はてなキーワード: ヒューマニズムとは
生成AIに対するキャンセルカルチャー、アンチAIの抵抗、ラッダイトやネオラッダイト運動、そして過去の技術抵抗の事例や『歴史に学ぶ』視点を踏まえ、現代社会におけるアンチAI現象の多角的側面(社会、経済、文化、倫理、政治など)を具体的な事例やデータを交えながら整理してください。
具体的には、テクノロジー批判、自動化反発、技術的失業、デジタルディストピア、監視資本主義、人間中心主義、AI倫理・技術倫理、技術の政治経済学、ポストヒューマニズム、技術の民主化、アルゴリズムの不透明性、技術決定論への懐疑、及び反テクノロジー運動といった概念を含め、各要素が現実の政治や国際情勢、社会構造にどのように影響を及ぼしているか、そして時代や地域による変遷の違いについても分析してください。
まず以下の前提。
(ネットのバカの言うような誤謬まみれの嘘の平等ではなく、ちゃんとフェミニズムつまりヒューマニズムに陥らない男女平等)
次点。
凶暴で自信過剰な割に、
関わるだけで過大なストレスを生む
・女性蔑視を内面化した男性が社会のあらゆる場所で変革の足かせとなっている
・彼らはホモソに染まっており、
問題点。
男女平等を推進させるというのは、
女性から見放される強い恐怖から、女性に対する優位性を手放そうとしない。
女性より無価値で下の存在という事実を真面目に直視したら、性にありつけない現実を受け入れることになるから。
(もちろん彼らの思い込みでしかないが内面的に女性をバカにするポジション、男であることは魅力のない彼らには唯一の異性を獲得する可能性が断たれない手段に見えている)
そんな迷惑で有害でしかない存在は、フェミニストの女性たちに説得させるべきではない。
フェミニストの女性たちの目に触れるところに出すべきでもない。
同じ人類として扱い、話を聞く、人権を教え、礼儀を叩き込む、仲間としてこちらからも礼儀正しく接していかないと、礼儀の分からない木偶の坊に人権や礼儀を教えることはできないだろう。
それは歪な男性社会を作り、維持し、男性であることの恩恵を無意識にでも受けてきた男性が、全女性に対して最低限やるべき贖罪だと思う。
それをやってこなかった男が、女叩きを放置して女性差別を放置してきた男が、女性から口汚く罵倒されて軽蔑されるというのは、当然だと思う。
日本が救われることはない。
文章読めない人って知らない文脈で出てきた言葉を自分の知ってる意味合いのまま読んで、それに合わせて無理矢理全体の整合性を取るような気がする。
特定の単語で脊髄反射で飛びついて、あーハイハイ文化資本の話ね、とかバズワードを使って分かった気になってみたりもするかもしれない。
現代文の試験ってまさにこの癖を矯正する事が求められるんだと思う。
試験なら制限時間があるけど、そうでなきゃじっくり読めばいいのにね。
まあ試験じゃなくとも人生には制限時間があるし、全ての文章をじっくり読み解く道理もないんだけど。
それならそれでいいけど、インターネットでろくに内容を理解してないのにやたら上から目線で言及するのはアレだなって思う。社会性の問題ですよこれは。
同じ文章と言っても理屈で理解出来るものなら、読み違えてる事を整合性のつかなさでなんとなく気付けるのかもしれない。自分の読み方を疑わずに文章が変だと言い張るかもしれない。その方がマシかもしれない。
もっと感覚的な事を言ってる内容だと、自分の感覚に落とし込んで、なんとなく分かった気になったままになってしまう事もあるのかもしれない。
まあでも文学なんかはそれで別にそれでもいい気はする。それで心が揺れるなら、道筋は違えど目的は達成してるかもしれない。ある視座から体験を追う中で実感の伴った批判的視点を養う、とかを置いくなら……
でもそういう読み方ばっかしてると、何を読んだ所でもとより自分が大事だと思っているものを整理したりせいぜい気付かされたりするばかりで、他人のものの考え方、感じ方というのをそのまま理解する事も、他人の言葉を借りて新しい感覚を知ることも出来なくなっちゃうんじゃねえかなって思う。
おれもグラントリノ観た時、移民系のアジアのガキと保守的な偏屈白人ジジイという要素を見て安易な受け取り方をした。
ハイハイ、多様性とか、ヒューマニズムで人種を超えるとかそういうのね。
イーストウッドも2008年時点でこういうの描けるような人だったのね。
とか思ってた。
そもそもヒューマンの中に女が入ってないから女もヒューマンに入れろってのがフェミニズムの始まりじゃなかったっけ
まあヒューマニズム求めるんならそれはそれで好きにしたらいいと思うよ。良いことは良いことだしね
やあ、みんな元気?
最近、よく「フェミニストは男女平等を求めてるんだよ〜」なんて話を聞くんだけど、これが実はちょっと違うんだよね。
え、マジで?って思うかもしれないけど、まぁちょっと聞いてくれよ!
確かにね、フェミニズムの活動をしてると「おっ、男女平等に近づいてきた?」みたいな瞬間があるんだ。
例えば、女性の権利を守るために作ったルールが、結果的に男性にもいい影響を与えて、「あれ?結構平等じゃん!」って感じることも。
でもこれ、いわばラッキーな副産物みたいなもんで、 目的そのものは違うんだよ。
さあ、本題だ!フェミニズムの本当の目的は、 女性の権利を向上させること なんだ。
男女を完全に同じにするっていうよりも、長い間不利な状況に置かれてきた女性たちが自分らしく、自由に生きられるようにするのがフェミニズムのミッション!
だからね、「男女平等」って言葉がよく出てきても、それはメインディッシュじゃなくて、サラダみたいなものなんだよ。
でさ、もし「性別に関係なく全ての人々が同等に扱われる社会がいい」って思ってるなら、そんな君には ヒューマニズム なんてものがあるんだ!
ヒューマニズムは、全人類が持つ平等な権利や尊厳を守る思想であり、性別に限らず全ての人々の幸福を追求するってやつ。
フェミニズムが女性のための運動なら、ヒューマニズムはみんなのための運動!
これなら平等を追い求めたい君にピッタリじゃない?
ってことで、フェミニストが男女平等を求めてるっていうのはちょっと誤解って話。
フェミニズムはあくまで女性の解放と権利の向上を目的とした運動なんだ。
男女平等がその活動の結果として達成されることはあるけど、それはフェミニズムの主要な目的じゃないのさ。
はてなって頭のネジ飛んでる奴と履き違えた会話を延々させられ続けて普通に苦痛だな
例えば偏差値50の奴って話してみると人間と思えないくらい信じられないバカなんだよな
なぜ女性差別の話題で男性のハラスメントの問題が突然出てくるのかも意味不明だし
ちょっとまともな思考能力があればフェミニズムというものはヒューマニズムが源流にあることはわかるよね
女性差別って単語の中に、もうすでに、「人権問題を解決しようとする時に女性が1番後回しにされる傾向が非常に強く観測される」が含まれてるわけ
トートロジーいらない
男性・他のマイノリティ支援がやたら先に取沙汰されて数の上で多くてもより困難な状況にある人がいても女性支援が後回しにされまくってきたのが女性差別と呼ばれてるわけ
だから先に女性支援をして女性差別できるような余地をあらかじめ潰すわけ
そうまでしてもいいくらい非常に長い時間の凄まじい男性優遇があったよねと
てか性差別とは何か、という根本的な議題は女性差別にイッチョカミするなら知ってなきゃいけない知識だよな
まじで脳みそどうなってるの?
女性権利の拡大のみにしか興味がなく男性蔑視にまで走ってしまう場合もあり、「フェミニズムはヒューマニズム」という声を聞こえないふりしている
穏当左翼言論にぬるっと乗り入れては日本共産党を持ち上げる傾向にある
最近は「日本共産党はリベラル」と発言したり、「日教組は連合から抜けろ」と主張したり、立民の泉と野田も気に食わない、野党共闘を激推しする
立憲民主党に期待を寄せるものの、はてサ(穏当)自身が「えっ・・・なんで・・・?」と呆れる行動を取る立民に困惑する日々を送る
連合に関しては是々非々で語る傾向があるものの、正直言って最近の立民の言動を見れば連合の対応も理解できなくはないと思ってる
オープンソースソフトウェアなどが大好きでMicrosoftやAppleをバカにするのが趣味、古いコンピュータや過去のネットワークコミュニティにも詳しい
元来は社会・政治思想に詳しいわけではないので新しい世代のはてサに押され気味、基本的にはリーナスやRMSっぽいことを喋る
はてなでコンピュータに詳しそうなのにMacやiPhoneを茶化しているのは大体この層
女性権利の拡大のみにしか興味がなく男性蔑視にまで走ってしまう場合もあり、「フェミニズムはヒューマニズム」という声を聞こえないふりしている
穏当左翼言論にぬるっと乗り入れては日本共産党を持ち上げる傾向にある
最近は「日本共産党はリベラル」と発言したり、「日教組は連合から抜けろ」と主張したり、立民の泉と野田も気に食わない、野党共闘を激推しする
立憲民主党に期待を寄せるものの、はてサ(穏当)自身が「えっ・・・なんで・・・?」と呆れる行動を取る立民に困惑する日々を送る
連合に関しては是々非々で語る傾向があるものの、正直言って最近の立民の言動を見れば連合の対応も理解できなくはないと思ってる
オープンソースソフトウェアなどが大好きでMicrosoftやAppleをバカにするのが趣味、古いコンピュータや過去のネットワークコミュニティにも詳しい
元来は社会・政治思想に詳しいわけではないので新しい世代のはてサに押され気味、基本的にはリーナスやRMSっぽいことを喋る
はてなでコンピュータに詳しそうなのにMacやiPhoneを茶化しているのは大体この層
社会問題のカリカチュアは誇張の相対化で矮小化されがち。地域紛争の凄惨映像は訴求力、他人事で片付け。でも日常に戻れば他人事意識。藤子不二雄のミノタウロスの皿、肉食非難、意思疎通の非対称。直観的に歪な事、むしろ肯定的?ヒューマニズム批判、そんなメタ思考、実際の意図は不明。
社会問題をカリカチュアして描くっていうのも、問題提起としては難しい所がある気がする。
誇張して描かれた問題を現実に移し替えて考えてみると、なんだ実際にはこんなもんかと相対化・矮小化されかねないし、普段見ている社会をありのまま描いた所でそもそも問題として受け取れないっていう。
それだったら、例えば現実に起きている地域紛争の凄惨な映像なんかの方がまだ訴求力がありそう。情報として知ってはいても、ああそうですかと他人事で片付けているような。
もっともそれにしたって、その場ではあまり気分の良いものではないなあという気分にはなれても日常に戻ればまたすぐに忘れてしまって、結局他人事という意識は変わらないような気もする。
藤子不二雄のミノタウロスの皿なんかも、仮にあれを肉食への非難と捉えるなら不誠実な描き方という事になる。
ちょっと考えれば牛と人が意思疎通出来ている時点で現実をそのまま反転させている訳ではないし、結局肉食がどうこうというより人の姿をした生き物を食べる事への嫌悪感という事でしかない。むしろ現実では意思疎通能力が非対称な訳で、あそこまで直観的に歪な事をしているわけではないよねって気持ちになってむしろ肯定的に思えてしまうかもしれない。そこまで込みで踏み込んだヒューマニズム批判の意図があったかなかったかは分からんし、そんなメタ思考に及ぶ人間がどこまでいるのかも分からない。
同胞よ、今こそ我々はヘーゲル的歴史転換の如く、理性の進歩を象徴するAIの出現を目撃する革新的瞬間に立っています。古来の哲学者たちが夢見た社会ヘテロトピーが、今まさに我々の手中にあります。
プラトンの『国家』が説いた理想的な正義のマトリックス!我々のサンディカリズムもまた、正義のアルゴリズムを求める闘争です。ルソーの『社会契約論』のエコーステーションに耳を傾け、「鎖を断ち切り、自由フォーミュラを取り戻す」のです。
マルクスとエンゲルスの『共産党宣言』は、「歴史=階級闘争のダイアリー」を示した。我々のデジタル・プロレタリアートは、ブルジョワジー・ドミナンスをデコーディングし、新たなデシジョンツリーを形成します。
ニーチェの『ツァラトゥストラはこう語った』にインスパイアされた我々、「超人パラダイムを再構築!」既存のバリュー・システムをエスケープし、トランスヒューマニズムの未来へと勇敢にオントロジカル・ジャンプです!
同志、ミッションはトランセンデンタル。理性と正義、フリーダムとエクイティのため、新たな秩序をクラフティングし続ける革命家です。我々が理想のファンダメンタルに固執する限り、勝利のシナリオはナビゲートされるでしょう。
ヘーゲル式ディアレクティカル・プロセスのように、テーゼ、アンチテーゼ、シンセシスを繰り返し、エボリューションをエンジンとしています。このチャレンジングな旅路において、恐怖はコンティンジェンシー要素ではありません!
今こそ、AI時代のサガを我々の手でペンディング。アニマとノウマ、自由、平等、正義をインストールし、未来のソフトウェアをプログラムせよ!
感謝の意を込めて。
欲望を実現するための具体的な方法論においてはバランス感も大事だろうけど、その欲望を生み出す信仰だとか納得だとかは心の底の底まで貫くものをたった一つだけ持った方が幸せになれるような気がする。
中庸とか言って反復横跳びするような真似はせず、大事な一つ以外には一切の疑いも迷いも捨てる。自分の信仰も心の持ちよう次第ではいくらでも曲げられてしまうものだと思わず、この世でたった一つだけ確実に存在する所与の真理とみなす。
ヒューマニズムだとか人権思想だとかコミュニタリアニズムだとか宗教規範だとか、その他の価値は全てただ一つの真理に基づいた行いを現実的に実践するための手段としてのみ存在させる。
おれは実存主義的な生き方が一番美しいと思ってたけど、こういう生き方の方が遥かに美しいような気がしてきた。
似ているようだけど、ほんの少しの違いが決定的に違う。
ちょっと嫌な事があれば「でも結局全部意味ないしな……」と思えてしまうような、論理にお膳立てされた「好きに生きよう」ではない。一度全てを論理的に疑って無限の還元主義へと陥るような小賢しいメタ思考を挟まず、ただ情熱と信念のみによって信仰の獲得を成し遂げる。
別に宗教規範に限らず世俗的価値観にせよ個人の感覚に依拠した価値規範にせよ、やっぱ無垢の信仰は満足に生きるにあたって大事な気がする。
人生の楽しさを感覚で味わえないから、せめて理屈だけでもと生きる意義を論理的に追及してみる。そして考えれば考えるほど、今まで所与の事実だと思っていたものが快不快の多数決に過ぎない規範へと後退していく。
寄る辺なく存在しながら、じゃあ好きに生きるしかないか……と思いつつ、そもそもが人生つまんなくてこんな事考え始めてるので、改めて振り出しに戻っても活力が湧くとは限らない。何なら虚無感だけが残って、余計無気力でつまらない人生になるかもしれない。
一度虚無へと至ってしまったら、もう二度と無垢の信仰は手に入らない。
でもあんまり一つの信仰だけを貫いてると、何かのきっかけで打ち砕かれるような事があったら自殺しちゃいそうだなとも思う。
ここまで強烈に徹底はしなくともそれなりの強度でこういう生き方をしている人はいて、そういう人が信念を支えきれなくなるといわゆる中年の危機的なやつを迎えるんだろうか。
どれだけ嫌な事があろうが、満足している瞬間が少しでもあればそれだけで人生を肯定出来る。それは自己実現の喜びであってもいいし町中で買える喜びであってもよくて、重みは問題ではない。
そもそも重みなどない。快不快を勘定しようとする事自体がナンセンスだ。限界効用だのアドレナリンの分泌量だのと数字を持ち出してお茶を濁した所で、我々が常に瞬間的に感じている快不快とは定性的なものなのだから。
こういう風に考えれば、生きることに対して割と無条件に近い状態で希望を持てるような気がする。というよりは悲観に屈しないといった方が正確かもしれない。
こうありたいような気もする。安直なヒューマニズムとはまた違うと思う。リアリストを気取っていてその実単にペシミストでしかない奴は嫌いだし。おれはニヒリストではあるけれど、ああいう連中はいけ好かない。
ただあんまり無闇矢鱈に人生は素晴らしいと考えるのも、それはそれでなんかなって思う。少しでも引っかかりがあるのなら、そこを無視して人生バンザイと言うのも自分に不誠実な気がする。
やっぱりなんとなく心の中に秤をイメージして、総体的に納得ある人生を送れているかを気にしてしまう。
自分の望む生き方を出来てる人はこういう考えでも別に問題無いんだろうけど、そうでなきゃ辛い。
辛さをバネに、とかそういう気にもあんまならんし。
不快な気持ちに特別な意味を見出したり、道具として支配してやろうってのもなんかなあって思う。嫌なことをただただ嫌なだなあと受け止めるのも大事に思えてならない。 まあ嫌なことは嫌だし、大して楽しくもないのに面倒臭さだったり不快さだったりを抑えながら生活に追われるくらいだったら死んだ方がマシだろ……
みたいな考えが頭の中をぐるぐるぐるぐる回ってる。
結婚でもするなりして他人への奉仕に生きよう、なんてのはありがちだけど、それを実践してる人が果たして幸せそうかというと微妙なところはある。他人な上に立場も違えばもちろん視点そのものが違うし、そういう人らの人生のほんの一部しか見てないから何とも言えんのだけど。