はてなキーワード: ラフプレーとは
私は今の東京吉本オンラインカジノ疑獄は、中田カウスがドーナツピーナツに渋谷漫才劇場のトリを取らせるために、配下の反社を動かして無限大と神保町の有力漫才師を罠に嵌め、根絶やしにしようと企んでいるのだという陰謀論を流行らせようと思っています。
令和ロマンの釈明動画見ました?おばちゃん感心しちゃった。やっぱり立ち回りクレバーだなぁ……って思ったよ。
まず報道から動画を出すまでの速さ。昨今、「本人がいつまでも公式に謝らない」ことが一番大衆の怒りを煽るんだって実例がわんさかありますからね。
初手でやってた期間を「2019年末から2020年末」と明言することで、つまり「賭博罪の時効はもうとっくに過ぎてる(3年)昔の話ですよ」「やめて4年以上経ってますよ、常習じゃないですよ」ということを言外にアピールするとともに、「当時、ネット上にめっちゃ広告出してたサービスだったので違法ではないという紹介者の説明を信じた」と、昨日の報道があった時点から言われてた擁護意見も取り入れる。
かつロザンの動画を引いての「吉本のコンプライアンス講習でもオンラインカジノの話はしてたらしいぞ、違法性がないと認識してたって言い訳は通らないんじゃない?」という批判に対しても、「そういう講習とかでオンラインカジノの話がされるより前の話だったってことでしょ」と反論できる雰囲気をつくり、さらには「大学時代の知人からの紹介」だと言うことで「吉本の芸人間で違法オンラインカジノを紹介し合ってたわけではない、そういうグループがあったか分からないし、少なくとも自分たちはコミットしていない」と線引きもした。(ダイタク・大さんから始まったこの疑獄にみんなが心配しているところはそこだったと思う。みんなでやっててみんな芋づる式に捕まる的なストーリーがあり得るのかという)
今後の活動などについては自分から図々しいことを言い出したりせず、ただ関係者とファンへの謝罪に留める抑制。
そして、くるまさんが真面目に謝罪している間、ずっとケムリさんが無言で微動だにせずただ立っているという、「真面目な人から怒られない、謝罪動画でできるギリギリのおもしろ」を差し込む塩梅? シリアスになりすぎないファンからのいじりしろを作っておくコントロール? このケムリさんのアクトは、闇営業問題の時のゆりやん・KAZMA両氏のインタビューと並び称されても良い。
難しいのは、あまりに傾向と対策芸のニンがついてしまったくるまさんなので、謝罪動画に対してもこういう「上手いね!」という評価がついてしまう弱みはある。
いや、普通に大手事務所所属の芸能人や、コンプライアンス対策周りに多少はお金使えるような有名人は、みんなこの程度の謝罪弁明の戦略は立てられるようにしてくれよ……って話ではあるんだけど、昨今あまりにしょうもない釈明文ばっかり見せられてるからさ。
あとこの一年、変な持ち上げられ方をしていたのを編集者との熱愛ゴシップとこの件で一挙にワーキャーファンを散らせたのはあまりにラフプレーだが長い目で見ると良かった可能性もある。しらんけど。
ところでエースさんと伊沢さんさえ良ければ、ニセ漫才師だから呼んでもらえないと哀しんでいた真空・川北さんを追加ゲストに迎えての『ボクらの時代』差し替え後編も待っていますよ。
フェルスタッペン&レッドブルならポジションをすぐに返していたはずだ。
それも自分たちに一番都合の良い場所で一瞬ポジションを返してすぐさま再オーバーテイクをしかけていたはずだ。
マクラーレンが甘いのはエイペックスがどうのこうのと主張して、これまでの過去の判定やこの日のスチュワートの判断を全く無視していることだ。
この日は同じシチュエーションでガスリーに5秒ペナルティ、ラッセルも5秒ペナルティ、角田にも5秒ペナルティとかなりわかりやすい判例がすでに示されていた。
にも関わらずポジションをフェルスタッペンに一度返すようにノリスに指示しないのはボーンヘッドと言われてもおかしくはない判断といえる。
そもそもフェルスタッペンがあれだけラフプレーが多いのになぜペナルティを受けないのか?
そこを真面目に考えたことがあるのだろうか?
ワールドチャンピオンに対してスチュワートがペナルティを与えるのに及び腰になっているとても考えているのか?
そうではない。
フェルスタッペンはルールで何が許されていて何が許されていないか、その部分を熟知している。
たぶん強烈に勉強したのだと思う。
じぶんでルールブックを読んだのか、頭のいい人に読ませて教えさせたのかはわからないが。
とにかく彼はルールを熟知してる。
それはデレク・ワーウィックもそのようなコメントをしていたように記憶してる。
「彼がどれだけ高度なテクニックを使っていると思っているんだ?」
(彼は巧妙にペナルティを受けないようにドライビングしているんだ。というような意味。F-1ではドライビングのログが残るのでスチュワートは判断に迷うときにはそのログを見てルールに違反した動きだったかどうか判断する場合がある。)
そんなことを言っていたはずだ。
フェルスタッペンがよくやる行動のひとつとして、直線からのブーレキング時に進路変更を何度もしているように見えるという行動がある。
マグネッセンあたりがやったら一発でペナルティをもらうような走らせ方だ。
なぜか?贔屓されているのか?
もちろん違う。
彼はどのような手順で車を動かせばルールに抵触しない形でえげつないブロックを出来るかを熟知し、そして驚異的なマシンコントロール技術でそれを実行しているのだ。
彼はおそらく2021年の熾烈なルイス・ハミルトンとのチャンピオン争いのときに痛感したのだと思う。
自分が、いかにルールに対して無知であるか?ということについて。
この行動がペナルティを受けるのかそうでないのか?明確に理解していないままハミルトンと強烈なバトルをしていたことを反省したのだと思う。
あのときのスチュワートはワールドチャンピオン争いに水を指すのをためらって二人のバトルに関しては極力ペナルティを与えないようにしていた。
それによってフェルスタッペンは救われた場面が一度や二度ではなかった。
とくにブラジルグランプリであのときペナルティを受けなかったのは本当にラッキーだった、と後にヘルムート・マルコが語るような無茶なことをやってしまっていた。
でもいまのフェルスタッペンは違う。
彼はしっかりと何が許されて何が許されないか正確に理解している。
オレオレFCはホームで町田ゼルビアに1ー4で敗れて、本拠地では4連敗となった。前半11分にCKからFWトーマス・ノレジーのヘディング弾で先制したが、直後に追いつかれ、同42分にDF小林が一発退場すると、後半は防戦一方。DF田曽野の一発退場もあり、一気に突き放され逆転負けを喫した。
屈辱的な敗戦を喫した3月のリベンジ戦は、木っ端みじんに打ち砕かれた。首位の町田に試合内容でも圧倒され、試合終了待たずして会場を後にするお客さんに、横断幕を撤収する光景。選手や監督がサポーターのもとへ挨拶に向かうと、恒例のブーイングが飛ばされた。野河田彰信監督は「もう自滅や。完敗や」と半ば呆れた表情で振り返った。
鈴木潤主将、岩田、村山が出場停止の今節はスタメンを3人変更。前半11分には町田のお株を奪うCKからFWトーマス・ノレジーのヘディング弾で先制した。しかし同20分に右サイドを破られ、追いつかれると、42分にはDF小林が相手を足裏で倒したとして一発退場。そこからは後手後手になり、後半16分に勝ち越されると、これで心が折れたのか、最後まで覇気が感じられず、後半26分にはDF田曽野がFW藤尾をラフプレーで倒し、乱闘寸前から一発退場するなど、その後も立て続けに2失点する無惨な結果となった。
指揮官の怒りはヒートアップした。「退場もそやけど、おそらく(攻守ともに)一番最悪の試合。球際、ほとんど負けていたし、(町田は)やる事やっとるからな。ウチは判断も遅いし、その辺が差に出とるわな」と厳しく指摘。矛先はコーチ陣にも向け「奈良井、星井、岡嶋もどういう指導しとるのかという事やん。そこまで俺が教育せなアカンのか」と容赦なく断罪した。
暫定13位に転落。昨年5位と躍進したチームの面影はなく、降格圏の18位大分との勝ち点差「8」あるとは言え、このまま低迷すれば、野河田監督の進退問題が過熱することは避けられそうにない。ホーム3連戦の最後となる次節は6日、ヴィッセル神戸と対戦。ロイブル軍団が正念場を迎えた。
昨日の男子サッカー、日本対北朝鮮での朝鮮人の怒り狂う様(他人様の水をぶんどっておきながら)、
誰かが言ってたけどあれが火病なのかと思って調べてみたらちょっと違ってた。
という事らしいんだけど、ネットスラングなのかな、
韓国人は何かとつまらない事で怒って難癖をつける民族であるというイメージが強い事、また韓国よりも遥かに怒りを発散しにくい文化であるはずの日本・中国では全くこのような文化依存症候群が見られない(=症候群の原因となっている韓国文化の独特な点は怒りを発散できない事ではなく、根本的に怒りやすすぎる事が原因)ことから、「極端に怒り狂う事」そのものの代名詞として定着している。
今週は日本ダービーだね
もはや予想しても馬券とれるかわからないのが今年の競馬なので、今週はただ推しについて語ろうと思う
アスクビクターモアというと中山専用機なのに皐月賞負けた子、みたいなイメージしかない人もいるかもしれない
とりあえず今までの彼の経歴を語っていく
騎手は戸崎
この新馬戦は、第三章クラシック編のボスになるジオグリフ、第一章デビュー編でライバルになるアサヒが出ている
そしてアサヒに直線で幅寄せされてぶつけられ、ラフプレーをされて激しく競り合うという、漫画にしても描きごたえのある展開になった
2人は激しく競ったもののゴール手前でビクターは力尽きるという結果に…
しかし、勝ったのは競り合う2人を横目に鋭い差し足で交わしていった後の皐月賞馬ジオグリフ
クラシック編で倒す敵ジオグリフは強大だったものの、とにかくアサヒには借りを返さねばならぬ!
騎手は戸崎
前走で因縁のついた相手、アサヒの出走に合わせたリベンジ戦となった
2人は中団以降からの競馬を選択し、どちらも3コーナーから大外まくりを仕掛けて競り合うのだけど、ビクターは最後までアサヒに並ばせずに最後1馬身半つける完勝を見せる
2着アサヒは3着に5馬身差をつけたので、この2人の力が抜けていた
騎手は戸崎
未勝利から抜けてレースレベルは高くなるが、ここで1番人気に推される
レースは3番手に控えて順調に進むが、3コーナーではビクターのすぐ後ろの外側に位置取り、ぴったりビクターをマークしていた2番人気の馬がいた
ビクターにとって生涯のライバルとなるこの漫画のラスボスである
最終直線で前2頭の狭い隙間を一瞬で突いてビクターは伸びていくが、ビクターより速くスピードに乗せたドウデュースに追いつけず、再び屈辱を味わったビクター
ビクターがクラシックで勝つには、このドウデュースを超えなくてはならない
ドウデュースに力の差を見せつけられ悩むビクターの前に現れたのが、第一章のライバル、アサヒの鞍上にいた田辺騎手
あのライバル、アサヒの元相棒とパートナーになることで、ビクターは新たな境地に進んでいく
次の3戦目は年明けての3歳1月
新たなパートナー、田辺はビクターを信頼し切った騎乗を見せ、それほど着差はなかったものの、ステッキを打つことなく勝ち切った
これで中山は2戦2勝
ドウデュースへの借りを返す日を待つ
しかし、その間にあのライバル、ドウデュースは無敗のまま年末の朝日杯を勝ってG1馬となり、最優秀2歳牡馬に選出されていた
だが、田辺という相棒を得たビクターも、以前のビクターではない
ドウデュースへのリベンジの舞台はビクターにとって初めての重賞レースとなる報知杯弥生賞ディープインパクト記念
ドウデュースは1番人気、ビクターは3番人気とすっかりビクターは追う立場
レースでは、中団に控えるドウデュースより早く4コーナーで仕掛けて直線で先頭に立つと、やはりドウデュースも追ってきた!
最後は抜け出した2人の競り合いとなるも、今度はビクターが並ばせない!
無敗の2歳王者にビクターが初めて土をつけ、ビクターは重賞馬となった
負けた分はきっちり返す、これがビクター!
「世代の頂点の18頭に名を連ねられたのは嬉しいこと」
「今度はG1馬(ドウデュース、キラーアビリティ)も出てくる、東京の前哨戦を勝った馬(ダノンベルーガ)も出てくる」
「中山競馬場というビクターのホームグランドで、そういう超一流の馬と一戦交えられるのは光栄なこと」
「最後の直線でそういう人気馬と全開で叩き合えるような状況にしたい」
ライバルのドウデュース、新たなライバルとなるダノンベルーガ以外にも、ビクターが新馬戦で負けた因縁の相手ジオグリフもここに出てきている
この4強にビクターはどう立ち向かえるかが皐月賞の様相となった
この日、馬場は内が荒れて、内枠が不利となったが、ビクターは2番という内枠を引き、前に出る馬がいないために先頭でレースを引く形になる
この展開はビクターにとっては不利な流れ
それ以外の3強は先団後方に並んで控える
2コーナーではダノンベルーガは枠が1枠1番のため最内を通り、ジオグリフがその外、大外スタートのイクイノックスがその外につける
その形のままレースが流れ、最終直線手前から各々ついに仕掛け始める!
残り200m地点になって、最内をついたダノンベルーガ、先頭を引いていたビクター、外にかぶせたイクイノックス、大外を選んだジオグリフが4頭ぴったり並ぶ!!
だがそれを追ってジオグリフが伸びる
これはもう、馬場の加減で仕方がない…
だが、なんと最内を通したダノンベルーガもビクターを交わしていく!
同じく内を走った者同士、勝ちは無理でもお前にだけは負けられない!
奮起したビクターは最後の力を振り絞って、一度開いた差を縮めにかかる!
差し返して先着する!
ビクターはベルーガを差し返すか、という地点でゴールが来てしまい、クビ差負けての5着となった
ベルーガ、このままでは終われねえぞ…
少年誌的な展開からすると、ここでのビクターのライバルはダノンベルーガ
皐月賞で内を通った者同士の決着をビクターはつけなきゃいけない
そして皐月賞馬となったジオグリフには新馬戦を含めてこれで2敗、まだ借りを返してない
ジオグリフ、お前にもここで決着をつける!
本編の続きが楽しみだね!
少年誌的には舐めてかかってくるベルーガとジオグリフに対し、ドウデュースだけがビクターを認めている会話がレース前に行われる
そしてレース結果として一番少年誌っぽいのは、ビクターはベルーガとジオグリフに先着して2着か3着になるんだけど、ドウデュースにはまたも届かない、という展開かな
クラシック編としては一応、ここでジオグリフとベルーガとは決着をつけておきたいね
清々しいような覚悟がいつも見て取れる
見た目ヤクザみたいでちょっと怖いけど、にじみ出る覚悟が美しい師匠
皐月賞前の会見でも、
https://www.youtube.com/watch?v=P0J4Pk3iuQU
前述したけど、「ホームグランドで、そういう超一流の馬と一戦交えられるのは光栄なこと」のような痺れる言葉を放っている
そして、
この18頭に名を連ねられるのは光栄なこと
馬はクラシックだとか、これが大きいレースだとか知らないし、皐月賞を取りたいだとかそんな個人的なことは終わってから考えること
気分良く走らせてあげて、ビクターには、田村君、楽しかったよ、って帰ってきてくれたら
のようなことを言っている
ダービー前の今回も、
https://www.youtube.com/watch?v=pQMGeyiraoE
https://www.nikkansports.com/keiba/news/202205250000483.html
グラム単位で絞ったりして、ものすごい緊張感の中で仕事をさせてもらえる幸せを実感している
まずは無事に走ってほしいと思うし、ジョッキーに楽しかったって言ってほしいし、馬にも一生懸命頑張ったねって言ってあげたい
こんな感じで、いつも心にグッとくるんだわ
カスタディーヴァというニュージーランド産の突然変異の白毛の牝馬がいてですね
この子が日本に来て、ゴールドシップとの間に生まれたのがアオラキという白毛馬
ソダシを含むシラユキヒメ一族とはまた違う血統の白毛馬が日本に登場したので、これはワクワクするね!
アオラキ君も今は田村先生のところで頑張っていて、この夏にデビューしてくると思う
ぜひ応援したいですね
お父さんディープは2年前に亡くなって、今年のディープインパクト産駒の2歳馬は6頭しか登録されてないらしい
実質的に、ディープインパクトの子供がダービーを走るのはこれが最後ということになりそう
プラダリア、
ロードレゼル
最後の年に亡き父に勝ち星をささげる孝行息子はきっとこの中にいるはず
キラーアビリティは、ディープの意思を継ぐ者同士、盟友と言えるかもしれない
母カルティカのお父さん(つまりビクターの母父)はレインボウクエストというアメリカの馬で、現役時代は凱旋門賞を含む2400mのG1を2勝した馬
レインボウクエストはサクラローレルのお父さんでもあるので、父系だから言い方違うかもしれないけど、ビクターの伯父がサクラローレルということになる
カルティカの初仔はケマーというアイルランド調教の活躍した牝馬
2番仔以降は
Niedziela(IRE)姉(8戦1勝?)
Qaabil(IRE)兄(19戦0勝?)
と生まれている
そこからは
その下に未デビューの妹が2人
下の妹はキズナ産駒、そしてその下にブリックスアンドモルタルの子を受胎中
もう生まれてるかも?
ビクターのお姉ちゃん、ケマーはフランスの桜花賞にあたる1000ギニーで3着となり、イギリスの牝馬限定NHKマイルカップのようなコロネーションステークス(G1)とフランスのヴィクトリアマイルのようなロートシルト賞(G1)を勝ち、G1を2勝した名牝
お兄ちゃん、セブンフォールドは父親がディープインパクトなのでビクターの全兄
今は1勝クラスで芝で走っているけど、中央ではまだ勝てていない
ビクターの兄弟は、4人が勝ち抜けて、2人が重賞馬なのはすごい
毛色は鹿毛と言われているけど、栗毛かと思うような明るい茶色で、ちょうどエフフォーリアと同じような色
鼻筋には白い筋があって、鼻のあたりまで白い
足元は4本とも、ソックスを履いているかのように足先が白くなっている
レースではメンコをかぶっているから鼻筋の特徴はわかりにくいけど、足元のソックスっぽいのはよくわかるよ
とりあえずビクターのこと語ったよ
2枠3番に決まったようだし、内も有利な馬場になりそうと聞いている
これはもう、負ける要素ないんじゃないかな
思えば皐月賞もビクターとドウデュースの2頭軸だったけど、馬連だったから外したんだった
今回も一貫させるで!
2(https://anond.hatelabo.jp/20210828220400)のつづき
『アイアンリーガー』は、基本的には優しい物語だ。彼らの努力や苦闘は最終的には報われ、そして(恐らく)最後はハッピーエンドを迎えるだろう。(迎えますよね?)
しかし、物語でロボットたちが直面する苦難は、決して甘いものではない。先述したロボットとしての宿命はもちろんのこと、彼らが心を持つモノであるが故の葛藤は非常に厳しいものだ。そして彼らの葛藤を通して僕たちに投げかけられている問いも、また厳しい。
彼らは意志を持つモノだ。意志を持つからこそ、自らの宿命を乗り越える余地がある。しかし一方で、意志は必ずしも良いものとは限らない。あるいは、仮に良いものであったとしても、それが良い方向に働くとは限らない。一つの意志は、別の意志を阻害する可能性を持っている。あるいは、意志もまた一つの「制約」になりうる。トップジョイと彼を取り巻くシルバーキャッスルの葛藤は、その象徴的な物語だ。
トップジョイのスパイ行為がまだ明るみになっていなかった時点で、トップジョイとシルバーキャッスルは相容れない様相を見せていた。ラフプレーをするトップジョイを、シルバーキャッスルは認められないのだ。
それまで、シルバーキャッスルのメンバーはトップジョイを温かく受け入れていた。そしてトップジョイ自身も、スパイという立場でありながら、シルバーキャッスルに好意を抱いていたに違いない。それにも関わらず、ラフプレーを繰り返すトップジョイに、シルバーキャッスルは厳しい態度を取った。
ラフプレーは、トップジョイのスパイ行為としてのものではなく、真にトップジョイが良かれと思ってした行為だった。それでも彼らはそれを認められなかった。試合で決勝点となるオウンゴールを決められてしまった時でさえ「笑って済ませた」彼らが、である。彼らは結果として、トップジョイを追いやったダークのバスケットチームと同じことを、トップジョイに宣告する。
それは、シルバーキャッスルの「意志」と、トップジョイの「意志」が対立した結果だ。
フェアプレーを貫く。それがシルバーキャッスルの意志であり、同時に、シルバーキャッスルがシルバーキャッスルである理由だ。もしトップジョイのラフプレーを受け入れてしまえば、シルバーキャッスルとしてある意味がなくなってしまう。特定の目的(つまり意志)を持った集団は、その目的や意志に反するモノを本質的に受け入れられない。たとえそれが悪意でなかったとしても、そして、「あなたが好き」であったとしてもだ。
そしてトップジョイのスパイ行為が明かされた時、シルバーキャッスルは、彼に手を差し伸べることができなかった。
シルバーキャッスルのリーガーたちは、皆善性の象徴のような存在として描かれている。それまでの話を通して、彼らの正々堂々を尊ぶ精神や、仲間を思う優しさ、苦難を乗り越える強さは、繰り返し描かれていた。その彼らが、目の前で苦しんでいるトップジョイを、仲間として助けることを一度は拒絶したのである。
そこで提示されたのは、彼らが、彼らの持つその善性故に救えないモノがあるという事実だった。
仲間を傷つけかねない状況を作ったトップジョイを、彼らは許すことはできない。仲間を、大切なものを守りたいからこそ、それを裏切ったトップジョイを許すことはできない。彼らは自らの意志で彼を拒絶することを選んだ。それは決して悪意ではなく、誰かから強制されたものでもない。
トップジョイの背景を知っている僕たちは、その光景に胸を痛める。しかしその光景は、僕たちに一つの事実を突きつける。僕たちもまた、トップジョイを受け入れられないかもしれないという可能性を持っているということだ。あのシルバーキャッスルでさえ、彼を受け入れられなかったのだから。
『アイアンリーガー』は、シルバーキャッスルのリーガーたちを聖人にはしない。彼らもまた迷い、限界を持つ、あくまで僕たちと地続きの存在として描く。それ故に、シルバーキャッスルの姿は僕たちの一つの側面である。時に悪意のないものを悪とし、集団から排除する冷酷さを、僕たちは抱えている。
シルバーキャッスルの「シルバーキャッスルを守りたい」という意志は、トップジョイの「ここにいたい」という意志を阻むものだった。それは同時に、トップジョイが好きだという、シルバーキャッスル自身の意志をも阻んでいる。「意志を持つ」こと、そしてそれを貫くということの逃れ得ない宿業を、『アイアンリーガー』は真正面から描き出す。
しかし、それでもなお、『アイアンリーガー』は希望を提示する。トップジョイは自らの意志でダークの呪縛を断ち切り、シルバーキャッスルのメンバーもまた、彼を許し、受け入れる。
トップジョイもまた、自らの意志が自らの制約となっていたキャラクターだった。過去に観客を沸かせて得た喜びと、それに基づく「あの場所に帰りたい」という意志は、新たに生まれた「シルバーキャッスルにいたい」という意志を最後まで阻み続けた。第八話から続いた、シルバーキャッスルや子どもたちと心を通わせながら、ダークのスパイであり続けるという彼の矛盾した行動は、その葛藤の現れだったのかもしれない。
しかし最後、トップジョイは自らの中にあった意志の相克を決着させた。本当に自分にとって大切なものは何かを、自分の意志で決めた。そして、たとえそれがシルバーキャッスルに受け入れられなかったとしても、ダークにも、そしてシルバーキャッスルにも、どこにも自分の居場所がなくなるとしても、それでも「守りたい」という意志を貫いた。外面的な制約も内面的な制約も乗り越えて、トップジョイは意志を固め、それを全うした。
シルバーキャッスルも、そんなトップジョイを受け入れることを選んだ。それは、トップジョイがシルバーキャッスルに受け入れられるようになったから、というだけではない。許すという行為は簡単なことではなく、受動的な行為でもない。彼ら自身がトップジョイの行動と意志を見て、彼ら自身の意志で、彼を許すと決めた。彼を再び仲間として迎え入れることを選んだ。「トップジョイと一緒にいたい」という意志を貫くことを決めたのだ。
『アイアンリーガー』で描かれているのは、人間に操られる可哀想なロボットたちの悲劇ではない。第十三話の最後、仲間に囲まれたトップジョイの絵に描かれているのは、与えられた場所で、与えられた形で生きざるを得ない「意志を持つモノ」ーーそしてそれと地続きにある僕たちーーが、その意志故に苦しみながらも、最後に至った希望の姿だ。意志を持つモノは、僕たちは、内にそれ故の冷酷さを抱えたままで、それでも誰かに優しくなることができる。過去の呪縛を振り切り、過ちを許し、弱さを乗り越え、そして、自由になることができる。『アイアンリーガー』は、意志を持つということの宿業に向かい合いながら、それでもその先にある希望を見つめている。
『アイアンリーガー』という作品を、あえて外形的な説明を諦めて一文で表すとしたらーー月並みで申し訳ないが、「意志を持つモノが思う通りに生きるために戦う物語」とでも言うのだろうか。
ロボットという存在が、人間の隠喩としての機能を持っていると既に述べたが、それは作中で描かれているスポーツにしても言えることだ。確かに『アイアンリーガー』でロボットたちはスポーツをしているが、作中ではどうにもスポーツに対する拘りが見えない。グローブをはめてサッカーフィールドに出るわ、サッカーチームが野球の試合に出るわ(おまけに「野球なんて簡単よ」という暴言まで吐く)、剣の道はバッターボックスにあるわ、スポーツをしている人間が怒り出しそうなほどのいい加減さが、『アイアンリーガー』にはある。
結局のところ、スポーツもまた、一つの隠喩、象徴に過ぎないのだろう。大切なのは彼らが「思う通りにやりたいことをやる」ことであり、その場がたまたまスポーツだっただけだ。乱暴に言えば、別にクラシックが持て囃される世界でロックを奏でる物語でも、新古典主義に対抗する印象派という物語でも良かったということである。もしかしたら『アイアンリーガー』の世界のどこか別の場所では、やはりロボットたちがそんな戦いを繰り広げているかもしれない。いずれにしても、それがどんな場所であれ、大切なのは彼らが「思う通りに生きる」ということである。
『アイアンリーガー』の中で、ロボットたちは「人」と呼ばれる。『アイアンリーガー』では、人間もロボットも、同じ意志や感情や心を持つモノとして、同じように「人」と呼ばれているのだろう。ロボットたちは「人」として、「人」故の葛藤に苦しみながら、自らの意志で、為したいこと為したいように為す。それはシルバーキャッスルのロボットであろうと、ヒール側のダークに所属するロボットであろうと同じである。誰が何と言おうとも、それが望まれたものでなくても、それが好きで、ここが好きで、ここにいたいから、だから、戦う。世界と、そして、自分と。
マッハウインディはダークの支配を、ブルアーマーは生まれながらに課せられたバグと過去を、極十郎太は剣士としてのプライドと固定観念を、キアイリュウケンは自分に与えられた役割と機能を、トップジョイは与えられた心の特性と思い出という呪縛を乗り越えた。
S-XXXは、その可能性を垣間見せつつも、乗り越えるところまで行き着くことができなかった。悲劇ではあるが、それもまた戦いの一つの結末である。
そして、マグナムエースは、GZはーーそれはきっと、これから描かれていくのだろう。彼らの物語は始まったばかりだ。
そういうわけで、冒頭に戻る。「ロボットがスポーツをするアニメ」では『アイアンリーガー』の何たるかは一ミリも伝わらないし、しかもこのアニメ、子ども向けでもない。いや、もちろん子どもも観れる内容であるし、ぜひ見てほしいアニメであるが、しかし、この物語に真に共感するのは、社会の中で何らかの役割や立場を与えられて生きづらさを感じている大人の方ではないかと思う(無論、子どもは子どもで様々な制約の中で生きているのであるが)。覚悟もなく軽い気持ちで見始めた人間が、何もかもが詐欺だと喚き散らすのも許してほしい。心の遣り場がないのである。
覚悟ーーもちろん『アイアンリーガー』というエンターテイメント作品を楽しむのに覚悟などというものは不要な訳だが、しかし、彼らの生き様に心を震わせられる僕たちは、ロボットたちの姿に、一つの覚悟を問われているような気がしてならない。
意志を持つということ、意志を貫くということは、痛みや葛藤と隣り合わせだ。しかしその道の先に、意志を持つモノだけが見ることのできる世界が広がっている。僕たちを雁字搦めにする世界のあらゆる制約の中で、それでも、僕たちが「意志を持つモノ」として生きていくことへの厳しくも温かい声援が、僕が第十三話の時点で『アイアンリーガー』に見た、僕の指針としてのテーマだ。
『アイアンリーガー』は三十年近く前の作品だが、未だ色褪せることのない魅力と、令和の時代にもなお僕たちが向き合い続けている命題を宿している。この時代にこの作品に出会えた幸運に思いを致し、僕にその切っ掛けを与えてくれた先達たちに心より感謝を申し上げる。
おわり
※本筋とまったく関係がないのでここに書くが、そもそもとして、作品のテーマというものは、作者が自分の表現したいものを「表現するための」指針の一つであり、そして作品の受け手の側に立てば、受け手が自らのフィルタを通して、ある種「勝手に」見出した「何か」、あるいは作品を「受け取るための」指針であると僕は考えている。そして、作品というものが、作者の発信と受け手の受信の双方によって初めて成立するものである以上、作者の意図するテーマと受け手の受け取ったテーマが異なっていたとしても(あるいは、作者がテーマを全く設定していなかったとしても)、そのどちらかが正しいということはあり得ない。(曲解を元に作品や作者を誹謗中傷するのなら、それは作品テーマの解釈とは別問題である。)作品に「真のテーマ」などというものは存在しないし、作者が作品にテーマを込めようと込めまいと、そして受け取り手がテーマを見出そうと見出すまいと、それは作品の本質には何ら関係がないのである。
1(https://anond.hatelabo.jp/20210828215226)のつづき
第九話では、トップジョイの正体と過去が明らかにされる。もともとダークスポーツ財団で「作られた」トップジョイは、ショックサーキットという枷を掛けられ、スパイ行為を「ほとんど」強制されていた。これまで意思を持ち、それを自由に行使できると思われていたロボットが、実はそうではなかったということが、ここで明らかになる。
もちろん、ショックサーキット自体は第一話の時点でマッハウインディに埋め込まれた形で登場している。ダークスポーツ財団がロボットたちに背反を許さないようにし、彼らの自由を奪っている事実は、物語の冒頭から提示されていた。
だが第九話から続くトップジョイの物語は、マッハウインディがショックサーキットに苦しみ、そして克服した第一話・第二話とは少し様子が異なる。マッハウインディが自らダークの元を去り、早々にショックサーキットを切除して完全にダークとの絆を絶ったのに対し、トップジョイはそこから第十三話まで、「自らの意思で」ダークとの関係を持ち続けているのである。
トップジョイが――シルバーキャッスルに好意を抱き、マグナムエースから手を差し伸べられていたにも関わらず――なぜ十三話までダークとの縁を切らなかったのかについては、明確な描写がなく、少々解釈が難しい。ここから先は憶測の比重が非常に大きくなるので、ご容赦いただきたい。
第九話で、トップジョイはフェアプレーを重んじるシルバーキャッスル、及びそれに共感する子どもたちを「理解できない」と言った。「ラフプレーをすれば客は喜ぶ」「客を喜ばせるのがアイアンリーガー」だと。
これは、シルバーキャッスルを内部から撹乱するというスパイ行為による言葉ではない。トップジョイの本心だ。彼は本心でラフプレーを正しい行為と捉えているのである。同じ本心で、第八話でキアイリュウケンとオーナーの絆に涙し、子どもたちと純粋に交流を楽しんでいる一方で。
同時に、九話ではトップジョイの過去と思いが垣間見える。「楽しむ」ことを大切にした結果、バスケットチームから放逐された過去。それでも忘れられない、バスケットリーガーである自分に向けられた観客の歓声。あの場所に戻りたいという思いが、トップジョイの根底にある。
彼がぎりぎりまでダークとの絆を絶てないでいたのには、この思いが大きいのではないだろうか。トップジョイがダークに従っているのは、ショックサーキットだけが理由ではない。もっと根底の、自分の存在そのものに関わる意思ーーあるいは、心ーーである。
これは完全に僕の推測であるが、第八話で示唆された「ロボットは、人間に役割を与えられ、それに相応しいように設計・プログラムされて生み出される」という事実を踏まえると、トップジョイのこの「意思(心)」もまた、ある程度製造者によってプログラムされたものではないだろうか。
作中で、ロボットの意思や思考、心が人間にプログラムされたものだという直接的な言及は(現状)ない。だが彼らが「注文に応じて製造される商品」としての一面を持つ以上、ロボットが人間の赤ん坊と同じようにまっさらな状態で納品されるとは思えない。彼らは製造された時点である程度の機体性能、そして知能と知識を有し、そこには人間の意向が相当程度反映されていると考えるのが自然である。
「トップジョイ」という名前であるがーー彼らがある程度完成された状態で世に出るとしたら、彼らの名前は、その機能・性能にちなんだものであるのだろう(もちろんまったく関係のない場合もあるかもしれないが)。ロボットの機能・性能は、つまりは製造者が彼らに込めた役割と期待である。「ジョイ」つまり「喜び」。彼は、人に「喜び」をもたらす存在としての役割を期待されたのではないか。故に、ああいった明るい性格に設定され、他者の喜びを自分の喜びとするような性格にプログラムされたのではないか。そして、そのプログラムされた心でラフプレーに喜ぶ観客たちを見て、それを自分の喜びとして、そして正しいこととして学習したのではないだろうか。
(製造された時点でラフプレーを正しい行為としてインプットされていた可能性もあるが、第九話のトップジョイの「教わった」という言い振り的に、その可能性は薄そうである。)
だが、その期待は裏目に出た。明るく楽しくを第一義とする性格はチームメイトの反感を買い、彼は本来活躍するはずだったバスケットコートに立つことができなくなった。その後、シルバーキャッスルにおいてはーー彼自身の純粋さから、本来のスパイという立場を越えて、彼らに好意を抱いているにも関わらずーー逆にラフプレーを許すことができないシルバーキャッスルの皆の心を理解できず、孤立してしまう。
そして、ダークから虐待を受けても、マグナムエースたちから手を差し伸べられても、本当に自分が望むことに気づきかけても、プログラムされた心で過去に学び、感じた喜びを忘れることができず、ダークとの繋がりを断つことができなかったのではないか。
人間の都合によってプログラムされた「心」によって、トップジョイは傷つき続けていたのではないか。
人間と全く同じように喜び、悲しみ、悩み、傷つく「心」を、人間の都合によって作り出すというこの世界の不気味さが、トップジョイによって突きつけられる。
そして、第十一話でのS-XXXの結末が、それを決定的にする。
S-XXXはこれまでのロボットたちとは違い、意思や感情の乏しい存在として描かれる。それは本来、僕たちが「ロボット」と聞いて思い浮かべるイメージに近い。
S-XXXはテンプレート的な「ロボット」として、命令だけを忠実に実行し、サッカーのフィールドで「戦争」を繰り広げた。そして最後は、マグナムエースによって破壊される。
第十一話では、これまでよりも明確にロボットが「商品」であることが語られる。S-XXXはアイアンソルジャーという「商品」として、敵を殲滅する者としての役割として与えられ、その破壊力を期待され、品定めされる。彼のロボット然とした意思や感情の薄さは、兵士として忠実に命令を実行することを求められ、そうプログラムされた結果なのではないだろうか。
しかし一方で、S-XXXは「敵を倒す」という目的に対し非合理的なシルバーキャッスルの行動に困惑し、動揺する。そして、マグナムエースの「新しい道」という言葉に、ほんの一瞬であるが、本来あるはずのなかった「迷い」を見せた。
S-XXXにも、心は存在した。
なぜS-XXXの製造者が「兵器」であるロボットに「心」が生まれるような知能を搭載したのか、その理由はよく分からない。スポーツ選手であるアイアンリーガーであれば、人間がある種のカタルシスを得るための機能として、人間と同じような心や感情を搭載する理由もある程度理解できるが、迷いが命取りとなる戦場に送り込む兵器に、それは不要のはずである。
もしかしたら「心」というものは、それは製造者の意図的なものではなく、自分で学習し、アップデートしていくことができるほど高度な知能には、逃れられない副産物なのかもしれない。
いずれにしても、例え人間にほとんどをプログラムされたものであったとしても、兵器であったS-XXXにさえ、心は存在した。そして僅かに、けれど確かに「新しい道」へと進む可能性があった。
にも関わらず、第十一話の商人たちは、彼を徹底的に「商品」として扱った。そしてS-XXX自身も、「戦場でない場所には存在不可能」と語っている。
ロボットは、人間によって役割を定義されている。そしてその役割を果たせなければ、彼らは自らの存在意義すら失いかねないのである。
この『アイアンリーガー』の世界に横たわる現実を受け止めるのに、相当な時間を要した。いや、実際まだ受け止められてはいないのかもしれない。人間は自らの都合によって、自分たちとほとんど変わらない心や感情を持つロボットを役割という枠に押し込めて生み出し、その存在をも人間の都合によって左右する。この神の模倣とも思える傲慢さに、幾たび怨嗟を吐いたかしれない。
一方で、自らの意志で生き、誇りを持って戦っているロボットたちを哀れみ、同情を寄せるようなことは、彼らに対する侮辱ではないかという思いもずっとあった。
僕の心は千々に乱れ、分裂し、二転三転し、自己矛盾に苦しむ日々が続いた。「ロボットがスポーツをする子ども向けのアニメ」を観てそんな感情に取り憑かれるなど、一体誰が予想できよう。
しかし、である。一通り憎悪と煩悶に身を投じた後に、ふと気づいたことがある。
ロボットたちが置かれた現実は、結局、僕たちの生きる現実と同じなのではないか、と。
僕が七転八倒している時、僕に『アイアンリーガー』を教えてくれた先達は、一つの問いを僕に投げかけた。「ならば、アイアンリーガーはどうなったら幸せなのか」と。
頭を殴られたような衝撃を受けたせいで、僕がその時どのように答えたのか、正確には記憶していない。「彼らが、やりたいことをやりたいようにやれる」のようなことを言ったような気がする。
月並みな言葉を振り絞りながら、僕はぼんやりと「どこかで聞いたような話だな」と思った。よくある話。人間の幸せを語るときに、よく言われるような言葉だと。
そして、僕の思考は再び振り出しへと戻った。『アイアンリーガー』に最初に感じた、違和感にも似て、それでいて温かかった感覚。人間とロボットが、同じ意志や心や感情を持つ存在として、同じように生きている世界。
第一話でマッハウインディはこう言った。俺たちロボットも「人間と同じなんだよ」と。
それはつまり、人間もまたロボットと同じであることを意味する。
この国で生まれれば(その実態はどうあれ)、僕たちは一応、自由意志(ここでは各種の哲学定義を無視して、単に「他から強制・拘束・妨害などを受けないで、行動や選択を自発的に決定しうる意志」という意味で用いる。)を認められた存在である。
しかし、完全に自由な人間など存在しない。人間もまた、さまざまな制約の中で生きている。親、夫、妻、上司、部下、教師、学生、老人、若者、友人……そういった役割や立場を与えられ、家庭環境、ジェンダー、経済力、文化、時代、価値観……そんなあらゆる枠に押し込められながら、社会の中での「あるべき姿」「あるべき意志」を定義され、それに応える「社会人」に育てられてゆく。それは、人間、あるいは「社会」の要請で意思や心をプログラムされるロボットと、実はそう大差ないのではないか(語弊を恐れずに言えば、教育とは一種のプログラミングである)。
真に自分の望むように生きている人間などほとんどいない。皆、社会の中で折り合いをつけながら成長し、社会の中で生きている。そして、労働市場の中で自らの価値を計られ、自己の存在意義を証明し続けることを要求される。
(そうあるべき、と思っているのではない。ただ事実として、それが資本主義社会の一側面であることは否定できないとも僕は考えている。)
その姿は、役割を与えられ、商品として売買されるロボットに重なる。
もちろん、『アイアンリーガー』においてロボットたちが置かれている状況は、僕たち人間より深刻だ。彼らは自らの存在の前提として役割がある。役割がなければ彼らは存在し得ないし、その役割への期待に基づいてプログラムされた意志や心の拘束度は、人間のそれよりも遥かに強い。
しかし、あらゆる寓話がそうであるように、度合いが強いからといって、それが全く違うということにはならない。制約の中で、それでもなお自らの意志を貫き通そうとするロボットたちの姿に、僕たちは僕たちの姿を見るのである。
『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』の訳者あとがきに書いてあったことだが、アンガス・テイラーという人は、フィリップ・K・ディックの書くアンドロイドについて(「機械的な行動パターンに侵された」、あるいは「内面的に阻害された」)人間の隠喩、象徴であると述べたそうだ。そして訳者の浅倉久志氏は、この作品の中に「人間とは何か?」というテーマに取り組んだとしている。『アイアンリーガー』も、それと似たような物語ではないかと、僕は思う。つまり、『アイアンリーガー』に登場するロボットたちもまた、僕たち「意志を持つモノ」、つまり人間の隠喩であり、『アイアンリーガー』は、「意志あるモノが自由を手に入れる」物語ではないかと。
こんなことを考えているうちに、僕は『BEASTARS』のことを思い出した。『BEASTARS』の登場「動物」も、姿形は動物のそれであるが、やはり人間と同じような意思や感情を持つ。彼らを通して描かれているのは、そういった心を持つモノたちのドラマだ。人間と同じ意思や感情を持つモノたちが、しかし肉食・草食動物それぞれの身体的特性、言い換えれば宿命という強制と制約を背負いながら、学校という一つの閉鎖社会の中で苦悩し、ぶつかり合い、時には折り合いをつけながら生きていく。負った宿命の中身や程度は違えど、そこに描かれているのは紛れもなく心を持つモノーーつまり僕たちの物語である。
と、このような書き方をしたが、あくまでこれは『アイアンリーガー』(や『BEASTARS』)という作品に僕たちが心を動かされる「絡繰」、結果論をそれっぽく言い募っているだけである。『アイアンリーガー』は(恐らく)寓話ではないし、アニメスタッフが彼らロボットを人間の象徴、あるいはその苦悩の投影先として選んだ、というのも(なんとなくだが)違うような気がする。正直、単にロボットが好きなだけな気がしてならない。
これについては、象徴や隠喩というよりも、同じく『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』の訳者あとがきに引用されていた、次のような表現が相応しいように思う。(原典に当たっておらず申し訳ない。)
「ディックにおいて、人間とアンドロイドの生物学上の、あるいは自然科学上の区別は、まったく無意味である。(中略)ディックは、『アンドロイド』と『人間』の形式上の区別には関心がない。(中略)ディックの世界では、そもそも人間と機械、自然と人工といった単純な二分律は棄却されている」(『銀星倶楽部』12 後藤将之氏「フィリップ・K・ディックの社会思想」)
『アイアンリーガー』に描かれているロボットたちの生き様を語るのに、彼らが生み出された経緯や理由に潜む人間の驕慢さなどは、意味をなさない。彼らの前で、人間が自分たちと同じ心を持つモノを恣意的に生み出すという行為の是非を問うことは無意味である。いかに彼らのルーツに薄ら寒い人間の欲望が渦巻き、彼らの意志が人間によって指向性を持たされているとしても、それは彼らが「その」自らの意志で決断し、戦い、生きてゆく征途の輝きを何ら曇らせるものではない。
彼らは、ロボットとしての宿命を背負う自らの存在を呪うことはない。背負った宿命の中で、心を持つ故に葛藤に苛まれながらも、心を持つ故に抱いた意志で、自らの宿命を乗り越え、未来を切り開いていく。フェアプレーをしたい。スポーツをしたい。道を極めたい。この場所にいたい。君と一緒にいたい。たとえ世界がそれを許さなくとも、世界がそれを笑おうとも、自らの意志で在りたいように在る。その姿は僕たちと地続きのものだ。彼らはロボットであるから尊いのではない。僕らと同じであるから、眩しいのである。
理由として一番大きいのはこれで
別にセリーナ・ウィリアムズだとアンディ・マレーだとか錦織がラケット壊そうが割とどうでもいいんだけど、
大阪なおみだけがダメなのは、彼女が反差別などの公正さ・正義の政治を訴えかける政治活動家でもあるから。
議会の議員なんかそうだけど、本人自身に極めて清潔さを求める風潮が存在している。
政治家の仕事には本来何にも関係ない、私事の家庭事情なんかも清潔であるのが必須で、不倫なんかは致命傷だし。
当然、大阪選手の主な活動のテニスのプレイにも「政治家としての清潔さ」を求められるので
先に断っておくと、私はただのサラリーマンだ。
私にはこう見えている、という戯言だと思ってほしい。
また、感想を取り留めもなく書いているのであまり気にせず読んでほしい。
海外になど興味もなかった。
しかし、最近とある国が目について仕方がなくなってしまったのでこれを書いている。
仕事で新しいWindows PCを起動したときのことである。
この手の変換候補は、入力頻度が高いものが自動学習され、候補の上位に来るようになっている。
新品のパソコンであれば、インターネットで自動学習されたデフォルトの値が候補としてあがるようになっている。
つまり、よく入力されているものとして、Microsoftに認識されていることになる。
なんてことだ。日本人はそんなに慰安婦問題に敏感だったとは。知らなった。
そんなわけあるか。
おそらく自動で入力しまくる機械でも作って、入力しまくったのであろう。
適当に言っているが、あながち間違いではないと思う。前例があるのだ。
youtubeのとある動画をF5連打によってランキング上位に押し上げている事件があった。
アメリカやドイツに像を建てながら「私たちの祖先は日本人に犯されました!」などと吹聴している。
そう思うと、活動している人のなんと優しいことか。
想像してみてほしい。
「〇〇県のおばあさんは〇〇人に犯されたらしい。」という情報を得たとき、あなたならどうする?
「そうか、そんな事件があったんだね。」できっと終わる。
そして、帰ったらすぐにでもゲームやテレビ、映画などを見て過ごすだろう。
「ほかの国の人に知ってもらおう!あの国の人たちはこんなにもひどいんだ!」
「同情してくれ!そして日本を憎んでくれ!あの人の仇をとってくれ!」
と叫んで回る日々。つらいだろう。相当なやさしさが必要である。
そんなことはない。
外交カードとして、憐れみと情に訴えかける方法をとったのである。非常に効果がある方法だ。
しかし、以前に慰安婦問題は解決済みである。国と国の取り交わしによって、である。
そして、そのお金は国があずかったらしい。
国はそのお金を被害者たる元慰安婦たちには配らず、問題が発覚して国民からだいぶ反感を買ったとのことだ。
少し待ってほしい。韓国の世論は慰安婦問題を金で解決することを支持していたということか。
なんともまぁ、皆さんそろってお優しいことだ。見ず知らずのおばあさんの心を癒すためにお金を得ることを望むとは。
反日感情を持つ国民が多くいると聞く。そのような発想になるのも仕方ないかもしれない。
さて、ここでどうして反日感情を持つ国民が多いかという話題だが、
以前、学生が偏向した教育に対して疑問を投げかけた事件があったが結局教育委員会的な組織に揉み消されたそうだ。
非常にかわいそうな話である。
一方的にあれを憎めと言われ、疑問を持つことも許されない。
そもそも、このような状況に韓国が陥っているのはなぜだろうか。
聞くところによると、韓国の家族では年長者の意見や言動を重んじ、偉い人には逆らわない風潮があるとのことだ。
また、このような集団を団結させるのに「必要悪」を置くのは非常に効果的だ。
偉い人には逆らわない(逆らえない)というのは、国民性にも表れていると感じている。
誰かより上に行くことに非常にこだわり、入試やゲームの現場ではカンニングやチート行為をためらわずに使う。
追い詰められて使う人もいるかもしれない。
運動を伴う競技シーンでも韓国のラフプレーや、国を誇示したようなパフォーマンスをするのは有名だ。
ゲームをあまりプレイしない人にはなじみ無いかもしれないが、ゲームの内容においても、
「〇〇のゲームに国旗出てた!」とはしゃぐのだろうか。可愛い。
テクノロジー関連では、日本の技術者を引き抜き、自国で技術を育てた後に捨てるというやり方で
今の産業体系を構築した。やり方にはこだわらず、成長するために惜しみない努力をする。少しは見習ってもいいかもしれない。
やり方を選ばないところを除けば。
最後に
昔は大日本帝国とか言って調子乗っていたが、ぼこぼこにされて日本になった。
別に左とか右とかいうつもりはないが、日本という名前は良いと思っている。
本には教科書のようなニュアンスもあり、太陽を見習えと言われている気分になる。