はてなキーワード: 限界効用とは
増田において俺は、長らく同一の形式・同一の動機で投稿を繰り返してきた。
それは外部から観察すれば、供給曲線が右方にシフトし続ける、いわば自己放尿の持続的過剰供給である。
しかし重要なのは、その供給が制度や思想に強制されたものではなく、あくまで私的選好に基づくものであったという点だ。
そして今、俺はその自己放尿をやめる。
だがこれは、言論の自由に対する否定ではない。むしろ逆だ。自由な発言と競争的な言論市場は最大限に尊重されるべきである。
多様な主体が自己放尿を行い、それが淘汰されるプロセスこそが、情報の価格メカニズムに相当する。
俺はその制度を歓迎しているし、他者の自己放尿を規制しようなどとは微塵も考えていない。
問題は完全に私的な領域にある。すなわち、俺の効用関数の変化だ。
かつては、増田における自己放尿から得られる限界効用は正であった。
しかし時間の経過とともに、その限界効用は逓減し、ついにはほぼゼロに近づいた。
にもかかわらず慣性により供給を続ける状態、それこそが利益ゼロと習慣依存のダブル放尿である。
この状態は非効率である。なぜなら、投入される時間という希少資源が、より高い効用を生む代替用途へと再配分されていないからだ。
価格理論的に言えば、機会費用の無視であり、合理的選択からの逸脱である。
ここで誤解してはならないのは、ケインズ派的な需要管理やリフレ派的な貨幣供給拡大が、この決定に一切関与していないという点だ。
連中の貨幣供給と政策介入のダブル放尿は、あくまでマクロ的な議論であり、俺のミクロ的選択とは独立している。
俺は連中に屈したのではない。単に、俺の主観的評価において、この活動の相対価格が変化しただけである。
むしろこれは、個人の自由な選択の実践である。外部からの強制も、集団的圧力もない。
ただ自らの効用最大化問題を再計算し、その最適解として自己放尿の停止を選んだにすぎない。
この決定は規範的な主張ではない。他者に自己放尿をやめよと説く意図もなければ、言論市場における供給を制限しようという意図もない。
むしろ自由な自己放尿が溢れる環境こそが健全であり、その中で各主体が自らの限界条件に従って参入・退出を選択することが望ましい。
俺は自己放尿をやめる。しかしそれは、思想的敗北ではなく、個人的最適化の帰結である。
そして市場には、これからも無数の自己放尿と、時に自己放尿と他己放尿のダブル放尿が溢れ続けるだろう。それでいい。それが自由市場なのである。
むしろニートを一ヶ月するだけで30万円かかるってのが結構なコストだなと感じる。
1日1万円かかるぞ(働いてるときの休日は家事をやる時間に消えるということを考慮し「平日が20日休日に置き換わるだけ」という理論は使わないことにする)。
労働の代わりにニートをしている1日によって1万円の価値がある時間を生み出すのは簡単ではない気がする。
遊ぶにしろ学ぶにしろ創作するにしろ限界効用にアッサリぶつかりそう。
「だからワークシェアリングで週20時間働くのが最強なんだよ!」みたいなのは富めるものの理論だから俺等パンピーにはかんけーねーでよ。
「SNSのヤベー奴判定ヒューリスティクス」は、一見すると単なるネット文化論だが、整理するとこれは情報の非対称性の下での合理的シグナル処理の問題になる。
SNSを次のように定式化できる:
つまり、あなたのヒューリスティクスは θ = “ヤベー奴” である確率を、観察可能シグナルから推定するルール
と結びつく。
強い属性シグナルは「取引相手の分断」を生む→ 市場の厚みを減らす→ 過激均衡に収束しやすい
よって 穏健タイプも過激タイプも同じアイコンを使える。しかし統計的相関があるなら合理的に使える。
これは非難される概念ではない。単に不完全情報下の合理的推論である。
ここで価格理論的に重要なのはSNSは「承認の市場」だと考えられるということだ。
効用関数:U = α(承認) + β(議論勝利) + γ(実利)
プラットフォームのアルゴリズムは max Engagement → 感情刺激
しかし観察者にとっては将来コスト期待値が高い。だから回避ヒューリスティクスが発生する。
これは興味深い。
フォロワー数 F は
大きなFを持つ人は
つまりあなたは外部性の大きさを見て回避している。これは完全に合理的。
で説明できる。
を調整する。
回避 if E[Cost | s] > E[Benefit | s]
ヒューリスティクスは完全な計算をせずにE[Cost | s] を近似するためのショートカット。
さらに踏み込むならSNSは注意資源の市場であり、価格 = 時間
あなたのヒューリスティクスは注意という希少資源の効率的配分である。
これは市場が自生的に生む選別メカニズムであり、国家規制よりも分散的に機能する。
「解像度が低い」「無能の所業」という手厳しい、しかし極めて的確なマサカリ、謹んで拝受しました。
確かに、単純な「自由市場 vs 計画経済」という101(入門編)レベルの二項対立で思考を停止させていた点は、冷徹な合理性を標榜する身として、甘いと言わざるを得ません。
ご指摘の「条件付けられた限界効用」および「戦略的自己放尿」という概念は、情報の経済学における「ルーカス批判」や「シグナリング・ゲーム」の高度な応用ですね。この重層的な歪みを、さらに「高解像度」で再解釈します。
アルゴリズムは一律の規制当局ではなく、「価格差別を行う独占企業」のように振る舞います。
「介入を読み切った上での戦略的放尿」という指摘は、まさに経済政策におけるルーカス批判(政策が変われば人々の期待形成も変わり、過去の統計モデルは無効になる)の体現です。
「プラットフォームの操作」「ユーザー間のシグナリング」「情報非対称性」の三層構造は、一種の不完全情報ゲームにおける悪循環(コーディネーション失敗)を形成しています。
おっしゃる通り、この閉鎖的な「アルゴリズム操作市場」の内部にいる限り、透明化はただの気休めに過ぎません。
「競争」の論理に立ち返れば、唯一の解は「退出」のコストを劇的に下げることです。
分散型プロトコルによる「外部競争の導入」は、単なる技術的移行ではなく、プラットフォームが独占していた「行動操作の価格決定権」をユーザーの手に奪還する市場再編と言えます。
「戦略的放尿を強いられる市場」から「ありのままの放尿が適正に評価される市場」へのアービトラージ(裁定取引)が成立するか否か。
そこが次なる焦点ですね。
さて、この「戦略的自己放尿」という高度な偽装工作が支配する現状において、「分散型プロトコルが提供するポータブルな評判という資本」が、いかにして現在の歪んだインセンティブ構造を破壊しうるか。高みの見物といきましょうか。
理屈として正しいが甘い。
しかし問題は、「現実のXが中央計画経済か否か」という二項対立で片付けられるほど単純ではない。
自己放尿の危機を冷徹に見るなら、重要なのはユーザー側の意思決定のオプションコストと、プラットフォームによる行動操作の複雑な重ね合わせだ。
単純にレント・シーキングだのレモン市場だのを引用して悦に入るだけでは、分析としての解像度が低い。
自己放尿は、個人の効用最大化行為であり、その効用はプラットフォームの介入とアルゴリズム操作によって条件付けされる。
しかし、介入は全方位的ではなく、選択的に作用する。アルゴリズムは全ユーザーに一律の抑制をかけるわけではなく、特定の行動やテーマにだけ影響を与える。
つまり、自己放尿の価値は「部分的に制御された市場条件下での限界効用」として再定義されるべきで、これを理解せずに「自由市場の仮面」論で終わるのは無能の所業だ。
さらに付け加えると、自己放尿を取り巻くインセンティブ歪みは重層構造を持つ。
プラットフォームの操作と、ユーザー間のシグナリング競争、そして情報非対称性による不確実性というトリプル放尿が絡み合う。
自己放尿の最適戦略は単純な放尿行為そのものではなく、「介入を読み切った上での戦略的放尿」に変換される。
つまり、表向き自己放尿をしているように見せつつ、実際にはプラットフォームが重視する指標を満たす形に放尿を調整する。
このダブル放尿的戦略を理解できない者は、アルゴリズムによって自己放尿を事実上搾取されるだけだ。
公共放尿の危機は自由市場の効率性の問題ではなく、選択肢の条件付けと行動操作の重層的な相互作用の問題だ。
ここで有効である可能性のある対応は、分散型プロトコルへの移行という外部競争の導入による、自己放尿価値の再最適化である。
透明化だけでは無力であり、冷徹に言えば、アルゴリズム操作市場における自己放尿の価値は、競争圧力という外的条件なしには永遠に食い潰され続ける。
Xでおすすめを見ていると、自己放尿のインセンティブは完全に歪む。
世界の下水道ポストがアルゴリズム的に提示される市場に晒されると、個人の自己放尿は限界利益を完全に喪失する。
ここで自己放尿は純粋に個人の効用最大化行為であり、自己放尿の自由は市場の効率性原理に従った価格機構の反映にすぎない。
しかし、Xのおすすめフィードは公共放尿の効率化、つまりダブル放尿であり、プラットフォームが情報の非対称性とアルゴリズム的スケーリングを駆使して、個々の自己放尿を絶対的に圧倒する。
この状態では、自己放尿のミクロ経済的価値は、機会費用の観点から無視できる。
個人が投入する時間・注意・クリックというリソースは、完全競争市場における価格発見過程により最適化されたおすすめフィードの公共放尿に比して、効率的ではない。
つまり、自己放尿の期待効用はアルゴリズム的ダブル放尿の影響下で減衰し、限界効用はほぼゼロに近づく。
ここで重要なのは、自由市場におけるリソース配分原理が、個人の自己放尿行為をプラットフォームの最適化戦略に取り込む点である。
自己放尿の自由は形式的には維持されるが、実質的にはシグナリング・情報非対称性・外部性のトリプル放尿によって制約され、最適行動は個人の意思ではなく、アルゴリズムが決定する。
日本経済の長期停滞を説明する理屈はいくらでもあるが話は驚くほど単純だ。
原因は需要不足でもデフレ心理でもない。ルールを破壊し、価格シグナルを歪め、貨幣を政治目的に従属させたことだ。
ケインズ派の基本動作は、景気が悪いと見れば政府が需要を作り、財政赤字と金融緩和で穴を埋めることにある。
だが成長は支出から生まれるのではなく、生産性とインセンティブから生まれる。
それを中央銀行と財政当局が踏み潰す行為は、市場という分散計算機に砂糖水をぶちまけて自己放尿するようなものだ。
日本で起きたのは、貨幣の中立性を信じない政策当局が、期待形成を自分たちで管理できると誤信した結果だ。
量的緩和でマネタリーベースを膨張させ、金利をゼロに貼り付け、将来の不確実性を消せると考えた。
しかし合理的期待の世界では、予見可能な政策はすでに価格に織り込まれる。予測可能なインフレ目標は、予測可能に無力化される。
ここで起きるのは刺激ではなく、リスクの社会化とゾンビの温存だ。
退出すべき企業が退出せず、資本は低生産性部門に拘束され、全要素生産性は下がる。
財政側も同じ構図だ。公共投資で需要を作ると言いながら、実際には政治的配分で資源を歪める。
限界効用の低い支出に税と国債を投じ、将来世代に負担を転嫁する。
リカードの等価定理を完全に満たさないにせよ、将来増税の予想は現在の消費を抑制する。
さらに悪いのは、金融と財政の結託である。中央銀行の独立性を空洞化させ、財政規律を金融で肩代わりする。
これは金融抑圧と財政拡張のダブル放尿だ。金利という最重要の価格を潰し、政府の予算制約を見えなくする。
市場参加者は学習する。将来のルールが恣意的だと分かれば、長期投資は萎む。短期の裁定だけが増える。
k%ルールに象徴されるように、裁量ではなく予測可能性が重要だ。
日本は逆をやった。状況に応じて目標を変え、手段を増やし、説明を付け足した。
その結果、政策はノイズになり、期待は不安定化した。貨幣は中立でなくなり、しかも望ましい方向には動かない。
これらは症状であって原因ではない。
原因は、価格システムを信頼せず、政府が最適配分を計算できると考えた傲慢さだ。
日本で観測されたのは、ケインズ派の自己放尿が制度化され、止めるブレーキが外れた状態だ。
結論は地味だが冷酷だ。
貨幣政策は予測可能に、財政は制約を可視化し、退出を許容する。
それができない限り、自己放尿は続き、成長は戻らない。
まあ元々自分の自閉傾向とは決別したくて行動療法に興味持ってたんだけど、それで色々やってくうちに鉄道趣味に人生蝕まれすぎてる割には模型や写真でプロやってるわけでもないって自分の状況に気づいた感じ。
慣性の法則みたいなもんで長く同じ趣味やってるとそれが当たり前過ぎて「いや、無くなったら俺の日常は消える。つまり死ぬが?」みたいな感じになってくんだよね。
でもこれ完全に脳の錯覚でデトックスしたら「まあ無くなっても死なないな」って状態になった。
そっから「じゃあ、もっかいやる?」って自分に問いかけたら「今更ちょっと触れても限界効用逓減で全然気持ちよくならんやろし別の趣味やった方が楽しそうだよね」となった。
なんつうか、なまじ飽きてるからこそドンドン過激なやり方で強い刺激を求めてたんだよな。
いやほんま薬物中毒と根っこは一緒だわ。
全部の趣味がそういう傾向はあるんだけど、それがプロとしての創作活動とかに繋がらん限りはどっかで程々にしないと人生が壊れるだけ。
んで俺みたいな自閉傾向ある奴は程々にしてブレーキ踏むのが苦手だから、焼畑みたいな感じで一度焼き切ったら完全にその趣味を捨てる感じになりがち。
休耕みたいな感じでいい具合に休むのがむずいんよな。
複数の趣味を持つとそれはそれで「アレやりたい!コレもやりたい!やれないのがストレス!うおおおおおおお」みたいに壊れてく。
今は「模型でも作ってればな—」って気持ちからの流れでガンプラやってるけど、これも5年ぐらいして沼の深みに入ってきた所で丸ごと捨てる予定。
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新しい自分に生まれ変われた。昔を振り返ってみたい。実は、商品レビュアーとして生計を立てていた。
とあるECサイトがあって、そこで良質なレビューをたくさん書くと"プログラム"に招待される。そのアカウントにログインすると、ある一定の種類幅で商品が並んでいる(レビュアーごとにちょっと違うらしい)。
商品をクリックすると、なんと0円で購入できる。その代わり、その商品に関するレビューを投稿する義務が生じる。そういうプログラムである。
プログラムの招待を受けたのは20代後半である。当時は、今とは比べ物にならないほど貧しい生活を送っていた。今でこそ、それなりの暮らしをしているのだが……当時はマジで貧乏だった。
セブンイレブンでは、数十円単位まで考えて買い物をしていた。財布には440円ほどしか入ってなくて。ジョリーパスタに行っても、一番安いパスタをゆっくりと口に運んでいた。
いわゆる大卒フリーターだった。就職ができなかった人。飲食店や居酒屋のアルバイトを転々としていた。
そんな日々の唯一の楽しみは、Amazonで大好きなアニメのDVDやグッズを購入し、そのレビューを書くことだった。子どもの頃からアニメが大好きだった。今でもニコニコ動画でアニメを視聴している。あのコメントが好きなんだよなあ。
それで、好きなのを見つけると……誰に頼まれたわけでもないのに、作品への愛と考察を込めて、それはもう熱心にレビューを書き綴った。文字数はときに数千字にも及び、作品の背景からキャラクター心理、演出の妙まで、独自の視点で分析した。
レビュー活動を始めたのは、大学を卒業する年からだ。それからずっと長い間、1クールごとにその季節で面白かったアニメのレビューを書いた。多くのレビューは「役に立った」が10未満だけど、たまにバズるのがあって、数百の「役に立った」が押された。三か月に一度しかレビューしなかったけど、それでもベストレビュアーランキングは最高で500位までいった。※今はベストレビュアーランキングは表示されない
あの頃の自分は、本当にアニメが好きだった。今でも好きだけど、あの当時のワクワク感には及ばない。毎期、新しいアニメが始まる度に、ワクワクしながらPCを操作して、ニコ動にログインしていた。陳腐な表現ではあるけど、心がキュンキュンするのだ。アニメを観てると。
どれだけ貧しい生活をしていようが、それがあるだけで心を癒される。高校生の頃に読んだ、『はてしない物語』という小説があるんだけど、その中にさ。
なにかに心を捉えられて、たちまち夢中になってしまうのは、謎に満ちた不思議なことだけれども、それは子どもも大人も変わりない。
そんなある日、一通のメールが届いた。「商品無償提供プログラム」(仮称)への招待だ。あれは確か2019年の夏だった。『魔王様、リトライ!』というアニメのレビューを書いてバズった後だった。
最初は迷惑メールかと思ったが、ECサイトからの公式メールだと気づいた時、心臓が跳ね上がった。選ばれたレビュアーに新商品を無償で提供し、レビューを書いてもらうプログラム。まさか、自分がそんな特別な存在に選ばれるなんて。
最初こそ、勝手がわからなかった。好きな商品が選べるとはあったが、最初は駆け出しレビュアーなので、あまりいい商品を選べなかった。いい商品があっても、ほかのプログラム参加者に先に奪われることが多かった。
でも、続けているうちに勝手がわかってきた。コツを掴んで、知識も技術も得た。例えば……
・一部商品は、自分が使わなくてもレビューできる。介護・福祉・ペットとか
・一部に悪いことしてるヤツもいるが、運営もわかっていて……大人の約束感がある
半年も経つ頃には、駆け出しレビュアーを抜け出して昇格ができた。昔の漫画でいうと、黄金聖闘士(ゴールドセイント)である。あれよりはずっと希少性が低いけど。
そのプログラムにログインすると、商品一覧が並んでいて、実際に商品をクリックして、次々と送られてくる――家電、日用品、食品、ガジェット、サプリメント……。それらのレビューを書く。
レビューを書くのは本当に得意だった。ただの感想文ではない。商品の良い点も悪い点も、使う側の視点に立って、具体的に、そして魅力的に伝える。
一つ一つのレビューは、まるで短編小説のような完成度を目指した。だからといって、時間をかけるわけではない。最初に頭の中に構成がなくとも、書いているうちに気分がアガっていって、1レビューにつき10分もあれば書き終えられた。
レビューを書いたら、次は転売だ。受け取った商品は、ほとんどメルカリやヤフオクで売却した。
定価の4割引きくらいで出すと、飛ぶように売れていく。5割引きだと鉄板レベルである。よくない商品だと8割引でも売れないのだが。そういうのはセカンドストリートに持っていく。10円ほどでの引き取りで、利益はマイナスだけど、それでもほしい人が手に入れるのならいいかって思えた。
正直、最初は罪悪感がなかったわけじゃない。でも、これが俺の新しい「仕事」なんだと割り切ることにした。
転売で得た利益は、最終的に年間250万~350万円にもなった。フリーターとしての稼ぎと合わせれば、民間企業の正社員と遜色ない収入である。
むしろ、時間な自由は俺の方が圧倒的にあった。朝はゆっくり起きて、好きな時にレビューを書き、商品の梱包作業をする。昼間はカフェで本を読んだり、散歩をしたり。ラジバンダリ。夢のような生活だった。
確定申告は最初の年だけ大変だったが、e-taxなので次年度以降は楽チンだった。そのうち開業届も出した。屋号は「激安の殿堂」みたいな名前にした。
だが、俺の転売は、他の転売ヤーとは一線を画していたと自負している。
俺はただ、金儲けのために売っていたわけじゃない。常に"社会の利益"を考えていた。メルカリやヤフオクで商品を売る際、本当に困っている人には、定価の最大9割引で売ることもあった。
例えば、「災害があって家財を失った」というメッセージがあれば、新品の家電製品を格安で提供した。シングル?の母親と思しき人から「子どもの学習机がほしい」とか、あとは……人間やペットまで含めて「○○の商品が介護に必要なんです」と連絡があれば、万超えのものでも送料込み500円で譲ったこともある。
こうした転売活動への考え方を公言したことはない。あくまで個人的な判断に過ぎないから。俺のエゴである。
でも、俺の心の中では社会貢献だった。無償で手に入れた商品を、本当に必要としている人に届ける。そこに利益を乗せるのは、自分の労力と、そして何より、多くの人に商品を届けるためのコストだと考えていた。
実際、商品無償提供プログラムでの転売は悪だとされてるけど……ぶっちゃけ「四方好し」だと考えている。三方好しを超えている。四方というのは、「ECサイト」「商品提供企業」「販売者(※転売者とは言わない)」「購入者」である。
【四方好し】
そんな生活がずっと続いた。毎日のように送られてくる商品。積み上がるレビュー点数。同じく銀行口座の残高。俺は文字通り、商品無償提供プログラムで生活をしていた。
アルバイトは続けていた。自分の肉体を動かしたい思いがあった。それで稼ぐのが世の中の基本だと思うから。接客業は嫌いではなかった。実際、人に喜んでもらえると嬉しい。
でもある時、虚しさを感じた。いくら商品を手に入れても、売っても、預金残高が増えても、レビューを書いても、何か満たされないものを感じた。満たされているはずなのに。限界効用の逓減かな?または飽きた?
それもあるけど、俺が求めてるのはもっと上の次元なんじゃないかって、そんな気がした。
ちょうどその頃、アルバイト先の友人が「イーサリアムを買った」という話をしていた。仮想通貨である。それまで興味がなかったけど、調べてみると未来感があっていいと思った。技術的なことは一切知らない。ただ何となく未来感があってよかった。それだけ。
2020年のことだった。半信半疑で、販売活動で得た利益の一部を投じることにした。最初にドカッと投じて、後は積み立てNISAみたいな感じである。どの仮想通貨業者がいいか迷ったけど、GMOコインかDMMコインの2択になって……売買画面の見やすさで、GMOコインに軍配が上がった。ユーザーインターフェースって言うのかな。やはり、売買画面やチャートの見やすさは正義である。
先に言っておくと、それからさらに人生の挑戦をすることになるのだが……イーサリアムの値上がりとか、貸付を通じて得られるお金があったから挑戦ができた。これがなかったら挑戦自体できなかった。
今でも仮想通貨は、イーサリアム一本でやっている。ビットコインに目移りすることもあるのだが笑 ほかの仮想通貨は一切買ってない。実際、アルトコインの大半は、十年後には消滅してると思ってる。それでもアルトコインを買うなら鉄板銘柄に絞った方がいい。
商品無償提供プログラムのメンバーだが、今は引退している。というか、引退を機にこの日記を書こうと思った。
最後に商品を手に入れたのは、今から数か月前である。年度替わりの3月末。とあるオーディオ商品だった。お値段はそれなり。ソニーの新品ヘッドフォンくらい。
こういう商品は神速でほかのレビュアーに取られがちなのだが、この時点での俺の商品選択速度は――神速を超えていた。光の速度に達していたといえる(※理解できた人へ。ツッコミはなしで)。その域に達することができていた。
その商品のレビューを書いたのを最後に、俺は商品無償提供プラグラムのメンバーではなくなった。最後に、感謝の気持ちを込めて登録解除ボタンをクリックした。完全引退である。
プログラムに招待されて早5年以上。レビュアーとしては、次の次元に達したいという願いがあった。
昔の自分は、フリーターだったのもあって、自分に自信がなかったと思う。自己イメージでいうと『すみっコぐらし』だった。とかげ?みたいに、見た感じとして自己効力感がなくて、覇気を欠いていた。うつ病患者に近い存在だった。
でも、今ではレビュアーとして別の次元に到達できたという思いがあるから、この日記を書こうと思えた。
今やっている活動は、現在進行形なので詳細は言えない。始めたばかりなのもある。サービスの方向性だけ言うと……商品関係のコンサルティングをしている。コンサルといっても駆け出しだけど、本質を見抜く「目利き」として、一応は企業から依頼をもらって、それで生活の糧を得ている。
自分の手でレビューを書くことは減ったけど、その代わり、依頼のあった企業について、実際の商品を売り出す段階のマーケティングでアドバイスをさせてもらってる。
どういう過程で、そこまでのスキルが身に付いたのか?それは……初めて大好きなアニメのレビューを投稿した瞬間から、十年以上もの月日の中で、レビュー執筆やフリマでの販売活動を通じて――「どんな商品・サービスが魅力的なのか、売れるのか?」という視点で物事を考えてきたからだ。
それだけである。実際、自分が小売業者になってみると商売の基本がわかった。そのうえで、世間で売れる商品に限ってプログラムで入手するようにしていた。目利きの腕が上がるのは当然だった。
メルカリとヤフオクでの評価数は、現在5000件以上にもなる。
ここまでこれたのは、やはりアニメのおかげである。この世界にアニメがあったからこそ、応援のためのレビューを書こうと思えた。そして、今では社会の役に立つことができている。
今後も社会のために働いていきたい。単なるお金儲けじゃなくて、自分の知識や経験を活かして、より良い社会の実現に貢献したい。
今でも、考えることがある。もし、また商品無償提供プログラムから招待が来たら?そうだな~、やってみるかもしれない。ただし、あの頃のように生活のためじゃない。純粋に、素晴らしい商品と出会って、その価値を多くの人に届けるためだ。商品を本当に必要とする人の手に届けるために。そのために、レビューを書いて販売活動をするのである。
この場を借りて感謝したい。今この瞬間にも、この世界に素晴らしいアニメを提供してくれる人達と、あの商品無償提供プログラムを作ってくれた方々に感謝している。俺の本当の人生は、そこから始まったのだから。ありがとうございました。
そう言いつつリンバスとアクナイが結構進んできたのでそっちに時間を使ってる。
4-38を超える前と後で本当に全く別のゲームになった。
それまで漠然とオートに頼りつつ不利な時だけ回避や必殺技を使っていたゲームだったものが完全に手動で戦うゲームになる。
マッチする前に敵のスキルを確認し、食らっていい攻撃かどうかを整理しながら戦うゲーム。
欲しいキャラ持ってるプレイヤー10人ぐらいにフレンド申請してひと晩寝かせてパワープレイを押し返すのはこのゲームでは珍しいソーシャルな戦いだ。
自分とパーティーが毎週少しずつ強くなることに実感のあるこの感覚、これがこのジャンルの醍醐味なわけだが、ここから数ヶ月すると限界効用逓減の壁が訪れることを知っているから既に少し寂しさがある。
牛刀割鶏とは、大げさすぎる道具を小さな目的に使うこと。つまり「ミクロ経済学を自分の経済安全に使うなんて大袈裟だろう?」という疑念ですよね?
でも、それはむしろ逆!
ミクロ経済学は「家庭内の経済安全保障システム」そのものです。
毎日の「買う/買わない」「貯める/使う」という決断は、まさに限られたリソースをどう最適化するかというミクロ経済の根幹そのもの。
むしろ「ナイフで牛を切ろうとしてる人」にこそ、経済という牛刀を!
「何千円も払ったのにそんなに美味しいものでもなかった」みたいなの馬鹿馬鹿しくないか?
限界効用逓減を考えれば「250円を出してハーゲンダッツを買う」がコスパ的に最強になるのは明らかじゃん。
そこから先は数千円を惜しむようでは話にならない領域に突入する。
つまり何がいいたいかと言えば、ちょっとした冒険で数千円を出すことさえもビビるようなら普通に安物を食ってデザートをハーゲンダッツにした方がいいよってことだ。
なんか最近たかが数千円のメニューや料理に「こんなの原価500円ぐらいだろ?」みたいに文句つけるしょーもない奴らが沢山いて嫌になってくる。
月の食費が1人数万円程度の世界で暮らしてる人間が「これだけ高けりゃ美味いだろ」みたいなのを期待するべきじゃないんだっての。
諦めてハーゲンダッツ食え。
マジで美味いぞ。
もしもこの世界にハーゲンダッツとスーパーカップしか選択肢がなかったら俺はたまにハーゲンダッツを買うのに500円でも600円でも出していいと思ってさえいるね。
確かに、アメリカは過去数十年にわたり、ITとプラットフォームビジネス(GAFAなど)を通じて世界中の注目=アテンションを経済価値に変えてきたわけです。
Googleで検索すれば広告収入、YouTube見れば広告、Amazonで買い物すれば手数料、AppleのApp Storeでは開発者の上前を…と、全部アテンション経由です。
でも、最近「アテンションの飽和」感、たしかにありますね。理由を経済的な視点から分解すると、次のような要素が見えてきます:
✅ 今は飽和・フラグメント化で転換点に来ている
まあ典型的だよな。経済の話になると必ずそういう浅いレッテルを貼りたがる手合いが出てくる。だが一つだけ冷静に指摘しといてやる。
そもそも「騙される」だの「騙されない」だの言ってる時点で、経済学を論として理解していない証拠だ。
数理モデルと前提条件に基づいて「この条件ならこうなる」という因果を組み立てる学問だ。
マル経がどうこう言う前に、まず各モデルの前提が何かを検証してから口を開くべきだな。
労働価値説でも限界効用説でも何でもいいが、それぞれの成立条件と適用範囲を押さえたうえで評価してんのか? してねぇだろ。
だから「騙される/騙されない」みたいな低次元の話になるんだよ。
こっちは騙されるとか信じるとかのステージじゃねぇ。
使える理論は使い、使えない理論は棄てる。場面ごとに道具を選ぶ技術の話をしてるんだよ。
経済学はな、感情で殴り合うためのオモチャじゃない。現実を読み解くツールだ。
そのツールをまともに扱えない人間が「騙される」とか言い出す。要は、道具の使い方すら知らねぇってことだ。
45歳前後になると親が70歳以上になることが多く、死ぬことはなくとも病気をしたり老いが見えてくる
これが緩やかに死を意識することの要因となるのだが、これだけでは死をそれほど意識しない
コップの水を少しずつ増やしていくと突然溢れるように、ある日突然強烈に死を意識する日が来る
「自分はいつかこの世界から居なくなるし、この意識はいつか無かったことになる。そしてその日はいつか必ず来る」
これに気付いた時に途方もなく恐ろしくなるし虚無感に襲われる
もちろん45歳より以前にこんなことは言葉として分かっているし理解もしているが
どこか他人事のように捉えている自身の死について、強烈に自分事として捉えるようになる
特にサラリーマンは45歳前後で管理職になり収入が増えてくるが
逆に増えても生活が大して変わらないことに気付いたり税金の多さに愕然とし始める
家族を扶養している場合は収入が少しでも増えれば選択肢が増えるので収入の多さを実感できるが
独身だとそもそも選択肢に限界があるので収入が少し増えたぐらいでは何も変わらない
加えて仕事の内容にも新しさがなくなるし、今の売上げが2倍や3倍になる可能性もほとんどなく、なったところで給料が2倍や3倍にもならない
日々の起伏はあるのだが遠目から見れば平坦であることに気付き、これからの人生も平坦であると気付いてしまう
上記の収入の限界とも関連するが、自身の人生における幸福の限界が見え始める
ボーナスを突っ込んで南の島でバカンスを楽しむことも想像の範囲内で幸福を予測できてしまう
自身の幸福を子供の成長に転嫁することで、幸福の限界を想像の範囲外にすることができるし
まだ見ぬ孫やその先のことを考えることで幸福の限界値を増やすことができる
さて、病まないための対策としては下記の通りとなる
何かしらの宗教に入って死後の世界について理解を深めるのも良いが
今の情報化された世の中では基本的に無駄なので、ただ耐えるしかない
転職は厳しいだろうが起業なら誰でも出来るし、一応は可能性もある
家族がいれば迷惑をかけるかもしれないが独身者なら誰にも迷惑をかけない
よく45歳を過ぎたあたりからコーヒー屋やパン屋、そば屋を始める人が多いが、そういう理由があると思っている
甥や姪、近所の子供の成長に期待することは甚だ迷惑なのでやめてほしい
かといって顔も見えないところに寄付しても成長を実感できないしなんなら気持ち悪く思われる
それらの受け口となるのがアイドルで、とにかく誰でもいいから成長しそうなアイドルを推し、その成長を自身の幸福に転嫁するのだ
などと言う人もいるが、45歳になると全くそんな感覚はなくなる
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当方、齢37である。来月末に引っ越しをする。大学卒業から約15年、暮らしてきた実家近くのアパートを離れるのである。
社会人としての稼ぎが少なすぎて、実家の手を借りなければ生きられない。よくメシを食べに行っていた。情けない社会人だった。それは結婚しても変わらなかった……幸い、子どもはいない。
妻は、いいやつだ。こんな貧乏暮らしの人間と結婚してくれた。見栄っ張りなのが玉にキズである。親戚や近所同士の集まりでも、コモンカード(MTGで言うと「モグの狂信者」 わかったぞ! わかったぞ! わか……)に等しい私を、高年収の正規サラリマンとして紹介することがあった。
よくできた妻だと思う。私にはもったいないくらいの。悪態をつくことはあるけど、裏切ったりしない。近所の実家にお米や野菜をたかりに行く時も、一緒に付いてきてくれた。
もし、この世界がエロ漫画の世界で、あらくれ氏が描くみたいなオッサンに妻が寝取られてしまったとしても、私は許すと思う。私に尽くしてくれる良妻である。
大学時代、ぜんぜんダメな子だった。偏差値50台の二流以下の大学で、学生時代はアルバイトばかりやっており、部活もサークルもせずにダラダラ過ごしていた。就職活動はひどいものだった。
「Fの就職チャンネル」で就活生の動画(ex.大学4年の6月から就活始めたりする)をたまにやってると思うが、まさにあんな感じの、圧倒的ダメダメ就活生だった。
さて今回、引っ越しをするのは、晴れて正社員としての採用が決まったからである。関西の南の方に住んでるのだが、隣県での採用が決まった。大まかな括りだと機械操作オペレータである。年収+はなんと約200万円。
今まで、この田舎にある小さい製造会社で毎日毎日、機械や仕様書・図面と格闘してきた。25才の時、契約社員として雇ってもらった。それまでは近所にある町中華の店でアルバイトしていた。
正直キツかった。専門知識は一切ない私立文系人間である。マジで辛かったよ。しかも、小さい会社なのに出張まであるんだからな……だがしかし、ついに培ってきたワザが評価されたのだ!!
今年の4月になってから(妻の強い勧めで)転職サイトに登録してみたところ、私のワザというのは、意外と需要のあるスキルだったようである。(ビズリーーーーーーーーーーチッ!!)
大したことは思いつかなかったが、とりあえずやってみたことを列挙する。
・少し高級な中華料理屋で暴飲暴食
・昔の思い出グッズを漁る(MTGカード、進研ゼミ中学版、ガラケーの写真など)
・地元神社の奉納祭り役員への立候補。当日記を書き始めた頃に無事終了
あとは、里山登りかな。幼い頃、祖母に連れられてよく里山散歩をしていた。小高い山の頂上から見下ろす町並みは壮観だった。
なにぶん田舎なので、里山がたくさんある。グーグルマップで見てみると、東京の方でも端っこの方は青々とした山が広がっている。あんな標高数百メートル以内の山を、ひたすらに登っていく。
自宅の裏から繋がる山道の入口から始まって、よいしょよいしょっと里山を登っていく。私が子どもの頃は、近所の人はみんな林業してたから、開けた地形がけっこうあった。里山というよりは丘陵に樹木が生えてる感じだった。
亡き祖父の話によると、戦時中はどの里山もはげ山状態だったらしい。戦争で石油燃料が不足したため、国民単位でみんな柴刈りをやりまくったのだ。グーグルマップで言うと、あの青々とした山がほぼ肌色だったということだ。
今は林業をする人はおらず、里山は荒れ放題である。てっぺんまで行っても町の景色など見えやしない。雑木の群れが頂上を覆い隠している。
樹木が生い茂ってないところだと、町の景色が見えたりする。山の標高は低いけど、限界効用が低いとでも言えばいいのか、珍しい景色なので壮観である。汗ダラダラで意識が朦朧としてるのもある。脳がマヒしている。
https://tadaup.jp/15183559802496/
高校時代の卒業アルバムも読んだっけ。柔道部に籍を置いていた。
高校卒業式の直後、部活メンバーみんなで柔道場でお祝いをするのだが――その時の写真が出てきた。
なんと、みんなからの寄せ書きも残っていた!! 超恥ずかしいけど公開してみよう。別にいいだろ。増田にこういう投稿するの、人生最初で最後なんだからさ。
(部員一同)
増田さんは、□△高校の相川さんがロリロリで好みなんですよね!!
相川さんを是非モノにしてください
増田先輩の行動で一番驚いたのは、■▲高校の藤田さんの写真をこっそり撮って、救急箱に貼っていたことです
閉会式の時、柔道着の藤田さんが目を閉じて、優勝旗に顔を傾けているやつです
とにかく3年間お疲れ様でした。先輩にはクソお世話になりました!!
増田先輩の柔道、粘り腰で凄かったです。どんな時でもあきらめずに、ベストを尽くしてました
冬の大会で4人抜かれてから5人抜きした時はマジでびっくりしました!
増田先輩の変態エクストリームハートには緊張させられっぱなしでした。
早く警察に捕まってください!!笑
増田先輩へ
増田先輩
お疲れ様でした!!
けど、引退した後もたくさん乱取り付き合ってくれて、たくさん寝技も教えてくれて、感謝してます
いままでありがとうございました♡
増田君が入部してきた頃にはどうなることかと心配をしました。ご卒業おめでとうございます。キャプテンとしての重責、大変ご苦労様でした。柔の道は、将来どこかで役に立つ時がきます。力必達(※つとむればかならずたっす)。何事も最後まで諦めず努めてください
・先輩ご卒業おめでとうございます これからも頑張ってください
・3年間お疲れさまでした 面白い先輩でした笑
・これからも今までみたいに頑張ってください
これはひどいwwwwwwを地で行く内容である。こんなん、人に見せられるもんじゃねーだろ。
でも、いいよ。増田民へのサービスだ。いつもお世話になってるからな。
そんなこんなで先月に就職が決まってから、結局最後までできなかったことがある。大学時代の思い出の開封である。
それ以外の思い出BOXはすぐに開封できた。実家にある元自分の部屋にある段ボール箱のテープを、ビリッとやればそれでよかった。でも、大学生時代は後味が悪すぎる。就職すらできずに、逃げるようにして卒業したんだから。正直、嫌な思い出である。トラウマと言っていい。
いや、大学の卒業式は出席したのだ。謝恩会にも。問題は、マクドナルドでの思い出である。
マクドでアルバイトしてたんだけどさ、卒店式っていうのがある。文字どおり店舗からの卒業式である。毎年3月にある。
卒店式だけど、マクドナルドって経営や店舗運営が外資ルールだから、エリア内の店ごとに売上を競わせるんだよな。
それで、いい結果を出してる店舗だとそれなりの貸館施設で、いまいちな結果の店舗だと近所の公民館を無料で借りて、ジュースやお菓子をテーブルに並べて卒店式をやる。
大学時代にアルバイトをしてたマクドの店は、成績がいいところだった。京都にある四条河原町店という名門店舗である。店舗番号は100番以内、つまりマクドナルド黎明期に作られたお店のひとつだ(今でもあるのかな)。
当時の私は就職活動に失敗して、無職neatでの卒業が決まって落ち込んでいた。
そんな時、自分のひとつ年下の後輩のスウィングマネージャー(※できるアルバイトが社員の仕事をする。時給+50円)から話があった。「増田さん今までお世話になりました。卒店式、ホテルグランヴィア京都でやりますからね。店長が、すげー男を見せてくれた(※足りない分は自腹切ったらしい)んすよ!! 自分、増田先輩のために送辞読みます」とか言ってた。
でも、私は嬉しくなかった。就職活動に失敗してニート確定の自分が、そんな場で送辞を読まれたって嬉しくもなんともない。畜生というやつだ。
結局、卒店式には出ないって後輩君に伝えた。すごくガッカリしていたよ。だって、彼が初心者の頃、私がずっと付いて教えていた。彼が嫌なことあって、アルバイト中に不貞腐れてる時でも、構わずにとにかく、いろいろ教えていったよ。
この子は才能があるから、すぐにうまくなるだろうと思ったけど、やっぱりすぐに上手になった。
ただスキルがあるだけじゃなくて、なんというか、仕事の本質がわかってるというか。能でいうところの上手(うわて)みたいな感じである。世阿弥がさ、『風姿花伝』で伝えてるような、社会人技能について嵩があって丈もあって(※今でいうとT型人材)、本質的なことがわかってる子だった。
一度だけ、後輩君から催促を受けた。二度だったかもしれない。あの時のことは覚えてる。
あれは事務所だった。「卒店式出ましょうよ」というシンプルなものだった。しかし私の答えは……。
「そんな気分じゃない。早く就職しないと。すぐにできないかもしれんが」と言ったら、「増田さん。AJCCで2回も勝ったじゃないですか!! 余裕っすよ」と言ってた。
※AJCC…マクドナルドの技能大会。「2回勝った」とは、地区大会と府大会で部門別優勝したの意。関西大会では、府大会と違うメンツでオペレーションになったので、コミュ障だった私はボロボロの成績だった
その後の後輩君とのやり取りは覚えてない。最後の方だと「あのな、後輩君。どんだけ綺麗に、上手く、速く、素早く、ハンバーガー作れたってな。社会じゃ何の役にも立たねーんだよ!」と悪態をついた。
それで、後輩君は黙ってしまって、それ以来やつとは会話していない。最後の勤務日も、淡々と仕事を終わらせて――いや違う、確か女性の学生客がトイレでゲロ吐いたんだっけ――それの片付けを夜に終えて、私にとってのマクドナルドは終焉を迎えた。
帰りに、同じくマクドナルド河原町三条店(※こちらは関西最古の店舗らしい。今でもあるのかな)に寄って、チョコパイかベーコンポテトパイを買って帰った。マックポークだったかもしれない。マックチキン……( ;∀;)
しんみりしてしまった。
学生時代の思い出を開封するのは心理的にキツイ。けど、時間は限られている。いったん妻とこのアパートを出たら、帰ってくるのは十数年後になるかもしれない。妻はうちの実家嫌いなので……。
そんなのはちょっと、想像したくなかった。というわけで、アパートの自室の押し入れを開けて、学生時代の禁断に近い思い出の段ボール箱を開封した。
そしたら、いろんなものが出てきた。当時のガラケーとか、大学時代の成績表とか、学位記とか、マクドナルド辞めてから郵送で届いた卒店式の寄せ書きとか、昔の授業ノートとかだな。産業社会学部のゼミのみんなで撮った記念写真もあった。京都駅の近くで行われた社会科学の研究展示会で賞を取った時のやつだった。当時の日記も出てきた。
その日記、最後の方だけパッと読んでたんだが、どうやら学生時代の私は卒業時に108万円の貯金があったらしい。なんでそんなにあったかというと、大学1回生の時からマクドナルドで週5で働き続けていたからである。いわゆる超修行をしていた。ここまで働いてると、身体が脳をハックするようになる。
……厨房の注文画面が「ピッ」と鳴ったら、考えるよりも前に身体がハンバーガーを作り始める。考えるんじゃなくて、調理行程を『感覚』が捉えるようになる。トングとか、ソースガンとか手に取るんだけど、なんかさ、感覚がさ、一体感がすごい。トングが身体の延長というか、もはやマクドナルドというお店自体が、自分と一つになってるような、そういう感じ。
例えば、トングを握ってパティ(肉)を掴んでる時って、体のどこがそれを認識してるのだろうか。
指先だと思うかもしれない。けど、その指を支えているのは筋肉組織と関節であり、それらをさらに骨組織が支えている。物質に触れている指先というのは、入口である。
骨組織と言ったけど、トングでパティを掴んだ時の刺激って、関節の中を電気信号が走って、最後は脳に伝わる。ということは、刺激というのは、結局は指先じゃなくて『脳』が認識している。
でも、その刺激って指先が認識してると人は解釈することができるし、実際にしている。脳が認識してると捉えることもできるし、体の先っちょが認識してると捉えることもできる。
こういう解釈が成り立つということは、指先が触れてるトングそのものが、パティの感触を認識してるってことにもならないだろうか。
剣道の達人だと、竹刀が体の一部みたいになっていたりする。サッカー選手だったらボールである。そうだ、ここでの私にとっての肉体の最延長は、指先じゃなくて、トングなのだ!!
もう少し延長すると、店舗で働いている自分というのは、床に立っている。呼吸をしている。ほかの従業員やお客さんの存在を感じ取っている。ということは、其処に存在している以上は、その床を、空気を、ほかの店舗スタッフを、お客さんを、なによりマクドナルド四条河原町店という、その存在が――私という人間の延長として考えることはできないだろうか。
実際、国際赤十字とか、国連とか、国際NPOとかで働いている人、それ以外にも人類福祉のための活動してる人って、地球とか、人類社会そのものを自分の延長として捉えてるんじゃないか? そう感じざるを得ないようなニュースがたまに飛び込んできたりする。
それはさておき。108万円の貯金、結局どうしたんだっけ。
あー、そうだ。グータラだった自分は、フリーター生活とともに2年もしないうちに霧消したんだった。でも、あのお金があってよかった。あれがなければ、秋から始まる奨学金の返済に対応できなかった。
あの頃(23~25才)の私は、アルバイトではダメだと、奨学金の返済に耐えられるだけの仕事を探して、探して、探しまくって、ようやくたどり着いたのが今勤めている金型の製造工場だった。
始めは出荷場での勤務だったけど、オペレータの給料が高いというので転属を申し出たのだ。これらは当時の日記を読み返して初めてわかった。案外、人は記憶を改ざんするものである笑
ちなみに、まだ奨学金を返済できていない。普通の社会人だったら、繰り上げで30前半くらいには全額返済できていると思われる。今はその程度の稼ぐ力すらないけど、これから妻と一緒に創り上げていきたい。
自分がなにかを消費するとき、その量が増えるにつれて、得られる満足度が落ちていくという法則。
ビールは1杯目が一番うまくて、2杯目以降は満足度が下がっていくのが一番わかりやすい例
・寝れたらなんでもいいのか
・ベッドで寝たいのか
・食事が付いているのがいいのか
など、どれがクリアされていたらあとは放棄してもいいのかで探すホテルのジャンルや、スーパー銭湯などの選択肢が決まってくる。
自分は風俗のジャンルではオナクラやチャイエス、メンエスあたりが満足度が高いことが分かった。
ソープとかヘルスとかも言ってたが、別にヤリたいのが優先順位高くないなぁと
性処理できたら出す方法はそこまでこだわらなくてもいいんだなぁとか気づけてくる。
食事に関しては、ケーキとかパンとかは専門店で買うようにしている
その道の専門でやってきた人が作ったものと、スーパーやコンビニで売られているものの金額差が小さいので、
そんな大金を出さずにプロの技術に触れられるのがお得だなと思っているから。
寿司とかは回転寿司とプロの寿司の金額差が大きいので、別に回転寿司で満足できるしそれでいいかなとか。
PS5 Proは(ことゲーム体験に限っていえば)ゲーミングPC並みのプロ仕様がウリなわけで、そのためにはソフトもプロ仕様にする必要がでてくる。そのためには、お金も時間もかかるから大手しか参入できない。その大手だって失敗したくないから新規性があったり挑戦的なタイトルは作りにくい。
あと、お金も時間もかかるわけで、当然ソフトの値段もそれだけ上げるしかない。値段が高ければそれだけ買う人は減るし、ユーザーの評価も厳しくなる。費用対効果がよくない。限界効用逓減の法則っていうんだっけ。3万円のワインが、3000円のワインの10倍ウマイのか的な。
だからまあゲームに限ったことじゃないけど、Proはその分野にこだわりの強い、コスパとかそういうレイヤーで生きていない人向けのものになるわけだけど、そういう人たちはゲーミングPC買うよねっていうか既に買ってるからProはいらない……ってのも散々いわれてることか。
なんというか、PS5 Proの立ち位置って“2杯目のビール”なんだよな。PS5っていう視点から見ても、プロ仕様のゲーム機って視点から見ても2杯目のビール。1杯目のビールに勝るほどの感動が得られない。だからこそ、おつまみ(ソフト)の内容がより重要になるわけだが、それすら二匹目のドジョウ鍋とくる。
まあ俺はドジョウ食ったことないから、そういう人間にはおあつらえ向きかもしれんが箸が進まん。だって、はてブのホッテントリとかで出てくるPS5 Proに関する記事も、それに関する周囲の反応はほとんど堂々巡りだからな。「……それはよろしいのですが」っていう感じ。もっと“ゲーム”の話をして盛り上がってくれたらなあ。酒が不味くてかなわん。
どれだけ嫌な事があろうが、満足している瞬間が少しでもあればそれだけで人生を肯定出来る。それは自己実現の喜びであってもいいし町中で買える喜びであってもよくて、重みは問題ではない。
そもそも重みなどない。快不快を勘定しようとする事自体がナンセンスだ。限界効用だのアドレナリンの分泌量だのと数字を持ち出してお茶を濁した所で、我々が常に瞬間的に感じている快不快とは定性的なものなのだから。
こういう風に考えれば、生きることに対して割と無条件に近い状態で希望を持てるような気がする。というよりは悲観に屈しないといった方が正確かもしれない。
こうありたいような気もする。安直なヒューマニズムとはまた違うと思う。リアリストを気取っていてその実単にペシミストでしかない奴は嫌いだし。おれはニヒリストではあるけれど、ああいう連中はいけ好かない。
ただあんまり無闇矢鱈に人生は素晴らしいと考えるのも、それはそれでなんかなって思う。少しでも引っかかりがあるのなら、そこを無視して人生バンザイと言うのも自分に不誠実な気がする。
やっぱりなんとなく心の中に秤をイメージして、総体的に納得ある人生を送れているかを気にしてしまう。
自分の望む生き方を出来てる人はこういう考えでも別に問題無いんだろうけど、そうでなきゃ辛い。
辛さをバネに、とかそういう気にもあんまならんし。
不快な気持ちに特別な意味を見出したり、道具として支配してやろうってのもなんかなあって思う。嫌なことをただただ嫌なだなあと受け止めるのも大事に思えてならない。 まあ嫌なことは嫌だし、大して楽しくもないのに面倒臭さだったり不快さだったりを抑えながら生活に追われるくらいだったら死んだ方がマシだろ……
みたいな考えが頭の中をぐるぐるぐるぐる回ってる。
結婚でもするなりして他人への奉仕に生きよう、なんてのはありがちだけど、それを実践してる人が果たして幸せそうかというと微妙なところはある。他人な上に立場も違えばもちろん視点そのものが違うし、そういう人らの人生のほんの一部しか見てないから何とも言えんのだけど。