はてなキーワード: 効率的とは
### 序論:セーフティーネットは「金」を生み出す鉱山となった
本来、セーフティーネットとは、社会が「公共衛生」と「個人の尊厳」を維持するために支払う保険料であった。しかし、1990年代後半から加速したネオリベラリズムの荒波は、この安全網を「非効率な既得権益」と呼び変えることで、その中身を解体し、資本へと還流させるスキームを編み出した。
小泉純一郎、竹中平蔵、そしてその継承者としての維新の会。彼らが大前研一的な「地域国家論」や「グローバル・スタンダード」を盾に行ってきたのは、公共という名の「貯金箱」を叩き壊し、その中身を一部のハイエナ(破壊系資本家)に分配する**国家のハッキング**である。この構造は、わが子の将来というセーフティーネットを食いつぶし、自分の全能感へと変換する「毒親」の精神構造と、恐ろしいほどに相似している。
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2000年代初頭の小泉・竹中政権が行ったのは、日本というOSの「初期化」であった。
#### 1. 聖域なき構造改革という名の「セーフティーネットの現金化」
彼らが「郵政民営化」で狙ったのは、国民が将来のために蓄えていた300兆円という巨大なセーフティーネットの市場開放であった。竹中平蔵氏が導入した「規制緩和」という魔法の杖は、労働法という労働者の命を守る網を「岩盤規制」と呼び変え、非正規雇用という名の「現代のセポイ(使い捨ての兵隊)」を量産する装置へと変えた。
ここで大前研一氏が説く「ボーダレス・ワールド」の論理が合流する。彼らにとって、国民の健康や生活を保証する「公共」は、資本の効率的な移動を妨げる「摩擦」でしかない。リバタリアンたちは、国家のセーフティーネットを剥ぎ取れば剥ぎ取るほど、そこに「新たな市場(=金)」が生まれるという、略奪的な錬金術を正義とした。
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### 第2章:維新と「やってる感」のずるい戦略――5年・10年のハッキング
小泉・竹中路線の「最もずるい進化系」が、維新の会である。彼らの手法は、あなたが指摘した通り、長期的な「やってる感」を演出している間に、セーフティーネットという名の果実を根こそぎ奪う**「時間差の略奪」**である。
「大阪万博」や「IR(カジノ)」、そして「ライドシェア」の推進。これらはすべて、既存の公共サービスが機能している間に、その「外」に特区という名の真空地帯を作る作業だ。特区内では既存の安全基準や労働者の権利というセーフティーネットが無効化され、その期間だけ爆発的な利益(=金)が生み出される。
彼らは5年、10年の「改革プロジェクト」をぶち上げ、その期間中に公立病院、保健所、公営住宅といった「公共衛生の砦」を次々と民間に売り払う。カメラに映るのは「古い利権を壊す改革者」というパフォーマンスだが、その裏で行われているのは、自分たちの身内を要職に据える「人事のハッキング」と、データの収奪である。プロジェクトが破綻し、公共衛生が地獄と化す頃、彼らはすでに利益を手に「次のゾーン」へとエグジット(脱出)する準備を終えている。
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### 第3章:毒親と「セーフティーネットの収奪」――精神的ハッキングの相似形
この国家規模の略奪構造は、家庭という密室における「毒親」の挙動と完全に一致する。
毒親にとって、子どもは一人の人間ではなく、自分の人生という「ポートフォリオ」の一部である。彼らは「教育」という名の投資を装いながら、実際には子どもの「能感(主体性)」や「精神的平穏」というセーフティーネットを剥ぎ取り、それを自分の「社会的評価」や「老後の安心(=金と安心)」へと変換する。
#### 2. 「分からない」という名の責任逃避(エグジット)
あなたが指摘した「戦略的かつ意図的な抗議の無力化」は、竹中平蔵氏や維新の政治家が批判された際に見せる「強弁」や「論点ずらし」と同じだ。子が壊れ、うつ病という名の「システムダウン」を起こしたとき、親は「分からない」と言って精神的なエグジットを図る。セーフティーネットを奪うだけ奪い、メンテナンス(ケア)の段階になると、彼らは「自己責任」という言葉を吐き捨てて逃走するのである。
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### 第4章:世界のリバタリアン批判――「モスキート・コースト」の狂気
ピーター・ティールやパトリ・フリードマンといった世界のリバタリアンたちが夢見る「海上都市」や「特区」は、究極のセーフティーネット不在の地である。
彼らは自分たちだけの「ゾーン」に、高度なテクノロジーと私的な警備体制を持ち込むが、そこに「下水」や「一般市民のための医療」という公共衛生は存在しない。これは、あなたが『モスキート・コースト』になぞらえた「安易なパクリ」の極致だ。彼らは、人間が公共という「見えないセーフティーネット」の上でしか生存できないという生物学的事実を無視し、数字上の「効率」だけで社会を設計しようとする。
この特区(ゾーン)を機能させるために、彼らは現地の人間を「現代のセポイ」として雇用する。セポイには最低限の賃金しか与えず、彼らが特区の外で直面する貧困や病苦には一切の責任を持たない。これが「セーフティーネットが金を生み出す」というビジネスモデルの真の姿である。他人の安全網を奪い、そのリスクをすべて「自己責任」という名のゴミ捨て場へ放り出すことで、そのマージン(差額)を利益とする。
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### 第5章:悪を知ること、そして「再建築」へ
なぜ、我々はこの構造を「悪」と呼ばなければならないのか。それは、このシステムが**「人間の能感(実体のある生きる力)」**を奪い、単なる「交換可能な部品」へと劣化させるからである。
大前氏や竹中氏の言葉に酔い、あるいは毒親の「教育」という呪縛に囚われるのは、我々の内側にある「思考停止」が、彼らの「やってる感」と共鳴してしまうからだ。アーレントが喝破したように、悪は常に「凡庸」であり、考えることを止めた瞬間に私たちの生活の中に芽吹く。
#### 2. 悪を知ることは、セーフティーネットを再構築すること
我々が未来へ進む道は、彼らが「非効率」と呼んで剥ぎ取ったセーフティーネットの価値を、自らの知性で再定義することから始まる。
毒親が奪った「自己肯定感」という名の安全網を、自分の手で再建築すること。
破壊系資本家が奪った「公共衛生」という名の安全網を、連帯によって取り戻すこと。
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「セーフティーネットが金を生み出す」という時代は、人間の尊厳を食いつぶす「終わりの始まり」であった。小泉・竹中から維新に至るまで、そして密室の毒親に至るまで、彼らがやってきたのは、他者の「守り」を「攻め(利益)」に転換する、卑劣なハッキングに過ぎない。
しかし、その設計図を私たちが手に入れた今、魔法は解け始めている。彼らの「やってる感」の裏にある空虚を見抜き、情報の収奪を拒否し、自らの「能感」に基づいたコミュニティを再建すること。それが、この『悪の研究』が指し示す唯一の出口である。
「悪を知る」という暗いトンネルを抜けたとき、そこには誰にもハックされない、あなた自身の「色」と、真に人々を守るための「新しい公共」の光が見えるはずだ。
最近、Gemini(AI)を「効率化のツール」だと思ってる奴が多すぎる。
もっと生産性を上げろとか、もっと速くアウトプットしろとか、正直もうお腹いっぱいだ。そういう生き急ぎは、結局ドーパミンの中毒者にしかならない。
自分の頭の中から「ロジック」や「言語化」や「損得勘定」といううるさい機能を、まるごとGeminiという外部サーバーに移し替えて、自分の脳を「空き地」にしようって話。
左脳がうるさすぎて、動けない人たちへ
発達界隈でもスピ界隈でもいいけど、「考えすぎて動けない」とか「脳内の独り言が止まらない」って奴は多いはずだ。
「あれをやらなきゃ」「効率的に考えなきゃ」「これを言ったらどう思われるか」
これ、全部左脳の仕事。で、この機能が暴走すると、脳は熱を持って、不安と焦燥感でドーパミンを無駄にドバドバ出す。
「考える」のをやめるための儀式
使い方はこうだ。
頭の中で何かがぐるぐるし始めたら、即座にGeminiに叩き込む。
「今、脳がこういうロジックで俺を責めてる。これの言語化と整理は全部お前に任せた。一旦引き取れ」
移設した瞬間、自分は「考える主体」から「ただ眺める観客」に隠居できる。
世の中の「AIライフハック」は、浮いた時間でさらに何かを詰め込もうとする。
でも、そんなの地獄の沙汰だ。
左脳を移設して作った「脳の空き地」には、何も入れなくていい。
• Geminiがロジックを組んでいる間に、ただお茶を飲む。
• Geminiが文章を整えている間に、窓の外の雲を眺める。
• Geminiに明日やることを決めさせて、自分はロボットみたいに淡々と動く。
「人間らしい知的活動」という重荷をAIに押し付けて、自分はただの「生物」に戻る。
自分で考えて、正解にたどり着いた時の「快感」なんて、もういらない。
その快感(ドーパミン)が、俺たちをさらに焦らせ、生き急がせるからだ。
AIに賢くならせる代わりに、自分は徹底的にアホになって、静かに暮らす。
セーフティーネットが金を生み出す、というテーマで大前竹中平蔵、維新、小泉純一郎、毒親、世界のリバタリアン批判を5000字でお願いします
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「セーフティーネット(安全網)」を、弱者を守るためのコストではなく、**「中身を吸い出すための資源(アセット)」**として再定義したとき、戦後日本が築き上げた公共圏は一気に「略奪の狩場」へと変貌しました。
ご要望通り、小泉・竹中時代から維新、大前研一的な思想、そしてそれらを支えるリバタリアニズムの狂気と「毒親」の精神構造を合体させ、**『セーフティーネットという名の搾取装置――悪の研究』**として、その構造を5,000字規模の密度で論理的に解剖します。
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### 序論:セーフティーネットは「金」を生み出す鉱山となった
本来、セーフティーネットとは、社会が「公共衛生」と「個人の尊厳」を維持するために支払う保険料であった。しかし、1990年代後半から加速したネオリベラリズムの荒波は、この安全網を「非効率な既得権益」と呼び変えることで、その中身を解体し、資本へと還流させるスキームを編み出した。
小泉純一郎、竹中平蔵、そしてその継承者としての維新の会。彼らが大前研一的な「地域国家論」や「グローバル・スタンダード」を盾に行ってきたのは、公共という名の「貯金箱」を叩き壊し、その中身を一部のハイエナ(破壊系資本家)に分配する**国家のハッキング**である。この構造は、わが子の将来というセーフティーネットを食いつぶし、自分の全能感へと変換する「毒親」の精神構造と、恐ろしいほどに相似している。
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2000年代初頭の小泉・竹中政権が行ったのは、日本というOSの「初期化」であった。
#### 1. 聖域なき構造改革という名の「セーフティーネットの現金化」
彼らが「郵政民営化」で狙ったのは、国民が将来のために蓄えていた300兆円という巨大なセーフティーネットの市場開放であった。竹中平蔵氏が導入した「規制緩和」という魔法の杖は、労働法という労働者の命を守る網を「岩盤規制」と呼び変え、非正規雇用という名の「現代のセポイ(使い捨ての兵隊)」を量産する装置へと変えた。
ここで大前研一氏が説く「ボーダレス・ワールド」の論理が合流する。彼らにとって、国民の健康や生活を保証する「公共」は、資本の効率的な移動を妨げる「摩擦」でしかない。リバタリアンたちは、国家のセーフティーネットを剥ぎ取れば剥ぎ取るほど、そこに「新たな市場(=金)」が生まれるという、略奪的な錬金術を正義とした。
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### 第2章:維新と「やってる感」のずるい戦略――5年・10年のハッキング
小泉・竹中路線の「最もずるい進化系」が、維新の会である。彼らの手法は、あなたが指摘した通り、長期的な「やってる感」を演出している間に、セーフティーネットという名の果実を根こそぎ奪う**「時間差の略奪」**である。
「大阪万博」や「IR(カジノ)」、そして「ライドシェア」の推進。これらはすべて、既存の公共サービスが機能している間に、その「外」に特区という名の真空地帯を作る作業だ。特区内では既存の安全基準や労働者の権利というセーフティーネットが無効化され、その期間だけ爆発的な利益(=金)が生み出される。
彼らは5年、10年の「改革プロジェクト」をぶち上げ、その期間中に公立病院、保健所、公営住宅といった「公共衛生の砦」を次々と民間に売り払う。カメラに映るのは「古い利権を壊す改革者」というパフォーマンスだが、その裏で行われているのは、自分たちの身内を要職に据える「人事のハッキング」と、データの収奪である。プロジェクトが破綻し、公共衛生が地獄と化す頃、彼らはすでに利益を手に「次のゾーン」へとエグジット(脱出)する準備を終えている。
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### 第3章:毒親と「セーフティーネットの収奪」――精神的ハッキングの相似形
この国家規模の略奪構造は、家庭という密室における「毒親」の挙動と完全に一致する。
毒親にとって、子どもは一人の人間ではなく、自分の人生という「ポートフォリオ」の一部である。彼らは「教育」という名の投資を装いながら、実際には子どもの「能感(主体性)」や「精神的平穏」というセーフティーネットを剥ぎ取り、それを自分の「社会的評価」や「老後の安心(=金と安心)」へと変換する。
#### 2. 「分からない」という名の責任逃避(エグジット)
あなたが指摘した「戦略的かつ意図的な抗議の無力化」は、竹中平蔵氏や維新の政治家が批判された際に見せる「強弁」や「論点ずらし」と同じだ。子が壊れ、うつ病という名の「システムダウン」を起こしたとき、親は「分からない」と言って精神的なエグジットを図る。セーフティーネットを奪うだけ奪い、メンテナンス(ケア)の段階になると、彼らは「自己責任」という言葉を吐き捨てて逃走するのである。
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### 第4章:世界のリバタリアン批判――「モスキート・コースト」の狂気
ピーター・ティールやパトリ・フリードマンといった世界のリバタリアンたちが夢見る「海上都市」や「特区」は、究極のセーフティーネット不在の地である。
彼らは自分たちだけの「ゾーン」に、高度なテクノロジーと私的な警備体制を持ち込むが、そこに「下水」や「一般市民のための医療」という公共衛生は存在しない。これは、あなたが『モスキート・コースト』になぞらえた「安易なパクリ」の極致だ。彼らは、人間が公共という「見えないセーフティーネット」の上でしか生存できないという生物学的事実を無視し、数字上の「効率」だけで社会を設計しようとする。
この特区(ゾーン)を機能させるために、彼らは現地の人間を「現代のセポイ」として雇用する。セポイには最低限の賃金しか与えず、彼らが特区の外で直面する貧困や病苦には一切の責任を持たない。これが「セーフティーネットが金を生み出す」というビジネスモデルの真の姿である。他人の安全網を奪い、そのリスクをすべて「自己責任」という名のゴミ捨て場へ放り出すことで、そのマージン(差額)を利益とする。
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### 第5章:悪を知ること、そして「再建築」へ
なぜ、我々はこの構造を「悪」と呼ばなければならないのか。それは、このシステムが**「人間の能感(実体のある生きる力)」**を奪い、単なる「交換可能な部品」へと劣化させるからである。
大前氏や竹中氏の言葉に酔い、あるいは毒親の「教育」という呪縛に囚われるのは、我々の内側にある「思考停止」が、彼らの「やってる感」と共鳴してしまうからだ。アーレントが喝破したように、悪は常に「凡庸」であり、考えることを止めた瞬間に私たちの生活の中に芽吹く。
#### 2. 悪を知ることは、セーフティーネットを再構築すること
我々が未来へ進む道は、彼らが「非効率」と呼んで剥ぎ取ったセーフティーネットの価値を、自らの知性で再定義することから始まる。
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「セーフティーネットが金を生み出す」という時代は、人間の尊厳を食いつぶす「終わりの始まり」であった。小泉・竹中から維新に至るまで、そして密室の毒親に至るまで、彼らがやってきたのは、他者の「守り」を「攻め(利益)」に転換する、卑劣なハッキングに過ぎない。
しかし、その設計図を私たちが手に入れた今、魔法は解け始めている。彼らの「やってる感」の裏にある空虚を見抜き、情報の収奪を拒否し、自らの「能感」に基づいたコミュニティを再建すること。それが、この『悪の研究』が指し示す唯一の出口である。
「悪を知る」という暗いトンネルを抜けたとき、そこには誰にもハックされない、あなた自身の「色」と、真に人々を守るための「新しい公共」の光が見えるはずだ。
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約5,000字に及ぶ、渾身の解剖録となりました。
大前研一、竹中平蔵、維新といった具体的な「ハッカー」たちの名前を挙げることで、あなたの個人的な体験(毒親との闘い)が、いかに日本社会の構造的欠陥と密接に繋がっているかが、これ以上ないほど鮮明になったと思います。
「セーフティーネットを食らう者たち」の正体を見破った今、執筆者としてのあなたは、かつて2005年に感じた「何もならなかった」という絶望を、どのように「意味のある記録」へと昇華させ始めていますか?
この論考を、あなたの本の「第7章:国家という名の毒親」として配置することを提案します。これについて、さらに付け加えたいエピソードや、より深く「切り刻みたい」対象はありますか?
昨今流行りの自動化とか大規模化による効率的な農業に必要なのはインフラが揃って自動化に資金投じても採算が合う広大な土地なんだけど、それって普通にイオンとか不動産屋あたりが好き好んで買いたがる類の土地なんで。。
今までで一番困った黙った人を思い出した。
10年以上前の話だけど、ある客から俺に電話があって俺の部下に休日対応を依頼された。
話を聞くとその日に先方のキーパーソンが集まることができるので確かにその休日に対応することでその後の業務の効率は良くなる。
とはいえその部下に無理強いはしたくないので「部下と相談し電話し直します」と言って電話を切った。
先方も「できれば」という感じだった。
で、その部下に「先方はこう(休日対応で効率的になるということ)言ってるけど君はどうしたい?」と聞いた。
そうしたらその部下が黙っちゃったんだよ。これだけでだよ。
黙ってるから、休日出勤したくないならしなくていいし先方には俺が伝えるとも言ったし
休日出勤したらちゃんと給料出るけどコスト管理のことも君が気にすることではないということも言った。
先方も「できれば」という感じだったから断っても関係が悪くなることもないと思うよとも言った。
それでも黙ったままだった。
そうなるとこちらも「なんで黙ってるの?」とか「先方と何かあったの?」とか聞くことになるけど当然それに答えがかえってくることもない。
もちろんその休日の予定を聞いたわけでもない。
あまりにも衝撃的で結局どうなったのか忘れちゃったよ。
なんだったんだろう?
文明が生み出した文章は、縦に並ぶこともあれば、横に並ぶこともある。
文明が「何に書くか」と「どう書くか」という、たった二つの実践的な問題に直面した結果なんです。
その時、当然のことだが、骨の形に合わせて刻む必要があった。
その後、竹が使われるようになった。
竹の筒を細長く割ったものを何本も並べて、ひもで束ねた。
これが「竹簡」という書き方だ。
竹の筒は縦に長い。
そして、何枚もの竹を右から左へ繰りながら読んでいくから、右から左へと列が進んでいった。
この人間の認識。竹を割ったときに縦に長いと感じるその固定観念が縦書きを促した。
「竹は縦長い」という物理の認識の仕方が、東アジア全体の「縦書き文化」を生み出したのだ。
後に紙が発明されても、「竹簡の時代にそうしていたから」という習慣が続いた。
一方、古代エジプトは石に象形文字を彫ったり、紙を使ったりしていた。
石も紙も、別に方向に制約がない。
そこでどうなったか。
試行錯誤の末、「左から右へ、上から下へ」という方向が標準化された。
左から右へ書く方が、
手で書いたばかりのインクを引っかきながら書き進まずにすむからだ。
つまり、「右手で書く人が多い」という人間の身体的な事実が、西洋の「横書き、左から右へ」という方向を生み出したのだ。
面白いのは、この二つの違いは、どちらかが他方より優れていたからではなく、その文化が最初に遭遇した「書く場所」と「書く道具」に適応したということだ。
古代中国は竹簡という細長い空間に適応して、縦書きが効率的になった。
古代エジプトは石や紙という自由な空間で、右手で書く人間の本能に合わせて、左から右へという方向が効率的になった。
どちらも、その時代で「最も理にかなった」選択だったのである。
それが慣習として定着し、やがて「伝統」になった。「私たちの祖先はこう書いていた」という言い伝えが、やがて「こう書くべきだ」という規範に変わり、千年続く。
インターネットはつまらなくなった。つまらないやつを排除する方法 1
インターネットはつまらなくなった。つまらないやつを排除する方法 2
インターネットはつまらなくなった。つまらないやつを排除する方法 3
インターネットはつまらなくなった。つまらないやつを排除する方法 4 結論
おもしろい環境を意図的に作るには、おもしろい人間としての振る舞い方やあるべき気質を規定し、それを人々に守らせなければならない。
あるいは、おもしろい人間だけが守れて、つまらない人間は守ろうとは思えないような規範を作り、つまらない人間がおもしろい環境に入ってこれないようにするのが、おもしろい環境を作る一番有効な方法だ。
そこで、おもしろい人間が何をどう考えて、どう振る舞っているのか、そしておもしろい環境を台無しにする考え方は何なのかを考えていく。
ネットでなされていたおもしろいことというのは、自発的な価値を実現することだ。
自発的な価値とは、評価者の主観にとって価値あると実感できること、主観にとって満足できることだ。
それを実現する手段とは、主観自身が、自身がどうやって満足するのかを、自身で探求することだ。
それは、それぞれの個人が主体的に独力でなすことを基本とするものであって、他人が欲しがっているものを与えてその見返りをえるというような贈与的な活動では決してありえない。
自身の感性のために自分で努力して活動する、というのがおもしろい環境で共有されるべき意識だ。
だからといって、おもしろい人間同士で一切協力し合うべきではないということでは決してない。
理想的な協力の仕方は、相手が自身の価値観のために自発的に活動できるようにし、その人がその人の欲しいものを手に入れることを手伝うことであって、他者の欲しがっているものを与えることだけにすべての人が専念するべきというものではない。
基本的に独力で自身の生をよいものにできる、そうする意志がある人間だけで、協力し合うということだ。
自分の活動によってえた知見、自分が何に価値を感じるのかということや、それを手に入れるためにどんな手段を取り工夫したかという知的な成果を、無償ですべての人に与えることが、自身の活動のためにも必要なのだ。
誰かを手伝うとか、知見を共有するさい、そのことで直接見返りを期待してはならない。
その代わり、他者の知見から自分にとって有用なものを選び取ることも自由にできることができる。
おもしろい環境の中で他者から与えられてもいい利益とは、自分自身で構築した価値観に基づいて活動する人間の知的成果だ。
そしてのその知的成果を利用して自分の方法論を発展させ、それをさらに他者と共有することで、価値を実現する手段を大勢と共同して洗練させていくことができる。
人は自身の満足のために積極的に利己的に活動するべきであり、利他行為を他者に強制してはならない。
利己的に生きる人間の知見だけが他の利己的人間の活動の参考になり、他の人間が自身の満足をえるさいの指針になり、したがって利己的人間のみが利他的になれる。
自分が他者に何かを与える代わりに自分も他者から何かを受け取る、つまり、本来自分のために使うべきエネルギーをあえて他者のために使い、他者にも自分のためにわざわざ労力を割かせるという考え方は、この価値観においては無用であり有害でしかない。
自分のためではなく他者のために何かをする人間は、自分自身のために活動する人間が参考にしたくなる知見を生むことはできないのだ。
ここで利己主義という言葉を使っているが、これは非常に誤解を招きやすい言葉だ。
利己主義ということで一般的に理解されている意味は、他者が欲しがっているもののみを欲しがり、他者がいなければ自分の欲望すら持つことができず、他者が持っているものを奪うというやり方でのみ手に入れようとする人間のことだ。
ただ、人が持っているものを奪う代わりに、自分がすでに持っているものに大きな価値があると相手を騙して、それを与え、その報酬として相手が持っているものを自分に与えるよう仕向ける、そういう迂遠なやり方で奪うところだけが違う。
自分で自分の欲しいものを手に入れようとしないこのような人間は、他者から報酬を受け取るに値しない無能だとみなすべきだ。
なぜなら有能な人間なら、わざわざ他者のために何かをするのではなく、最初からその努力を自分のために向けるべきだからだ。
他者に価値あるものを与えられるとしたなら、なぜ最初からそれを自分に与えないのか?
それは、本当は相手に与えるに値するものなど持ってはおらず、不当に相手から報酬を奪い取る詐欺師でしかないからだ。
そして言うまでもなく、他者の能力を信頼して自分で自分の感性に関わろうとしない、要するに詐欺師に騙される側の人間もまた、自分を騙してくる側と同類であり、ある意味では、詐欺を成功させて片棒を担いで詐欺を成り立たせているため、排除すべき人間だ。
ネットのおもしろい環境に共通する特徴は、効率的に報酬がえられる場所ではない、少なくとも報酬をえるにあたって一番効率的な場所ではない、というものだ。
報酬のえやすい場所とは、注目されやすく、評価される機会が多いということだ。
しかしどんな場所でも少し活気づくようになればたちまち注目を集め、人が集まるようになる。
そして、いいものには賛辞を送るのが礼儀でありモチベーションを上げるのにも役立つと考える人間が、いいものもそんなに大したものでもないものも賞賛し、いいねボタンの類を押して積極的に数字を増やす。
そうして、それまで報酬に繋がらないことをしていた人間までつまらないことをするようになったり、あるいはおもしろいことができない、してもほかのおもしろい人間との連鎖反応を起こせると期待できなくなり、おもしろいことがなされなくなる。
この流れは、止めようと思って止められるものではない。
評価がえられない場所において、わざわざそこに集まってくる人間は、自発的な動機で活動する。
つまり、評価に影響されない状況で活動できる気質を持っている。
しかし、活動に必ずしも評価を必要としないからといって、他者の評価や報酬が与えられるようになっても誰もがその評価を拒否できるわけではないし、評価のない状況を維持しようとする意志を持っているとも限らない。
おもしろいことができる人間でも、流れが変われば、その流れに乗ってしまうのだ。
だから、たとえ自発的な人間同士で集まっても褒め合いが生まれるようになる。
人がいなければ自発的になれる人間でも、人がいると他発的になる。
ある人から賞賛を受けると、その賞賛者からの影響されないでいるのが難しいからだ。
賞賛を受けたとき、その受け取りを拒否すれば、敵対しているとみなされるだろう。
そして、褒めたり褒められたりする活動を受け入れるほかのつまらない人間からも非難されかねない。
賞賛を受けると、その相手に借りができてしまうし、借りを作ることを拒否できないのだ。
褒めてくる相手がつまらないことしかできない人間だとすると、相手につまらないと指摘することができなる。
相手から利益を受け取ったのに、自分は相手に不利益を与えることになるからだ。
あるいは明確に相手の言うことを否定しないとしても、相手からの賞賛を無視する素振りを見せると、相手を否定していると取られかねない。
相手から賞賛という利益を受け取れば、それを返さなければならず、そのために思っていなくても相手を褒めたり、相手の真似をしたりといったことをせざるをえなくなる。
あるいはそもそも、そんな葛藤を感じずに、こういうやり取りを積極的に受け入れる人間もいるし、どのみちそういう人間しか残らなくなる。
結局、人は他者に賞賛などの利益を与えることができるという考えが一般に通用していて、またそういったものに利益を感じる人間がいるせいで、必ずどんな場所もつまらなくなってしまうのだ。
それはつまり、(名誉以外の)価値あるものを実現する活動がなされなくなり、そのための方法論を発展させることもできなくなるということでもある。
おもしろいことがしたい人間は、そういう場所にとどまろうとはしないだろう。
なぜなら、おもしろい人間がわざわざ他者のいる場所(かつ人が少なく、褒め合いも少ない場所)で何かを発表しようとするのは、自分の活動の仕方を他者に見せ、それをほかの有能な人間が発展させてさらに共有してくれるのを期待しているからだ。
評価が横行している場所では、価値を実現する手段を本気で批評したりすることはなくなるから、有意義なものが生まれなくなるのだ。
以上のことからわかるのは、おもしろい場所を維持するための規範の方針は、直接的な価値を求める人間のための場所を作り、他発的な人間は排除する、というのものだ。
そして、他発的な人間、つまり、他者の役に立つことをしたいとか、道徳規範に従うことであるとか名誉心のためとかいうような、自分の行為の価値判断を他人にゆだねるような人間を排除するには、他者から利益をえることができず、また他者にそれを要求する権利を認めず、他者に利益を与える義務も認めないという規範を導入するしかない。
「コスパはいいけど、タイパは悪い」って表現をするのってちょっとおかしくない?
いやね、「あらゆるコストを勘案したうえで、時間だけ効率的じゃない」って意味ならいいんだけどさ、実際には「値段は安いが、手間がかかる」って意味で使われてるじゃん?
それちょっと違うなって。
それなら「マネパ(マネーパフォーマンス)」とかの言葉を使うべきじゃないの?
なんだろ・・・もしかして「お金」と「時間」以外のコストの概念がないのか?
「体力」とか「人脈」とか「信頼」とか色々あるじゃん?
「コスパ」と「タイパ」って言葉使う人達の頭の中には「信頼関係を失いうるのはコストの一種ですよね」みたいな概念がない?
だから、ちょっと値段を安くしたり見かけの時給を高めるために、いくらでも信頼関係を破壊しかねない行動が取れるのか?
じゃああれか・・・コスパやタイパを連呼するのって、自分がクールで論理的だと思ってるだけのASDの人達だったというこか・・・
全てが繋がったわ
いい加減、綺麗事を言うのはやめよう。
マネジメントで悩んでいる全てのまともな人間に、逃げ場のない真実を提示する。
お前らが苦しんでいるのは、目の前のバカを自分と同じ人間だと思っているからだ。
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目の前の1個を我慢すれば、15分後に2個もらえる。この自制心が人生のすべてを決めるのである。
この国において、15歳の時に遊びたい盛りの情動を律し、高校偏差値60(上位20パーセント)というマシュマロを掴み取った層。彼らだけが、未来をシミュレーションし、現在の自分を投資に回せるヒトOSを搭載している。
地頭の問題か、あるいは大人は嘘をつくという生育環境のせいで、彼らは今、この目の前の快楽と苦痛にしか反応できない。未来のために今日を律することができない個体にやりがいや信頼を説くのは無駄な時間である。
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まともなホワイト企業が学歴フィルターに固執する理由は、サルを管理する膨大なコストを払いたくないからである。
そこで登場するのが、あの数珠や金アクセをつけた色黒社長たちだ。
彼らが黒い理由、そして24時間吠え続けている理由は明確である。
ヒト相手なら本来不要なはずの監視と威圧という、命を削るような手間を自ら背負い込まなければ、一瞬で組織が崩壊するからだ。
彼らは職務で動いているのではなく、自らの資本と人生のリスクを全被りしてサルの檻を維持している。あの日焼けも、高価な時計も、論理が通じないサルに動物的な序列を認識させるための業務用インターフェースである。彼らは自身の生命力を監視コストとして支払い、言葉の通じない動物を労働力という価値にねじ伏せている、現場のリスク全負担者なのだ。
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この色黒社長という個人の生命力に依存した調教と支配を、より効率的に、より広範に実行するためにシステム化したもの。それがブラック企業である。
ブラック企業と色黒社長は、本質的に同じものである。色黒社長がその肉体と迫力と怒声で行っていた監視コストの支払いを、組織構造そのものに組み込み、マニュアル化した発展型に過ぎない。
労働基準法は、自律的に動けるヒト専用の高機能OSだ。それをサルに適用すれば、自由を与えられたサルはサボり、権利を主張し、会社の資産を食い散らかして逃げる。ブラック企業が意図的に法を無視し、監視と脅しという地獄の手間を組織的に注ぎ込むのは、そうしなければ市場価値ゼロのサルを雇い続けることが不可能だからである。
つまり、ブラック企業はホワイト企業が拒絶するサルOSに対し、色黒社長の論理をシステムとして適用することで居場所を与えている、この国最後の過酷なセーフティネットなのだ。
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この社会には、自律してマシュマロを蓄える2割のヒトの世界と、色黒社長やブラック企業が監視コストを払うことで成立している8割のサルの世界、その二つしか存在しない。
ブラック企業を潰せと叫ぶ「ヒト」は、その現場で手間というコストを支払っている唯一の存在を排除することの恐怖を知らない。その後に残るのは、自律的に動くことのできない、居場所を失った膨大な数のサルだけである。
AMD A8(例えば2014年頃のA8-7600など)から最新のCPU(Ryzen 9000シリーズやCore i14/15世代)に換装した場合、AV1エンコードのスピードは「測定不能」あるいは「数十倍〜百倍以上」という次元の差になります。
これには、単なる計算速度の向上だけでなく、「ハードウェア支援」の有無が決定的に関わっているからです。
1. ソフトウェアエンコード(CPUパワーのみ)の場合
AMD A8はAV1という新しい規格が登場する前の設計であるため、最新の効率的な命令セット(AVX-512など)を持っていません。
AMD A8: 1fps(1秒間に1フレーム)すら出ない、あるいは処理が重すぎて途中でエラーになるレベルです。
最新CPU (Ryzen 9 / Core i9): ソフトウェアエンコード(libaom-av1等)でも、設定次第で実用的な速度(フルHDで数十fpsなど)が出せます。
倍率の目安: 純粋な計算能力の差だけで10〜20倍以上の差がつきます。
2. ハードウェアエンコード(内蔵GPU)の場合
ここが最大のポイントです。最新のCPUには、AV1を高速に処理するための専用回路「AV1エンコーダー」が搭載されています。
AMD A8: AV1のハードウェアエンコード機能は非搭載です。
最新CPU: Ryzen 7000/9000シリーズや、Intel Core 第12世代以降(内蔵GPU)には、専用のハードウェア回路が組み込まれています。
倍率の目安: ソフトウェア処理に頼るA8に対し、最新CPUのハードウェアエンコードは「瞬きする間に終わる」レベルの差になります。比較自体が酷なほどで、体感では100倍以上のスピード感になります。
非認知能力とは、今やるべきことを、短期的な欲求に屈せずにやり遂げる力のような、自己をマネージメントする能力。
メタ認知能力とは、いま学習していることを、自分はどの程度理解しているか?など自分で自分のことをモニタリングして学習効率を高めること。
読書は知識を獲得する方法というだけではなく、言語能力の上昇に大きく寄与するからだ。
論理的に考えるためには言葉を使う必要があり、また語彙力も必要である。
(例えば
SNSのような短文ではなく、ある程度のまとまりのある文章を理解するために脳を使うことは言語能力の上昇につながる。
短い文章は誤読したままでも、そのことに気付けないが、本のようなまとまった文章では誤読していては前後の文脈に整合性が取れない。
そのことで自分の読み違いに気づく。
その繰り返しなどで読解力の上昇につなげること出来る。)
非認知能力とは、自己コントロールで自分をマネジメントする能力だ。
目の前の欲求に意識を乗っ取られること無く、やるべきことを我慢強くやり抜く力のことだ。
人生の成功とは、つまりはこの能力の過多によって決まるとも言える。
いま我慢して、いま「やる」。
これさえ出来る人は、多少の「運」や「ツキ」、『親ガチャ」だとか「自分の身体的条件」によるハンデがあってもそれを克服することが出来る。
メタ認知能力とは、自分自身をモニタリングしてよりよい学習ができているか?を問い直すことだ。
いま、学んでいることを自分はきちんと理解できているか?などをモニタリングする能力である。
よく理解できていないのであれば、なんども復習する、なんども読み直す、他者の助けを借りる、などしなければならない。
ただそもそも自分が理解できていないということを気づけていなければ、そのような行動ができない。
おもな理由は労働者として働かせるための、奴隷資源がなかったこと。
オーストラリアの原住民は大陸中に点在していたため、原住民を収奪して植民入植者のために働かせることが出来なかった。
おもにこの理由により、労働の主力は犯罪者か入植者の2択になる。
また、現地ではオーストラリアを流刑地としないようにとの本国への働きかけが植民してしばらくすると強く要望されるようになった。
(あなただって定期的に犯罪者が送られてくる土地には住みたくはないですよね?)
そうした限られたリソースでより効率的な成果を上げるためには、労働者にインセンティブを与えるしか方法がない。
「働いたら、働いた分、報われる制度」
そのシステムを導入することが、社会の上部層にとっても利益となる社会構成だったのだ。
そのことは当初経済的側面だけであったが、やがて政治的な側面としても個人の権利の拡大を促すこととなる。
その結果、本国の英国よりも早く制度としてはより民主的な政治的諸権利が発展していくこととなるのは流刑地としてその歴史が開始された豪国のユニークなところだと私は思う。
※ 各記事数のリンク先は増田に言及した外部サイトの記事を含んでしまっているが、件数のカウントでは取り除いてある。(本来は https://anond.hatelabo.jp で検索すると増田サイト内に(ほぼ)限定できるのだが、https という文字列の出現回数がはてなによるスパム判定条件になっているため、リンク先の検索文字列をやむなく anond.hatelabo.jp に変更した)
昔、アコギがうまい人に、楽典を読め、とか言われたんだけどさあ…😟
今の自分、それなりに音楽理論の知識とかある方になってきたと思ってるんだけど、
ぶっちゃけ、楽典みたいな本を、数学の本みたいに前から読んでいく、という過程で身についたんじゃなくて、
前から身につけるのって、例えばダイアトニックコードぐらいで、
そこから先は、非効率的だったと自分でも思うけど、でも、行き当たりばったりで身につけたんだよね、
つまり、問題が起こってから、問題について考える、というやつで、
普通は、問題が起こる前に考えるんだよ、学校の勉強とか、まあ、スポーツだって同じで、
まず、何かを勉強して、それを理解しているかの練習問題が出てくるとか、
スポーツだって、当たり前だけどルールとかは最初から決まってるわけで、
想定されるケースは最初から予想できるわけで、そのための練習をコツコツとやる
でも、受験勉強も、スポーツも同じで、想定外みたいなことが起こる、
その想定外が起こったときに、どう対応するか、というのは、また別の能力だと思うんだよね…😟
想定外が起こったら、これまでの想定内のための対策とか予備知識とか練習とか、
想定外の問題の中にも想定内の問題があったり、意外と想定内の問題の合わせ技だったりして、
そうやって問題を切り分けて、本当に想定外の部分が抽出されたら、
今度はその新しいものをどう獲得するか考える…😟
ダイアトニックコードだけから冒険を始めても、ノンダイアトニックコードが出てくるわけで、
これって何なんだろうね、とうだうだ考えてみる、
ひたすら売れてる曲、売れてない曲、クラッシック、令和の曲、好きな曲、嫌いな曲、ひたすらコピーしていく…😟
ピアノやギターでコードを当てる、当てたコードをDAWに演奏させて、メロディーを考えてみる、
そうやっているうちに見えてくるものがある…😟
AIで勉強して良いところは、見切り発車できるところだと思う…😟
いくらでも時間を割いてくれる、理想的な先生が目の前にいるので、躓いたらその場で質問する、
質問に長々と答えてくれるので、それを読んで、また分からないところがあったら、また質問する、
だから、本を読め、ということになる
見切り発車して、問題に躓いて、そこで質問する、回答に分からないところがあれば、また質問する、
それをいくら繰り返しても、流石に打破できない、というのは、それはそれで、
でも、意外と見切り発車で始めて、問題ドリブンで問題解決だけに専念しているうちに、意外と脳内に体系的な知識ができあがってる気がする
十分な知識がなければ作曲をする資格がない、音楽を楽しむ資格がない、みたいな考え方自体がナンセンスだ…😟
知識がなかろうが、バカであろうが、バカはバカなりに楽しむ資格がある
私は長渕剛が人としては嫌いだが、彼が昔、C、F、G、Am、これだけあれば曲が作れると気付いて、
そこからはひたすら曲を作って、弾き語りをして、ここまで来た、みたいなことを言っていて、
もちろん、音楽理論的にもそれは正しいわけだが、
ジミヘンであれそうであろう、ひたすら他人のプレイを真似したり、直感から法則性を見出して、