はてなキーワード: リハーサルとは
これは私自身が、また私以外の業界から転職されてきた方々を見てきて、これではないかな?と思うことがあります。
それはプログラマー以外の仕事は、常に本番環境である、ということです。
たとえば営業であれば、取引先との打ち合わせも見積もりも、ひとつひとつが「本番」です。やり直しはききませんし、次の瞬間には社外の人の評価や信頼がかかっています。接客や教育、医療、建築…どの仕事もそうです。人や社会に直接つながっている以上、テスト環境など存在しません。常に結果が「本物」として記録されていくのです。
その点、プログラマーの世界は少し違います。そこには「テスト環境」があり、「デプロイ」という明確な境界があります。エラーが出ても、まずはコードの中で直せばいい。実験と修正を繰り返しながら、本番に近づけていける。失敗から学ぶ仕組みが、仕事の構造として組み込まれているのです。
もちろん、だからといってプログラマーが気楽だという話ではありません。むしろ「テストできる」ことが前提だからこそ、完璧なシミュレーションを作り上げる責任が生まれます。本番環境を一歩でも誤れば、大きなシステム障害につながることもある。
けれど、「試すことが許されている」という点で、プログラマーの仕事は他の仕事とは質的に異なる、と私は感じます。多くの職業では「やってみること」そのものがリスクになるのに、プログラマーだけは「やってみること」が日常の一部として制度化されているのです。
たとえるなら、プログラマーの仕事は「楽屋のある職業」なのだと思います。
多くの仕事は、目を開けた瞬間からステージの上に立たされるようなものです。接客業ならお客さんの前に立った時点で本番が始まっていますし、教師なら教室に入った瞬間に舞台袖はありません。間違えば生徒が戸惑い、客が離れ、取引が破談する——それらはリハーサルのない一回きりの公演です。
一方で、プログラマーは楽屋での準備が長く、ステージに出る時間は驚くほど短い。コードを書く、テストする、修正する。その多くは「誰にも見られない暗闇の中」で進んでいきます。そして、いざデプロイという名の本番を迎えるときには、すでに何十回ものリハーサルを終えているわけです。
そう考えると、プログラマーの面白さは「安心して失敗できる時間」が保証されていることかもしれません。社会の多くの仕事が「失敗しないための緊張」で成り立っているのに対し、プログラマーは「失敗を前提とした反復」で完成に近づいていく。
この違いは、単に働き方の差ではなく、「世界との関わり方の構造の違い」にまで広がっているように思うのです。
その境界線こそが、プログラマーとそれ以外の仕事を分ける根本なのかもしれません。
プログラマーの失敗は、基本的にログに残ります。誰が、いつ、どんなエラーを出したのかが正確に記録されます。でもそのログは、「修正可能な痕跡」であり、「過去をなかったことにできる記憶」です。失敗は恥ではなく、改善のためのデータとして保存される。むしろ失敗を残さない方が恐ろしい——なぜなら、それは検証も再現もできないバグだから。
一方、他の多くの仕事での失敗は、ログではなく「印象」として残ります。顧客の言葉、上司の記憶、誰かの評価。修正パッチは配信できませんし、「新しいバージョンをリリースしました」と言っても、その印象が上書きされるとは限りません。世界が自動でキャッシュをクリアしてくれることはないのです。
だからこそ、非プログラマーの人々は無意識のうちに「失敗を避ける設計」で働くようになります。完璧に準備してから発言する、波風を立てないように動く、見せ方に細心の注意を払う。彼らの本番環境には“try-catch”構文が存在しないのです。
一方で、プログラマーは「例外処理」を書くことを前提に思考する。すべての失敗を想定し、起こり得るエラーを受け止める枠組みを最初から組み込む。そこには、世界を「壊れ得るもの」として見る柔軟さと、「壊れても直せる」という信念がある。
その考え方の違いが、やがて人の思考様式や言葉の慎重さ、さらには生き方そのものにまで影響していくのではないか——そんな気がしています。
覚えておいてください。これから踏み出す世界には、「実行ボタンを押す前にコンパイルしてくれる親切な仕組み」はありません。人の言葉も、会話も、メールも、一度送ったら基本的に戻ってきません。Undoはありませんし、Gitもありません。世界は常にmasterブランチで動いています。
ですから、まずはその“冗長な曖昧さ”を恐れないでください。コードの世界ではif文で整理できたことが、現実の人間社会ではあいまいなまま動いています。それを「エラー」だと考えないでください。人間は仕様書なしで動いているシステムです。バグだらけで当たり前なのです。
現実の世界では、修正にも時間がかかりますし、再デプロイにも人の気持ちというプロセスが関わってきます。あなたが「パッチを当てました」と言っても、相手の心がそれをすぐに適用してくれるとは限りません。
ですから、焦らずに。ログを読むより、人の表情や沈黙を読む方が大切になります。
そして何より大事なのは、「テスト環境がない」という世界でどう生きるかを考えることです。
あなたの言葉は、すべて本番環境に直接デプロイされます。その恐ろしさの裏側には、同時に大きな自由もあります。本番だからこそ、本気が伝わります。人間関係も仕事も、常にリアルタイムで最適化されていくのです。
プログラマーらしい慎重さと、非プログラマー的な即興性。その両方を持てる人は、なかなか多くありません。もしあなたがその橋渡し役になれたなら、どんな職場でもきっと大きな価値を発揮できるはずです。
世界はtry-catchのないシステムです。しかし、恐れることはありません。catchできない例外に出会ったときこそ、人は成長します。これからのあなたのフィールドには、テスト環境の代わりに「出会い」と「経験」が用意されています。それもまた、悪くない環境だと思います。
矢の精度が高ければ高いほど発射時の軌道の再現性が高くなるんだから操作しやすくなるでしょ。
重さとバランスの測定は、当選番号を操作「している」との判断に傾く事情なので、ここで出すべきではない。
柔軟なリハーサルも同様で、リハーサルによって本番環境での到達タイム・位置を得られるからむしろ狙った場所に当てやすくなる。
物理的に考えれば「機械を操作すれば狙った番号に当てられるのではないか」という疑念を抱くのは自然なことです。しかし、宝くじの公開抽せんで使われる「電動風車機」には、不正を極限まで排除するための厳重な仕組みが施されています。
仕掛けをして任意の番号を出すのが事実上不可能である理由は、主に以下の3点に集約されます。
電動風車機は、単にルーレットを回しているだけではありません。
円盤はかなりの高速で回転しており、さらに各桁(ユニット)ごとに回転速度やタイミングが微妙に異なります。
矢が放たれるタイミングは、機械的にあらかじめプログラムされているわけではなく、抽せん会場の「発射ボタン」を人間が押すことで決まります。コンマ数秒のズレで当選番号は全く別物になります。
抽せん機の信頼性を守るために、以下のようなプロセスが踏まれています。
的(円盤)や矢にわずかな重さの偏りがあれば、特定の番号に当たりやすくなります。そのため、抽せん前には極めて精密な測定が行われ、異常がないか確認されます。
本番直前には何度もテスト走行が行われ、統計的な偏りがないかがチェックされます。
抽せん機は普段、厳重に保管されており、メンテナンスや移動の際も常に複数の関係者の監視下に置かれます。
もし「仕掛け」をするのであれば、装置の内部に遠隔操作用のメカニズムを組み込む必要がありますが、これは現実的ではありません。
抽せん機は透明なケースやオープンな構造になっており、怪しい配線や装置があればすぐに露呈します。
抽せん会には、主催者とは利害関係のない弁護士や自治体職員が「立会人」として出席します。彼らの仕事は「不正が行われていないか」を監視することであり、機械のセットアップから抽せん終了まで、すべてをチェックしています。
理論上、物理的な装置である以上「100%絶対に不可能」と断言するのは難しいかもしれませんが、「多くの専門家や監視の目を盗み、高速回転する円盤の特定の番号に矢を命中させる仕掛けを施す」コストとリスクは、宝くじの社会的信用を失うリスクに比べてあまりに大きすぎます。
現在の手法は、現代のデジタル技術(乱数生成プログラム)よりも、むしろ「誰の目にも物理的な動きが見える」という点で、最も信頼性が高いと考えられています。
ってことでしょ?😟
まあ、理解できるよ、他人が描いた漫画だから意外性を感じるわけだし、音楽もそう、
自分が描いたもの繰り返し読んだって、次のページどころか、描いてない次の展開まで考えてるわけで、
でも、うちの母みたいにメシマズの人が料理を作ってくれたとしたら、悪い意外性が発動するじゃん…😟
リハーサル映像を観て確認してるときに、もうエンドレスエイトみたいに、同じことをループしてる感がある、
それは分かるけど、でも、それで、番組制作ってくだんねーな、とはなんないじゃん…😟
自炊に意外性を求めるなら、これとこれって混ぜたらどうなるんだろう、みたいな実験をするとかかな…😟
ただ、予想できない味を求めるときはあるけど、それで失敗して、しかも鍋一杯作ってしまったりすると、
敗戦処理がつらくなるので、精神的に余裕がないときには自分はやらない
精神状態がハイテンションのときに、味に意外性を求めたりしてドバドバ作って、失敗して、
そのあと、躁から鬱になったような状態で、残務処理が遅々として進まない、
予想外にマズい出来になってしまった大量のスープが冷蔵庫に余ってる、みたいになるのは嫌なので、
あと、偉そうなこと言える立場じゃないけど、なんか物を作り上げたときって、ハイテンションになってて、徹夜明けとか、
そのあとバタンと倒れるように寝て、起きて自分の成果物見ると、あれ?駄目じゃん…、みたいに愕然としたり、
逆に、物を作り上げたとき、逆方向でハイテンションというか、うまくできねー!と思って、ふて寝して、
起きて、改めて成果を見てみると、あれ?よくできてるけど、ほんとに俺がこれ作ったのか?みたいなこともあるので、
最近の自分は、マジで認知症なんじゃないの?と思うことが増えたので、寝る前に敢えて明日やるべきことを残しておいて、
それをどっかにメモしておいたり、立ち上げっぱなしのパソコンならメモ帳に書いて、ウィンドウを一番上にしておく、
パソコン立ち上げたら、付箋とか、なんかマークダウン書くエディタでTODOファイルが自動で立ち上がる、
そういう状態にしておいて、物事に詰まったら、さっさと寝る、うだうだ考えて夜更かししない、
寝て起きたら、きっと明日は明日の別の人生があるはず、なんか物語の超展開が起こるかもしれないわけで、考えたって仕方ないし、
みたいな感じで寝るようにしてる…😟
あー、つまり、料理も一度作ったら、それを冷凍するとかして、忘れた頃に取り出して食べれば、
自炊で作った料理も、他人が作ったみたいな意外性が楽しめるのかもしれない…😟
10年前の自分が描いた絵の方が今より上手いじゃん、とか、昔の自分が作ったミニゲーム面白いじゃん、とか、
高市と信者にとっては、中国にいじめられると言う状況こそが望むべき状況。
経済的に搾り上げられるほど、信者間の結束が強まるから、レアアース禁輸とか、観光客減少とか大歓迎。
出来ることなら本当にシーレーン封鎖してほしいとすら思ってるよ。
ついでに言えば、対中強硬発言は日米同盟強化とセットだから、アメリカだってじゃあ金出せって堂々と言えるようになるからアメリカの利益でもある。
中国だって、米中貿易戦争の最中なんだし、レアアース禁輸を始め何年もかけて用意した手札の威力を試すのにいいチャンス。
いきなりアメリカに発動するとバチバチだから、いいリハーサルとばかり2、3発殴ってくるよ。
土下座して許しを乞わせると今度は国際社会の反感を買うから、高市が強がっていられる範囲で、活かさず殺さずの力加減でぶん殴ってくる。
自民党も支持層が磐石化してホクホク顔増えて、中国もリハーサルできてホクホク、アメリカもカツアゲの口実ができてホクホク、三方よしだよ!
新しい仕組みを導入するとき、最初の一歩がとにかく重い。頭では合理的だとわかっていても、実際に踏み出すには心理的な抵抗がある。だからこそ、段階的なテストが重要になる。
最初は一部だけ変更して、既存の動作を保ったまま様子を見る。全体を一気に切り替えるのではなく、リスクの少ない区間で挙動を確認する。これは単なる技術的な安全策ではなく、心の準備でもある。
「失敗したらどうするか」「すぐに戻せるか」──そうしたリハーサルを頭の中で何度も繰り返すことで、自然と次のステップに進む勇気が生まれる。動作テストはコードだけでなく、自分自身にも必要なのだ。
快適に感じる瞬間があれば、それは単なる成功ではなく、設計思想が正しかった証拠。次はもう少し踏み込んで、より広い範囲で試してみる。そうやって、技術も心理も少しずつ前に進んでいく。
きっかけは先週末のライブだった。 もっとも、あれをライブと呼んでいいのかはわからない。
あの退屈な数時間がライブなら、小学生の頃に同級生のゴダイ君がやっていたハサミ回し、通称メガドラゴンハサミトルネードだって立派なライブである。
とにかく、散々な週末だった。
先に断っておくと、普段から彼のことを推しと呼んでいるわけではない。
この文章を読んだギャルに、バカ読みやすくて草、と言われたいので、ここでは推しという言葉をあえて使っていく。
最初に見たのは寿司を買って食うだけのなんてことのない動画で、その妙な脱力感に惹かれた。
てっきり同い年くらいの大学生YouTuberかと思っていたが、しばらくたってから吉本に所属している芸人だとわかった。
推しは同期の芸人と合わせて三人で活動をしていた。三人ともそれぞれ魅力があったが、俺は断然推し推し、つまり推しのことが一番好きだった。
彼のことを一番面白いと思っていたし、俺も推しもシングル家庭で育ったという共通点があり、それで勝手に親近感を覚えていたというのもある。
余談だが、親戚がいない者にとって夏休みほどその現実を思い知らされるものはない。
俺はこの話になるといつも、小学校に上がりたてだった頃に見た光景を思い出す。
昼下がり、プールの更衣室でクラスメイトたちが夏休みの予定を楽しそうに話していて、俺はそこではじめて、世の中の家庭には祖父母の家に遊びにいく習慣があることを知った。
俺は哀れみの目を向けられることを恐れ、とっさに「来来来来来週いく」と嘘をついた。作り笑いをすると頬がピクピクと動くことをはじめて知ったのもそのときだった。
更衣室に充満した塩素の匂いのせいで、鼻の奥のあたりがツンとした。
推しを見ていると、プールの更衣室で顔を引きつらせていた俺の少年時代が、少しずつ救われていくような気がした。
もしここにゴダイ君がいたら、アルティメットホワイトヒーロー、と彼のことを呼んだだろう。
推したちはあれよあれよという間に数十万人のフォロワーをかかえる人気YouTuberとなった。
芸人のライブは女性客が大半だとうわさに聞いていたのでひょっとすると場違いなのではと案じていたが、意外にも男性客はたくさんいた。
ずらりと埋まった客席に彼らの人気ぶりが伺えた。はじめて生で見る推しの姿に思わず胸が熱くなったのを覚えている。
そして数ヶ月後の全国ツアーも発表され、ギャルの言葉を借りるなら、コイツらの未来ガチ明るすぎなんだが、と思っていた。
しかし、油断すんなし。
公式から突然「スタッフになりたいファンを募集する」と発表されたのである。
ファンを?
スタッフに?
好意的に受け止めるファンもいたようだが、俺の中のギャルは、マ?大丈夫そ?と不安げな表情をしていた。
そもそも推しのライブは、元テレビ局員だという外部のプロデューサーがすべてを取り仕切っていて、どうやら彼の手伝いをしてくれる人を探しているようだった。
当該ポストがすでに消えているため確かめるすべがないのだが、たしか応募する際には得意分野をアピールしてほしいと書かれていたはずで、プロデューサーはそういった条件から、言うなれば精鋭の「ファンスタッフ」集団を選抜した。
そんな中、全国ツアーはおこなわれた。
会場は前回の倍以上も広くなり、俺と推しとの距離はずいぶんと遠くなってしまったが、彼は相変わらずアルティメットホワイトヒーローだった。
が、しかし。
いや、やはりというべきか。
ファンスタッフが生まれたことをきっかけに、「推し」「運営」「ファン」の境界線がどろりと溶けだしたのである。
精鋭のファンスタッフとはいえ、普段の彼女たちは「最高すぎた♡」「好き♡」などと発信しているただのファンにすぎない。
しかし、ライブ後には一転して「ご覧いただきありがとうございました。皆様のおかげで〜」と運営らしくふるまうのである。
ファンと運営とを都合よく行き来する様子に、首をかしげる者も少なくなかった。
そして同時に「推し」と「運営」との線引きも曖昧になり、なれあいが加速した。
言うまでもないがファンが見に行っているのは推しであり、推しのサポートをするのが運営である。
しかしあろうことか、プロデューサーやファンスタッフは自らステージに上がり、推したちと肩を並べて公演に参加するようになった。
こうなってしまうと、もはや「推し」と「ファン」との境界線などあったものではない。
本来なら外に出ないはずの情報を、ファンスタッフたちはレポと称してSNSで得意げに公開した。
たとえば推したちから受けた細かな指示のことから、ステージ裏で見た彼らの姿まで。
こうなると気になるのは一般ファンの反応だが、我々は大きく二つに分かれた。
俺に限って言えば、推しと公式以外のフォローをすべて外すことにした。俺が求めていたのはあくまで推しと俺というシンプルな関係だけだった。
中には推すこと自体をやめてしまった人もいたのだろうが、彼らは大抵静かに去った。
彼らは仲間になるためにプロデューサーやファンスタッフの仕事ぶりをこれでもかと持ち上げた。
それで気をよくしたのだろうか、スタッフたちは音声配信やオフ会などの交流を盛んにおこなうようになり、SNS上での存在感をさらに高めていった。
さて、今回の本題であるライブが発表されたのは、まさにこの混沌のさなかのことであった。
発表されたライブ情報を見てまず気になったのは、会場の規模が前回の半分ほどになっていたことである。
販売サイトに表示された「残席余裕あり」の文字はいつまで経っても変わらず、公式SNSには「残りわずか、お早めに」と景気のいい謳い文句が並んでいたが、やがてひっそりと消えた。
会場へと向かう電車の中で、俺は以前フォローしていた人たちのアカウントを久々に覗いた。
「今日楽しみ」「グッズ列やば」と何一つ変わらない様子のアカウントもあれば、半年以上放置されアイコンの上に埃が溜まっているようなアカウントもあった。
車窓の向こうには知らない町が見える。
降りる駅はまだまだ先だったが、ずいぶんと遠くまで来てしまった気がした。
その日の東京は38度を超える猛暑日で、会場へと辿りつく頃には、俺の顔はほとんどアイスクリームのように溶けていた。
人だかりを抜けてロビーへと向かうと、ちょうどそこにはプロデューサーがいて、複数のファンに写真をせがまれているところだった。
プロデューサーは待ってましたとばかりに撮影に応じ、それから二、三言葉を交わすと、さながら池の魚にエサでも与えるような手つきでキャンディを配った。
これはあとから聞いたことだが、どうやらプロデューサーとのひみつの合言葉を伝えた者だけが貰えるキャンディだったらしい。
手渡されたキャンディに喜ぶファンたちの姿は、まるでパクパクと口を開けてエサをねだる魚のように見えた。
ならばこの場所は底の見えない不気味な池といったところか。
もしここに小学生の頃のゴダイ君がいたら、きっとプロデューサーに近づいて、デュクシ、としただろう。
でも俺は大人なのでやらない。
そして誰かが言っていたように、グッズを求める人たちの列は延々とつづいていた。
その列の先では、ファンスタッフだろうか、ひとつひとつ電卓を叩いている姿が見える。
開演までには明らかに間に合わない。
どこからかハンディファンの風が吹いてきて、生ぬるい空気が頬に触れた。
そしていよいよ幕が上がる。
正直なところ、このときの俺には彼らに寄せる期待などほとんど残っていなかった。
だから公演のさなかにプロデューサーがいそいそとステージに上がったときも、そしてなぜかひとりで踊り始めたときも、もはやがっかりする気力すらなかった。
それでも推したちに対しては、心のどこかでわずかに期待を抱いていたのだろう。
彼らの、打ち合わせもリハーサルもろくにせずに臨んだことが一目でわかるような終始ぐだぐだな空気感と、そしてそれを隠そうともしない姿を目の当たりにして、自分の目から急速に光が失われていくのがわかった。
それから推したちは客席のひんやりとした空気を察したのか、「これにいくら払ってるの?」「返金しないと」などと冗談めかして笑った。
俺の席は前回よりもはるかにステージに近かったはずだが、推しの姿はずいぶんと遠くに感じた。
帰り際、ぽっかりと空いた二階席の後方あたりが目に入り、かつてそこにいた人たちのことを思い浮かべた。
数ヶ月前のことである。
「三人のことを見たいのにスタッフの声が耳障り」と。
それだけならさして話題になることもなかっただろうが、このコメントに推し本人が返信をしたことで、にわかに注目を集めた。
「もう今後見ないでください」
やがて書き込みは跡形もなく消えた。
そしてそこには「言ってくれてありがとう」「こういうとこ好き」などという称賛ばかりがいつまでもこだました。
この人の胸中を思うと、ひどくやるせない気持ちになる。
ゴダイ君がイップスを発症し、泣く泣くメガドラゴンハサミトルネードからの引退を余儀なくされたときと同じくらい、切ない。
ただひとつ、俺に言えることがあるとすればこの場所はどこまでいっても「彼ら」の池だということだ。
彼らというのは、この池の水温も生態系も、それからキャンディの味すらも愛してやまない魚たちのことで、そうじゃない魚は波を立てずに去るよりほかない。
あいにく俺たちは人間で、背びれも尾びれも持たないが、どこへでも泳いでいける自由ならある。
そして一週間が経った。
真夜中のコンビニを出ると、先週よりもずいぶんと涼しくなっていて、あの頃の夏を思わせる。
あれは何年生のことだっただろうか。
俺の通っていた小学校では夏休み明けにラジオ体操カードを提出しなければならなかった。
クラスでたった一人、俺だけが満点花丸の皆勤賞で、担任の先生はご褒美に特別なキラキラシールを貼ってくれた。
クラスメイトたちは口々に羨ましがったが、俺にとっては彼らの空白だらけのカードの方がよっぽど羨ましかった。
それからクラスメイトたちは、テレビもゲームも禁止されていた祖父母の家がいかに退屈だったかを話し、テレビを何時間見ても怒られない俺の生活がどれほど恵まれているかを熱く語った。
俺は大人ぶって「あの深夜のアニメのヒロインがさ」などと言ってみたりしたが、むなしくなるのは自分だった。
俺が本当に見たかったのは、彼らの語る変な匂いのする畳の部屋だとか、吠えてばかりの犬だとか、星しか見えない田舎の夜なのだということは、結局誰にも言えなかった。
しかしあの頃の記憶を思い出すのは、昔ほど嫌なことではなくなっている。
ゴダイ君は元気だろうか。
少年時代の俺を助けてくれたのはキラキラシールでもなく、アニメのヒロインでもなく、いつか未来で出会うアルティメットホワイトヒーローだった。
心地よい風が吹き、季節は秋へと向かう。
女優さんが脱ぐのは絶対に性加害由来だと思う。一定レベルの普通のサラリーマンなら最初から「脱がせよう」とは思わないし、サービスカットとして濡れ場が必要ならAV女優が脈絡なく出てくるシーンを追加すればいいだけの話で。今になって性加害ブームが起こっているのは、そもそも映像業界が掃き溜め人材で構成されていて、業界人の誰もが「女優なら脱がせたい、セックスしたい、手籠めにしたい」という発想を持っている人が多いから。一定人材なら、そんなことはもともと思わない。サラリーマンの中にもアル中で出社前から飲んでくる人もいれば、毎朝痴漢に勤しむ趣味の人がいないわけではないが、暴力とか性加害とかの規範意識の低さは、もともとの人間性としてそれ相応の人材が多くなるが、あまり差別になるから言ってはいけないムードがあるだけで。
小中学校で勉強もしたくない、部活もしたくないといった子が、高校を中退してドロップアウトして、そうした人材にいきなり芸能の現場を任せても、最初から基本的な規範意識を持たせるところから始めなくてはならない。サボらずに継続する、言われたことをやる、期限を守るといった社会の基本が身についていない。そんな人に何かをやらせるには、結局、長時間拘束して地獄のようなリハーサルをやるしかなくなる。「その場では手を抜けない」状況に追い込み、支配して人格否定を繰り返すしか手段がない。実に非効率。
本来なら、事前に「これこれをやってくれ」と打ち合わせし、各自が仕込んできたものを持ち寄り、現場で調整するだけでいい。それは普通のサラリーマン人材がやっている「発注手配作業」。
人格否定も必要ないし、根性論も不要。普通のサラリーマン人材なら「こうやれ」と言われればその通りにやる。時間も無駄にならない。手戻りのバッファが多い場合はそれ相応の下位企業になる。
海外の演劇教育では、人間のベーシックな規範意識を土台に、技術としての表現を積み重ねて、声楽科であれば、大学の年数をかけて声を育て、技術として成果を出す。
声出しは根性論ではなく、完全に技術教育なので、小中高で規範意識がきちんと育っていれば、基本的にサボらずにやるというのベースで、そこからの伸びは圧倒的に違う。
演劇・歌唱を教える人、映画監督に「掃き溜め人材」出身が多いとなれば、当然ながら暴力や性加害が起きやすくなる。普通のサラリーマン人材なら、映像写りの部分では一生懸命やってしまうかもしれないが、仕事は仕事で女性を手籠めにするという発想自体がない。
企業も、なぜそんな大金を広告企業に出し続けるのか。けっきょくテレビという電波の独占構造があり、一定規模以上の金額を出さなければ、継続的にテレビで商品をアピールさせてもらえない。
中間の広告産業がなぜあれだけ立派なビルを建てられるのか。ドラマやCMの制作費、タレントのギャラを積算し、実際に下請けに使われる金額だけで見積もれば、半分以下で済むのは明らか。
規範意識のない「掃き溜め人材」のタレントを使う必要はない。ちゃんと学校を出ている人材を演者として選んでも演技の水準は大して変わらない。
怪優のような個性的な人間も、演劇学部で徹底的に分析すればいい。
そこにスポンサー経費をかければ、不貞行為や性加害が発覚して、せっかく作った全国規模のキャンペーンやポスター、POPなどを全部作り直すといった無駄も減る。
地元のチンピラ子ども育ちを起用し続けていれば同じようなことの繰り返しにしかならない。
最近の流れでは中学生から芸能人を始めて数年活動して満足したら大学入学と同時に引退するようなモデルである。
もう随分と前の、そこら辺にゴロゴロ転がっていたであろう、取るに足らないありふれた話。
若手に多くの活躍の場を、とうたわれた
ひとりの男性楽器奏者が主催の、歌手を募るライブのオーディション。
歌手を目指して夢いっぱいの、若かりし女はそれに合格し、本番に備えリハーサルへ。
スタジオを指定され、その最寄り駅で男と待ち合わせをすることに。
電車に乗り、駅への到着予想時刻を事前に連絡すると、
返ってきた文面は「待ちくたびれたよ。罰として××ね」
????
女がこの男に会うのは、そのオーディションを除いて初めてである。
もちろん遅刻もしていない。
嫌な予感しかしない女だが、もう駅への到着まで僅か。
乗ってしまった電車、もうすぐ到着すると送ってしまった連絡、掴んだように思えたチャンス。
色んなことが頭を掠めるも、電車は駅に到着し、女は男と落ち合った。
2人きりではあるが、真面目な進行に少しばかり安心したのもつかの間。
「そういえばさあ。罰を与えなきゃね」
人気のない防音室。
ひとまわり以上は歳上だったであろう、男が立ちふさがる。
なるほどねーーー。
こんなに使い古されたような手口だなんて、何とも馬鹿でしたねえ。
同様のことが多発していたようだ。
「辛い過去をバネにして」
学生時代に壮絶ないじめを受けたが、努力で人生を大逆転させたとのこと。
そのあとは、色んな方にあんなことをしていたようでしたが。
当時が令和の世でなくて良かったですね。
この件は着いて行った奴が悪かったと反省した女。
この世界ってやっぱりこういうことか。とある意味合点がいった女。
だけど、今は令和なのでね。
今更かよってね。
ま、ありふれていた話ですからね。
「分からない動きを私が聞くと、イライラしていた様子だった。ある時には
『この程度の動きは、58歳の私の父でも教えればすぐにできるようになる。私をキレさせんな』と怒鳴られた」
しかしリハーサルや補講の日時が事前に聞かされていた日程から変更されていたが、橋本被告には連絡がなかったという。後日教室を訪れた橋本被告が
「なぜ変更内容を伝えてくれなかったのか」と女性に尋ねると、
と一言でもあれば許せていた。
しかし女性は『次のレッスンもあるので帰ってください』と言った。さらに発表会を撮影したDVDには出演者のインタビューも収録されるが、インタビュー撮影に呼ばれていなかったことが分かった。
被告男は言った。「支払うべき代償は指1本。正当な報復だった…」 強制退会を逆恨みしつつ奇妙な自己抑制も
https://www.sankei.com/article/20170108-NWEWZTEUH5JGTHSPURT73X2UFQ/
もし,あなたが私の立場であるなら,あなたは直接素直に自身の感想を友人に伝えられるだろうか.
もし,あなたがこの友人のような立場であるなら,あなたは直接素直に感想を伝えられて嫌じゃないだろうか.
ぜひ教えてほしい.私はもし自分がこの友人の立場だったなら……と考えてもうまく想像できない.
この文章が友人に届くことはないだろうから,おおよそそのままを書く.
私と彼は子供の頃からの友人だが最近は年に一回ラインで連絡をするかしないかぐらい関係だ.彼は最近ノリに乗ったイケイケのボカロPで企業やメディアとタイアップしていたり,製品を使用しているアーティストの声みたいなのに彼の名前が載ってたのを見たときは随分と遠い存在に感じた.
私は彼がそのボカロPだということを知るその前から,彼のボカロPとしての曲を聞いていてファンだった.彼がそうなのだと知ったときはそれはそれは驚いたが,身近な人間が自分が好きな曲を作っているのだと謎のわくわくと彼に対する尊敬の念を覚えた.同時に私の彼に対するイメージに"有名なボカロP"が加わった.
最近,彼も演奏する音楽イベントにタイミングがあい参加することができた.参加する前,テンションがあがっていた私は彼に参加することを伝えていたが,その時にはすでにリハーサルをしていたので見ていなかった(それはそうだ)と終わってから連絡がきた.
彼が自身の曲を演奏していたときにはその場にいる人全員がその日一番の勢いで盛り上がっていて,こういったイベントにあまり参加したことのない私には衝撃的だった.彼は自身の出番のあと足早に帰宅したようで,その日私が彼と直接会うことはなかった.
私は普段何か作品を見たりイベントに参加してもその感想をインターネットで発信することはなく,もちらんファンレターのような形で作者に直接感想を伝えることもない.他の人の感想なんかを読みながら,自分だけでその体験を反芻するような人間だ.ただ,どうしてもその時は彼の演奏がとてもよかったということを彼に直接伝えたくなった.
伝えたいことはいくつもあった.彼の曲がアレンジされその場限りで聴くことができた特別感,自作曲以外の有名でない曲でも場を盛り上げるスキル,演奏する真剣な姿がすごく格好良く見えたこと,他にもよかったと思った点がたくさんある.
だが私はそれらの感想を彼に直接伝えることを躊躇した.私と彼は立場が違うのだと気後れしたのだ.曲をアップなんかしていない一般人の私は彼と同じ土俵にいないから仲間内からの言葉というわけでもない.私はそのボカロPのいちファンであるわけだが,他のファンはその感想を彼に直接伝えることはほとんどできない.それなのに自分は友人だから,直接連絡できるからと連絡していいのだろうか.作者から必ず返信がもらえるファンレターを書くなんて単純にずるいんじゃないか.
そんなことを考えた私は結局「今日の演奏よかったよ」とだけラインで送信した.この日彼とイベントについての他の話はしたが,彼の演奏についてはこの「よかった」という感想だけしか伝えられなかった.
既に亡くなって久しい日本人指揮者が、英語圏の某国のオーケストラを振ったときに経験した話。
あるときの演目で、オケのパートとしてピアノが加わる曲があり、その練習でエキストラのピアニストが参加した。
なお、そのピアニストは今で言うところのLGBTに当たる属性が、その国の音楽業界では有名だったそうな。
それで、ピアニストは元々用意されたパート譜の書き方に不満があるとかで、自筆のパート譜だけを現場に持参してきた。
しかし間抜けなことに、この自作パート譜の内容に思いっきり不備があり、曲の途中から演奏開始するタイミングで、必ず指揮者のスコアを覗きに来る始末。
ちなみにプロオケの練習は通称リハーサルというのだが、内容的には練習というより「申し合わせ」に近く、しかも基本一回のみ実施。
その一回の時間も限られているので、とにかく一分一秒が惜しいのだ。
だからこそ、件のエキストラの下手というか、時間の浪費でしかないアホ過ぎる言動に、指揮者はもちろんオケも苛立ちを募らせていったと。
そんな中リハが進んだところで、とうとう指揮者がキレた。
"I don't know how about your part!!!"
途端にオケ全員がワァーーーーッ!!!と大歓声を上げて拍手喝采、大爆笑の大ウケになってしまった。
その後ピアニストは妙にシュンとなってしまい、実に大人しくなったと。
なお日本人である指揮者が、なぜそこまで自身の叱責がオケにウケたかを知ったのはリハ後の楽屋(個室)で、コンマスだか誰だかが代表して来室し事情を説明してからだったとのことで、英語の難しさを痛感したらしい。
ということで、読者諸兄はなぜ現場がこんな大盛り上がりになってしまったか、おわかりいただけただろうか??
結論から言うと、間抜けな楽譜についてオケの気持ちを代弁した叱責を行い、かつ彼の性的指向をからかう、ネイティブだったら天才的な洒落になってしまったというわけ。
「お前のチ◯コのことなんか知るか!」
それで問いたいんだけど、今だったらこの発言は、日本人であっても許されない暴言扱いになるのかな?
読者の皆さんのご意見をぜひ伺いたいです。