田中淡著作集書評-第2巻⑤
第二部1 中国建築・庭園と鳳凰堂 ー天宮飛閣、神仙の苑池
『平等院大観』 第一巻(一九八八年)に含まれる論考であり、日本建築史の研究者にとって最も馴染み深い一篇と思われる。若くして読んだときにはただただ感服したが、このたび読み返して少し違和感を覚えた。
まず当然のようにして、平等院鳳凰堂と似た建築構成を示す敦煌莫高窟の浄土変相図を俎上にのせ、両者の差異とともに、中国で実在した浄土伽藍があるか否かを論じる。もちろん、そうした作業が無意味だとまでは言わないけれども、莫高窟の壁画を過大評価してはいけないと思う。その壮麗さからして、莫高窟は浄土変相図の起源地のような錯覚を与えるが、敦煌は西域の僻地にあったからこそ、古い文物・遺構・絵画等を残したのであって、常識的には、最初に仏画を描いたのは長安・洛陽など国家の中心地であった可能性が高いであろう。古代の日本にはその中心地からの影響はあったろうが、莫高窟からの直接的影響は考えにくい。なにより浄土変相図を論じるならば、まず仏画のもとになった経文を解読しなければならない。極端な話、仏教絵画が伝来していなくとも、経文の内容を反映した絵画を描くことはできる。たとえば、いわゆる古代の浄土三曼荼羅は『観無量寿経』もしくは『阿弥陀経』の画像化だが、最古の当麻曼荼羅(当麻寺)のみ中国製の可能性が高いものの、智光曼荼羅(元興寺)と清海曼荼羅(超昇寺)は日本人の画工の手になるものとされる。そこには莫高窟の浄土変に似た建造物群と池が描かれている。
また、田中さんは空間構成の比較の前提として、浄土伽藍としての平等院鳳凰堂の特徴を、「とりあえず苑池の形態や尾廊を除外して、おおよそ、正殿と左右に拡がる歩廊およびそこから前方に伸びる翼廊によるコ字型平面の建築と、その前面に配される苑池によるもの」(p.344)と理解するが、これなら沢田名垂による「寝殿造」の定義となんら変わらない。さらに、「苑池の形はいずれも方形もしくはそれを基本とする整形であって、曲池をなすものはみられない」(p.348)とする点も気にかかる。後で述べるように、浄土変の場合、曲池か方池かが問題ではなく、池水に楼閣・仏像等が浮かんだ結果として、池が方形にみえるにすぎない。また、尾廊を排除して空間構成を考えるのは、鳳凰堂の本質的理解を妨げることになる。ここで経文に立ち返ろう。『仏説阿弥陀経』に言う。
極楽国土に七宝の池あり。八功徳水そのなかに充満せり。池の底には
もっぱら金沙をもって地に布けり。四辺の階道は、金・銀・瑠璃・玻璃を
合成せり。上に楼閣あり。また金・銀・瑠璃・玻璃・硨磲・赤珠・碼碯
をもって、これを厳かに飾る。
これを建築と苑池の関係に凝縮してみると、八功徳水の充満した七宝池の上に楼閣が建っているということである。その姿を表現したのが敦煌莫崗窟初唐205窟「阿弥陀経変」であり、日本では元興寺の智光曼荼羅である。とりわけ前者の線画をみると(蕭黙『敦煌建築研究』1981)、呆れるほど鳳凰堂とイメージが重なり合う。平等院鳳凰堂は曲池の中島にたつ建造物群だが、先年の発掘調査により護岸を洲浜にした当初の中島がはるかに小さいことが判明した。対岸からみると、鳳凰堂の下に島が隠れてしまうほどであり、結果として、鳳凰堂は池から浮いているようにみえたと想像される。まさに「七宝の池の上に楼閣あり」である。
もう一つ重要な経典がある。『観無量寿経』に言う。
もし至心に西方に生まれんと欲する者は、まずまさに一つの丈六の像が
池水の上にいますを観るべし。
ここにいう無量寿とは阿弥陀のことである。より厳密にいうと、古代インド仏教やチベット仏教では、アミダは一つではなく、アミダーユス(無量寿)とアミダーバ(無量光)に分けられる。前者を強調したのが平等院であり、後者を強調したのが平泉の無量光院である。無量寿とは「無限の命」を意味する。平等院の場合、神仙世界の不死鳥「鳳凰」が仏教的「無量寿(無限の命)」の表象となり、中堂の棟の両端に二尾の彫刻を飾り、翼楼と尾楼によって鳳凰を平面で表現した。田中説に従うならば、鳳凰堂など浄土伽藍・庭園の特徴は、敦煌莫高窟の唐代壁画に描かれた寺院図よりも古い時代に遡り、「むしろ北魏の仏寺・宮苑と一致する要素が認められ、その天宮・飛閣を多用する建築と苑池を主要な要素とする庭園の形式はむしろ中国古来の神仙思想を背景として好んで採用されたもの」(p.363)である。
古代インドの仏教思想を復元的に理解しようとする場合、漢語訳の仏典はチベット語訳ほど評価されない。チベット語は文法・語彙などの側面でサンスクリット語等に近似し、サンスクリット原文の直訳とみなされるのに対して、漢語仏典は意訳的な部分が少なくなく、翻訳にあたって道家・道教・神仙の影響が認められるという。いまチベット・ブータン仏教の研究に手を染めている評者の認識としては、仏教はチベット・ブータンの前仏教/非仏教系の土着的信仰を殲滅するのではなく、仏教の内部にとりこんで温存しつつ再生しているのだけれども、中国においても前仏教/非仏教と仏教の関係はこれに類似するものであったろう。無量寿(仏教)を鳳凰(前仏教)で表現するのはこうした動きの一つとみなしうる。
これと関連して、隋唐時代を中国仏教の全盛期とみる見解(p.348)には賛同できない。中国は仏教国ではない。仏教の隆盛は南北朝時代でピークを迎え、隋唐時代にはその反動として衰退を招く(円仁の還俗を思い出されたい)。隋唐時代にあって全盛をきわめたのはむしろ道教であり、道教の前提として大衆を魅了したのが不老不死の神仙思想である。ただし、平等院の苑池を神仙的自然風景庭園とみなす点には逡巡する。田中さんは、浄土庭園を広義の「寝殿造系庭園」に含めた森蘊の考えを評価し、「苑池の中に中島を置く配置形式が定型化しているのは、古代・中世の中国にあってかつては正統的であったが、後世に廃れた要素であって、それは、古代の神仙世界としての中島が、形を変えて見出したものかもしれない」(三六二頁)と述べる。
寝殿造庭園における曲池の中島を道教的な蓬莱・瀛洲などの神仙島に見立てる解釈は頷ける。しかし、平等院庭園にそうした神仙島は存在しない。あるのは平等院鳳凰堂の敷地となる島であり、その島の存在意義は楼閣や仏像を池水上に浮かせてみせることであった。平等院の島は『阿弥陀経』や『観無量寿経』の極楽浄土を立体的に表現するための地盤であったとみなすべきであろう。平等院鳳凰堂は、もちろん中国仏教の影響を受けていないわけではないけれども、平安時代中期までに日本にもたらされていた経典や浄土変相図の知識があれば建立しえた建築だと思う。実際、中国に類例と呼ぶべき寺院建築は存在しない。否、一つだけある。雲南省昆明の円通寺だ(pp.362-363)。
『平等院大観』 第一巻(一九八八年)に含まれる論考であり、日本建築史の研究者にとって最も馴染み深い一篇と思われる。若くして読んだときにはただただ感服したが、このたび読み返して少し違和感を覚えた。
まず当然のようにして、平等院鳳凰堂と似た建築構成を示す敦煌莫高窟の浄土変相図を俎上にのせ、両者の差異とともに、中国で実在した浄土伽藍があるか否かを論じる。もちろん、そうした作業が無意味だとまでは言わないけれども、莫高窟の壁画を過大評価してはいけないと思う。その壮麗さからして、莫高窟は浄土変相図の起源地のような錯覚を与えるが、敦煌は西域の僻地にあったからこそ、古い文物・遺構・絵画等を残したのであって、常識的には、最初に仏画を描いたのは長安・洛陽など国家の中心地であった可能性が高いであろう。古代の日本にはその中心地からの影響はあったろうが、莫高窟からの直接的影響は考えにくい。なにより浄土変相図を論じるならば、まず仏画のもとになった経文を解読しなければならない。極端な話、仏教絵画が伝来していなくとも、経文の内容を反映した絵画を描くことはできる。たとえば、いわゆる古代の浄土三曼荼羅は『観無量寿経』もしくは『阿弥陀経』の画像化だが、最古の当麻曼荼羅(当麻寺)のみ中国製の可能性が高いものの、智光曼荼羅(元興寺)と清海曼荼羅(超昇寺)は日本人の画工の手になるものとされる。そこには莫高窟の浄土変に似た建造物群と池が描かれている。
また、田中さんは空間構成の比較の前提として、浄土伽藍としての平等院鳳凰堂の特徴を、「とりあえず苑池の形態や尾廊を除外して、おおよそ、正殿と左右に拡がる歩廊およびそこから前方に伸びる翼廊によるコ字型平面の建築と、その前面に配される苑池によるもの」(p.344)と理解するが、これなら沢田名垂による「寝殿造」の定義となんら変わらない。さらに、「苑池の形はいずれも方形もしくはそれを基本とする整形であって、曲池をなすものはみられない」(p.348)とする点も気にかかる。後で述べるように、浄土変の場合、曲池か方池かが問題ではなく、池水に楼閣・仏像等が浮かんだ結果として、池が方形にみえるにすぎない。また、尾廊を排除して空間構成を考えるのは、鳳凰堂の本質的理解を妨げることになる。ここで経文に立ち返ろう。『仏説阿弥陀経』に言う。
極楽国土に七宝の池あり。八功徳水そのなかに充満せり。池の底には
もっぱら金沙をもって地に布けり。四辺の階道は、金・銀・瑠璃・玻璃を
合成せり。上に楼閣あり。また金・銀・瑠璃・玻璃・硨磲・赤珠・碼碯
をもって、これを厳かに飾る。
これを建築と苑池の関係に凝縮してみると、八功徳水の充満した七宝池の上に楼閣が建っているということである。その姿を表現したのが敦煌莫崗窟初唐205窟「阿弥陀経変」であり、日本では元興寺の智光曼荼羅である。とりわけ前者の線画をみると(蕭黙『敦煌建築研究』1981)、呆れるほど鳳凰堂とイメージが重なり合う。平等院鳳凰堂は曲池の中島にたつ建造物群だが、先年の発掘調査により護岸を洲浜にした当初の中島がはるかに小さいことが判明した。対岸からみると、鳳凰堂の下に島が隠れてしまうほどであり、結果として、鳳凰堂は池から浮いているようにみえたと想像される。まさに「七宝の池の上に楼閣あり」である。
もう一つ重要な経典がある。『観無量寿経』に言う。
もし至心に西方に生まれんと欲する者は、まずまさに一つの丈六の像が
池水の上にいますを観るべし。
ここにいう無量寿とは阿弥陀のことである。より厳密にいうと、古代インド仏教やチベット仏教では、アミダは一つではなく、アミダーユス(無量寿)とアミダーバ(無量光)に分けられる。前者を強調したのが平等院であり、後者を強調したのが平泉の無量光院である。無量寿とは「無限の命」を意味する。平等院の場合、神仙世界の不死鳥「鳳凰」が仏教的「無量寿(無限の命)」の表象となり、中堂の棟の両端に二尾の彫刻を飾り、翼楼と尾楼によって鳳凰を平面で表現した。田中説に従うならば、鳳凰堂など浄土伽藍・庭園の特徴は、敦煌莫高窟の唐代壁画に描かれた寺院図よりも古い時代に遡り、「むしろ北魏の仏寺・宮苑と一致する要素が認められ、その天宮・飛閣を多用する建築と苑池を主要な要素とする庭園の形式はむしろ中国古来の神仙思想を背景として好んで採用されたもの」(p.363)である。
古代インドの仏教思想を復元的に理解しようとする場合、漢語訳の仏典はチベット語訳ほど評価されない。チベット語は文法・語彙などの側面でサンスクリット語等に近似し、サンスクリット原文の直訳とみなされるのに対して、漢語仏典は意訳的な部分が少なくなく、翻訳にあたって道家・道教・神仙の影響が認められるという。いまチベット・ブータン仏教の研究に手を染めている評者の認識としては、仏教はチベット・ブータンの前仏教/非仏教系の土着的信仰を殲滅するのではなく、仏教の内部にとりこんで温存しつつ再生しているのだけれども、中国においても前仏教/非仏教と仏教の関係はこれに類似するものであったろう。無量寿(仏教)を鳳凰(前仏教)で表現するのはこうした動きの一つとみなしうる。
これと関連して、隋唐時代を中国仏教の全盛期とみる見解(p.348)には賛同できない。中国は仏教国ではない。仏教の隆盛は南北朝時代でピークを迎え、隋唐時代にはその反動として衰退を招く(円仁の還俗を思い出されたい)。隋唐時代にあって全盛をきわめたのはむしろ道教であり、道教の前提として大衆を魅了したのが不老不死の神仙思想である。ただし、平等院の苑池を神仙的自然風景庭園とみなす点には逡巡する。田中さんは、浄土庭園を広義の「寝殿造系庭園」に含めた森蘊の考えを評価し、「苑池の中に中島を置く配置形式が定型化しているのは、古代・中世の中国にあってかつては正統的であったが、後世に廃れた要素であって、それは、古代の神仙世界としての中島が、形を変えて見出したものかもしれない」(三六二頁)と述べる。
寝殿造庭園における曲池の中島を道教的な蓬莱・瀛洲などの神仙島に見立てる解釈は頷ける。しかし、平等院庭園にそうした神仙島は存在しない。あるのは平等院鳳凰堂の敷地となる島であり、その島の存在意義は楼閣や仏像を池水上に浮かせてみせることであった。平等院の島は『阿弥陀経』や『観無量寿経』の極楽浄土を立体的に表現するための地盤であったとみなすべきであろう。平等院鳳凰堂は、もちろん中国仏教の影響を受けていないわけではないけれども、平安時代中期までに日本にもたらされていた経典や浄土変相図の知識があれば建立しえた建築だと思う。実際、中国に類例と呼ぶべき寺院建築は存在しない。否、一つだけある。雲南省昆明の円通寺だ(pp.362-363)。
第二部2 昆明円通寺の碑文と建築・池苑
前章で中国に残る唯一の浄土伽藍と評価された雲南省昆明の円通寺の調査報告である。伽藍中心部の中庭を方池として、その中央に極彩色の八角楼を配するところに最大の特徴がある。一九八二年二月、当時留学していた南京工学院(現東南大学)での共同研究の余暇を利用して、田中さんは円通寺を訪れ、碑文と建造物・苑池を調査し、翌八三年の『佛教芸術』一五一号に論考を発表した。田中さんには珍しい現存建造物の報告論文である。
境内北側の高台に今も残る石碑「創修円通寺記」は、元の延祐七年(一三二〇)に李源道が撰んだものである。この碑文によると、円通寺の建設は大徳五年(一三〇一)に始まり、一八年後の延祐六年に完成した。立地こそ前身の補陀羅寺を踏襲してはいるが、規模ははるかに大きく、補陀羅寺の改修・再建ではなく、新しい寺院の創建と言ってよい。伽藍は北の岩山上の観音大士殿から南へ順に、蔵経殿、釈迦如来殿、鐘楼が中軸線に立ち並び、鐘楼の両脇には東西両塔が立ち、方丈、僧坊などを備えたというから、かなり整然とした配置であったと推定される。
『光緒雲南通志』などの地方志によれば、「明成化間重修」とあって、成化年間(一四六五~八七)に一度再建されたことが分かる。円通寺の現状は、基本的には明の成化年間再建以降の遺構を残すのみで、元代創建当時の堂塔は失われてはいるが、その配置は今日にいたるまで、おおむね伝えられている。南北朝時代の文献や、その後の浄土変相図に描かれた浄土伽藍・庭園の特色を有する稀少な現存例として注目される所以である。わたしも円通寺をすでに3度訪れている。中庭を方池とし、その中央に八角楼をおく風姿は迫力があり、たしかに中国的な浄土伽藍の匂いを漂わせている。その一方で、観音殿や八角楼の構法には、雲南北部の先住民であるチベット・ビルマ語族(イ族等)の民族建築からの発展進化を感じさせるところがあり、興味の尽きない建造物群である。
《連載情報》田中淡著作集書評
第1巻(1)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-1828.html
第1巻(2)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-1855.html
第1巻(3)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-1856.html
第1巻(4)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-1906.html
第2巻(1)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2960.html
第2巻(2)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2961.html
第2巻(3)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2962.html
第2巻(4)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2963.html
第2巻(5)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2964.html
第2巻(6)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2965.html
第3巻(1)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2966.html
第3巻(2)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2967.html
第3巻(3)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2968.html
《関係サイト》
発掘された『田中淡著作集』第2・3巻
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2821.html
前章で中国に残る唯一の浄土伽藍と評価された雲南省昆明の円通寺の調査報告である。伽藍中心部の中庭を方池として、その中央に極彩色の八角楼を配するところに最大の特徴がある。一九八二年二月、当時留学していた南京工学院(現東南大学)での共同研究の余暇を利用して、田中さんは円通寺を訪れ、碑文と建造物・苑池を調査し、翌八三年の『佛教芸術』一五一号に論考を発表した。田中さんには珍しい現存建造物の報告論文である。
境内北側の高台に今も残る石碑「創修円通寺記」は、元の延祐七年(一三二〇)に李源道が撰んだものである。この碑文によると、円通寺の建設は大徳五年(一三〇一)に始まり、一八年後の延祐六年に完成した。立地こそ前身の補陀羅寺を踏襲してはいるが、規模ははるかに大きく、補陀羅寺の改修・再建ではなく、新しい寺院の創建と言ってよい。伽藍は北の岩山上の観音大士殿から南へ順に、蔵経殿、釈迦如来殿、鐘楼が中軸線に立ち並び、鐘楼の両脇には東西両塔が立ち、方丈、僧坊などを備えたというから、かなり整然とした配置であったと推定される。
『光緒雲南通志』などの地方志によれば、「明成化間重修」とあって、成化年間(一四六五~八七)に一度再建されたことが分かる。円通寺の現状は、基本的には明の成化年間再建以降の遺構を残すのみで、元代創建当時の堂塔は失われてはいるが、その配置は今日にいたるまで、おおむね伝えられている。南北朝時代の文献や、その後の浄土変相図に描かれた浄土伽藍・庭園の特色を有する稀少な現存例として注目される所以である。わたしも円通寺をすでに3度訪れている。中庭を方池とし、その中央に八角楼をおく風姿は迫力があり、たしかに中国的な浄土伽藍の匂いを漂わせている。その一方で、観音殿や八角楼の構法には、雲南北部の先住民であるチベット・ビルマ語族(イ族等)の民族建築からの発展進化を感じさせるところがあり、興味の尽きない建造物群である。
《連載情報》田中淡著作集書評
第1巻(1)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-1828.html
第1巻(2)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-1855.html
第1巻(3)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-1856.html
第1巻(4)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-1906.html
第2巻(1)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2960.html
第2巻(2)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2961.html
第2巻(3)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2962.html
第2巻(4)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2963.html
第2巻(5)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2964.html
第2巻(6)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2965.html
第3巻(1)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2966.html
第3巻(2)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2967.html
第3巻(3)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2968.html
《関係サイト》
発掘された『田中淡著作集』第2・3巻
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2821.html