はてなキーワード: シャバとは
自衛隊内部で起きているあらゆる理不尽な事象に対して、「あなたたちは理不尽なことをされても耐えなければいけない立場なのだから我慢しろ」という論理を使っている人を見かける。
よく考えてみてほしい。自衛隊員である前に彼らは日本国民だから、民法や刑法は適用される。だから、同僚から何千万円も借金して返さなければ罰される。実際に、そういう事案があった。
だから、自衛隊内部で暴力や不同意性交を強要されたら、それは当然のように犯罪行為。それが法治国家における前提。じっさい、自衛隊は憲法に拘束されてるよね。
自衛隊という立場に置かれた瞬間に「すべての理不尽なことを受容しろ」とはならないでしょう。彼らにも法に基づいて最低限与えられた権利がある。
軍隊は超法規的措置をとらなければいけないときに必要とされる組織だから、法的思考がなじまないのはわかっている。たしかに暴力を目前にすると、力無き道徳は無力だと思わされる瞬間は多い。あの空間はそういう感覚が狂いやすい。階級組織は階級を理由にあらゆることが正当化されやすいのかもしれない。
何が言いたいかと言うと、そういう前提を踏まえてもあなたの権利を侵害する馬鹿のことは許さなくていいし、それは自分が自衛隊員だからって本来は我慢しなくていいこと。
他の国の軍隊も同じ空気だからとか、シャバと自衛隊は違うからとか、そういう詭弁に耳を貸す必要はない。
あなたは日本国民。日本国憲法は自由の基礎法。義務を果たしてるなら権利は与えられる。もしあらゆる権利が組織の暗黙の了解によって無効化されるなら、憲法や法律が骨抜きにされてることを許してることになる。そんなのは公的組織として許しちゃダメだよね。
エロゲ黄金時代にそこそこエロゲーをやり込んだ人間なら「あーあったねそういえばそういう作品」と思い出す様なあるメーカーの作品群がある。
そのメーカー自体は2000年代後半には解散したのだが、代表作を書いていたライターは確認できる限り2010年代頭までライターとして活動していて、そこから忽然と姿を消していた。
もう2000年代の流行オタク業界の話なので、こういうことはよくあることなのだが、往時にはそこそこ活躍していたオタク界隈の中である種名声があった名物クリエイターで、今では足を洗ったのか、消息知れずの人たちは結構いる。
当時流行っていた学園物で、どこか2000年代のネット/アキバ界隈特有の、あのゆるい開放感のある自由な雰囲気でのコメディが得意で、とにかく優しくて面白くて「楽しい」、ノーテンキな世界観が心地よかった。
そのメーカーは音楽に特に定評があり、ライター謹製の作詞と、2000年代のオタク系音楽特有のフュージョン、ニュージャックスイング、コンテンポラリーR&B系の透明感ある音楽と相まって、いい感じに肩の力抜いたふざけた歌詞とあっていて、未だに思い出の音楽としてXなどでも結構話題に上がるくらいだ。
そんなわけで、今でもXやyoutubeを探せば、そこそこ音楽や作品を評価して名前が結構上がるくらいには、まだファンも多いライターだった。
数週間前、ゲームwikiを見ていてふとその懐かしいタイトルの記事があるので目を通していた。内容は、ハッキリ言って1から10まで覚えているのだから見る必要もないかなと思っていたのだが。
そこで、あるURLが目に付いた。
15年近く消息不明だった、そのライターの消息が分かった瞬間だった。
クリックして読んだ先の作品は、25年も前に完結したライターの代表作シリーズの続編兼ある種の最終回の様な短編だった。
あの時代の空気も雰囲気もそのままに、主人公やヒロインや悪友キャラ達が再開し、再び「面白い物を探して」、青い空の向こうへと歩き始める物語
あの頃と何もかも変わらない、古い友人というか、昔よく言った店がまだやっているような安心感とノスタルジーを覚えた。再びあのキャラや時代に出会う事が出来て、嬉しかった。
だが、それもリンクから15年の間何をやっていたのだろうと、探してみると、失望へと変わっていった。
惨めな氷河期世代のオッサンやニートだとか、他責思想丸出しのテンプレのようななろう主人公や療育放棄された頭の病気の様な悪役令嬢、そんな判で押した様なテンプレなろう系ばかりの作風ばかりになっていた。
どこかの素性不明の本でとってつけたような兵站論や物流論、軍事理論の講釈を垂れて粋がるバカ主人公
スラップスティックとただの奇行の区別もつかない悪役令嬢が、〇狂いじみたことを喚きながらトー横のメンヘラの様に暴れまわる頭の病人の様な主人公
貰い物のチートだとか、現代知識で無双をして、ヒロイン以外同性の友人すら出てこないあまりにも惨めな主人公
そんなものばかりだった。人気はそこそこあったのかもしれない、だが、そこにはなぜこんなメンタルでまだシャバにいられるのか、という様な煮詰まった読者欄に生息するなろう系の負け組オタクばかりがテンプレを評価する蟲毒だった。
子供のころ、石の裏をひっくり返して蠢く虫や蛞蝓を見たような気分を思い出した。
唯一救いがあるとすれば、書いていたライター当人も何か思うところがあったのか、2020年に入る前には活動を停止していることだった。今となっては作品はどこかのブログや魚拓でサルベージされた場所でしか見ることはできない。
あの時代の市場規模の中で活動していたのだから、ネットで言われるなろう系市場が実態と以上乖離して「儲からない、将来性がない」というのを体感的に察知して筆をおいたのか、それとも何か別の理由でもあるのか、あまりにも現実と乖離したなろう系オタク達に心が侵食される様な苦痛を感じて逃げ出したのか、それは今となってはわからない。
それは、世界というものがひどく狭く、しかし同時に、どこまでも広がっているかのようにネットで、秋葉原で、オタク界隈で、個々の若者たちの人生で感じられた2000年代という時代の産物である。
日常は終わることなく続き、青春は一瞬でありながら、画面の向こうの主人公やその親友やヒロインたちも、そして画面を見る側の当人たちには永遠に似た手触りを持っていた。
いわば、ぬるま湯の様な富裕な日本の穏やかな時代の産物だった。
何より哀しかったのは、なろう系を書いている以外で、かつて自身が手掛けた作品群の続編や外伝の様な短編を書いているときだけは、その感性や才能が色鮮やかに蘇っているところだった。
それは、失われていたはずの完成が色鮮やかに息を吹き返す、セピア色の黄ばんだ写真が綺麗にあの頃の青春の空気と、匂いと、青空と、温度が戻ってくる様な感触に思えた。
そこには、成り上がりや美少女や承認欲求を求めて銃や刃物を手に他人を殺傷する極悪人の様ななろう主人公はいない、他人が落ちていくのを「ざまあ」と笑うあまりに惨めななろう主人公も悪役令嬢もいない。
書類の数字で講釈を垂れながら、見ることもない兵隊や一般人を「致し方ない犠牲」と平気で切る血も涙もない人非人の様な、なろう系主人公もいない
まるで場末のキャバ嬢か、脳に何らかの寄生虫でも入ってるかの如く主人公をマンセーマンセーと褒め称えて股を開くヒロインもいない。
そこにあるのは、ただ、あの頃と変わらぬ「人間」たちであった。
あの頃と何も変わらない、他者や世界を逆恨みすることなく、加齢で余裕がなくなって承認欲求と劣等感で精神がおかしくなって認知が歪んでいるわけでもなく、
心が歪むことなく、いつまでも続く「終わらない文化祭」のような毎日と、静かに流れる「なんとなくぬるま湯の様な優しい世界」で、また面白い事を探して次は何をしようか、と仲間やヒロインと探して軽口を言い合って青空の下を歩いていく、
「さあ、また旅に出よう、あの青い空しか見えない、青い階段を上がれば出口だよ」
「結局俺達は、まだ何も見てないんだな」
「だってそうだもの、"見る"キミがいてこその世界だからね。だからもう一度世界を見て回ってきてほしい。」
「そうかもね、それだけ君を信用しているということさ。おっと、僕は遅れてから行くよ、そろそろ時間だ。また会おう。」
「ああ、また、どこかで」
このやりとりの中に、彼等と俺達と、そしてあの時代の世界のすべてがある。
ああ、彼等や彼女らだけが、永遠に続く様な錯覚でなく、本当に永遠の中にいるのだ。
青い階段を昇りつめた後に広がった青空と夏の街を一望できる白いビルの屋上の景色が広がり、
主人公は持っていた腕時計だけを青空に向かって放り投げる、そしてこう言った
ああ、それは時間というしがらみからさえ自由になるために離脱するという意味する行為なのだと、俺は感じ取った。
現実と時間という世界から、本当に旅立ってしまったのだ、「永遠」の方へと。
その当時の古参ファンが感想に古い友人を訪ねる様に感想欄に現れていた、それはまるで、亡き友の家や墓を訪れるように…なろう系オタクは誰一人といない、その落差があまりに悲しいと俺は感じた。
なろうやカクヨムに続きが書かれた時点で、本当に彼等は「死んでしまった」のだろう。とすると、続編は全て主人公が死んだ先に見た夢の中を、俺達が追体験しているだけなのかもしれない。
別のタブで開いているyoutubeで再生している、あの頃の作品の主題歌は、きっとあの時代と彼等への鎮魂歌なのだろう。
気の抜けた明るい歌詞が流れている、だがそれは、本当に永遠の世界へと旅立っていってしまった彼らと彼女たちの、あまりに悲しい鎮魂歌だった。
それは、明るさを装いながら、すでに失われた時代とその中に生きた人々と、あの日の世界にとらわれ続けた俺をひそやかに弔っている。それは同時に、青青の時代とそこに生きた彼らへの静かな挽歌でもあった。
彼等はすでに旅立っている…きっとそれも、帰ることのない永遠の方へ。
彼等は帰らぬ旅へ出た。
彼等はすでに去った。
次の「面白い事」…青い鳥を探して、帰ることのない旅路へと赴き、時間の流れから離脱した。
――去ったのだ。
青い鳥を探しに、
二度と帰らぬ道へ。
そして今、彼らはもはや、
なので、ホテルのラウンジでお見合いする時の一杯2000円のコーヒーも、店の外装だけ綺麗だけど料理はシャバシャバしてるカフェの3000円のランチも、高級でもなく庶民的過ぎでもない感じのイタリアンの5500円のディナーも、全部俺が出す。
気持ちはわかる。
まだ知り合って間もない、正直あまり興味も湧いていない男に奢られると罪悪感に近い申し訳なさが勝つんだろうね。
次のデートの誘いは断りづらいな、とか考えているんだろうね。
だからお前達は毎回、「あの…すみません…お金出してもらって」みたいな反応ばかりするんだろうね。
そのくせ、ポーズで財布は出すのに実際に払おうとはしないね。なんでだろうね。
でもさ、そこは「ありがとうございます!次は私が出しますね」くらい言おうや。
なんならその後2度と会うことにならなくてもいいよ。
ただこっちは金銭的に負担しているのに、なんでlose loseになるのか分からんのだわ。
せめてお前はwinであれよ。
俺の11000円はなんのためにどこに行ったの?
そんなに嫌なら財布から2000円でもいいから出して、俺のバッグにねじ込んでこいや。
この世界が変化し続けること自体は否定しません。コヘレト(伝道の書)はまさにそれを語っています。
しかしその変化の背後に不変のものがあると強く主張します。それは神の意志と道徳です。
つまり、「すべてが流れゆく」だけではなく、「流れの中にも真理がある」という立場です。
次に、「正義への執着が苦しみを生む」という点について。
つまり、正義そのものは必要だが、怒りや自己正当化に飲み込まれた正義は危険だ、という見方です。
「心を観る」という実践については、ムサール(倫理修養)やヘシュボン・ハネフェシュ(魂の内省)と呼ばれるものが対応します。
自分の怒りや恐れに気づき、それを整えることは重要な霊的作業です。
ただし、その目的は「執着から離れること」よりも、神の道に自分を一致させることにあります。
「敵は固定されたものではない」という点も、興味深い共通点があります。
「エジプト人が溺れているとき、天使が歌おうとしたが、神は言われた。『我が被造物が溺れているのに、お前たちは歌うのか』」(メギラー10b)
つまり、敵であっても完全に非人間化してはならない。これはあなたの言う慈悲と非常に近いです。
あなたの提示した道は、「内なる平和」を最も深い行動としています。
内なる平和だけで、世界は正されるのか?いいえ、十分ではないです。
子供小さいんで言ってること大体わかるけど、子供2人いるんでお前がやりすぎってこともわかる
一人目が死なんかったしまぁいけるやろで大分雑になる(あと実態として雑に「ならざるを得ない」ところもある)のが「二人目は楽」と言われるゆえん
滅菌なんか別にしなくても死にません ポットの湯でシャバっと洗えばOK
塩素漬けなんかしなくても死にません ポットの湯(90℃)でシャバっと洗えばOK
おむつ替えなくても死にません 蒸れてぷつぷつができてるとか無ければ1,2回のおしっこは放置でいい 青ライン=交換せよ、ではない
沐浴1回さぼっても死にません まぁ基本1日1回はやってたけど最悪おしりふきで股間拭いとけば1日はもつ
死ぬか生きるか見極めてさすがにこのラインでは死なんやろっていうところでは適度にさぼる(といっても30年前基準では全くさぼってない方だぞ)のも親には必要な感性だぞ
モチカリこと望月花梨の『緑の黒髪』はシャバいという向きもあるけど、ある定番の嗜好を煮詰めて正面から描いてて好きだ。
小学生のころに親同士が再婚した同い年同じクラスの義理姉弟なんだけど、再婚当初弟はどうしても姉を女として見てしまうからそれを封印するために姉の長い髪をハサミでザクザク着る。その場では怒る姉だったけど弟の態度で意図を察し、お互いを男女として意識しないためにそれからずっとお互いの恋愛の感情が育たないように暗黙の了解で高校生になってもショートカットをキープするのだがあることでそのバランスが崩れ始めるという話。
まあベッタベタの王道ではあるんだけど細かいツボが抑えられててよかった。
高校になると弟はちょっと長めの髪なんだけど小学生のころとは姉弟で髪の長さも背の高さも逆転してるのとか。
その数日前ぐらい前から仕事中の俺にやけに死をほのめかす感じの連絡きては会いに行ってみたいなのしてた
突然連絡帰って来なくなって、家からも消えて自殺したんかな…?と思ってた
実家も知らんし、親が勝手になんかやったんか?と10年近く毎年十字切ったりしてたんだが普通にお勤めしてたっぽい
歌い手みたいなのやってたから彼女の声久しぶりに聞くかなと思ってYouTubeで検索したらVtuberになってた
そんなに人気はなくてうまくいってないらしい そりゃお勤め長けりゃ色々鈍るよな
それに顔はそこそこ可愛いんだけどもう32、3だろ?
声もいじめられたのか変わってた
刑期ってゴミだな
金取るだけにすりゃいいのに
パクられてもまた色々やってんじゃん
才能を潰してる
超弦理論では、この宇宙は非常に繊細な物理定数のバランスの上に成り立っていると考えられます。
ほんのわずかでも値が違えば、星も、生命も存在できなかった可能性がある。いわゆる奇跡的なfine-tuningです。
一方、創世記では
トーラーは物理理論を教える書物ではありません。しかし、ラビ的思想では、自然界の秩序そのものが神の知恵の現れと考えます。
つまり、宇宙の精妙さや法則性は神の作品であるという見方です。
ミドラーシュ(創世記ラバ9章)では、「とても良い」とは死や困難すら含む、と説明します。なぜなら、それらも最終的には神の計画の一部だからです。
その全体像が「とても良い」なのです。
もし宇宙が極めて精妙な条件のもとに存在しているなら、それはトーラー的世界観では矛盾しないと思われます。
宇宙の構造が精妙であることは、舞台が整えられていることを示す。しかし、その舞台でどう生きるかは人間に委ねられている。
奇跡とは自然法則の破れではなく、自然法則そのものが神の知恵であると見ることが多いです(ランバンの見解)。
だから、
この二つは競合ではなく、層が違うのです。
もし宇宙が奇跡的なバランスで存在しているなら、それは「とても良い」と宣言できるほど整えられている、という考えと響き合います。
たとえば人を殺したり、パーソナリティに密接な理由に付随した犯罪をやらかしてしまった知り合いやアーティストをそれでも擁護してる人なら、理解はできなくてもその人なりの哲学とかあやまちを犯してしまった"好きな人"への個人的な想いから踏ん張ってるんだろうなと思えるけど
性犯罪をやらかしたアホをなんか妙に擁護したりお茶を濁したりしてる人は「なにをシャバいこと言ってんだコイツは」としか思えなくて、ただただ「あーあ」って気持ちにしかならないから嫌だ
どんな犯罪であれ、人が人を傷つけるかたちの犯罪という時点で被害に遭った方自身やその家族の心痛は変わらないので、その点で殺人と性犯罪はだいたい同じ地点にあるわけだけど
殺人は強盗やトラブルなど利己的な理由から事故などの酌量の余地がある理由、思想的な理由まであって
"思想的"の場合でも「彼は英雄だから無罪でもいいだろう」ぐらいのこと言ってる人いたら流石にうわ怖とはなるけど、「殺人はよくないことだが」と前置いたうえで実行者のバックボーンに思いを馳せてるくらいならヤバい思想の持ち主とは言えないと思うし
事故なら「許していいとは思わないが彼(または彼女)は本当にいい人だから自分は寄り添うつもりだ」みたいに言っている人がいくらいてもいいわけで
でも性犯罪って程度やシチュエーションにかかわらず、常に酌量の余地がまったくないわけじゃん
冤罪の可能性とかを考えた場合でも「まさか彼(または彼女)みたいな良い人がこういうことをするとは思えんから冤罪であって欲しいとは思ってる」って前置いた上で人として言うべきことを続ければいいだけであって
いい大人が性犯罪そのものを矮小化したりごちゃごちゃよく分かんない理屈をこね回したりしてるのを見るだけでその人への敬意とか興味みたいなものが霧散して軽蔑だけが残るからとにかく普通に毅然としててほしいんだよな
とくにコンテンツ作ってる人間にそういうことされると作品が途端にしょうもないものにしか思えなくなって好きだったことが哀しくなるからやめてほしい
あります。
また、
箴言 26:4–5
え?どっち?となりますね。
タルムード(シャバット30b ほか)はまさにこの矛盾を議論します。
答えは「状況による」ということです。
愚者は単に頭が悪い人ではありません。頑なで、聞く気がない人のことです。
ラビたちは言います。「叱責が届かない者を叱ると、あなたが消耗するだけだ。」
ではなぜ「答えよ」とも書いてある?
それは、相手が周囲を誤導しているとき、または沈黙が真理の敗北になるとき、この場合は答える。
つまり基準は、相手のためか?それとも聞いている第三者のためか?
現代では、議論する価値がある人と時間を奪うだけの人の区別が重要です。
しかしタルムードは「アピコロス(破壊的嘲笑者)」とは議論するなとも言います。
なぜなら議論は「真理を求める場」であって、「自己顕示の舞台」ではないからです。
分断への助言は、
どう見分けるか?
「その人は学ぶ用意があるか?」
もしゼロなら、去る。もし1%でもあるなら、種をまく。
分断が激しい時代にこそ、ユダヤ思想は深い示唆を与えてくれます。
思想が違っても、世代が違っても、国家が違っても、相手は神のかたちを宿す存在。
しかしユダヤの視点では、相手も神の像を持つ存在である以上、完全否定はできません。
ユダヤの伝統では、対立は破壊ではなく、真理を磨くための摩擦です。
アヴォットの教え 5:17「天のための論争は永続する。」
問題は「論争があること」ではなく、動機が自己栄光か、真理追求かです。
ユダヤ的助言は。自分は真理を求めているか?それとも勝ちたいだけか?
ラビたちは言います:平和は受動的ではなく、追いかけてでも作るもの。
アロン(モーセの兄)は争う二人の間に入り、双方に「相手はあなたを大切に思っている」と伝え、和解させたと伝えられています(アヴォット1:12)。
ヒレルは言いました:
SNSの議論、政治の対立、家庭内の分断、この一文だけで世界は大きく変わります。
3. 人と意見を分ける
4. 「私は間違っているかもしれない」と心に置く
5. 平和を追い求める行動を一つ具体的にする
何百年にもわたる異なる意見の集積です。
味噌汁でなくミソスープが飲みてえなという気分になる事があるけども、この人生ではもう無理なんだよな
なんか昔国語で
「ご飯で」
「ライスですね」
という問答の末にお鉢に盛られたメシをドンと置かれたみたいな話を読まされたが
ニュアンスを食べてえんだよな
二日酔い明けの味噌汁がサァ!とかではなく、オリエンタルな魅力を放つミソスープを飲みたい
シャバついていながらコンソメとも違うような不思議なコクがあるとされている、なんだかヘルシーそうなミソスープを飲みたい
紙パック入りのチャイニーズフードが無性に魅力的に見えるように、おれも味噌汁にその魅力を感じてえ
これはもう今生では無理そうだな
違うよ
そのことは良いも悪いもない
狭い世界で専門知識がある者同士でやっていくジャンルってのはあるよね
「内在的批評がわからないのは専門知識が無いからです。」それは正しい。
でも元増田は
はなから「共感なんか得られるわけない、狭い人にしか通じないことをやってるんだから」というスタンスだろう
こいつみたいに世間の共感なんてものを気にしてるわけがねーのよ
わかる?
つまりこいつは世間に共感されたい、受けたい、でもそれが得られない、
それはボクチンたちは内在的批評をしてるからなんだよなー 高度だからなんだよなー
つってるわけ
それはシャバい世界で通用する能力が足りてないからだという事実に直面出来ない
「ボクチン内在的批評だからなー」とか言ってる限り努力のスタートラインにも立てない
そのまま世を拗ねながら歳を取ったら最悪だぞ
そういう万能逃げ口上を垂れるな
そういう奴はきちんとやり切って自分で満足してる。
それは立派な人生だよ。
そこで勝負する勇気がない、実力不足に直面するガッツすらないから
「ボクチンは内在的批評なんだよなー」とか言ってごまかして歳とる奴
要するに嘘をつくなってことよ。
鮭の厚切りの蒸しに挑戦しようと思って張り切って鮭の切り身になっている前のなんかステーキみたいな鮭のまさに肉!って感じの肉肉しい鮭塊を買ってきたのね。
そんで、
鮭の蒸し料理に挑戦!
仕上げにレモンを果汁フレッシュマジ搾りのリアル風味はこれはポッカレモンでは出せまいと、
白菜を削ぎ切りにして、
一番下の層にして、
エリンギを乗せてその上に今回の主役のサーモンを乗せてまたその上にエリンギを乗せるの。
そしてこれは黄色が映える映えまくる映えまくりまくりすてぃーな、
輪切りのレモンを1つか2つか3つぐらい乗せるの!
これで準備完了!
そうそう、
ちゃんと真面目に鮭の肉に塩をうって臭み水とりとかやってキッチンペーパーでちゃんと拭いて、
一切の雑味がのらないように、
丁寧にやってみての鮭よ!
それはワンチャンだったわね。
ワンパンって1つのフライパンでやっちゃう料理的な意味らしいお洒落な単語みたいなのよね。
いざ出来上がり実食よ!
パク!
なにこれ!?
鮭がふわふわしてふっくら仕上がって、
仕上げに搾ったレモンが鮭の味の最大瞬間風速を高めて口の中に酸味と鮭の甘みが一気に広がってくる、
まるで、
SF小説に出てくるイルカが攻めてくるぞ!のイルカが尾びれで直立して光線銃を構えて逃げ惑う街の人々を彷彿とさせたり、
海から故郷の川へ遡上している鮭の大群がバシャバシャ狭いところを登っていって鮭祭りが行われているのを彷彿とさせているかのように、
口の中が鮭の美味しさで溢れているの。
いままで、
なんかカッチカチの鮭の料理の仕上がりしか私は味わったことのない焼き鮭の固い鮭のイメージだったけれど、
ふっくら仕上がった鮭のほろほろの身は、
まるで本当に鮭が攻めてくる、
鮭が尾びれで直立して光線銃を構えて撃ってきそうなそして街の人も慌てふためき逃げ惑う様子のような美味しさが口の中に広がっているある意味逆の意味で惨事がおこっているレヴェル!
うわ!
めちゃ美味しい!
つーかさ、
蒸し料理って
失敗知らずの
1度も失敗していないこの間違いのない失敗しようのない、
確実に料理が決まる決定打なの!
この鮭の旨味にションテン爆上がりだわ!
ションテンがインフレーションしちゃってしまいそうだけどこれは止められないわ。
この鮭の爆美味に、
そうあと!
忘れてはならない下に敷いた鮭のエキスを浴びて吸って美味しくなっている白菜とエリンギ、
この上ないチーム戦を繰り広げているのよ!
こんなに上手に出来ちゃった?って我ながら自分の蒸しパワーと蒸しレヴェルの腕前を疑っちゃいそうなの!
AIがレシピ相談したときにGeminiちゃんがそう言うもんだから、
えー?レモンってどうせ飾り的にあってもなくても何も作用しなく無い?って信じてなかったんだけど、
まあAIに騙されたと思って蒸し上がった仕上げにレモンマジ搾り果汁を鮭の上からじゅわー!ってかけてみたのも大正解!
これレモンがなかったら、
味が平たく平坦な
ただ鮭が美味しいですわねって
小津安二郎監督映画の『鮭の味』のワンシーンみたいに静かにパクパクと鮭を食べているだけのシーンになっちゃいそうだったけど、
惜しげも無く蒸し上がった鮭にかけたら、
弾けるようなレモンの酸味と鮭の甘さの旨味が凄い相乗効果を発揮して
一口食べたら一気に美味しさの、
なんて言うか、
魚の美味しさのというより、
酸味が美味さの底上げブーストさせるように口の中で一気に高く登っていくのね。
うわ!
レモンを信じていなかったけれど、
レモンの一打はとても大きい感じで、
これからの魚の蒸し料理的なものには無くてはならない食材の1つになってしまったわ!
それか米津玄師さんのLemonって曲をよく聴いてみると要所要所に入っている「イェイ!」って合いの手に合わせて私も鮭を一口食べるごとにイェイ!ってガッツポーズして言っちゃうほど小さな声でイェイって合いの手があるから耳をすませて聴いて欲しいの!
夢ならどれほどよかったでしょう?って
この鮭の美味さは現実なのよ!
というか、
こんなに蒸し料理って
簡単且つ失敗しない絶対だいたい美味しく仕上がる設計になっているの?
今頃蒸し料理の開発者がこれ技術権利持っていたら大儲けしていた案件だと世界を蒸し料理で牛耳れたはずなのに!って。
しつこいようだけど、
洋楽のさ平和な歌の代表格のウィアーザワールドの中の歌詞の一節にしれっと蒸し料理上手いぜ!って言ってるところも私は見逃せないレヴェルなのよね。
やっぱりその時から蒸し料理のこの簡単お手軽失敗知らずは歌われていたのよ。
今まで蒸し料理を無視していたことになんてとてもじゃないけど言えないぐらい蒸し料理やってこなかったんだろう?って、
逆に不思議に思いすぎるわ。
でも考えてみたら、
意外と見所ポイントが地味なので
蒸すだけという仕掛けて待っているだけなのも要因かもしれないわ。
要は料理番組で取り上げるまでもないぐらい簡単!ってことでもあるのかしら?
料理番組でいろんな料理紹介してるけど蒸し系は少ないのはこれが原因かもしれないわ!
だって、
もうなんだって蒸せちゃえば美味しいんだもん!
本当に今までの煮る焼く炊くってのはなんだったの?って。
でも今知って気付いた蒸し界隈の世界の景色に気づけて良かったわ。
とにかく、
蒸した鮭!美味しさが止まらなくて、
夜お仕事から帰ってきてからのなんかこっから自炊調理スタートすんの?って面倒くさくてしんどいけど、
蒸すのって素敵すぎる!
次は何蒸して食べてみましょうかってワクワクよ。
うふふ。
パーフェクトだわ!
食べて元気に頑張るわよ!
レモンの酸味の迫力とパワーが直撃してレモン感喰らってしまったわ!
すっぱー!って。
身体が温まったらレッツゴーよ!
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!