2018人間環境実習・演習B中間発表会(6)
1・2章を読んだまとめについて、若干補足しておきます。
日本仏教の俗化
2章は1章に比べると、キリスト教批判はやや控えめになっていて、仏教の俗化を嘆く一節も書き残しています。
東洋にいる五億の仏教徒はこれまで、国外の宗教の侵略を受けて争うことはなく、意味もなく
お辞儀や合唱をしては、体を横たえて長閑な日々を過ごしてきました。しかし近年、ヨーロッパ
の風潮に伴い、キリスト教という外敵が侵入して仏教徒の安眠を乱すことになってしまい、
ここにようやく旧仏教の大夢が破られたため、ブッダの真の大光明を発揮し、仏教の本当の
価値を世界に輝かせようとしています。新仏教徒の勃興とはこういうことなのです。
(日本の旧)仏教とはただ寺院・僧侶・経巻でしかなく、僧の仕事は葬儀の取り扱い、
そうでなければ墓地の番人のようなものだとみなされているではありませんか。僧侶自身
もまた品行が収まらず、識徳なく檀家の布施を貪って、人びとを教え導くという本職を忘れる
者が多く、一所懸命になるのは葬式、年忌、 灌頂、祈祷、御札書きなどの枝葉末節に
とらわれ、僧侶自身の位置がどこにあるのかを知る者は少ないのです。
「葬式仏教」と揶揄される日本国内の仏教を自己批判する姿勢から出発すれば、外の勢力からとやかく言われることもないでしょうが、上の第2パラグラフの文章は以下のように続きます。
このような旧仏教はもとより日本だけのことではありません。朝鮮、中国、みな同じです。
タイ、インドなどの仏教徒も甚だ精神に乏しく、特にインド、ミャンマー、ベトナムのように
イギリスに征服されたり、フランスに占領されたりと、悲惨の境地に沈められたところも
あります。しかしながら、これら仏教徒の活力を鼓舞し、各仏教徒が同盟を結んでいって
宗教革命の大業を成就し、国内では仏教の総体内部の大改善を実行し、ブッダの聖地
ブッタガヤを回復させ、世界の仏教徒を一堂の元に集めて、仏教万歳を唱える重大な
責任をもつ者は、日本の仏教徒以外に求められません。
上座部からの反論
明治26年の段階では訪れたこともないタイ、インド、ミャンマー、ベトナムまでやり玉にあげて、旧仏教の腐敗を述べるのは勇み足でしかなく、そうした国々の仏教が堕落しているから、新仏教の担い手になるのは日本人以外にないという論理は、まるで大東亜共栄圏のような発想であり、素直に受け入れることはできません。こうした東南アジア仏教に対する偏見は、大乗仏教が上座部仏教より優れた思想だとして、後者を「小乗」と見下す優越感に根差しているのかもしれませんが、古代インド仏教の思想や修法を継承するのは、むしろ上座部の方であるとの見方が今は一般的でしょう。
実際に東南アジアを訪れてみると、英仏の植民地となったミャンマー、ラオスなどは今も健全な集団生活としての修行や托鉢をおこなっています。嫁をもらって酒を飲み、煙草を吸って肉を食らう日本のお寺さんの有様とは段違いのレベルにあると言ってよいと思います。実際、上座部の仏教徒や研究者からは、「日本の仏教は仏教ではない」という発言をしばしば耳にします。昨日も述べましたが、世界宗教としての新仏教を構想する場合、そのリーダーたる資質があるのは深い教養をもち、複数の言語を操るダライラマ14世のような修行者でなければなりません。そうでなければ、チベット仏教や上座部の信者たちが従うはずはないでしょう。
青年の思想
2章の結論は他の部分にまして読みにくい文章になっています。読点が延々と続き、いつになったら句点があらわれるのか、待ち遠しくてしかたない。二十代半ばの若いエネルギーが漲り、次から次へと熱い想いが脳外に溢れ出たのでしょうが、それらが論理的に構造化しているかと言えば、残念ながら、そうではない。しかし、能海寛に敬意を表すためにはこのやっかいな読み下し文語体を口語に書き改める必要があります。挑戦するしかありません。
世界各地で遊説し優秀な人材が策を練ることで、暗闇に一筋の道があらわれ、新仏教徒運動は
ブッダ本来の思想から発展しつつ新仏教の気運により発露していきます。それが新しい気運の
地平線上にあらわれて、完全な組織的運動をなすのであれば、 (また)一挙手一頭足が一致
契合し、ブッダ本来の思想に基づいて事を進めることになるのであれば、向かうところ敵なく、
新仏教徒の大業が成就するだろうことは今日の状況をみれば明らかです。
存覚上人*1によると、仏閣の基礎を固めれば、マイトレーヤ(弥勒菩薩)の三会*2を受けられます。
煩悩を洗い流す水が流れて遠く隅々までゆきわたり、生きとし生けるものを潤すことができ、
仏教を世界の統一宗教にするだけでなく、動物・虫・魚の類までもが仏の光明の恵みを受ける
ことができます。なんと広大なことでしょう。
能海は自分の考えを「決して空論ではない」と1章の最初に宣言しています。まだ冒頭の2章しか読んでいませんが、新仏教を構想する能海寛の思想を「空論」とまで断じることはできないにせよ、それは成熟した実現可能性に裏付けられたものではないだろうと思いました。若いエネルギーの漲りは感じますし、言いたいことも理解できないわけではありません。しかしながら、能海が仮に入蔵を果たしていたとしても、新仏教の構想が実現にむけて具体的な動きをみせたでしょうか。むしろチベットという彼岸において新仏教に比較的近い理想郷があると納得し修行に邁進したような気がしないでもありません。
いずれにしても、『世界に於ける仏教徒』を出版した数年後、能海は雲南の僻地で非業な死を遂げてしまいます。愛妻に向けて書き残した最後の手紙の一部(『能海寛遺稿』1982:p.200)を口語訳して今回の報告の結びとします。
いまや極端に少なくなった金銭をもって、深く(チベットの)内地に入ろうとしています。
一歩進むごとに難儀は増し、前途不安になるばかりですが、無限ほどの困難と障害は
もちろん唯一無二の命もすでにブッダに託し、これから雲南を西北に向かう覚悟です。
重慶から連れて来た雇い人をこの地で返すにあたり、日本への手紙を託します。
今後はたぶん通信できなくなるでしょう。明日出発し、麗江に向かいます。
明治34年4月18日(大理にて)
【注】
*1 存覚上人: 存覚(ぞんかく 1290 - 1373)は、鎌倉末室町初に活躍した浄土真宗の教学僧。
*2 弥勒菩薩の三会: 仏滅後から56億 7000万年後、弥勒菩薩(マイトレーヤ )があらわれて、ブッダの教化に漏れた衆生を救済する法会。
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