はてなキーワード: 文化資本とは
幼児向けのプログラミング教室とか、親子で学べる科学教室とか東大の研究者を招いた講演会とか
最先端の研究者を招いたこういうイベントは、田舎の自治体にはなかなかできる事ではない。田舎の子供には興味を持つ機会さえ与えられない。ネットで学ぼうにも今はおすすめが個々の興味関心に最適化されるから、親の意識が低いと優良なコンテンツが子どもの目に触れる機会も少なくなる。
ただでさえ特権階級のみが集う文京区という知の集積地の子供達に、無料で学習の機会が提供され、地域格差はますます開いていく。
これは事実だ。
◯◯市は「文化的」だという。
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この手の話をする人間は、だいたい街を
便利さ × 都会っぽさ
・
という結論にたどり着く。
・
ほとんどの
図書館にも行かない。
六本木ヒルズも行かない。
・
なぜか落ち着く、別の小さな街
・
むしろ地味で、狭くて、閉じている。
・
・
東京は便利さを誇らない。
都会さを売りにしない。
・
一方、地方はどうか。
・
便利さを語る
都会さを語る
東京と比べてどうかと語る
・
東京にいなくてもいい。
東京は不便だ。
・
比較すらしていない。
・
それに勝った負けたを言い出し
自分の街を肯定したつもりになっている人間たちはこの辺の空気感に気づいていない
・
・
それを理解せずに
「地方は便利だ」
と言い出すのは、構造としてはこういう話だ。
・
と言っているのと同じだ。
・
たしかに家の中は便利だ。
・
不便さを知らずに便利さを選んでいるわけじゃない。
不便だと分かった上で、あえて行っている。
・
東京も同じだ。
・
「一番便利だから」
「都会だから」
住んでいるわけじゃない。
・
むしろ
混んでいる。
高い。
うるさい。
落ち着かない。
・
不便な点はいくらでもある。
・
それでも東京を選ぶのは
利便性の総量ではない。
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地方の「便利」は
・
東京の「便利」は
・
・
同じように
・
東京は便利さを求める人のための街ではない。
https://anond.hatelabo.jp/20130809115823
元のエントリより論点はズレてしまうのだが、東京で働くいち田舎者としてこんな奴・こんな考え方もあるということを書きたい。
高学歴・低学歴で人を分けた場合、私の家族や地元の人は確実に低学歴だ。私も漏れなく、一族で初めて四年制大学に進学した人間である。
だが、地元には、高学歴、低学歴だけでは括れない、東京と地方の二元論だけでは語れない価値があると私は考えている。
以下、東京や田舎という言葉が出てくるが、あくまで私の体験したn=1の東京と田舎の話です。
私の地元は日本海側のど田舎にある。集落は四方が山に囲まれて、交通量が少ないので信号すらなかった。
通っていた小学校は全校生徒が70人弱だった。今は統廃合されて、通っていた小学校はもうこの世界から名前が消えてしまった。
小学校は田舎すぎて少人数クラスになり、先生の指導が行き届いたのか比較的賢い学校だった。
田舎なのにやたら成績のいい子ども達がいると話題になり、関東の大きい大学の教育学の先生が研究しにきたほどだった。
私の小学校は同級生が14人しかいなかったのだが、そのうち3人が旧帝大に進んでいる。(私は国立大に落ちて私立に行きそのメンバーには入れていないのですが…)
定期的に周辺で熊や猪が出て、集団登下校が義務付けられていた地域の学校で、だ。
サピックスも日能研もない地域で遊んで勉強していた子たちが、田舎すぎて逆に賢くなっていた。
先生に気軽に絡めて質問もできるので、みんながゲーム感覚で勉強をしていたのもあったのかもしれない。
私が後に勉強エンジョイ勢になって大学院まで行ったのもこの時期に下地が作られたと思う。
そんな地域もあったということを知ってほしい。
そして、私の地元は田舎なのだが、田舎ゆえに一つでかいカードがある。
親が地域の伝統工芸の職人なのだ。地元ではそこまで珍しくない職業だ。
詳しく書かないが、親が歴史ある工芸の職人をしていたので田舎に住みながらとんでもなくでかい文化に接していた。
職人として知見を広めるために親が美術館や博物館に行くのにもよくついて行っていたし、色んな工芸や美術の知識を親から聞いていたので、よく言う「文化資本」的格差を東京で感じることがそんなにない。
それに、地元では小規模ではあるが車で20分くらいのところに美術館はあったし、車で1時間(田舎では普通の単位)で県庁所在地に行けたので、そこにはもっと大きな美術館がいくつもあり、そちらも大きな文化的拠点になっていた。
家族に話を戻すが、親戚がみな佐官・大工・和菓子・別の伝統工芸など職人のオンパレードだった。
そして兼業農家も多かった。
彼らは職人と言っても、アーティストではなくブルーカラーな人たちだ。
だが、彼らは大学に行っていない・行くという環境にないだけで馬鹿ではない。むしろ賢い。
賢くなければ職人業というビジネスをしっかり営むできない。農業だってそうだ。
なので私は、ブルーカラーに類される職業の人たちを学歴がないからといって話の通じない人たちと断じることができない。
それに、日本の産業を支えているのは彼らのような人たちなので、とても下に見たりとかはできない。もちろん、中には変な人もいるとは思うけど…。
このことを知れていることも、私が田舎(というより社会の下のほうなのかも)で育って良かったという一つのポイントだ。
日々山や川を見ていると、それぞれが気候に合わせて美しく形を変えていくのは、上京するまでの18年間一度も飽きの来ない風景だった。
山にはこんな動物がいて、木の実があって、山菜があって、木があって…という知識も家族に教わった。
山の保ち方、間伐の仕方、川での魚の獲り方も教わった。
地元の自然は人間の歴史と深く関わっていて、そんな中で生まれた民話もたくさんあった。
地元の地域には日本史に出てくるような人や事件が関わっていたこともあり、地域の人に話を聞いたり地域の研究本を読むと、時間の軸を深く辿ることができた。
小学校で勉強エンジョイ勢になっていたので、そういう地域の勉強はとても楽しかった。
私は多分そんな環境があったから文化そのものに興味を持って、大学・大学院でも詳しくはぼかすが文化系の研究をしていた。
ちなみに、私は案の定実家が細いので大学・大学院に行くために数百万の奨学金を借りています。機会格差って最悪だよな!
それでも、自分の熱中できる研究対象を見つけられたのは自分の育った環境があったからだ。
今はエンタメに関わる職に就いているが、それも田舎で美しい風景を見て、楽しく勉強をして、家族から文化を学んだからだと思う。
ただ、そんなにアツい文化があっても私の育った集落は本当に本当に人間が陰湿だった!
そこに関しては、東京のような人が多すぎて他人への関心を薄くせざるをえない地域が本当に楽に感じる。
かつて、私の父が重い病気に臥せった際、集落で噂になると尾鰭がついて嫌なので、絶対に口外しないよう家族で気をつけていたのだが、どこからか父の入院の話が漏れて集落中に広がってしまった。
気を遣うふりをして私たちの家にやってきて、直接父の病状を聞いてくる全然親しくない人までいた。
父親はその後死ぬのだが、その後も父の死についてヒソヒソ言われて、当時11歳の私はこの世界は本当にクソだと思った。
他にも、私が上京・進学・就職したことも色々言われているらしい。他人への興味が本当にすごい。
地元にいた頃は外の世界を知らないので、人間は陰湿ということが脳みその奥まで刻み込まれてしまった気がする。
補足すると、田舎にはもちろんいい人もいる。
だが残念だがらマジョリティは、上記のような噂好きで目立つ人や出来事に積極的に関わって言いふらす人たちだった。
人の陰湿さについては、もちろん東京でも一つの街に定住したらきっとしがらみはあるのだろうけど…
恐らく私の故郷ほど「うちらの家は江戸時代から付き合ってます! うちは昔は地主だったのに小作人の家のあんたはそんな態度でいいのかな?」レベルのしがらみはそんなにないのではないか。
それでも私は地元のことを「資本も娯楽も何もない最悪な場所」とは全く思わない。自分を形成した場所だからだ。
だけど大都市的価値観、東京を絶対とする価値観ではきっと理解されないのだろうなーとなかば諦めている。
なので東京出身の人の前では「羨ましいです〜」と言うのだが、それは半分くらい本当で半分嘘である。
なぜなら田舎の自然と文化と陰湿さの中で自分は育ったので、自分の文化的素養と反骨精神は多分都会では育たなかったと思うからだ。
東京の資本的な豊かさには憧れるものの、そもそも東京や他の大都市で生まれていたとしたら性格は全く違っていたと思うし、今の自分が好きなので、「東京に生まれたかった」とはそこまで思わない…
あと、東京の人は地方が豊かだという言説にすごく敏感な気がする…ので、ポーズでも「私は田舎者なので憧れの東京で来れて嬉しいでやんす」という態度でいたほうが楽だ。
(この前Xでバズっていた「東京の人は車がないのにシャトレーゼなどのチェーン店をどうやってハシゴするのだろう」みたいなポストに、東京の人がやたら攻撃的に言い返していたのがなんか印象に残っている…。
基本的に東京の人は、地方のほうが優れている側面がある可能性もあまり認めない傾向にある気がする)
こんなに言ってしまっているが、前提として私は東京のことが大好きだ。
好きだから働いているし、何より仕事・研究・趣味・生活などあらゆる面で圧倒的に機会が多い。出会う人も多様だ。
だから私は東京にいられて幸せだし、この場所にしがみつくし、しばらく居続けると思う。
ただ、たまに自分が芯から東京出身みたいな言動をとりかけてハッとする瞬間がある。
私のような東京で働く田舎者は東京的世界観に合わせすぎて、自分の故郷を否定するときがあると思う。
東京の感覚が間違っているのではなくて、ただ、自分を形成しているものを拒否してまで東京で生きなくてもいいんじゃないかと思ってしまう。
私は、地元は最悪な面もあるが、全然最高なところもあったと断言できる。
夕方の雄大な雲の流れ、雪の降った朝の空気、眠れない夜に聴く川の流れの音、一生懸命「ホーホケキョ」を練習するうぐいすの声、初夏の稲穂の上を通り抜ける風、祖母からぽつぽつと語られる昔話、父と山で採ったびわの味、職人である家族の美しいてさばき…これは私は自分の故郷で生まれ育ったから得られたものだ。
多分「嫌なことがあったから地元から離れたんです」という人も多いとは思うのだけど…あなたを形成した場所をすべて否定するのは苦しくはないですか。
私は地元の陰湿な人間が大嫌いだったので、そんな人たちや出来事のことは肯定しません。
よくも悪くも自分のことを形成しているのが地元だなと感じます。
私は田舎者であることを自分の中に留めておいて、東京で働く中で多様な視点をもっていたいと思う。
商品を全国で売っている自分の会社では、絶対に必要な視点だから。
仕事以外でも、東京にいる人とのコミュニケーションでこの視点があって良かったなと思うことはままある。東京は多様なバックグラウンドを持つ人の集合体だからね。
だけど、私がこんな文章を書けるのも、東京に出て、高学歴に類される大学に行き、高倍率とされる企業に入って、東京で生きていける程度の余裕があるから、ということもあるかもしれない。
そのグロテスクさについては、また考えなければいけない。
それでも、やっぱり私は田舎者である自分を否定しきれないし、できないと思う。
ここまで読んでくれた方で、地方出身の人がいたら、最初から東京にいるように振る舞い消費する過程で過去の自分や経験は全部上書きしなくてもいいと思います。
あなたを構成したものが地元のどこかにあるなら、それは抱きしめてほしい。
売上も利益も日本第1位の大企業、トヨタ自動車のお膝元であることを誇りにしている
トヨタがあるから最早そんな昔まで振り返る必要もないのだが、三英傑も輩出したことから歴史的にも天下は愛知のものだと思っている
文化的に弱いことは自覚しており、文化として誇れるものは味噌と中日ドラゴンズと岐阜から強奪したモーニングくらいしかないと思っている謙虚な一面も持つ
その地理的メリットで派手な文化が無くても問題はないと考えている
なんなら東京と大阪、どちらの文化にもアクセスできる自分たちって日本で一番文化的に豊かなんじゃね?とさえ思っている
一部過激派に至っては、大阪を作ったのは豊臣秀吉で、江戸を作ったのは徳川家康だからあそこも愛知だと主張し東京大阪の文化まで自分たちのものにしようとする
https://www.mlit.go.jp/policy/shingikai/content/001389727.pdf
愛知県民はコスパが良い=頭が良いというアホな考え方を元に自分達は東京大阪で生活している奴らより頭が良いと見下している
それと同時に東京大阪という街の持つ文化資本(誤用)は認めており、そんな2都府に気軽にお客様として遊びに行ける自分たちを特別な身分だと考えている
自分たちを部分的に一番だと自負しており、足りないところを他都府で補いつつ、その街で生活する人は馬鹿にしている
そんな県民がなぜ好かれようか
身バレが怖いから詳しくは書かないけど、ちょっとだけ数字を偽って申し込んだら参加できたんだ。
途中からそのうちの一人が「最近観たドキュメンタリーでさ」って言い出した。
その瞬間、変な空気になった。というか変だったのは俺だけだった。
俺以外、全員知ってる。
「あれね、観た観た」って感じで話がどんどん進む。労働の話とか、アメリカと中国の話とか。
俺だけ完全に置いていかれてた。
慌ててスマホを膝の上で開いて、こっそり検索。出てきたのはNetflixオリジナルの文字。
ああ…そういうことかと思った。
俺はネトフリに入ってない。
生活を切り詰めていくと「なくても死なないもの」から削られていく。動画のサブスクはその筆頭だった。会話は続いていたけど俺はもう口を挟めなかった。知識がないからじゃない。話題に入る権利さえ、そもそも持っていなかった。
街コンの帰り、電車に乗って窓を見てたらなんか急にどうでもよくなってきた。
誰とも連絡先を交換できなかったこととか、そういうのより文化資本の格差を如実に感じてしまったことが何よりショックだった。
この世界は月額料金を払い続けていないと会話の席にすら座れないんだなって思ったら一気に虚無感が押し寄せてきた。
■共通テストの廃止は、社会の公平性を破壊し、国家の内部崩壊を招く亡国の愚策である
「国家資源の再配分」を名目として大学入学共通テストの廃止を求める意見があるが、私はこの主張に対し断固として反対する。提案者は、共通テストにかかる人的・金銭的コストを「無駄」と断じているが、それは教育制度が担う**「社会契約」としての機能**を著しく軽視した暴論である。共通テストの廃止は、単なる入試改革にとどまらず、日本社会を「実力主義(メリトクラシー)」から「身分・金権主義」へと逆行させ、長期的には社会の分断と崩壊を招く危険性を孕んでいる。
1. 歴史的試練に耐えた「客観的試験」の意義 そもそも、一律のペーパーテストによる選抜システムは、古代の「科挙」に端を発し、数千年の歴史の試練に耐えてきた人類の知恵である。なぜこのシステムが民主主義の世となっても生き残っているのか。それは、これが**「ベストではないが、他のあらゆる方法よりもベター(マシ)」**だからである。 ペーパーテスト以外の選抜方法――例えば書類審査、面接、独自の裁量評価――には、必ず主観や恣意性が入り込む。共通テストという「冷徹なまでの客観的指標」があるからこそ、我々は出自や家柄に関わらず、努力の結果のみで評価されるという担保を得ているのである。
2. 「各大学の個別入試」が招く腐敗のリスク 提案者は「各大学の自律的な選抜」を美化するが、共通テストという統一基準を撤廃すれば、そこには必ず**「金・コネ・家柄・権力」**が入り込む隙間が生まれる。 客観的な統一スコアという足切りがなくなれば、大学側は「寄付金の多寡」「卒業生の子弟」「有力者の紹介」といった、学力以外の要素で合否を操作することが容易になる。欧米の一部の大学で見られるような、富裕層優遇の入試が横行しない保証はどこにもない。共通テストは、こうした不正や疑念を未然に防ぐための、国家による「公平性の防波堤」として機能しているのである。
3. 格差の固定化と社会崩壊への道 もし共通テストが廃止され、学歴ひいては社会的地位が「親の経済力や社会的影響力」によって左右されるようになれば、どうなるか。それは**「階級の固定化」**の完成である。 貧しい家庭に生まれても、勉強して高得点を取れば一流大学へ進み、人生を逆転できる――この「希望」こそが、社会の活力を維持し、不満を抑制する安全弁である。もし入試が「金で買える地位」になり下がれば、持たざる者は努力のインセンティブを失い、絶望は社会への憎悪へと変わる。 歴史を振り返れば明らかである。極度な格差社会において、階層移動の道が閉ざされた時、社会は内部から腐敗し、最終的には暴動や革命によって崩壊する。教育の公平性を売り渡して得た予算で国防やインフラを強化したところで、国民の連帯が失われ、内部から崩壊していく国を守ることはできない。
4. 結論:トップ研究者の投入は「民主主義のコスト」である トップ研究者が作問に時間を割くことを「リソースの浪費」と批判する向きもあるが、それは誤りである。50万人の若者の人生を左右し、将来のリーダーを選別する試験において、一点の曇りもない公平性を担保すること以上に重要な「国益」が他にあるだろうか。 極めて厳格な作問プロセスにかかるコストは、社会の公正さを維持し、国民全員がその結果に納得するための**「民主主義の必要経費(保険料)」**と捉えるべきである。
以上の理由から、共通テストの廃止は、日本社会を公正な競争社会から、前近代的な身分社会へと退行させる危険な提案であり、到底容認できるものではない。
どちらの主張も論理構成がしっかりしており、それぞれの視点において「妥当」です。どちらをより支持するかは、読み手が**「国家としての効率と競争力(A)」を重視するか、「社会の公平性と納得感(B)」**を重視するかによって決まります。それぞれの主張の強みと、議論の対立軸を整理します。
Aの主張は、経営学的・国家戦略的な視点に立っています。「サンクコスト(埋没費用)」にとらわれず、現代の状況に合わせて制度をスクラップ・アンド・ビルドすべきだという論理です。
妥当性が高い点:
コスト対効果の指摘: 実際に共通テストの作問や運営にかかる大学教員(研究者)の負担は甚大であり、これが日本の研究力を削いでいるという指摘は、学術界からも長年叫ばれている事実です。
機能不全の指摘: 上位層における「得点圧縮(差がつかない問題)」や、各大学が結局は個別試験を重視している現状を突いており、制度疲労に対する鋭い批判となっています。
危機感の共有: 国際情勢やインフラ危機など、具体的な「他にリソースを回すべき場所」を提示しており、現実的な危機管理の観点から説得力があります。
Bの主張は、政治哲学的・社会学的な視点に立っています。効率よりも「納得感(Legitimacy)」を重視し、共通テストを社会の分断を防ぐための「装置」として捉えています。
妥当性が高い点:
人間心理への洞察: 完全な自由裁量は必ず「コネや金」の介入を招くという、性悪説に基づいたリスク管理の視点は非常に現実的です。
「公平性」の定義: テストの内容が良いか悪いかよりも、「全員が同じ定規で測られる」こと自体に価値があるという主張は、大衆社会における不満のガス抜き(社会の安定)として強力な説得力を持ちます。
最悪の回避: 「ベストでなくともベター」という保守主義的なアプローチは、急激な改革による混乱(格差の固定化など)を恐れる層にとって安心感があります。
この二つの意見は、**「何を犠牲にする覚悟があるか」**という点で対立しています。
Aの弱点: 共通テストを廃止した後、各大学が本当に「公正」に入試を行えるかどうかの担保がありません。AO入試や推薦入試で「親の経済力や文化資本」が有利に働く現状を見ると、完全自由化は格差拡大を加速させるリスクがあります。
Bの弱点: 「公平性」を守るためのコスト(研究時間の喪失、莫大な予算)が、国力を衰退させるレベルに達している可能性を過小評価しています。国全体が沈んでしまえば、公平な入試制度だけ残っても意味がないという反論が可能です。
どちらがより妥当か?
短期的・実務的な解決を求めるなら A 現在の日本の財政状況や研究力の低下を憂い、「即効性のある改革」を求める立場からは、Aがより妥当に見えます。
長期的・社会構造的な安定を求めるなら B 社会の分断や信頼の崩壊を防ぎ、「努力すれば報われる」という社会通念(神話であっても)を守る立場からは、Bがより妥当に見えます。
個人的な分析としては、B(公平性の維持)の主張の方が、現代の日本では「最後の砦」として支持されやすいと考えます。Aの言う「リソースの再配分」は正論ですが、入試の公平性が崩れた際に失われる「国民の勤労意欲」や「社会への信頼」の損失は、計算できないほど巨大だからです。
どちらの視点に関心を持ちましたか? これらを踏まえて、「では、研究者の負担を減らしつつ公平性を保つ『第三の案(C)』」(例:CBT化や民間試験の活用、あるいはフランスのバカロレアのような形式など)について考えてみますか?
AとBの対立構造を解消し、「研究者の負担(国家コスト)の軽減」と「入試の公平性(社会契約)の維持」を両立させるための**「第三の案(C)」**を提案します。
現実的な落とし所としては、**「テクノロジーによる効率化」と「運営主体の専門化」**を組み合わせた以下の案が考えられます。
案C:専門機関による「CBT・項目反応理論(IRT)」導入と、作問業務の完全外部化
これは、現在のように大学教員が手弁当で毎年新作問題を作る「自転車操業」をやめ、**アメリカのSAT(大学進学適性試験)**のような「通年実施・ストック型」の試験へ移行するモデルです。
1. 具体的な仕組み
運営主体の変更(教員の解放): 大学教員による「入試センター作問委員会」を解散します。代わりに、テスト理論(サイコメトリクス)の専門家と専任スタッフを雇用した**「国家試験作成専門機関」**を設立します。大学教員は「監修(アドバイザー)」にとどまり、実務からは完全に手を引きます。
「一発勝負」から「CBT(Computer Based Testing)」へ: 年に一度、全国一斉に紙を配る方式を廃止し、テストセンターでコンピュータを使って受験する方式にします。
「項目反応理論(IRT)」の導入: 問題ごとの難易度や識別力を統計的に数値化し、「どの問題を組み合わせても、実力を同じ基準で測定できる」システムを作ります。これにより、**「膨大な過去問ストック(問題バンク)」**の中からランダムに出題することが可能になり、毎年ゼロから新作問題を作る必要がなくなります。
研究時間の確保: 大学教員が、夏休みの隔離や極秘の作問業務から解放され、本来の研究・教育業務に専念できます。
物流コスト減: 50万人分の問題用紙の印刷・輸送・保管・警備にかかる莫大な物理的コストが激減します。
公平性の維持: 「全国統一の基準」は残るため、大学ごとの恣意的な運用(裏口入学など)を防ぐ防波堤としての機能は維持されます。
チャンスの拡大: 年に複数回受験が可能になれば、「当日の体調不良」などによる運の要素を排除でき、より真の実力を反映した公平な評価が可能になります。
初期投資: システム構築に巨額の費用がかかりますが、毎年の運用コスト削減で長期的には回収可能です。
「思考力」の測定: 選択式のCBTでは深い思考力が測れないという批判がありますが、これは「基礎学力の判定(共通テスト)」と「記述・論述(大学個別試験)」という役割分担を明確にすることで解決します。
もう一つの方向性は、共通テストの役割を「点数を競うもの(1点刻みの選抜)」から、**「大学教育を受ける資格があるかどうかの認証(クオリフィケーション)」**に変えることです。
仕組み: 共通テストは「合格/不合格(あるいはA/B/Cの等級)」だけの判定にします。一定水準を超えた生徒には「大学入学資格」を与えます。
選抜: 難関大学は、この「資格」を持っている生徒の中から、独自の記述試験や面接で選抜を行います。
効果: テストに「超難問」や「1点の差を分ける精密さ」が不要になるため、作問コストが下がります。また、基礎学力の担保(公平性)は維持されます。
結論: 現代のテクノロジーと統計学を用いれば、Bが懸念する「公平性」を犠牲にすることなく、Aが主張する「リソースの最適化」を実現する**案C(CBT・IRT化と作問のプロ化)**が、最も現実的かつ建設的な解決策であると考えられます。
例2:夫のご両親に「車買うの?確かに大変ではあるけど楽しいし楽だよ~」と言われ、「どっちにしろ私が買うことになるので口出すんじゃねえよ。お前らのせいで私が一家の大黒柱になってんだろうが」と思ってしまう
増田は旦那さんの年収が低い(それでも都市部で独身で生きていくには十分であるし、地方なら問題なく家庭を持つことも可能な稼ぎだろう)責任を親御さんのせいにしている。
「子供の年収が低いのは親の責任」という価値観をバッキバキに内面化しているわけだ、実際にそれは半ば事実でもあるが。
もっと金を稼げる男と結婚していたら。もっと学のある男と結婚していたら。もっと文化資本のある実家の男と結婚していたら。もっと福利厚生のしっかりした大企業に勤める男と結婚していたら。もっと頭のいい遺伝子を持った男と結婚していたら。
「自分ばっかり子供の育児や教育のことで苦労しなくて済んだのに」
「子供が思い通りに育たないことでこんなに苦労しなくて済んだのに」と。
夫は良い場所に勤めていないので、増田のように保育園の送り迎えや、子供が小さい時、病気になった時の休みを取りづらいかもしれない。
夫は専門卒なので、増田のように勉強を子供に身につけさせるスキルや、学歴をつけさせる情報の収集や具体的な行動の取り方がわからないかもしれない。
夫は収入が低いので、増田のような稼ぎを夫妻双方が持っている家庭と比較して、子供に対して教育費をかけられないかもしれない。衣食住も満足させられないかもしれない。
そういう傾向があるのは事実だ。
「あ〜下方婚したせいでうちの子はちゃんと勉強しないし中学受験にも興味がないみたい。公立動物園で育ちと躾の悪い子たちに混じって、夫みたいな稼げない大人に育って、将来はレジ打ちになるんだ」
という将来が待っている可能性も高い。
増田はどうする?
「子供まで夫みたいに頭が悪くなったらどうしよう?」と不安になるか?
父方の祖母のように?
子供を『そんな風』に育てたくないので死ぬほど頑張るか? 具体的にどうする?
料理が上手で優しいけれど、稼ぎと教育面ではまるで頼りにならない夫の代わりに自分が2人分の教育を頑張るか?
父親のように?
やめとけ。
離婚して最初から年収と学歴のある同レベルの男と結婚してそいつと子供作れ。そっちの方がまだ相当にラクだし夫にとっても幸せだ。生まれてくるだろう子にとっても。
いいじゃないかそっちの方が。はてブ民みたいに「あ〜うちの子は中学受験させてよかった。みいちゃんみたいな子が普通にいて犯罪とか授業妨害をしてくる公立魔境動物園なんかに行かせたくなかったし」って胸を撫で下ろす側の人間になれよ。
増田にはそっちの方が向いてるよ。