はてなキーワード: 福祉政策とは
項目 | 保守派 | 進歩派 |
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主要政党 | 国民の力(現政権) | 民主党 |
外交方針 | アメリカとの強固な同盟、対中強硬路線 | アメリカとの協調維持、中国とのバランス外交 |
安全保障 | 北朝鮮を脅威と見なし、軍備増強を支持 | 北朝鮮との対話を重視、平和構築を目指す |
政治理念 | 伝統的価値観、反共主義、経済成長優先 | 改革志向、人権重視、福祉政策拡充 |
地域基盤 | 慶尚道(釜山、大邱など)、地方都市 | 全羅道(光州など)、首都圏(ソウル、京畿道など) |
世代支持層 | 高齢者層が中心、軍事政権時代の安定志向 | 若者層が中心、社会改革や公正を求める |
経済政策 | 大企業・財閥支援を通じて成長を重視 | 中小企業支援、雇用創出を重視 |
福祉政策 | 選別的福祉、財政負担を抑える | 普遍的福祉、高齢者や貧困層を手厚く支援 |
歴史的背景 | 日本統治時代に協力したエリート層や地主層をルーツ | 日本統治時代に独立運動を行った人々や民主化運動の流れを継承 |
文化政策 | 伝統文化の保護と保守的な倫理観を重視 | 多様性を尊重した現代文化の発展を重視 |
教育政策 | 学力主義と競争重視、伝統的価値観を強調 | 創造性や多様性を重視した教育改革を推進 |
環境政策 | 経済成長を優先、環境問題への対応は控えめ | 再生可能エネルギー推進、持続可能な発展を重視 |
司法制度 | 厳格な法秩序を重視、社会の安定を優先 | 司法の独立性と透明性を強調 |
移民政策 | 移民受け入れに慎重、自国民の雇用保護を優先 | 労働力確保のため、移民政策を前向きに検討 |
資本主義や民主主義の限界に対する修正や改善を目指す学問や思想は多岐にわたり、特に近年では貧富の格差や社会の分断などの課題に対応するための議論がさまざまな分野で展開されています。以下は、その代表的な取り組みです。
1. ポスト資本主義(Post-Capitalism)
ポスト資本主義は、資本主義に替わる新しい社会経済の枠組みを模索する思想です。経済学者や社会思想家の中には、技術の進展や労働の自動化が進む中で、資本主義に基づく経済システムの持続可能性に疑問を持つ声が増えています。ポール・メイソンやトーマス・ピケティなどは、資本の集中が引き起こす格差の拡大に着目し、持続可能な経済の実現のために富の再分配や共有経済を含む新しい制度の導入を提唱しています。
2. 社会的市場経済(Social Market Economy)
ヨーロッパ、特にドイツを中心に発展した「社会的市場経済」は、自由市場経済と社会的福祉政策を融合させたモデルです。市場競争の効率性を維持しながら、労働者や弱者を保護し、公正な所得分配を目指します。社会的市場経済は、資本主義の自由経済と民主主義的価値観を調和させる試みとされ、欧州の福祉国家の基盤となっています。
分配正義(Distributive Justice)は、財や資源の公平な分配を考える哲学的・倫理的分野で、アマルティア・センやジョン・ロールズが代表的な思想家です。特にロールズは「公正としての正義(Justice as Fairness)」を提唱し、社会制度が公平に機能するための条件を提示しています。この流れから、貧富の差を是正する手段として「ベーシックインカム」が注目されており、すべての国民に一定の所得を無条件に支給することで最低限の生活を保障し、貧困や格差の縮小を図ろうとしています。
4. 修正主義的資本主義とESG(Environmental, Social, and Governance)投資
修正主義的資本主義は、持続可能性と社会的責任を資本主義に組み込むことでその問題を解決しようとするものです。ESG投資は、この理念に基づき、企業の収益性だけでなく環境、社会、ガバナンスに配慮した投資活動を推進することを目指しています。企業活動が長期的な社会的利益に貢献するための枠組みを重視し、企業が利益のみを追求するのではなく、持続可能な成長を図ることが期待されています。
5. デル・メトリオクラシー(Deliberative Democracy)と共同体主義
民主主義において、社会の分断やポピュリズムの台頭に対抗するため、「熟議民主主義」や「共同体主義」といった思想が見直されています。熟議民主主義は、市民が公共の場で意見を交わし合うことで、合意形成を目指すアプローチであり、単なる多数決ではなく深い議論に基づく意思決定を重視します。また、共同体主義は、個人の自由とともに地域や共同体の価値を重視する思想で、アミタイ・エツィオーニなどが提唱しており、社会的な絆や共通善を再評価する動きが見られます。
ブロックチェーン技術や分散型台帳技術(DLT)は、新たな経済システムやガバナンスモデルとして注目されています。これらの技術を活用することで、中央集権的な管理を排し、分散的かつ透明性の高い社会システムが可能になると考えられています。ブロックチェーンを基盤にした分散型自治組織(DAO)や、暗号資産を用いた経済圏が試みられており、伝統的な資本主義や民主主義の枠組みを再考する材料となっています。
これらの思想や学問的検討は、資本主義・民主主義の限界に対して、社会の持続可能性や公平性を向上させるための試みとして重要な役割を果たしています。
現代日本における「リベラル」という言葉には、政治的、経済的、社会的な価値観を含む複数の意味が含まれています。以下のような要素が一般的に「リベラル」と呼ばれます。
社会的自由主義としてのリベラルは、個人の権利や多様性の尊重を重視する立場です。これは、ジェンダー平等、LGBTQ+の権利、移民の受け入れ、表現の自由など、個々の権利と自由の尊重を掲げるものです。この立場では、特定の宗教的・文化的規範にとらわれず、個人が自らの価値観や選択に基づいて生きることを重視します。
日本における経済的リベラルとは、伝統的に自由市場や競争を支持し、政府の経済介入をできるだけ最小限にすることを目指す立場です。日本では「新自由主義」とも重なる部分がありますが、実際のリベラルな立場では経済格差の是正や労働者の権利保護も含まれ、政府による規制や福祉政策の拡充を支持することもあります。この意味では、リベラルは社会福祉の強化や、環境対策、労働者支援など、特定の政府介入を必要とする政策に賛同することもあります。
リベラルな考え方には、国際社会での協力や多国間主義の推進が含まれます。日本のリベラル派は、戦後の平和主義の伝統に立ち、外交においても対話と協調を重視します。これは、軍事的な対立や防衛力の強化よりも、他国との協力や関係の構築を重視する姿勢です。また、国連や各種国際協定を通じた問題解決を志向する点が特徴です。
日本のリベラル派は、歴史的には戦後の平和憲法や国民福祉の向上といった目標を重視して発展しました。また、欧米のリベラリズムや、戦後の進歩的な政策の影響も受けています。日本では、伝統的価値観とリベラルな価値観が時に対立し、特に家族制度、憲法改正、ジェンダー政策などで議論が分かれることが多いです。
まとめると、現代日本におけるリベラルは、個人の自由、多様性の尊重、経済格差是正、国際協調主義を含む価値観の集合体であり、社会的・経済的な公正と平等、国際的な協力関係の構築を求める立場です。
来月の茨城県守谷市の市長選に、新たに挑戦を表明した梶岡香織氏。市民に寄り添い、市政に新しい風を吹き込むことを目指す彼女のビジョンや公約をご紹介します。
■挑戦者・梶岡香織氏とは?
梶岡香織氏は、守谷市で生まれ育ち、地元に対する深い愛情を持つ人物です。特に「市民の声を尊重する姿勢」が支持者からの評価を得ています。また、先の市議会選挙で小学校新設を掲げ、当選した実績もあり、市民からの期待も高まっています。
梶岡氏が掲げるリーダーシップは、市民とともに考え、市民の声を政策に反映させることです。特に「市民参加型の市政運営」を提唱し、守谷市を住みやすくするための改革を訴えています。彼女のリーダーシップは、単に指導するだけでなく、一緒に歩んでいく姿勢が特徴です。
1. 子育て支援の充実:保育施設の拡充や学童支援の改善に加え、小学校新設を進め、子どもたちにより良い学びの環境を提供することを目指しています。
2. 高齢者福祉の強化:介護支援体制や福祉施設の充実を図り、地域全体で高齢者を支える街づくりを推進します。
3. 地域経済の活性化:地元企業や中小企業への支援を強化し、守谷市の経済基盤をしっかり支えることを目標としています。
さらに、梶岡氏は駅前開発や自動運転バスの導入にも積極的で、特に自動運転バスは高齢者や交通弱者にとっての移動手段としての利便性向上に寄与するとしています。
梶岡香織氏の挑戦を応援するSNSアカウントが増えており、特に熱心に応援する「支持者的アカウント」も多数存在します。これらのアカウントは彼女の政策や活動を詳細に解説し、日々市民への呼びかけや情報発信を行っています。時には過剰に熱心な姿勢が話題となることもありますが、それだけ多くの人が彼女に期待している証といえるでしょう。
守谷市内では近年、政治活動に関連する違法看板が問題視されています。市民の一部からは、景観への配慮を求める声や、法律を遵守した政治活動を求める声が上がっています。この違法看板の件については、市内の政治的議論をさらに過熱させる要因ともなっており、街のクリーンなイメージを保つための新たな対策が求められています。
梶岡香織氏の夫である梶岡博樹氏もまた、地域の政治活動に積極的に関わっています。博樹氏は先日の衆議院選挙にも出馬し、市民の支持を得るための活動を行いましたが、惜しくも当選は叶いませんでした。それでも彼の地元への熱意は変わらず、今回の市長選でも香織氏を力強くサポートしています。家庭内のサポートのみならず、対話の場での活動支援を通じて、香織氏が市民に一層寄り添った政策を打ち出せるよう貢献しています。
梶岡香織氏は「すべての世代が自分らしく生きられる守谷市」を目指しています。次世代を担う子どもたちのために充実した教育環境を提供し、高齢者の生活の質を向上させる福祉政策、さらに地域経済の活性化に尽力することで、持続可能で活力ある未来像を描いています。
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それ以降、初めての衆議院選挙だ。
当然だが、各党ごとにWebサイトの作りは違う。
資料になっていない場合は、Webページ上のわかる範囲で調べた。
言っておくが、綿密に調べたわけではない。
既に投票は終えた。
論外。見出しレベルで障害者への言及なし。福祉制度の中だけで、ワンワード、障害の文字があっただけ。
自民党とほぼ同じ。
結論から言うと、一番障害者政策に対する解像度と量が高かった。
立憲の次に解像度が高かった。
国民民主の次。障害者議員を輩出している割には、解像度が低い。
意外と解像度レベルでは自民と大差ない。弱者対策はものすごくページを割いているのに、障害者への解像度は低すぎる。
DL可能なPDFなし。その代わり、埋め込み型のドキュメントがあり、これを参考の基準とした。
共産党と同じレベルの解像度でびっくりした。このレベルで左翼やってんのかとびっくりした。
ただ、このマニフェスト自体、急場凌ぎで作られたようで、障害者政策以外への言及も、全体的に荒い。
2023年のマニフェストではない政策資料は手厚く作られており、こちらは障害者への言及もあった。
障害者政策への言及なし。どうでもいいが、Webサイトに鬱陶しい矢印のアニメーションがあり、アクセシビリティとは何か、という気持ちにさせられた。
前職は維新の奥下君。橋下府政時代に色々埃が出ており、麻生太郎の会社とズブズブ。同和利権との絡みの噂もある。論外。
自民は渡嘉敷なおみ。元資生堂で薬剤師、厚労副大臣まで勤め上げながら、前回は維新に負ける。
今回も、その厚労副大臣の経験から、障害者福祉政策への提言があるかと思い本人のサイトを確認しに行ったが、全く触れられておらず。論外。
そういえば去年の6月ぐらいだったか。衆院選の噂が立ち始めた頃に、駅前街頭挨拶をやっていた。
選挙の噂が立ったら街頭に立つのか。落選したんだったら、もっとこまめに立てよ、と思いそのことを妻に言ったら
「本人に言ってやればよかったのに」と言っていた。そりゃそうだ。次見かけたらそう言ってやろうと思ったら、ついぞその機会がないままになってしまった。
参政党? 論外。
次は比例である。
障害者としては、やはり、障害者議員を輩出したという実績は、れいわ新選組は特筆に値すると思っている。
一方で大石のような現場の反発も当然だと、中立的には評価する。
だが、それは大枠としての俯瞰的評価であり、彼女自身の品性は別だ。
よって、比例は立憲に入れた。
立憲だって全部については納得してない。
前回の民主党政権はなんだったのか、と言うことについて誰も総括してない
(一応、そういうタイトルの本が図書館にあったので、今読んでるのだけど)
小沢だって政治資金の疑惑があったのに、どの口で自民党批判してんだよ、と思う。
でも結局、比例はこうするしかないんだよな。
そこから一つ分かったのは、偉大なる無党派層こそが、国民主権なのでは、ということ。
個人的には、自民党という党は嫌いだけど、中には評価できる人もいるよね、と考えている。
その党の方向性に有権者が納得できて迎合しているなら票を入れるし、そうでないなら、不本意でも反対勢力に入れるしかないよね、と。
もし渡嘉敷なおみが、かなり手厚い障害者福祉政策を述べていたら、増田は渡嘉敷に入れていたと思う。
昨晩、個別にレスとかしたやつあるけど、本人かどうかわからんから、結局追記した方がいいのな。
おまえはそう考えるのかもしれないが、オレは今回そう思って調べたわけじゃないのよ。
別に選挙権がないわけじゃないし、オレたちも社会参画が必要なわけ。
今後の自分たちを取り巻く状況が変わる。
そのためのリサーチなの(リサーチと言えるほどの情報量・情報密度かと問われると、それはまた別だが)
それ以上でもそれ以下でもないから、そこは理解しておいてほしい。
もちろん、そこ踏まえた上で、個々人があーだこーだ言うのは構わないよ。
オレとしては「ふーん。おまえ様はそう思われるんですね。それで?」って思うだけ。
本当は、各党のマニフェスト情報の定義をしっかり定めた上で、もう少し調査し、
各党の文書の中から、障害福祉政策の見出しはあるかどうか、.*障(害|碍|がい).*というワードは何ワードあるか
具体的には、血圧が高いときは上は170下が100、ひどい時は上が100を切り、下が50台とか。
血圧のジェットコースターに乗ってるんだが、これがもうキツい。
高い時は頭痛で何も思考することができない。低い時は起き上がれない。
なんとか調子のいい時にタクシーを使って市役所まで行って期日前投票ができた。
だから、申し訳ない気持ちはあるものの、事情は汲んでいただきたい。
その上で、気になったら自分で調べてほしい。今ならまだオレが見た状態のサイトが維持されているだろうし、
この件についてはあまりレスしようと思ってなかったけど、一応返事書くな。
まず、障害者認定される前までは、バリバリ所得税も住民税も払ってたよ。
で、障害年金は非課税だし、年金で足りない分はバイトで糊口を凌いでるけど、
かかりつけの医院がちょいと遠方だから交通費もバカにならないんだわ。
で、体力ないからな、せっかく体調良い日にはまとめて用事片付けようとかするだろ。
2箇所以上用事の先(役所とか薬局とかな)回ろうとするとな、息切れするし、
しょうがなくタクシーとか乗るわけよ。軽く5000円とか飛ぶわけ。
雀の涙の障害年金で5000円だぞ。健常者でもポンポンタクシー乗って払うがくじゃないだろうがよ。
匿名じゃなかったら言えないんだろ?
それができないなら、法廷で会おうぜ!!
んーと、まず、税金払う払わないの上でいうと、払っていようが払っていまいが、
日本国憲法とそれに紐づく法律で生存権と言論の自由が保障されてんの。
これがヘイトスピーチだったら問題だが、事実に基づいたお気持ちと投票行動を述べただけで、なんでここまでヘイト吐かれるんだろう?
もしおまえが納得行かないんなら、憲法改変するか、最高裁ぶっ倒してからオレの前に来て、顔見てそれを言えよ。
そん時はオレも土下座してやるわ。
その上でだ。
自慢じゃないが、元気な時はそこそこ税金払ってたよ。
今後、体調が回復すれば年金も貰うのやめて、また所得税・住民税が払えるようになるかもしれない。
当たり前だが消費税は払ってるし、車乗ってるヤツは自動車税やガソリン税も払うし、あ、最近は滅多に飲まなくなったが酒税も払ってる。
だからな、税金払ってないとか、そういう雑な思い込みでヘイトぶつけてくんな。頭の悪さ丸出しだからさ、やめてくれ。
それでも納得行かないってんなら、やまゆり事件の植松みたく、刃物でも持ってオレを刺しにこいよ。
そん時はオレも全力で抵抗するからな。返り討ちにあっても文句なしな。
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以下、個人的なお返事
https://anond.hatelabo.jp/20241026231611
障害者だと深刻な雇用問題はひとまず関係なくなるから、失業が増えそうという野田立憲のデメリットに目をつむれる分、比例を立憲にしたのは良い手だと思うよ。
今の自分は雇用問題は無縁かもしれないが、社会復帰することを考えれば全く無縁でもない。ただまあ、そこまで今は考えられない、というのが正直なところ。
小選挙区を共産、というのも、自分でもちょっとねえ、とは思うけど。ただまあしゃーない、という感じ。
https://anond.hatelabo.jp/20241026232317
逆やろ 共産は個人の能力はそこそこ高いが党本部が駄目だから独立・移籍してもやってけるんちゃうか!っておもわせるのにいい手だ
そうそう、辛坊治郎も昔言ってたんだけど、個人個人では良い人いるんだよね、共産党。(ここで辛坊治郎を挙げるなんてどうこうとか言わないでね!)
https://anond.hatelabo.jp/20241026233205
税金納めてない云々に関しては自分が間違ってました、申し訳ない
その上で返信読んで思ったのだけれど
調べて出てきた画像を見たが知らん人からしたら単なるアクセサリーにしか見えないんじゃなかろうか
これ着けてるだけで全ての人が配慮してくれるべきって認識はちょっとどうかと思う
譲って欲しい・配慮して欲しいなら意思表示をして「お願い」するのが筋ではないの?
そういうのが出来ない疾患なんだって言われたらアレだけど
その上で、各種ご指摘について増田も思うところがあるから、お返事するな。
「譲って欲しい・配慮して欲しいなら意思表示をして「お願い」するのが筋ではないの?」
これ、まさにそうなのね。本人の主体性が大事なので、本来はそれが筋。それは合ってる。
ただ、それを認めると、「お願いする・しない」の2択になっちゃうんよ。
オレ自身は、本当に辛かったら譲ってほしいと言うと思う。それをしていない時点で、オレは愚痴っているだけと取られられても仕方がない。
ただね、人によってはこういうこともあるんよ。
「(しんどい、辛い、座りたい。でもなあ、自分年寄りじゃないしなあ、譲ってほしいって言って変な空気になったら嫌だしなあ、逆上されて怒鳴られたり、傷つけられたりしたらどうしよう… 誰も助けてくれなかったら?? じゃあ、今は自分が我慢したほうが得かな…)」
みたいな発想になる人はね、これは結構多いのよ。まさにおっしゃる通り
「そういうのが出来ない疾患なんだって言われたらアレだけど」
なので、可能な範囲でいいけど、ヘルプマークをつけてしんどそうな表情している人には、席を変わるかどうか声をかけてあげてほしい。
いいです、って言われたら、譲らなくていい。それぐらい。本人の主体性が大事なので。
でね、本当に「譲って欲しい・配慮して欲しいなら意思表示をして「お願い」するのが筋ではないの?」って、思うんなら、
「(席を譲ってほしいって言って、自分が不利益被ったらどうしよう?)」って心を痛めたり、
実際に申し出て嫌な思いをする人を助けてほしいのよ。
「そんなん都合よく出くわすわけないのに、できるわけないだろ!」って思う?
だったら、そういうことは言わないでほしいな。おまえ様の心の中で思うのは勝手だけどさ、
こういう場所で公にするのは、もうやめにしようぜ!
この意見にはいくつかの妥当性と、いくつかの問題点があります。まずは妥当な点から見ていき、次に問題点を指摘します。
妥当な点
意見では、収入が安定しているため、自民党に対する不満が少ないという考えが述べられています。これは、社会学的な視点から見ても理解できます。経済的安定は、現状維持を望む人々の間で自民党への支持が高いことと一致します。特に自民党の経済政策は、経済成長と安定を重視しており、大企業や中間層の一部には支持が強いです。
自民党支持の一因として「親中政党」に対する不安が挙げられています。これは、外交政策において日本の安全保障や国際的な立場を重要視する保守層の典型的な考え方です。特に中国との経済的・軍事的緊張が高まる中で、このような懸念は自民党支持者の間で広く見られます。
ワーキングプアの自民党支持者について「左寄りの政策にアレルギーがある」という解釈は一部正しいかもしれませんが、必ずしもそれだけでは説明できません。自民党を支持する低所得者層の中には、保守的な文化的価値観や、安定志向、国民的なアイデンティティへの共感が強い層がいます。彼らは経済的な観点だけでなく、社会的・文化的な価値観に基づいて投票行動を行います。この点では、必ずしも「自分が金持ちになる予定だから」という説明が全てではなく、もっと複雑な要因が絡んでいる可能性があります。
弱者への政策については、単に「弱者に寄り添う」政策を嫌っているわけではない可能性もあります。自民党を支持する一部の低所得者層は、政府の過剰な介入や福祉政策が個人の努力を軽視するものだと考えることもあります。また、社会保障制度が自分に直接的な恩恵をもたらさない、またはそれが十分に説明されていないと感じているために、その支持を避けることがあります。
3. 自己責任論への過度な簡略化:
「自分が貧乏なのは自分の頑張りが足りないから」という自己責任論に納得しているという部分も、やや単純化されています。確かに、自己責任を強調する思想は一部で存在しますが、社会的・経済的な複雑さを十分に理解していないことから、このような見方をしている可能性もあります。また、低所得者層が将来の経済成長や雇用創出を期待して自民党を支持する場合もあり、それを一概に「自己責任論」にまとめることは不正確です。
まとめ
この意見には一定の妥当性があるものの、低所得層の自民党支持者に関する解釈や、政治的選好に対する理由付けがやや単純化されています。経済的・文化的要因が複雑に絡み合っており、それを一面的に説明するのは難しいです。
この意見にはいくつか妥当な点がありますが、同時に問題点や矛盾点も存在します。
妥当な点:
1. 不満がある人ほど野党を支持する傾向: 現状に不満を感じている人々が、与党に対して失望し、野党に期待を抱くという傾向は理解できます。特に、発達障害の子どもを抱える家庭や、経済的に困難な状況にある家庭は、与党が彼らの問題を十分に解決していないと感じやすく、野党の政策に希望を託すことがあります。
2. 2012年の民主党政権への反感: 民主党政権時代に経済的打撃を受けた経験が、現在の立憲民主党に対するアレルギー反応として残っているという点も現実的です。当時の政権運営に対する批判が強く、一部の人々にとってトラウマとなっていることは事実です。
1. 与党と野党の選択が単純化されている: 野党支持者を「不満を持っている人々が夢を見ている」という形で単純化している点が問題です。野党を支持する理由は多様であり、単に「現状に不満があるから」という理由だけではなく、政策面での期待や理念の共有など、複数の要因が絡んでいます。野党を支持することが必ずしも「夢を見る」行動とは限りません。
2. 発達障害の家庭に関する偏見の可能性: 発達障害を持つ子どもの親が特に不満を抱えているとする一方で、それを野党支持と結びつけるのはやや偏見的です。発達障害の子どもを持つ家庭は、支援制度や福祉政策に強い関心を持っていますが、それが必ずしも与党に対する反感から来るものとは限りません。むしろ、どの政党が自分たちの生活を改善できるかを冷静に判断するケースも多いです。
3. 麻雀のオーラスとの比較が適切か: 麻雀のオーラスにおける「負けている人が大物手を狙う」という例えを、野党支持に当てはめるのはやや強引です。政治的な選択は麻雀のギャンブル的な要素とは異なり、特に子育てや生活に直結する問題については慎重な判断が求められます。現実の問題解決を求める有権者を単に「一か八かの選択」として描くことは、彼らの判断力を過小評価していると言えます。
まとめ:
この意見は、与党への不満から野党に期待を抱く層がいることや、民主党政権への過去の反感など、現実に基づいた妥当な点がある一方で、野党支持者や発達障害の家族を単純化しすぎており、根拠に欠ける部分もあります。また、麻雀の例えは状況を正確に反映していないため、慎重な分析が求められます。
この条件に合う政党を見つけるのは難しいですが、いくつかの視点から考えてみましょう。
1. 福祉の充実
精神障害者年金の支給基準の緩和や、手続きの簡素化を直接訴えている政党は少ないですが、日本共産党や立憲民主党は、福祉政策に力を入れています。彼らは弱者保護や福祉の充実を掲げており、精神障害者や生活困窮者に対する支援強化を訴えることが多いです。日本共産党は、障害者手帳や年金に関する手続きの簡素化を求める政策提言も行っていることがあり、あなたの現状に共感する部分があるかもしれません。
2. 表現の自由とエロ規制
ロリ系や広義のポルノに対する規制強化に不満を持っているとのことですが、このテーマに積極的に取り組んでいる政党はあまり見られません。とはいえ、維新の会は一般的に規制を緩め、自由を尊重する姿勢を示していることが多いです。彼らは政府の過度な介入を嫌うため、ある程度の表現の自由を守る方向で動く可能性があるかもしれませんが、エロに特化した主張を掲げているわけではありません。
3. 反宗教的な立場
統一教会と自民党のつながりに反発している点については、これを批判している政党としては、立憲民主党や日本共産党が代表的です。特に共産党は一貫して宗教との関係を避ける姿勢を持っており、統一教会問題に対しても厳しい立場を取っています。
4. 政治への期待とパンとサーカス
あなたが求めている「パンとサーカス」に対して直接応じる政党はありませんが、経済的に困窮している層に対してのサポートや、生活の安定を図る政策を掲げる政党は先ほど述べた共産党や立憲民主党が考えられます。娯楽面に関しては、どの政党も特化した政策は見受けられませんが、文化やアニメ産業の振興を掲げることもあります。
まとめ
現状では、あなたの望みをすべて満たす政党は見つかりにくいですが、福祉の充実や反宗教的な立場を強調する点では、日本共産党や立憲民主党が近いかもしれません。一方、表現の自由を守る姿勢においては、維新の会も一定の期待ができるかもしれません。
リバタリアニズムってそういう心理的な束縛を嫌うワガママな自由至上主義者というより
市場や社会制度の合理性をつきつめるとよりスマートな金融政策や福祉政策を打ち立てるために既存制度や既存概念を壊して
負の所得税や免許制度の廃止みたいに抜本からシステム変えてそれに人類が適応していくことを見通していく考え方だよ
政策のロジックは現実社会の実装から乖離してるからラディカルに見えるけど、別にリバタリアンは急進的というわけではなく
既存の腐敗を生む諸制度を段階的につぶしていって最終的に理想形になればいいという漸進的かつ現実的な考え方と共存もできるものだよ
公的年金の廃止とか最低賃金の撤廃とかそれ単体でみるとギョっとしてそれはヤバいんじゃと思える政策でも
それがなくなって制度の助けがなくても人間それぞれがちゃんと賢い動き方ができるように社会全体としてはデザイン済みな状態で初めて可能になる
もちろん強制力のあるパターナリズム的な押し付けはないけど、全く教唆がないわけではなく「ここに入ると××なので危険ですよ」の立て看板くらいはある状態と思ったらいい
「××なので」部分の理解が足りず無視して負傷するような愚行を犯した人でも救済され再挑戦できるシステムもあってこそ
私は誰しもがそう望むように幸せになりたいと思っていた。それは我々の権利でさえある。しかしそれは法で定められなくてはならないほど、私たちに縁遠いものなのかもしれない。例えば社会的地位、経済的余裕、暖かな人との繋がり、夢や希望をこの地であくまで追求すること──。
これは生活に追われて疲れ果てたある女の手記だ。私はこんなくだらない文章を書くほど暇なのだ。それは決してゆとりではない。それに真実でもない。「何もすることがない」というのは恐怖なのだ。自分自身、もしくは人生の虚無と向き合うはめになる。それならこうやってスマホの白い画面に黒字を打ち続けるほうがよっぽどマシなのだ。
私はつねに漠然と死にたいと願っている。先に告白しておこう。私はうつ病者だ。だから歪んだ世界に生きている。そして発達障害(当事者)でもある。私の目に見えるものは本来の姿を留めていないのかもしれない。私は何重にも孤独なのだ。恋人も友人もいない。私は一人だ。いや、少なくともいま現在はと付け加えよう。
私には子どもが一人いる。
まだ幼い、母親の庇護を必要とするか弱い存在だ。私の苦悩の全般は子育てに起因するように思う。人より劣る私のような人間にはそもそも育児など不可能だったのだ。すでに夫だった(それ以前は恋人だった)男とは離別している。「孤育て」とは誰の造語かは知らないが、なんとも言いえて妙だ。
私の人生で誇れることがあるとすれば、それは離婚だ。自分で考え自分で行動し自分で決着を付けた。そして学びを得た。「私のことを粗末に扱う人間とはもう関わらない」夫はいわゆる“モラハラ”体質だった。デートDVもあった。でも私は気付けなかった。それを理解したのは最近のことだ。ということは私にもそれなりの成長があったのだ。しかし、もっと早くに気付いていれば傷は浅かったし、それから、それから、息子を産まずに済んだのだ。
私が心を病んだのは十代の頃だ。夫と出会う前だ。だから全面的に彼を非難することは出来ない。初めて行った産婦人科で、エコー写真を見た。モノクロのテレビ画面に不思議な抽象画のようなものが映し出された。そして写真を撮るカチッとした音が響いた。それで私にも分かったのだ、この腹のなかに何かが居るのだと。動揺して頬にしずくが伝ったのを覚えている。真っ白で消毒液臭い古びた院内。私にとって希死念慮は懐かしく親しみ深い欲求だ。だからこの一連の愚かで頓馬な騒動のなか、私は一つの結論に達した。つまり、子どもが産まれたあとに自殺しよう、と。私のその願い(この人生を終わりにしたい──)と胎児とはなんの関係もない。巻き込むにはしのびなかった。その程度の理性は持ち合わせていると自負している。
だが私は当初男に中絶を訴えた。私はまだ“女の子”でいたかったのだ。くたびれた子持ち女になるなんて、とんでもないことだ。子どもなんていらない、私には夢がある、そんな責任背負えない──などなど、私は空回りする言葉を口にした。男は泣いて反駁した。絶対後悔させない、幸せにする、土下座してもいい……。いずれにせよ上っ面な言葉が二人の間に投げ交わされた。その中で、男の涙も出産を決意した理由の一つになった。私たちの深刻で感情的な会話は回転寿司屋で耳目を集めた。あの人が泣くのを見たのはあれが最初で最後だ。希望のない結婚生活はすぐさま破綻し、ただの狂女と化した私を男は見切った。離婚は合意によるものだった。結婚は、結婚はといえば寄り切られただけだ。それに実家では死にたくなかった。「家」から出るための判断だったと今になって思う。
そして母親から望まれなかった子どもは今や四歳になる。つまり私は死ねなかった。ひどく臆病なのだ。だらだらした生を送り、日々は過ぎ去り、私は今日もただ生きているという苦痛に耐える。
16時半になると息子が帰って来る。彼には発達特性があり、療育と呼ばれる困りごとを抱えた子どもたちを支援する施設に通っている。青い車に乗った彼はたいていはご機嫌で帰宅する。そして「今日のご飯は? なんのおやつがある?」などと訊ねる。その都度私は答える。どうでもいいことを、どうでもいい感じで。
私たち親子をこの先待っているのはなんだろう、とふと考える。私の予想では、息子はグレるか引きこもるかのどちらかだろう。“軽度の発達遅滞”──、医者の言った言葉だ。
私が憂うのは──、また興味を惹くのは、私たち家族が年々機能不全家庭に成り下がってゆく事実だ。
曾祖母は戦争で夫を亡くしお茶お花の教室を開いては子ども二人を育て上げた、祖母は家業と家事育児を両立させ手作りの洋服を娘らに着せていた、私の父は男手一つで私を曲がりなりにも成人させた。では私はどうなのだろう。三十路の子持ち女、気ままなパート通い、充実した福祉政策にすがってその日暮らしをしている。闘病中だから仕方ないでしょ、が最大の言い訳だ。もちろん私は合理的配慮の必要を認める、国だってそう言ってる。だが私の怠惰と甘えはとどまることを知らず、日に日に心身が肥大していくのだ。もはや若くもなく、痩せてもいず、まぶたに色を添えるでもなく、唇はささくれだっている。元夫が愛した頃の可愛らしい私などとうに消失した。ミニスカートを履くことも今後この人生にはないだろう。
だがこの点において私は絶望していない。若さゆえの唯美主義とは残酷なものだ。それを脱して豚になるのだっていいだろう。“おばさん”にはセクハラも痴漢も起こり得ない、少なくとも私はそう考える。
閑話休題──と打ちかけて気付いた。この文の本論はどこにあるのだろうか。私の人生を言葉の力を借りて小説にし美化するため? それはそれで良いだろう。だが打開策にはならない。私は毎朝ダブルベットからのろのろと起き上がり息子を登園させる、夕方になれば電話が鳴り息子をアパートの外で出迎える。その間は私一人だけの時間だ。支援職の人々は「ゆっくり休んでください」と口を揃えて言う。でも物事を複雑化して自作の迷路に一人で迷い込んでゆくのは私の大得意だ。つまり安息などない。私は息子の帰宅を恐れる。逃げ出したいと思う。実際逃げ出したらどうなるか綿密に考えてみる。それもいいと時々思う。でもだいたいは「居続ける」ことを選ぶ。人生においてもそうだ。やめようか、どうしようか、でも面倒ごとは御免だ──結局私は生き続けることを選んで来た。それが正解だったのか、正しい判断なのか迷う。安易に出せる分かりやすい答えにはさほど価値がないように思う。あらゆる人間関係のなかで悩み苦しむこと、その明快な人生の定義を思い浮かべる時、もしかしたら私は幸福なのかもしれない。
2024/08/27 18:28
政治的な「左右」とは、政治的なイデオロギーや立場を示すために使われる一般的な用語です。「左」と「右」は、それぞれ異なる政治的価値観や政策の方向性を表します。この分類は、フランス革命期の議会の座席配置に由来しており、そこから広く使用されるようになりました。
※この「左右」の分類は、国や文化によって多少異なる場合がありますが、一般的には上記のような特徴で分類されます。
1.基本的価値観:
3.例:
1.基本的価値観:
3.例:
アメリカと日本のメディア間のニュース提携の一覧化してみました。
2.朝日新聞 :tv asahi(日本) と ABCニュース (アメリカ)
4.産経新聞:フジテレビ (日本) と Fox News (アメリカ)
5.読売新聞:日テレ (日本) と The New York Times (アメリカ)
2024年東京都知事選挙は、大方の予想通り現職小池百合子氏の圧勝に終わりました。午後8時の投票締切と同時に当確が発表される、いわゆる「ゼロ打ち」であり、他候補はそもそも勝負の土俵にすら上がらせてもらえなかったというのが率直な評価ではないでしょうか。
けれども、X (旧Twitter) などネット上で大きく注目され、毀誉褒貶半ばの話題を集めていたのは、東京都の福祉政策に対する不明瞭な支出を追求しており、電撃的出馬を宣言したひまそらあかね (暇空茜) 氏であったように思います。
私自身も、ひまそら氏に対してはColaboとの争い当初から注目しており、今回の選挙戦も興味深く見守っていました。今回のひまそら氏の都知事選挙の結果評価について書き残しておきたく、初めて投稿してみます。
ひまそら氏の最終的な得票数は、大方の下馬評を覆す11万196票でした。これは区議・都議を十分に狙える得票数であり、結果だけを見れば大健闘と言って差し支えないでしょう。実際のところ、得票数10万を超えると予想していた人はごく少数であり、私自身もせいぜい5万票程度に留まるだろうと考えていました。顔出しなし、政見放送なし、街頭演説なし、ポスター貼りなしという「縛りプレイ」で、純粋なネットのみの選挙運動の可能性を強く感じさせるものだったと言えます。
けれども、この都知事選はひまそら氏にとって得るものが少ない割に失ったものは多く、ひまそら氏にとっては完全な「失敗」であったと私は考えています。
ひまそら氏が電撃的出馬を決意した理由は、石丸伸二氏の当選を「阻止する必要がある」と考えたからだと述べています。
https://www.dailyshincho.jp/article/2024/06251240/
最初に述べた通り、今回の都知事選は序盤から終盤まで終始現職小池氏の独走状態でした。仮にひまそら氏が出馬しなかったとしても、今回石丸氏が都知事になる可能性はほぼゼロだったでしょう。歴史にイフはないので、ひまそら氏の出馬がどれだけ石丸氏の票を「喰った」のかは分かりません。
けれども、ひまそら氏の得票数 (約11万) を石丸氏の得票数 (約160万) に足しても、小池氏の得票数 (約290万) に遠く及ばないことを考慮すると、ひまそら氏が立候補しようがしまいが、いずれにせよ石丸氏は今回都知事にはなれなかっただろうし、ひまそら氏の選挙活動は選挙の大勢にほとんど影響を与えなかっただろうと言えます。
そもそも、都知事選挙の告示前に公表された情勢調査では、石丸伸二氏の支持率は供託金没収ライン(10%)を下回る8~9%程度だったと報道されていました。
https://president.jp/articles/-/83050
蓋を開けてみると、石丸氏はそこから15ポイント以上も上昇した24.30% の票を得ています。これは大躍進と評価できますし、石丸氏は経歴と年齢を考えれば十分に「次」へと繋がる実績を残せたと言えます。
私自身は、石丸氏のパーソナリティにはかなりの不信感を抱いており、公職に就く人間としては不適格であると考えていますが、少なくともこの結果だけ見れば、ひまそら氏は石丸氏を止められなかった、ひまそら氏の批判は石丸氏にほぼ何の影響も与えなかったと評価せざるを得ません。
ひまそら氏が今後真剣に公職を目指すのであれば、今回の都知事選の得票数は一定の影響力を持ちうるでしょう。そうではなくとも、たとえば内野愛里氏のように、純粋に売名のために選挙を使うこともできたはずです。けれども、ひまそら氏は今後政治家を目指す野心はないと述べており、政見放送やポスター・街頭演説などを効果的に使って自身の政策課題を広くアピールすることもしませんでした
私が見る限りでは、ひまそら氏のXやYouTubeでの選挙活動は、既にひまそら氏のことをある程度知っている人間 (支持者であれアンチであれ) にしか見られていなかったように思います。ひまそら氏のことを全く知らない人に、いかに自分自身と(いわゆる)WBPC問題を知ってもらうかという観点での運動はありませんでした。そのため、ひまそら氏は選挙期間中にもそれほど多くの新規フォロワーやYouTubeチャンネル登録者を獲得できていません。ひまそら氏の敵視する石丸氏が、XやYouTubeを効果的に活用して自分を知らない人 (特に若年層) に効果的に名前を売り込んでいたのとは対照的であると言えます。
先に述べた通り、ひまそら氏は、新しい支持者を得るためのアピールをするよりは、既存の支持者の忠誠心を高め、コアな支持者の口コミ活動に注力する選挙活動を指向していたように見えます。ところが、ここでもひまそら氏は大きな失敗を犯しています。端的に言えば、支持者の期待のコントロールに失敗し、その信頼と忠誠心を無駄に浪費してしまったのです。
都知事選投票日の数日前、ひまそら氏は「あ、これ俺マジで一位狙える位置だわ 一か二位の予想出てるんじゃないかな」、「「ひまそらあかね」と「小池百合子」の一騎打ちになっている」 と主張していました。
https://x.com/himasoraakane/status/1809420085226008590
この主張がどれほど本気だったのかは分かりません。戦争の最中に大将が弱気を見せるわけにはいかないという理屈も分かります。けれども、実際のところ、全選挙期間を通してひまそら氏の情勢はせいぜいが泡沫候補中位~上位であり、これはあまりにも事実認識を欠いた発言でした。
ひまそら氏本人が書いたものではありませんが、投票日の数日前「都知事選は百合子とひまそらの一騎打ちになったという情勢についての解説」というnoteがひまそら支持者の間で広く流れていました。
https://note.com/ks_kaz_game/n/n286e6f7c1ac0
少なくない支持者が、本気でひまそら氏が都知事になれる可能性があると考えて、口コミやショート動画の作成によるひまそら氏の周知・投票呼び掛けの活動をしていたようです。また、ひまそら氏自身も、「この国が終わる」「自分は逮捕される」と支持者の危機感を強く煽るような選挙活動を行なっていました。ところが、結果的には文字通り「桁違い」の敗北であり、支持者の信頼と忠誠心を大きく裏切ったとしか言い様がありません。また、出馬の判断から選挙情勢・票読みに対するひまそら氏の「カン」に対する信頼は大きく損なわれたと言えるでしょう。辛辣に言えば、大将が事実認識を誤り、兵士を負け戦に突撃させ無駄死にさせた状況です。
いわゆる時事系YouTuberと呼ばれるような、動画でひまそら氏の言葉を拡散する本当の中核的な「信者」は、何が起こってもひまそら氏から離反することはないでしょう。けれども、積極的発信をするわけではないもののひまそら氏を支持しているコアな支持層の忠誠心と信頼は大きく削がれたように見えます。
先に述べた通り、今回の都知事選におけるひまそら氏の選挙活動は、かなりの健闘だったと言えます。けれども、ひまそら氏が今後この政治的影響力を有効活用することは、以下の理由から非常に困難です。
・氏のパーソナリティ上の問題から、既存政党からの推薦を得ることは非常に難しい
・ひまそら自身が、選挙への出馬は今回限りであり別の選挙に出るつもりはないと主張している
(ウソをつかない、一度口にしたことを覆さないというブランディングをしている以上、すぐに別の選挙に出ることはできない)
・電撃的出馬によるサプライズ効果や、候補者の新鮮さは選挙を繰り返す度に剥落するため、今後選挙に出るたびに得票数は減少する
(ひまそら氏のプライドの高さから考えると、今回の選挙結果すら下回るような惨敗を何度も許容できるとは思えない)
・コアな支持者の危機感を強く煽るタイプの選挙戦略は、そうそう何度も使えない
・ひまそら氏の「カン」の鋭さに対して、ひまそら氏自身も支持者も信頼を失った
既存政治団体の後ろ盾を持たない無名候補者の選挙活動として純粋に評価すれば、ひまそら氏はかなり健闘したと言えます。一方で、ひまそら氏自身が掲げた戦略目標(石丸氏の政治的影響力排除)は達成できなかった上に、自軍のリソースを徒に浪費しながらも何ら今後に繋がる利益を得られなかったという意味で、彼の都知事選挙出馬は「失敗」であったと評価せざるを得ないでしょう。
そんなことはないと思っている人に聞きたいのですが、ではなぜ実質賃金が下がっているのでしょうか?
実質賃金というのは言うなれば「資本主義的な支配者層が考える労働者一人辺りの価値」となります。
それが下がってきているということは、人間の価値が下がってきているということです。
少なくとも、特別な技能を持っていない人間、特別でなくともその業界で重要視されるだけの経験を持っていない人間の価値は下がっています。
資本主義における価値とは需要と供給で決まるわけですから、人間の需要に対して供給が上回っているわけです。
多くの企業が人手不足を語ってはいますが、実態としては「十二分なスキルを持った人間が突然低賃金で雇われて欲しい」という意味でしかなく、能力のない新卒を雇う意思はほとんどありません。
過去の栄光でダラダラと失われた50年を食いつないでいる日本とは比べ物にならないほどに成長している国家が近隣にはあります。
日本はベビーブーム時代の栄光を忘れられず「子供が沢山生まれると社会が活性化する」とよく分からない思想に染まっていますがそんなことはありません。
むしろ逆です。
中国が経済的に成長した時期と出生率の相関を考えていけば、見えてくるのは「人口増加∝経済成長 の幻想を断ち切ることが重要」という現実でしょう。
事務所の中でおじさんたちが鉛筆で必死に契約書類を書いていたような50年前に成功したパターンを自動化・IT化の進んだ現代で繰り返そうという発想が愚かしい。
年金政策のようなネズミ講によって見せかけの福祉を維持することはいい加減やめましょう。
そもそも、多くの若者が社会から「金を稼げない社会のお荷物は死んでしまえ」とばかりに扱われているのに、老人たちだけが昔払ったわずかな年金を頼みに「寝たきりの役立たずだけど大切に扱ってあげよう」とされているのがおかしいのです。
若者に「弱者は死ね。金を溜め込めないなら死ね」と語るなら、老人に対しても「年金だけで暮らしていけないとか舐めたこと言ってるんじゃねえ。溜め込んでこなかったお前たちが悪いんだから死ね」と言って回るべきではないでしょうか?
というか、「働けなくなった奴は自分や身内の貯金で食い投げる範囲を超えたら死ね」というのを半端にオブラートに包んで誤魔化そうとするから歪みが生まれるのです。みんな本心ではそう思っているんですから。
ある時は「老人は偉いから俺の言う事を聞け」と騙り、ある時は「老人は可愛そうだから助けない奴は地獄に落ちる」「と脅す。
こんなことはいい加減辞めましょう。
老人が若年層に依存することを前提とした社会構造を変革させなければ話にならない。
答はシンプルです。
それは経済に回すべきエネルギーを目先の少子化対策や福祉政策に回しているからです。
今、目の前で困っている誰かを助けるために、種籾を食べ尽くしてしまっているのが今の日本です。
直近5年の誤魔化しのために使っているお金を、20年後40年後の社会のために使おうとしていないのです。
貧困国に井戸を作っても、明日のパンを買うために部品をバラし売ってしまうような状態ですね。
目の前にある出生率を一度諦めましょう。
もし本当に50年後の事を考えているなら、一時的に出生率を犠牲にしてでも経済を立て直すほうが正しいことに思い当たりませんか?
結局のところ、出生率を上げようとしている多くの人が口で「何十年後」と言っていながら実際には「直近数年の出生率」しか考えていないのですよ。
市場の実勢価格と乖離した、買ってすぐに転売して利益が出るような(特に不動産はもろもろコストが大きいのにそれでも利益が出るような)価格で売り出した都が一番悪い。そこをちゃんとした実勢価格で売り出していたら、もっと都に資金の余裕が出来て、それを使って内地にまともな低所得者向け住宅を整備できたであろう。そもそも低所得なファミリーでは手の出ない価格帯のマンションなんて福祉政策にもならないんだから、都が直接供給するべきものではない。既に現物がある跡地利用だとしても、いったんまとめて業者に競争入札させるべきだった。都の財産を廉価で販売するというのは都民に対する背任行為なんよ。
『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか』を読んだ。ナチスの行った行為についての<事実>や<解釈>については自分が誤解していたこともいくつかあり、とても面白く読めた。一方で、著者らの<意見>は、タイトルの問いに対する十分な回答ではないというのが正直な感想である。
『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか』というタイトルを読んで私がまず考えたことは、著者らは「良いこと」をどう定義しているのだろうかということである。
②Xは善い(価値判断)
①については著者らの言う通りナチスが実施した行為について歴史学の方法で事実とその解釈を検討することは重要であろうし、素人の考えが誤っていることは多々あるだろうこともよく理解できる。素人の私が専門家の整理に対してとやかく言うつもりは(あんまり)ない。
一方で、②については、"「~である」から「~べき」は導かれない"というヒュームの法則が端的に表すように、事実・解釈とは独立した善悪についての価値判断である。①についてお互い同意していたとしても、②が異なれば善悪の意見が真逆になることは十分あり得る。
もちろん、何を善いとするかは自由に決められるわけではない。「ナチスは良いこともした。なぜなら ②ナチスのしたことは善い からである。」という主張は(そう言うのは自由だが)多くの人を説得できないだろう。
そこで普遍化可能性という基準が出てくる。普遍とは簡単に言えば、固有名詞を含まない、という意味合いである。例えば、「金を返さないのは悪いことだ」という価値判断を採用するのであれば、誰であろうと金を返さない人は悪人であると判断しなければならない。
「あなたが私に金を返さないことは悪いことだ」とするならば、「私があなたに金を返さないこともまた悪いことである」としなければならない。ナチスの行為を何らかの理由で善い/悪いこととするならば、他の〇〇国がした同じようなことについても、別扱いをする普遍的な理由を挙げなければ、同様に善い/悪いこととしなければならない。
ナチスの政策Aが良くないことならば、同様(に見える)〇〇国の政策Bも良くないことですよね?という問いはWhataboutism論法ではなく、価値判断の普遍化可能性についての確認である。同様に良くないことだと言うならそれでいいし、違うならその理由を説明すればいい。
『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか』は歴史学の本であり倫理学の本ではないから、ナチスの政策についての事実・解釈の説明がメインなのは当然である。しかしながら、「良いこと」もしたのかというタイトルにするならば、著者らの価値判断が普遍化可能であるのかについてもある程度の紙幅を割くべきだったろう。
さて、本では素人が考えがちなXとして、A:オリジナルな政策、B:目的が善い政策、C:結果が良い政策 の3つを挙げ、「素人考えでは政策AはXに見えるが歴史学の手法で解釈するとAはXではない。よってナチスは良いことをしていない。」とする方式で説明が進む。
まず、著者らがオリジナルの定義をかなり狭いものとしているのが気になる。まったくのゼロから何かを考え出すこと以外にもオリジナルさを見出すことは特段おかしな考えではないはずだ。
私はメーカー勤務の研究者である。ニーズ先行の商品開発は、(i)市場調査部が計画を立て、(ii)R&Dがラボ試験をして、(iii)工場が大量生産化するという流れで進む。ここで、市場調査が計画をしたことをただ実験して、ただ大量生産しただけなので、研究者も工場技術者もオリジナルなことはしていないと言われたら、ちょっと待てよとなる。
また、実はコピー製品も安定的に製造するのはかなり難しい。同じ会社の別工場で品質がぜんぜん違うことは珍しくないし、他社製品をコピーするのに数年以上かかることも珍しくない。
私は政策を計画・実行したことはないが、計画を実際の法案として成立させることや他国の制度を法律も文化も経済も違う自国で同じように実施することには何らかのオリジナリティが必要であろうことは想像できる。
これについては、著者らも書いている通り、オリジナルであることと良いことは何も関係がない(もちろん、オリジナルでないからといって良くないとも言えない)ことを説明するのが適切だったのではないか。
「確かに狭い意味ではオリジナルでないことは同意する。しかし広い意味ではオリジナルであったし、A:オリジナルは善い という価値判断の元、ナチスは良いこともしたという意見は変わらない」と言われるだけのように思う。
著者らはナチスの政策の真の目的は戦争のための「民族共同体」の構築であるとして、それは良くない目的であると価値判断をする。これは(i)戦争のためという目的は良くない、(ii)「民族共同体の構築」という目的は良くない という2つに分解できる。
(i)戦争のためという目的が良くないとすると、例えば福祉政策が戦争のために発達したことは多くの指摘があるが、福祉政策は良くないことと言えるのかという疑問がでてくる。またインターネットやロケットなど戦争のために生まれ発展した技術は良くないことと言えるのかという疑問もでてくる。
先に書いた通り、これらを良くないとするなら(同意を得られるかは別として)普遍化可能性についてはクリアしている。しかし、これらを良いとするならば説明が必要だろう。
また(ii)「民族共同体」の構築が良くないとすると、例えば「国家共同体」の構築のために移民(特に既存の国民にとって良くない影響を及ぼす可能性が高い移民)を排除することは良くないことなのかという疑問がでてくる。
私はリバタリアンとして個人の自由を尊重する立場から国家が移民を制限することは良くないことだと考えるが、日本はもちろんヨーロッパやアメリカの現状を見るに、世界全体で受け入れる人は少ないと思われる。
「民族共同体」の構築という目的は問題ないが、その方法としての搾取・断種・敵対者の排除が問題であるという主張も考えられる。私もそれらの方法について全く支持しない。
しかし、目的は問題ないとするならば、②目的が善い政策は善い の反論としては不適である。
また、占領地・植民地からの搾取や障害者の断種、反政府思想の弾圧などは同時期の他の国でもあったことであり、それらと比べてナチスの政策はと同程度に悪いのか、それともより悪いと言えるのかという疑問もでてくる。
先に書いた通り、①事実・解釈について素人の私が専門家の整理に対してとやかく言うつもりは(あんまり)ないが、気になる点をいくつか挙げる。
(i)失業者600万人に対して雇用創出政策では50万人程度であるから効果は限定的というのは乗数効果を全く考慮にしていない。私個人としては政府の雇用創出政策の効果に懐疑的ではあるが、ケインジアンはこの<解釈>に文句があるだろう。
(ii)「膨張する国家支出と巨額の負債は国家財政を圧迫し、やがて財政破綻の危機とインフレ圧力に直面することになった」について、例えば日本の社会保障政策も同様という論者は多いが、良くない政策だと言えるか?(なお、私は良くない政策だと考える)
(iii)「「軍備の奇跡」なるものも結局のところ戦争の集結を引き延ばし、多数の人命を犠牲にするだけに終わった」は枢軸国側が負けることを知っている前提の意見ではないか。(現在はともかく)露宇戦争開始当初はウクライナが人命の犠牲を避けて早く降伏すべきという意見はそれなりの数あり、またそれに対する批判も多くあった。
(iv)例えば医療分野の発展はその大部分を動物の搾取を前提としているが、動物愛護思想の人が「医療は"何も"良いことをしていない」と主張することを認めるか?もし動物愛護思想を認めた上で医療分野は「良いこと」もしたと言うならその理由はなにか。
(v)タバコについて、一方では「最終的には自己責任であった」と強制がなかったことを問題としているが、もう一方では特に女性について「家父長的干渉主義」という強制があったことを問題としている。これはダブルスタンダードではないか。
ナチスの政策・行為の"総和"として大きくマイナスであることは多くの人が認めるだろう。
しかし、"個々が全て"マイナスであったというのはかなり強い主張になる。
「ナチスは「私たちはこうあってはならない」という「絶対悪」であり、そのことを相互に確認し合うことが社会の「歯止め」として機能している」ことが正しいとしても、それは"総和"で達成できるのではないだろうか。