格。出来ることなら人と話したくない。SNSの類も一切していない。本を読んで、お腹が空いた時に寒天を食べ、気がすむまで眠りたい。
だが、周りはそれを良しとしないらしい。イメージと違うとよく言われる。もっと可愛い子だと思った、なんて言われる。本当にもう失礼しちゃうわ。私に理想を押し付けないでよ。
ほら、今もこうやって駅のホームで中東からの観光客らしき人がチラチラ見てくる。英語なんて人並みにしか話せないわ。第3ヶ国語なんて無理なんだから。私に期待しないで。あー本当にここは息辛い。
仕事行くの面倒だなー。これがあと数十年続くのかと思うと気が狂いそうだ。週五日決まった時間に起きて混んだ電車に乗って、一日8時間そこまで興味のない仕事に従事しなきゃいけないのか。それはヤバいな。何がヤバいかって、全然楽しそうな人生じゃない。人生ってこんなつまらないものなのか。友達と毎日遊んで暮らしたり、世界のいろんな都市を巡りながら暮らす方法ってないのか。定年まで勤め上げればそういう自由も手に入るわけだけど、それまで何十年も辛いことに耐えて生きるのって本当に幸せなのか。永遠に生きる訳じゃないんだし、もっと早いうちから自分のやりたいことをやっといた方がいいんじゃないのか。
それともこれしきなのが人生なのだろうか?という中原中也の言葉が思い出される。考え過ぎなのかもしれない。そのうち何も感じなくなるのかもしれない。今40代50代の人はそうやってこれまでやり過ごしてきたのかもしれない。自分の感覚を麻痺させることで。
学生時代、一緒に切磋琢磨するサークルの友人、先輩後輩はいたが、自分は誰かにとっていなくてはならない存在ではないことに気がついた。
最後の飲み会でも、自分も参加はしていたし、酒を呑み交わして語らいあってもいたが、この場に自分はいなかったとしても同窓や後輩たちは少し心配するだけで、きっと同じように楽しめていたのだろうと、一歩引いて考えてしまった。
逆に自分がいないと盛り上がらないとか、自分がいないことで場が成り立たなくなってしまうほどの存在だったらと考えると、それも迷惑を掛けてしまうので、不要でよかったと思う。
社会人になって、学生時代から付き合っていた彼女と仕事の関係で遠距離になり、段々と付き合う意味が消えていき苦しんでいく彼女を見ているのに耐えられなくなって、仕事を捨てて彼女を取るというドラマのようなかっこいいことも出来ず、別れを切り出した。彼女は彼女を選ばなかったことに対する落胆か、遠距離の孤独に理解を示したことに対する安堵か、どちらが強かったかあるいは等しかったのかは分からないけれど、ごめんなさい、ありがとうと言って別れを受け入れた。
彼女にとってお互いに最も必要な存在にはなれなかったけれど、そうなってくれる別の相手を見つけてくれたら、悔しくはあるが、嬉しくもある。大事な存在には幸せになっていてほしい。自分が幸せにしてあげられなかった代わりに、そう願う。
更に月日は経って、別の相手と付き合うことになり、結婚して子供もできた。この新しい家族のために頑張ろうと思っていたが、ちょっとした不信からお互いを尊重して認め合いながら生活を共にするという環境が保てなくなり、子供の生活を考えて我慢することも考慮したが、笑顔の無い家庭に育つ子供も不幸であろうと思い、離婚に至った。(笑顔を作る仮面夫婦になるという選択肢もあったろうが、僕はそこまで器用でも心が強くもなかった。)
まだ子供も小さいので、もし早いうちに新しい父親が現れて、せめて母子ともに幸せになってくれれば、と思う。これについては、たかだか養育費を払っているだけの分際で父親の役目も果たさず何を偉そうに、と自分でも思っている。ただ、幸せを願っていることだけは言いたかった。
また独り身になり、上記のような経験や責任を抱えながらも、未だに心を許せ合えそうな人と友人になろうとしたり、告白をしてより近い存在になることを試みたりしている。しかしこの歳になると最も心を許せる相手となことは容易いことではなく(既にそのような友人が別にいることが殆ど)、告白も失敗する。そのような失敗の経験、あるいは必要とはされていないと気づく瞬間を経る度に、また必要な存在にはなれなかった、または必要とされる期間が終わった、と周りがすうっと一歩遠くなる感覚に襲われる。
これだけを聞くと必要な存在となるべく十分な努力ができなかった男の言い訳にしか聞こえないかもしれない。ただ、自分が必要ではないことが必ずしも悪いことではなく、例えば自分が離れたサークル・コミュニティで後輩たちがめいめい活躍して盛り上げていたり、自分の部署の部下がすっかり成長して自分が不在でもしっかり仕事を回しているのを見ると、少なくとも自分の働きで組織を壊してはいなかった、迷惑を掛けていなかったと、安心する。
かつて家族を作りかけることができたように、必要とされ合える存在をまたいずれ持つことができたらきっと安心するだろう。
ただ、もしもうそのような機会が得られなかったとしても、今まで接した家族、友人、先輩後輩、同僚や部下、全ての人たちが必要な存在と共にいられて、心の安息を得てくれることを願ってやまない。自分が幸せになれない分、皆が幸せになってくれなければ、自分はただ不幸なだけで救われない。
心の安息は得たいが、他人の幸せを願えなくなるような鈍感にはなりたくない。日々揺れながら生きている。今のところは、とりあえず、いなくてもいい存在である自分自身を、こうして自分なりに受け入れてやりたい。
どうか幸せでいてください。私は幸せではなくとも、あなたは幸せでいてください。
蛇足になることを恐れつつも。
批判や肯定や慰めのコメント、ありがとうございます。どなたかが言われていたように、現実世界で言われたらイラっとする系の吐露だったので増田に書きました。
基本的には前を向いて生きています。必要とされるよう努力をし、いろんな感情だったり困難な仕事だったりと付き合う/乗り越えるために友人/恋人を必要とし、自分なりには助け合って生きています。
友人とバカ話をして笑い合うこともあります。ただたまに、時節と心情の揺れの組み合わせが悪く、かつ自分の(きっと主に自分が傷つかないために)自省する性格も災いしてこの文章のような諦めの気持ちが強くなることがあります。苦しかったので、誰かに何かを言ってもらいたく、書いてしまいました。ですので、これだけコメントがあったことがとても嬉しく、どの種のコメントでも正直に気持ちを伝えてくださっているものはとても心に響きました。ありがとうございます。
もし同じように八方が塞がったような心情の人がいたら、自分にも同じ気持ちはあると、励ましてやりたいと思います。皆さんもぜひそうしてあげてください。