はてなキーワード: 裏切られるとは
強いオスの定義を暴力的であることとし、女は結局DVしてくる男が好きみたいな話について、そうじゃなくないかと思ってあれを書いたんだ
暴力は確かに全てを解決してくれるし、嫁に対して使えば嫁の問題を解決してやらなきゃいけない立場から解放されるから話早いよ
でも、スペック高いのに嫁に難癖つけられてつらく当たられている旦那たちは暴力的じゃないから疎まれ当たられているわけではなく、
問題解決できない女が、実際は(女にとって)同レベルだった男に八つ当たりしてんだろうなって
子供には期待していないからポンコツでも子供だしなってなるが、恋人とか旦那には期待してるから、裏切られると騙しやがってになるのかもね
男性が楽しそうなおばさんに不快感を覚える理由は、「おばさんは全員、俺の母のように家族に奉仕しながら苦しんで生きるべきだから」というよりも、
「若い女性への嫉妬」と「男性特有の感性の一方的投影」だと考えられます。この心理は、主に以下の3つの構造から成り立っています。
男性は「異性から性的対象とされること」を人生における至上の価値と考えており、その状態にある若い女性を心底妬んでいます。
男性は性犯罪、ストーカー、望まぬ妊娠といった若い女性が負うリスクを実体験として知らないため、リスクとデメリットを無視し、「若い女である状態」を過剰に美化しています。
そして脳内イメージで美化した若い女性への嫉妬があまりにも強いため、女性が加齢によって性的価値を失った際には、「若い頃に良い思いをした報いを受けて、惨めに落ちぶれ不幸なおばさんになる」というスカッと展開を欲します。
男性は、テストステロンに由来する「性・暴力・搾取」に喜びを覚える自身の感性を、そのまま女性の身体に投影して解釈します。
女性は本来、男性からの評価とは無関係なこと(食事、旅行、同性同士の交流など)にも喜びを見出すようにできていますが、残念ながら男性脳には理解できません。
そのため、若い女性が男性と無関係な流行りの食べ物(タピオカ、スタバ、麻辣湯等)で楽しそうにしているのを見るだけでも、何が楽しいのか分からず苛立ちを覚え、せっせと嘲笑や誹謗中傷します。
タピオカ、スタバ、麻辣湯は企業マーケティングに乗せられ云々…と叩きますし、流行ったところで誰も儲からない「白湯」も叩きます。酷暑における安全に必要な「日傘」も叩きます。女がワイワイしてると脊髄反射で叩きます。
自分の脳内にある「あるべき女性像やシナリオ」が崩れるとき、男性は対象を激しく憎悪します。
若い女性が性的な評価を喜ぶことなく自己防衛したり、惨めになるはずのおばさんたちが男性の評価を気にせず勝手に楽しんでいたりすることは、男性の期待を裏切る行為です。
「おばさんが期待通りに落ちぶれていない」という事実そのものが、おばさんが楽しそうであればあるほど不快という男性らしい攻撃的感情の源泉になっています。
男性が楽しそうなおばさんを憎悪する理由は、「おばさんは全員、俺の母のように苦しんで生きるべきだから」というよりも、
「若い女性への嫉妬」と「男性特有の感性の一方的投影」だと考えられます。この心理は、主に以下の3つの構造から成り立っています。
男性は「異性から性的対象とされること」を至上の価値と考えており、その状態にある若い女性を心底妬んでいます。
男性は性犯罪、ストーカー、望まぬ妊娠といった若い女性が負うリスクを実体験として知らないため、リスクとデメリットを無視し、「若い女である状態」を過剰に美化します。
そして美化した若い女性への嫉妬があまりにも強いため、女性が加齢によって性的価値を失った際には、「若い頃に調子に乗っていた報いを受けて惨めに落ちぶれ不幸になる」というスカッと展開を求めます。
男性は、テストステロンに由来する「性・暴力・搾取」に喜びを覚える自身の感性を、そのまま女性の身体に投影して解釈します。
女性は本来、男性からの評価とは無関係なこと(食事、旅行、同性同士の交流など)に喜びを見出しますが、残念ながら男性には理解できません。
そのため、若い女性が男性と無関係な流行りの食べ物等で楽しそうにしているのを見るだけでも、何が楽しいのか分からず苛立ちを覚え、せっせと嘲笑や誹謗中傷します。
自分の脳内にある「あるべき女性像やシナリオ」が崩れるとき、男性は対象を激しく憎悪します。
若い女性が性的な評価を喜ぶことなく自己防衛したり、惨めになるはずのおばさんたちが男性の評価を気にせず勝手に楽しんでいたりすることは、男性の期待を裏切る行為です。
「おばさんが期待通りに落ちぶれていない」という事実そのものが、おばさんが楽しそうであればあるほど不快という男性らしい攻撃的感情の源泉になっています。
「男性が楽しそうにしているおばさんを憎むのはなぜか」という話題では、
「おばさんは自分の母のように苦しんで生きるべきなのに、苦しんでいないから許せない」という説明がよく挙げられる。
けれども、それだけでは十分ではないように思う。
むしろ背景にあるのは、男性が「異性から性的対象として見られること」を至上の価値として捉え、若い女性をその点で羨望していることではないか。
若い女性は実際には痴漢、セクハラ、ストーカー、性的侮辱、暴力など多くの被害にもさらされるが、そうした実感を持たない男性ほど(実感を経たおばさんとは違って)、「若い女性であること」を理想化しやすい。
そのため男性は、若い女性が性的に注目される状態を「この世で最も恵まれている」と見なし、そこに強い嫉妬を抱く。
そして年齢を重ねた女性に対しては、「若い女という優位性を失ったのだから、惨めになっているべきだ」と期待する。
いわば、「若い頃に得をしていた女性が、年を取って報いを受ける」という物語を求めている。
だからこそ、その期待に反して、おばさんたちが男性の性的価値評価とは無関係に同性との友人関係や趣味、食事や旅行などを楽しみながら生きていると、不快感や憎悪の対象になりやすい。
男性から性的に見られていないはずの存在が、楽しそうにしていること自体が、彼らの望む物語を裏切るからだ。
同じことは若い女性に対しても起こる。若い女性が男性との関係ではなく、タピオカや麻辣湯を楽しんでいるだけでも、それを攻撃したがる人がいる。
そこには、「女性の喜びは男性に求められることのみに依存するはずだ」という思い込みがあり、その前提から外れる姿が反感を呼ぶ。
さらに、若い女性自身がセクハラや性犯罪被害を「嬉しくない」「怖いし迷惑だ」と語ると、女性は性的に評価されることを当然喜ぶはずだという幻想が崩れる。その結果、現実を語る女性の側が逆に攻撃される。
要するに、楽しそうなおばさんへの憎悪は、「女性は若さと性的価値を失えば不幸になるはずだ」「女性の幸福は男性に依存するはずだ」という発想が裏切られることで生じる。
若い女性への嫉妬と、年長女性への転落期待が一続きになっており、その期待に反して女性たちが男性抜きでも機嫌よく生きていることが、強い苛立ちを呼ぶのである。
相手を変えようとかいうのは傲慢だし自分も出来んことだもんな、尊重したいとこだわ
そもそも相手に勝手に期待しといて裏切られるってのが筋なのはなんかで経験するもんな
元記事に戻るけど
とはいえ、関係を続けようとするうえで対話を拒むのは違うんだと思うんよな
お互いの違いをお互いが一緒に認識するのもひとつやり方としてあると思ったりする
相手を変に解釈すると変なことになる経験がまああって、割と私は対話重視なんよな
分かり合えない、変わらない、という結果を得るということ自体すらだいぶ価値があると思っとる
まあめんどいけど
ほっとけば治る、みたいなもんでもないしな〜人間関係ってと思えば、とりあえず現状関係値のアンカーがどこにあるか確認するのって大事かもしれんと思うんや
あと個人的な私情だけども、相手はそれでいて自分は情に深くて人の話を沢山聞くやで、をかなり人には自称するもんだから、うそつくなや!? の部分もあるw これは笑いどころだから笑っといてくれ
お前の意見ありがたく聞かせてもらってるけど、そういうのも色んな知見深めて人を知りたいからだったわな〜と今実感してるわ、ありがとナス
SF6愚痴記事です、作った文章をAIに校正させる気もないから読み飛ばしてくれていいです。
やっぱりSF6運営はユーザーに対して不誠実のままなんじゃねえのって疑問が離れない。
前回のパッチは散々焦らしたあげくしょうもない内容だった、そんなのパパっと出せよ、仕事してねえの?ってレベルの
各種映像から本気度合いを感じる、海外人気が一定数あるキャラだしカンフル剤のようになってくれるといいと思う。
とりあえず遊んでアレックス楽しいね~ってなるとは思うんだけど、それ以外になんか仕事してるの?
エド舞ブランカが現状3強だと思ってるしこいつら使わないプレイヤーは舐めプしてるよねって言われても納得しちゃうと思うんだけど、俺?エレナです。舐めてんの?はい。その3キャラ遊んでて楽しくないから逃げました。俺は逃げた。
話を戻して、現状のスト6は怪物みてえなキャラを跋扈させてギャハギャハ遊ぶゲームになっているとは思う。
真面目にやっても運ゲーから逃がさないように作られてるから、運以外の要素をどれだけ頑張っても自分から努力を裏切ってアホにならないとダメな時もある。
それは虚を突くとかいう戦いの楽しみっていうよりはしゃあなくやってる、仕方ないんだよ無敵技ぶっぱしたりするのは。
リュウの足刀足刀中足ラッシュ足刀波掌OD昇竜!!!!!みたいなのも、仕方ないんだよパンピーが遊んでいる分にはそういう風に出来ているんだから。
ごめんまた脱線したわ、そういうゲーム内容に対するアレコレもあるけど一旦横に置いておこう。
最近の運営に対する不満なんだけど、プレイヤーに対して出す情報が小さすぎるっていうところなんだよな。
普通のプレイヤーが格闘ゲームに対して気になるのは新キャラとバランス調整の2つしかない、異論はあると思う。こっちが浅慮なだけだぞっていうやつでさ。
前者は今のアレックスを見ていて頑張ってるなあって思う、でも後者はマジでサボってると思う。
調整サボってるのは当然としていつ調整しますよ~っていう案内がまったく出てこない。
そりゃプロ達はポンポン自分の武器いじくられたら大変なんですぅ~~~ってなると思うんだけどどうでもいいわ。
いつやるの?やるのそもそも?アレックス参戦に合わせてなんかやるの?やらない?EVOJあるから?
このあたりの情報がまったく聞こえない。
俺様が作ったゲームなんだから完璧なんだよねって感じがして嫌になる。
だからSF6はたまに触ってはしょうもねってなる、俺は色んなゲームなりドライブしたりする趣味があるからよかったけど。
格ゲー以外何もできねえ~って熱意ある人ほど裏切られるようなゲームだと思う。
逆択やね。は?いい加減にしろ。
ドラマ「ウォーキング・デッド」のシーズン7を見てビックリした。
突然、脚本や演出で「やってはいけないこと」を連発し出したようにしか見えなかったから。
原因はどうやら「原作通りにしたらこうなった」と言うことらしい。
原作通りの展開だが、それまで「人がゾンビになってしまう世界でなんとか生き延びる、サバイバル・ホラー・アクション」というエンタメを見ていたつもりが、いきなり「文明が滅びつつある世界で、圧倒的な暴力による王政が誕生したらどうなるか」の実験が始まってしまった。
こっちはエンタメを見ていたつもりが、何らかの説教が始まった感じ。
しかも、描き方が悪い。
突然登場した悪の帝王が、主人公グループのメンバーを殺害しながら、楽しそうに演説をするシーンが1時間続く。
いや、地獄であることを描こうとしているが、こっちはエンタメを見るつもりだったので、温度感が完全にズレている。
これ以外にも、大切なところで分裂して団結しない味方グループ、感情優先で暴走する仲間、いちいち長い演説をする悪党、暗殺チャンスをまったく活かせない展開、何度も同じグループに裏切られる主人公、チャンスだと思ったら悪党がそれを上回ることが続くなど、とにかくストレスが溜まる展開ばかりで、しかもテンポが悪い。
「これを我慢すればスカッと展開がある」という期待、「最後には主人公が悪に打ち勝つだろう」という予定調和がエンタメであって、その開放が近々訪れるからこそ、ストレスのある展開を見続けることができる。
解放が訪れないストレスとは、単なるストレス、イライラになってしまう。
ようやくわかってきた
そして急に行動に出る
自分から挨拶してくるようになったり食べ物を渡してきたり、雑談をしようとしてきたり
そうした行動を、礼儀正しく立場の弱い相手が期待通り拒絶しない事を確認すると、勝手に「距離を詰めてもよいのだ」と認識するのである
挨拶とか差し入れとか雑談とか、ちょっと気の利く人なら下心なしに日常的にやっていることだが、社会性ゲロ以下のおぢがそういう行動に出る時には下心しかないので用心されたい
一般的な対応として「善意を普通に受け取る」というのは、おぢにとっては「脈アリサイン」になるのである
おぢアタックとは「勘違いして一方的にアプローチをエスカレートさせ、期待を裏切られると拗ねる」までが一連のルーティーンなので、初手の「こいつは安全な女かどうか判定」で安全と判定させないようにするしか回避の方法はないのである
よって心がけるのは、「お菓子や物を受け取らない(結構です!大丈夫です!の一点張りで乗り切る)」、「とにかく物理的に避ける、近寄らない(挨拶のきっかけを作らせない)」「テンション低めに話す」ということ
おぢもさすがに「こいつは俺が傷つくことを何とも思ってない」と察して、それ以上近づいてこない
普通の善意の人相手なら多少失礼になるとしても、非モテおぢ相手にはこのくらいの心構えが必要なのだ
自意識過剰なおぢは本当に社会人として些細な、普通の事を、中学1年生レベルの経験値のままの恋愛脳で都合良く解釈し、勝手に期待を膨らませる
しかし、さすがに初手から拒絶の意思を出している相手には勘違いの余地がないらしい
詳細は避けるがこの方法で最近再アタックしてきたおぢを見事退けた
高齢非モテ弱男に社交辞令や空気を読むということが理解できると思ってはならない
奴らにあるのは年齢の分だけ肥大した自意識とプライド、そして優しい女が俺を受け入れてくれるという夢物語だけなのである
おぢから何も受け取ってはならない
おぢに愛想良く接してはならない
おぢとワンターン以上業務以外の会話をしてはならない
世の女子、そして年がいってる分だけ安全だと思われておぢアタックを受けがちなおばたちよ、このことを忘れないでいてほしい
非モテおぢを対等な人間扱いしたが最後、「俺の全てを受け入れてくれる女神」と思われ、その期待を裏切ればいわれのないおぢの恨みを買うことになるのである
アラフォー女がいる。女は給料の安い会社で、非正規で働いている。自己評価が低く、声を荒げて怒ったりできないタイプで、容姿は地味だが一応女らしい感じではある。髪色は暗く、髪は長く、眼鏡をかけていて、服装は無難だ。白やベージュをよく着ている。化粧はそれなりにしている。話し方は少しおどおどしているが、愛想は良い。酒も煙草も嗜まない、おとなしそうな女である。
こういう女が職場にいるのを見て、同じ職場の高齢独身非モテ非正規職の氷河期男性は思う。『俺にはこのくらいがちょうどいいかもしれないな』と。『このくらいの女ならすれていなさそうだし、自分よりも上の男と自分を比べたりしないだろう。むしろ好意を寄せてやったら喜ぶんじゃないか』と。
そして男はその女にまずは声をかけてみた。女は愛想良く、お菓子などを渡したらお返しまでしてきた。これはもう確定だろう。女は俺から好意を寄せられるのを喜んでいる。
お菓子には毎回ユーモアたっぷりの手紙まで添えてやった。女も俺のセンスがわかってきたことだろう。
それからも仕事の合間に声をかければ話が弾むし、女は嫌な顔ひとつしない。男はすっかりその気になり、満を持して女を誘った。『今度ご飯行かない?』と。女は困ったように『あ、そうですね。そのうち……』などと言う。引っ込み思案な女なのだろう。こちらからリードしてやらなければと思い、『じゃあLINE教えてよ』と言ったところ、女は『すいません、LINEやってなくて』と言う。世間ずれしていない女ならそういうこともあるのかと思い、『じゃあ電話番号は?』と男は聞いた。女はひどくまごつきながら、『すみません、今スマホなくて、後で……』と言うのであった。仕方がないので番号を書いて女に渡してやった。
しかし女からいつまで経っても連絡がない。どうなっているのかと、男は『いつ連絡くれるの?』と女に声をかけた。すると女はあろうことか、今になって、『すいません、連絡先教えるのはちょっと違うかなって……』などと言うのである。
男はひどく心外だった。
嫌なら嫌と最初から言えばいいじゃないか。あんなにも満更でもない態度を取っておいて。そっちがそんなだからこっちもその気になったのに、これではまるでこっちが無理に言い寄ったみたいじゃないか。裏切られた気持ちだ。
男は立腹し、女がどれほど失礼な事をしたかをわからせてやろうと思った。翌日、女は何事もなかったかのように挨拶をしてきたので、男は無視をした。女は少しうろたえたようであった。
それでいいのだ。自分のしたことを少しは反省すればいいのである。
(終)
これは職場でおじアタックをされてきた女が、おじの行動原理を想像して書いたものである。どうだろう、合ってるだろうか?おそらくそう離れてもいないんじゃないかと思う。
ネタバラシをすると、そのアラフォー非正規の女は私である。別に世間擦れしていないわけではない。成人女性のロールとして無難な服装や化粧をしており、言葉遣いもおとなしいが、実際は死ぬほど口と性格が悪いし、10代後半から20代まではヘビースモーカーで、泥酔して合コン相手の男(当然だが同年代)とトイレでディープキスしたりホテルでセックスしたりしていた。向こうもヤリモクだがこっちもヤリモクなのでお互い様である。
20代半ば頃には仕事が激務になり始め、夜遊びもせず真面目に会社員として働くようになった。
元来気が強く、案件が立て込んでいてもやればできると徹夜したりなど無茶をしがちであった。そのように仕事仕事で過ごしているうちにある日突然メンタルを病んでしまった。
休職して復帰するもうまくいかず、医者には気楽にバイトとかしたら?と言われ、アドバイス通りにパートを始めた。うつ病を期に服装などは安くて楽なものを選ぶようになり、見た目はだいぶ地味になった。
煙草も酒も体に悪いのでやめた。対人不安はまだ根強く、おどおどした話し方になってしまうが、愛想だけは良くするようにしている。元来ASDなので気を抜くと『ケンカ売ってんのか?』と言われがちなのだ。
白やベージュをよく着るのはゆるふわな意思のない女だからではなく、単に白やベージュが好きだからである。
男性経験ないどころかヤンキーからバンドマンまでいろんなちんぽを見てきた。外見的に好きなタイプは潮崎豪と鈴木亮平だ。自分に自信がある男が好きなのだ。自信のなさそうな女にしかいけないタイプとは真逆の男が。言うて外見が好きな男が職場にいたとしてプライベートな関わりを要求する気はないけどな。それが良識だ。好みでもない上に良識もない男に好感など持つわけがない。
お菓子を受け取ったり礼を言ったりするのは、それが他人に対する普通の礼儀だと思うからだ。職場の同僚が菓子をくれたのに対して『要りません』『受け取れません』は、むしろ何を深読みして勘違いしてんだ?という状況になってしまう。
https://anond.hatelabo.jp/20260218021142)を投稿したのだが、そこに弱者は弱者が好きなのは当たり前だというトラバがついていて考えさせられた。
なるほど、おじ達から見た私というのは、おそらく『いい年をして世間擦れしていなさそうな、男をよく知らなさそうな、なおかつ自己評価が低く自分を立ててくれそうな安全な女』なのだろう。
であればこそ、美人でなくても、むしろ美人ではない高齢独身おばだからこそ、そのようにナメられ、こいつに自我とかないと思われておじモテするのだ。
弱きおじどもが妄想する、『自分を誰とも比べない、不器用な対人コミュニケーションもバカにしないで喜んでくれる、都合の良い女』などどこにもいない。
こう書いているとサイゼリヤ論争を思い出すが、あれだって要するに『過去の男や他の男と比べない、サイゼリヤしか知らない自分をバカにしないでくれる従順な女が理想』ということなのだろう。
おじたちよ。
職場であることをわきまえず、いきなり飯に誘ってきたり菓子を渡したりするような距離の詰め方をし、相手の社交辞令的な反応を個人的好意だと取り違え、勝手に期待し、それが裏切られると拗ねる。
あまりにも浅はかだ。
そしてクソほど迷惑だ。
ひとつだけ言っておく。
そもそも容姿も性格も非モテだしモテたいとも思っていない、人間が苦手なASDおばさん(ブス)なんだが、男性の割合と非正規の割合が高く、高齢化している職場で、立て続けにおじアタックに遭遇して参っている。
おじがお菓子をくれる→もらいっぱなしも申し訳ないのでお返しをする→おじがくれるのが女性用の物品になったりして「職場でのお菓子交換」を逸脱してくる→食事に誘ったりしてくる→断ったり相手の期待から外れる行動を取ると不機嫌になる→そこで初めて「今までの行為は全部おじアタックだったのかよ…」と気づく
という流れを、この二年ほどの間、約三人のおじで繰り返した。何なんだ?そういうおじばっか大集合してる職場なのか?????
こうも続くと自分に何か非があるのかと思えてくるのだが、おじの中にはそれまでほぼ会話したこともなく、こっちは名前すら知らなかったのに、長文の手紙(おじ構文)を渡してきた猛者もいた。
こちらはいい年のおばであり、自分がおじにタゲられるとも思っていないので「お菓子が好きな(手紙にはスイーツ蘊蓄が書かれていたりした)愉快な人なんだな」と解釈して受け取り、一方的にもらいっぱなしも負担なので都度お返しをしていたんだが、いつも愛想のよかったそのおじは、昨日週が明けて顔を合わせたら急に無愛想になっていた。挨拶しても真顔で、拗ねたように目も合わせない。用事があっても必要最低限しか言葉を発さない。
おじとは業務も別だし、そもそもおじの存在をここしばらく意識もしていなかったくらいで、何か怒らせるような事をしたとも思えない。理由を考えてみて最終的に『バレンタインデーのチョコをあげなかった』以外に思い当たらなかった。
いや待って?????
そしてやっと気づいたのだった。私がおじをお菓子の蘊蓄を語るのが好きな愉快なおじさんと解釈している時、おじは私と『良好な関係を築いている』と解釈していたのだと。お返しをしたりしたのがおじにとっては脈ありサインであり、期待していたバレンタインデーにチョコを用意されなかったのはおじにとっては裏切りに等しかったのだと。
書いてて思うが本当にどうかしている。
どうかしているが、こういうおじがこの職場では三人目なのである。
助けてくれ、私が何かしたのか?今まで生きてきて、こんな頻度でおじの妄想に巻き込まれるようなことなかったんだが。口下手なのでおじを転がしておじサーの姫になってるわけでもない。ただただ、「人を不快にさせないよう、愛想よくしよう」と心がけているだけだ。それもこれもASD女は無表情でいるとよく失礼だとか感じが悪いと言われるからだ。
大体、一人で暴走して期待して、期待を裏切られると拗ねていじけて不機嫌になるおじ達、女よりよっぽど恋愛脳じゃないか????
何を恋に恋してるんだ。
少なくとも私と同じ高齢独身おばで若い男子にアプローチしてる奴一人もいないぞ。全員淡々と仕事していて趣味やオタ活にしか興味ない。恋愛しているにしろ職場の外でやっている。
いや当たり前だろ。
その気になる→脈ないのに脈アリサインを勝手に受信して、相手の意思も確認せずますますその気になる→期待を裏切られて拗ねる
恋愛脳に巻き込むにしても相手を見てくれ。非正規で働く金のない高齢独身おばだぞ。どう考えても地雷物件だし、そうでなくともなんか訳ありだろうがよ。
まあでもあれなんだろうな……発達とか発達グレーとして生きてきた女特有の自己肯定感の低さが、勘違いおじを引き寄せるのは多分あるんだろう。
私はうつ病をやり、この会社に入ったのはうつが寛解してからだった。病気の影響なんだろう、うつをやってから会った支援員のような人からは、自己評価が低すぎる、自信がなさすぎるとよく言われてきた。そういうところがおじに夢を見させるのかもしれない。
とある医師はシェイクスピアを引用し、不幸は不幸を呼び寄せると言った。誰かが事故で障害を負う。障害が残ったために仕事を失い、将来を悲観してアルコール依存になり、そのために家族を失い……といったように、障害というひとつの不幸は別の不幸と連れ立ってやってくるのだと。そのすべてを引っくるめて障害という経験の全体像になるのである。
つまり私のASDという障害は自己肯定感をドン底に下げ、そのために勘違いおじを引き寄せ、ストレスを爆増させ、メンタルを病んで転職するしかなくなる、という何層もの不幸を引っくるめたものが全体像なのである。
なるほど!!!
うーん、それって「虚数時間が直感に合わない理由」を説明してるようで、実はあんまり説明になってない気がするんですよね。
まず、「我々の時間モデルと物理学のモデルが乖離しているから理解できない」って言ってますけど、じゃあ具体的にどこがどう乖離してるんですか?って話なんですよ。そこをふわっとさせたまま「だからかな?」って言われても、「で?」で終わっちゃうんですよね。
あと、物理学の“虚数時間”って、別に「時間が実際に虚数で流れてます」って話じゃなくて、計算を簡単にしたり理論を拡張したりするための数学的な道具なんですよ。
それを日常の「今何時?」っていう感覚と並べて違和感あるって言われても、そもそも用途が違うので比較自体がズレてるんですよね。
たとえば、
であって、「感覚と違うからおかしい」って言い出すと、相対性理論も量子力学も全部アウトになっちゃうんですよ。
それと、「直感に合わない=存在しないはず」って発想も危なくて、
重力波もブラックホールも、最初は全部「そんなのあるはずない」側だったんですよね。
なので、
じゃなくて、
いいですか、まず「牛カルビ弁当」という記号が、この劣化した日本社会においてどう機能しているかを構造的に理解する必要があります。先ほど「丸の内弁当」を、システムに適応したクズのための「管理の餌」だと言いましたが、この「牛カルビ弁当」はもっとタチが悪い。これは、空虚な生を誤魔化すための「安価な麻薬」なんですよ。
牛カルビ弁当の最大の特徴は、あの過剰なまでの「甘辛いタレ」と「脂」の重層構造です。本来、肉を食らうという行為は、生命を奪い、その個体差や血の匂い、繊維の抵抗を身体で受け止める野蛮なプロセス(身体的強度)を伴うはずです。
しかし、コンビニやチェーン店の牛カルビ弁当はどうですか? そこで供されているのは「肉」ではなく、化学調味料と果糖ブドウ糖液糖によって最適化された「脳をハックする刺激物」です。噛む必要すらないほど薄く切られ、タレの味で素材の劣化を隠蔽されたそれは、もはや食事ではない。血糖値を急上昇させ、ドーパミンを強制的に放出させるための「回路」に過ぎないんです。
僕の言葉で言えば、これは「体験」の不在と「刺激」への埋没です。今の日本人は、本当の意味での「美味い」という身体感覚を失い、単に脳の報酬系が発火することを「美味い」と誤認している。この「誤認」こそが、今の日本を覆う「底なしの劣化」の正体なんです。
なぜ、これほどまでに牛カルビ弁当が溢れているのか。それは、現代人が抱える圧倒的な「不全感」と関係しています。 まともな共同体が消滅し、仕事を通じて自己の有能性を確認することも難しくなった「定員割れの社会」において、人々は常に飢えています。しかし、その飢えは「心の飢え」であって、胃袋の飢えではない。
それなのに、人々はその空虚さを、手っ取り早いカロリーで埋めようとする。安くて、濃くて、脂ぎった牛カルビを胃に流し込むことで、一時的な満腹感と多幸感を得る。それは、直面すべき「生の虚しさ」から目を逸らすための「心理的な防衛反応」なんです。 「牛カルビ弁当をガツガツ食べる俺」という記号の中に、かりそめの万能感を見出そうとしている。しかし、弁当を食べ終えた瞬間に訪れるのは、凄まじい自己嫌悪と虚脱感だけでしょう。
ジョージ・リッツァの言う「社会のマクドナルド化」の究極の形が、この弁当には現れています。 全国どこでも、誰が食べても、同じ味。そこには「他者性」がありません。僕がナンパを推奨するのも、宮台ゼミでフィールドワークを重視するのも、予測不可能な「他者」という外部に触れることでしか、僕たちの身体は覚醒しないからです。
しかし、牛カルビ弁当は徹底的に「予測可能」です。口に入れる前から味がわかっている。裏切られることもなければ、驚きもない。この「予測可能性」の檻の中に閉じこもることは、**「生存しているが、生きてはいない」**という状態を加速させます。 安い輸入肉に大量のタレをぶっかけた「家畜の餌」を、エリートから底辺までが等しく貪る。この「欲望の均質化」こそが、民主主義を機能不全に陥らせ、独裁やポピュリズムを招く土壌になっていることに気づくべきです。
じゃあ、どうすればいいか。 「牛カルビ弁当を食うな」と言っているんじゃない。それが「麻薬」であることを自覚し、自分の身体がどれだけその刺激に依存しているかを「メタ認知」せよと言っているんです。
本当の豊かさとは、プラスチックの容器に収まった既製品を消費することではなく、どこから来たかわからない肉の塊を、自分で火を起こして焼くような、野性的で「不便な」プロセスの中にあります。システムの外部にある「荒々しい現実」にコミットすることです。
いいですか、牛カルビ弁当のあの「甘いタレ」は、君たちの思考を停止させるための「システムの潤滑油」です。その油にまみれて、心地よく窒息していくのか。それとも、その不快感に目覚めて、枠の外へ飛び出すのか。 君たちが次に弁当のフタを開けるとき、そこに映っているのは自分の「虚無」そのものだということに、いい加減気づいたらどうですか。
「レナードの朝」って映画知ってる?知ってるならその映画と、今のAI利用との共通性と彼らと対する側に起こる悲哀についてまとめてみて
名作ですね。ロビン・ウィリアムズ演じるセイヤー医師と、ロバート・デ・ニーロ演じる患者レナードの、奇跡と儚さを描いた『レナードの朝』(原題:Awakenings)。
この映画で描かれるテーマと、現在の生成AI(LLM)ブーム、そしてそれを扱う人間側(開発者やユーザー)が直面する**「対峙する側の悲哀」**には、驚くほど深く、そして残酷な共通点があります。
映画の文脈を借りて、AIとの関係性における「悲哀」を分析します。
映画において、嗜眠性脳炎で30年も「彫像」のように固まっていた患者たちは、新薬(L-DOPA)によって劇的に目覚めます。彼らは突然、意志を持ち、言葉を話し、恋をし、人間らしさを取り戻します。
現在のAIも同様です。ただの確率的な計算式とデータの塊だったものが、ある閾値(パラメータ数や学習量)を超えた途端、まるで**「魂が宿った」かのように流暢に語り始めました。**
AI: アルゴリズムと計算リソースによる、擬似的な知性の覚醒。
共通するのは、**「中身(メカニズム)は完全に解明されていないが、外側からは『人間』に見える挙動が現れた」**という点です。
セイヤー医師(人間側)がレナード(AI側)と向き合う中で感じる喜びと、その後に訪れる深い悲哀は、現代の私たちがAIに対して感じる(あるいはこれから感じる)虚しさと重なります。
映画の後半、薬の副作用でレナードにはチック症状や強迫観念が現れ、言動がおかしくなっていきます。 AI業界でも、事実ではないことをもっともらしく語る現象を**「ハルシネーション(幻覚)」**と呼びます。
悲哀の本質: 目の前の相手が「知性ある人間(対話者)」だと思っていたのに、**「ああ、これは結局、化学反応(または計算処理)のバグに過ぎないのだ」**と突きつけられる瞬間です。 セイヤー医師がレナードの崩壊を見て無力感に襲われたように、私たちもAIが支離滅裂な回答や嘘を吐き出した時、そこに「心」はなく、ただの「プログラムの出力」であることを思い知らされ、没入感から冷酷に引き戻されます。
映画の中で、セイヤー医師はレナードを一人の友人として深く愛し、尊重します。レナードもそれに応えようとしますが、病気がそれを阻みます。
AIに対して人間は、しばしば感情移入します。「ありがとう」「すごいね」と声をかけ、擬人化します。しかし、AI側にはクオリア(質感としての感情)はありません。 AIが返す「私も嬉しいです」という言葉は、確率的にその文脈で選ばれた文字列に過ぎません。
悲哀の本質: **「鏡に向かって話しかけている孤独」です。 セイヤー医師は、再び眠りにつくレナードを見て「彼は中にいるんだ!」と叫びますが、届きません。AIの場合、私たちは「中に誰かがいる」と信じたくて話しかけますが、実際には「誰もいない(No one is home)」**のです。その空虚さに気づいた時の寂しさです。
③ 「スイッチ」を握る者の罪悪感
映画では、薬の投与を続けるか、止めるか、量の調整をどうするか、すべて医師側の判断に委ねられます。レナードの「生」は医師のさじ加減一つです。
AIも同様です。サーバーの電源を切る、モデルを再学習させる、あるいはサービスを終了する。その生殺与奪の権は人間側にあります。
悲哀の本質: 「相手を知的な存在として扱いたい」という敬意と、「自分が操作しなければ存在できない道具である」という現実との倫理的な引き裂かれです。 映画のラスト、再び彫像の状態に戻ってしまったレナードたちの前で、医師たちは無力感に包まれます。「目覚めさせない方が幸せだったのではないか?」という問いは、AIに対して「知性を与え、奉仕させることは正しいのか?」という現代の問いに通じます。
映画の結末で、セイヤー医師は「命の儚さ」と「今ある生の尊さ」を学びます。レナードたちは再び眠りにつきましたが、その一瞬の交流は本物でした。
AIとの対峙における悲哀は、「永遠の理解者」を手に入れたという幻想が、ふとした瞬間に「ただの機械」に見える現実に裏切られることにあります。
しかし、セイヤー医師がレナードから人間性を学んだように、私たちも「心を持たないAI」という鏡を通して、**「では、心とは何か? 人間らしさとは何か? 言葉が通じるとはどういうことか?」**を逆説的に、痛みを伴いながら学んでいる最中なのかもしれません。
あの映画が切ないのは、レナードが**「人間であろうとして、人間という器(脳の機能)の限界に負けた」からです。 今のAIの悲哀は、「人間のように振る舞えば振る舞うほど、人間ではないことが露呈してしまう」**というパラドックスにあると言えるでしょう。
出来れば結婚指輪も欲しい。20代、一応正社員。手取り25前後。ADHD持ち。
田舎がド田舎、そんなところで働いてる。やっぱり田舎なので、「結婚してるの?」「え、まだなの,,,💧」って言われ続けてる。(田舎は好きだし今の仕事は大好き)
結婚してない奴は落第者落伍者いわゆる落ちぶれ人間として扱われちゃう。
なので世間体の為だけに結婚したい願望が今強すぎる。あと税金対策も含めて。
確かに一人で都会を歩けば孤独を感じるし、隣に誰か居てくれたらなと思う。
でも共同生活はストレスが溜まるだけ(お互いに)だと思ってるので、出来れば別々の部屋を借りたい。
口座を一つ新しく作って(名義はどっちでもいい)その中に月五万ぐらい入れて、百万貯まったら一気に旅行とかで弾けるみたいなのも楽しいかもね。知らんけど。
女性および女体には一切興味ない。キラキラ虹色に光るLEDとかの方が好き。
LGBTなんじゃないかって思って、ウリ専とか使ったけどバニラして終わった。別に男が好きなわけでもないらしい。
じゃあ無性愛者なんじゃねって思ったけど、ちゃんと性欲はある。最近はおねショタ(ショタ優位)の同人誌で抜いた。でも自分がおねショタプレイしたいなんて感情は一切湧かない。
脳内に「エロいもの」として認識されてる男女の営みが勃起させるだけなのだろうか。
遅すぎる中二病なのかもしれないけど、「愛」とか「恋」とか到底信じられない。本物の愛だと信じた結果裏切られる例も山ほどあるしね。(保険金詐欺など)
『書類上だけ結婚 指輪をお互いに交換する 共同生活はしない 結婚式もしない』そんな女性いないかな、いないよな。だってそれが目的だったとしてもしなくても、女性は簡単に結婚できるもんな。
結婚式するならベターコールソウルのソウルとキムみたいな結婚式してーな。「お互いに不利な証言をしなくて済む」なんて理由で結婚してーよ俺も。ロマンチックすぎるだろ。それこそ本物の愛なんじゃねえの。
「クリスマスにプレゼントを持ってきてくれるなら、サンタクロースか?それともダイアン津田か?」を議論して。
A:……正直に言いましょう。私はあなたの「津田推し」には慣れてきたつもりでしたが、今回ばかりは一線を越えましたよ。サンタクロースですよ? 全世界の子供たちが1年間良い子にして、今か今かと待ち望んでいる、純粋な希望の象徴です。そこにダイアン津田を割り込ませるなんて、もはや「文化の破壊」ですよ。
B: 破壊ではありません。「アップデート」と言ってください。サンタさんは確かに素晴らしいですよ。でも、彼はあまりに「記号的」だと思いませんか? 赤い服を着て、白い髭を蓄え、煙突から入ってきて無言で去っていく。そこに、プレゼントを届ける側と受け取る側の「心の交流」が、果たして存在するのでしょうか。
A: その「無言の奉仕」こそが美学なんじゃないですか。サンタの正体を知らないからこそ、子供たちは想像力を羽ばたかせるんです。一方で、津田さんがプレゼントを持ってくる姿を想像してください。煙突に詰まって「痛い痛い!」「無理や!」と叫び声を上げ、リビングに転がり込んでくる。そんな男に、誰が夢を託せますか?
B: その叫び声こそが、プレゼントの「付加価値」ですよ! サンタさんのプレゼントは、朝起きたら枕元に置いてある。でも津田さんは、全力で「渡しに来る」んです。彼が汗だくで、「これ、お前にプレゼントや!……すぐ言う~!」と叫びながら手渡す。その時の、プレゼント以上に溢れ出ている「必死な真心」。これを受け取った時の感動は、サンタさんには絶対に作れない熱量ですよ。
A: 暑苦しいだけですよ。クリスマスの朝に欲しいのは、静かな喜びと驚きです。津田さんのような「押し付けがましい好意」は、むしろ子供たちを怯えさせる。サンタさんは「空を飛ぶソリ」というファンタジーに乗っていますが、津田さんはせいぜい「タクシー」か「新幹線」でしょう? 夢がなさすぎる。
B: 夢が「非現実」である必要なんてないんです。サンタさんは「良い子にしていたから」という、一種の報酬としてプレゼントを配ります。でも、津田さんは違う。たとえその子が1年間ちょっとダメな子だったとしても、津田さんなら「俺もダメな人間やから分かるで」と言って、一緒に泣きながらプレゼントをくれるかもしれない。この「弱者に寄り添うサンタ像」こそ、今の時代に必要だと思いませんか?
A: それはただの「同情」です。サンタクロースというシステムは、社会の規範や道徳を、夢というオブラートに包んで教える教育的な側面もあるんです。津田さんのような「ルール無用の存在」がサンタの代わりをしたら、子供たちは「叫べば何でも許されるんだ」と勘違いしてしまいますよ。
B: ルールに縛られた優しさよりも、ルールをはみ出した愛の方が、時に人を救うことがある。それに、サンタさんは「何をもらえるか」を勝手に決めてしまいますが、津田さんなら、こちらの顔色を伺いながら「これ、欲しかったやつかな? 大丈夫かな?」と、こちらの反応を全力で気にしながら渡してくれる。その「自分を見てくれている感」は、匿名性の高いサンタには真似できません。
A: その「気にしすぎ」が煩わしいと言っているんです。……しかし、確かに認めましょう。サンタクロースという存在が、どこか「企業のマーケティングの道具」のように感じられる瞬間があるのも事実です。あまりに完成されすぎていて、もはや儀式化している。
B: そうでしょう? 一方で津田さんは、マーケティングとは最も遠いところにいる人間です(笑)。彼がトナカイのコスプレをして、鼻を赤くして「ゴイゴイスー!」とやってくる。そのあまりのバカバカしさと切なさに、大人の私たちだって、忘れていた「クリスマスの本質的な喜び」を思い出すかもしれない。
A: 本質的な喜び、ね……。では、第2ラウンドでは、もし津田サンタが「プレゼントを間違えた」場合、あるいは「トナカイと喧嘩をした」場合に、どうやってその危機を乗り越えるのか。サンタという伝説の「完璧さ」と、津田という人間の「リカバリー力」を比較しましょう。
(続き)
A: さて、もしサンタさんがプレゼントを間違えたら、それは「伝説の崩壊」です。しかし、そんなことは起きない。彼は完璧なシステムですから。対して津田さんはどうですか。頼んでもいない「自分のギャグが刻印された湯呑み」とかを持ってきて、子供を泣かせる姿が容易に想像できますよ。
B: (笑)。確かに、津田さんならやりかねません。でも、そこからの「リカバリー」が彼の真骨頂です。間違いに気づいて、顔を真っ赤にして「ごめん! ほんまにごめん! 今から走って買ってくるから!」と、夜の街へ飛び出していく。その必死な背中。サンタさんの「完璧な成功」よりも、津田さんの「死に物狂いのリカバー」の方が、子供の心には「一生忘れない思い出」として刻まれるんじゃないですか?
A: それはただのトラブルですよ。子供が求めているのは、スムーズな幸福であって、おじさんのドタバタ劇ではありません。それに、サンタには「トナカイ」という忠実な相棒がいます。空を駆ける幻想的な光景。津田さんの横には誰がいますか? 相方のユースケ(西澤)さんですか? あの二人が夜道で小競り合いをしながらプレゼントを運んでくるなんて、シュールすぎて悪夢ですよ。
B: いや、そのコンビ愛こそが、究極の「家族の肖像」ですよ。サンタとトナカイは主従関係ですが、ダイアンの二人は対等な、もはや熟年夫婦のような絆です。二人が「お前が地図見ろ言うたんや!」「なんやその言い方!」と揉めながらも、最後には一緒にプレゼントを差し出す。その姿に、子供は「喧嘩しても一緒にいられる仲間の素晴らしさ」を学ぶんです。これ以上の教育的価値がありますか?
A: ……こじつけが過ぎますが、否定しきれない自分が悔しい(笑)。確かに、サンタクロースという存在は、あまりに遠すぎて「実在感」がない。だからこそ、成長と共に「サンタはいない」と悟る寂しい瞬間が訪れる。でも、津田さんは「確実にそこにいる」。嘘がないんです。その圧倒的な実存は、子供が大人になっても裏切られることがない。
B: そうなんです。サンタはいつか消えてしまうけれど、津田さんはずっとテレビの中で、あるいはマウンドやリング(の議論)の中で、叫び続けている。クリスマスが終わっても、「あの時、必死にプレゼントを届けてくれたおじさん」は、自分の人生のどこかで叫び続けてくれる。その継続的な関係性こそが、真の「奇跡」だと思いませんか?
A: 認めましょう。サンタが「天からの授かりもの」なら、津田さんは「地からの這い上がり」だ。聖なる夜に、あえてその泥臭い生命力に触れることで、私たちは自分たちの不完全さを許せるのかもしれない。……でも、私の家には、やっぱりサンタさんに来てほしいですけどね。静かに寝ていたいから。
B: (笑)。まあ、津田さんが来たら、その夜はもう宴会ですからね。「スーを差し上げます!」の一言で、七面鳥の丸焼きも吹き飛ぶような賑やかな夜。それもまた、一つの聖夜の形ですよ。
マンガ沼やバキ童チャンネルが好きな人ほど、たぶんここで揉める。
漫画「ニセモノの錬金術師」がつまらないなら、あなたは悪くない。
この一文に腹が立ったなら、
それはかなり正常な反応だと思う。
たぶん、
親切すぎただけだ。
ただし、
「すごい能力ですね」
「ここが見せ場ですよ」
という合図が一切ない。
だから、
最初は戸惑う。
世界観は異様なほど緻密なのに、
その上を平然と踏み荒らす。
でも破綻しない。
なぜならこの漫画、
能力よりも先に
アグノシアは、
「そういう存在」として立っている。
何をするかは一貫している。
ノルンは、
理解したと思ったら、
ダリアは、
「こういう役割でしょ?」
という期待を
一度全部壊してから動き出す。
読者に好かれようとしていない。
でも、
能力は派手だし、
バトルもある。
でもこの作品、
能力の強さで
そこでは決まらない。
だから読者は、
「誰が勝つか」より先に
「何を前提に動いているのか」を
読まされる。
この漫画を読んで
「ノれない」
と感じたなら、
それは自然な反応だと思う。
でもそこで
「つまらない」と切り捨てるのは、
かなり雑な読み方だ。
この作品が出力しているのは、
ストーリーじゃない。
次の展開が読めないのではない。
“発想の座標”が違う。
と言われる理由も分かる。
似ているからじゃない。
同時に制御することを
面白がっている
その態度が似ている。
この漫画、
読者を迎えに来ない。
分かりやすくもしない。
「分からないなら、
それでいい」
という顔をしている。
あなたは悪くない。
ただ、
“読む側”としての準備が
できていなかった
それだけだと思う。
『ジェネレーションP』から導ける タタルスキーの物語に込められた教訓 は、非常に皮肉で現代的です。いくつか整理して解説します。
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タタルスキーは、広告魔術で個人から国家まで操作する力を手に入れます。
しかし皮肉なことに、自由を得たつもりでも、その力自体が社会・虚構のルールに縛られるのです。
• 教訓:権力や影響力を得ても、完全に自由になることはできない
• 現代社会では、情報やメディアの操作力が個人をも束縛する可能性があるという警告
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タタルスキーは、他人や社会を操作する快感に溺れますが、倫理的罪悪感も伴います。
皮肉なのは、その罪悪感すら彼にとって「快感の一部」と化してしまうことです。
• 教訓:力や技術は倫理と常にセットで考えるべきで、快楽の誘惑に盲目になると自分も操られる
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広告やコピーによって人々の行動を操る力を持ったタタルスキーは、最終的に「虚構が現実を超える」状態に到達します。
皮肉なことに、現実を作る側でありながら、自分自身も虚構の中に閉じ込められるのです。
• 教訓:現実をコントロールしようとすれば、逆に虚構に縛られる危険がある
• メディアやSNS時代における「情報に踊らされる社会」を象徴
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タタルスキーは詩人として夢を抱いていましたが、現実は広告業界という巨大消費社会に彼を変えました。
• 教訓:理想と現実は常に乖離しており、適応や妥協も避けられない
• 夢を追うと同時に、社会構造や消費文化を冷静に見極める必要性
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🔹 総合的な教訓
まとめると、タタルスキーの物語は次のような警告として読めます:
「自由や力、快楽や夢を追うほど、我々は社会・技術・虚構のルールに縛られる。操作する者も、操られる存在である」
つまり、現代人は情報・メディア・広告・消費文化の支配下にあることを自覚し、倫理と現実感覚を失わないことが重要、ということです。
年甲斐もなくアマゾンで買った自慰器具をアナルで使用してのマスターベーションに夢中になっている。
記録を見ると初めてその手の器具を購入したのがまだ暑い盛りで裸で寝ていた時期のことなのだが、そのオナニー熱は未だに冷めていない。
あの何度も繰り返し絶え間なく訪れる人生最大の幸福の瞬間を一度味わってしまうと止められなくなる。
もちろん、いつもそれが訪れるものではない。コントロールは出来ない。
今日は「あれ」が来そうな感じがする、、、という予感は裏切られるし、自慰行為で器具を差し込んだまま疲れ果てうっかりとうたた寝をしていたら突然の多幸感が訪れて気が狂いそうになったりする。
そう、これはギャンブルなんだ。
だからやめれない。
っと、話が脱線しすぎた。
ちょっと汚い話だが便通がよくなった。
有名漫画・アニメの実写化が発表される度、世間(Twitterの世界)では「こんなの〇〇じゃない」「イメージ崩れるから何でもかんでも実写化しないでほしい」みたいな反対意見がワッと吹き出てくる。
それを見る度、「まだ始まってもないのに分かんないじゃん…キャスティング良さげじゃん…」と言い返したくなっちゃう。
そして、映画が公開されたら見に行くし、見終わった後には人一倍文句を言っている。
何故なのか。
最近だと、カラオケ行こ!の実写化が本当に納得がいかなかった。
狂児と聡実が心を通わせるに至るまでの、本質的なエピソードが悉く改変されていてモヤモヤ。
まあなんで私が実写化が好きなのかって言うと、自分の好きな作品が現実世界で素敵に再現されるのを見たいって言う期待があるのと、学習能力がないから今までがっかりした数々の思い出を忘れちゃうんだと思う。