はてなキーワード: 必要条件とは
割ってなんぼ、って思うような態度をとれる時点でコンテンツを愛する人間と言えるかどうかの必要条件から外れてくると思ったんだけどね。なるほどそちらはそうは考えず割れ厨とコンテンツ愛は両立し得ると。
いやそれもそうか。コンテンツ愛の否定ってあくまでマウント的、オタク的な他者批判のあり方でしかなくて愛というのはただ単に欲求の対象になりうるかという考えの方が近いか。
dorawiiより
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東浩紀が「現代のオタクは批評を求めなくなった」と語って久しい。
この言葉をめぐる議論は尽きないが、問題の所在はもっと単純で、もっと厄介だ。
現代の由々しき自称オタクたちは価値を問う前に、数で判断してしまう。
いま話題の映画『超かぐや姫!』に対して、「ファンを数字としてしか見ていない」という批判が起きた。
だが見落とされているのは、その“数字の回路”が観客側にも内面化されているという事実である。
それらは本来、作品がどれだけ届いたかを示す一つの指標に過ぎない。
「伸びている=良い」
この短絡が、判断を肩代わりする。
判断を委ねられるのは楽だ。
なぜ良いのかを考えなくていい。
ただ「伸びている」という事実に乗れば、外れない気がする。
その瞬間、何が起きるか。
受け手は数で選ぶ。
両者が同じ回路で接続されるとき、作品は均質化し、消費は加速する。
ここで批評はどうなるか。
批評とは、本来「なぜそれが価値を持つのか」を言葉にする営みだ。
だが価値の判断がすでに数に委ねられているなら、その問いは必要条件ではなくなる。
要求されなければ育つこともない。
そこでは差異は摩擦になる。
摩擦は居心地を壊す。
したがって優しさを維持するには批評の圧を弱める方が合理的になる。
結果として残るのは、「好き」と言うことだけが流通する空間だ。
それは居心地がいい。
これは怠慢ではなく、構造だ。
数は便利である。
数は速い。
数は裏切りにくい。
そして使い続けるうちに気づく。
数で足りてしまうことに。
なぜ良いのかを問わないまま良いとされるもの。
なぜ悪いのかを考えないまま避けられるもの。
数に従わない。
流行に媚びない。
それは、ある種の孤独を前提とした態度だった。
なぜなら数が、それを代行してくれるからだ。
「伸びているものを好きでいればいい」
「皆が好きなものを好きでいればいい」
気づけば、私たちは数に寄り添いながら、
数に抗う。
己の好きを貫き通す。
Xで以下の投稿が目に入ってきた。
https://note.com/sho_hiroumi/n/n52a7f10be3c7
本当にたくさんのことを考えた。
それについてコメントを書いていたら長い長い長い長いクイズ論になってしまったので、こっちに載せることにした。
「上手にボタンを押せる人」よりも「上手に問題を作れる人」が称賛されやすい、という論には本当かどうか?という疑問がある。
たしかに出題サイドは、その多大な労力ゆえに参加者サイドよりも分母が少なく、競争環境としては「ブルーオーシャン」の側面がある。
「面白い問題を出す大会」というブランディングが、主催団体の評価に直結するのも事実だ。
しかし、それが個人への「称賛」に結びつくかどうかは別問題だと考える。
先日、浜押会オープンで話題をさらった「アサシン」の問題を思い出す。
問題そのものは鮮やかにバズったが、では「その作問者が誰か」まで即座に答えられる人はどれほどいるだろうか。
個人が作問・主催する”個人杯”であれば作問者個人にスポットライトが当たるが、サークル主催の大会では、評価は組織の中に埋没しがちだ。
この傾向はメディアでも顕著だ。QuizKnockを見ても、主流は「問う」ことよりも「答える」コンテンツであり、メンバーも「答える側の演者」として人気を博している。
純粋な作問能力が評価される場面があったとしても、それがコンテンツの主役になることは稀だ。
取り上げられているQuizbowlのシステムにおいて、問題作成が競技参加のプロセスに組み込まれているのは興味深い。
ただ、これは「称賛」のためというより、大会をスケールさせるための「供給の仕組み」と捉えるべきだろう。
しかし出題スタッフはサービス提供側の側面が強く、労力も膨大だ。
自発的な協力者だけで賄うのは困難であるため、パケット提出(問題作成)の義務化といった「強制力」が必要になる。
ACF(アメリカ大学クイズ連盟)の公式ページでは、この制度の意義を「編集者とプレイヤーの知識共有の精神を守るもの」と定義している。
しかし、わざわざ言葉を尽くしてその意義を称揚しなければならないこと自体、それが「強調しなければ誰もやらないキツいタスク」であることを裏付けている。
編集歴がコミュニティ内のキャリアとして記録され、NAQTのような組織では1問ごとに報酬が支払われるなど、作問が「名誉ある職務」として確立されている、という例は興味深い。
分野ごとに専門の編集者を置く高度な組織設計は、品質管理の観点から合理的だ。
だが、ボツや添削というストレスフルな工程を経てなおモチベーションを維持させるためには、相応のインセンティブや評価制度が必要となる。
報酬の一部として「Head Editor」などの地位を提供していると考えた方が良いように思える。
そして原文の例にある通り、これほど作問者がプロフェッショナルとして敬意を払われている海外でも、やはり「スター」はプレイヤーだ。
箱根駅伝のマネージャーたちが、もし許されるなら自ら箱根路を走りたいと願うランナーであるように、「作問者」側はスターではない、という認識は変わらず持っていた方が良いように思う。
私はオンラインクイズサークル「Virtual Quiz Studium」(以下「VQS」と略する)を主宰している。
今日で誕生から3年を迎え、4年目に入る比較的新しいサークルだ(めでたい!)。
参考 : https://sites.google.com/view/vqs-quiz/
「VQS」では、毎月25〜50問が集まる「問題出題大会」を開催している。
ここでの取り組みを掘り下げることで、そもそも「よいクイズとは何か」を掘り下げてみる。
最大の特徴は、予選・決勝の「2段階投票システム」を採用している点だ。
(注:「みんはや」開催の第2部は異なる)
数十問を一気に並べて1問を選ぶ形式では、比較がどうしても雑になり、印象に残りやすい後半の問題が親近効果で有利になりがちである。
予選を5問程度の小規模なグループで行い、評価プロセスを細かくすることで、個々の問題と誠実に向き合い、良い問題をなるべくすくい上げるよう工夫をしている。
1年半の運営を経て痛感したのは、まず「良い問題の基準は人によって異なり、一様ではない」ということだ。
もちろん、明らかに構造的な課題がある問題には厳しいスコアがつくが、一方で、何らかの「光るもの」を持つ問題には必ず誰かが票を投じる。
「何が良いか」という評価が割れることこそがクイズの豊かさである。
問題の価値を安易に、あるいは拙速に決めつけることの危うさを日々感じている。
一方で、歴代の上位入賞問題を分析すると、そこには「評価されるだけの理由」が明確に存在する。
(もちろん、これが全てとは考えていない)
上位入賞するような問題には、これらを複数複合させて達成しているケースが目立つが、単一の要素で突き抜けるものもある。
ここがこの大会のだいご味でもある。
(参考)歴代の入賞問題 : https://sites.google.com/view/vqs-quiz/%E5%A4%A7%E4%BC%9A%E7%B5%90%E6%9E%9C/%E5%95%8F%E9%A1%8C%E5%87%BA%E9%A1%8C%E5%A4%A7%E4%BC%9A%E7%B5%90%E6%9E%9C
興味深いことに、こうした多様な評価軸がある中でも、不思議と上位入賞の常連となる凄腕プレイヤーが存在する。
クイズの実力との関連性もそれほど強くないところが興味深い。
これは、クイズ作問という行為が、が単なるクイズ用のネタのピックアップではなく、一種の表現技術であることを示唆している。
現実として、そこには歴然とした作問力の差が存在するようなのである。
クイズ問題が正当に評価される際、それは単発の問題としてよりも、「〇〇大会の問題はよかった!」と、一塊のパッケージとして語られることが多い。
競技としてのクイズを成立させるためには、個々のクイズの良し悪しとは別に、セット全体をプレイした際の「体験」という観点が必要不可欠と考える。
優れた問題を揃えることは、大会成功の必要条件ではあるが十分条件ではない。
DJが選曲と繋ぎによってフロアの熱量をコントロールするように、主催者には「(事前に)用意した問題をいかに配置し、どのような『場』を構築するか」という編集・演出の手腕が問われる。
私は2年間にわたり、「VQS」の中で深夜のオンラインクイズ大会「まよなか大会」を毎月開催している。
その運営経験から得たのは、クイズ大会において「参加者の体験をいかに設計し、コントロールするか」はとても重要だ、ということだ。
問題の難易度曲線、ジャンルの連なり、そして出題のテンポ。これらが精緻にマネジメントされ、参加者の体験がポジティブに設計されているかどうか。
「いやなら来なければよい」と開き直ることは、集客力がある人達であれば違うかもしれないが、自分達には現実的には無理だ。
体験を構成するための「問題セット」を的確に構成し、そのうえで参加者が楽しめるような「面白い問題」をいかに出題することができるか。
結局のところ、クイズの問題セットとは単なる問題の集積ではない。
それは、参加者が競技を通じて得られる「体験」を最大化するための、緻密な設計書なのである。
問題セットの品質を考えるうえで一つ自戒を込めて強調したいのは、他の専門領域を扱う際の作問態度である。
他分野の問題を作成する場合、その知識がその業界において「現在進行形でアクティブな知識であるか」を精査する習慣を持つべきだ。
土足で他人の専門領域に入り込み、「正しい」「間違い」の審判を下すのだから。
私の専門であるIT分野を例に挙げれば、残念ながら「読むに堪えない」品質の問題(事実誤認や、もはや使われていない死語など)を目にすることは決して少なくない。
情報のアップデートを怠った古く間違った問題を見ると、それだけでがっかりしてしまう。
大量に作問する際、どうしても手癖に頼りがちになるが、「改めて確認する」というひと手間を、決して忘れないようにしたい。
これは多分に主観的な見解だが、クイズとは作問者、あるいは作問チームとの「知的対話」であると私は考えている。
ゲームとして巧みに構成されているかという機能的な側面とは別に、対話として楽しめる内容であったかという内容的な側面も、自分の中ではとても大事だ。
対話である以上、当然出題者だけでなく解答者側にも知識が求められる。
解答者の力が不足していれば対話は成立しない。
双方向的であり困難な試みではあるが、クイズと言う形式だからこそできるコミュニケーションができた、と思えたときの満足感は大きい。
貴様らの「青少年育成」という美名は、価格メカニズムに対する理解不足が生んだ典型的な自己放尿の産物である。
いや、これは単なる自己放尿ではない。無知と権力のダブル放尿とでも呼ぶべき、制度的に再生産される非効率の結晶だ。
市場においては、価格は情報を伝達し、資源配分を調整し、そして行動を規律する。
しかし貴様らは、その分散された知識の体系を信頼せず、中央集権的な判断で「何が有害か」を決めようとする。
これは、情報の非対称性を無視した自己放尿であり、同時に合理的無知を制度として固定化するダブル放尿である。
そもそも「青少年を守る」という前提自体が、個人の選好と自己責任を過小評価している。
これは経済学の基本仮定であり、同時に自由社会の前提でもある。
貴様らの検閲は、この前提を否定し、「国家が選好を上書きすべきだ」という極めてパターナリスティックな幻想に依拠している。これこそが自己放尿だ。
さらに言えば、その検閲は外部性の議論を装っているが、実態は単なる政治的市場における利益集団の自己放尿である。
集中した利益と分散したコストの構造の中で、声の大きい少数が規制を要求し、無関心な多数がそれを受け入れる。
結果として生じるのは、効率性の低下と自由の侵食というダブル放尿だ。
貴様らは「有害情報」を排除すれば社会が改善すると信じている。
しかしそれは、需要が存在する限り供給は形を変えて現れるという基本的な市場原理を無視している。
規制は単に地下化を促し、より不透明で制御不能な形で問題を再生産する。
つまり、意図せざる結果を生む自己放尿であり、政策失敗の教科書的事例だ。
そして何より重大なのは、貴様らの行為が自由の条件を侵食している点だ。
選択の自由が制限されるとき、個人は学習機会を失い、責任能力も萎縮する。
これは長期的には社会全体の厚生を低下させる。
短期的な安心感と引き換えに、長期的な自由と効率を犠牲にする。これ以上ない自己放尿だろう。
貴様らの「善意」は、インセンティブ無視・情報軽視・自由軽視というトリプル放尿に支えられている。
市場を信頼せず、個人を信頼せず、しかし自らの判断だけは過信する。その構図自体が、まさに制度的自己放尿の完成形だ。
自由社会とは、誤りを許容しつつ、それを通じて学習するプロセスである。
貴様らの検閲は、そのプロセスを遮断する。結果として残るのは、未熟な個人と肥大化した権力、すなわち、自由なき秩序という最大級のダブル放尿だ。
敬具。
特定の人物そのものの文体は再現できませんが、批判的な敬体で、オイラ一人称のトーンでお答えします。
「相手が嫌がればハラスメント」は一部当たっていますが、十分でも必要でもないことが多いです。
結論として、「嫌がれば=即セクハラ」「嫌がらなければ=セーフ」という二分法は雑です。必要条件に近い側面はありますが、客観基準、文脈、権力勾配、影響の程度を外すと現実には判定を誤ります。
実務的な自衛策としては、
俺は政治家の「善意」や官僚機構の「高邁な理念」によって、社会が望ましい均衡へと自動的に収束するなどとは、端から期待していない。
いわば政策実現の自己放尿、つまり自らの高潔さに酔いしれながら社会を清めたつもりになる行為に、一片の合理的期待も置かない。
なぜなら、経済学の第一原理は「インセンティブは重要である」という点に尽きるからだ。
価格は単なる数値ではない。価格は情報であり、インセンティブであり、分配メカニズムである。
これは競争均衡モデルにおけるワルラス的調整過程を、より現実的に制度的文脈へ埋め込んだ命題に過ぎない。
市場を個別最適化問題の集合として表すならば、均衡は価格ベクトルによって内生的に達成される。
ここで政府が恣意的に価格を歪めれば、ラグランジュ乗数が示す限界評価は失われ、死荷重の自己放尿が発生する。
政策当局者の「善意」は、限界代替率も限界変形率も計算しない自己放尿である。
貨幣数量説を単純化すれば MV = PYである。もしVが安定的であり、実質産出Yが潜在成長率に従うならば、名目所得の変動は主として貨幣供給Mに依存する。
ここで重要なのは、合理的期待である。政府が景気刺激を予告すれば、主体はそれを織り込み、インフレ期待を調整する。結果としてフィリップス曲線は長期的に垂直となる。短期的トレードオフは幻想である。
再選確率を高める自己放尿政策は、社会厚生関数を最大化する政策とは一致しない。
利益は集中し、費用は分散する。ロビー活動は一種の自己放尿的合理性であり、無知もまたそうである。この構造のもとで、「公共善」は内生的に供給されない。
政策はしばしば市場の失敗を是正するのではなく、「政府の失敗」という自己放尿を創出する。
企業は max_q ; π(q)=p(q)q-C(q) を解く。
一階条件 MR=MC は倫理命題ではなく、選択制約の帰結である。
政治家はどうか。
彼らは赤字を将来世代に転嫁して自己放尿できる。市場退出という規律が存在しない。破産制約のない主体に効率性を期待するのは、理論的にも実証的にも困難である。
経済的自由は必要条件である。十分条件ではないが、必要条件である。
自発的交換が許容されない社会で、市民的自由が長期的に維持される保証はない。これは理念ではなく歴史的観察である 。
国家が自己放尿的に価格を統制し、資源を配給し、職業参入を制限するならば、個人の選択集合は縮小する。選択集合の縮小は効用可能性集合の縮小を意味する。自由の損失は数学的にも表現できる。
経済政策に必要なのは英雄ではない。必要なのは、インセンティブ整合的なルールである。
水曜日、21:00。僕は定刻通りに机に向かっている。
21:00は思索の時間。21:00から23:00は理論物理、23:00から23:12は歯磨きとフロス、23:12から23:18は量子場の揺らぎを想像しながらストレッチ。秩序は宇宙の最小作用原理の家庭内バージョンだ。
従来の弦理論は世界面上の2次元共形場理論(CFT)を基礎にしている。
しかし僕が追っているのは、世界面という発想そのものを派生概念に落とし込む枠組みだ。
つまり弦が時空を動くのではなく、時空がある種の∞-圏的対象の安定ホモトピー極限として現れるという立場。
最近の思索の中心はextended TQFTをさらに高次化し、n-カテゴリー値を持つコボルディズム仮説を、超対称性を組み込んだ派生スタック上で再構成すること。
通常のコボルディズム仮説は、十分双対可能な対象がフレーム付きTQFTを分類する、という主張だ。
しかし僕の作業仮説では、弦理論に対応する対象は単なる双対可能では足りない。
必要なのは超双対可能性とでも呼ぶべき構造で、これはスペクトル圏 enriched な (∞, n)-圏における安定性と、自己言及的モジュライの固定点構造を同時に満たす条件だ。
友人Aが昼に来て、「それって検証できるの?」と聞いた。
僕は説明した。検証とは何か。通常は散乱振幅を計算して実験と照合する。
しかし、もし時空そのものがモジュライ空間の特異点の解消として出現するなら、観測可能量は圏論的自己同型群のスペクトルに対応する。
実験とは、そのスペクトルの低エネルギー極限を間接的に触ることにすぎない。
午後は、ミラー対称性を再解釈する作業。従来はカラビヤウ多様体のA模型とB模型の同値だと説明される。
しかし僕は、これを観測者の選び方に依存するホモトピー固定点の再パラメータ化とみなしている。
つまりミラーとは幾何の双対ではなく、情報圧縮の異なる展開形式だ。
弦の振動モードは、実は安定ホモトピー群の特定次数に対応していて、質量スペクトルは圏のt-構造の切断に対応する、という仮説を立てている。
これが正しければ、重力はエンリッチメントの忘却関手の副産物になる。
ラベルの向きが3度傾いていた。3度だ。僕は分度器で測った。
だから僕は即座に修正した。宇宙の熱的死を防ぐことはできないが、冷蔵庫の秩序は守れる。
隣人が「今日は何してるの?」と軽く聞いてきたので、「10次元超多様体上のBPS状態の安定条件を再定義している」と答えた。
彼女は「へえ、楽しそう」と言った。意味を理解していない確率は0.997以上だが、社交的応答としては合格だ。
短期的利益に飛びつく戦略は、摂動展開の低次項に固執する理論家と同じだ。
さて、超弦理論の核心に戻る。
現在の主流は、M理論を背景に、様々なデュアリティを統一的に理解する方向にある。
しかしそれでも背景時空は暗黙に仮定されている。僕が考えているのは、背景独立性をさらに推し進め、「背景とは観測者の圏論的選択にすぎない」という立場だ。
具体的には、全ての物理的状態をある安定∞-トポスの内部論理で記述し、その内部言語における真理値が、我々の時空的経験に射影されるという構図。
ここで重要なのは、超対称性を単なるボソン・フェルミオンの対応として扱わないこと。
超対称性をZ₂-次数付きホモトピー型の自己同型と再定義すると、破れは単なる対称性の破れではなく、内部論理の選択原理になる。
つまり、なぜ4次元なのか、なぜこの結合定数なのか、という問いは、モジュライ空間の測度問題ではなく、圏の自己整合条件の固定点問題に還元できる可能性がある。
ウィッテンでもわからないレベル、というのは誇張ではない。なぜならこれはまだ僕の作業仮説で、証明も反証もない。
理論とは、整合性と説明力の間でバランスをとる仮設足場だ。美しさは指標になるが、保証にはならない。
今日までの進捗は、安定∞-圏における「超双対可能性」の必要条件を3つに絞り込んだこと。そのうち2つは既存の理論に還元可能、残り1つは完全に新しい制約だ。この制約が質量階層問題に接続するかもしれない。
これからやることは、その制約を具体的なスペクトル系列に落とし込む作業。もし収束すれば、少なくとも内部整合性は確認できる。収束しなければ、仮説は廃棄。科学は宗教ではない。
時刻は21:10。予定より3分遅れている。ルームメイトの足音が規則性を乱しているが、ノイズは平均化すれば消える。宇宙も同じだ。
では、計算に戻る。
その発言は、おそらく理論物理学者のEric Weinsteinが、主流の量子重力研究、とくに弦理論コミュニティに対して批判的な文脈で語ったものだ。
まず事実整理をしよう。
量子重力とは、一般相対性理論(重力)と量子力学を統合する理論を探す試みだ。現在の物理学はこの二つを同時に扱えない。
ブラックホール中心やビッグバン初期宇宙では両方が必要になるのに、数式が破綻する。これは理論的な未完成部分だ。
主なアプローチは例えば:
彼はこれを「精神病」的だと表現した。これは医学的診断ではなく、比喩だ。社会的・制度的な集団ダイナミクスへの攻撃だ。
ここで冷静に分解する。
第一に、「実験がない理論は病的か?」という問い。歴史を見ると、マクスウェル方程式やディラック方程式も、最初は高度に理論的だった。しかし、それらは比較的短期間で検証された。量子重力はスケールが極端に小さく、プランク長(約1.6×10⁻³⁵ m)を直接検証できない。実験装置が宇宙規模になる。これは技術的制約であって、理論家の怠慢とは限らない。
第二に、数学偏重批判。弦理論はカラビ–ヤウ多様体、ミラー対称性、モジュライ空間など、純粋数学に巨大な影響を与えた。これは客観的事実だ。ただし「数学的に豊か=物理的に正しい」ではない。整合性は必要条件であって十分条件ではない。ここを混同すると宗教化する。
第三に、制度的閉鎖性。研究資金・ポスト・査読ネットワークが特定のパラダイムに集中する現象は社会科学的に起こりうる。科学も人間の制度だ。完全な自由市場ではない。
ただし注意が必要だ。「主流理論が停滞している」ことと「量子重力という問題設定が無意味」というのは別問題だ。重力の量子化が必要になる理論的理由は明確に存在する。ブラックホール蒸発(ホーキング放射)や情報パラドックスは未解決だ。
つまり、ワインスタインの発言は制度批判としては理解可能だが、量子重力研究そのものを精神病と断定するのは科学的評価ではない。レトリックだ。
さらに面白い点がある。科学史では「理論が長期停滞 → 外部からの挑発的批判 → 新理論誕生」というパターンがある。たとえば19世紀末のエーテル問題。停滞は必ずしも病気ではない。未成熟段階とも言える。
問題はこれだ。量子重力は未検証理論の巨大な森だが、森があること自体は事実だ。そこに道があるかはまだわからない。
最後に少しメタ視点。もし量子重力が完全に間違っていた場合でも、その過程で生まれた数学や概念は残る。科学はしばしば副産物で進む。錬金術が化学を生んだように。
なので評価はこうなる。
相手の主張はこうだ。
数学的整合性が保証するのは存在 ⇒ 可能ではなく可能 ⇒ 構成できる、だ。
だが僕の部屋の床は双曲幾何ではない。
でもその中で
これは生物進化と同じ。DNAの配列は無限にある。でも生き残る配列は極端に少ない。
観測者が存在できる宇宙しか自分を認識できない。弱い人間原理だ。
ただし
そんな宇宙では誰も「変だ」とさえ言えない。
例えば散乱振幅が|A| → ∞になれば終わり。数学的に矛盾はなくても、物理的には崩壊する。
つまり宇宙には論理的一貫性+力学的一貫性+量子的整合性が必要。
整合性だけで宇宙は決まらない。だが整合性なしでは宇宙は始まらない。
だが自己組織化し、観測者を生み、長時間安定する宇宙は極端に少ない。
僕たちは単にその巨大な多元宇宙の1つのセクターにいるだけかもしれない。
その場合、「変な宇宙があるのはおかしい」という直感自体が局所的偏見だ。
ここで問いだ。整合性が必要条件だとして、宇宙を一意に決める最小の原理は何だと思う?
1. 最大対称性
3. 情報保存
5. まだ知られていない原理
君の思考を見せてくれ。
月曜日23:59。あと60秒で火曜日。時間は連続だが、カレンダーは離散だ。この不連続性が僕は好きだ。ヒルベルト空間のスペクトル分解みたいで安心する。
今日の進捗を書く。今回は本当に最前線だ。一般的な超弦理論の話ではない。摂動論でもない。AdS/CFTでもない。そんなものはもはや教科書の章だ。
僕が今日取り組んでいたのは、「弦理論をそもそも理論と呼べるか」という問題の、さらに一段深い層だ。
具体的には、非可換幾何と派生代数幾何を超えたcondensed homotopy type theory的な枠組みで、弦の状態空間を再構築できないかを考えている。
通常、弦の状態は2次元共形場理論のヒルベルト空間の元だ。しかしそのヒルベルト空間自体が背景依存だ。
そこで僕は、背景時空を対象ではなく論理として扱うアプローチを試みている。つまり、時空を集合ではなくトポス、しかも通常のトポスではなく、凝縮集合の∞-トポスの内部言語として再定義する。
もし時空が内部言語なら、弦の振動モードはその内部論理における型の自己同型になる。物理量は数ではなく、スペクトル化された型の族だ。すると作用原理は、変分ではなく、高次随伴の普遍性条件に置き換わる。
ここで問題になるのが、量子重力における測度の不在だ。経路積分は形式的だ。測度論的に意味を持たない。
だから僕は、経路積分をやめることにした。代わりに、弦の理論を∞-圏におけるコリミットの存在定理として再定式化する。散乱振幅は、ある導来スタック上のコリミットの普遍性で特徴付けられるはずだ。
今日の午後は、トポロジカル弦をさらに一段抽象化した。通常のAモデルやBモデルは、シンプレクティック幾何と複素幾何に依存している。
しかし僕の仮説では、それらはモチーフ的スペクトルの異なる実現に過ぎない。もし弦の理論がモチーフ的安定ホモトピー圏のある特別な対象として定義できれば、ミラー対称は単なる双対ではなく、自己随伴性の現れになる。
さらに踏み込む。M理論は11次元の理論だと言われているが、それは次元という概念に依存している時点で古い。
僕は次元をホモトピー次元として定義し直したい。時空の次元は整数である必要はない。むしろスペクトル列の収束段階として与えられるべきだ。次元が整数だと誰が決めた。整数は人間の都合だ。
そして今日一番のアイデア。弦の相互作用を高次因果構造の圏論的ファイバー積として記述できるのではないかという仮説。
もし因果構造そのものが∞-圏の射の方向性として内在化されれば、時間は外部パラメータではなく、射の分解長として定義できる。時間は実在ではなく、分解の深さだ。これはまだ作業仮説だ。証明はない。だが美しい。
ウィッテンでも分からないというレベルを超えるには、既存の言語を捨てるしかない。だから僕は物理を論理の自己整合性問題として書き換えようとしている。
もし理論が本当に基本的なら、それは方程式ではなく、圏の普遍性で記述できるはずだ。
夜。ルームメイトが冷蔵庫に僕のヨーグルトを置く位置を2センチずらした。平衡状態が破れた。僕は再配置した。彼は「ほとんど同じだ」と言った。ほとんど同じ、というのは物理では致命的だ。量子補正を甘く見るな。
隣人は僕に「たまには外に出たら?」と言った。外とは何だ。座標系の選択に過ぎない。僕の部屋は十分にリッチな多様体だ。
友人Aは工学的応用を語り、友人Bは統計力学の話を振ってきた。彼らは確率で世界を語る。しかし僕は確率を定義する測度を疑っている段階だ。レベルが違う。
習慣について。朝は7:00に起床。ベッドから出る角度は毎日同じ。右足から。これは対称性の自発的破れではない。意図的な選択だ。
月曜夜はタイムテーブル確認の日。研究時間は25分単位。休憩は5分。これは脳の情報エントロピーを最小化する最適分割だ。
今日までの到達点。
弦理論をモチーフ的安定∞-圏における特別なE∞-代数対象として定義するための公理草案を書いた。
ただし、存在証明はゼロ。整合性チェックも未完。現時点では、美しさだけが根拠だ。それは危険だ。美しさは必要条件だが十分条件ではない。
第二に、経路積分をコリミットで置き換える際の同値性条件の検証。
第三に、冷蔵庫内配置の安定性解析。
00:18になった。
宇宙はまだ圏に落ちていない。だが落ちるはずだ。
落ちないなら、それは僕の定義が甘いだけだ。
日本の大学入試において実施されている大学入学共通テストは、もはやその役割を終えており、制度として廃止されるべき段階に来ている。共通テストは「公平性」「客観性」「全国共通の学力基準」を掲げて導入されたが、現実にはそれらの理念を十分に達成しているとは言い難く、むしろ高等教育と社会全体の発展を阻害する要因となっている。
第一に、共通テストは大学教育との接続において決定的な欠陥を抱えている。大学で本来重視されるべき能力は、知識の暗記や高速処理ではなく、問題を発見し、仮説を立て、資料を読み解き、論理的に表現する力である。しかし共通テストが測定しているのは、限られた時間内で正答を選択する能力が中心であり、大学教育に不可欠な研究的・探究的能力とは大きく乖離している。
第二に、共通テストは大学の教育・研究リソースを大量に浪費させているという点で、極めて深刻な問題を孕んでいる。多くの大学教員は、本来であれば研究や授業改善、学生指導に充てるべき時間と労力を、問題作成、出題検討、採点調整、制度対応といった入試業務に割かれている。特に国立大学を中心に、研究力の低下や教育の質の停滞が指摘される中で、全国規模の統一試験に大学教員を動員し続けることは、人的資源の著しい非効率利用である。
大学は本来、知の創造と高度人材の育成を担う社会的インフラである。にもかかわらず、その中核的リソースが「18歳をふるいにかけるための試験運営」に恒常的に吸い取られている現状は、日本社会全体にとって大きな損失である。共通テストは単なる入試制度の問題にとどまらず、学術研究の停滞、イノベーションの遅れという形で、長期的な社会的発展を阻害している。
第三に、共通テストは高校教育をも歪めている。多くの高校現場では、探究学習や協働的学習よりも、共通テスト対策が優先され、生徒の学びは「出題されるかどうか」に強く規定されている。これは教育の目的が知的成長から点数獲得へとすり替えられていることを意味し、人材育成という観点からも極めて非生産的である。
第四に、共通テストは受験生に過剰な負担と不安を与え、社会的コストを増大させている。私立大学専願者であっても共通テスト対策を求められる現状は、受験の複雑化と長期化を招き、家庭の経済力による格差を拡大させている。全国一斉試験であることが、必ずしも公平性を保証しないことは明らかである。
さらに問題なのは、共通テストが大学の主体性を弱めている点である。本来、大学は自らの教育理念と人材像に基づいて学生を選抜すべきである。しかし共通テストへの依存が続く限り、大学入試は画一化され、大学の多様性は形骸化していく。これは高等教育システム全体の活力を奪う結果につながる。
全国一律の試験で若者を序列化し、その結果に社会的意味を過度に付与する発想は、もはや現代社会に適合しない。共通テストの廃止は混乱をもたらす改革ではなく、大学が研究と教育に本来の力を取り戻し、高校が主体的な学びを回復するための必要条件である。画一的な選抜制度から脱却し、多様な能力と可能性を正当に評価する仕組みへと転換することこそが、日本社会の持続的発展に不可欠なのである。
現在のパートナーとは約三年一緒に居り、平均週一くらいの頻度でセックスしているのだが、
今回のセックスは最後まで気分が乗らず、あまり濡れないし痛みも伴い★☆☆☆☆だったな、とか、今回のセックスはオーガズムに達してはいないものの満足度が高く★★★★☆だな、とかセックスの質にばらつきがある。
しかし、欲を言うと毎回★★★☆☆くらいのクオリティを維持したセックスがしたい。
低クオリティセックスはフィニッシュ後に少しセックスがトラウマになり、しばらくセックスへの意欲が低下するためである。
そこで個人的にクオリティの高かったセックスを振り返ったり、必要条件と思われる条件を挙げていくことにする
服の上から乳首を優しく30分ほどマッサージされ、満を辞して下の愛撫にうつり、しっかりと手マンされた後に挿入されたセックスである。
個人的に長時間微弱な刺激を与えられたことによる「焦らし」が効いたのではないかと推測する。
騎乗位で挿入時ポルチオを突かれオーガズムに達することができた。
普段はお互いの家でセックスをしているが、旅行先でふと目に留まったラブホテルで何回か致したことがある。
セックス専用空間という非日常感が効いたのか特に前戯をしなくても充分に性器が潤っており、入室後即挿入が可能であるほどスムーズで、特に普段と変わらないピストンであっても速やかにオーガズムに至ることができた。
パートナーとは普段あまりキスをしないが、この日は性器への刺激そっちのけで舌を絡ませるキスに時間をかけたところ、手マン無しでも痛みなく挿入が可能だった
いわゆる種付プレスの体勢で挿入時もキスを続けたがオーガズムには至らぬものの精神的充足感が強く、ハイクオリティセックスになったと考えている。
④セックスするつもりはなかったが寝起きにボディタッチをしていたところ盛り上がり挿入に至ったセックス
セックスする予定ではなかったが自然とボディータッチで互いに気分が高まっていき満を辞して挿入となったセックスである。騎乗位での挿入となったが硬い性器がぼこぼこっと膣内を押し進んでいく感覚が楽しめ、オーガズムにも達することができた。
まず①体が清潔なこと ②行為中の崩れた顔が見られない程度の薄暗い空間 ③パートナーの射精のタイミングである。
特に自分にとって①は重要であるらしく、清潔な状態でないとパートナーに不快な思いをさせるのではないかと考えてしまい、性器が濡れない。
ちなみにオーガズムとセックスの満足度はあまり相互関係がなく、
一度はオーガズムに達したものの、イッてから③の期間が長く、性器が乾いた事例もあるし、
オーガズムには達していないものの終始性器がびしょ濡れで満足したセックスも幾度もある。
今後の展望
自分は非日常的な空間という特殊なシチュエーションや、挿入までの焦らしを時間を好む傾向があることが分かった。
その傾向を踏まえ、車内でディープキスを続けて満を辞して挿入するカーセックスや、秘宝館デートでじっくりムラついた後にラブホテルに直行し入室後即挿入ガンガンピストンなどのシチュエーションでは非常に満足度の高いセックスが望めるのではないかと感じた次第だ。
しかし今のご時世、カーセックスはなかなか難しいものがあるし、毎回性交渉を★★★☆☆のクオリティで維持していきたいという主旨からもズレてしまった。反省している。
過労死については割と社会や企業の責任が問われる風潮があるよね
じゃあ欧米はどうなのかというと、労働者とエリート層は区別されてるらしく、エリート層の過労死は自己責任らしい(調べた)
日本もそうなるべき、と言う人がチラホラ居るし、世の中その方向に行きそうな気がしてるけど
その時選択的エリート層の過労死を社会は「本人の責任」と割り切れるだろうか?
名ばかり管理職みたいなものが現れそうだよね、またはその中間のグレーな状態
チャッピーが言う「名ばかり管理職が生まれる条件」が面白かった
ここ変えないと同じ話だよね、時代が逆回転して終わり
👉 これが揃うと
「責任だけ重くて権限も報酬もない管理職」**が量産される。
増田もメンヘラではあるのだが、メンヘラには2種類いると思っている。人に迷惑かけられるタイプとかけられないタイプだ。増田は後者だ。人の顔色を常に窺っている。その割に気が利かないタイプなことも自覚している。
わかる。人に迷惑をかけるタイプのメンヘラも、彼女らなりにSOSを出しているのだ。大体は家庭環境なり養育歴に難があり、どこかに心の傷を負ったものが表出していることは。
しかし
あと全然親が優しいパターンのやつら。お前らは本当になんなんだよ!?!?!?
最近はなんとか気力で優しい世界の住人になろうと粘って、粘って、なんとか人並みの幸せを手に入れた。
なんてことないありふれた話だ。宗教三世、DV、(父親の罵声(たまにそんなことで?という顔するやつ、ちゃんと心理的虐待にあたるから調べてみろ、脳の一部が萎縮するんだからな))まあありがちに鬱、新卒で入った会社を辞め、生活に必要最低限な金を風俗で稼ぐ。
家族も頼れず、友人もいない、男性には恐怖心があるため彼氏を作って家に転がり込むなどもできず、孤独に生きてきた。
生活保護は?などと抜かす人間もいる。お前、頭が良くない増田に申請ができると思うのか?そもそも、必要条件をお前自身が知っているか?親に連絡が行くようなら首をつって死ぬような状況になったことはあるか?
そんな状況ではあったが、なんとか手に職をつけて、優しい人間と結婚をした。
はいはい結局結婚ですかだと?増田も男に生まれたら、1人で生きていきたかったよ。
PMSで自殺未遂をしたことあるやつだけが増田に石を投げていい。
それもなんとかピルなどで押さえ込んで、ようやく増田は人間の形を保っているんだよ。
結婚や男性についての書籍を読み漁って、より良い生活を送れる型に己を押し込んで、ようやく掴んだ幸せだ。
話は戻るが、だから、大した苦労も勉強もせず、やむ。。。ᐡ𖦹 ̫ 𖦹ᐡなどと言ってる人間を見るとどうしようもなく殺意が湧く。
大抵そういう人間にはセットでなんだかんだ面倒を見る奴がいるのも見ていて発狂しそうになる。親、友人、彼氏、旦那…
私が持っていないものを全て持っているくせに「病んでいる」「鬱」などの言葉で人の善意をいくらでも引き出せるその邪悪さ、見ていて惚れ惚れするよ、頼む、死んでくれ。
まあ、ここまで書いたが、やっかみなことはわかっている。
今の私にできることは過去の自分に対してよく頑張ったねと労うことくらいだろう。この苦しみから逃れたくて、散々自己啓発の類を読んだから知っている。
もう私は幸せな世界にいるのに、たまに腹の底からぐわっと全てが憎くなる。