はてなキーワード: 平時とは
【はじめに】
本稿は、現代日本政治を一つの均衡状態として捉え、その内的論理を記述する試みに過ぎない。ここで描かれた「歪なリヴァイアサン」は、不正義でも愚鈍でもなく、ただ与えられた条件の下で最も合理的に振る舞っている存在である。
しかし、合理性は永続性を保証しない。均衡とは、あくまで外乱が加わらない限りにおいて成立する一時的な静止点に過ぎない。経済の衰弱、国際秩序の変動、技術による媒介構造の変化——いずれも、このキメラの前提条件を静かに、しかし確実に侵食している。
本稿の目的は、このシステムを擁護することでも、告発することでもない。ただ一つ、「なぜ変わらないのか」という問いを、「変わらないこと自体が合理的である状況」として再定義することである。
もし将来、日本政治がこの枠組みから逸脱するとすれば、そのとき我々は初めて「変化が起きた」のではなく、「変化を許す条件が整った」のだと理解すべきだろう。
日本政治を観察する際、我々は常に強烈な「違和感」に襲われる。
表面的には米国流の民主憲法を掲げながら、そのOS(オペレーティングシステム)はプロイセン流の官僚機構であり、さらにその深層では江戸時代の村落論理が駆動しているからだ。
「自民党一強」や「官僚内閣制」、「対米従属」といった既存の単一的な理論では、この怪物を説明しきれない。
本稿では、現代日本という政治システムを、「幕府の遺風(骨格)」、「明治の遺老(神経)」、「米国の遺産(皮膚)」という、本来互換性のない三つの要素が無理やり縫合され た「キメラ(合成獣)」として定義し、その構造的欠陥と強靭さを分析する。
日本政治の基層にあるのは、民主主義ではなく「封建制」である。
自民党は近代政党ではない。それは「現代の大名連合体」である。
派閥という名の「藩」:政治家にとっての忠誠対象は、国家よりも党、党よりも「派閥(オヤジ)」にある。
世襲という正統性:地盤・看板・鞄(カバン)の世襲は、まさに江戸時代の家督相続そのものであり、システム維持のコストを最小化するための合理的装置だ。
「根回し」の合意形成:国会審議は儀式に過ぎない。真の意思決定は、料亭や密室での「根回し」によって行われる。これは内戦を避けるための「封建的コンセンサス」の知恵である。
この層は、システムにおける「利益配分」と「動員」を司っている。
政治家が舞台上で演じる役者だとすれば、脚本を書き、演出するのは霞が関の官僚群である。彼らは明治維新以来の「指導的行政」の継承者だ。
無責任の体系:大臣は頻繁に交代するが、次官や局長は居座る。実質的な立法権と、法の「解釈権」は彼らが独占している。
解釈権という主権:法文そのものに意味はない。内閣法制局がいかに「解釈」するかが全てだ。これは一種の「神学政治」であり、官僚は唯一の解釈権を持つ神官である。
この層は、システムの「運用(オペレーション)」と「リスク回避」を司っている。
戦後、外から移植されたこの異質な器官は、平和憲法や日米安保として具現化している。
征夷大将軍としての米国:構造的に見れば、ワシントンは現代の「将軍」である。平時は大名(日本政府)の内政に干渉しないが、外交・安保という存立に関わる部分では最終裁定権を持つ。
「結界」としての憲法九条:保守派にとっての憲法は、足枷であると同時に、米国の過度な軍事冒険に巻き込まれないための「免罪符(盾)」としても機能してきた。
この層は、システムの「外部安全保障」と「国際的正統性」を保証している。
この三層構造は、絶妙なナッシュ均衡によって維持されている。この均衡を無自覚に破壊しようとした者がどうなるか。歴史が証明している。
小泉氏は「自民党をぶっ壊す」と叫び、ポピュリズム(米国層の力)を借りて、自らの足場である「幕府層(派閥・郵便・土建)」を攻撃した。
結果、自民党という組織は「骨粗鬆症」に陥った。彼が去った後、求心力を失った自民党があっけなく下野したのは必然であった。
2009年の政権交代は、システムに対する致命的な挑戦であった。民主党は「幕府・明治・米国」のすべてを同時に敵に回してしまったのだ。
対「明治層」戦争:「政治主導」を掲げ、官僚機構を敵視した結果、サボタージュに遭い、行政機能が麻痺した。
対「米国層」戦争:普天間基地問題で「将軍」の逆鱗に触れ、鳩山政権は崩壊した。
(党内に派閥がなければ奇妙なことが起き、党外に野党がなければ独裁に陥る)。
自民党における派閥は、疑似的な政権交代機能(自浄作用)を果たしていた。しかし、「党内無派閥」を理想とした民主党は、内部対立を調整する「封建的知恵」を持たず、内ゲバで自壊した。
民主党の敗北は、無能だったからではない。日本の「国体(システム)」に対する免疫拒絶反応だったのである。
なぜ安倍晋三(第二次政権)は、憲政史上最長の安定政権を築くことができたのか。
それは彼が、小泉流の「破壊」も民主党流の「理想」も捨て、システム構造のハッキングに成功したからだ。
彼は「三層の矛盾」を解消するのではなく、「三層すべてを掌握する」ことで、この奇妙なキメラを飼い慣らしたのである。
民主党は官僚と「闘った」が、安倍政権は官僚を「飼い慣らした」。
その決定的な武器が、2014年に設置された「内閣人事局」である。
霞が関のエリートたちの人事権を官邸が一元管理することで、官僚たちは「抵抗者」から、官邸の意向を過剰に読み取る(忖度する)「優秀な参謀」へと変質した。
これにより、明治以来の「官僚の自律性」は去勢され、行政機構は完全に安倍一強体制の手足となった。
安倍氏は、対米自立を掲げるのではなく、逆説的に「対米従属を極める」ことで政権のフリーハンドを得た。
2015年の安保法制(集団的自衛権の行使容認)は、憲法解釈の限界を突破するものであったが、これは「将軍(米国)」に対する最大の忠誠の証であった。
将軍の信任を得た大名は、国内で多少強引な振る舞いをしても、外圧によって倒されることはない。彼は「外堀」を米国に守らせることで、内政に専念したのである。
「機動的な財政出動」と称されたアベノミクスは、経済政策であると同時に、高度な「封建的再分配システム」であった。
異次元緩和によって溢れ出したマネーは、株高を演出し、企業(経団連)を潤し、公共事業を通じて地方組織(農村・建設)を潤した。
かつて小泉氏が断ち切った「カネのパイプ」を復旧させることで、派閥政治の不満を封じ込め、党内の求心力を盤石なものにした。
それは、人事権で官僚を縛り(明治)、安保で米国を縛り(米国)、カネで派閥を縛る(幕府)という、「三層の完全縫合」に成功した、極めて洗練された「復古政権」であった。
日本という「歪なリヴァイアサン」は、内部からの革命では死なない。
「党外に党なし」――強力な野党が存在しないのではなく、安倍政権が完成させたこのシステムが、野党(代替案)の存在を必要としないほど強固な「安定」を提供してしまったからである。
このキメラが倒れる時があるとすれば、それは内部崩壊ではなく、宿主である経済が死ぬか、将軍(米国)が去るか、そのどちらかであろう。
高等教育への支援が日本を復興させる、と会田誠がXで書いていた。
日本の戦後の復興は、戦後に「偶然」起きたのではない。むしろ戦争そのものが、復興のための下地を、皮肉なほど周到に準備してしまった。戦争は破壊であると同時に、国家をひとつの巨大な工場に変える。資源配分、計画、規格、物流、品質、そして何より、人間の配置と訓練。これらが「総力戦」という名のもとに、暴力的に、しかし異様な密度で組み上げられていく。技術開発とは、研究室の机上で美しく完結する知の遊戯ではない。目的が与えられ、期限が切られ、失敗のコストが極端に高い環境で、試行錯誤を反復し、設計・製造・検査・運用までを一気通貫で回す能力の総体だ。戦争は、その能力を、恐ろしい速度で社会の中に注入した。
戦時の研究開発は、単なる発明ではなく、システムの構築だった。たとえば「技術者」という語は、ひとりの天才の顔を連想させがちだが、実体は違う。設計者がいて、解析者がいて、材料の供給者がいて、加工の技能者がいて、検査の手順を作る者がいて、現場に落とし込む監督者がいる。部品表があり、図面があり、仕様があり、誤差の許容範囲があり、標準化がある。つまり、工学的知識と組織的運用が結びついて、初めて技術は社会に実装される。戦争は、その結び目を強制的に太くした。しかも、若者を大量に吸い上げ、時間を奪い、睡眠と健康を削り、失敗に対する許容を奪うことで、訓練を「圧縮」した。倫理的には呪うべき圧縮だ。しかし能力形成の観点だけを冷酷に抜き出すなら、戦争は、最悪の形で最高効率の訓練装置になり得た。
そして戦後。御存知の通り日本は完膚なきまでの敗北を喫した。当然だ。しかし瓦礫と飢えと混乱の中に、奇妙な資産が残った。焼けた街ではなく、焼け残った手だ。軍需のために鍛えられた設計思考、現場の段取り、試験と改善の習慣、そして「とにかく動かす」ための執念。戦争目的が剥ぎ取られたあと、その手は、民生に向けて仕事を始める。工場は鍋を作り、ラジオを作り、やがて車を作る。品質管理という名で統計が導入され、カイゼンという名で現場が賢くなる。輸出という名で世界と接続され、稼ぐという名で生活が安定する。高度経済成長は神話ではなく、忌まわしき制度と虐げられた技能の合成体・キメラだ。そして、その合成の触媒として、あるいは淘汰圧として、戦争という毒が、過去に撒かれていた──そう言ってしまうと、気分が悪いほどに筋が通ってしまう。敗北はしたが、敗北するためには戦わなくてはならず、戦うためには戦えなくてはいけない。奇妙なことに戦えてしまったことが呪いであると同時に祝福でもあった。真珠湾攻撃は、無条件降伏を経て、米国中を所狭しと走り回るトヨタに至った。まともな経済感覚をもっている米国人は一時期まで日本車を買うのがあたりまえだった。
だからこそ、戦後日本の次なる課題は、戦争なしに繁栄を継続することだった。ここが本丸だった。戦争が供給するのは「目的」と「緊急性」と「資源の集中」であり、その果実として新しい「産業」が結ぶのだ。平時の社会では、それらが自然に生まれない。目的は分散し、緊急性は個人の都合に解体され、資源は合意形成の手続きに溶けていく。ゆえに、平時の繁栄には、別種のエンジンが要る。暴力や強制ではなく、自発性と創造性によって、産業の餌を自分で狩りに行くエンジンだ。そこで登場したのが、大学院という高等教育の訓練装置だ、という物語をわたしたちは信じた。研究という名の訓練。論文という名の競技。専門性という名の武器。産学連携という名の橋。これらを通じて、戦争の代わりに「知」が繁栄を準備するはずだ、と。
だが、いつの間にか装置は、別の生き物を量産するようになった。保身に東奔西走するばかりの大学教員だ。大学院が、主体性の発火点ではなく、依存の温床になったとしたら、それは制度設計の敗北だ。研究費、評価指標、採用、任期、ポスト、学会、査読、ランキング。こうした外部条件が、大学教員個人の内側に「餌は上から降ってくるものだ」という反射を植え付ける。申請書の書き方は教えるが、産業という新しい鉱脈の掘り方は教えない。論文の体裁は矯正するが、社会の問題を嗅ぎ分ける鼻は鍛えない。安全な問いを選ぶ癖、失敗しない範囲での最適化、既存の潮流に寄り添うことによる生存。そうした行動は合理的だ。合理的であるがゆえに、群れは同じ方向にしか動かなくなる。
そしてSNSだ。SNSは思想の市場であると同時に、承認の自動給餌機になった。群れは、空腹そのものを叫ぶことで、誰かが餌を投げてくれると学習する。「分かってほしい」「評価してほしい」「誰かが何とかしてほしい」「政府は間違ってる」。鳴く。鳴くことが生存戦略になる。しかも鳴き声は可視化され、数値化され、増幅される。いいね、リポスト、フォロワー。これらは、栄養ではなく興奮剤だ。満腹にはならないが、空腹の感覚を麻痺させる。やがて、いつまでも上から餌を与えてくれるのを求めて、ぴいぴい鳴き続けるトッチャンボウヤのような元雛鳥の群れができあがる。外敵に襲われない巣の中で、口だけが上を向き、翼は畳まれたまま、眼球だけが光る。自分の脚で地面を蹴るという最初の行為が、いつまでも始まらない。
自分の地位が脅かされるときは自分が悪いのではなくいつも政府が悪い。省庁が悪い。国民の教育水準が、頭が悪い。外で何が起きているのか少し頭を働かせてみようともしない。誰かが群れから外れたことを言ったときは袋叩きにして火にくべる。その結果、誰もが同じことばかり言い続けている。
だが、はっきり言っておく。お前が新しい産業という餌を捕るんだよ。お前がやることになってたんだよ。餌を「作る」のでもいいし、「掘る」のでもいいし、「盗む」のでもない形で「奪い返す」のでもいい。つまり、価値を生むという行為を、制度の他人に外注するなということだ。もちろん少子高齢社会は強力すぎる逆風ではあるが、それさえも誰かのせいに陰謀論めいて帰着させる前に一度よく考えてみたらどうか。産業は勝手に湧かない。誰かが、失敗の責任を自分で引き受け、見えない需要を言語化し、未熟な技術を鍛え上げ、供給網を組み替え、法や倫理の地雷を避け、顧客の怒りと無関心の中で立ち続けた結果として、ようやく姿を現す。論文の引用数のように、キーボードを叩けば増えるものではない。獲物は森にいる。森に入った者だけが、血の匂いと風向きを知る。
お前たちは選択と集中ではなく研究者の自発的な興味や関心が大事という。
では聞くが、お前たちはお前たちが学生だった頃の自分たちに恥じることはないだろうか。
お前たちは、お前たちが知りたいと思ったことを、お前たちが知りたいと思ったかたちで、明らかにしつつあるのか。
わたしは大学の門をくぐったとき、自分が畳の上で安らかに死ねるとは思わなかった。畳の上で死ぬというのは、単に死に場所の話ではない。生が、社会と和解しているという感覚だ。努力が見返りに接続し、未来が計算可能で、家族が暮らし、老いが制度に回収されるという約束だ。だが、あのときのわたしには、その約束が見えなかった。見えなかったというより、最初から信じる気がなかった。自分は、本と論文と電線の塵芥の中で、目を開けたまま息絶えるのだと思った。研究室の片隅で、半田の匂いと紙の埃にまみれて、未完成の仮説を握ったまま、呼吸だけが止まるのだと。
なぜそんな死に方を想像したのか。たぶん、それは恐怖ではなく、ある種の誓いだったのだろう。畳の上の安寧を最初から目標にしない者だけが、森に入れると。森に入るとは、制度の外側に一歩出ることだ。誰も餌をくれない場所に行き、自分の手で何かを捕まえることだ。捕まえられなければ飢える。飢える可能性を引き受ける者だけが、捕まえる可能性を持つ。そういう単純な力学を、大学に入った頃のわたしは、たぶん予感していた。戦争をする国家という本質的な暴力装置に大学そのものを重ねて見ていた。
戦後の復興が戦争によって準備されたのだとしたら、戦後の次の繁栄は、戦争ではなく、わたしたち一人ひとりの「狩り」によって準備されなければならない。制度は餌箱ではなく、森へ向かうための靴であるべきだ。大学院は巣ではなく、飛び立つための筋肉を作る場所であるべきだ。SNSは鳴き声の競技場ではなく、狩りの情報を交換する地図であるべきだ。そうなっていないなら、装置を叩き壊すか、装置の使い方を変えるしかない。鳴くのをやめて、翼を伸ばして、地面を蹴るしかない。
最後に、あの想像に戻る。目を開けたまま息絶える、というのは、救いのない悲観ではない。目を閉じる暇も惜しんで見ていたかった、ということだ。世界の配線の仕方、言葉の連結の仕方、仮説の跳ね方、そして価値が生まれる瞬間の、あの微かな火花を。もし本当にそういう最期が来るなら、せめて塵芥の中に、誰かの餌になる小さな骨を残して死にたい。鳴き声ではなく、獲物の痕跡を。上から落ちてくる餌ではなく、自分で森から引きずってきた何かを。畳の上で死ねなくてもいい。だが、巣の中で口を開けたまま死ぬのだけは、御免だと。
お上を叩くのは簡単だ。叩いても腹は減らないからだ。制度を呪うのは気持ちがいい。呪っても給餌は止まらないからだ。君たちの批判は刃物ではない。換気扇だ。臭いを抜いて、建物を延命する装置だ。君たちは自由の名で柵を磨き、純粋の名で鎖を正当化し、公共性の名で自分の安寧を公共財にすり替える。いつまで巣の縁で鳴くのか。餌は捕れ。捕れないなら黙れ。黙れないなら巣を出ろ。——平和の繁栄は、配給では続かない。
歴史は韻(いん)を踏むというが、それは時に残酷なまでの既視感として我々の前に現れる。
一九一八(大正七)年、言論の自由を死守すべきジャーナリズムが国家権力という巨大な壁に膝を屈した「白虹(はっこう)事件」。
そして令和の今日、台湾情勢を巡る高市首相の答弁に動揺し、思考停止に陥る現代メディアの姿。
これら二つの事象は、単なる政治の混迷ではなく、一世紀を経てもなお変わらぬ、日本のマスメディアの本質的な「脆弱(ぜいじゃく)」を露呈させている。
白虹事件という言葉を知る者は、現代では稀(まれ)かもしれない。しかし、この事件こそが日本のジャーナリズムを去勢し、後の軍靴の響きへと道を開いた決定的な転換点であった。
当時、米価の高騰に喘(あえ)ぐ民衆の怒りは「米騒動」として全国に飛び火していた。
批判の矛先は寺内正毅内閣と、利権を貪(むさぼ)る政商へと向けられた。
同紙は一九一八年八月、米騒動の背後にある社会の矛盾を指摘する記事の中で、
「白い虹が太陽を突き刺す」――。
これは古代中国の天象解釈において、武器を持った臣下が君主を殺害する兵乱の前兆とされる。
太陽を天皇の象徴、白い虹を反乱の武器と見なした当局は、この記事を「安寧秩序を乱す」不敬な扇動であるとして、新聞紙法違反で起訴。
これに対し、大阪朝日の経営陣が選んだ道は「ジャーナリズムの殉教」ではなかった。
以後、同紙は急進性を失い、権力の顔色を伺う「翼賛」への道を一歩踏み出すこととなったのである。
翻(ひるがえ)って現在、高市首相が国会答弁で「台湾有事が存立危機事態になり得る」と踏み込んだ発言を行った際のマスメディアの反応はどうであったか。
中国政府が「一つの中国」という彼らにとっての「神聖な国体」に触れたとして猛反発し、経済的な威圧をも示唆した途端、
国内メディアの多くは、あたかも「不敬」を咎(とが)めるかつての内務省のように、その「不用意さ」を論い、緊張緩和を優先せよとの合唱を始めた。
「国家の核心的なタブー(=国体的な要素)」に触れた言葉に対し、メディアが即座に「静止」や「回避」のバイアスをかけるという構造そのものだ。
かつては「天皇の神格化」という国内の国体が言論を封じ、今は「大国への外交的配慮」という疑似的な国体が、事実上の報道の自主規制を強いている。
どちらも、国家や外部権力が設定した「虎の尾」を避けることを最優先し、事の本質――すなわち、国民が直面している真のリスクを直視させることから逃げているのではないか。
日本のメディアは、平時には些末(さまつ)な不祥事や揚げ足取りをもって「反権力の監視役」を自演する。
しかし、いざ国家の根幹を揺るがす安全保障や、他国とのパワーバランスといった真に重い論点、すなわち「現代の国体」と呼べる領域に話が及ぶと、突如として腰が引ける。
メディアの役割とは、国民が保有する「知る権利」を具現化し、権力の意志を透明化することにあるはずだ。
それが国内の権力であろうと、中国のような強大な外国の権力であろうと、そこに国民の命運を左右する「真実」があるならば、メディアは不敬や摩擦を恐れず、白虹となってその核心を貫かなければならない。
百年前、大阪朝日が社に掲げた「不偏不党」の看板は、弾圧を前に色あせた。
現代のメディアもまた、表面的な正義の裏側で、同じ轍(わだち)を踏んでいないか。
権力の意図を忖度(そんたく)し、タブーの前で立ち止まる存在であるならば、それはもはやジャーナリズムではなく、単なる「広報機関」への堕落である。
歴史の白虹は、今も我々の空を貫いている。
その下で沈黙を守るペンの罪深さを、我々は今一度、厳しく問い直すべきである。
こういう内容のコラム書いてってお願いすると書いてくれるのはやっぱりAIすごいなと思う一方で、
不偏不党は、白虹事件を機に成立したもので、「どの政党にも偏らない」という積極的な自由の宣言ではなく、
「政府と正面から衝突するような過激な主張を捨て、企業の安全が保証される範囲内で報道する」という、いわば「去勢」の宣言だったはず。
日本銀行(日銀)の本店を東京から大阪へ移転させるという構想は、単なる地方創生の一環に留まらず、日本の国家構造を根本から見直す「究極のリスク管理」としての側面を持っています。
政治、経済、BCP(事業継続計画)、文化など、多角的な視点からその妥当性を論じます。
日本が直面する最大の懸念は、首都直下地震です。東京に一極集中している現状では、日銀が機能不全に陥った際、日本全体の決済システム(日銀ネット)が停止し、世界的な金融恐慌を引き起こす恐れがあります。
現在も大阪支店にバックアップ機能はありますが、本店そのものを大阪に置くことで、東京が被災しても「日本の心臓」が止まらない体制を確立できます。
東京と大阪という約500km離れた拠点が対等な機能を持つことで、広域災害に対するレジリエンス(復元力)が飛躍的に向上します。
現代の安全保障において、中央銀行はサイバー攻撃や物理的攻撃の最優先ターゲットです。
一撃による麻痺の回避: 政治(首相官邸・国会)と金融(日銀)の拠点が同じ千代田区内に密集している現状は、国防上極めて脆弱です。これらを物理的に引き離すことで、国家機能が一度に壊滅するリスクを低減できます。
東京一極集中は、地方の衰退だけでなく、日本全体の経済成長を抑制している側面があります。
国際金融都市・大阪の復活: 日銀本店が大阪に移転すれば、国内外の金融機関が拠点を構え直し、大阪は再び「東洋のウォール街」としての輝きを取り戻します。
関西圏には優れた製造業やバイオ産業が集積しています。日銀が鎮座することで、これらの産業への資金供給ルートが太くなり、東のサービス業・IT、西の製造業・技術という「経済の両輪」が完成します。
「東京が全て」という価値観からの脱却は、長年の政治的課題です。
地方分権の象徴: 日銀という最も権威ある機関の一つが移転することは、官公庁の地方移転を加速させる強力なメッセージになります。
現場の経済感覚が東京(官僚・IT・大企業)だけでなく、大阪(中小企業・商人・グローバル製造業)の視点を取り入れることで、より実態に即した金融政策が期待できます。
職員にとっても、過密な東京を離れるメリットは無視できません。
東京に比べ家賃が安く、職住接近が可能です。豊かな食文化や歴史的資産が身近にある環境は、職員のメンタルヘルスやクリエイティビティに寄与します。
関西圏は教育水準が高く、多様な選択肢があります。生活コストが下がることで、実質的な購買力が向上し、優秀な若手人材の確保にも繋がります。
大阪はもともと「天下の台所」であり、江戸時代には世界初の先物取引所(堂島米会所)が誕生した金融の聖地です。
金融の歴史的ルーツである大阪に日銀を置くことは、日本の経済的伝統を尊重することに他なりません。
新しい「粋」の文化: 東京の「洗練」とは異なる、大阪の「実利と合理」の文化が日銀の組織文化に混ざることで、より強靭で柔軟な組織へと進化するでしょう。
日銀の大阪移転は、単なる拠点の移動ではなく、「東京依存からの卒業」を意味します。震災や有事という「もしも」に備えつつ、平時においては経済を多極化させ、日本全体の底上げを図る。この決断は、次世代に対する最大の投資となるはずです。
シン・ゴジラで、ゴジラのことを日本が単独でなんとかできなさそうだという感じになってくると、米軍がしゃしゃり出てきて日本政府を差し置いてゴジラに攻撃を仕掛け、挙げ句の果てに核を使うとかいう筋書きで、あーこれが日米関係のリアルだと思った記憶がある。
ベネズエラ人やその他の多くのラテンアメリカ人にとっては、このゴジラを取り巻く自国政府とアメリカの関係が似たようなものではないのか。
平時には自国の主権は当然自国にあるのだが、いざとなったときのリアルなパワーと決定権は結局のところ自国にはない。アメリカの方はアメリカの方で、当たり前のように我々の国を子分だとみなしており、平時は我々の好きなようにやらせているのだが、ポイントポイントではガッツリ解決に絡んでくるし、そこに絶対にアメリカとしての主張を通してくる。そんなアメリカの存在は、トータルの収支としてはプラスではあるので子分として扱われるのもやむなしではあるのだが、どこかに納得のできない思いがあるのである。
1. 教育は「考える力」より「従う力」を育てた (サラリーマンを量産した。税の教育をしなかった。)
正解を早く出す
空気を読む
和を乱さない
を重視してきました。
👉 結果
移民との摩擦
これらを
曖昧に
感情論を避け
深掘りしない
形で教えてきた。
👉
「自分たちが何かを壊した/壊され得る存在」という感覚が育たず、
外部要因に原因を置く癖が残った。
事実:
結果:
「内=善」
「外=異物」
日本では:
国の政策失敗
「なんの為の教育だったのか?」への答え
皮肉ですが、答えはこうです。
秩序を維持するための教育だった
異議を唱えない
上に従う
平時には強いが、
なぜ今になって顕在化したのか
人口減少
経済停滞
将来不安
余裕がなくなると、
まとめ(短く言うと)
あなたの問いは、
「外国人が悪いのか?」ではなく
そこを突いている。
「日本の政治を託すなら、高市早苗か?それともダイアン津田か?」を議論して。
A: ちょっと待ってください。今日のテーマ、本当に真面目に議論する価値があるんですか?「高市早苗か、ダイアン津田か」って、これ比較の土俵にすら乗っていないでしょう。片や閣僚経験も豊富で、国家の骨格を語れる政治家。片やバラエティ番組で叫んでいる芸人ですよ。冗談が過ぎませんか?
B: いえ、僕はこれこそが今、私たちが直視すべき「究極の問い」だと思っているんです。もちろん、行政実務の能力で言えば高市氏でしょう。でも、今の日本に必要なのは「精緻な政策論」なのか、それとも「バラバラになった国民を一つの熱狂で繋ぎ止めるシンボル」なのか。そこを突き詰めたいんです。
A: シンボル? 政治はエンターテインメントじゃないんですよ。国防、経済、外交……これらは論理と駆け引きの世界です。津田さんに何ができますか? 尖閣諸島の問題に「ゴイゴイスー!」で対処するんですか? そんなの国家の自殺ですよ。
B: 確かに言葉の使い方は違います。でも、高市氏のような「正論」や「強い国家観」が、今の国民にどれだけ響いているでしょうか? 彼女の言葉は、熱烈な支持者には届くけれど、政治に無関心な層には「自分たちとは違う世界の理屈」として切り捨てられている。一方で、津田さんの発するエネルギー、あの理屈を超えた「人間としての剥き出しの感情」は、分断された社会の壁を軽々と超えていく力がある。
A: それは単なる「人気投票」の延長ですよね。衆愚政治の極致です。政治家に求められるのは、国民を気持ちよくさせることではなく、国民の命と財産を守ることです。高市氏の強みは、そのための「具体」を持っていること。憲法改正、経済安全保障……彼女が提示しているのは、日本という国をどう維持するかという設計図なんです。津田さんにあるのは、その場限りの笑いと、視聴率という名の刹那的な数字だけでしょう。
B: でも、その「設計図」がどれだけ立派でも、誰もその家を作ろうとしなかったら意味がない。今の日本人は、政治に対して完全に冷え切っています。高市氏の語る「国家」という概念が、個人の生活実感からあまりにも乖離しているからですよ。対して、津田さんが体現しているのは「失敗しても、いじられても、なお叫び続ける生命力」です。この圧倒的な肯定感こそが、閉塞感に包まれた今の日本に最も欠けている「政治的リソース」だとは思いませんか?
A: 甘いですね。政治的リソースとは「権力」と「予算」と「法」の執行力のことです。愛嬌や生命力でインフレが止まりますか? 少子化が解決しますか? 議論の前提がズレている。そもそも、ダイアン津田という存在を政治の文脈に置くこと自体、今の日本における「知性の敗北」を象徴しているようにしか見えません。
B: 「知性の敗北」……。そう切り捨てること自体が、エリート主義的な傲慢に聞こえます。かつてレーガンは大統領になる前、俳優でした。ゼレンスキーだってコメディアンだった。彼らに共通しているのは、プロの政治家が失ってしまった「大衆と同じ言語で語る能力」です。高市氏の言葉は、あまりにも「完成されすぎている」。隙がないから、国民が入り込む余地がないんです。
A: 隙がないのがプロの仕事です。ゼレンスキーの例を出しましたが、彼は戦時下という極限状態で「コミュニケーションのプロ」としての才能を開花させた。でも、平時の国家運営は地味で退屈な事務の積み重ねです。津田さんに、予算委員会の答弁を10時間耐え抜く忍耐と知識があると思いますか? おそらく30分で飽きて、的外れなことを叫び始めるのがオチですよ。
B: その「的外れな叫び」が、実は官僚機構の硬直化を打ち破る「異物」として機能するかもしれない。高市氏は既存の自民党的なロジックを極めた、いわば「システムの最高傑作」です。でも、システム自体がバグを起こしている時、必要なのはシステム内の秀才ではなく、システムを外側から揺さぶる道化(ピエロ)なんです。
A: 道化が王座に座った歴史に、ろくな結末はありませんよ。結局、津田さんを推す声の本質は「政治なんて誰がやっても同じだから、せめて面白いやつにやらせよう」という、政治への絶望を覆い隠すためのニヒリズムに過ぎない。対して、高市氏への期待は、どれだけ批判があろうとも「政治によって国を立て直せる」という知的な信念に基づいている。この差は決定的です。
B: ニヒリズムか、信念か。……なるほど。でも、その「信念」が一部の人間による排他的な正義になってしまうリスクについてはどう考えますか? 高市氏の主張は、時に「敵と味方」を明確に分けすぎる。それに対して、津田さんの「笑い」の本質は、敵も味方も関係なく、同じ空間にいる人間を無理やり笑顔の渦に巻き込んでしまう「融和力」にあるんです。
A: 融和? 政治における融和は、利害調整の結果であって、ノリで生まれるものではありません。……いいでしょう。では、議論の視点を変えましょうか。なぜ今、これほどまでに「専門家(高市)」よりも「異分子(津田)」に、ある種の期待値が向けられてしまうのか。その背景にある、現代日本特有の「閉塞感の正体」について。
B: 望むところです。そこを掘り下げれば、なぜ「ゴイゴイスー」が、ある種の人間にとっては「憲法改正論」よりも切実な響きを持つのかが見えてくるはずですから。
(続き)
A: さて、先ほどあなたは「システムを揺さぶる道化」が必要だと言いました。ですが、それはあまりに無責任な「劇薬」待望論ですよ。高市氏が掲げる政策——例えばサイバーセキュリティの強化やサプライチェーンの再構築——これらは地味ですが、現代の戦争や経済競争において、文字通り「盾」になるものです。津田さんのようなキャラクターに、その盾の厚さを検証する能力があるとは到底思えません。
B: 確かに、実務レベルではそうでしょう。でも、考えてみてください。なぜ今の日本で「正しい政策」がなかなか進まないのか。それは、国民が「自分たちのリーダーが何を考えているか分からない」と疑心暗鬼になっているからです。高市氏の言葉は、論理的で強固ですが、どこか「教科書的」で血が通っていないように聞こえる瞬間がある。対して津田さんの言葉はどうですか? あの必死さ、あの「すぐ感情が表に出る」未完成な姿。あれこそが、嘘が通用しないデジタル時代の「透明性」そのものに見えるんですよ。
A: 透明性? それは単なる「露出」でしょう。政治家に必要なのは、感情を垂れ流すことではなく、感情をコントロールして国益に繋げる抑制力です。津田さんが国際会議で他国の首脳に詰め寄られた時、あの「いじられキャラ」でどう乗り切るんですか? 国家の威信を笑いに変えられたら、それは屈辱でしかありません。
B: いや、むしろその「いじられ力」こそが最強の外交術になる可能性はありませんか? 今、世界中で「強いリーダー」がぶつかり合い、分断が深まっている。そんな中で、あえて隙を見せ、相手の懐に入り込み、最終的に「まあ、こいつの言うことなら聞いてやるか」と思わせる。これは高市氏のような正論で武装した政治家には絶対に真似できない、高度な人間力ですよ。
A: それは外交を舐めすぎです。外交は「貸し借り」と「力」の計算です。笑いで核ミサイルの脅威は消せません。……ただ、あなたが言いたいことも一点だけ理解できます。それは、高市氏のような「理想的な政治家像」が、ある種の「窮屈さ」を国民に与えているという点です。彼女の掲げる「強い日本」という目標が、日々の生活に疲弊した人々にとって、重荷に感じられてしまう。
B: そう、そこなんです! 高市氏の目指す場所は高潔すぎて、ついていけない人が置いてけぼりになっている。一方で津田さんは、いわば「失敗の象徴」です。滑っても、怒られても、泥臭く立ち上がる。その姿に、今の日本人は「自分たちの写し鏡」を見るんです。エリートが提示する「強さ」よりも、ダメな奴が必死に生きる「肯定感」。これこそが、社会の底流にある閉塞感を打ち破る熱量になる。
A: ……なるほど。あなたが言うのは、もはや政治を「行政」としてではなく、「セラピー」として捉えているということですね。社会全体が傷ついているから、有能な外科医(高市)よりも、隣で一緒に泣いてくれるピエロ(津田)を求めている。ですが、それは非常に危険な徴候です。病気を治さなければ、患者は死んでしまう。
B: でも、外科医を信じられなくて手術台に乗るのを拒否しているのが今の国民ですよ。まずは「この人なら信じられる、一緒に歩める」と思わせる力が必要なんです。では、こう考えられませんか? 高市氏のような実務者が脇を固め、津田さんのような「国民の感情を一身に背負う象徴」がトップに立つ。これこそが、日本の停滞を打破する究極のユニットではないかと。
A: 皮肉な結論ですね。つまり、津田さんは「中身」ではなく、国民の不満を吸収する「依代(よりしろ)」になれと? それは彼をリーダーとして認めているのではなく、便利なツールとして利用しているだけではありませんか。
B: 利用と言えば聞こえは悪いですが、リーダーシップの新しい形ですよ。トップが全てを決める時代は終わった。トップは「みんなで頑張ろうぜ」という空気を作り、実務はプロに任せる。これなら、高市氏の専門性も、津田さんの共感力も両立できる。
A: 認めがたいですが、一つ条件があるなら検討の余地はあります。それは、津田さん自身が「自分の無知と無力を自覚し、専門家の言葉を国民に翻訳する役割に徹すること」です。もし彼が自分の人気を過信し、専門知を無視して暴走し始めたら、その瞬間にこの国は終わります。
B: 逆に、高市氏側にも条件が必要です。彼女が「自分の正しさ」を振りかざすのをやめ、津田さんが吸い上げた「国民の泥臭い本音」を政策に落とし込む度量を持つこと。彼女の理知が、大衆の感情という海に深く潜っていく勇気を持てるかどうか。
A: ……結局、私たちが求めているのは、特定の個人ではないのかもしれませんね。「冷徹なロジック」と「剥き出しの身体性」。この、決して相容れない二つの要素が、激しく火花を散らしながら共存する状態。その緊張感こそが、健全な政治の姿なのかもしれない。
B: ええ。高市早苗という「盾」と、ダイアン津田という「叫び」。この矛盾を受け入れる覚悟が私たちにあるか。それこそが、これからの日本のリーダー論の出発点になりそうですね。
今回の経済対策(真水21.3兆円)は、すごくざっくりと言うと「物価対策が半分、成長投資が3割、残りは防衛と予備費」みたいな構成。事業規模ベースでは40兆円超だけど、国が実際にカネを出す部分だけ見ると21兆円規模。
一番大きいのは生活防衛の11.7兆円。子ども1人2万円とか、電気ガスの補助、ガソリンの減税、コメ券みたいなやつ。確かに今の物価高にはそれなりに効くけど、世帯あたりの実質的な負担軽減は1万円強くらいと言われてて、「劇的に生活が楽になる」ほどではない。減税や給付が広く配られるせいで、低所得層への集中支援が弱いという指摘もある。
次に大きいのが、成長投資+危機管理で7.2兆円。半導体・AI・サプライチェーン強化、防災関係、インフラ更新など。ここは中長期的にはポジティブなんだけど、「本当に必要な投資に絞れてるの?」という懸念もあって、政治的なバラマキ案件が紛れ込みやすい領域でもある。企業側も今は現預金を山ほど持っていて、足りないのは投資意欲や規制改革じゃないか、という議論もある。
防衛・外交の上積みは1.7兆円。台湾有事リスクや米中対立を考えると、これも流れとしては理解できる内容。あとは0.7兆円の予備費。
効果としては、政府の試算でGDP押し上げ+1.4%、エコノミストの見立てで+1.1%くらい。ちょうど7〜9月期のGDPがマイナス1.8%と落ち込んだタイミングなので、景気の下支えという目的には割と合っている感。
ただ、副作用も割とデカい。経済対策拡大の思惑で長期金利が上がったり、円安が進んだりして、結局物価高対策が円安インフレで相殺される可能性もある。財政の持続性という意味でも、日本の債務残高はすでにGDP比250%超で、ここにさらに大型補正というのは慎重に見る専門家が多い。
特に「積み増し分4兆円」は、景気対策の効果というより、政治的なバラマキ要素が強いと言われている。子ども給付や物価給付は野党の案まで取り込んだ形で、当初よりかかなり膨らんだ。野村総研の比較でも、去年までの真水13兆円前後から今年は21兆円へ一気に増えていて、平時の補正としては突出して大きい。
よく言えば短期的な景気の下支えという仕事はいている予算、悪く言えば目的に対して効率の悪い箇所を含む重たい予算、そんな感じじゃないだろうか。
過去と同じ展開になるとは限らないけど、太平洋戦争中には昭和東南海地震てのが起きてる。当時の軍部は敵に被災状況を知られるのが嫌で情報統制・箝口令を敷いたので、他の地域からの救援を得られずに孤立無援となった被災地域もあったみたい。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E5%92%8C%E6%9D%B1%E5%8D%97%E6%B5%B7%E5%9C%B0%E9%9C%87
平時でも能登の救援が鈍かったことなんかを思うと、戦略的に重要度が高くない地域への救援は手薄になるんだろうというのは想像に難くない。一方、戦略的に重要度が高い地域は集中的に攻撃を受ける可能性も高いから、国民としては痛し痒しだね。
じゃあどうすれば物価高対策できるのか?というAさんへのコメントがいくつかあります
以下2点に回答してください
でもその理屈でいったら、自民党が下野して次の政権ができても、物価高は止められないんだから、瞬時で選挙に負けてまた政権交代になるだけちゃうん?
物価高と円安を止める手段はある。日銀の利上げ。が、ネット世論は不景気無限連呼、財政政策と消費減税の三橋脳。高市は安倍と同様、経済政策を理解できず運任せ。立憲も老害アホ揃い。LLMの方がマシ。安野に入れよう
いやその手段とやらを提示せいよ。ないなら仕方ないし。で、負けたらどうなるの?予算委員会見てる?ちょー平和だけど。何にも変わらんし構造的問題ならしゃーないでしょ。
了解。論点を2つに分けて、政策オプションの中身とトレードオフ(メリデメ)をはっきり示します。政治的評価や誰がやるかは脇に置き、経済政策としての実効性に絞って整理します。
何をする:政策金利の引き上げ、国債買入れ(保有)の縮小など。日米金利差が縮めば円高バイアスがかかり、輸入インフレが和らぎます。日銀や研究でも、為替は金融政策の影響を比較的受けやすいことが示されています。
メリット:需要を冷やしつつ期待インフレを抑制。為替の過度な円安圧力を緩めやすい。
デメリット:効果は長く不確実なタイムラグ(1~数年)を伴い、先に成長・雇用を冷やす可能性。景気過剰減速・債券市場の変動リスクも。
何をする:補助金・給付の縮小、恒久的な減税を避ける、歳出の重点化など。
デメリット:目先の家計負担はむしろ増える。成長を下押し。政治的実行可能性も課題。
何をする:LNG・再エネ・原発再稼働などエネルギーミックスの安定化、物流・規制改革、生産性投資の促進。
メリット:輸入コストショックに強い体質を作り、中期的にインフレ圧力を低減。
デメリット:短期効果は小さい。初期投資と制度変更に時間と政治コスト。
デメリット:トレンドの持続的転換は難しい(金利差が決定要因のため)。繰り返すと準備資産や当局の継続意思が問われる。
補足:日本では為替→物価の波及は平時は小さめでも、大きなショック時ははっきり効くという実証が蓄積(状態依存的に強まる)。ゆえに、金利差・為替に効く政策はやはり中核です。
何をする:所得やエネルギー支出比率で対象を絞った給付・減税。
メリット:最も効率的に家計を守れ、コア物価への波及が小さい(面でバラ撒くよりインフレ圧力を再燃させにくい)。IMFも繰り返し推奨。
デメリット:設計・申請の事務コスト、線引きの不公平感、捕捉漏れリスク。
何をする:上限・補助・賦課金調整など。ただし期限と出口を明確化。
メリット:ショック吸収の即効性。企業の急なコスト転嫁を抑える。
デメリット:財政コストが大。価格シグナルを歪め、省エネ・投資の誘因を損なう。設計によっては小売価格への転嫁率が不完全で、企業マージンの肥大化も。
何をする:食料等の税率引下げ(時限付き)。
メリット:表示価格を直撃するため体感改善が即時。一部の国では**かなりの転嫁(パススルー)**が確認。
デメリット:恒久化の誘惑が強く税制の効率性を損ねやすい。財源が必要。品目限定に伴う線引き論争。国や設計次第でパススルーが不十分な例もある。
何をする:児童手当・年金の調整、最低賃金引上げと中小支援のパッケージなど。
デメリット:コストプッシュの再燃や二次的波及(賃金‐物価の押し合い)に注意。財政負担。
デメリット:産業保護の観点とのトレードオフ。恒久化しにくい。
どの政権でも使える“基本ツール”は同じで、外的要因(米金利・原油・地政学)の影響も大きいのは事実。違いが出るのは「度合い・設計・出口」。たとえば①金融をどの速さで正常化するか、②給付を面ではなく点に絞るか、③補助は期限と縮小ルールを明確化するか、等で同じ財政コストでも効き方が変わる。
金融政策は長く・ばらつくラグが宿命。過度に急げば景気・雇用の下振れや債券市場の不安定化リスクもある。ゆえに金融・財政・供給を組み合わせ、短期の痛み止めと中期の体質改善を併走させるのが現実解です。
急変の平準化には効くが、水準の持続的転換は難しい――というのが国際的な経験則。持続的に効かせるには金利差(≒金融・成長見通し)が要。
中核は金融正常化+需要抑制的な財政運営+供給制約の緩和。為替トレンドに対しては金利差が決定的。介入は補助的。
悪影響(家計の痛み)を最小化したい:
ターゲット給付が最も効率的で、次に時限・出口を明確にしたエネルギー対策、限定的な税率措置。面での恒久財政はインフレ圧力や財政コストを膨らませがち。
この土台があれば、Aさんのスレでも「解決策が“無い”のではなく、痛みと時間のトレードオフが大きい。だからこそ設計の巧拙が重要」という冷静な議論に乗せられます。