はてなキーワード: カテゴライズとは
私は異性愛者にカテゴライズされると思うが、それは生まれた時からずっと異性愛が普通の世で生きてきたからだと思う。
同性にも異性にも好ましい人はいる中、とりわけ異性に対する好ましさだけを「恋愛感情」と名付けられているだけじゃないのか。
同性同士が惹かれ合うのが普通なんだよという世の中で生まれていたら、「えっ私は異性が好きですけど?」などと思うことなく、同性と恋愛したり結婚したりしていたと思う。
でもバイではないと思う。普通じゃないのにわざわざ同性と恋愛しようと思わない。
異性愛者って本気で異性が好きな人たちなんだろうか?? 反対に同性が好きな人は同性愛が普通の社会でも同性が好きなんだろうか??
母は保育士だったが常に深夜まで働き年収600万は稼いでいたので当時ド田舎の中ではバリバリ働いている女性にカテゴライズされる側だった。加えて家事も全てこなす、自慢の母だった。
父親も公務員だったため、世帯年収1000万は超えており、3000人程度の人口の村では裕福な部類に入っていた。
そんな両親は私が高校1年生の時に離婚している。そもそも小学校低学年の時から冷戦状態の家庭だった。夜ご飯も無言で食べ、私を介さない夫婦の会話は基本事務的であり、笑いあっている場面を見たことがない。父親は母親のことを常に見下していたし、私が1ヶ月不登校になっていた時期に「お前の育て方が悪い」と昭和さながらのセリフで怒鳴っているのを目撃したことがある。
なぜ父親を結婚相手として選んだのか聞いたことがある。「3Kを全て満たしており、親に紹介しやすかったから。今思えば自慢できそうな人を選んでいたと思う。」と話していた。
離婚理由は、「甘えられる奥さんになれなかった。自立しすぎてしまった。家事も100%やっているし高校生の娘1人十分に育てられる額を稼いでしまい、存在理由がなくなった。」と話してくれた。
私はずっとお母さんの肩についていたので、土日休みで定時上がりにも関わらず1つも家事をやらない、なのに全てが上から目線で体裁を気にする父親が大嫌いだった。
私は父親に馬鹿にされないような人生を送りたいと思う一方で、可哀想なお母さんのようになりたくないとも思っていた。この感情が矛盾していたと今は思う。
身長は私よりも2cmほど低く、学歴も私と変わらないレベルの大学。
高スペックの男性を好きになれなくなっていた。お父さんみたいにモラ予備軍だというイメージが埋め込まれてしまっていた。お金よりも性格を重視しようと常に考えて付き合う男を見ていた。(自信が無さそうな男を選んでいたと思う)
男に見下されたくないという反骨精神を持ってしまい、都内の大学に進学し、誰でも名前を知っているような大手企業に就職した。全てを完璧にしたかった。
彼氏は年上だが、既に彼の収入を越えており、家賃の7割を私が支払っている。納得しているが、これでいいのか?とふと思う自分がいる。
父親に馬鹿にされない人生を送ってきたつもりである。(5年ぶりに再会した時、父親は上昇ぶりに驚いていた)
だが、私が彼に頼らず生活してしまうと、子供ができた時、彼の存在理由がなくなってしまうなあとともうっすら思っている。
それって結局私は彼に甘える隙(劣っている部分)を作らないと、幸せな家族を作れないんじゃないかと思えてきた。
専業主婦の母を持つ友達は、稼いでいる夫に頼って幸せそうだと言っていた。(また父も家庭を守る母に頼っているとも言える)
私は、母親のプライドが高い部分を受け継ぎ、父親のモラハラ部分も受け継いだと思う。最悪な人間になってしまったせいで、子供を持つ未来が見えない。
子供はめちゃくちゃ可愛いし大好き。親戚の赤ちゃんと遊んでふと、あぁ可愛いな、欲しいなという気持ちは出てくる。でも、私のような家庭不和の子供を作りたくない。
どうすればいいのか分からない。
あと数日で2026年になる。
大体この時期になると、今年に置いていきたいもの考える。
私はあなたを置いていきたいのだ。
本当はそんなつもりはなかったのだが置いていかないといよいよ前に向けなくなってきた。
8月中旬、3年半程時間を共にしてきた彼に離れたいという旨を伝えた。
急なことで驚いてはいたが、少し考えては割と承諾してくれた。
就活でむしゃくしゃして始めたマッチングアプリ。共通の趣味を通じてやり取りが続くようになった。
電話越しに「関係性に名前をつけることの居心地の悪さ」を話した。
友達・彼氏彼女・先輩後輩・家族。 人間関係をカテゴライズしてそれに当てはめるように人と接するのがあまり好きではなかった。
彼も共感してくれた。
人生で後悔していることが3つしかないがその中の1つがこれだ。
名ばかりの当時の彼氏と別れ移行をしようとしていたが、彼はそれを拒んだ。
仕事終わりでも2時間運転して会いに来てくれたし、引っ越してすぐに会えるようになると半同棲が始まり流れるように同じ生活をしていた。昨年末、喧嘩がきっかけで半同棲は解消されたもののほぼ毎日会っていたのには変わりはなかった。
総合病院なんかに行くと大抵「近くに家族や頼れる人はいますか?」と聞かれる。
彼はそれには該当しない。聞かれる度に悲しくなった。
なれないと分かっていたので1歩を踏み出した。
連絡はしている。今も。
何を食べたとか、何処に行くとかその様な話はなくなった。あなたは生活ではなくなった。
笑うタイミングもボケる言葉も一致していた私兼あなたが、完全にあなただけになっていた。
この文を読んでいる人は何だこのクソガキの恋愛はと思うだろうし、ある程度人生経験をした大人には、何処にでもある恋愛話だと分かるだろう。
彼は私との時間を「人生のボーナスタイム」と表現して、いつか終わる認識でいると話したことがある。
私が望んだ関係は全くもって居心地が悪く、それが原因で破綻した。
初めから曖昧な関係を築かなければよかったのか、その曖昧な関係を続けて彼の意見が変わるのを待つべきだったのか。
夢には未だに彼が出てくる。
情けなくて久しぶりに泣いてしまった。
もう完全に居なくなったことにして、一生会わない関係になるしかないのだろうか。
こんなことを決めかねる甘さこそが私の首を絞めているのだろう。
表題のとおりです。
事の発端は、12月12日に飯田一史さんは記事「『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』はどこが間違っているのか(抄)」 https://ichiiida.theletter.jp/posts/0aa160a0-d70f-11f0-aa07-8582de6095b5 (以下、飯田の批判)において、三宅香帆さんの著作『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(集英社新書)https://shinsho.shueisha.co.jp/kikan/1212-b/ (以下、三宅本)の誤りを指摘したことでした。
これに対し、翌日の13日に三宅香帆さんは記事「「『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』はどこが間違っているのか」はどこが間違っているのか」https://note.com/nyake/n/na2d317b47bc5 (以下、三宅反論)を投稿し、飯田の批判に対する反論を試みました。
このエントリでは、両者の主張に対する見通しを良くすることを目的に、飯田批判と三宅反論の論点を整理したのち、それぞれの問題点を指摘していきます。
まとめたのは人文系の話には疎い人間のですので、誤りも多いかと思いますので、まあ話半分で読んでもらえればと思います。
なお、飯田批判は、飯田一史さんの新著『この時代に本を売るにはどうすればいいのか』(星海社新書)https://ji-sedai.jp/book/publication/konojidaini.html からの抜粋であることを念の為補足しておきます。
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📰 0. 三行要約(問題点)
・飯田批判は、特に「三宅本は(出版流通における)「書籍」と「雑誌」を分けていないからダメだ」という主張に相当問題があると思う。
・三宅反論は、そもそも「反論」できてない。言い換えると、飯田の論理展開をあまり追えておらず、誤読を基に論理を展開するため実のある話があまりない。
・三宅反論は、三宅本の議論の前提に基づく問題を、あたかも飯田のデータ処理の問題にすり替えていて、個人的にあまり心象が良くない。
以下、飯田批判と三宅反論についてより詳細に検討していきます。
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飯田の批判の主張とその根拠、主張を正当化する論証について整理を行います。
理屈が明晰な箇所もある一方、煙に巻くような箇所もあって、議論を追うのはすこし大変だったような印象です。
・直接的には指摘ではないものには「◯」
また、論拠を準備していない主張には大括弧[]で囲っておきます。
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(「・働き始める前から読書量は減り、働き始めた後も日本人の読書量は減らない」の節)
◎主張1-1. 三宅本は、労働により読書量が減少することを前提にする。
しかし、これは誤りであり, 読書量は労働が始まってから変化してはいない。
<主張1-1の論証>
根拠1-1-1および1-1-2は, 読書量の低下は, 労働が始まる前の現象で、それ以降では起きていないということを示す。
これは、三宅本の前提を棄却するデータであり、ゆえに主張1-1が示される。
<論証おわり>
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◯主張1-2. 書籍における「買う」(=出版売上)と「読む」(=読書量)の間の関係は明白ではない。
<主張1-2の論証>
*根拠1-2-2. データ: 紙の書籍の推定販売金額と月の平均読書冊数
根拠1-2-1, 1-2-2, 1-2-3のいずれも、書籍に関しては、「買う」の増減から「読む」の増減を帰結することやその逆を主張することは難しいことを表している。
<論証おわり>
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◯主張2-1. 雑誌における「買う」(=出版売上)と「読む」(=読書量)の間の関係は明白である。
<主張2-1の論証>
*根拠2-1-1. データ: 紙の雑誌の推定販売金額と月の平均読書冊数
根拠2-1-1は、雑誌に関しては、「買う」と「読む」の間に相関があることを示している。
<論証おわり>
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◎主張2-2. 三宅本では、書籍と雑誌の区別ができていない。
<主張2-2の論証>
根拠2-2-1は、三宅本において雑誌と書籍を区別できていないことを示している。
<論証おわり>
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[◎仮設2-3. 三宅本は、「読書離れ」を論ずる際には雑誌と書籍を区別するべきである。]
(これは明示的に飯田批判にあらわれていないが、以下の主張2-4の論証において機能する暗黙の前提である、と私は思う。)
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◎主張2-4 三宅本は、『読書世論調査』における「読書時間」の減少を根拠に「読書離れ」の存在を主張する。しかし、これは不適切である。
<主張2-4の論証>
*根拠2-4-1. 「読書時間」は「書籍+雑誌との接触時間」である。主張2-1から、雑誌の接触時間は減少傾向であると推察されるので、
「読書時間」の減少は(書籍ではなく)雑誌との接触時間の減少と解釈するのが自然である。
*根拠2-4-2. そもそも「読書時間」もそれほど減っていない。
*根拠2-4-3. 『読書世論調査』の総括では, 読書率はあまり変化がない.
根拠2-4-1, 2-4-3から、 「読書時間」の減少は書籍との接触時間の減少を導くのは難しい。
[仮設2-3]から, 「読書離れ」は特に書籍の読書時間減少を意味すると解釈するべきであり、
また, 根拠2-4-2の存在は、特に読書時間の減少が生じていないことを示唆する。
<論証おわり>
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◎主張3-1. 三宅本は、日本人が現在も長時間労働であることを前提にしている。
しかし、労働時間を「全産業平均」の観点で見たとき、この前提は不適当である。
<主張3-1の論証>
*根拠3-1-1. 厚生労働省「わが国の過去50年間(1973年~2023年)の労働時間の推移についての考察」
<論証おわり>
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◎主張3-2. 三宅本は、次の(i), (ii), (iii), (iv)を主張する:
(ii) 自己啓発(労働による自己実現)のための読書(=「情報」摂取型、「ノイズを除去する」「〈社会〉を遠ざける」)時間が増加した.
(iii)代わりに、人文書や小説などのための読書(=「アンコントローラブル」な「ノイズ」や「他者の文脈」を含む)時間が減少した
(iv) 読書離れと自己啓発書の伸びはまるで反比例のグラフを描く
<主張3-2の論証>
*根拠3-2-2. グラフを書くだけの定量的な根拠はない(提示されていない)
根拠3-2-1から、労働者の 「自己研鑽」 = 「学習・自己啓発・訓練(学業以外)」の時間は減少している。
これは(ii)を否定する。
主張1-1および(ii)より(iii)は成り立たない。((iii)が成り立つためには(ii)が成り立つ必要があるため。)
根拠3-2-2は、(iv)を否定する。(少なくとも、(iv)の主張を肯定するだけの理由はない。)
<論証おわり>
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◎主張3-3. 三宅本では、自己啓発書市場の拡大から自己啓発書のほうが文芸よりも市場が大きいかのように解釈する。
言い換えれば、次の(1),(2)を主張する:
(2)(1)が正しいのであれば、「自己啓発書のほうが文芸よりも市場が大きい」は正しい。
<主張3-3の論証>
根拠3-3-1は、「年間ベストセラーにおける自己啓発書の冊数割合は増大している」ことを主張する。
しかし, 根拠3-3-2は 自己啓発本の市場は小説市場よりはるかに小さいということを意味する。
これは、(1)が正しいのに「自己啓発書のほうが~」が間違っているので、(2)は正しくない。
<論証おわり>
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[◎主張3-4, 三宅本は, 上の(1), (2)が成立するとしていたことが原因で、(i)から(ii)および(iii)を導いた]
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以下で、飯田批判を読んでいたときに、個人的に気になった点を列挙します。
●飯田主張2-4について:「書籍」と「雑誌」の区別は本質的か?
主張2-4の背後には「書籍と雑誌は分別するべきである」という暗黙の前提(仮設2-3)があるように思う。
三宅本の「読書」から「雑誌」を除外することは本当に妥当かを考えたい。
といっても自分は出版業界の人間ではないので正しい理解かは怪しいのだが、調べた範囲のことをまとめておく。
(間違ったこと言ってたらごめんなさい)
「書籍」「雑誌」の辞書的な定義はたとえば布川ほか編『出版事典』(出版ニュース社)のp.217およびp.167にある。
ざっくりまとめると「書籍」と「雑誌」の違いは一定の編集方針の下で定期的に刊行されているかどうかという部分のようである。
これは、1985年のユネスコの出版統計上の「図書」と「新聞及び定期刊行物」の違いともおおむね合致しているように見える。
("図書、新聞及び定期刊行物の出版及び配布についての統計の国際的な標準化に関する改正勧告". 文部科学省. https://www.mext.go.jp/unesco/009/1387396.htm)
より実際的な取り扱いは, "既存の雑誌が「創刊」とは、これ如何に". 出版科学研究所オンライン. https://shuppankagaku.com/column/20070111/
によれば、
そもそも本というのは「書籍」と「雑誌」に大別されますが、出版業界では「雑誌コード」が付されたものを厳密に「雑誌」と区分しているのです。
一見雑誌のように見える本も、このコードがなければ「雑誌」ではなく「書籍」ということになります。
ということらしい。(しかし、これはあくまでコラムの中の記述でありカチッとした話ではないことに注意)
「書籍」と「雑誌」の実際上の取り扱いの違いは、「雑誌コード」の有無、つまり流通上の取り扱いの違いから生まれてくるという。
日本では、「書籍」はISBNコードを持ち、「雑誌」はISSNコードや雑誌コードを持っている。
その中間にあたるムック本では、ISBNコードだけでなく雑誌コードも付随しているようなものは「雑誌」の対象とするようである。
("「雑誌」の定義と出版統計". 出版科学研究所オンライン. https://shuppankagaku.com/column/20060911/)
ともかく、「書籍」と「雑誌」を分けるのは明らかに内容やジャンルではない。定期的に刊行するかどうかであったり、それを根拠に雑誌コードが付いているかどうかだったりである。
コミック誌を除外したとしても、『anan』のようなファッション誌もあれば『文學界』や『オール読物』のような文芸誌も、また『Nature』や『ナショナルジオグラフィック』のような理工系の雑誌もまとめて「雑誌」にカテゴライズされる。
さらに言えばサイエンス社の『SGCライブラリ』シリーズの書物は, それぞれ内容的に全く独立しており実質的に単行本ではあるのだが、『SGCライブラリ151』までは『数理科学』の臨時別冊という扱いだったのでそのカテゴリは「雑誌」になっている。(なお『SGCライブラリ152』以降は「書籍」である)
一方、書肆侃侃房の『文学ムック たべるのがおそい』は確かにムック本ではあるが、雑誌コードを取得しておらず取り扱いは「書籍」であった。
このように「書籍」と「雑誌」の区分はそもそも出版流通上の区分であり内容面での区分ではないばかりか、その区分が出版物の実情と必ずしも合致しているわけでもない。
この区分はかなり表面的、形式的なものであると見るべきだろう。
・以上を踏まえて、飯田の批判、つまり「書籍」や「雑誌」という出版流通における区分の不徹底でもって三宅本を批判したことの妥当性ついて吟味してみよう。
それは、「「書籍+雑誌との接触時間」の減少を根拠に「読書離れ」の存在を主張するのは不適切である」(主張2-4)という批判である。
そして、なぜ飯田が「不適切である」と主張するかといえば、「書籍」と「雑誌」は分けて考えるべき(仮設2-3)だからと考えているからであり、
特に三宅本の「読書離れ」の定義としては「書籍の読書量(≒読書時間)の低下」を採用するほうがより妥当である、という飯田が信念を持っているからである。
ここで注意したいのは、主張1-2, 2-1は「「書籍+雑誌との接触時間」の減少を根拠に「読書離れ」の存在を主張するのは不適切である」(主張2-4)の根拠ではない。
飯田はその直前に「「書籍の読書量と出版売上」の相関は弱い(主張1-2)一方で、「雑誌の読書冊数と出版売上」が正の相関関係にある(主張2-1)という事実を指摘してはいるものの、飯田はこれらを「読書量を測定するにあたって「書籍」と「雑誌」を区別するべきである」(仮設2-3)の根拠にはしていない。主張2-4は仮設2-3からは出てくるものの、主張1-2, 2-1には立脚していない。三宅反論で大いに誤読したのは、主張1-2, 2-1があたかも主張2-4の根拠になっているかのような書きぶり、配置の魔術ゆえであろう。
ともかく、飯田の批判の妥当性を吟味する際はこの信念「三宅本の「読書離れ」の定義としては「書籍の読書量(≒読書時間)の低下」を採用すべきである」という部分に注目すればよい。
三宅本で対象としている「読書」は、大方「人文書や小説などのような(「ノイズ」や「他者の文脈」を含む)書物を読む行為」と解釈するのが妥当だろう。
したがって「読書離れ」は「人文書や小説などの書物を読む頻度が減ったり、そのために費やす時間が減少している」ということだろう。たとえば理工書や技術書、ファッション誌、ゴシップ誌などを読むことは端から三宅本の「読書」に含まれていないと見るべきである。
転じて言えば、たとえば「雑誌」であっても文芸誌を読む場合は「読書」に含まれるべきだろうし、「書籍」であっても理工書を読むことは「読書」に含まれない(と三宅本では考えている)かもしれない。
要するに、「読書」といったときに、読まれるべき書物を分類できていないと批判するならば、むしろそのジャンル(文芸・歴史書・哲学書・理工書・サブカル・ゴシップ・ファッションなど)の違いに着目するべきなのであり、出版流通における「書籍」「雑誌」という区分は、少なくとも直接的には重要でないだろう。もしこれが重要なのであれば、それは驚くべきことなので、別でこれを論証すべきである。
もちろん、おそらく「雑誌」の出版売上の中でファッションやゴシップが支配的で文芸誌や理工系雑誌は影が薄いだろうから、その意味で「書籍」「雑誌」の区分で売上を観測することがジャンルの傾向をよく記述するとは言えるかもしれない。言い換えれば、「ジャンルによる読書量の違い」を捉えるにあたって「出版流通における Permalink | 記事への反応(0) | 20:21
大体の国民にとって「アメリカが台湾有事で攻撃を受けた時に日本はどう立ち振舞うのかを明言する必要があったか」については議論の余地があれど、同盟国が攻撃されたら日本も防衛に周るというのは失言とは見做されてないのですよ。
それを左翼が「撤回が必要」だとか「これは宣戦布告で中国へ戦争を仕掛けてる」とか頓珍漢なことを言ってるから、令和では左翼が周りから白い目で見られているの。
中国と関係が悪化したことで経済影響は多少はある。一般人もそれは問題視してる。
一方で、脅して言うことを聞かせようという国に依存するのも間違いだからマーケット規模がデカくても依存しすぎないようにしていこうという転換期にしていくという言い分もわかるから「ならしゃーない」くらいに国民も多少納得してるっていう話だよ。
お前ら、自分たちの主張がファンタジーの世界にあることを自覚してよ。日本中で誰も彼も戦争しようなんて言ってない。(もしかしたら一部の極右は言ってるかも知らんが、それはアホなんで無視していい)
むしろ戦争を起こさせないための抑止力の話をしている。どうにかして中国による台湾への武力行使を止めたいんだ。
オールドメディアの支持率を下げる報道に踊らされてる場合じゃないよ。現実をみよう。
追記:
アホ左翼(左翼の中でも考えがない人のこと・左翼全般を指さない)が返信つけたから補足しておくけど、「高市政権の支持率65%」「台湾有事答弁 問題ない50%」これが日本の現実である。
https://mainichi.jp/articles/20251123/k00/00m/010/107000c
https://news.yahoo.co.jp/articles/399c57ce95533e7a04157079c92fb804dc464a6f
俺は「なぜ普通の日本人が高市政権を支持しているのか」、「台湾有事への回答が一般人の中で問題視されていないか」を文章化しただけだよ。
別にこの記事に対して左翼が何を喚こうとも俺は一向に構わないが、お花畑なのは国民じゃなくてあんたらだと自覚ないのが滑稽極まりないよ。
支持率を下げてやる記事を真に受けて、キャッキャしながらコメントしてるのが噴飯ものなんだと自覚できてないのがおもしろおかしいのよ。
国民が何も考えてないと嘆く前に自らの不明を恥じてバイアスを取り除いて世界のパワーバランスなどを真剣に考えるべき。
追記2:
id:duckt "やっぱり「普通の日本人」って言うんだな"
これは自分が右寄りだから真ん中の人を指して言ったのだが、カテゴライズとしては微妙なのやも。この記事は右寄りの人が真ん中の人たちの意見を観測範囲で起こしたものなので。
そもそもだが、そういう論を出せる人は「アホ左翼」とは見なしていない。本記事はどこにもいない「戦争を望んでいる大多数の日本国民」を幻視しているアホ左翼に向けたものであることを理解いただきたい。
一方の意見しかない国家の方が遥かに危ういので、色々な意見を持つ国というのは良い。右に偏らないようするためにも、左側の貴重な見解も発言されてしかるべき。
ただ元増田のように「それにしてもアホだな」っていうのが目についたので思わず書いた。
他にも高市氏の発言も知らず「アメリカ」と書いてるのに台湾のことを指してるがごとく書いたり、「オールドメディアの出す支持率信じちゃうの?」とか統計操作も辞さないならもっと悪い数値にするだろ常識考えろなどのように色々ダメな発言も散見されるけれども、考えて発言してる人も多々見かけるのでまだまだ左翼も全体では捨てたもんじゃないだろうな。
再度書くが"それを左翼が「撤回が必要」だとか「これは宣戦布告で中国へ戦争を仕掛けてる」とか頓珍漢なことを言ってるから、令和では左翼が周りから白い目で見られているの"で、ちゃんと考えている人は、むしろそういう愚かな味方を諭して育てて欲しい。
はてブでも高市人気に比例するように愚かなコメントがとても目立つようになった。中には鋭い意見もあるのに、アホみたいなコメントにばかりスターが並んで埋もれている。とても勿体ない話だよ。
追記3:
そもそも高市発言を「戦争奨励」のごとく語るコメントがあるので温度感が違い過ぎて話にならんので補足する。以下の全文書き起こし記事から一部引用する。
https://note.com/osamu_iga/n/n9c15ef0c28f4
質問:「存立危機事態、所謂まあ、限定した集団的自衛権の行使ですね。これ以外の集団的自衛権の行使、つまり限定の無い集団的自衛権の行使は違憲である、これは従来の政府の考え方だと思いますが、そういう考え方を維持されてますか?」
回答:「集団的自衛権の一般の行使を認めるものではなく、他国を防衛すること自体を目的とする集団的自衛権の行使は認められないという政府の見解に変更はございません。」
⇒単に台湾が攻撃されただけでは日本は動かない(たとえ台湾を国家承認したとしても他国である以上は集団自衛権の行使はできない)
特にそのあとで「憲法上我が国による武力の行使が許容されるのは、所謂3要件を満たす場合の自衛の武力の行使に限られます。そして、この3要件は国際的に見ても他に例のない極めて厳しい基準でありまして、その時々の内閣が恣意的に解釈できるようなものではないと思っております。先程来、存立危機事態における武力の行使についてお話がございましたが、これも限定されて集団的自衛権の行使、即ちあくまでも我が国を防衛するためのやむを得ない必要最小限度の自衛の措置としての武力の行使に限られていて、集団的自衛権の一般の行使を認めるものではなく、他国を防衛すること自体を目的とする集団的自衛権の行使は認められないという政府の見解に変更はございません。」と明言しており、戦争するぞなんて一言もいっていない。
じゃあなんで揉めてるのかといえば、集団的自衛権の行使について、具体例を言及してしまったから。
回答:「まあ、海上封鎖っていうのも、これ、戦艦で行い、そしてまた他の手段も合わせて、まあ、対応した場合には、武力行使が生じ得る話でございます。あの、例えば海上封鎖を解くために米軍が来援をする、それを防ぐために何らかの他の武力行使が行われる。まあ、こういった事態も想定されることでございますので、まあ、そのときに生じた事態、いかなる事態が生じたかっていうことの情報を総合的に判断しなければならないと思っております。」
⇒台湾に米軍が行って攻撃を受けたりなど、特定の事案があれば防衛に向かう可能性がある。この辺は日米安保に絡む話。そもそも台湾有事が発生したとして、アメリカが支援に行くなら日本の米軍基地から出る可能性が高い。日本国内の米軍基地への攻撃も受ける可能性はある。流石の中国も台湾のためだけにそこまでやらないと信じたいが。
特に「主に攻撃国の意思、能力、事態の規模、対応などの要素を総合的に考慮して、我が国に戦禍が及ぶ蓋然性ですとか、それから国民が被ることになる犠牲の深刻性、そして重大性などから判断することを、ま、これは判断するべきものだと考えておりますので、政府としてその持ち得る全ての情報を総合して判断する」と発言しており、これは日本へ戦禍が広がり国民に被害が出るのであれば防衛に出るということ。尖閣諸島だけでなく、沖縄が中国の領土だと嘯いている以上は、そのような想定もしておかなくてはならない。
これを以て戦争をしたがっていると考えるのは流石に早計というところ。本当にそんな発言だったなら支持率は1ケタ台に急落したことだろう。
あと、本件では岡田氏が明確にせよと言っておきながらいざ総理が明確にしたら、同じ舌で「言うべきではなかった」とかいうので馬鹿馬鹿しいなとは思ってる。
本件で明確にしなくてもよかったという声は多いが、明確にしてほしいと希望を述べたのは岡田氏本人だよ。明言したことについて総理にのみ言及するのもおかしな話だ。
繰り返すが「明確にする必要があったのか」は左翼でよくあった指摘の中では正しい指摘だが、とはいえ内容に誤りはないから撤回する必要がないというのが一般的な日本人意見であり、故に「撤回を要求している左翼」をアホと断じている。
更に一足飛びに戦争が起きるとか言ってる人は幻想である。妄想ではなく現実をしゃべって欲しい。そんだけ。
そして改めてだが、「大多数の日本人は戦争を望んでいない。そして日本だけでなく台湾の平和も願っている」。故に「侵略されないための議論はせざるを得ない」とも。
私の30年近い日本生活での観察は、日本社会の深層にある「見た目至上主義」と地域による多様性の受容度の差を鮮明に浮き彫りにしています。
私の経験:
・親に挨拶したいという人まで現れた。
・20代で年収400万円台、イケメンでもない、ヨーロッパ系でもない。
・それでも自然に受け入れられた。
(李という人が別の学校の同級生にいたが、自然すぎた。違和感がない。 何人かは聞いていない。友達感覚。今東京に居る私からすると謎かも。)
「属性」よりも「今、何ができるか」。
「個人」として人を見る習慣。
・結果:
年収400万円台でも受け入れられた。
見た目ではなく人柄で判断された。
・東京との決定的な対比
同質性への期待が極めて高い。
※東京でも地域差はある。都心(渋谷、新宿、浅草周辺は違うかも?)でも多摩地域は保守的な印象。
◇日本語でずっと会話している。
それでも聞かれる理由:
肌の色が違う = 「外国人」という単純な二分法。
これが示すもの:
通常の婚活では:
・「親に紹介できるか」が大きな壁
・年収400万円台(決して高くない)
・イケメンではない
・ヨーロッパ系ではない(日本社会で「好まれる」ハーフではない。外人の中の外人)。
・それでも「親に挨拶したい」と言われた。
なぜか:
人柄、価値観、相性が重視された。
年収が400万→700万円台に上がっても:
状況は改善しない
なぜか:
「見た目」が全てを決める。
「日本人らしい見た目」でないと「異質」。
→これは厳しすぎる気がする。
「どちらの親が外国人?」も同じ発想
「親に紹介できるか」
「周囲にどう説明するか」
日本人女性は社会的な価値観に対する要求(友達、親に紹介できるか等)が世界的にも強い印象がある。
多様性への不慣れ
「異質なもの」への警戒心
→パスポート持っていません。
「どちらの親が外国人?」と聞く人:
私を「属性」で見ている
この質問が出た時点で:
深い関係は築けない
相手も「かなり違う」と感じている
なぜ結婚は難しいのか:
6. 相手も思っている:「私とは、かなり違う」
彼女たちが感じていること:
「親や周囲に説明できない」
私が感じていること:
「この人とは価値観が合わない」
「『どちらの親が?』と聞く時点で無理」
「『属性』で見る人とは生きられない」
結論:
お互いに「違いすぎる」
でもあなたは悪くない
単に世界が違いすぎた
見た目至上主義
「内」と「外」の二分法
グラデーションを認めない
多様性を想定していない
地域による差
東京(都心以外)・その他(観光客が多すぎる一部地域は除く)地方、特に田舎:同質性が高い、属性で判断
なぜ年収400万円台、イケメンでもない、ヨーロッパ系でもないあなたが受け入れられたのか:
「この人と一緒にいたい」という感情
なぜそれが可能だったのか:
多様性への慣れ
これは「特殊」なのか:
私に合う女性:
出自を詮索しない
自然に受け入れてもらえる
外資系勤務
「どちらの親が?」と聞かない人
避けるべき女性:
結婚は難しい
見た目で「外国人」と決めつけている
今回の○○の女性のような層
価値観の違いが大きすぎる
10. 最終的なまとめ
スペックは十分高い
でも「見た目」で判断される
合う人は少ないが、ゼロではない
今後の方向性:
多様性に慣れた層を探す
「どちらの親が?」と聞く人は早めに見切る
数をこなしつつ、質を見極める
大阪南部で「親に挨拶したい」と言われたのは、あなたの人柄が素晴らしいから。
東京で苦戦しているのは、あなた/私の問題ではなく、社会の問題。
「どちらの親が?」と聞く人との結婚が難しいのは当然。
「個人」として見てもらえる
それが真の尊重
合う人は少ないが、必ずいる
セクハラもせず、パワハラもせず、若い人にも敬語を使い、偉ぶらず、コツコツ誠実に生きているが、若い人から嫌われる。
オッサンというカテゴリーに生きているのが許されていないんだ。
オッサンが100人居たら一人くらいは若いやつから好かれるオッサンは居る。
ああ、違う違う違う、君のことではないよ。
忘れてはいけない。
でも、それでいいんだと思うようになった。
悪口もたくさん言った。
なぜなら、その人がオッサンというカテゴリーに所属しているからだ。
そして、それは仕方がないことなんだ。
人から悪く言われるなんて嫌なことだが、
社会から割り振られた役割なんだから、それを黙々とこなしていくしかない。
それに対して異を唱え始めると途端に社会はおかしなことになっていく。
だって、そうだろ?
少子高齢化なんて、おかしな現象は、そういう社会に対する「異」が招いた結果じゃないか。
経済が弱い日本、科学技術で遅れだした日本、魅力ある製品を生み出せなくなった日本。
それらすべてに波及してるじゃないか。
我々だって、「異」を唱えることは出来る。
現にお隣の韓国なんかでは50代の一人客が出禁になる飲み屋とかあるらしい。
でもおかしな話だろ?
これがもしも20代の人だったらどうなる?
たちの悪い20代の客が居たなら、その当事者だけが出禁になるじゃない?
20代の一人客、全部を出禁にはしないだろ?
肌の色が違うからとか、女だから、とか、そういう風にカテゴライズされて差別されてきた人たちと
でもな、俺はそれでいいんだと思う。