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2026-04-07

映画アナ世界の終わり を見た

青春残酷物語ミュージカルの佳作。66点。

 

田舎町でJK主人公は母の死後過保護になった父親や優しいだけの幼馴染に囲まれた退屈な日常ウンザリ。都会の大学に進学する野望を胸に鬱屈とした日々を送っていたが、ある日、彼女らの街でゾンビパンデミックが発生。学校の愉快仲間達やジョックスとのサバイバルが今始まる。

みたいな話。

 

何も知らんとティーンズゾンビ映画と思って見始めたら学校に行くや否やいきなり歌い出して、こういうギャグなのかな?と思って見ていたら、食堂で2発目も発動して「ゴリゴリミュージカルやないか!」となった。で、その楽曲パフォーマンスがよくてねぇ。昨今のティーンズミュージカルらしく、ポップで耳当たりのいい楽曲歌詞登場人物人物紹介と現状の心境を手際よく紹介する手腕。

特に白髪レズの子の歌がめっちゃよくて驚いた。ちなみに主人公のビジュがどちゃくそよくてすごい。

そして2曲披露しておおよそすべての登場人物を紹介し終わって、翌日、ちょっと寝坊した主人公が、でも「なんか今日はいつもと違う気がする!」とイヤホン音楽を聴きながら「Brand New Day!」と高らかに歌い上げる後ろでドーン・オブ・ザ・デッド(ってかショーンオブザデッド)の冒頭よろしく世界ゾンビパンデミック阿鼻叫喚になっているという、たしかBrand New Dayだけどさぁ!っていう展開は「いや流石に気付くだろ」と思いつつも皮肉が効いててよい。

そしてまぁそこからは友人たちとボウリング場に立てこもるもゾンビがやってきて戦ったり、家族に会いに学校に行く途中にジョックスと合流し、ジョックスたちは軽薄な若者らしくゾンビ狩りを楽しんでいたり、その道中でわざわざ危険ルートを選んだ結果、ジョックスの仲間を失ったりとゾンビ映画あるあるを陽気な楽曲とともにこなしていき、学校家族と合流と思いきや、嫌味な校長暴走していて「やっぱり一番怖いのは人間だよね」といういつものやつになって最終的にはそいつを倒して生き残った仲間と車でどこかに走り出して終了。という、ゾンビ映画で100万回みたやつでおわる。

 

個人的にえぇ~と思いつつ、そうなるよなぁと思ったのは、主人公学校での仲間は主人公に思いを寄せる優しい幼馴染とラブラブカップルの3人、それとは別に嫌味なジョックスがいて、銀髪レズだけど心根が優しい不良少女がいるが、生き残るのはジョックスと不良少女主人公。仲間たちは次々とある意味無意味な死を遂げていく。

そして途中で主人公ジョックスは実は肉体関係があるも、そこから何となくすれ違っていたことがわかる。

ジャパニーズオタクカルチャー的に考えればゾンビパンデミックという非日常の中で優しい幼馴染の気持ち主人公が知り思いが通じるということになりそうだがそうはならない。死ぬ。ついでに最後には父親死ぬ。まぁそこかしこキスしまくってたバカップル文法的死ぬのはしょうがないけどさ。

でもこれが鬱屈した日常に飽き飽きしていたJKが非日常の中で道を切り開く物語だとすれば理屈が通じる。死んでしまった幼馴染みもバカップルも清掃員の父も、嫌味な校長も町の人たちも。みんな境遇に不満はあってもある意味で現状に固執する人間であり、主人公庇護するものとして描かれている。

しかジョックスは反発しつつも主人公を変えてくれる存在であり、必要であれば父親も殺す現状を変える人間として描かれているし、不良少女も現体制に反抗し日常ではなく世界を良くしようと活動している人物。つまり社会庇護の中にあった子供だった主人公がそれらを失って新しい世界へと歩み出していく物語として、仲のいい人ばかりが死んでヘンな奴ばっかりが残るのはある意味で正しい。

でも優しいだけの幼馴染が恋愛競争に敗れて、暴力的ジョックスが生き残るのは青春リアル残酷さが描かれていて正直、ちょっとしょんぼりしてしまった。

 

ゾンビ映画としてのゴア描写はしっかりしているし悪ふざけみたいなゾンビ虐殺シーンもちゃんとあるし、悲劇的な別れも、バカみたいな別れもちゃんとあるミュージカルにしてしまたことで正直、緊迫感は薄れてしまったなとは思うんだけどゾンビ映画のパロディコメディとしては十分な点を挙げられると思う。

ゾンビ映画とミュージカル映画の両方が好きって層には普通にオススメガチゾンビ映画が好きな層にはもしかしたら微妙かもしれない。

2026-04-06

映画処刑人 を見た

いやもうタランティーノ好きすぎ侍。56点。

 

ボストン精肉店で働く双子敬虔クリスチャンである主人公たちはある日、行きつけのバー地上げにやってきたロシアンマフィアもめごとになってしまい、いろいろあって彼らを殺害事件解決にスゴ腕すぎるゲイデフォーFBI捜査官が乗り込んでくるも、2人は自首相手マフィアやし市民の反発もすごそうやし、まぁええかとなり主人公たちは留置所に泊まるがそこで「悪を倒せと轟叫ぶ」と神の啓示を受ける。処刑人として悪の駆除活動を始める彼らとそれを追うデフォー、そしてマフィアたちの戦いが幕を開ける。

みたいな話。

 

っていうかそれ以上でも以下でもないというか。

もめごとになる→カットが切り替わって警察現場に駆け付ける→デフォーが神がかった推理披露する→実際の映像流れるという、意図的時系列前後交錯させる編集がもうタランティーノっぽいし、音楽の緊張した場面で敢えて明るい音楽をかけるところとかもぽい。

なにより、主人公たちの仲間になるイタリアンマフィアの下っ端がボスに呼ばれてジョーク披露させられる場面があって、それがめっちゃ皮肉の利いたいいジョークなんだけど別にそれがストーリーに何も絡んでこない。ストーリー無関係な小粋な小噺差し込むのはもう自認タランティーノなんよ。

そしてタランティーノ映画ありがちなんだけど役者がめちゃくちゃいい。今やミスターウォーキングデッドと化したノーマン・リーダスデビュー当時のピチピチの姿が見られるし、兄貴役のショーン無鉄砲ながらも繊細な役をよく演じていた。そしてデフォーだよなぁ。捜査にのめり込みすぎる没入型推理を怪演としかいいようがない演技プランで演じきっていて本当にすごい。

 

いっぽうでストーリーとしては個人的には宗教の嫌なところ出てるなぁって感じがして個人的にはあんま好きになれない。もろちん、一貫性担保されていて元々デフォー主人公たちのことをひどく嫌悪して逮捕しようと躍起になるが、後々彼らの活動賛同し始め最終的には協力者になる。これは最初殺人が彼らの因縁から始まった喧嘩の延長線上だったからで、その後、留置所で彼らが福音を受け神の処刑人になって「正義」を執行するようになったからと思われる。

デフォー自身の考えを改めるシーンは自分に自信がなくなり自暴自棄になって泥酔したデフォーフラフラとそれと知らずに教会侵入し、告解室で眠りこけてしまうというバチ当たりな行為に及ぶ。そこで主人公たちの味方のイタリアンマフィアが彼を始末しようと告解室の神父側に侵入し、あわやと言うところで主人公に止められ「神の助け」によって命を救われたデフォーが(そうとは知らずに)悔い改め神の下に下るという展開もナンダカナーって感じ。

そして最終的に謎の殺し屋主人公たちと同じ神の戦士だったことが分かり、神のファミリーが結成され最後裁判所で神に変わって裁きを下すところで話が終わる。というのが、なんかもうカソリック教徒だけど日本人感覚として正直ちょっとウゲゲとなってしまう。

そんな中で最後インタビュー映像として彼らのしていることが正義なのか悪なのかそれぞれの意見の住人を映すことで絶妙バランスを取ろうとしている姿勢は感じられた。

 

アクションに関してはまぁ良くも悪くもないという感じで、天井に吊るされてぐるぐる回りながら撃ったりとか、黒い前開けスーツでのスタイリッシュな銃撃とかはその後のアクション作品にいろんな影響があったんだろうなと思いつつも、見てる俺が令和だからこれが新しかったのかこれもパクりなのかよくわからんなぁという感じ。

下っ端の仲間が両手を広げて二丁拳銃で銃撃してその後、その腕を交差してまた撃つという典型的スタイリッシュ銃撃をギャグ的に消費している点は、タランティーノフォロワーらしい冷笑仕草で俺は結構好き。

 

まぁそんな感じかな。

タランティーノフォロワーとしてのコメディスタイリッシュアクションとしてはそれなりの強度は確かにあると思うし、役者もいいしこういう映画が好きやねんという層が確かにいるのはわかるしその層にはオススメはできるけど、個人的にはあんまハマんなかったかな。

2026-04-04

多世界解釈はなぜ意識の介在を要請するのか。絶対的ユニタリ進化死角

量子力学多世界解釈(MWI)を信奉する論者の多くは、一種知的な潔癖さを重んじる傾向にある。

彼らは、観測に伴う波動関数の収縮という概念を、理論の美しさを損なう数学妥協として退ける。

宇宙単一の巨大な状態ベクトル |Ψ⟩ で記述され、それはシュレーディンガー方程式 iℏ ∂|Ψ⟩/∂t = Ĥ|Ψ⟩ に従い、いかなる例外もなく絶対的ユニタリ進化を続ける。これが彼らの出発点だ。

この純粋物理主義的描像において、観測者の意識が介在する余地はない。環境との相互作用によるデコヒーレンスのみで宇宙記述は完結し、意識物理系に影響を与えるという発想自体を、前世紀的な神秘主義への退行として冷笑的に眺めている。

しかし、この冷徹な態度は、皮肉にもMWIが孕む最も深淵存在論的欠落を露呈させている。

理論を極限まで突き詰めるならば、論理的必然として意識は周辺的な随伴現象ではなく、理論整合性担保する中核的要素として回帰せざるを得ないのだ。

 

MWIの開祖ヒュー・エヴェレット3世提示したのは、観測という行為を系(S)、観測者(O)、そして環境(E)の量子もつれエンタングルメント)の形成プロセスとして記述する、極めて数学的に美しい描像であった。

全体系のヒルベルト空間を H = H_S ⊗ H_O ⊗ H_E としたときシュレーディンガーの猫の観測過程は次のように記述される。

|Ψ_total⟩ = Σ c_i |cat_i⟩_S ⊗ |observer_i⟩_O ⊗ |env_i⟩_E

標準的解釈において、意識は単に特定の枝 |observer_i⟩ に付着した記録装置ノイズに過ぎない。

環境自由度トレースアウト(部分トレース)することで得られる縮約密度行列 ρ_SO = Tr_E [|Ψ_total⟩⟨Ψ_total|] は、非対角成分がゼロに漸近し(⟨env_i|env_j⟩ ≈ δ_ij)、異なる枝の間の干渉遮断される。

これがデコヒーレンスである。だが、デコヒーレンスあくまで、状態ベクトル直交する基底の和に分解し、宇宙という情報の海に仕切りを作る数学作業に過ぎない。

全体としての宇宙フォン・ノイマンエントロピー S = -Tr(ρ ln ρ) は常にゼロ純粋状態)のままであり、客観的には、宇宙は依然としてすべての可能性を抱えたまま対称的に膨張を続けている。

どの仕切りの中に観測者の主観的な焦点が置かれるべきかを決定する物理法則は、そこには存在しない。

 

ここで致命的な問いが浮上する。なぜ私は重なり合った状態総体ではなくこの特定の枝(状態 k)のみを主観的に受容しているのかという問いだ。

MWIの理論上、確率振幅 c_i がゼロでない限り、すべての分岐した世界は等しく実在し、物理的な実体性に優劣はない。

もし意識が単なる物理過程受動的な影であるならば、我々の自覚状態もまた波動関数に沿って全宇宙的に拡散し、|observer_生⟩ と |observer_死⟩ の未分化な重なり合いとして体験されなければならない。

しかし、現実の我々の意識は、驚くほど強固な単一歴史を生きている。この主観的局在化(自己定位)という厳然たる事実は、客観的現象であるデコヒーレンスだけでは決して説明しきれない。

かつてフォン・ノイマンやウィグナーは、意識が射影仮説を引き起こし波動関数物理的に収束(|Ψ⟩ → |cat_k⟩ ⊗ |observer_k⟩)させると説いた。

現代のMWI信奉者はこれを非科学的と切って捨てるが、主観的体験次元限定するならば、彼らの洞察はMWIにおいてこそ完成を見る。

MWIにおける収束とは、物理空間における波動関数崩壊ではない。観測者の主観的フレームにおいてのみ作用する射影演算子 P_k = |observer_k⟩⟨observer_k| が、多元宇宙の奔流からつの現実を濾し取る、極めて動的で情報論的な能動性に他ならないからだ。

 

イヴィッド・ドイッチュやショーンキャロルといった現代旗手たちは、デコヒーレンスによって分岐した各枝に独立した意識が(コピーとして)存在すると主張することで、この問題回避しようと試みる。

しかし、これは指標確率問題を先送りにしているに過ぎない。なぜ今この瞬間の私は、他の無数の私と感覚を共有していないのか。

なぜ我々は、ボルン則に基づく確率測度 P_i = |c_i|² に従った世界線の遷移を主観的体験するのか。彼らは自己同一性の断絶を、物理学の言語体系だけで記述できていない。

意識を枝の単なるラベル付けと見なすにせよ、記憶連続性による錯覚と見なすにせよ、結局のところ私という主観が、分岐し続ける状態空間の中で特定の時空経路(履歴)を選択的に辿るメカニズムを導入しない限り、MWIは誰の体験でもない数学宇宙記述するだけの空虚理論に成り下がる。

 

多世界解釈の壮大さを真に享受しようとするならば、物理学者は意識方程式の外へ追いやるべきではない。

客観的状態ベクトル |Ψ_total⟩ の冷徹で広大な重なり合いの中に、血の通った現実という輝きを灯すのは、系と観測者を結びつける主観的フィルター存在からだ。

量子力学意識不要であるという主張は、MWIの客観的厳密性を守るための教条主義的な方便に過ぎない。

我々が今ここに存在し、ひとつの確定した世界を見ているという、宇宙で最も自明かつ神秘的な事実は、意識無限直交基底の中から特定の枝を絶え間なく選び取っている(対称性を破っている)証左のものである

 

世界を信じる者よ、意識を畏れよ。それこそが、テンソル積で結ばれた無限拡散する宇宙の断片を、私の世界として一貫性の中に縫い合わせる、唯一無二の黄金の糸なのだ

多世界解釈はなぜ意識要請するか

量子力学多世界解釈を信奉する論者の多くは、一種知的な潔癖さを重んじる傾向にある。

彼らは、波動関数の収縮という概念観測者の傲慢が産んだ数学妥協として退け、環境との相互作用によるデコヒーレンスのみで宇宙記述は完結すると断じる。

そこには人間意識が介在する余地などなく、意識物理系に影響を与えるという発想自体を、前世紀的な神秘主義への退行として冷笑的に眺めているのだ。

しかし、この純粋物理学的な態度は、皮肉にもMWIが孕む最も深淵存在論的欠落を露呈させている。

MWIを徹底的に突き詰めるならば、論理的必然として意識は周辺的な随伴現象ではなく、理論整合性担保する中核的要素として回帰せざるを得ないからだ。

 

MWIの開祖ヒュー・エヴェレットが提示したのは、宇宙全体の波動関数絶対的ユニタリ進化を続けるという、極めて数学的に美しい描像であった。

シュレーディンガーの猫は、観測者の意識とは無関係に、物理的な相互作用連鎖によって生存と死亡の枝へと分岐する。標準的解釈において、意識は単にその枝の末端に付着した記録装置ノイズに過ぎない。

 

だが、ここで致命的な問いが浮上する。なぜ私はこの特定の枝のみを主観的に受容しているのかという問いだ。

MWIの理論上、すべての分岐した世界は等しく実在し、物理的な実体性に優劣はない。

もし意識が単なる物理過程受動的な影であるならば、我々の自覚状態もまた、波動関数の広がりに応じて全宇宙的な拡散を遂げているはずである

まり生存した猫を見る自己と、死亡した猫を見る自己が、主観的未分化状態のまま重なり合って存在していなければならない。

しかし、現実の我々の意識は、驚くほど強固な単一歴史を生きている。この主観的局在化という厳然たる事実は、デコヒーレンスという客観的現象だけでは決して説明しきれない。

 

デコヒーレンスは、枝と枝の間の干渉遮断し、それらを直交させる。

しかし、それはあくま宇宙という情報の海の中に仕切りを作る作業に過ぎず、どの仕切りの中に観測者の焦点が置かれるべきかを決定するものではない。

客観的には、宇宙は依然としてすべての可能性を抱えたまま対称的に膨張を続けている。

 

ここに意識必然性が介在する。我々が量子測定を行う際、宇宙が枝分かれする一方で、意識はあたか情報特異点として機能し、特定の枝へと自己収束させる。

このプロセスは、客観的物理法則が維持する対称性を、主観的レベルで敢えて破る非対称な選択である

 

かつてフォン・ノイマンやウィグナーは、意識波動関数収束させると説いた。

現代のMWI信奉者はこれを非科学的と切って捨てるが、主観的体験次元限定すれば、彼らの洞察はMWIにおいてこそ完成を見る。

MWIにおける収束とは、物理現象としての崩壊ではなく、意識というフィルターが多元宇宙の奔流からつの現実を濾し取る、極めて動的な能動性に他ならないからだ。

 

イヴィッド・ドイッチュやショーンキャロルといった現代旗手たちは、意識が各枝で独立存在すると主張することで、この問題回避しようと試みる。

しかし、これは問いを先送りにしているに過ぎない。なぜ今この瞬間の私は他の無数の私と感覚を共有していないのかという自己同一性の断絶を、彼らは物理学の言葉記述できていない。

 意識を枝のラベル付けと見なすにせよ、あるいは記憶連続性による錯覚と見なすにせよ、結局のところ私という主観特定の時空の経路を選択的に辿るメカニズムを導入しない限り、MWIは誰の体験でもない数学宇宙記述するだけの空虚理論に成り下がる。

 

多世界解釈を信奉する者が、その理論の壮大さを真に享受しようとするならば、意識計算から除外してはならない。

意識こそが、冷徹で広大な情報の重なり合いの中に、血の通った現実という輝きを灯す唯一の灯火であるからだ。

「量子観測意識不要である」という主張は、MWIの厳密性を守るための教条主義的な方便に過ぎない。

しかし、我々が今ここにいるという、宇宙で最も自明かつ神秘的な事実は、意識特定の枝を絶え間なく選び取っている証左のものである

世界を信じる者よ、意識を畏れよ。それこそが、無限拡散する宇宙の断片を、「私の世界」として一貫性の中に縫い合わせる、唯一無二の黄金の糸なのだ

多世界解釈を信奉するなら、意識関係する

量子力学多世界解釈(Many-Worlds Interpretation、以下MWI)を信奉する人々の間で、よく聞かれる主張がある。

「量子観測における波動関数収束などというもの幻想に過ぎない。環境との相互作用によるデコヒーレンスだけで十分に説明がつく。人間意識など介在する必要はないし、そもそも意識物理法則に影響を与えるなど非科学的だ」と。

 

この主張は一見、MWIの純粋さを守るための論理的帰結のように思える。

かに、MWIの創始者であるヒュー・エヴェレットは、波動関数絶対的ユニタリ進化させるだけで、すべての可能性が並行する世界として実現するとした。

測定者が意識を持つか否かに関わらず、シュレーディンガーの猫は「生きている世界」と「死んでいる世界」に分岐する。

観測装置が記録する時点で既にデコヒーレンスが生じ、干渉性が失われる。そこに意識役割など持ち込む必要はないというのが、標準的なMWI信奉者の立場だ。

 

しかし、私はこの主張に真っ向から異を唱えたい。

MWIを徹底的に信奉するならば、むしろである意識は極めて本質的関係する。

なぜなら、我々が「観測している」と感じるその主観的経験のものが、すでに特定の枝(branch)だけに意識が流れ込んでいるという事実を暗黙に前提としているからだ。

 

考えてみてほしい。MWIの世界では、すべての可能な測定結果に対応する世界が等しく実在する。

量子状態は決して収束しない。代わりに、宇宙全体の波動関数は巨大な枝分かれを繰り返すだけだ。

たとえば、電子スピン測定で上向きと下向きの二つの結果が生じるなら、そこには二つの世界存在する。

両方の世界で、測定装置はそれぞれの結果を忠実に記録し、実験者もその結果を見たことになる。

だが、肝心な点がある。我々は、どちらか一方の結果しか実際に体験しない。もう一方の世界で何が起きているのか、我々は絶対に知らないし、感じない。

 

もし意識が単なる物理過程副産物であり、波動関数の全体に分布するだけなら、我々はすべての枝を同時に体験する知覚を持つはずである

シュレーディンガーの猫が生きている世界と死んでいる世界の両方で「私は猫を見ている」と感じ、矛盾した記憶を抱えながら存在すべきだ。

しかし、現実の我々はそんなことはない。我々は常に、たった一つの首尾一貫した歴史特定の枝だけを主観的に生きている。

 

ここにこそ、意識役割が浮かび上がる。

MWIを信奉するなら、我々は「デコヒーレンスだけで十分」と言い切ることはできない。

デコヒーレンスは確かに、異なる枝同士の干渉を不可逆的に失わせる。しかし、それはあくま客観的物理過程しかない。

枝が分かれた後も、それぞれの枝の中で「私」という意識の流れは、主観的には特定の枝に沿っている。

我々は、すべての可能世界を同時に生きるのではなく、まるで波動関数収束体験しているかのように、ただ一つの結果だけを主観的観測しているのだ。

 

これは、単なる錯覚として片付けられる問題ではない。むしろ、MWIの最も深いパラドックスを突きつける。

エヴェレット自身も、後に相対状態の定式化の中で、観測者が各枝で自己同一性を保つことを暗黙に認めていたが、そこに意識選択メカニズムを明示的に排除したわけではない。

イヴィッド・ドイッチュやショーンキャロル現代のMWI擁護者も、しばしば「我々の意識は各枝で独立存在する」と述べるが、それはまさに「意識特定の枝にしか流れていない」という事実を、説明せずに受け入れているに過ぎない。

 

MWIの純粋主義者は「それはデコヒーレンスの結果だ。枝は互いに干渉しないから、意識も分離する」と答えるだろう。

しかし、それは循環論法に陥る。デコヒーレンスが枝を分離させるのは事実だが、我々が「この枝の私」としてしか体験できないという主観的選択は、デコヒーレンスだけでは説明しきれない。

なぜなら、デコヒーレンスはすべての枝に対して対称的に働くからだ。客観的にはすべての枝が存在するのに、主観的には「私」が一つの枝にしか存在しない。この非対称性こそが、意識の介在を必要とする証拠なのである

 

ここで想起すべきは、ジョン・フォン・ノイマンユージン・ウィグナーによる意識原因説である。彼らはコペンハーゲン解釈の中で、波動関数収束意識作用に帰した。

MWI信奉者はこれを「非科学的」と嘲笑するが、皮肉なことに、MWIこそがその意識原因説を最も純粋な形で復活させる枠組みを提供していると言える。

なぜなら、MWIでは「収束」は幻想だが、「主観的収束」つまり主観的には意識特定の枝にしか流れ込まない現象は紛れもない事実として残るからだ。

我々が量子測定を行うたびに、宇宙は枝分かれするが、我々の意識はまるでフィルターのように、ただ一つの枝だけを選んで流れ込む。残りの枝は「存在する」ものの、我々にとっては永遠に非存在」となる。

 

この視点から見ると、「量子観測人間意識が介さなくても収束する」という主張は、MWIの表層だけを見て本質を見逃している。

かに物理的なデコヒーレンス意識なしで進行する。猫は生きている世界と死んでいる世界に分かれる。

しかし、我々が「猫は生きている」と確信を持って報告できるのは、意識がその特定の枝に沿って流れ、我々がその枝の「私」としてのみ自己認識しているからに他ならない。

意識はMWIにおいて決定的な役割果たしていると言わざるを得ない。

 

もちろん、この議論哲学的深淵に通じている。

意識が枝を選択するメカニズムとは何か?それは超決定論的なものか、それとも意識自体が量子的な自由度を持つのか?

あるいは、意識は単に「枝のラベル付け」であり、すべての枝に等しく「私」が存在するが、主観的には一つの連続した記憶しか持てないだけなのか?

これらの問いは、MWIを信奉する者にとって避けて通れない。意識を「関係ない」と切り捨てることは、MWIの最も魅力的な部分、すべての可能性が実在するという多宇宙の壮大さを、逆に貧しくするだけだ。

 

多世界解釈を真に信奉するならば、意識関係する。いや、むしろ意識こそが多世界を「一つの世界」として主観的体験させる鍵なのである

「量子観測人間意識が介さなくても収束する」という主張は、MWIの美しさを守るための方便に過ぎない。

我々はすでに、意識特定の枝にしか流れていないという主観的事実を、日々の観測を通じて体験している。

この事実無視する限り、MWIは単なる数学記述に留まり、なぜ我々がこの世界を生きているのかという、人間存在の核心に答えることはできない。

 

多世界解釈を信じる者よ。意識無視するな。それこそが、多世界を「私の世界」として結びつける、唯一の糸なのだ

2026-01-14

映画モンスターランナー怪物大戦争を見た

VFXの凄み、掛け合いの楽しさはあるが作劇がどうにも雑で盛り上がり切れない41点。

 

怪物が見えるせいで母親に捨てられた主人公はある日、自身が働くスーパーに現れたおちこぼれ怪物ハンターショーン・ユー出会う。いろいろあって実は主人公は現世と怪物界を繋ぐ門の管理者になる存在であることが分かり、現管理者自身立場を守るために主人公を狙う。ショーン主人公を守れるのか守れないのか。

みたいな話。

 

VFXに関してはまぁ、これ安っぽいなぁって思うところもありつつ、本作の特に見どころとなっている怪物たちのヴィジュアルは非常によくできていた。序盤の大アクションに登場する雪男は強大ながらもモフモフで可愛げがあるし、ヴィランが駆る炎に包まれた謎の生物はドチャクソカッコいい。境界バランスが歪んだ結果、大量に発生する手足の生えたオタマジャクシのバケモノみたいなのもキモカワイイ。この辺の造形はめっちゃ頑張っててよかった。

あとはショーンが駆使する式神的な折り紙折り紙であることを活かしたいろんなフォームでぴょんぴょこ跳ねまわったり、ショーン漫才コンビよろしく楽しい掛け合いを見せてくれる。普段折り紙系なんだけど雪男戦ではスーパーの巨大ポスターに憑依しパワーフォームに変型、顔の部分にポスターイケメンタレントを充てるなど芸が細かいし、実際に戦ったら紙なので何の役に立たないのもよい。

 

ただ、それ以外の作劇がなんか超微妙でね。

主人公怪物が見えることで幼少期からいろいろな目に合って母親からは疎まれるし精神病だと思われて治療を受けさせられたりするんだけど、ストーリーを見てると彼女が最もこだわっているのは母親との関係に見える。そして後半に母親精神を病んで入院しており、主人公本来の力(怪物界と現世を繋ぐ)によって母親に毎回負荷がかかっていてそれが引き起こされていたことがわかる。

でもこの件に関して作中で特に解決がないんよね。まぁ最終的に一緒に仲良く暮らしましたってなってるんやけど、そこへの接続不明。たぶん理屈としては大ボスとのバトルを経て自分の力を制御できるようになりましたってことやとは思うんだけど、そもそも軋轢は「わけわからんこという自分の子供が怖い」ってことだからそこへのアンサーにはなってない。まぁ一緒に楽しく暮らす場所が半妖が経営する店だから「そういう世界もあるのね~」ってなったとも受け取れるけど、メインテーマ?の解消として弱いと感じる。

同様にショーンクライマックスっぽい感じで「お前を守らせてくれ」って言うんだけど、やっぱりそれも主人公が抱える孤独とはまた別の話だよなぁって思った。自分けが怪物が見えることで孤独だったことと誰かに守られたいは厳密にはイコールじゃない気がする。

後は、結局主人公人間界怪物界を接続する門の管理者になったん?って話はうやむやのまま話は終わっちゃうし、大ボスが門の管理者権利をはく奪されることを異様に恐れてたけど、そもそも門の管理者権利があると何ができるん?っていうのも作中では不明なため、なんでこんな執拗に狙ってくるんやろなぁってなっちゃう。

冒頭の雪男戦では「怪物封印するとクリスタルになる」って話だったのに、なんか途中からショーンの兄でエリート怪物ハンターだった男がクリスタル封印されていてその力を得ると最強になれるみたいな話が出てきて、え?そういう話だっけ?ってなるし、大ボスの手下と兄スタル争奪戦になったときに一歩及ばず相手に奪われたと思ったら、実はギミックを使ってショーンのほうが先に手を振れていたので勝った!みたいな感じになるんだけど、あ、そんな設定なんだったっけ?ってなったかな。

世界観も広がりそうな感じだけ見せておいてほとんど触れられないからよくわかんねぇなってなるし。

原作があって結構人気な小説らしいので「その辺はみんな知ってるよね」て感じになってるのかもしれないけど、その辺知らない身としてはなんか雑な脚本だなぁって思っちゃった。

 

まぁVFX表現された怪物はよくできてたし、やさぐれたイケオジと陰キャ少女ハートウォーミングストーリーという伝統的な骨子の強さはあるので見てめっちゃ損したって感じにならないとは思うので、まぁ100分以内でアジア映画で暇潰したいなぁってときにはギリギリオススメ

2025-11-26

アヴァロンコードはめんどくさい

アヴァロンコードは非常にめんどくさいゲーム

コードを一時保管しておくスペースがずっと4マスから増えないので、

どっかのページをコード倉庫として活用しておくしかない

カテゴリごとに整理、なんて余裕は無いのでとにかく詰め込む

1マス足りともムダにせずにぴったり埋めてやった時の達成感で俺はコード収納術のカリスマ主婦と化す(本とか出版してそう)

攻略対象もめんどくさい

回復めんどいMPを捧げてまでパンだのぬいぐるみだのを貢いでやらなきゃいけなくて、

ちょっとでも変なコード入ってるとイヤ!イヤ!してくる

やってられん

挙句に何だ

好きって言ったら迷惑かなだと?

こっちは迷惑承知で関わってんだぞナメてんのか

戦闘システムもまあ酷くて、

病気と弱点付与して殴ってやればラクラクショーンなのですが、

それを全ての敵に付けたり外したり付けたり外したりしながらやるのがまあめんどい

ですので、

こっちの装備強化して、そもそもコードいじらなくても瞬殺できるようになれば良い

極端に弱い敵ならコード倉庫として活用することもできるしね

MPが足りないならツボ割ってくればいいし

多分だがアヴァロンコードに「めんどくさい」は褒め言葉

めんどくさければめんどくさい程、生活の知恵が試されるからである

故にアヴァロンコードアンチは厳しい戦いを強いられる

こんな知名度低いゲームアンチなんか居るわけないだろ!いい加減にしろ

それとも合金パン食うか?あ???

2025-09-28

もっとさ、エリックワインスタインとかを見習ってよ

2種類のブロガーがいるとするだろ、

これでさ、俺はBに当てはまる人物を挙げることができるんだけど、こいつらの中には、「エセ科学批判ライフワークにする奴」とかがいるのよね

でもさ、俺が共感できるのはAなのよ

なぜか?Aは世界に新しいアイデアを残しているし、物理的に検証されて間違っていたとしても、少なくとも新しい数学は残せているってわけ

ところがBはどうだ?知識マウント学歴マウントをするぐれぇなもんで、そりゃ教科書レベルことなんざ、Khan AcademyとかMIT OCW見りゃええやんって話でさ

ブログ」という形式で、よく知られたありふれたことを書く理由がわからねーのよな

AもBも、論文発表できねー負け犬なんだから負け犬なら根性決めて妄想でもいいから新しいアイデアを、そのブログとやらで出せって話よ

俺はショーンキャロルエリックワインスタインのどっちが好きかっていったら、エリックちゃんのほうが好きなのよ

2025-07-12

イーストウッド監督ミスティック・リバー、いい映画だった

救いのない結末が児童誘拐監禁性的暴行という悪逆の悍ましさをこれ以上ない程に強く浮かび上がらせることに成功している。

誘拐されたデイブは正しく被害者だが、ショーンもジミーも人生を狂わされた。

全ての関係者人生歯車を狂わせる恐ろしい犯罪であるというメッセージをあの救いのない結末は示唆している。

2025-04-30

じゃあ誰をテレビで見たいんだよって話

マツコか?

有吉か?

内村か?

松本か?

中居か?

鶴瓶か?

ショーンか?

 

誰が出てても一緒だろ

2025-04-25

陰謀論に騙されないことは現代の試練である

現代社会の混乱や陰謀論がはびこるような時代に、ユダヤの知恵がどのように私たちを導いてくれるのか、これはとても大切なテーマです。

こういうときユダヤ伝統はいくつか心に留めておくべき教えがあります

🕍 1. 「ダアート(דַּעַת)」―知識分別の力

ユダヤ思想では「ダアート」(知識)は、単なる情報ではなく、真理を見抜く力です。ミシュレイ(箴言)にもこうあります

"חָכְמָה תִּבְנֶה בֵיתָהּ וּבִתְבוּנָה תִּכּוֹנָן"

「知恵によって家は建てられ、分別によって固められる」(箴言 24:3)

まり、世の中が混乱していても、騒がしい声に流されずに知識分別物事を見る力が大切だということです。

📚 2. ラショーンハラー(לָשׁוֹן הָרַע)―悪口と噂話を避ける

陰謀論というのは、たいてい根拠のない中傷憶測に基づいています

ユダヤ倫理では、「ラショーンハラー」、つまり悪口名誉を傷つける発言は非常に重い罪とされます

ラビイスラエル・メイール・カガン(通称:ハフェツ・ハイム)はこう言いました:

「人の噂を広めるのは、実際にナイフで傷つけることよりも深い傷を残すことがある。」

🕊️ 3. 「シャローム(שָׁלוֹם)」―平和調和を選ぶ

混乱や不安が広がると、人は「敵」を探したくなるものです。

でもユダヤの中心的な価値観は「シャローム平和)」。タルムードにも書かれている通り:

"הַמַּעֲרֶב שָׁלוֹם, גָּדוֹל הַשָּׁלוֹם"

平和こそ、最も偉大なもの

私たちができるのは、他人非難するのではなく、まず自分言動平和を生むものかどうかを問うことです。

💡 4. 「ピクエア・נפש(pikuach nefesh)」―命と人間尊厳を最優先する

どんな理論や主張があっても、それが人の命や尊厳を脅かすなら、それはユダヤ的な価値から外れています

ユダヤ法では、命を救うことはシャバットの掟すらも破ってよいほど優先される価値です。

まり…?

「なぜ愚かな声が広まるのか?どうすればそれに流されずにいられるか?」と問う姿勢こそが、「賢者の道(דרך חכמים)」なのです。

人々が感情や恐怖に流されやす時代こそ、静かに真理を求め、知恵をもって応じることがユダヤの道。

陰謀論に染まった人に怒るよりも、「なぜそう信じたのか」を聞き、対話理解の橋をかけることも、ある意味でミツワ(善行)です。

2025-04-24

アヌス スワルト イタス

ベンピヌス カタウン アヌス サイタ

テラコマッタ ロードー チュウ ツネツラ

アナーキ クショーン クァウカ

2025-04-20

anond:20250419102316

ファクトチェック原文ママ

要約

リンク先(https://anond.hatelabo.jp/20250419102316)は、はてな匿名ダイアリー投稿された記事で、トランプ政権について以下のような主張が述べられています

トランプ政権無茶苦茶さ:トランプ政権は多くの日本人想像する以上に「無茶苦茶」であり、法治を覆そうとしていると、FoxNews Maxブライトバートを除く「まともなアメリカメディア」で認識されている。

日本人の誤解:日本人は「アメリカ大統領が単なる悪人であるはずがない」と考え、トランプの行動に裏の意図戦略を見出そうとするが、実際は「自分ファースト」の単純な動機に基づいている。

アメリカの異常な状況:トランプ政権スポークスマン発言を見ると、精神を保つにはダブルシンク矛盾する信念を同時に持つこと)が必要なほど異常な状況だと感じられる。日本の政治家や公務員にも同様の感覚を抱いたことがあるが、アメリカの現状はそれを超えるレベル

プーチンへの言及記事内で「プーチンたすけて」というコメントが登場し、トランプ政権への皮肉絶望感を表現している。

全体として、トランプ政権の行動が法治常識を逸脱しており、日本人一般的認識実態を捉えきれていないという批判的な視点が強調されています

ファクトチェック

以下のポイントについて、提供された情報や信頼できる公開情報に基づきファクトチェックを行います

1. 「トランプ政権法治を覆そうとしている」とアメリカメディア認識されているか

検証トランプ政権特に2025年時点での第2期政権)について、一部のアメリカの主要メディア(例:CNNニューヨーク・タイムズワシントン・ポストなど)が、トランプ政策や行動が民主主義法治を脅かす可能性があると批判的に報じているのは事実です。例えば、トランプ2020年選挙後に選挙結果を覆そうとした行動や、2021年1月6日議事堂襲撃事件に関連する報道では、法治への挑戦が指摘されています。また、2024年選挙後の第2期政権においても、トランプ司法省連邦機関政治的に利用する可能性や、移民政策の大規模な執行強化が法的手続き無視する恐れがあるとして懸念が報じられています(例:ニューヨーク・タイムズ2024年11月以降の記事)。

例外記事が指摘する「FoxNews Maxブライトバート」は保守派メディアであり、トランプを支持する傾向が強く、批判的な報道は少ない。これは事実と一致します。ただし、「まともなメディア」という表現主観的であり、メディア客観性視聴者政治的立場によって異なるため、この部分は意見として扱うべきです。

結論トランプ政権法治を脅かすとの認識は一部の主要メディアで共有されているが、メディア選択や「まとも」という表現には投稿者のバイアスが含まれる。部分的に正確。

2. 「日本人トランプ悪人と思わず、裏の意図を見出そうとする」か?

検証日本人トランプに対する認識は多様であり、記事の主張を検証するには世論調査や具体的なデータ必要ですが、一般論として、日本メディア国民の一部がトランプの行動を「戦略的」または「計算されたもの」と解釈する傾向は見られます。例えば、トランプ通商政策対中姿勢は、日本の一部の保守派ビジネス界で「現実的」と評価されることがあります(例:産経新聞や一部の経済誌)。一方、リベラル派や若年層ではトランプを「予測不可能」や「危険」と見なす意見も多い(例:朝日新聞毎日新聞社説)。しかし、「日本人は皆そう思う」という一般化は誇張であり、実際には意見が分かれています

結論日本人の一部がトランプの行動に戦略性を見出すのは事実だが、全体を一般化するのは不正確。誇張あり。

3. 「トランプ自分ファースト」という主張

検証トランプの行動や発言自己中心的であるとの批判は、国内外の多くの分析で指摘されています。例えば、トランプビジネス出身の背景や、選挙キャンペーンでの「アメリカファーストスローガンが、個人的利益ブランド構築に結びついているとの評価一般的です(例:ポリティコ、BBC分析記事)。また、2020年選挙後の訴訟議事堂襲撃を扇動したとされる行動も、自身権力維持を優先したと解釈されています。ただし、「単なる悪人」という表現主観的であり、トランプ支持者(アメリカの約半数の有権者)は彼を「国益を優先する指導者」と見なしています

結論トランプの行動が自己中心的との指摘は多くの証拠裏付けられているが、「単なる悪人」は意見であり、客観性に欠ける。部分的に正確。

4. 「スポークスマン発言が異常でダブルシンク必要」という主張

検証トランプ政権スポークスマン(例:2025年時点での報道官や閣僚発言)が矛盾を含む、または極端な発言を行うケースは過去にも見られました。例えば、第1期政権でのショーンスパイサー報道官やケリーアンコンウェイ顧問発言が「代替事実alternative facts)」として物議を醸したことは有名です(2017年CNNなど)。第2期政権でも、トランプ政策(例:移民強制送還関税強化)を擁護する発言が、事実矛盾したり、過激表現を含む場合があります。ただし、「ダブルシンク」という表現ジョージ・オーウェルの『1984年』に由来する文学的比喩であり、客観的検証は難しい。また、日本の政治家や公務員との比較主観的で、具体例が示されていないため検証不能です。

結論スポークスマン発言が物議を醸すのは事実だが、「ダブルシンク」の必要性は主観的検証困難。主観的意見

5. 「プーチンたすけて」のコメント

検証:このコメント記事への反応として記載されており、投稿自身発言ではない可能性がありますはてな匿名ダイアリーでは、コメント欄で皮肉ジョークが頻繁に投稿される文化があります()。この発言トランププーチン関係性(例:2016年2020年選挙でのロシア干渉疑惑)を揶揄したジョークと考えられますが、具体的な事実を主張するものではないため、ファクトチェック対象外です。

結論ジョークまたは皮肉であり、検証不要意見として扱う。

総合評価

正確な点:トランプ政権が一部のアメリカメディア法治を脅かすと批判されている点、保守派メディアトランプを支持する傾向、トランプの行動が自己中心的との評価は、公開情報と一致。

不正確または誇張な点:「日本人は皆トランプ悪人と思わない」という一般化や、「まともなメディア」という主観的表現は誇張またはバイアスを含む。

検証困難な点:「ダブルシンク」の必要性や日本の政治家との比較主観的で、具体例がないため評価不能

記事トランプ政権への強い批判視点に基づいており、一部の主張は事実と一致するが、主観的表現一般化が多く、全体として意見色の強い内容です。読者はメディア多角的報道(例:ニューヨーク・タイムズBBC産経新聞など)を参照し、バランスの取れた視点を持つことが推奨されます

2025-02-26

ショーン・シュメルが悟空野沢雅子悟空

最近はそうでもないけど、アメリカだとリアリティ至上主義下地にあるから日本フィクションに対する没入性に各国が追いついてないと思う。

どうしても俳優が主役になりがちで、演じている意識に差があるのではないだろうか。差というよりは単にグローバルスタンダード日本が沿ってないのだろう。

現実に沿ったものに慣れ親しんでいたら「お婆ちゃんの声やってる悟空」というツッコミはそう多くなかった。キャラを引き立てる声優大前提

キャラに合わせたキャスティングって発想から脱却するのは難しい。

anond:20250125195355

2025-02-24

[]ライフイズストレンジ2 半分

うーんストーリーはおもろいけど、これゲームじゃなくてよくね?

時間くらいの映画とかマンガ小説でいいよねって感じ

逃亡ものロードムービーめっちゃひきのばして自分操作することを強制されてる感が強くて、

ゲームプレイしてる感じがしない

見てるだけってのがすげー多くてアドベンチャーってよりはもうムービーだよこれは

あとふとおもったけど主人公ショーンの顔、ゴーストワイヤー東京主人公に似てて塩顔系っていうの?イケメンだわ

あとライラかわいい

ビジュアルじゃなくてキャラがね

もうライラと付き合えよって感じがありすぎる

そうはならないからこその関係性って感じもしなくもないけどさ

基本胸糞でくらーい話が続くからプレイしてて正直楽しくないしどんよりするしストレスたまるんだよなー

まあ難易度高いゲームストレスに比べたらこっちは先に進むだけストレスはマシだけど

でも貴重な休日時間使ってゲームしてんのにぼーっと画面眺める時間多すぎて、俺何やってんだろって感じになるんだよなあ

1は途中でやめて、ビフォアザストームクリアしたけどここまでイベント長くなかったと思う

これまでの中で一番長い気がする カットシーン(ムービー)が

あーさっさとクリアして別のゲームやりてー

はいっても次にやるのももう決まっててライフイズストレンジの3(トゥルーカラーズ)なんだけどね

ゲームカタログ終わるってんで仕方なく・・・

あーあ連休中に2と3両方終わらせるくらい思ってたのにふたを開けたら2すら終わらなかったとかね・・・

2025-01-25

チャーリーとチョコレート工場』はテレビでちょくちょく放送されてるけど、本国では評判よくないって知ったときは軽くショックだったなあ。

どうやら旧作に『夢のチョコレート工場』ってのがあって親しまれているらしいんだが、それと比べて『チャーリーとチョコレート工場』は魅力に欠けるらしい。

日本では『夢のチョコレート工場』は有名じゃない、つまり比較対象がないか評価されやすかったんだろうな。


こういう、自分の中で何らかの評価基準だったり比較対象があるかどうかで印象がガラリと変わるってのはあるんだろうね。

そういえば『ライオンキング』がCGアニメーションになってリメイクされたとき、俺は正直そこまで評価してなかったな。

クオリティCGによる映像美は確かにすごいけど、基本的面白さは旧版からあるものだし、むしろケレン味が減って物足りなくなった。

でも旧版に慣れ親しんでない人から評価は高いらしくて、最近スピンオフ作品も上映されてるあたり結果は出てるんだろう。


“慣れ親しんで”と書いたけど、“慣れ”が評価の分かれ目ってのもあるんだろうね。

ドラゴンボール』の悟空声優といえば野沢雅子だし、それ以外に考えられないと思っている人は多いけど、他の国ではそうではない。

アメリカだとショーン・シュメルっていう男性声優マッシブな声で演じていて、あっちでは悟空の声といえばこの人って感じらしい。

そんな人たちが、ドラゴンボール新作の吹替版を待ちきれずに字幕版を観た結果、界隈はちょっとザワついたらしいね

もちろん長年やっているオリジナル版の声優ということでリスペクトを示す人も多くいたが、一部では「Grandma Goku(悟空お婆ちゃん)」なんて言葉蔑称寄りに使われているほどだ。

俺たちは慣れているけど、筋骨隆々の男の声を老齢の女性が演じているわけだから、身も蓋もない通称だ。

でも、「悟空の声=野沢雅子」というパブリックイメージや慣れだとかを抜きにしてフラット気持ちで改めて聴いてみると、まあ野沢雅子の声はお婆ちゃんだ。

劇場版ポケットモンスターの『みんなの物語』で、野沢雅子ヒスイっていう老婆の声をやってるのを思い出す。

当時「悟空がお婆ちゃんの声やってるw」って感じの反応してる人も多かったけど、よくよく考えてみたら「お婆ちゃんが、お婆ちゃんの声やってる」だけともいえるんだよね。

何が良いかいかだとか、是非の話とかをしているわけじゃなくて、とかく作品評価ってのは別作品や“慣れ親しみ”ってのが評価基準の重要ファクターになってるんだなと改めて思った、っていうのを書き連ねただけ。

2024-04-10

ショーンKとかは調べられたらわかるけど、調べるか調べないかは言ってしまえば気分次第だけど、STAP細胞とかはそれをもとに別の実験する場合とかあるから絶対に調べるよね。

じゃあ、絶対バレない?

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