はてなキーワード: 市井の人とは
終戦直後の沖縄で米軍基地から物資を盗んで市井の人に配布する強盗団を結成していた瑛太と妻夫木と窪田、そして瑛太の恋人の広瀬すずら。ある日、基地に潜入して武器を盗もうとするも失敗、逃走中に留守番の広瀬はともかく3人ははぐれてしまう。そして6年後、捕まって刑務所に行った窪田はヤクザに、妻夫木は刑事に、広瀬は女教師にそしてリーダーの瑛太は行方不明になっていた。瑛太の行方をそれぞれの立場から追う、3人だったが戦後の沖縄の大きな歴史のうねりに翻弄されていく。
みたいな話。
とりあえず沖縄基地問題にあんま興味がなくて3時間越えは長いなぁ~って人は多分見る必要ない。
なんか超分厚い原作があるらしいって話は知ってて、まぁそっちでは戦後の沖縄の歴史と人間ドラマを濃密に描けているんだと思うんだけど、それを映画化するにあたってどこを残してどこを切るのかという判断をぶっちゃけ失敗していると思う。この映画191分もあるのに人間ドラマを描くのか沖縄の戦後史を描くのか圧倒的にどっちつかずだし、沖縄戦後史に振るには全然覚悟が足りないと思う。
まず人間ドラマなんだけど、基本的には主人公妻夫木らオキナワンチュたちの精神的支柱だった瑛太がある日の侵入失敗後に行方不明になってしまい彼を探すことがこの映画のメインだと思うんだけ、これがすげーふんわりしてんだよ。
妻夫木は瑛太を探すために刑事になったんだけど、その設定も序盤にちょろっと米兵がらみの殺人事件を捜査するパートが入って、その後、米軍諜報部の人間と組んで不良軍人を協力して捕まえる代わりに情報をもらう感じになるんだけど別になんかそんな重要な情報出てこない。さらに深入りすると本土の人間が乗り込んできて拷問されたりするんだけど、これもあんま意味が分からんのよな。
一方の窪田は刑務所でヤクザネットワークに加盟してそこから情報を掴んでいくんだけど、そこがもう断片的にしか描かれなくて「はい、情報出しときますね~」って感じで全然情報が集まっていくわくわく感やスリリングさ謎解き感がない。まぁ、妻夫木よりはマシだけど。そして瑛太の件とは別に関係なく米兵狩りを始める。
広瀬は頑張って瑛太が奪った物資で建てた小学校で女教師になりました。
なお、小学校には米軍機が墜落して爆散した模様。そしてその後、瑛太とかとは関係なく沖縄開放運動家になります。
あと、なんか序盤では花売ってたわけわからんガキがその後、急に成長してイケメンになるんだけど、で、こいつは誰やねん。なんか急にイケメンわいてきたなと思ったら花売りのガキだったってなるんだけど別にこいつなんか花売ってただけで何の存在感もなかったしなぁって感じ。で、実際にはこいつが一番のキーマンで実は米軍の偉い人が現地民孕ませて作った子供で、その現地民がたまたま瑛太たちが侵入した日に米軍基地に侵入していて爆裂出産。そこに瑛太がうっかり出くわして子供を託され、育てていたのでした。
そしてうっかり撃たれたイケメンに導かれた3人は浜辺に移動するとそこには白骨化した瑛太がおり、安易な回想シーンで真実が流れなぜかたぶんその回想シーンを見ていた3人は感動するのであった。何の話やこれ。
ちなみに米軍諜報部と本土の軍関係者が隠そうとしていたのはこの隠し子スキャンダルのことでした。意味わからん。
瑛太はもう死んだ母親と赤ん坊に出くわしただけでその出自は知らんし、イケメンは当然当時赤ん坊なのでそのことは知らん。まぁ偉い人と現地妻の写真が入った首飾りは持ってたけど別にそれがなんにもならんし、なんなら何を現地妻と写真撮ってるねんという話だし。別に撮ったけど肉体関係はなかったって言えば全部収まる話だし。この話に何の引きがあるねん。ばからしい。
じゃあこのメインストーリーを雑に扱って何をやっているのかっていうと、沖縄戦後史の紹介をやっているのね。
米兵による現地民への被害。逮捕しようにもMPがやってきて米軍に連れ去られ無罪にされてしまう。米軍機が墜落してきて子供たちが被害にあうも無罪。苛烈化する市民運動。この忘れられた米軍統治下の沖縄の様子をしっかり映すことに時間をかけている。そして妻夫木と広瀬はそこの渦中にある存在として歴史に翻弄される必要があるので本題の瑛太捜索に時間を全然割けない。
もちろんこれを戦後80年記念に映像化することに意義はあると思うし、特にたっぷり金をかけて作ったであろう終盤の大見せ場のゴザ暴動のシーンなんかは十二分に見応えがあったけど、でもなんていうか映画の本筋と全然接続してないからどうしたってのめりこみが弱くなる。まぁこれに関しては俺が沖縄に全然興味がないからそうなっちゃうのかもしれないけど、なんていうか思想強いなぁって感じ。
でも別に、俺はイラク戦争興味なくてもアメリカン・スナイパーは面白かったしベトナム戦争知らなくてもランボー(無印)は面白かったし、ドンバス紛争知らなくてもコードネーム:レイブンは面白かったからなぁ。だからこそ、大事なのは何を見せるかだと思うんだよな。
たぶん製作陣は沖縄の戦後史を見せることが大事だと思ったんだと思うんだけど、でも、たぶん映画ってそうじゃないんだよ。三者三葉の立場で瑛太を追う中でそこに横たわる困難として沖縄の呪われた戦後史がにじみ出てきてしまう。そういう感じのほうがちゃんと面白い映画になったと思うんだよ。本だったらいいよ、心置きなく全部書けるから。でも映画、映像媒体はそうじゃないじゃん。時間制限がある中で何を描くのか、何を描かないのか。そして直接は描かない中でも見せることが腕ってもんじゃねぇの?
じゃあ沖縄戦後史には全力投球で完璧なのかというの全然でさぁ。
最終的に窪田が米軍基地にテロを仕掛けるんだけどそこで妻夫木と妻夫木の論争になるんだけど。「返還されても沖縄は何も変わらない。だから俺はテロでアメリカだけじゃなくて本土の人間にも沖縄の怒りを知らしめるんだ。怒りで世界を変えるんだ」派の窪田に対して、妻夫木は「暴力じゃ何も変わらない(陳腐)。でも諦めなければ10年後、20年後には世界は変わっているはずだ。人間は愚かじゃないから今の沖縄みたいな間違った状況が続くはずがない」と諭すんだけど、10年後も20年後もそんな変わってないのを知ってる人間がこれ書くのなんかグロいんだよな。
もちろん、まぁ変わってないんですけどね(嘲笑)みたいな映画らしい悪意があるのかっていうとなんかそんな感じでもないんよ。これがブラック・クランズマンみたいにエンディングの前、暴動も治まり日常に戻った主人公たちがテレビをつけると久米宏が沖縄米兵少女暴行事件を伝える映像が流れるとかだったら覚悟あるやんと思うけどさ。なになんかキラキラディベートタイムで消費してんねんと思う。
あとそれで言うと、窪田が急に最後に本土人にキレてたけど、この問題で重要なのはアメリカ人よりもむしろ本土人なのに作中ではその視点はほとんど登場しない。あまりに片手落ちすぎる。
他にもいいたいことは山ほどあるんだけど、とにかくたぶんだけどこれ原作読めばいいだけの映画なんだよ。
もろちん、日本映画史上有数の25億の金をかけて当時の街並みを再現して2000人のエキストラバージンオリーブオイルを集めて撮った暴動シーンなんかはスケール感があってよかったけどだったら191分もいらないんだよ絶対。そこまでの吸引力はないよ。ただ、役者はよかった。みんな芸達者で特に瑛太は薄汚れていてもこいつが青学の柱なんやなっていうのが一目見てわかるような沖縄の太陽みたいな役をよく演じてたと思う。
まぁそんな感じかな。沖縄基地問題に関心がある左翼と沖縄人が見ればいい映画で、エンタメ系が好きな人は別に無理してみる必要ないと思う。長いし。110分くらいだったら50点くらいあっていいと思うけど、そこからさらにホラー映画1本分見せられてこのオチだったからこの点数で提出です。
あと、これは完全に余談なんだけど俺は全然つまんなくてこれホンマにどういう態度で見るべき映画なんやと思って、↑まで書いてからいくつか解説動画を見たんだけどこれがちょっと面白くてさ。
まずエンタメ映画を多く紹介しているチャンネルではおおむね不評で論としては意義は認めるし映像も頑張っているけど映画としては散漫という評価。
そしてこれを絶賛している人の多く、というかほとんどが作品じゃなくて作品背景、沖縄にはこんな歴史があってぇ米軍はこんなにひどくてぇだからこの映画を作るってことには意義があってぇみたいなことが評のほとんどを占めていて、作品の内容じゃなくて意義を評価するって方法があるんだなぁという学びを得た。
もっと面白くてもいいと思うんだけど思ったより普通のアクション映画で62点。
病気の子供を抱えるド底辺労働者の主人公はうっかり仕事をクビになってしまう。人生逆転のために30日間生き延びれば莫大な金が得られるリアリティショーである「ランニング・マン」に参加することを決める。出場者を狩るために追いかけてくるハンターたちに加え、出場者を殺した人間には賞金が出るため市井の人たちも味方ではない。死の逃避行が今幕を開ける。
みたいな話。
う~~~~~~~ん。なんか脇が甘い感じがしてイマイチのめりこめなかったかな。
普通の逃避行アクション映画としてみれば普通に面白い。どうやって逃げるんだろう、身分証を偽造するのかな、変装するのかな云々という逃避行ギミックに関してはきちんと提示されて納得力は高いし、行く先々でのチェイスアクションもよい。ぼろホテルに泊まって風呂入った後、窓から外見てたらハンターがいて戻ろうとしたらドアが開かなくて半裸で逃げる展開とかの面白みも深いし、ド派手なカーチェイスもあれば、アンチランニング・マン連合のナード君の家に逃げ込んでそこで彼が家中に仕掛けた罠を作動させながらハンターを撃退しながら逃げるホームアローン展開もよい。
最後にはちゃんとハンターの大ボスとの飛行機の中での肉弾アクションも用意されていて、アクションと映画してカーチェイス、銃撃、罠、肉弾、爆発とおいしいところは全部用意されているのでなんも考えんと見るんだったら普通に満足できると思う。
一方で、なんか主人公にはあんま感情移入できないっていうか。徹頭徹尾、こいつプッツン野郎なんだよ。冒頭、自分をクビにした上司に怒鳴りこみに行く場面から一貫してなんかすぐキレる。そのことによって常に状況が悪くなっていくの、なんていうかエンタメとしては食い合わせがあんまよくないなって思う。社会派のサスペンスとかだったらいいと思うんだけどさ。怒りこそ貧乏人に残された最後のエンタメとは言うけど、こういう意味ではないじゃん?
最終盤でルールで保護されているはずの妻子をハンターたちが殺していた、だからハンターたちを殺してお前がハンターになることで金も名誉も立場も手に入れられる!って番組プロデューサーにそそのかされる場面があるんだけど、これまで再三、番組は情報を改ざんし俺たちを操ろうとしている!と警鐘を鳴らしてきた主人公はプッツン、ハンターたちに襲い掛かり、ハンターの大ボスから彼も元はランニング・マンで主人公と同じトラップを仕掛けられハンター堕ち。実は妻子は生きていたけど拷問されて殺されたと種明かしをされるも信じずに殺害。その後、飛行機ごと無事爆殺される(脱出するけど)。
たぶん、そうなるのわかってたと思うんだけどなぜか殺してそのまま殺されかかるの正直よくわからない。徹頭徹尾「金を得るため」だったという冷徹な目的意識のためとかだったら理解できるんだけど、結局彼は何も得られずに終了する。
俺が見落としてただけだったら申し訳ないけど、あの飛行機に脱出ポッドがあるのを知るシーンってなかったよね?もしそれまで考慮に入れて「自分は死んだこと」にすることでこのゲームから脱出することを目的としていたんだったら理解できるんだけど、そんな感じでもなかったし。
その後、アンチランニング・マン連合が主人公が生きてることを言いふらして番組の裏側を暴露。アンチランニング・マン陣営は規模を拡大する。そして主人公はしっかり顔をさらして妻子に会いに行く。いや、番組側からしたら妻子には絶対見張り付けとくやろ。主人公なんか何回殺してもええんやから。
ランニング・マンの収録の客席はアンチで埋め尽くされ、司会は契約を盾にとっとと離脱。いや、セキュリティどうなってんねん。少なくとも主人公がオーディションするときはセキュリティしっかりしてたやろ。客の身辺調査や持ち検は当然するやろと思うのに、みんな手に手にアンチの看板もって火炎瓶を投げまくる。そんなわけある?そしてプロデューサーを主人公が撃ち殺して終了。いや、こいつも素通りかい。もうめちゃくちゃだよ!
あとはどう考えても30日は長すぎるよね。アメリカ中を逃げ回ってもいいとしても逆に考えれば30日は短すぎるし、映画として考えるなら30日は長すぎる。映画としてはどっか州を指定して2週間とかのほうがよかった気がせんでもない。なんか妙な生活感が出てて中だるみを感じた。
あとはこれどこまで意識して書かれているのかわからんのだけど、女の扱いがなんか微妙なんよね。別に活躍させる必要はないとは思うんだけど、主人公に庇護されるだけの妻、なんかバカみたいな死に方する逃亡者も女だし、テレビを一方的に信じて主人公を含む逃亡者を悪人だとののしり続けるナードの母親のババア、そして終盤に出てきて人質になる裕福層の女。裕福層の女は「貧困をエンタメとして搾取する市民」として描かれていて、主人公に「そのスカーフ一枚で俺の子供は助かるのにお前は気にも留めない」みたいに責められたときに「私は悪人じゃない」って言わせるのはちょっとあからさますぎるかな。最後飛行機で撃たれた主人公に止血のためにそのスカーフを差し出すのは皮肉がきいててよかったんだけど。
あとこの辺の社会的メッセージに関してはどう評価すべきかかなりむつかしいと思ってる。知らんけど、この映画作ってる人はわりとノンポリっぽい感じだと思うんだよな。なんかその、マスメディアを操る存在とそれに対するアンチだったり、白人のデブの子供2人が逃亡者を焼き殺したり、貧乏人たちが主人公を無条件に応援していたり、裕福層は殺せと言っていたりとかそういう社会的メッセージがめちゃくちゃ露骨に出てくるんだけど、それをどこまで信じてるかはかなり怪しく感じる。俺の感想としてめちゃくちゃ冷笑的に”ネタ”として消費しているように感じたかな。
まぁそんな感じかな。ベイビードライバーのエドガー・ライト作品らしくBGM使いも悪くないし、ポップなアクション映画としては一定以上の強度はあると思うんだけどなんか意外にがばがばというかがたがたな感じがして今一つのめり込めなかったな。まぁ、なんも考えんとみられるアクション映画見たいなって夜にはまぁまぁオススメ。
今年、2026年の4月29日『昭和の日』は、『昭和100年』を記念する『昭和の日』だった。
40年前の明治100年記念事業のように、政府主催の昭和100年記念式典も開かれた。
しかし、よく思い出してみよう。
去年、2025年は『昭和100年』の年だと宣伝されていなかったか?
数々のテレビ番組で『昭和100年』の特集が組まれ、クイズ番組も『昭和100年』を記念して問題が構成され、
若者世代にも『昭和』が大ブーム、などと持て囃されていなかったか?
実際、去年『クイズ!昭和100年』という番組を制作していたMBSは、今年の春の特番では『クイズ!昭和100年プラス』とタイトルを変え、問題が101問、出演者も101人、とそれぞれ1つ分プラスしていた。
では、『昭和100年』記念式典を今年に主催した政府は何と言っているのかというと、内閣官房の特設ページだと、こうだ。
『満100年』というのが、何と味わい深く濁しに適した言葉であろうか。
実は、この『昭和の日』である2026年4月29日時点では、昭和は『満100年ではない』という事実も面白いことになっている。
『満100年』という言葉が示している通り、まずは「数え年」と「満年齢」との違いが一つある。
日本の元号は通常「数え年」で表記するため、「満年齢」や西暦との換算は、そもそもがややこしいものであることは押さえておきたい。
ちなみに、日本人の年齢が一般的に数え年から満年齢になったのは、1950年、昭和25年のことであって、実際76年前には「年齢が若返る」と、あの憲政の神様、尾崎行雄から市井の人々まで大騒ぎだったそうだ。
さて、では何故『昭和』の場合、明治や大正や平成と比べて、100年を考える上でややこしいのかといえば、そう、『昭和元年が7日間しかなかった』からだ。
時代の区切りが時の天皇陛下の生に縛られていたからとはいえ、不謹慎ではあるが、『昭和』という時代は、始まりの『昭和元年』も7日間、終わりの『昭和64年』も7日間という、数字の偶然も面白い時代なのである。
そのため、
などなど、大雑把に言えば『昭和100年』を言える時期はほぼ3年間もあるのだ。
となっているため、去年や今年に限るが例えば、
「今年は昭和100年と言われています。では100年前の元号は何でしょうか?」
というようなクイズが、ひっかけ問題として盛り上がることだろう。
とまあ、ここまで長くなったが、
新聞各社やテレビ各局も、去年2025年を『昭和100年』と「戦後80年」に当たるキリの良い年として大きく盛り上げていたせいか、今年2026年の『昭和100年』を言葉を選びつつ使っている模様だ。
ただし、マスコミ各社においては、『昭和100年』特集ということにすれば、「昭和100年を迎えて(過ぎて)の、昭和という時代の振り返り特集」という意味でこれから何年も使うことができるため、実際には『昭和100年』という言葉を定義の曖昧なまま、あと10年や20年と続けることができるのかもしれない。
そう、
調べれば調べるほど現実で制度を回すのは難しいんだろうなという気分になってくる
・抗アンドロゲン薬の副作用がかなり重そう/SSRIならまだ軽いが
・「飲まない人は潜在的加害者」みたいな暴論が出るんだろうなあ
・傍から見て、一番服薬した方がよさそうな人ほど服薬しないのだろうな
・なんらかの診断名を新設しないと保険適用外になりそう……でもそのなんとか症候群って何よという話
・韓国の受験界隈ではADHD治療薬を「勉強に集中できる薬」として乱用する問題があるらしい……似たような話が出るかもしれないな(これは流石に悪い想像たくましすぎる、もっと現実的な箇所に目を向けるべきなのだろう)
※
性犯罪者に対する刑罰/治療のシーンをここではまったく考えていない
「市井の人々が医療機関や薬局で件の薬をある程度容易に入手できるようになったとき何が起きる?」を今ぼんやりと想像している
……いかんな、「無理そう/ダメそう」という結論を先に用意してからネガティブなワードを後出ししている
副作用にばかり注目しているのかも
肯定的な、ポジティブな言説をなんかとりあえずぐぐって探すか……
できれば本屋で探したい……まともな地に足ついた、資料に典拠した話でないとな……
こうやって積読本が増えていくんですね
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なんかあれだな
主訴が「性欲を減退させたい」で病院に行く人あんまりいない気がするというか
主訴はもっと別の症状で、ついでのように性衝動も強くて……のほうが現実的にありそうな気もする で、結果的になんかの薬の副作用で性欲減退になって、みたいな
なんかねじれている気がするんだよなあ、空論っぽさというか
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「性犯罪者に対する刑罰/治療のシーン」こそ主で、「市井の人々が医療機関や薬局で件の薬をある程度容易に入手できるようになったとき何が起きる?」の話は傍流だからこその空論っぽさかもしれない
ふいんき(なぜか変換できない)重視のクライムサスペンス映画だったけどあんま刺さらなかった56点。
商社勤務だったがミスをおっかぶせられてクビになり妻とは離婚、タクシー運転手をしてうだつの上がらない日々を送る窪塚洋介。ある日、乗せた客が大物政治家とその愛人でbig dealがあることを聞いてしまう。チョコプラ長田にいびられてイライラして事故ったりいろいろあった結果、タクシー会社の同僚でサヴァン症候群の坂口涼太郎と元自衛官で博徒の葵揚と3人で絵画窃盗計画を企てる。絵画を捌くヤクザのJin Doggらも絡み合い壮絶な作戦が幕を開ける。
みたいな話。
まずオープニングがよくてねぇ。中華料理屋でもちゃもちゃちゃんと汚く飯を食うJin Doggらヤクザとそれに相対する黒スーツを決めた主人公組3人を細かいカット割りでスタイリッシュに映して。虚勢を張る3人に対してJin Doggがコンビニ袋を渡し、恐る恐る中を見ると中には目玉が。その目玉を拾い上げてビールの入ったコップに入れるJin Dogg。その後ろで時計が逆回転を始める。
ここ超カッコイイ。絶対にキレさせたくないラッパー全一のJin Doggがそのキャラクター性をいかんなく発揮したキケンなヤクザを演じていてめっちゃよかった。ただどうしても役者ではないので、その後のアクションシーンとかはやっぱちょっとキツいなぁって感じはあったけど。殴る蹴るの暴行は「当てたらあかんねやろなぁ」感が出てた。
演者で言えば、窪塚は社会に抑圧される冴えないおじさんを演じていていい年の取り方をしたなと思ったし、何より葵揚がいかにもキレてる元自衛隊員って役を演じていてルックスも含めてこの作品内でかなり存在感があってよかった。演者は概ねよくて演技を見る映画としては普通に面白かった印象。
話としてはタイトルのsin clockはsinとsynchronicityをかけているらしく、作中では「時計」と「偶然の同期」が非常に印象的に使われている。冒頭で出てきた逆転する時計もそうだし、いきなりネタバレするんだけど今回の窃盗計画の失敗に大いに寄与するのもタクシーの車内時計だし、黒幕が息子に買ってもらったと語り金を横取りした後ゴミ箱に捨ててしまうのも時計だ。そして彼が国外逃亡に使った飛行機はエンドロール前で行方不明になったことが知らされ、空港のゴミ箱の中で時計は進み続けて終わる。
synchronicityに関しても主人公組3人の誕生日が平成3年3月3日の素数でありフィボナッチ数列である3で揃っていることから「俺たちが揃ったのは奇跡だ。運命が俺たちに行動しろと言ってる」という謎の啓示を受けこの計画がスタートする。窪塚がタクシー運転手の資格を得たのが令和6年6月9日で3の倍数。3時30分に金の受け渡しをする予定が、窪塚が遅れ金を横取りされる。窪塚の時計は3分送らされており、彼が時間通りに受け渡し場所に行ったと思っていた時間は本当は3時33分だった。
逆に3に関係のない数字になると途端に具合が悪くなる。商社で起きた問題を上司と広告代理店に2人で謝りに行く窪塚。ちなみに相手は3人。窪塚は職を失う。その後、タクシー運転手をしているときにだいたい嫌な目に合わされるのは客が1人で社内に2人の時。
Jin側のヤクザは2名で、大物議員が雇ったと思われる絵を奪還に来たヤクザも2名。こいつらはそれぞれ殺し合って全滅。ネズミ捕りをしていた警官は2人体制だし、離婚後も子供と元嫁の3人だったときは状態は悪いとはいえ安定していたが嫁に新しい恋人ができて関係は破綻。同じく離婚して3人だった黒幕は息子からもらった時計を棄て縁を切ったことで行方不明になる。
また黒幕とは基本は坂口涼太郎を交えた3人で接することが多いのだが窪塚と2人で話をする印象的なシーンがあるが実はそこが今回の計画が破綻する決定的な場面だったことがわかる。
といったように、この映画自体は非常に綿密に設計されているのはわかるが、それが映画としての面白さに寄与しているかはまた別の話だと思う。もろちん、普通に生きてるだけなのになんかうまくいかない市井の人が「できすぎた偶然」から道を踏み外してしまうという作品のテーマの性質上、前振りの何でもないうまくいかない日常シーンが必要なのはわかるけど正直かったるいし、やりに行き過ぎてる感じがちょっと苦手。盗むという工程自体は特に問題もなくシンプルに終わってしまうのも正直拍子抜け。
特にチョコプラ長田演じる警官にいびられてイライラしてバカみたいにタクシーで暴走して事故る展開はシンプルアホなのかな?としか思えなくて、そこで一気に感情移入度が下がってしまった。坂口涼太郎が学校をクビになった理由もちょっとなぁって感じだし、葵揚は存在感はピカイチだが「そういう役!」って感じの書割で人間間が薄い。
仕掛けを頑張った結果、役者はみんな魅力的だが登場人物の魅力が薄くなってしまった印象。実際のところクライムの部分も割と拍子抜け感があるし。寓話なんですよと言われればそれはそうかもしれないけど、俺的には微妙。
とはいえ、おじさんになってなおシュッとした雰囲気イケメンの窪塚と何よりヤバいヤクザのJin Doggは一見の価値があるし、どんでん返し含めてクライムサスペンスとしても一定の強度はあるので、邦画のクライムサスペンス見たい夜にはそこそこオススメ。
脳外科医竹田くんのモデルの医師に極刑を求めるコメントをあまり見かけない
それより圧倒的に見かけるのが「二度と医師をやらせるな」という類のコメント
危険運転による死亡事故とか性犯罪とかだと極刑……死刑にしろとか二度と娑婆に出すなとかそういう類のコメントがいくらかは見かけるのに
医療事故事件ニュースに対して「二度と医師をやらせるな」というコメントと同じ構図にするなら、「二度と運転させるな」とか「去勢しろ」になるか
なるほど、非現実的なのか?
二度と運転させるなと言って運転免許失効剥奪したとしても無免許運転はできるし、去勢したとしても性暴力はできる(なんかここ怪しいな、別の論理があるような、あとで要再考)
医師に二度と医師をやらせないというのは職を与えないだけでいい(素人考え)、無免許医は考慮せず
私/関係者/誰かが被害者にならないよう対処せよ、というのが感想として噴き出ているのか
うーん、なんか釈然としないな
今までみたどの考察よりも、現状を言語化できているように思う。
よくよく考えてみると、この現象はなにもクックパッドに限った話ではないように思う。
2000年前半に誕生した、いわゆるweb2.0世代のサービスはだいたいこの傾向があるのではないか?
うん。とてもしっくりくる。
運営がイベントにお金を使い過ぎたとか、画質が悪いとか、ニコニコ動画が衰退した話はみんな大好きで、色々な言説が好き勝手に飛び交っている。
でも、この考察はとても刺さる。
そうか、そういうことだったんだ。
プレミアム会員数は、最盛期には200万人規模だったのが、今では100万人を切るレベルにまで減っている、という話をよく見かける。随分な減りようではあるが、体感的には今やニコニコ動画は「誰も見ないサービス」という印象なので、むしろまだそんなに残っているのかという感すらある。
ニコニコ動画衰退の原因については、色々なことが言われている。
まず、「ニコニコは内輪ノリの素人動画ばかりで質が低いから廃れた」という仮説。
たしかにニコニコは、素人の内輪ノリ動画ばかりだ。しかしそれは昔からずっと同じ。したがって、衰退の原因の説明としては不十分だと思う。
次に、「ニコニコはクリエイターへの利益の還元が弱い搾取のシステムだから見捨てられた」という仮説。
これも一理はある。しかし、ニコニコ全盛期には、金銭的見返りがなくてもこぞって「搾取」されてくれる人が大勢いた。そのことを考えると、やはり衰退の原因としてはちょっと弱い。
そこで更に考えてみると、ニコニコ動画衰退の原因は、ネット上のコミュニケーションのあり方の変化にあるのではないか。
ざっくり言って、インターネット空間は、SNS以前とSNS以後で、「対等なネット市民による双方向的交流空間」(これは多分に幻想の側面もあったのだが)から、「一握りのインフルエンサーによる一方的発信を大多数の情報消費者が享受する空間」へと変貌した。
ひょっとしたらSNS前後よりも、YouTube前後と言う方が的確なのかもしれないが、とにかく2010年代前半から半ばあたりにかけて大きく変わった。
今から20年ほど前、00年代半ばから後半にかけては、掲示板・ブログ・動画サイトの群雄割拠期というのがあった。
今や動画は、著名人や企業やプロのクリエイター等のインフルエンサーが一方的発信をするために運営するのが主だが、20年前の様子はまるで違った。
名もなければ特段の専門知識もない市井の人々がこぞって投稿し、特に作るべき理由もないのにMADを作っては、互いに見に行きコメントを付け合って交流を深めていた。今思うと気持ち悪いですね。
考えてみたら、今でもSNSのプロフィールに、「〇〇好きです」「気軽に絡んでください」とか書いて日記みたいな投稿をし、見知らぬアカウントにどんどんリプする中高年が大勢いる。
あれは現代に適応できていない00年代の残党なのだということに、私も今書いていて気付いた。ますます気持ち悪いですね。
なお、SNSにおいて、中高年ほど他人に返信をしたがる傾向があることは、少なくとも私の体感上は明瞭に出ている。


画像は、ここ3ヶ月の私のアカウントが得たインプレッション数と返信数。見てのとおり、45歳以上のユーザーはインプレッション数の約20%を占めるに過ぎないのに、返信数の45%を占めている。
いや本当に気持ち悪いですね。そういう私も45歳なんだけど。
勢いがあった頃のニコニコ動画も、まさに「そういうツール」であった。
つまり、優れた動画コンテンツを取得するためのサービスではなく、素人同士が動画を投稿し合って交流するためのサービスだったのである。
ニコニコ動画には、「コメント」という機能がある。動画を見たユーザーが、再生位置に同期した文字でフィードバックできるという機能だ。この双方向的な機能こそが、ニコニコ動画らしさを象徴する中核的機能だったといえる。
コメント欄を覗いてみると、「職人乙!」「ここすき」「泣いた」「草」というような反応がずらっと並び、投稿者もそれらに対し、律儀に反応したり、次回作で拾ったり、時にはコメントで会話が始まったりするというのが常だった。
もちろん、皆が皆動画を投稿したり、コメントを打ってやり取りをしたりしていたわけではない。むしろ、いわゆる「ROM専」(死語かもしれない。Read Only Memberの略。書き込まずに見るだけのユーザーのこと。)の方が多数派だっただろう。しかし、ROM専のユーザーたちも、書き込む人たちが作り出す双方的なコミュニケーションの「場」を楽しんでいたのだと思う。
おそらくニコニコ動画の本質は、動画の画質や配信の安定性や作品の“完成度”ではなく、このようなコミュニケーションにこそあった。
そして、今ではそのようなコミュニケーションに価値を見出す人が少なくなったから、ニコニコ動画は順当に廃れた。
それこそ昨今言われる「タイパ」の問題もあるだろう。誰かの内輪ノリを弾幕コメント込みで味わうより、信頼できるプロの動画を一方的に受け取る方が、タイパは良いに決まっている。これは時代の流れであり、ニコニコ側の努力でどうにかできる範疇を超えていたのではないか。
だからやっぱり、「内輪ノリの素人動画ばかりだから廃れた」「還元が弱いから廃れた」というのは、ニコニコ動画衰退の原因を言い当ててはいないのだ。
いや、内輪ノリでも成立する“場”が痩せたから廃れたのだし、金銭的見返りがなくてもコミュニケーションの楽しさを対価として労力を提供してくれる人が減ったから廃れたわけなので、半分は合っているのだが。
それもまた極端な話で、現実には『差別はよくない、隣人を大切に』ということを学んできて、例えば街頭インタビューやアンケートなんかをした時には『差別は良くないと思います』と答えるような市井の人が、同じ口で「旅行先が外国人ばっかりで嫌」「やっぱり◯◯(国名)の人はちょっとね」と、いやそれ普通に国籍差別、民族差別なんだが⋯⋯ということを、『素朴な肌感覚として』口にしたりするんよ
思想や主義主張ではなくて、生活の中の肌感覚からくる個人的な意見だと彼ら彼女ら自身は思っているから、それが差別なんていう大げさなものだとは思っていない
ちょっと大きな声では言いにくいけど、などと前置きをしたりしながら、そういう「本音」は交わされているわけだ
良くも悪くも人間は「それ(建前)とこれ(本音、生活感覚)とは別の問題」という不協和を成立させてしまう
教育レベルが低くはなく、裕福で、他者への配慮が行き届いており、マイノリティを扱ったドラマや映画も見ているから、勝手にリベラルな考え方に親和性のある人だと思っていると、ポロッとそういう発言をするのである
人はいつも無意識のうちに知らず知らず内集団の保身に流れ、差別に傾いていくもので、普通というのは「保守寄り」であり「右寄り」になってゆく
○ご飯
朝:なし。昼:春雨スープ。サラダ。夜:バナナ。ヨーグルト。キュウリ。ギョニソ。人参、大根、ピーマン、キノコのスープ。素うどん。間食:バウムクーヘン。クッキー。
○調子
むきゅーはややー。お仕事はひままー。もう完全に仕事納めまでの帳尻合わせばかりで、暇。
○ポケットモンスターブラック(メスのみポケモン旅)
チェリネがレベル35になってエナジーボールを覚えたので心置きなくドレディアに進化させた。
特性マイペースにしてあるので、はなびらのまいでバーサク戦法とかも出来そうで楽しみ。
・魔男
最強として格を保ち続けて来たわけだけど、ここに来て過去とそのウィークポイントが明らかになった。
この状態でも格を維持できるのか期待が膨らむが、イチに家族が必要だと諭した以上、理だけじゃないアンサーも期待したい。
・隣の小副川
鉄使いとのバトル決着。
召喚術師の子が、市井の人々を落ち着かせるために召喚魔法をショーとして使うシーンとても好き。
この漫画の魔法がどうあるべきなのかを端的に示した名シーンだと思う。
「一刻も早く死ななくては」のセリフが重すぎる。
イム様周りは、人の尊厳を如何に傷つけるのか、という話が手を変え品を変え繰り返されているけど、カラッと痛快に終われるのかなあ。
それがそのまま、ラフテルやワンピースの意味と、ルフィの夢の果てに接続するのだろうけど、とにかくもうイム様が悪いやつすぎて早くなんとかして欲しい。
現代の現実的なヒーローを描くという意味では歴代屈指の出来だと思う。
ただ、尺の都合なのか「ヴィジランテ(自警団)」の是非については片手落ちになっているとも思った。
とりあえず、いい加減、ディズニードラマは適当なところで切るのやめろ。
ガンニバルもそうだったし、今作もそう。最低限、何らかの話は終わらせろ。
今作では仲間を奪われ怒りを制御できず自身の考えるヒーローの資格を失い、ヒーローを引退するマット・マードックと、自身の悪心を制御することでニューヨーク市長へと昇りつめるウィルソン・フィスクという対立構造から話が始まり、フィスクの悪心が徐々にあらわになるにつれ、再び怒りを募らせついに復帰するマットが鏡像として描かれる。今作の序盤から終盤にかけてマットとフィスクはほぼ同じ属性のものでは?というエクスキューズが投げかけられている。これは過去作からもある種共通したテーマだった。
しかし、今作では市長として時に脅し、時に煽てながら仲間を増やしていくフィスクに対して、マットは孤立を深めていく。そしてその結果、マットは破れ、フィスクが勝利する。しかし孤独だと思っていたマットにも、ニューヨークを取り戻したいと思っている善良な仲間がいた。彼らの革命が始まる!完!
完!じゃねぇんだわ!という気持ちはあるが物語としてはよくできている。
キャスリン・ビグローならここで本当に「完」にしそう。
フィスクが権力内、そして市民への支持を得ていく過程で利用するのは「顔隠して暴力ふるいまくるヴィジランテ(自警団)ってヤベー奴らじゃね?」という印象操作。これは例えば今でいうなら「移民」であったり古くは「輸出大国日本」であったりという「共通の敵を作り出すことで団結を促す」という手段であるのだが、これを行うことでフィスクは「自身への団結」と「敵の排除」の両方を効率よく行っていく。過去に倣う立派な政治家である。
しかしそれに対してマットは今作ではヴィジランテとしての活動はほぼ全く行わない。
マットがデアデビルになるシーンは概ね4つ。
1~3は「知り合いが危険じゃねーか!!!(ブチギレ)」で、4は自己防衛。
自警団として「世の中の悪を退治する」という活動を行うシーンがほぼない。
マットがデアデビルになるときは終始ブチギレており私怨からヴィランをボコボコにしている。
もちろんこれが「自警団って言ってるけど感情的に暴力をふるっているだけでは」という、アンチ自警団のフィスク側の視点を補強する役割を担っていて、だからこそ市民の信頼を回復するに至らず敗北するというのは理解できるのだが、それにしても作劇的作為を感じすぎるなと思った。
フィスクニューヨークは治安も全然回復してないし、何なら悪くすらなってるのにマットはそれらはおそらく無視して自分に関係のある人が害されるとブチギレて暴れ出すヤベーやつになってるけど、さすがに前まではそこまでのキャラじゃ無かったよね?と感じてしまった。
昨今多いけどやっぱ市井の人々を救うシーンを描かずにヒーローの葛藤を描こうとするのやっぱフェアプレイに反すると思う。そりゃ「仲間を救う」ためだけに力を使うんだったら「ヤンキー」や「暴力団」「マフィア」とは変わらんけど、そうじゃない人だから「ヒーロー」なんでしょ。
今作に登場したフランク・キャッスルならそれでいいけど、マット・マードックはそうじゃなかったはず。もちろん冒頭でイキスギ!ヒーロー暴行伝説!やっちゃって自警団活動に葛藤してるって構成なのはわかるけど、それで市井の人が苦しんでるのは無視して、自分の知り合いならブチギレるってやっぱ違和感があるよ。
とはいえ「デアデビルの新作」として見なければ(まぁそう見ないとフィスクとマットの関係とかよくわかんないんだけど)ここ最近のMCU作品の中では映画を含めても完成度は高いほうだし、ノワール系の作品が好きなら見て損はないと思う。
ただ、マジで「え?ここで?」ってところで終わるので、26年3月にシーズン2があるそうなのでそれを待ってから見てもいいかもしれない。元々全18話だったのをシーズン1の9話で出したって話だから、まさかシーズン2もいいところで終わることはないと思うので。まさかね。
最後まで見たらまた感想代わるのかもしれないけど今のところ「デアデビル君、君そんな感じだっけ?」ってなってる。
今作では最初のシークエンス以降マードック君はデアデビルにならずに弁護士活動に邁進して、そのうち復活して活躍するんだけど、今のところ3回活躍シーンがあってそれぞれ大切な人が害されているからかデアデビル君は怒りに任せてヴィランをボッコボコに制裁というよりは完全に暴行を加えている。
もろちん現代のネット自警団やトランプ云々による自警団の危険性に警鐘を鳴らしたいっていうテーマ性はわかるんだけど、今のところ作中で「デアデビル」君は3回中3回、常にブチ切れてて犯人に暴行を加え続けている。
う~ん、いちおうネトフリ版も見てたんだけどデアデビル君、君ってそんな感じだっけ?君がそんな感じだったらそりゃフィクス君も「自警団は危険だ」って言うよ。カウンセリングにかかるのはフィクス君じゃなくて君の方だよ。デアデビル君が自分に関わりはないけど困ってる市井の人を助けたりする描写がないのがよくないんだろうな。
たぶんあと2,3話だと思うけどこれがどう着地するのか楽しみ。
自分がよく思うことは、世界規模戦争と全国規模メディアは、その当時に新規に発明されたもので、
後付でここがおかしいと言うことはできるが、それに関して言うと現代ではSNSが危険だとよく言われる
SNSも発明されて15年が経ち非常に進化と深化と分化が起きている
公共メディアが国が滅びたという過去の反省で不偏不党の原則を身につけたとすれば、
斎藤氏の反軍演説は確かに存在したので、当時が戦争に全面的に傾いていたとしても
日本人はやることはやっていたということが分かった
東大の南原繁のように好戦論?を言ってて撤回したというのもあるし
メディアの暴走については、明治新政府下で一等国になりたいとして、
農民の税金しかないのに高価な軍艦を買ったりして、好戦論を政府一丸となって宣伝してきた明治政府の責任というのがあると思うので、
そこから昭和の世界規模戦争論に見事に引き継がれてしまったので、メディアがそこまで責任があるのかというと疑問を持ってしまう
世界のことを何も知らない市井の人をうまく騙して、貧しい農民から税金をせしめて軍備を揃えた
大日本帝國そのものが戦争帝国としての側面とも言えない、主要な弾丸としての性質を持っていた
尊王攘夷の攘夷を70年にわたって戦争帝国としてやって、それが終焉した
その後はなんであれ外圧を利用しようがなんであろうが通常国になった
非戦の通常国としても、これも初めての体験であるので、いろいろ戸惑っている面がある
中世の西洋で、どの国もどの領主も、戦争装置として動いていたので
人間の本性として、行くところまで行った
戦争の被害については、気の済むまで各国がやった結果、反省するようになった
気が済んでない国については、好戦論をいまだに展開している
戦後70年談話 全文
終戦七十年を迎えるにあたり、先の大戦への道のり、戦後の歩み、二十世紀という時代を、私たちは、心静かに振り返り、その歴史の教訓の中から、未来への知恵を学ばなければならないと考えます。
百年以上前の世界には、西洋諸国を中心とした国々の広大な植民地が、広がっていました。圧倒的な技術優位を背景に、植民地支配の波は、十九世紀、アジアにも押し寄せました。その危機感が、日本にとって、近代化の原動力となったことは、間違いありません。アジアで最初に立憲政治を打ち立て、独立を守り抜きました。日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました。
世界を巻き込んだ第一次世界大戦を経て、民族自決の動きが広がり、それまでの植民地化にブレーキがかかりました。この戦争は、一千万人もの戦死者を出す、悲惨な戦争でありました。人々は「平和」を強く願い、国際連盟を創設し、不戦条約を生み出しました。戦争自体を違法化する、新たな国際社会の潮流が生まれました。
当初は、日本も足並みを揃えました。しかし、世界恐慌が発生し、欧米諸国が、植民地経済を巻き込んだ、経済のブロック化を進めると、日本経済は大きな打撃を受けました。その中で日本は、孤立感を深め、外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました。国内の政治システムは、その歯止めたりえなかった。こうして、日本は、世界の大勢を見失っていきました。
満州事変、そして国際連盟からの脱退。日本は、次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした「新しい国際秩序」への「挑戦者」となっていった。進むべき針路を誤り、戦争への道を進んで行きました。
戦後七十年にあたり、国内外に斃れたすべての人々の命の前に、深く頭を垂れ、痛惜の念を表すとともに、永劫の、哀悼の誠を捧げます。
先の大戦では、三百万余の同胞の命が失われました。祖国の行く末を案じ、家族の幸せを願いながら、戦陣に散った方々。終戦後、酷寒の、あるいは灼熱の、遠い異郷の地にあって、飢えや病に苦しみ、亡くなられた方々。広島や長崎での原爆投下、東京をはじめ各都市での爆撃、沖縄における地上戦などによって、たくさんの市井の人々が、無残にも犠牲となりました。
戦火を交えた国々でも、将来ある若者たちの命が、数知れず失われました。中国、東南アジア、太平洋の島々など、戦場となった地域では、戦闘のみならず、食糧難などにより、多くの無辜の民が苦しみ、犠牲となりました。戦場の陰には、深く名誉と尊厳を傷つけられた女性たちがいたことも、忘れてはなりません。
何の罪もない人々に、計り知れない損害と苦痛を、我が国が与えた事実。歴史とは実に取り返しのつかない、苛烈なものです。一人ひとりに、それぞれの人生があり、夢があり、愛する家族があった。この当然の事実をかみしめる時、今なお、言葉を失い、ただただ、断腸の念を禁じ得ません。
これほどまでの尊い犠牲の上に、現在の平和がある。これが、戦後日本の原点であります。
事変、侵略、戦争。いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない。植民地支配から永遠に訣別し、すべての民族の自決の権利が尊重される世界にしなければならない。
先の大戦への深い悔悟の念と共に、我が国は、そう誓いました。自由で民主的な国を創り上げ、法の支配を重んじ、ひたすら不戦の誓いを堅持してまいりました。七十年間に及ぶ平和国家としての歩みに、私たちは、静かな誇りを抱きながら、この不動の方針を、これからも貫いてまいります。
我が国は、先の大戦における行いについて、繰り返し、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明してきました。その思いを実際の行動で示すため、インドネシア、フィリピンはじめ東南アジアの国々、台湾、韓国、中国など、隣人であるアジアの人々が歩んできた苦難の歴史を胸に刻み、戦後一貫して、その平和と繁栄のために力を尽くしてきました。
こうした歴代内閣の立場は、今後も、揺るぎないものであります。
ただ、私たちがいかなる努力を尽くそうとも、家族を失った方々の悲しみ、戦禍によって塗炭の苦しみを味わった人々の辛い記憶は、これからも、決して癒えることはないでしょう。
戦後、六百万人を超える引揚者が、アジア太平洋の各地から無事帰還でき、日本再建の原動力となった事実を。中国に置き去りにされた三千人近い日本人の子どもたちが、無事成長し、再び祖国の土を踏むことができた事実を。米国や英国、オランダ、豪州などの元捕虜の皆さんが、長年にわたり、日本を訪れ、互いの戦死者のために慰霊を続けてくれている事実を。
戦争の苦痛を嘗め尽くした中国人の皆さんや、日本軍によって耐え難い苦痛を受けた元捕虜の皆さんが、それほど寛容であるためには、どれほどの心の葛藤があり、いかほどの努力が必要であったか。
寛容の心によって、日本は、戦後、国際社会に復帰することができました。戦後七十年のこの機にあたり、我が国は、和解のために力を尽くしてくださった、すべての国々、すべての方々に、心からの感謝の気持ちを表したいと思います。
日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の八割を超えています。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。
しかし、それでもなお、私たち日本人は、世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わなければなりません。謙虚な気持ちで、過去を受け継ぎ、未来へと引き渡す責任があります。
私たちの親、そのまた親の世代が、戦後の焼け野原、貧しさのどん底の中で、命をつなぐことができた。そして、現在の私たちの世代、さらに次の世代へと、未来をつないでいくことができる。それは、先人たちのたゆまぬ努力と共に、敵として熾烈に戦った、米国、豪州、欧州諸国をはじめ、本当にたくさんの国々から、恩讐を越えて、善意と支援の手が差しのべられたおかげであります。
そのことを、私たちは、未来へと語り継いでいかなければならない。歴史の教訓を深く胸に刻み、より良い未来を切り拓いていく、アジア、そして世界の平和と繁栄に力を尽くす。その大きな責任があります。
私たちは、自らの行き詰まりを力によって打開しようとした過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、いかなる紛争も、法の支配を尊重し、力の行使ではなく、平和的・外交的に解決すべきである。この原則を、これからも堅く守り、世界の国々にも働きかけてまいります。唯一の戦争被爆国として、核兵器の不拡散と究極の廃絶を目指し、国際社会でその責任を果たしてまいります。
私たちは、二十世紀において、戦時下、多くの女性たちの尊厳や名誉が深く傷つけられた過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、そうした女性たちの心に、常に寄り添う国でありたい。二十一世紀こそ、女性の人権が傷つけられることのない世紀とするため、世界をリードしてまいります。
私たちは、経済のブロック化が紛争の芽を育てた過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、いかなる国の恣意にも左右されない、自由で、公正で、開かれた国際経済システムを発展させ、途上国支援を強化し、世界の更なる繁栄を牽引してまいります。繁栄こそ、平和の礎です。暴力の温床ともなる貧困に立ち向かい、世界のあらゆる人々に、医療と教育、自立の機会を提供するため、一層、力を尽くしてまいります。
私たちは、国際秩序への挑戦者となってしまった過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、自由、民主主義、人権といった基本的価値を揺るぎないものとして堅持し、その価値を共有する国々と手を携えて、「積極的平和主義」の旗を高く掲げ、世界の平和と繁栄にこれまで以上に貢献してまいります。
終戦八十年、九十年、さらには百年に向けて、そのような日本を、国民の皆様と共に創り上げていく。その決意であります。
平成二十七年八月十四日
に思えて仕方ない。
https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/a8c540ceeac4bad06c7f110d2c927b1b0f2763e2
この方もう42歳なのに、何か、大学2年生が午前3時半に書き上げたレポートみたい。格好つけて難しい言葉使いたがって間違ってる。
すわ偶然出会った
◾️「すわ」は、「うわー!」くらいの意味。
食うに食わずや
◾️正しくは「食うや食わず」。
◾️「やおら」は「静かに、ゆっくりと」という意味。「ようやく」と言いたかった?
似ても似つかない全く異形の
◾️いろいろ変。言葉の正しいつながり方としては、「〇〇広しといえどお目にかかったことがない」だ。「狭し→広し」、「は→が」。保守界隈が実際、広いか狭いかは知らない。
よしんば自らが差別や排外主義を行っているかもしれない、というのはそれに反対する言論や勢力の抵抗によってはじめて相対化されるものであろう。
◾️「よしんば」のつながる先がない。
その間口のほとんどは
◾️んー。ギリセーフ?
彼女彼らたち
◾️「彼ら彼女ら」。「らたち」?
優秀の感を受け
◾️正しくは「〇〇の感があり」。
目下の現代日本
◾️露に読み仮名つけてる場合ではない。むき出しのものが顕になるってどういうことだ。
◾️「間口」好きなみたいだけど間違って使ってる。
できずらい
◾️できないらい
いずれにせよ、戦後80年をして、少なくとも、国民主権・基本的人権の尊重・平和主義を掲げてきた私たちの生きる戦後日本という枠組み自体が、実はかなり前からドロドロに溶けていて、ややもすれば陰謀論やトンデモと溶融して、何の知識も教養も反省も視座も価値観も無い「市井の人々」が、投票所に行って「一票」を投じることが、既存政党の政策の吟味すら難しい層に刺さり、「参政党」と書かせる動機になったのだとすれば、「戦後民主主義」の末路という結論と併せて、背筋が凍る破滅の恐怖感を、日々痛感しているのである(了)。
◾️突然とても長い、最後の文。「をして」の誤用。「何の知識もない(中略)市政の人々が一票を投じることが、既存政党の政策の吟味すら難しい層に刺さり」? 「〇〇という結論と併せて、△△の恐怖感を、日々痛感」?「結論を痛感」?「恐怖感を痛感」?そして主述の不整合。(了)は「。」の外。
前にもこういうことあったから、今回だけ特別急いでてってことでもなさそう。いつも急いでて間違うのか、いつもただ間違ってるのか、どっちか。
元増田とは別人だが、DeepReserchの回数に余裕があるため私も調べてみた。
プロンプトは以下の通り。
DeepReserchで、イスラエルとイランの軍事衝突(特に2025年6月のミサイル応酬)に関するイラン国内の国民の声をペルシャ語で調べて日本語で報告してほしい。イラン国内の情報が知りたいので、日本語や英語の情報は無視すること。検索言語はペルシャ語に限定する。
元増田が言うにURLが多いと登録できないそうなので、文末の参考URLは省略している。(というか字数制限で途中までしか表示されないようだ。)
ChatGPTのログを共有するので、ファクトチェックを求めるならこちらから参照URLを確認してほしい。
https://chatgpt.com/share/68565e1a-8af4-800e-a53a-79d08057f929
---以下調査結果---
2025年6月中旬、イスラエルとイランの間でミサイルの撃ち合いを伴う軍事衝突が発生し、中東情勢が緊迫しました。これに対し、イラン国内の一般市民はTwitter(現X)やInstagram、TelegramなどのSNS上で様々な反応を示しています。本調査ではペルシャ語の情報に基づき、イラン国内SNS上で見られる世論を分類し、それぞれの傾向と特徴的な投稿内容を考察します(日本語や英語の情報は除外しています)。SNS上の反応は大きく以下のカテゴリーに分けられ、各カテゴリーのおおよその割合と具体例は以下の通りです。
イスラム共和国体制を支持し、対イスラエル強硬姿勢を称賛する声です。こうしたユーザーはイスラエルによる攻撃に対する「正当な報復」を熱烈に支持し、イラン軍のミサイル反撃に誇りを表明しています。実際、Twitter(X)上では「#انتقام_سخت(厳しい報復)」「#وعده_صادق۴(真なる約束4)」「#پاسخ_موشکی(ミサイルの回答)」といったハッシュタグが怒りや決意とともに多数投稿され、英語で「#IranStrikesBack」といったタグもトレンド入りしました。多くのユーザーが「イラン軍の戦果」を誇らしげに共有し, 「もはやイランは標的になるだけでなく強力な反撃者でもある」 と強調しています。このようにSNS上では怒りと喜びが交錯する雰囲気で、Instagramでもイラン国旗やミサイル発射の瞬間を映した動画が次々と投稿され、イスラエルへの報復に対する人々の歓喜や興奮が示されています。
この強硬派の論調では、「今回の反撃は正義であり不可避だった」とする意見が目立ちました。例えば、「イスラエルの先の攻撃に対する正当で避けられない応答だ」 といった声や、「#ایران_قدرتمند(強力なイラン)」「#برای_ایران(イランのために)」等のハッシュタグも登場し、“この押し付けられた戦争を終わらせよ”という国民の集団的要求を示しています。一部のユーザーは英語やヘブライ語の投稿を通じて自国への支持を発信し、「イラン国民の声を世界に届けよう」 と試みる動きもあります。全体として圧倒的に支配的なのは「誇り」と「満足感」を帯びた愛国的トーンであり、イランの防衛力に胸を張る投稿が大勢を占めています。
また、彼らは国家の団結や士気高揚を訴える一方で、この立場に同調しない人々を激しく非難する傾向もあります。SNS上では愛国者を自認するこれら強硬派が、反対派に対し「 وطنفروش(売国奴)」「خائن(裏切り者)」など苛烈な罵声を浴びせる場面も多くみられました。逆に言えば、彼ら自身は心の底から自らを愛国者( وطندوست / میهنپرست )と信じ、イスラエルと戦い国土を守ることこそが真の愛国行為だと確信しています。イラン国営メディアの分析によれば、SNS上の書き込みをデータ分析した結果、イスラエルに対する集団的な憎悪と怒り、そして祖国防衛のための強い連帯感が浮き彫りになったとされています。以上のような政府・体制支持派の声は、投稿全体のおよそ3割程度を占めると見られ、特に国内向けプラットフォームやInstagram上で大きな存在感を持っています。
戦争そのものに反対し、平和や冷静さを求める声もSNS上で非常に多く見られました。これら反戦派のユーザーは必ずしも政府支持ではありませんが、「たとえ相手がイスラエルであっても戦争はイラン国民にとって望まない破滅をもたらす」と強調しています。Twitter上では「#جنگ_خیلی_ترسناکه(戦争は本当に恐ろしい)」や「#نه_به_جنگ(戦争反対)」といったハッシュタグが人気化し、多くのユーザーが戦争への恐怖感を率直に表明しました。これらのタグの下では、過去数十年にわたるイスラム共和国による国内弾圧や紛争になぞらえて「我々イラン人は長年ずっと武器を持たない戦争(注:体制の弾圧)を強いられてきた」という趣旨の投稿も散見されます。つまり、人々は「外部との戦争どころか、我々は国内で既に十分苦しんできた」として、これ以上の戦火拡大に強くノーを突き付けているのです。
具体的な反戦の声としては、例えばあるジャーナリストは「イスラム共和国を乗り越える方法は外国からの攻撃ではない。戦争は国を荒廃させ、政府はますます弾圧を強める。外国の軍事攻撃で自由を勝ち取った国などない。もし軍事攻撃があればその犠牲になるのは政権ではなく一般国民だ」と投稿しています。また別のユーザーは、1978年のアーバーダーン「シネマ・レックス火災」事件(旧体制末期に数百人が死亡)など歴史的悲劇に触れつつ、「戦争は本当に怖い。内部の『敵』(革命勢力)が45年以上前に始めた革命という名の戦争で、我々はずっと犠牲を払ってきた」 と訴えました。さらには、治安部隊によるデモ参加者への暴力(子供や青年が犠牲になった事例)や、辺境地域での貧困(飲料水が無く子どもがワニに襲われるような状況)などを引き合いに出し、「これほど国民が傷つけられてきた。我々にとって戦争ほど恐ろしいものはない」 と語る投稿もあります。このように反戦派は、「戦争こそ最大の悲劇」であり「我々イラン国民にそんな恐怖を味わう権利はない(=その必要はない)」と強調しています。
反戦派の多くは同時に現在の政権にも批判的ですが、愛国心の観点では政府支持派と重なる点もあります。すなわち「たとえ政権には反対でも、外国の侵略には断固反対し祖国を守る」というナショナリスティックな平和志向です。彼らはイスラム共和国や亡命反体制勢力の双方に否定的でありつつ、「どんな状況でも祖国への外部からの攻撃は受け入れられない」「戦争ではなく和平が必要だ」と声高に訴えています。実際、反戦派のユーザーは「#جنگ(戦争)反対」「#صلح(平和)を求める」といったメッセージを発信し、戦争阻止と停戦の必要性を強調しました。こうした訴えには法的・人道的な根拠を示す人々もおり、「国際刑事裁判所がイスラエルの指導者に逮捕状を出した」「イスラエルの先制攻撃論には法的根拠がない」「核問題での二重基準だ」等と指摘しつつ反戦の声を上げる動きもあります。さらに一部のユーザーは戦時下で市民の安全を守るための実用的情報を共有しました。例えば、空爆に備えた安全確保の方法や応急処置の知識、不安やパニックを抑える心理カウンセリング的アドバイスなどです。ある記者は「もし空爆があるなら国は市民向けの防災指針を示すべきだし、攻撃時に市民同士が連絡を取れるようネット検閲を解除すべきだ」と訴えています。
以上のような反戦的な投稿はSNS上の意見全体の約4割と推定され、最も大きな割合を占める潮流です。長引く経済苦境や国内弾圧に苦しむイラン国民にとって、さらなる戦火拡大への拒絶感がいかに強いかが伺えます。反戦派は互いにハッシュタグで連帯しあいながら、「戦争を止めよ」「イランをこれ以上傷つけるな」という切実な声を上げ続けています。
イスラム共和国政権そのものへの怒りや批判を前面に出した意見も数多く見られました。これらの投稿は戦争そのものへの賛否というより、「この状況を招いたのは政権のせいだ」 という点で一貫しています。多くのユーザーがイスラエルとの衝突に関し、「イランの開戦を招いた責任はイラン政府、とりわけハメネイ師(最高指導者)にある」と断じています。例えばSNS上に寄せられた市民の声として、「イスラエルの空爆とイランのミサイル応酬が続く中、自分たちの目撃したことを報告しながら、ほとんどの人がイラン政府とハメネイに責任があると言っています。こんな戦争は本来、我々国民の権利(あるべき姿)ではなかった」とまとめられています。実際、一般ユーザーの投稿には「この数十年の愚かな政策によって我が国土をこんな苦難と危険にさらした連中に天罰を。俺たちはこんな目に遭うために生まれてきたんじゃない」といった痛烈な批判が見られました。別の若者も「こんな恐怖の中で生きるなんて本来俺たちのはずじゃなかった」と嘆いており、「我々庶民はこの戦争を望んでいない」「犠牲になるのはいつも国民だ」という怨嗟がSNS上に渦巻いています。
特に名指しで非難の矛先となったのが最高指導者ハメネイ師です。例えば元テレビ司会者のエフサン・カラミ氏はX上で、「86歳の意地悪じいさん(=ハメネイ)は36年間も間違った決定と民意の無視を重ね、ついに数百万のイラン人を戦争の罠に陥れた。この戦争がこれ以上広がらないことを神に祈る…」と投稿しました。他にも「この戦争を生み出した張本人はハメネイだ」 と明言するユーザーもおり、イスラム共和国体制そのものへの怒りが爆発しています。イスラエル軍がテヘランの高官施設や指導部を標的にした際には、政権幹部の腐敗や偽善を暴露する投稿も拡散しました。例えば、イスラエルの精密攻撃でハメネイ氏側近のアリ・シャムハニ(前国家安全保障最高委員会書記)の自宅などが破壊された際には、あるユーザーが「今夜のイスラエルの攻撃では、世界の『弱者の擁護者』を自称していたイスラム共和国の高官連中が、実はテヘラン北部の最高級タワマンのペントハウスに住み、革命的生活様式とは程遠い“オリガルヒ”だったことが明らかになった」と皮肉りました。別の投稿でも「ニヤヴァランからカーマラニエ、サアダトアーバードからアンドルズゴーまで——(高級住宅街の列挙)——それらの住所は革命的生活様式というより寧ろオリガルヒの不動産リストにしか見えない」と綴られ、体制中枢の腐敗ぶりを暴露しています。
さらに過激な一部の反政府派は、イスラエル軍による政権打倒の期待すら公言しています。欧米亡命中の反体制派や王制復古主義者などを含むグループは以前から「この独裁政権を倒すには外部からの軍事行動以外に道はない」と主張しており、今回の戦争勃発を「体制崩壊に向けた民衆蜂起のチャンス」と捉える向きもあります。実際SNS上では、イスラエル軍に向けて「#HitKhamenei」(ハメネイを狙え)なるハッシュタグを付け、「イスラム体制という大蛇の頭(ハメネイ)をその隠れ家ごと叩け」と呼びかける過激な投稿まで出現しました。こうした投稿者にとって敵はイスラエルではなく現政権であり、「イラン再生のためにはもはやこの政権の崩壊しかない」という極論に傾斜しています。当然ながら、これらの「他国の攻撃歓迎」派は政府支持の強硬派から「売国奴」と猛烈に非難されており、SNS上で激しい応酬が起きています。
反政府的な投稿は、当局の検閲や国内の言論統制もあり主に匿名の個人アカウントや国外在住者から発信されています。しかしその勢いは大きく、SNS全体の約2割を占める一大勢力となっています(潜在的にはそれ以上に及ぶ可能性もあります)。彼らは互いの投稿を拡散し合い、イラン国内外で急速に共有されています。このような政権批判派の存在は、戦時下においても依然として多くのイラン国民が現政権への深い不信感と怒りを抱いていることを浮き彫りにしています。
最後に、明確な立場表明を避けるか、情報の真偽に疑問を呈するような中立・懐疑的な投稿も一部見られます。割合としては大きくありませんが(全体の1割程度)、戦況下のSNS空間における特殊な動向として注目されます。
中立派のユーザーは、政治的主張よりも事実関係の共有や質問に徹する傾向があります。例えば、イスラエル攻撃開始直後にイラン当局が全国の航空便停止を発表した際、テヘランのメヘラーバード空港から旅客機が次々と離陸していく様子を撮影した動画がSNSに投稿されました。それを見た市民からは「もし飛行禁止のはずなのに、一体誰があの飛行機に乗ってどこへ行くんだ?」と疑問を呈する声が上がっています。この発言には、「政府高官らがこっそり家族を逃がしているのではないか」という含意もあり、直接的な批判ではないものの政府発表への不信感が表れています。
一方で、デマ情報やパニック拡散への警鐘も鳴らされています。SNS上には「無用な緊張を煽らないように」「国家の一体性を乱さないように」「フェイクニュースに惑わされるな」といった冷静さと団結を呼びかけるメッセージも散見されました。事実、イランのサイバー警察当局(FATA)は「戦時中にSNSで虚偽の情報を流したり、敵の攻撃を誇大に伝えたり、市民の死傷者数を誇張する行為は犯罪である」と公式に警告を発しています。当局によれば、衝突発生直後からSNS上に様々なデマや流言が飛び交い、不安を煽る投稿もあったため、そうした「世論の混乱を招く行為」に対して法的措置を取る方針が示されたのです。実際、地方都市ラシュトで「住民に退避命令が出た」等の根拠ない噂を流した人物が逮捕されるなど、虚偽情報拡散への取り締まり事例も報じられました。このような背景から、一部の市民はSNS上で慎重に情報源を確認しあい、「公式発表や信頼できる報道に基づいた情報共有をしよう」という呼びかけも行っています。
さらに、政治的主張を離れた実務的なアドバイス投稿も中立的スタンスの一部といえます。先述の反戦派の項目と重複しますが、 Permalink | 記事への反応(2) | 16:27