はてなキーワード: 文化系とは
https://anond.hatelabo.jp/20130809115823
元のエントリより論点はズレてしまうのだが、東京で働くいち田舎者としてこんな奴・こんな考え方もあるということを書きたい。
高学歴・低学歴で人を分けた場合、私の家族や地元の人は確実に低学歴だ。私も漏れなく、一族で初めて四年制大学に進学した人間である。
だが、地元には、高学歴、低学歴だけでは括れない、東京と地方の二元論だけでは語れない価値があると私は考えている。
以下、東京や田舎という言葉が出てくるが、あくまで私の体験したn=1の東京と田舎の話です。
私の地元は日本海側のど田舎にある。集落は四方が山に囲まれて、交通量が少ないので信号すらなかった。
通っていた小学校は全校生徒が70人弱だった。今は統廃合されて、通っていた小学校はもうこの世界から名前が消えてしまった。
小学校は田舎すぎて少人数クラスになり、先生の指導が行き届いたのか比較的賢い学校だった。
田舎なのにやたら成績のいい子ども達がいると話題になり、関東の大きい大学の教育学の先生が研究しにきたほどだった。
私の小学校は同級生が14人しかいなかったのだが、そのうち3人が旧帝大に進んでいる。(私は国立大に落ちて私立に行きそのメンバーには入れていないのですが…)
定期的に周辺で熊や猪が出て、集団登下校が義務付けられていた地域の学校で、だ。
サピックスも日能研もない地域で遊んで勉強していた子たちが、田舎すぎて逆に賢くなっていた。
先生に気軽に絡めて質問もできるので、みんながゲーム感覚で勉強をしていたのもあったのかもしれない。
私が後に勉強エンジョイ勢になって大学院まで行ったのもこの時期に下地が作られたと思う。
そんな地域もあったということを知ってほしい。
そして、私の地元は田舎なのだが、田舎ゆえに一つでかいカードがある。
親が地域の伝統工芸の職人なのだ。地元ではそこまで珍しくない職業だ。
詳しく書かないが、親が歴史ある工芸の職人をしていたので田舎に住みながらとんでもなくでかい文化に接していた。
職人として知見を広めるために親が美術館や博物館に行くのにもよくついて行っていたし、色んな工芸や美術の知識を親から聞いていたので、よく言う「文化資本」的格差を東京で感じることがそんなにない。
それに、地元では小規模ではあるが車で20分くらいのところに美術館はあったし、車で1時間(田舎では普通の単位)で県庁所在地に行けたので、そこにはもっと大きな美術館がいくつもあり、そちらも大きな文化的拠点になっていた。
家族に話を戻すが、親戚がみな佐官・大工・和菓子・別の伝統工芸など職人のオンパレードだった。
そして兼業農家も多かった。
彼らは職人と言っても、アーティストではなくブルーカラーな人たちだ。
だが、彼らは大学に行っていない・行くという環境にないだけで馬鹿ではない。むしろ賢い。
賢くなければ職人業というビジネスをしっかり営むできない。農業だってそうだ。
なので私は、ブルーカラーに類される職業の人たちを学歴がないからといって話の通じない人たちと断じることができない。
それに、日本の産業を支えているのは彼らのような人たちなので、とても下に見たりとかはできない。もちろん、中には変な人もいるとは思うけど…。
このことを知れていることも、私が田舎(というより社会の下のほうなのかも)で育って良かったという一つのポイントだ。
日々山や川を見ていると、それぞれが気候に合わせて美しく形を変えていくのは、上京するまでの18年間一度も飽きの来ない風景だった。
山にはこんな動物がいて、木の実があって、山菜があって、木があって…という知識も家族に教わった。
山の保ち方、間伐の仕方、川での魚の獲り方も教わった。
地元の自然は人間の歴史と深く関わっていて、そんな中で生まれた民話もたくさんあった。
地元の地域には日本史に出てくるような人や事件が関わっていたこともあり、地域の人に話を聞いたり地域の研究本を読むと、時間の軸を深く辿ることができた。
小学校で勉強エンジョイ勢になっていたので、そういう地域の勉強はとても楽しかった。
私は多分そんな環境があったから文化そのものに興味を持って、大学・大学院でも詳しくはぼかすが文化系の研究をしていた。
ちなみに、私は案の定実家が細いので大学・大学院に行くために数百万の奨学金を借りています。機会格差って最悪だよな!
それでも、自分の熱中できる研究対象を見つけられたのは自分の育った環境があったからだ。
今はエンタメに関わる職に就いているが、それも田舎で美しい風景を見て、楽しく勉強をして、家族から文化を学んだからだと思う。
ただ、そんなにアツい文化があっても私の育った集落は本当に本当に人間が陰湿だった!
そこに関しては、東京のような人が多すぎて他人への関心を薄くせざるをえない地域が本当に楽に感じる。
かつて、私の父が重い病気に臥せった際、集落で噂になると尾鰭がついて嫌なので、絶対に口外しないよう家族で気をつけていたのだが、どこからか父の入院の話が漏れて集落中に広がってしまった。
気を遣うふりをして私たちの家にやってきて、直接父の病状を聞いてくる全然親しくない人までいた。
父親はその後死ぬのだが、その後も父の死についてヒソヒソ言われて、当時11歳の私はこの世界は本当にクソだと思った。
他にも、私が上京・進学・就職したことも色々言われているらしい。他人への興味が本当にすごい。
地元にいた頃は外の世界を知らないので、人間は陰湿ということが脳みその奥まで刻み込まれてしまった気がする。
補足すると、田舎にはもちろんいい人もいる。
だが残念だがらマジョリティは、上記のような噂好きで目立つ人や出来事に積極的に関わって言いふらす人たちだった。
人の陰湿さについては、もちろん東京でも一つの街に定住したらきっとしがらみはあるのだろうけど…
恐らく私の故郷ほど「うちらの家は江戸時代から付き合ってます! うちは昔は地主だったのに小作人の家のあんたはそんな態度でいいのかな?」レベルのしがらみはそんなにないのではないか。
それでも私は地元のことを「資本も娯楽も何もない最悪な場所」とは全く思わない。自分を形成した場所だからだ。
だけど大都市的価値観、東京を絶対とする価値観ではきっと理解されないのだろうなーとなかば諦めている。
なので東京出身の人の前では「羨ましいです〜」と言うのだが、それは半分くらい本当で半分嘘である。
なぜなら田舎の自然と文化と陰湿さの中で自分は育ったので、自分の文化的素養と反骨精神は多分都会では育たなかったと思うからだ。
東京の資本的な豊かさには憧れるものの、そもそも東京や他の大都市で生まれていたとしたら性格は全く違っていたと思うし、今の自分が好きなので、「東京に生まれたかった」とはそこまで思わない…
あと、東京の人は地方が豊かだという言説にすごく敏感な気がする…ので、ポーズでも「私は田舎者なので憧れの東京で来れて嬉しいでやんす」という態度でいたほうが楽だ。
(この前Xでバズっていた「東京の人は車がないのにシャトレーゼなどのチェーン店をどうやってハシゴするのだろう」みたいなポストに、東京の人がやたら攻撃的に言い返していたのがなんか印象に残っている…。
基本的に東京の人は、地方のほうが優れている側面がある可能性もあまり認めない傾向にある気がする)
こんなに言ってしまっているが、前提として私は東京のことが大好きだ。
好きだから働いているし、何より仕事・研究・趣味・生活などあらゆる面で圧倒的に機会が多い。出会う人も多様だ。
だから私は東京にいられて幸せだし、この場所にしがみつくし、しばらく居続けると思う。
ただ、たまに自分が芯から東京出身みたいな言動をとりかけてハッとする瞬間がある。
私のような東京で働く田舎者は東京的世界観に合わせすぎて、自分の故郷を否定するときがあると思う。
東京の感覚が間違っているのではなくて、ただ、自分を形成しているものを拒否してまで東京で生きなくてもいいんじゃないかと思ってしまう。
私は、地元は最悪な面もあるが、全然最高なところもあったと断言できる。
夕方の雄大な雲の流れ、雪の降った朝の空気、眠れない夜に聴く川の流れの音、一生懸命「ホーホケキョ」を練習するうぐいすの声、初夏の稲穂の上を通り抜ける風、祖母からぽつぽつと語られる昔話、父と山で採ったびわの味、職人である家族の美しいてさばき…これは私は自分の故郷で生まれ育ったから得られたものだ。
多分「嫌なことがあったから地元から離れたんです」という人も多いとは思うのだけど…あなたを形成した場所をすべて否定するのは苦しくはないですか。
私は地元の陰湿な人間が大嫌いだったので、そんな人たちや出来事のことは肯定しません。
よくも悪くも自分のことを形成しているのが地元だなと感じます。
私は田舎者であることを自分の中に留めておいて、東京で働く中で多様な視点をもっていたいと思う。
商品を全国で売っている自分の会社では、絶対に必要な視点だから。
仕事以外でも、東京にいる人とのコミュニケーションでこの視点があって良かったなと思うことはままある。東京は多様なバックグラウンドを持つ人の集合体だからね。
だけど、私がこんな文章を書けるのも、東京に出て、高学歴に類される大学に行き、高倍率とされる企業に入って、東京で生きていける程度の余裕があるから、ということもあるかもしれない。
そのグロテスクさについては、また考えなければいけない。
それでも、やっぱり私は田舎者である自分を否定しきれないし、できないと思う。
ここまで読んでくれた方で、地方出身の人がいたら、最初から東京にいるように振る舞い消費する過程で過去の自分や経験は全部上書きしなくてもいいと思います。
あなたを構成したものが地元のどこかにあるなら、それは抱きしめてほしい。
俺はよくいろんな地方へ旅に出るが、なんやかんやその土地で文化系/サブカル/陰キャ/芋系/オタク女子を見るのが大好きなんだろう。
だって新卒の時に配属された人口数万の地方都市(一応ショボい大学はあるんだけど)ではそういう女子を見かけないからね。これは人口比だけじゃ説明出来ない。「都会には文化がある」かはさておき「かわいい陰キャ女子」ならたくさんいるってことくらいは言ってもよかろう。
高校入学の頃に一軍女子の癒し枠的なヤツにベタ惚れしていたこともあって、人生で唯一俺に告ってきたクラスの嫌われ者オタク女を好きになれなかった後悔(損した感)からそういう女子をどうにか好きになろうと自らを"調教"してきた節はある。
でもそれとは別に昔からAKBやらの美人顔の区別がまるでつかなかったし(嵐は多少いける)、大体同じだろとしか思わない。最近なんか顔面加工写真ばっかりでさらに似たり寄ったりだからワケがわからんし、写真どころか写される身体の方を弄るヤツも増えた。
きっとそれは地方都市に住みつつ国内地方旅行を繰り返す自分の趣向とも似て、商品として磨かれていないものを敢えて楽しむ趣向と自分の前にある陰キャ女子を楽しむ趣向が共通していないはずがない。
(ほら、よくマンガの話で「美男美女の方がブスよりも無個性的で描きやすい」ってあるじゃん?)
そして、俺は陰キャ女子を見る時に自分にも陽キャ的価値観に膝を屈することなく女と楽しく付き合っていける(例えば「たのピク」のように)可能性がある(あった)ことを"確認"しているわけだが、「文化がある」都会で陰キャ女子を見るということはそこそこの確率で男連れシーンを見ることを通じての"確認"にもなりえる。
別に陰キャ女子が俺みたいな陰キャ男子と付き合ってる分にはやきもち妬くだけだからいいんだけど、陰キャ女子が消費社会の頂点(そんなものがあるとして)に繋がるアルファオスの部類にメロついてるのを見た日にゃ「裏切りだ!」としか思えない。
ちなみに新左翼系の文献を読むようになってからは(竹内洋的造語癖か小山晃弘的マルキシズム趣味かもしれないが)「階級的裏切り」と呼ぶことにした。
俺はなるべく誠実でありたい。
俺は中学生の頃インターネットの「リア充爆発しろ!」的なノリに(別に面白いとは思わなかったけど)期待していて、非モテ連帯を信じて革命的非モテ同盟のクリスマス粉砕デモの隊列に加わろうとしていたが、どうも連中が「ネタ」でやっているらしく失望した。
何よりも許し難いのは常日頃「リア充爆発しろ」とか宣っておきながら恋人を作ると見せつけたら匂わせたりする連中のことで、そりゃあ「リア充〜」は恋人が欲しい気持ちの裏返しなんだから恋人を作ること自体は認められるべきだが、それにしても見せつけるのは「階級的裏切り」じゃないか?というか、自分が吐いた唾に対して不誠実じゃないの?
せめて俺は階級的に誠実でありたい。
この場合、誠実であることの証明は"やせ我慢"でするのがいいだろう。
(それも性的魅力に溢れる)から求愛されても断固断るべきなのだ。
年齢的な理由もあって非処女もイケるようになった俺がそれでも陰キャ女子が雑にセックスした話を嫌うように、いつか俺を好きになる陰キャ女子に「コイツ本当は陽キャ女子が好きなのに妥協しているのか?」と疑われるような過去を持たないように生きていたい。
(誠実でありたいので言うが俺は童貞は捨てた)
モテないからチョロそうな陰キャ女子を狙ってんだろ?とお思いの読者もいると思うが、現に陰キャ女子とも付き合えてないんだから、それは虚しい「努力」でしかない。
そしてギャルと付き合っていない現状が"主義"を貫いた(例えば冷戦期の日共党員だったかがわざわざ東欧のショボいおもちゃを子供に買い与えていたような)ためであるという証明は不可能だ。
読者は皆それは単なる非モテの結果だろうと冷笑するだろうし、俺もそう思う。
デジタル回路が「0」と「1」のどちらを示すかによってデータを表現することが主流な現代において「0」であり続けることに積極的意義だとか「強度」を見出すことは難しい。
だからこそ浅羽通明はゼロ年代に出した『昭和三十年代主義』で「確かに清貧は積極的に選び取られた価値観ではないが、だからこそいいんだ」(曖昧)と書きゼロ年代の昭和ブームに期待してみせたのだろう。
そして俺もまた「0」か「1」の世界で「1」であり続けなきゃならない圧に膝をちょっと曲げ「ギャルと付き合わない」主義を自嘲し、内実はともかくとりあえず「1」ではあるところの国内地方旅行(動いている)で美人などとは違い「0」では言い表せないほど多様な陰キャ女子を見かけて(見つけている)喜ぶしかない日々を送っている。
一時期派遣で金融系の大企業にいた事があったけど、社内恋愛への導線が凄かったな
社内には学生のようなクラブ活動があって自然に部署外の交流ができる土壌があり(スポーツ系だけじゃなく、活け花や絵画といった文化系もあった)、
社内誌の編纂やボランティア活動等を通した横の繋がりも作りやすく
社員だけ割引のお洒落で栄養バランスの取れた社食があってランチ会も頻繁に行われ、
何つーかカルチャーショック
こんな環境で正社員として働いていたら社内結婚も容易だろうと思った
みんな身元は確かだし、わざわざロマンス詐欺やらヤリモクやらの危険を冒してまでマチアプや結婚相談所に入るよりも余程効率が良い
結婚相手は大学時代までに見付けるのがベストではあるけれど、そこで失敗したとしても大企業に入ればリカバリーのチャンスがあるんだね
もっとも新卒で正社員就職した人達にとってはこれが当たり前で、そうじゃない職場というのがそもそも想像も付かないんだろうなあ
まず主観的な問題。俺は狂っていた。机を投げ飛ばしたり、改造エアガンの自慢話をしたり、ハグリメタルとかいうサイトを見てインスタントカメラからスタンガンを作ったりした
俺は「シュートを決めるぜ」的な体育会系から、ジミーズの一員だと言われていた
この体育会系による差別で、俺は好きでもないスポーツ部のバレーボール部に入った、なぜなら文化系の部活をするといじめられるからだ
だが、俺は3年間、球拾いだけをしていた。だから、最後の試合ではキレて「殺せ!」という掛け声で応援をした
あと俺よりも上級生の連中は、不良ばかりだった。気に入らない人間に対して暴力を振るうようなのばかり
教師もクソだった。漢字書き取りとかいう不毛な宿題(大人になっても役に立った試しがない)をサボっただけで、職員室の床で宿題の残りをさせられる
俺がてんかんで修学旅行で迷ったとき、教師は俺を「おいバカ、なんでこんなところにいるんだ」というし、七宝焼きを作ったときも「おいバカ、さっさと作れよ、迷惑になるだろ」などと言ってきた
付き合った当初からお互い子供は欲しくないという点で意見が一致しており、結婚後も何も揉めることなく子なし夫婦としてやってきた
20年の結婚生活を振り返って本当に幸せな人生を送れているなと思う
そしてこの幸せはきっと子供を作ったら味わえなかった代物だろうとも思う
子どもを産むにあたって不安がっている人に「大丈夫だよ」「私も不安だったけど産んだらなんとかなったよ」みたいな体験談を語ってる場面はよく見る
一方で子どもを産まない選択をすることに不安を覚えている人に対してそういう体験談を教えている場面はなかなか見ないので、全国の子どもいらない勢に対して子なし夫婦の素晴らしさをご紹介しようと思う
子なし夫婦のメリットは色々あるけどお金の心配がいらなくなるというのは非常に大きいと思う
育児関係でキャリアを断念することもなかったので今となってはお金にかなり余裕がある
夫は年齢の平均ど真ん中、私は年齢の平均年収+3〜400万くらい稼いでいて毎年新NISAの枠を全部埋められている
若い頃に夫が鬱を患って転職を余儀なくされたこともあったけどそのときも子なしなので不安は少なかった
なんなら「専業主夫やれば?」と夫に言っていたくらいだ
実際、余裕があるかはともかく生活するだけなら子どもがいない分当時の私一馬力でもなんとかなりそうだった
よく「子どもがいないと老後が〜」「介護が〜」みたいなことを言われるけどお金の力でどうにでもなると思う
むしろ子持ち夫婦だって子どもが介護に携わってくれるかなんてわからない
そもそも自分の子どもに将来の介護要員としての期待を持つってことそのものが不健全な気もするし
上記の話に関連するけど
女の立場としてはやはりキャリアを捨てなくていいってのが非常に大きい
産休育休制度は普及してるし、そういう休みを取ったからといって不利な扱いをしてはならないって定められているけど
じゃあ実際に産休育休後に仕事を再開した場合と子供を作らなかった場合とを比較して前者が後者と同等のキャリアを歩めるのかといえばそんなことはないでしょ
産休育休って言ったって休みは休みなんだからその間仕事はできない、仕事の評価もつかない、キャリアにおいてプラスには働かない
仕事に復帰したあともその空白期間を埋め合わせるのには実際の休み以上の期間が必要だし二人目三人目を作るなら言わずもがな
女性がある程度キャリアを作っていくならやっぱ子どもなんて産んでられないよ
私はいま部長の立場だけどやっぱり子どもを産んだ女性は役職につきにくい傾向があるなって思う
なんやかんや言って女性に限定すれば私は会社において上から二番目の役職
子持ちの社員は絶対的な仕事量の差、評定の差でどうしたって出世が遅れる
しかも私はバリキャリってわけでもなく基本的に定時ダッシュだし暇な時間に自己研鑽なんてこともしたことはない
そんな程度の社員であっても休まず出社してるだけで部長クラスになれる
子ども産まないメリットとしてはかなり大きいと言えるんじゃないかな
私の趣味は映画を観ることと小説を読むこと、ラジオを聞くことなんだけど特に子どもを産んだら映画趣味は捨てざるを得なくなるなと思う
少なくとも子供が小さいうちは映画館なんて行けないしある程度大きくなっても子供向け映画を一緒に見に行くことしかできない
私の好みのゾンビだのホラーだの銃撃戦だのバイオレンスだのといった映画をちゃんと映画館に通って観るなんてしばらく無理になるでしょ
映画館に通う頻度としては週1くらい
本当は週に2〜3本、年間100本くらい観たいんだけど流石に昼間働いていると厳しい
(映画オタクの中では年間100本がシネフィルかどうかのボーダーって言われてるよね)
映画は上映期間に限りがあるし一度機会を逃すともう基本的には映画館で観ることはできなくなってしまう
じゃあ例えば子どもの養育期間は配信で我慢するとしても、なにか本当に素晴らしい映画を配信で見た時に「私はこの映画を劇場で観ることはできなかったし今後も観られることはない」って後悔に苛まれることになるよね
いまでさえそう思うことは少なくないのに子どもを産んで年単位でそんなことが生じるなんて耐えられないよ
映画館にはたまに夫もついてきてくれて、そんなときは適当に外でランチやディナーを食べたりもしている
こっちはこっちで別ベクトルの文化系だけど子どもを産んだらまぁ同人活動は無理になるんじゃないかな
少なくとも今のペースで本を作るのは難しそう
好きなゲームの発売日には有給取って一日中、とりあえず一周クリアするまで部屋にこもってプレイし続けるなんてこともしてるけど子どもがいたら当然不可能
これは人によるかもしれない
ただストレス源、責任、プレッシャーなんてものは少ないから夫婦円満にはなりやすいんじゃないかな
少なくとも私は未だに夫と仲良しでいられている
たまに懐石料理やホテルブッフェのお高めのランチ・ディナーを2人で食べたりもする
割と頻繁に旅行にも行ってるよ
若い頃でもボーナス使えば結構いいお宿に泊まれたし、ある程度お金に余裕ができてからは相当いいお宿に泊まれるようになった
パパママなんて立場にならずに済む分、夫婦でずっといつまでも恋人同士のようにレジャーを楽しむことができる
あと生々しい話、セックスレスにもならずに済んでいる
子どもを産むとやっぱり体型維持は難しくなる
それでなくてもホルモンバランスが狂って大変なことになるし夫側妻側双方にとって性的な関係の維持には相当な努力がいると思う
自分の人生を自分のために使いたいと思っているのならやっぱり子どもは作らないほうが幸せになれるよ
大好きなパートナーといつまでも仲良く添い遂げながら自分のキャリアをきちんと積み上げ趣味にも時間を注ぐことができる
なにか人生において夢中になれることがある人、抑圧されたくない人、個人の幸せを追求したい人に子なし夫婦はかなりおすすめです
少なくとも私に後悔は一切ない
commentatorHeader
成川彩
【視点】江川さんご指摘の通り、国民の関心は動機の解明だと思います。すでに報じられていることも多いですが、真偽が分からないこともあるので、やはり最終的に裁判を通して知りたいです。これまで報じられている内容からは、教団と被告との関係が極めて希薄だとはとても思えません。希薄だと言うなら、母親や宗教学者の証人尋問によって、国民の納得のいく形で希薄であることを主張してほしいです。韓国でも旧統一教会と政治家の不正疑惑に関して捜査が進んでいます。山上被告の母親が教団に多額の献金をして生活が破綻したことと、旧統一教会の資金力、政権との癒着。つながっているようにしか見えません。
「高3夏より前から受験勉強に本腰入れる奴とかキッショいカスだから」
こういう方針の県立名門進学校、どの地方(特に九州)にも必ずあるけど戸塚ヨットスクールとか昭和の受験少年院とかと同じノリとしか思えない。
タイプの男はというと、同じ運動ガチ勢系で筋骨隆々ツーブロみたいな。
一方で、例え顔面が美形だろうとジャニーズ系やホスト系をクソ気持ち悪くて吐き気がする生物として見下げ果ててるタイプ。
文化系の覇気がない陰キャ男子に対する悪感情は言わずもがなって感じの。
それでいて、運動ガチ勢ツーブロ彼氏がいようともタイミング次第で浮気平気でするし、
結構酷い振り方で乗り換えたりするような薄情さで。
で、根本的にお金大大大好きで物欲超強くて、体育会女子のくせにそのへんを自分で掴み取るって意思が謎に弱くて
みたいに世の中と異性を舐め腐るとか、
金が絡むと謎に底辺高校のバカJKみたいなチンパン感出してくる感じのさ。
ああいう女って悔しいけど途轍もなくチンポに響くよね。
女性と書かずに"女”と書いたのは撒き餌みたいなものだから、無視して読んでほしい。ADHDだかDHだかしらないが、まぁこっちも読んでってくれよ、そんなに長くは無いからさ
内容としては良くある話。会社という、共同体で働いている以上、一定数湧いてくるであろう、"評価に繋がらない業務"。
要は、雑用だ。ゴミ出しでも、掃除でも、電話対応でも、業者への対応でもなんでも適当なモノを思い浮かべてもらって構わない。
それは、そんな評価に繋がらない業務を頑なにしない、フリーライド野郎への積もり積もった愚痴だ。せいぜいおもしろく脚色しつつ書いてみるから、笑い話のひとつとしてでも読んでほしい。
よく聞く働きアリの話じゃあないが、フリーライド野郎なんてのはどこにでも湧いてくるし、自分だってなにかしらに知らぬ間に乗っかっているってことはあるだろう。ただ、そのクソ野郎を許容できるか?は、共同体の規模によって不快に感じるラインは変わってくると思う、特に社員数、数十人のような我々零細企業には。
そして、助けてくれとは書いたが、この女を助けようという気概は全く無い。むしろ地獄に落ちてほしいぐらいである。
さっそく本題に入りたいが、いかんせんこれからずっと”女”では心苦しい。
そのために、読んでくれる諸兄への親しみを感じてもらえるように、以下、”うんこちゃん”としたいと思う。こうすれば、書き手の溜飲も少しは下がるというものだ。
さて、その”うんこちゃん”がどういう人格かというと、自分が損をするのが絶対に許せないタイプ。かつその閾値がとんでもなく低いクズという人間である。加えて、とにもかくにも自分大好きちゃん、といったところだろうか。
昨今、こんなこと言ったらボロクソに叩かれるだろうが、女性という人種は(顔面の醜美と関係なしに、)少なからず、そういう部分があるというのは理解している。
だが、コイツは輪にかけて酷い。相当に甘やかされて育ってきたのだろうなというレベル。自分に利害のあることなら派手に騒いで他人を巻き込むことも構わないが、他人が困っていても利害が絡まなければノータッチ、しれっとしている、といったぐあいだ。
例えるのが難しいが、中2ぐらいの思春期の娘が、性格はそのままにイイ歳(相応に、イイ歳だ。)して社会人やってる、といったところだろうか。これは書き手の主観なので、差し引いて聞いてもらいたいが、細かい仕草がいちいち演技がかっていて、大げさなのも非常に腹立たしい(もちろんフルボイスだ、加えて鼻歌まで聞こてくる。きっつー)。
適当なエピソードがあった方が説得力があるとの思うので、なるたけぼかして書くが、人事異動関係でうんこちゃんの業務が増える旨を面談で伝えられた際に、月N万円の昇給(1万とかそんな可愛い額では無い。そして、年収ではない、月収である。頂き女子にでもなった方が良い。)を社長に要求する、と堂々と公言していたときはさすがに引いた。
もちろん、現在の業務がうんこちゃんにとって過剰であってオーバーワークに陥る故あっての要求……なんてことは全くなく、毎日余裕の定時退社をキメてくれている。
唯一、まともな点といえば、顧客への対応だろうか、ここが終わっていたらお察しなのでギリギリ社会人ではあるといえる。
百歩譲って、顔面が良いとか、愛嬌があるとか、単純に若いとか、なにかしらあればまだ救いがあるのだが、特に言及しないことで察して欲しい。天は二物どころか一物もあたえないこともある、きっつー。
そんなうんこちゃんだが、外ヅラは良いのか、運良く弊社の面接を潜り抜けて、そうだな、1,2年はまともなフリをしていたと思う。たが、あるタイミングから、タガを外れたフリーライド野郎の傾向が見え始めた。
程度の差こそあれ、多少、手を抜く範囲ならまだ許せるのでは?なんて、意見も聞こえてきそうだが、自分が損をしたくないの閾値が下がるところまで下がっているコイツは、その手の雑用は一切しない。なにより、うんこちゃんの部署の後輩が転職していく、という実害も発生している。
直接問うたことは無かったが、新人代謝も少ない中小の企業で、対して年齢も変わらない、ただ先に入社していただけの先輩にデカイ面して雑用を全部押し付けられたら、資格でも取るなりしてさっさと辞めてやろうという思考になるのも、容易に想像できるというものだ。
そして最悪なことに、うんこちゃんの上司にあたる人間が、創業者の親族で次期社長候補のひとりである。
その上司も、能力はあるけれど、モラル的な概念は薄いので、うんこちゃんはこれに上手く取り行って、私は専属秘書ですから。みたいなツラをしながら仕事をしているのが日常である。うざったいことこの上ない。
悲しいかな、うんこちゃんの業務に専門性があって、余人に代えが効かない業務だったり、他人の数倍も業務をこなしている…ようなことは全く無い。
これが、まっとうな社会人なら、業務態度に問題があれば、上司が諌めるなり、人事評価でフィードバックされたりするだろうが、悲しいかな、わが零細企業にそのような”ふつう”は存在しない。
性善説に基づいているといえばちょっとは格好もつくだろうが、要するにうんこちゃんのようなクズが培養されるには理想的な環境というわけだ。うんこだけに。
なにより最悪の中の最悪なのが、我が零細企業のような年功序列ありきの古い体質では、その上司が次期社長になるのは目に見えている。
すると、どうなるだろうか?基本、文化系の部活に所属していたお前らはてなーでさえ、少し想像しただけで理解し、ヘドが出るだろう。
そう、もともと鼻につかない奴だったけど、「彼氏が部長になったが最後、周りの部員に対してあからさまに態度がデカくなるマネージャーの誕生」である。OMG。最悪だ。終わっている。
ロビン・ダンバーの宗教の起源で言うには、共同生活の人数には、明確な上限があるらしい。共生のストレスに耐えうる限界の人数ってやつだ。それが閾値を超えると、共同体は分裂せざるを得ないし、より厳格な教義やルールが作られる。
古今東西、どの組織にも倫理的に許されないフリーライド野朗はいて、共同体の人数が定員を超えると、そのクズは体のいい贄として柱に吊されたり、分裂した共同体に追い出されてたりするワケ。
長くなったが、要するに今まで暗黙の了解で成り立っていたものが、フリーライド野郎のおかげで崩壊しかけている。
togetterのクソみたいなまとめでありがちな、町内会ゴミ出し問題(苦笑)になっているということだ。
賢明な読者諸君は、小さい企業なら社長との距離も近いだろ。社長はどうなってんだ社長は、と問いただしたくもなるだろうが、社内コンプライアンスに配慮(笑)してか、元々事なかれ主義なこともあって、社員の業務姿勢にはノータッチ、である。なんなら謎の配慮(笑)すらあって、うんこちゃんに積極的に仕事を振るのをさけているフシすらある。こんな様子であって、うんこちゃんには、大概舐められていて、前述したような巫山戯た要求を突きつけられる始末である。
こんな世の中舐め子ちゃんが、蔓延っているのは本当にうんざりしてくる。理屈が通じない訳では無いが、利害が絡まないとやってるフリで通すだけなのでなおタチが悪い。どうしてこんな特大のクソが聖域化しているのか、誰も何も言わないのか。最近は、書き手の主観がおかしいのかと首を捻るばかりだ。パートとかアルバイトなら許容できるレベルだと思うが、いっちょ前に正社員だからクビも切れないし、いよいよ救いがない。
人生経験豊富(笑)なはてなーの諸君よ、知恵を恵んでくれ。間違ってもお前らがやることは、「職場の女性をうんこ呼ばわりするような輩とは一緒に仕事したくないな」とかしたり顔でコメントすることじゃあないからな、だから鼻で笑われるんだよお前らは
はじめに
2024年6月、VTuber・月ノ美兎による「秘宝館」を訪れた動画が公開され、話題を呼びました。しかしその後、訪問先である八潮秘宝館の館主が抗議のブログを投稿し、両者の間に大きなすれ違いがあったことが明らかになります。
この件についてはすでに多くのファンや観測者が「どちらが悪いのか」を語っていますが、本記事ではその問いを超えて、「文化と文化の衝突」という構図から捉え直します。
⸻
動画は「秘宝館→秘宝館→ネモフィラ→秘宝館」という流れで構成され、月ノ美兎がいくつかの秘宝館を巡る内容でした。その中で八潮秘宝館の館主にインタビューを行い、来場者の様子も撮影されています。
しかし、6月20日、館主がブログで問題を指摘しました。主な主張は以下の通りです:
• 来場者に無断で撮影を行った
• メールでのやりとりや態度に誠実さが感じられなかった
これに対して、月ノ美兎側はX(旧Twitter)で謝罪文を掲載。動画は非公開となり、編集を加えたうえで再公開する旨が伝えられました。
⸻
このやりとりの多くは「誤解」「不手際」「コミュニケーション不足」として消化されがちです。しかし本質的には、**まったく異なる文化コードを持つ二者が、同じ空間に立ったことによる“文化的摩擦”**に他なりません。
VTuber(特ににじさんじ)は、以下のような構造で成り立っています:
このように、VTuber文化は匿名性を前提とし、秘宝館文化は“生身”を前提とするという、根本的に非対称な文化構造にあります。
⸻
今回、ファンの中には「月ノ美兎は謝罪したのだから、これは単なるすれ違い」「館主が過敏すぎる」といった声も多く見られました。
しかしそれは、文化の違いを“善悪”で断じることで、相手の文化を理解しようとしない姿勢を助長してしまいます。
• 「文化的非対称性」を自覚せず、取材される側にすべての配慮を押し付ける傲慢さ
• 「触れていない場所には理由がある」という直感を軽視する態度
「誰もやってない=おいしいネタ」ではなく、「誰もやらない=文化的理由がある」という視点を、ファン自身も持たねばなりません。
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特に月ノ美兎のように「誰も触れない領域」にあえて切り込むスタイルの演者は、次のような構造的リスクを抱えます。
• 取材される側にだけ情報の提供や慎重な配慮を求め、自らの情報は守るという一方的な構図
• 「中の人を明かしたくないから、その点は配慮して」というお願いが、取材相手の文脈では“信頼を拒否する態度”に映る
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今回の件を経て、月ノ美兎という存在が“アングラ文化の語り部”として活動を続けるには、以下のいずれかの方向が必要になるでしょう。
• 本人はナレーションや企画監修に専念し、実地取材はプロスタッフに委ねる
→ 仮面を維持したまま、文化との距離を保ちつつ取り上げる構成が可能
• レイヤーを脱ぎ捨て、文筆家・ライター・批評家として生身の表現に移行
• Quick Japanやオモコロ的な土俵で、取材・編集・文章でアングラ文化を扱う
→ 自由度と信頼の対価として、キャラクターの保護を手放す必要あり
• 今後も類似の演者が現れるなら、「VTuberが文化を扱う場合のレギュレーション」を明文化する
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月ノ美兎が得意としてきた「アングラ×VTuber」の表現スタイルは、にじさんじが黎明期であったからこそ成立していました。しかし今や、にじさんじはポップな大衆文化の一角。“アングラに切り込む”こと自体が文化的矛盾を伴うようになってしまったのです。
その行為がどんな文化を踏みにじり、どんな信頼を危険にさらしているかを自覚する必要があります。
そして演者自身も、「表現したいこと」と「所属する構造」のズレを直視し、
次のステップを考える時期に来ているのではないでしょうか。
こうした勘違いをしてしまう人の心理だがこれは単なる知識不足や早とちりというだけでなく、もっと根深い人間の性質が関係しているように思う。
人間は本質的に「認知的倹約家(Cognitive Miser)」であると言われる。つまり、できるだけ頭を使わずに、省エネで物事を判断しようとする傾向があるのだ。複雑で多様な現実をありのままに受け止めるのは、非常にエネルギーがいる。だから私たちは、物事を「AかBか」「敵か味方か」「陽か陰か」といった単純な二元論の箱に押し込めて理解しようとする。
「理系/文系」という分類も、本来は学問の性質を分けるためのものなのに、
いつの間にか「論理的な人間/感情的な人間」「クールな人間/ウェットな人間」といった、人格の二元論にすり替わってしまう。
そして、そこに「体育会系(陽キャ)/文化系(陰キャ)」という、もう一つの分かりやすい二元論が重ねられる。
こうして、「理系=陽キャ」「文系=陰キャ」あるいはその逆、といった極めてシンプルな(そして誤った)世界地図が完成する。複雑な現実を前にした思考停止であり、一種の知的怠慢とも言えるが、そうすることで心の平穏を保っているのかもしれない。
特に、「自分は理系だ」というアイデンティティを強く持っている人の中にこの傾向が見られることがあるように思う。
「理系的思考こそが優れており、文系的な思考は非論理的で劣っている」といった、やや偏った価値観を持つ人が
自分たちとは異なる「文系」という存在を理解するために都合の良いラベルを貼ることがある。
そのラベルとして、「文化系(陰キャ)」は非常に使い勝手がいい。
「あいつらは、俺たちとは違う。なんかよく分からないことをゴチャゴチャ言ってる、内向的な連中だ」。
そうやって相手を単純なカテゴリーに押し込めて見下すことで、相対的に自分の優位性を確認し、安心感を得ようとする。
これは、相手を個人として理解しようとする努力の放棄に他ならない。
法学部で国際弁護士を目指してディベートに明け暮れる学生も、商学部で体育会の主将を務めながら起業の準備を進める学生も、すべて「文系」という箱に放り込み、「文化系だよね」の一言で片付けてしまう。これほど失礼な話もないだろう。
まず、先ほども触れたように、世間に流布するステレオタイプの引力はあまりにも強い。「理系はオタクっぽい」「文系はチャラい」といった、雑ではあるが大衆に浸透したイメージは、誰の心の中にも少なからず存在している。そして、「オタクっぽい」というイメージは、確かに「文化系」や「陰キャ」といった言葉と非常に近い距離にある。この強力なイメージに引きずられて、「理系の対極にある文系は……あれ、でも文系もおしゃれなカフェで本読んでるイメージだし、それってインドア活動だよな……じゃあ結局、文系も文化系ってこと?」というような、迷路のような思考に陥ってしまうのも、無理はないのかもしれない。
また、学問のスタイルと個人の気質に、全く相関がないわけではない、という点も無視できない。もちろん、これは鶏が先か卵が先かの問題ではある。内向的な性格だから文学部を選ぶのか、文学部で学ぶうちに内向的になるのかは分からない。しかし、何時間も一人で図書館にこもり、文献と向き合い、静かに思索を巡らせるという行為が求められる学問(例えば、哲学や古典文学)と、「文化系」的な気質との間に、一定の親和性があることは否定できないだろう。
逆に、大規模な実験装置をチームで動かしたり、多くの被験者とコミュニケーションを取りながらデータを集めたりするような研究分野では、ある種の外向性や協調性が求められるかもしれない。これは「体育会系」のカルチャーと通じる部分があるとも言える。
もちろん、これは極端な例だ。文系にだってフィールドワークで世界中を飛び回る文化人類学のような分野もあれば、理系にだって一人で黙々と数式と向き合う数学のような分野もある。だから、学問と気質を安易に結びつけるのは危険だ。しかし、「何となく、そういう傾向はありそうだな」と感じてしまう気持ち自体は、理解できるのだ。問題は、その「何となく」を、まるで確定した事実かのように一般化しすぎてしまうことにある。
他者を安易にカテゴライズしてしまうのは、自分自身が何者であるかを説明する手軽な方法を求めていることの裏返しなのかもしれない。「俺は理系だから、口下手なんだ」とか、「私は文系だから、数字は苦手で」といった自己紹介は、とても便利だ。自分の個性や欠点を、大きなカテゴリーに属することで説明し、免罪符にすらできてしまう。そうやって自分をラベリングすることに慣れている人は、同じように他人をもラベリングして理解しようとする。その行為が、相手の多様性や個性を削ぎ落とす、暴力的なものであるという自覚なしに。
「文系を文化系(陰キャ)と勘違いしている人」。この一見すると些細な言葉の誤用は、その根底に、人間の思考の癖や弱さ、そして社会に蔓延するステレオタイプといった、根深い問題を映し出している。
アホだなあ、と思う。でも、そのアホらしさの正体を突き詰めていくと、自分の中にも同じような思考の怠慢や、安易なラベリングへの誘惑が潜んでいることに気づかされる。私たちは誰しも、複雑な世界を前にして、分かりやすい物語を求めてしまう生き物なのだ。
しかし、だからこそ意識したい。文系の中にも、灼熱の砂漠で発掘調査をする考古学者がいる。理系の中にも、美しい言葉で科学の魅力を伝える詩人のような科学者がいる。体育会系のノリでチームを率いる文系経営者もいれば、文化系の繊細さでミクロの世界を探求する理系研究者もいる。人間は、そんな簡単な物差しで測れるほど、単純な存在ではない。
「理系/文系」も「体育会系/文化系」も、あくまで人間という多面的なプリズムを、特定の一方向から照らすための、便宜的なスポットライトに過ぎない。一つの光だけで全体を理解した気になったり、異なる種類の光を混同したりすれば、見えてくる像が歪むのは当たり前だ。
次に誰かが「文系って文化系だよね」と言ったら、今度は「アホだなあ」と心の中で思うだけでなく、こう返してみようかと思う。「面白い視点だね。ちなみに、経済学部でアメフト部の主将やってる俺の友達は、君の言う『文系』に入るのかな?」と。そうやって、少しだけ世界の解像度を上げる手伝いができたら、それはきっと、無駄なことではないはずだ。そしてそれは、自分自身が持つ見えない偏見から自由になるための、第一歩にもなるのだろう。
体育会系と文化系という分類における文化系(陰キャ)と勘違いしているやつがいてアホだなあと思った
先日、ネットでとある記事を読んでいたら思わず「え?」と思う記述があった
一瞬、頭がフリーズした。
彼の言っている「文系」と「文化系」が、私の頭の中でうまく結びつかなかったからだ。
ああ、なるほど。
彼は「理系と文系」という学問の分類と、「体育会系と文化系」という人間の気質の分類を
ごちゃ混ぜにしてしまっているのだ。
そして、その後者における「文化系」が持つ、やや内向的、いわゆる「陰キャ」的なイメージを、前者における「文系」全体に当てはめてしまっている。
しかし、その一方で、なぜ彼がそんな突拍子もない(と私には思える)勘違いをしてしまったのか、妙に気になってしまった。
「理系か、文系か」というのは、高校や大学で選択する学問分野の大きな括りのことだ。
ざっくり言えば、自然科学や数学、工学、医学といった分野が「理系」。そして、人文科学、社会科学、法学、経済学といった分野が「文系」。これは、何を学ぶか、どんなアプローチで真理を探究するかの違いであって、個人の性格やライフスタイルを規定するものではない。もちろん、学問の特性が個人の思考様式に影響を与えることはあるだろうが、それは結果論に過ぎない。
一方で、「体育会系か、文化系か」というのは、個人の気質や所属するコミュニティのカルチャーを指す言葉だ。
「体育会系」と言えば、運動部に代表されるような、上下関係がはっきりしていて、根性論やチームワークを重んじる、エネルギッシュで外向的なカルチャーを指すことが多い。いわゆる「陽キャ」のイメージと結びつきやすい。対する「文化系」は、文芸部や美術部、吹奏楽部などに代表される、個人の興味や探究心、内面的な活動を重視するカルチャーだ。こちらは比較的物静かで、インドア、内向的な「陰キャ」のイメージを持たれがちだ。
この二つの分類軸を並べてみれば、両者が全く別物であることは火を見るより明らかだろう。
これはX軸とY軸のようなもので、本来は組み合わせて四象限のマトリクスで考えるべきものだ。
・理系で体育会系:工学部のラグビー部員とか、医学部のサッカー部員とか。ゴリゴリのフィジカルを持ちながら、論理的な思考も得意とする人たち。たくさんいる。
・文系で体育会系:法学部の野球部主将とか、経済学部のアメフト部エースとか。チームをまとめ上げるリーダーシップとコミュニケーション能力に長け、社会の仕組みにも明るい。こちらもたくさんいる。むしろ、営業職などで大活躍するイメージすらある。
・理系で文化系:数学科でチェスに没頭する学生とか、物理学科でSF小説を書きふける大学院生とか。知的好奇心の塊で、自分の世界を深く掘り下げるタイプ。これもステレオタイプな「理系像」に近いかもしれない。
・文系で文化系:文学部で古文書を読み解くのが好きな学生とか、史学科で一日中博物館にいるような人とか。これもまた、一つの典型的なイメージではあるだろう。
このように、四つの象限にはそれぞれ典型的な人物像を当てはめることができる。
そんな単純な話では全くないのだ。
彼が言っていた「文系=文化系(陰キャ)」という図式は、このマトリクスの存在を完全に無視した、あまりにも解像度の低い世界認識だと言わざるを得ない。
では、なぜ彼は、そしておそらく彼以外の一部の人たちも、こんなにも雑な紐付けをしてしまうのだろうか。
いくつか理由が考えられる。
「文系」の「文」と「文化系」の「文」。この共通する漢字一文字が、無意識のレベルで両者を結びつけている可能性は高い。人間は、意味よりも音や形の類似性で物事を連想することがよくある。「文」という字には、どこか「武」の対極にあるような、静かで知的なイメージがつきまとう。「武」が体育会系なら、「文」は文化系だろう、という非常にシンプルな連想ゲームが、頭の中で行われているのではないか。
二つ目は、ステレオタイプの暴走と単純化だ。世の中には、様々なキャラクターの「型」が存在する。特に、ドラマや漫画、アニメといったフィクションの世界では、分かりやすさが重視されるため、キャラクターはしばしば極端なステレオタイプとして描かれる。
たとえば、「理系の天才」は、コミュニケーションが苦手で、白衣を着て研究室にこもっている、まさに「文化系の陰キャ」として描かれがちだ。一方で、法廷ドラマの敏腕弁護士や、経済ドラマの熱血銀行員といった「文系」のヒーローは、弁が立ち、行動力がある人物として描かれることが多い。
こう考えると、むしろ「文系=陽キャ」のイメージの方が強まりそうにも思える。だが、ここで話はもう少し複雑になる。
おそらく、多くの人が「文系」と聞いて真っ先に思い浮かべるのは、
経済学部や法学部ももちろん文系だが、より「文系っぽい文系」としてイメージされるのは前者だろう。そして、ひたすら文献を読んだり、思索にふけったりする文学部のイメージは、確かに「文化系」の活動と親和性が高い。この「文系の中の特定のイメージ」が肥大化し、文系全体を代表するイメージとして認識されてしまう。その結果、「文系=文学部っぽい人たち=文化系っぽい=陰キャ」という、伝言ゲームのような連想が出来上がってしまうのではないか。
人は誰しも、自分の見てきた世界が世界のすべてだと思いがちだ。例えば、その人が通っていた高校のクラス編成が、たまたま「理系クラスは大人しい生徒が多く、文系クラスは活発な生徒と静かな生徒が混在していた」という状況だったとする。その場合、「理系は文化系寄り、文系もまあ文化系寄りかな」という雑な印象が刷り込まれてしまうかもしれない。あるいは、自分の周りにいる数少ない「文系」の友人が、たまたまインドアな趣味を持つ人ばかりだった、という可能性もある。その限られたサンプルから、「文系とはこういうものだ」という法則を導き出し、それを世の中全体に当てはめてしまう。これも、人間が陥りがちな思考の罠の一つだ。
https://anond.hatelabo.jp/20250614122405
俺がブクマしたんじゃねえ。誰だよまじで