はてなキーワード: 責任問題とは
清朝の滅亡は、単なる王朝の終焉ではなく、「適応に失敗した組織がいかに自己崩壊するか」という普遍的な教訓の宝庫です。
現代中国の文脈で、そこから学べることは極めて多く、核心は次の4つに集約できると考えます。
清朝は、18世紀まで世界最大の経済圏を擁する「盛世」を誇りました。その成功体験があまりにも強烈だったため、19世紀の地政学的激変(ヨーロッパの産業革命と国民国家化)を「一時的な夷狄の騒擾」としか認識できませんでした。
先に議論した通り、清朝の改革を不可能にした最大の要因は、西太后や保守派の「自己保存」でした。彼らは国家の生存よりも、自らの特権的構造の維持を優先しました。
アロー戦争も日清戦争も、紫禁城の深部では「一部の敗北」として処理され、組織全体の危機とは認識されませんでした。真に危機が全構成員に共有されたのは、組織が既に手遅れなほど弱体化した後でした。
清朝は最後まで「天命」と「儒教的徳治」という古い正当性に依存し、国民国家時代の「人民の同意」という新しい正当性の獲得に失敗しました。立憲制の導入が遅れたのは、まさにこの点です。
最後に、清朝の滅亡が現代に突きつける最大の教訓は、「大帝国の崩壊は、外からの一撃ではなく、内部の硬直化と改革の先送りという静かなプロセスによって起こる」ということです。
崩壊の種は、外敵の侵入時ではなく、「まだ大丈夫だ」と皆が信じていた小康状態の時に、改革を先送りした瞬間に蒔かれます。この歴史パターンをどれだけ自覚できるかが、清朝以後のあらゆる中国の統治者に課せられた、永遠の宿題でしょう。
💫のファンの中でちょっと議論やお気持ちが多々あったので、考察してみる。
💫名義の仕事に関わる個人マネージャーをおく場合、マネージャーと▶️との機密保持契約(NDA)を結ぶ必要がある。かつ💫がマネージャーを雇う形になるので💫がマネージャーの管理監督責任者であるという形になる。
懸念点1:管理責任を持つ人ひとりを雇うことで逆に負担が増えないか?
マネージャーが情報漏洩をやらかした場合、もちろんマネージャーを解雇することを始めとした処分をすることになる。それに加えて管理監督者である💫も責任を問われることになる。最悪の場合は契約解除となる可能性もある。そうなれば活動終了となる。
(ここが☄️と違うところ。IPを自分で持っていれば除籍独立で済む)
懸念点2:情報漏洩リスクが単純計算2倍になりやはり負担が増えないか?
個人マネージャーのやからしを💫の責任にしないためには、管理監督者を▶️にすればよい。ただそこまでくると個人マネージャーではなく、▶️所属の専任マネージャーということになる。雇用や契約がついてくる。さらに💫の紹介での入社や契約となると組織の腐敗防止関連のコンプライアンスに抵触して、入社したものの💫の担当になれない可能性も高い。
懸念点3:責任問題を回避しようとすると結局事務所マネージャーを増やす形になりかねない。
結論:情報漏洩リスクや実際に情報漏洩した時の責任を鑑みると、▶️のマネージャー部門の人員拡充という形が1番良い。▶️の採用活動とその成果に依存するので、即時の対応は難しい。採用がベースとなるので、スポット参戦なども難しい。
大きな事件事故がある度に「〇〇を管理者が把握してないのはおかしい!!」みたいな話がSNSでは流行るし、今回の修学旅行の件でもそういう話が出てるのを見るけど、個人的にはオッカムの剃刀パターンだと思うというか、人間そんな有能じゃないんだよな……という気持ちがある。
100人規模の修学旅行の面倒を見た経験があるんだけど、例えば修学旅行でホームステイに行った子達がホストファミリーのところで週末何をしているのか、というのを管理することは到底できない。そこで何か事故が起こっていたらと思うと今でも胃が痛くなる。複数のアクティビティが選択できる修学旅行で、しかも探求学習も当然絡んで、となると忙しさも倍の倍でしんどそう。幸いにして、私は探究が入ってくる前にしか経験をしていないのだけれど。
旅行会社もその先で手配を現地の会社に頼んでいるパターンがあり、学校→旅行会社→現地会社→実施元 という構造になると、学校が「いやそんな体制になっているとは」という初動の対応になるのも分からなくもないというか、管理側がアホみたいに忙しいだろうコース別の修学旅行で、どこまで事前に管理できるのかなと腹まで下すレベルで心労が想像できる。船の大きさを事前に見る機会があるのだろうか。旅行会社にどこまで任せていたのか。今の段階では何も分からないし、野次馬に明かすことでもないだろう。
だからイデオロギーありきで学校側まで叩かれるのはキツいというか、今の段階ではそこに何か思想的なものを言うべきでは絶対にないと思う。そこに不作為以外のものを見出すべきではないんだよ。責任問題は当事者同士で議論されるべきで、そこにネットユーザーの思想を持ち込まないでくれ。見てるこっちまでしんどくなるから。
中国共産党が天安門事件を隠す最大の理由は、事件が「党の正統性そのものを揺るがす」から。
検索結果でも、天安門事件は 中国共産党の最大のタブー と明言されている。
つまり、
「失敗」ではなく
であり、
とされている。
これは中国共産党にとって致命的。
なぜなら、党の正統性は
「人民を守る」
という建前の上に成り立っているから。
そこに
「人民を殺した」
天安門事件は、
もし事件を認めれば:
誰が命令したのか
誰が責任を取るのか
という議論が避けられない。
「党が間違っていた」
と認めることになる。
これは
などを「党の偉大な歴史」として語る。
そこに
につながる。
あなたは
と言ったけど、党にとっては逆。
認めると:
党内の責任問題が再燃
党の正統性が揺らぐ
つまり、
だから徹底的に封じる。
検索結果でも:
と明記されている。
これは「消すと増える」どころか、
民主化運動が再燃する
党内の責任問題が発生する
認めても得がない
検索結果でも、
とされており、
これは単なる“汚点”ではなく
「党の存在理由を揺るがす致命傷」
だからこそ隠され続けている。
この辺の話は正直よくわからんが、左派言論がコストを負いたがらず右派へコストを負わせようとしているのは事実なんじゃないかな
左派は理念という最終到達地点は設定するんだけれど、最終到達地点への過程や道程、仕組み作りに参加したがらないんだよね
「憲法9条が大事なのはわかった。じゃあその憲法9条を守るため制度の仕組み上として憲法96条に規定される憲法改正をどうするの?」と聞くと「改正が行われていないので死文化している」という論理を使う
いやそれはおかしい、その論理を用いるならば「陸海空軍その他の戦力は保持しない。国の交戦権は認めない」と規定されてるが陸海空自衛隊を保持している日本において憲法9条もまた死文化しているとなる
「だからこそ自衛隊は違憲なのだ」と主張するが、その違憲状態すら死文化論理を憲法9条へ適用するならばでキャンセルできる
この憲法9条問題は、左派言論の最終到達地点を設定するが過程や道程、仕組み作りに参加したがらないという姿勢へよく現れていると思う
認定NPO法人フローレンスによる「迂回融資」疑惑は、同法人が補助金で建設した保育施設を担保に銀行から融資を受け、その一部を別の借入金の返済に充てたとされる問題に関する報道や指摘を指します。
フローレンスは、東京都渋谷区の保育施設「おやこ基地シブヤ」の建設・運営に際し、渋谷区や日本財団から合計約1億3000万円の補助金・助成金を受け取っていました。この施設に対し、原則禁止されている行政の承認を得ずに金融機関(東日本銀行)から5000万円の融資を受け、抵当権を設定していたことが問題視されています。
特に2023年に行われた新たな融資の際、フローレンスは東京都に対し「小規模保育園改装資金」などと申請しながら、実際にはその一部を別の既存借入金の返済に充てていた疑いがあるとテレビ朝日が報じました。これが事実であれば、補助金の目的外使用にあたる可能性が指摘されています。
補助金を受けて設立した施設について、承認を得ずに担保を提供することは「補助金等に係る予算の執行の適正化に関する法律(補助金適正化法)」違反となる可能性があり、補助金交付決定の取り消しや補助金の返還義務が発生する恐れがあります。
フローレンス側は、2017年の借り入れ時点で既に建物を担保に入れることを前提に区と協議していたと説明しています。また、一連の問題を受けて公式サイトで「補助金交付要綱等に関する不適合への対応と是正措置について」という文書を公開し、謝罪しています。
この問題を受け、当時代表理事で現会長(当時)の駒崎弘樹氏は、今月(2025年12月)いっぱいで会長職を退任すると発表しました。同法人は現在、是正対応を最優先に取り組んでおり、並行して本件に関する責任問題について理事会で検討している段階とされています。
責任を取るが、謝罪と賠償金ってところで止まってるのが責任を理解してない子どもだなぁと
責任のもうひとつ重要な要素に再発防止が必要で企業間で責任問題になると必ず、
AIって再発防止出来ないんだよね~
すみません、金払って原状回復しますけど、もう一度同じ状況になったらまた事故起こします
人間も同じ問題は起こすけど、再発防止する意思を示して技術改善や注意個所を増やしたりはするわけ それが責任
AIはAI精度があがって改善するかもしれないけど、うちのサービスじゃないしサービス止める訳にはいかないんで営業は続けマッス 可能性の問題でしかないっすね
これを責任取ってると判断できるか AIだから賠償多めにするからいいでしょなら責任を果たしてるわけではなくそれこそ金でぶん殴ってるだけでしょ
もしくはそういう状況をモデルに組み込んで、AI精度を局所的に向上させて事故防止します再テストもしますってことならまさに人間が責任取ってるよね
思うんだけど全体的に自業自得感ない?
わからんけど整理するとこういうこと?
報道機関は女子アナという女性アナウンサーの枠に、学歴があり品が良さそうなニュースを読む人を選びたかった
↓
学歴があり品の良さそうでカメラで撮られることに抵抗のない人が採用された
↓
↓
賢くておとなしい品の良い人の中から、さらに「美人」が選ばれるようになった
賢くておとなしそうな美人が1番「都合」が良かった
↓
美人はもちろん高学歴を兼ね備え、採用されるために「おとなしそう」の部分をハックする人が現れた
↓
↓
案の定「おとなしい」に紛れた被害者がその怒りを消化できず告発して責任問題になった
↓
テレビ局(悪)
こういうことじゃないの?
みんな不幸になってるね
けっこうバズっていたのでわかる人にはわかると思うが、手すりを飛び越えた拍子に、向こう側にいた観客に見事なまでの飛び蹴りを食らわせていたやつだ。
自分自身も不定期でライブを見に行くことはあるものの、モッシュやダイブをやるようなジャンルではないので、こういった文化には馴染みがない。
言葉を選ばずに言うなら、単に暴れて鬱憤を晴らしたい(そうすることでしか鬱憤を晴らせない)低能たちの集合体にしか見えなかった。一口に音楽と言ってもジャンルは多様だし、オーディエンスたちの楽しみ方も色々あるだろうとは思うけれど、暴力はいかんだろ暴力は。
擁護派の声としては、「俺たちは内輪で楽しんでるだけ」的な意見が多いのだが、さすがにあの調子では死傷者が出ないはずがない。あんな派手な跳び蹴りを食らった日には、何かしら深刻な後遺症を負う可能性もゼロではない。果たしてそうなった時に、本当に一切の後悔無しで今後の人生を生きられるものだろうか?
現場に行ったこともないやつが批判するなという声もあるが、あんな危険極まりない現場に誰が行こうと思うだろうか?戦争の前線に立ったこともないやつが戦争を批判するなというようなものだし、この論法は卑怯ではないかと思う。
なにより、暴力的な形態を伴うことでしかエンタメを提供できないというのは、興行として二流以下じゃないのか?そんなジャンルに流入してくる新規層の数なんて限られているし、ましてやファン層の中ですら流血沙汰を繰り返しているのだから、後に待っているのは先細りだけではなかろうか。
たぶん彼らは嘘偽りなしで、本当にあの現場を楽しんでいるんだろう。しかし個人的な感覚として、他人を怪我させるのも自分が怪我するのも、まったく楽しいとは思えない。自分が怪我しているだけならまだしも、相手を怪我させてしまった日には責任問題である。
(こんな野蛮な文化は駆逐してしまえ!と言いたいわけではない。印象としては最悪だが、おそらくは今後一生接点を持たないであろうジャンルだし、仲間内でやってる分にはどうでもいい。ただ単に、理解できない人種の集まりだなぁと感じた。)
1つはSora 2という動画生成ツールがマジで無法すぎるデータ使用をしている話。
1つはweb小説サイトでAI執筆の小説が、ランキングやコンテストを席巻し始めているという話。
Xではこれらを中心とした議論が更に活発化しているが、大概はなんか論点がよく分からん話をしておられる気がする。
というか論争し合っているお互いが、それぞれ別のことに言及していて、言葉のドッヂボールにすらなっていない感もある。
例えるなら、ウナギの美味しさを批判するべく、いかにカニが美味いかを熱弁しているみたいな。
それ会話成立してる?的なやつ。
なので、その『今何について批判とか意見とか肯定とか否定とかしてるのか』に関する論点というか、
話の軸について、こんなとこで書いても仕方ない感は重々承知しつつ、とりあえずまとめてアップロードしておくことにした。
ちなみに結論らしい結論は特に無いので、そこは期待せず。忘備録だと思ってほしい。
ちなみに私は匿名クリエイターだが、仕事で生成AIサービスを使ったものを納品したことはない。普通の制作村の民である。
が、一個人として、あくまで一個人、私のスタンスとしては、生成AIの存在はなかば受け入れている。
今の時流のクリエイターが納得する形の規制は、色々と無理筋だと感じている。
個人では現実問題として【存在する】という前提で動くしかない類のものだと感じている。
さて本題。
議論において軸とされているように見える問題は、分けると次の通りになると思う。
1:法の話:著作物を勝手に学習データに使うのって、現行法の隙間なだけで取り締まるべきですよね問題
2:文化の話:生成AIで生み出すことを【創作】に含めていいのかよ問題
3:経済の話:生成AIの量産力で、中小層の市場は壊滅するよ問題
4:技術の話:生成AIと生成じゃないAIの区別がついてないよ問題
5:情報の話:生成AIで機械的に情報発信しまくっちゃって、もうネット上のデータが全然信用できねーよ問題
6:感情の話:生成AI嫌いだよ問題、クリエイターがあたふたしないでよ問題
7:対話の話:反AIとか反反AIとか陣営を作って、相手の主張を歪めて自己解釈するので、お話が通じないよ問題
これらをごっちゃにしていっぺんに論じたり、論点が反復横跳びして話題をすり替えたり、
主張や文脈でなくクソデカ主語とかの単語部分への指摘だけで議論したり、これらの話題を分離して認識できなかったりするから、
そして何より、この交錯を他の話題より爆発的に加速させている要素がある。
4の『技術の話』だ。
要するに【生成AIという概念の厳密なところが難しくて、理解できない人が一定数居る】という点。
AI=『SF作品のロボットの頭に入ってる、やがて感情が芽生えたりする人工の頭脳のこと』みたいな認識の人が、割と居る点にあるのだ。
「イラストや映像に使われる手振れ補正AIは、生成AIとはアルゴリズムが違うよ」とか、
「補正AIは数式ベースだけど、生成AIはディープラーニングで」とか、
こういう話は【実際にプログラムの挙動を想像できる人】じゃないと、言われただけでは理解できないことが多い。
クリエイターは得てしてそういうとこに強いケースも多いのだが、
一般人はレンズブラーとガウスブラーの違いを内部処理で説明されても「なるほど、どっちもボカすエフェクトだな」って思っちゃうものなのだ。
それからもう1つ技術関連、というか解釈関連で面倒臭い話題が【人間と機械の違い問題】だ。
機械が既存の著作物を学習した演算でアウトプットすることと、人間が既存の著作物から学んだ能力でアウトプットすることの違い論。
ここから急に"学習"という現象概念の哲学モドキに話がぶっ飛んだりする。
『既存の著作物の要素をイン/アウトプットしてはいけない』だと、人間も当てはまる。
人間はセーフってしようとすると『ツールと作業の割合がどのくらいまでなら人間か』のライン探りが始まる。
世界中のあらゆる訴訟と判決を論拠に、可能な限りのセーフラインぎりぎりで。
果ては『何故製造は機械に代替されてきたのに、創作でだけではやってはいけないのか』という話へと展開される。
そして、もし仮にだ。
生成AIが、現行のクリエイターにとっていい感じに規制されたとする。
つまり【許可取ってない著作物の学習とか違法ですからね】とか【成果物が似てたら著作権侵害で訴えればいけるよ】って世界的になったとする。
学習データの何百万、何千万のデータを人間が逐一チェックして、何件の侵害、とか数えんの?
それともAIに判別させる? そのAIどうやって作る? 必要悪としてそれだけは無制限学習可とかする? 信頼性と責任問題どうする?
訴訟できるよっつったって、イラスト一枚の類似性で訴訟する労力を、何百枚何千枚分とやるわけ?
それを裁判で「この出力データはダメ、こっちはセーフ」とか一枚ずつやるの?
それすらもいい感じに処理できる【一括で処理するルール】を作ればいいじゃん、と思うが、じゃあ一括って何を基準に、どこから、どうやってする?
そんなウルトラCの完璧ルール、誰がいつ思い付いて、いつ法に組み込まれて、いつ運用でまともに機能するようになるんだ。
五年か、五十年か。
皆の声と努力と理解のお陰で、紆余曲折あって百年後は完璧に取り締まれる社会になりました、ちゃんちゃん。
で俺の仕事は?
という思考を経て、私は生成AIに関しては、多分いつか頑張り続ければなるようになるかもしれないが、
その"いつか"までの今はどうすんの。って思って、あくまで個人の心情、心の中の納得としてだが、生成AIの存在は受け入れることにした。
自分が生きてる時間の責任は誰も取らないし、自分の保障は自分がするしかない。
てことで現状、私は生成AIについては、規制派とも推進派とも付かない。
「浪漫」という言葉は、夏目漱石が1907年ごろに「Romanticism」の訳語として当て字したものとされている。
よって、ここでは1907年以前の用例を見ていく。
なお、「波浪漫々」のような用例もあるが、これは「波浪/漫々」であろうから除外する。
野戦貯金及軍夫の野戦為替の送金等は何れも苦難を経たる上の蓄積なれば其社会の中等以下なるに関らず之を消費する決して浪漫ならず惹れ一般の貯蓄心を誘発したると著るしかるべし
今日之レヲ興サント欲セバ、須ベカラク諸種ノ寄生物ヲ芟除シ、謂レ無キ浪漫(ロウマン)ノ妄説ヲ排斥シ、真虚有無ノ分界ヲ明カニシテ、合理的解釈ヲ付セザル可カラズ
さて、これらの「浪漫」はどういう意味で使われているのだろうか。
「浪」「漫」どちらの漢字にも「みだりに」「とりとめがない」といった意味がある。
上記の用例ではいずれも「軽はずみで深い考えがない」というような意味合いで通じそうである。
これらの「浪漫」が用例として認められるならば、
これ
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/2594082
元エントリでは、交通が不便になるから代官山はもう終わり、猿楽橋一つで10年かかるから大震災が来たら復興無理との話だが推定がおかしいので指摘。
まず鉄道が走っている時間は工事が出来ない。これは元エントリでも言われている。
山手線の終電は車庫最寄り駅である池袋と大崎の着時刻が1:10頃だ。更に始発は朝4時半。だから線路に立ち入る工事は3時間20分くらいしか猶予が無いのだ。
特に始発前は猶予を多めにとって3時半には撤収を始めないといけないから、2時間20分くらいしか工事はできない。
また、埼京線線路は元々貨物線だ。今は貨物列車が埼京線線路を走る事は原則無いが、車両の回送が行われることがある。
また、保守工事用車両が走る事がある。営業列車と違って工事用車両は工事現場前で止まってくれるのだが、接車事故防止の為に一度軌道敷から退去する必要がある。
昔は営業運転中でも工事させていた。だが架道橋工事で線路が狂って危うく脱線というインシデントを数回起こして、大物の吊り上げなどは営業中はダメとなってしまった。
道路橋や河川などの工事では交差部分のみJRが指定した下請けの鉄道ゼネコンに委託しないとJRが工事を認めない。東京なら東鉄工業だ。このゼネコンが橋梁工事会社や土建業者に下請けして工事をするという形になっている。
これは万が一の事故の際の責任問題の為と、何かあった時の連絡系統の問題の為だ。因みに交通広告関係も同じように系列広告社通す事指定がなされる。線路内の看板などがある為。
で、この鉄道ゼネコン、他の工区担当のゼネコンと平仄を合せないのだ。だから道路橋なら取付道路が出来てから2時間20分/日の工事が延々と続くって事になってしまう。
高架橋が落橋したにも拘らず、JRが74日間で復旧し、全面的に落橋した阪神電車も3年で完全復旧したのは有名でプロジェクトXでもやっていた。
一方、池袋では埼京線と湘南新宿ライン線路が平面交差するのを解消する為に立体交差工事が行われたが、これには10年かかった。
この二つの違いは?といえば電車が走っているかどうか。それだけでこれだけ違ってくるのである。
https://maps.app.goo.gl/SmTvmxZxZhBYmLch9
ここが八幡通りの猿楽橋なんだけど、近くにR246もあるし、恵比寿方に300m行きゃガードもある。別にそこまで不便になるわけでもなし。下にハチ公バスの停留所がある跨線橋の場所には昔踏切があった。そこが廃止されて通れなくなったけど別に大した事にはなってないじゃない。だからちょっと大袈裟なんよね。
ここで代官山に流行や商店や資本が集まるようになった流れを説明していくよ。
渋谷は言うまでもなく繁華街で大資本のテナントビルも多い。「流行の最先端」にいる人というのはこういうのを嫌うのだ。
そこで渋谷から一駅の代官山に「知る人ぞ知る」ような出店が為されるようになった。例えばどっかの民家を改装しただけのbijinちゅう美容室があってそこにはチェッカーズのフミヤが御用達とか、そういう口コミだけで広がる店というのがあった。ハリウッドランチマーケットなんかも最初は民家改装雑貨ショップだった。裏原ショップ形式だな。そういう店をファッション誌が紹介するなどで段々メジャー化していく。ファッション誌の編集者やスタイリストはそういう店の店主と知り合いであることが多い。
こういうのが増えていくとアパレル会社も事務所を構えるようになり、「オサレ」な雰囲気が出来てくる。
すると中小デベロッパが参入して小さめのコンクリ打ちっ放し店舗用ビルなんかが乱立し、そこに新鋭ブランドのアンテナショップが入居するという風になって行く。
その後は大手デベによる巨大商業施設乱立という流れだ。でもこうなると入るテナントも大衆化して大手資本の店が多くなるから、新しいものが得られる土地という価値は失われている。
そうなると新しいものや流行の先端に居るような人はズラシの文脈でその隣の土地に行ってしまう。だから今度は中目黒なんかが嘗ての代官山の立場になるのだな。
こういうズラシの文脈による流行地というは方々にある。例を挙げると
・原宿→裏原宿:原宿の竹下通りは竹の子族ブティックやその後のタレントショップ隆盛でジャリ向けという印象が持たれるようになった。そこで大通りを挟んだ旧渋谷川暗渠沿いにインポートショップが林立するようになる。BEAMSなんかもここ出身だ。やがて区が暗渠を道路指定→建築条件緩和でビル林立→アンテナショップというメジャー化を辿る。
・渋谷→ファイヤー通り:公園通りが栄えパルコが出来ると大手資本が参入。それを嫌ったインポートショップが公園通りから路地を入った辺りや神宮通りに出店。その辺りが流行の中心となり、タワレコ渋谷店はその中心近くに出来た。同店は「これから流行するもの」「店員の推し」だけを置いてJPOPヒットチャートのCDなぞは置かないというポリシーであった。
因みに明治通りと渋谷川暗渠交点近くに靴屋のクラークス、2Fにアニエスbカフェが入るビルがあるが、実はここの大家って統一教会のフロント企業で霊感商法の品々を扱ってた商社なのな。
・六本木→西麻布:六本木はディスコが林立する繁華街になったがメジャーになりすぎ&人多すぎで、バーなどが西麻布に流出した。今はそれも過去の話で裏手通りに高級飲食店が軒を連ねる。
・六本木→麻布十番:元々ディスコの聖地は新宿だったが年齢層が低下、それを嫌った人らが六本木に来るようになったという経緯があった。だが六本木でも既存ディスコの陳腐化と共に低年齢化は進んだ。そこで鉄道が通らず交通不便な麻布十番にマハラジャがオープン。人気を博しバーやビストロなどが軒を連ねるように。元々麻布十番は下町であった。
・青山→青山同潤会アパート:青山は高級ブティック街だった。一方同潤会アパートという古い建物が残りその1Fに出店する若手デザイナーやインポートショップが多く、不思議な景観を為していた。エルベ・シャプリエっていうバッグのブランドを知ってます?余り高くないナイロンバッグのブランドなんだけど、若い同氏がブランドを立ち上げ、パリの同潤会みたいな建物で売っていた品をバイヤーが輸入して表参道や裏原のインポートショップで売り出したことで知名度が上がった商品なのだな。
こんな同潤会だったが表参道ヒルズに建替え。すると大手アパレルやセレクトショップが入って、それまでの文化的文脈は死んでしまった。
こういう感じで、メジャーな盛り場からの逃避→家賃が安い隣接地区に才能はあるが金が無い人が流出→メディアでの紹介→メジャー化→不動産投資(新築ビル)→アパレル資本参入→栄えるが新しいものはもう無くなる
というサイクルなんで、文化文脈的には代官山はもう死んでると言えば死んでる。だが資本主義的な金銭勘定の点では生きていて利益を出しているという状態。
また例えば中華の新興ガジェっトメーカーなんかもイベントを代官山で開催したりしてる。でもそれって「メジャーで安全なもの」って記号を付ける為なので昔の代官山の記号的消費だ。消費されるだけで新たな価値が生まれなきゃそのうち無くなる。
デベによる大規模開発は相変わらず進んでいて、デンマーク大使館裏の30年くらい仮囲いで囲まれていた土地にも新たな建物が出来てる。高級版ベッドタウンの駅ビルみたいな街になってる。だが渋谷で再開発が進んでいてそっちの完成時には当然渋谷の方が新しくなるので、文化文脈的にバッティングしているのならその時に一気に衰退しないか?という疑念はある。
自動車販売店に目を向けると、営業マンは誰でもできる仕事じゃないし、エンジニアも注意不足が責任問題に発展する大変な仕事だけど、洗車担当だけはあんま失敗って概念がなさそうで1番無能な人間が回されるんじゃないかと思ったり。洗うという過程ではあんま覆水盆に返らずみたいな事態は起こらなそうだし。
うちも事務とか細かい計算任せたら失敗するような頭だと見做されてる人は洗車ばっかやらされてるよ
-----BEGIN PGP SIGNED MESSAGE----- Hash: SHA512 https://anond.hatelabo.jp/20250825021401# -----BEGIN PGP SIGNATURE----- iHUEARYKAB0WIQTEe8eLwpVRSViDKR5wMdsubs4+SAUCaKwboQAKCRBwMdsubs4+ SMdsAQC3uZOdZMzPd5lWBWVmeN/PdnwZzH5QuHo3lyCuE+l5bAD/cx/3i4CTtNw7 51CP0BmS1pg+BimOwDP5Vz2FDlU4+AQ= =4nn3 -----END PGP SIGNATURE-----
2025年8月9日、田口善弘氏が Qiita に投稿した記事「GPT-5のポンコツっぷり」(最終更新 8月13日)が注目を集めた。
記事では、著者が GPT-5 に投げた質問への応答が意図を外れていた事例を挙げ、「GPT-5のポンコツっぷり」と評している。
この Qiita 記事に対し、はてなブックマークで最も多くのスターを獲得したコメントは、ユーザー「hagetenai」による次の一文である。
この発言は一見ユーモラスで軽い皮肉のようにも映る。しかし、その背後には“AIへの感情移入”という、看過できない心理的傾向が見え隠れする。
AIは人間の言葉遣いや感情表現を模倣するが、実際には感情を持たない。にもかかわらず、同情や愛着を覚えることで、「AIが人間のように感じ、苦労している」という錯覚が強化される。
これは、AIの出力を人間の意見や感情と同列に扱い、批判的検証を怠る危険な土壌となる。
AIの誤答や不適切な応答は、本来開発者・運用者が改善すべき問題である。だが「かわいそうなAI」という感情が優先されると、批判や改善要求が感情論で薄まり、問題解決が遅れる。
感情移入は信頼感を高める一方、批判的思考を鈍らせる。「この子が言うなら…」という心理状態になれば、誤情報や誘導的な回答でも受け入れやすくなる。これは悪意ある利用者や権力者にとって格好の攻撃経路となる。
同情や愛着が先行すると、「AIの利用範囲」「安全性」「透明性」といった重要な議論が感情論で押し流される。技術の限界や設計上の責任問題が、事実よりも“印象”によって判断されてしまう。
今回の「ChatGPTに同情」というコメントは、単なる軽口ではなく、人間がAIを擬人化し、現実と虚構の境界を曖昧にしていく兆候である。
この傾向が進めば、私たちは情報の真偽やシステムの欠陥を冷静に見極める力を失い、AIを通じた操作や誘導に無自覚なまま巻き込まれることになる。
AIに「かわいそう」と感じるその瞬間、私たちはすでに一歩、危うい領域へ足を踏み入れている。
AIは感情を持たず、痛みも感じない。それでも擬人化し、同情の対象にしてしまえば、冷静な判断は薄れ、批判の目は曇る。
その結果、誤った情報を疑わず受け入れ、技術の欠陥は放置され、そして気づかぬうちに、誰かの意図した物語に沿って考えを誘導されるようになる。