「思い出の摩尼」トークセッションの記録(2)
登録有形文化財とは何か
浜田 それでは早速、本題のほうに入っていきたいと思います。2014年7月にこの摩尼寺境内の建造物が、国の登録有形文化財に答申されました。今日は最初に、摩尼寺境内の建造物についてお話を伺いたいと思います。ここにお集まりの皆さんの中には、登録有形文化財って何だろうと思われる方もいらっしゃると思いますので、最初に、浅川先生、登録有形文化財のことについて簡単に御説明をお願いします。
浅川 7月に登録文化財答申がなされたときの新聞報道では「登録文化財に指定する」という見出しが踊っていました。この用語の使い方は完全に間違っています。「登録文化財になる」とか「登録文化財に登録される」というのが正しい表現なんです。「登録」というのは、登録原簿に掲載されること、リストアップされることですね。世界遺産も「登録」ですよね。世界遺産リストに掲載されるのであって、「指定」されるのではありません。
「指定」とはどういう制度かというと、すぐれたものを探し出して、国や自治体が税金を投入して、維持管理・保全修復などをやるわけです。税金を投入するからには、指定の対象は完全に個人の所有物ではなくなりますので、規制が非常に強くなるわけですね。勝手に現状変更してはいけない。補助金を頂戴する代わりに規制が強くなるわけです。
登録は指定とは違います。一種の顕彰制度です。表彰制度と言ったほうが分かりやすいでしょうか。文化財の所有者に対して「立派な文化財ですよ」というお墨付きをさしあげる。税金はほぼ投入されません。補助金はないと思ってください。その代わり規制は緩い。建物の外観を保全すれば内部はかなり自由に改修できます。
登録文化財は阪神大震災を契機に生まれました。阪神大震災でおびただしい数の歴史的建造物が崩壊したのですが、行政的にそれらを救える手段がなかった。未指定建造物は壊れたまま元に戻せなかった。そこで、翌年(1996)に文化財保護法が改訂され、登録の制度が建造物の分野で先駆的に取り入れられたのです。多くの建物を「登録」しておけば、地震とか戦争とかの有事の際に被害にあった場合、税金を投入して救済できる。非常時にあっては、補助の対象になる。それは、被害にあった建物が国の登録有形文化財だからです。
登録の基準は「築後50年を経過している建造物」で、①「国土の歴史的景観に寄与しているもの」、②「造形の規範となっているもの」、③「再現することが容易でないもの」とされています。これは名目的な基準でして、実際には所有者・管理者が保存したいという意欲をもっているかどうかが肝心なんです。保護意識の高い物件は登録という制度に嵌りやすい。
浜田 ありがとうございました。
摩尼寺本堂・鐘楼・山門
浜田 これまで浅川研究室のほうで、摩尼寺境内の建物について総合的な調査をされてきています。そこで今日はその調査の成果について御紹介いただきたいと思うのですが、よろしいでしょうか。
浅川 この調査を主導した宮本正崇くん(建築・環境デザイン学科非常勤職員)が文化庁に提出する書類を書きました。宮本くんのほうから簡単にその成果を報告させていただきます。
宮本 摩尼寺の本堂・山門・鐘楼の3棟がこのたび登録有形文化財に答申されました。現在境内は山麓にありますけれども、18世紀の前半までは山頂に近い「奥の院」に境内を構えていました。それは『因幡民談記』(1688)に描かれています。こちらは幕末に編纂された『稲葉佳景無駄安留記』(1858)という地誌に描かれた山麓の境内です。ぱっと見、今の境内と近い構成ですけれども、本堂や山門・鐘楼は今の建物よりも一段階古いものを描いています。
本堂は幕末の安政七年(1860)に建てられまして、縦長の平入り仏堂となっています。通常平入の場合、入口のほうが長辺になるのですけれども、摩尼寺本堂は逆になっています。正方形の内陣の外側に、板張りの外陣がついていて、縦長の平面になっているのです。外陣は奥行1間の板間で、中央にとても大きな賽銭箱があります。ちょっと珍しい形式です。昨年の調査で初めて棟札が発見されました。それ以前は廻り縁の擬宝珠や向拝柱の金具、床下の亀腹に銘文が残っていて、それで年代を推定していました。いずれも西暦1810~61年にあたります。昨年のちょうど今ごろ、本堂の屋根裏で棟札を発見しました。棟札の表と裏にそれぞれ万延元年と安政七年という年号が記されています。年号は違うのですが、西暦はいずれも1860年にあたります。『無駄安留記』の刊行年(1858)に2年遅れての上棟であり、絵図の本堂ではないはずです。
山門は明治22年建築の薬医門です。親柱に控え柱を伴う簡素な四脚門ですが、これも『無駄安留記』と比較してみましょう。『無駄安留記』のほうは単純な形で、棟門のようにもみえます。今の山門とはちょっと形が違う。絵図に描かれた門の両隣の建物は、明治22年の山門再建に際して撤去されました。敷地形状も大きく変わってしまいまして、敷地を前方に拡張して石垣をつくりかえたようです。その拡張された敷地の部分に現在の鐘楼が建っています。鐘楼は山門の3年後にあたる明治25年に再建されました(財産台帳)。「無駄安留記」の鐘楼は柱の短い小ぶりな姿にみえますが、現在の鐘楼は柱が長くて、背の高い建物です。敷地の拡張後に張り出し部分に鐘楼が新しく建てられたわけで、山門より3年遅れる建築年代に説得力があります。なお、鐘楼の組物はやや古い様式を示しています。『無駄安留記』に描かれている小さな鐘楼の部材を継承している可能性があるでしょう。
仁王門は山門の外側にあります。県の保護文化財に指定されていますが、元から摩尼山にあったわけではないようです。寺伝によると、仁王門は文禄3年(1594)に隠岐の焼火神社より移築されたと言います。しかし、絵様や蟇股の様式は18世紀後半の特徴を示していまして、文禄3年はまずあり得ません。まず安政5年(1858)の『無駄安留記』に仁王門は描かれています。さらに、仁王門の柱や壁に文政7年(1824)、安政2年(1855)・3年(1856)、文久(1861-63)の落書が残っています。仁王門に残る最古の落書は文政7年ですから、移築年代の上限は文政7年ということになります。ところが、庫裡の再建は文政6年(1823)です。とすれば、仁王門の移築は庫裡の再建とほぼ同時か、庫裡の造営よりも早くおこなわれたことになるでしょう。残る落書の年代、つまり安政2年・3年、文久年間については、本堂が再建された安政七年/文久元年(1860)に非常に近いところも気になりますね。文政から安政にいたる幕末の伽藍拡張・再整備にともなって、仁王門は移築されたり、修理されたりした可能性があるでしょう。
閻魔堂・三祖堂・善光寺如来堂
宮本 閻魔堂と三祖堂は境内にある小さな小振りの仏堂です。いずれも昭和の再建ですが、摩尼寺の縁起とは深くかかわっています。因幡の民が亡くなるとその霊魂は摩尼山に滞留して、あの世に行くときに閻魔様の裁きを受けると信仰され、閻魔堂はかつて山頂立岩の隣に建っていました。境内にある今の閻魔堂の玄関部分(向拝)は、山頂にあった建物の部材を再利用したものです。
三祖堂は内陣の中央に最澄(伝教大師)、向かって左に円仁(慈覚大師)、右に空海(弘法大師)を祀る建物です。摩尼寺は天台宗の古刹であり、円仁開山伝承が伝わっています。三祖堂も山上にあった建物だそうです。じっさい、幕末の『無駄安留記』には三祖堂も閻魔堂も描かれていません。三祖堂は昭和になって境内に新築されたのですが、向拝の部材は古式を示していますし、黒漆の内陣の部材も古材を継承しているでしょう。閻魔堂と三祖堂は昭和の新築ですが、いずれも前身建物の部材を受け継いでおり、様式をみる限り、その部材は本堂よりも古い可能性があります。
いまわたしたちがいる善光寺如来堂は、明治45年の建立です。山陰線全通の記念事業として摩尼寺の境内は整備され、その整備の目玉として「第2の本堂」というべき善光寺如来堂が建立されたようです。正面の外観を比較すると、本堂と善光寺如来堂はよく似ています。本堂を意識して「第2の本堂」が建てられたということではないか、と思うのです。ごらんのとおり、如来堂もすばらしい仏堂です。登録有形文化財の有力な候補と言えるでしょう。 【続】