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はてなキーワード: 人間原理とは

2024-08-30

anond:20240830104752

人間原理

発達障害のやつ、好きやけどほんまに嫌いやわ

常識ないし、自分のことばっかりやし、大した能力ないのに自分のこと特別と思い込んでるし、自意識過剰やし、八方美人やし、気持ちいねんな

で生きるの苦しそうにしてるし、自業自得やろ。

普通の人より劣ってるのに非凡だと勘違いして調子乗るからやわ

大人やのに成長してないんやろな

子どもやねんな 自己中とかの騒ぎじゃない

それを悪びれもないねんな なぜかそれを正当化できないのにしようとして乖離矛盾が生まれ気持ち悪いだけの生物になってる自覚がない。

顔も整形がないとどうしようもないのに

整形のおかげでまともになって 図に乗る

見た目は大人頭脳子ども その名も発達障害 ガイジ この自覚がない時点で病気

病気のやつの大半は自覚いか

治そうともしない 自覚がないか

その結果 何かにいつも迷惑をかけ続けてる

劣ってるって自覚してそれを乗り越えようとする努力が美しくてその結果が賜物である

そうして自分を変えて自分から見える世界を変えていく

何者でもない時点のやつが、特別勘違いして

何もできないどころか落ちこぼれの分際で

ありのまま自分他人に受け入れさせようとしたり、迷惑まりないよ

これ発達障害が悪いって話じゃないからね。

ちゃんとしようとしてる人も沢山見てきたし

好きやけどって書いてある。

ただ8割が性根腐ってる 先天性以外の部分

後天的にどうにでもなる部分や何でも発達のせいにしたり、発達障害と思ってない私は普通ですみたいな顔して他人傷つけたり、生き様の話

人を巻き込んで自分存在肯定する

それを正当化しようとしてる時点で

思考回路がマジモンのガイジです

虚言癖やから嫌いやねんな。

すぐ空気入れて話膨らますし あと自分ガイジって自覚してない所もうざいねんな 2択やろ

人の猿真似しかできない出来損ないか、人が真似できないような事をして世を変えてくか

前者の発達障害健全者以下の自覚持って人間原理に基づいてください

2024-04-17

anond:20240417124337

参加型宇宙ってのはジョン・ホイーラーが提唱したやつで、意識による観測によって状態収縮させて情報を積み上げて世界存在するっていう一種人間原理理論ね。

2023-11-11

存在は偶然ではない?

地球状態があまりにも人間の都合が良い状態に保たれている理由について説明する時、

ぐらいのバリエーションはあると思うが、偶然説はありえないと個人的には思う。

2023-06-17

人間原理

物理定数がちょっとでも狂うと生物存在できない

→ それぞれの物理定数はなぜこの数値になっているのか

宇宙人間存在するために設計されているのではないか

2022-11-04

anond:20221104114046

人間原理https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E9%96%93%E5%8E%9F%E7%90%86 )的に言えば、そうやって意味ねーし割に合わねーと思いながらも死ぬのは怖いとか美味いもの食うと忘れるとかでグダグダ生きてしま性質の生き物だからこそ繁栄してるわけで、もしそうでないならとっくに絶滅して別の種に置き換わってただろう。というわけで実際に意味のない生に割の合わない苦労があるとしてもどうせ生きちゃうんだよとしか言えないっていうか。

2020-04-04

anond:20200404233407

野生の小動物爬虫類を生きるために狩る練習していた

野生の小動物は「生きるために」とか「狩る練習」なんて目的意識特にないと思うよ

本能的にそれやるとなんか満足するからやってるだけ

 

人間小動物の首を切ること

これも同様で、少なくとも現代社会では何の意味もないけれども、

そういうのに満足を感じる個体がいることが何かしら適応的な意味があったというのは十二分にあり得ます

 

人間だけを特別視する人間原理主義はやめましょう

2019-11-18

anond:20191118135004

人間原理だぞ。

地球と同じような環境でなければ知的生命体が育たないなら

地球と同じような歴史をたどって地球と同じような人間が生まれるんだぞ。

2019-11-17

anond:20191117200333

現状検証可能ではない仮説自体人間原理以外にも科学世界にはなんぼでもあるで

だがある時検証不可能と思えたもの検証可能になるブレイクスルーもある

ベルの不等式とかほら

から「それ信仰みたいなもんじゃね?」とは科学者は言わないだろう

判断を保留する賢さが必要

anond:20191117195444

人間原理たまたまうまくいった世界現在私たちという意味であって全然人間は中心におらんで?

文系特有の読み間違いじゃね?

2018-07-15

anond:20180715114420

人間原理と並行宇宙と量子の確率性質

合わせた感じ

因みに、俺の意見というよりは

元増田のクソみたいに分かりにくい話を

解釈していたら、

意外に面白いと思っただけ

2018-06-01

 『元禄俳優伝』という本は、歌舞伎評判をもとに上方江戸の名優と呼ばれた人々を紹介するものだが、歌舞伎評判の作者が、それまでとは違った型の芝居に面白さと魅力を感じたなら、それを大々的に擁護して、大衆にもその新しさい面白さに目を開かせるということが現実にあったという。批評が新しい規範を作り出し、世界観を変えていくというみごとな例である。そういうダイナミズムが私にとっての批評面白みの一つようである私自身の現実では、こんなことが起こりようがないのではあるが。

http://isidora.sakura.ne.jp/mizu/water5-3.html

三浦 俊彦「エンドレスエイト驚愕: ハルヒ@人間原理を考える」

https://www.amazon.co.jp/dp/4393333608/?coliid=IAMWI4Z17NG7S&colid=16LK0GXKOD58N&psc=0&ref_=lv_ov_lig_dp_it

2018-05-17

言葉真意の居場所とは

人間原理”という言葉をあまり好まないのだけど、そこでわたしが言う「その考え方は、あまりに”人間原理”的だよ」という場合と、

もししゃべる犬が存在するとして、その犬が「その考え方は、あまりに”人間原理”的だよ」と言った場合

それは果たして、同じ意味に成り得るのだろか?

2018-03-19

この世ってつくづく思うけど、地獄のものだな

はてな匿名ダイアリーだけでもそうだけど、

幸せを持たざるものは、どうやっても救われないで地獄絵図を作るキャストしかない

一方、幸せ人生を送る側は地獄絵図なんてほぼ視界の外にして生きている

簡単に言えばアフリカ飢餓孤児お茶の間テレビで眺めながらホットケーキメープルシロップかけて食ってる構図だ

もし真横に異常に腹の出た飢餓孤児がいれば内心穏やかでなく満足に食事も取れずに、

自分が食べる予定だった食べ物を分け与えるか、もう少し頭が良ければ救急車を呼んで入院させ点滴させるだろう

ところがどっこい、これは起こり得ない

何故なら遠いか

ただ遠いから、自分生活と関わりがないからという理由で平然と無関心になれるしご褒美スイーツを食っても心を痛めない

 

今30歳、当時中学生1年の頃にアフリカ飢餓孤児TVで見たときはフーンと思っていた

しばらくそんな国もあるんだと思っていたがふとしたとき気づいた

「俺と孤児のどこが違うの?」

肌の色とか民族とかDNAとかそういうのは割とどうでもいい話で

もしアフリカの民と日本の民がそっくりそのまま場所を入れ替えたら、

俺が飢餓孤児になってアフリカの子どもが食卓目玉焼きを食いながら俺をTVで見ていたんじゃないか

人によっては「日本アフリカ人が住んでもアフリカのようになるだけだ!」みたいなことを言う人もいるかもしれない

もちろん現実アフリカ人を急に移せばそうなるだろう

じゃあアフリカ人が日本列島にたどり着いて日本人がアフリカ大陸に残った別の歴史世界の話でもいい

それとも俺の魂がアフリカの子どもで、アフリカの子もの魂が日本人の体の中で入れ替わって産まれてきた世界でもいい

とにかく、完全に、運なのだ

なのだ

こればっかりはどれだけ取り繕ったところで人生は運に支配されている

努力すれば変えられるという人も勿論いる

だが努力が公平であればあるほど、天才努力に凡人の努力は勝てなくなっていく

甲子園に出場した甲子園球児が全員プロ野球選手になれないのと同じ理屈

プロ野球選手は圧倒的に眼の才能によって大きく分けられる

眼球の筋肉(眼筋)は後天的に鍛えにくい部位であり

ドーピングは単純な筋肉量ではなくこういった鍛えにくい部位の筋力を増強させている

こうすることで恐ろしく早い速度のボールを肉眼でとらえることができヒット率が上がるのだ

結局、ボールバットに当てる才能は天から授かりしものであり、

凡人はドーピングを使った「努力」をしなければそこまで到達できないのである

しかしその努力スポーツ界では認められていない、ただし公には。

 

では逆説的にすべての人間が同じ能力を持つクローン人間だったとしたらどうだろう?

どこにいてもどんなとき出会うのは自分と同じ人間

発想も発明ファッションも日々の生活も何もかもどこを見ても似たり寄ったり。

嫌いなものはこの世から消え去り、自分の好きなものしか残らない。

大した争いも起こらず同じ権利のため競争も起こらない。

ベースとなる人格がよほど凶暴でない、疫病が流行らない限りは一見平和世界に見える。

しかし彼・彼女にとってその世界は本当に楽しいものだろうか?

好きな物・嫌いな物が混在し自分理解を超えたもの存在し、

異文化があり自分と違う価値観があり、日々体験更新していく方が個人人生において充実しているのではないか

自分が作った映画小説など、所詮自分想像以上の産物にはならないだろう

娯楽に頼ろうとしても自分日記を振り返って読む感覚しか得られないだろう

なぜならその経験解釈でさえも彼らは同じような解答しかできないからだ

もし増田に俺しかいないとしたら絶望である

明日明後日も「この世は地獄だ」という日記を見かけるであろう

俺たちがそう思ったタイミングが別々に訪れ、別々のタイミングで同じ投稿をするだろう

そしてそこには同意トラバさえつかず、なぜなら自分が分かり切ったことだから自分独り言に反応する必要性すらなく

ただ独り言が流れ続ける暗闇へと変わるだろう

それもまた地獄と言わずに何というだろうか

 

ここで理想的解決としては運の最低の期待値をせめて飢餓孤児や産まれた瞬間殺される子どもでないように世界を作り替えることだろう

重大な疾患を抱える子ども遺伝的コーディネイトしても良いかどうかは倫理観が問われるところだが

個人的には行ってもよいと考える

なぜなら、元々生まれ必要などこの世には無いからだ

人間原理的に生存繁栄肯定され、そこに疑問の余地を挟まないのが当然だと思われている

しかしそれは誤りである

宇宙地球人間がいつ死んでもいいと思っているし、

絶滅しようがどうなろうが知ったこっちゃないというのが至極当然の感想だろう

この広い宇宙知的生命体が人間しかいないという考えも妄信的で霊を信じるよりも俺にとってはオカルト思想

また宇宙から寵愛を受けているか人間誕生したというのもまた妄信的で人間原理によりすぎた思想

人間宇宙から無関心であることに感謝しつつ、人間選択のものによって理想的世界を手にするべきだ

理想的社会を手に入れるためならば人間は産まれ必要性あるかないか選択することができ

まれた知能と肉体を一定以上備えた状態の子孫を望んだっていいのだ

なぜなら宇宙も神も世界も誰も人間について無関心だから

関心があれば産まれときから不幸な孤児をこの世に産むわけがなく、何らかの救済を宇宙法則として残しているはずである

仏教には輪廻転生という言葉があり罪を減らすために現世に産み落とされるという

では産まれた瞬間からコンビニ袋に入れられ、トイレに捨てられ死んだ赤子はどこに罪を減らすチャンスがあった?

全く宗教が信じられないのはどれも神は人間に寵愛を与えているという観点である

俺は全く信じられない

俺が安心してホットケーキを食うことができるのは飢餓孤児地球から存在しなくなった瞬間だ

それ以外では頭の隅から追い出して生活する逃避行動を取る以外にない

もしくは俺が自分の行動に矛盾性を排除するためには隣に飢餓孤児がいても無視して締めパフェを食う神経を身に着けるしかない

俺がどうしても神を信じて感謝することができないことはその1点だけでも十分すぎることだ

故に神や宇宙人間そもそも無関心であるという解釈を俺は信じている

そしてその上で神や宇宙人間にとって安全装置として機能しないのであれば

人間にそれを作る選択権があることを人間自身が認める権利があるということだ

人間人間必要権利自由を決める上で最も重要なのは法だ

法について話をするのは、また別の機会にしよう

 

話を戻すがこの世は地獄のもの

人間生命は単に誕生することができたか

可能性の隙間があってそこを通り抜けたか存在しているのであって

寵愛を受けたわけでもなければ選ばれた存在でもない

宇宙天体・この世の物理法則自分らの隙間に入り込んだ生命に対しては無関心であり

自分らが身をよじってそれらが絶滅しようが全くの抵抗がない

故に生命は神や宇宙に頼らずに自分たちで選択しなければならない

でなければいつまでも地獄に閉じ込められたままだ

もっと具体的に言えば俺が真に幸福ホットケーキを食べる瞬間は未来永劫来ないことになる

この世は地獄

2018-02-21

anond:20180221013819

そこで紹介してる本は1冊も読んでないが

マルチバース論でいえば

人間が居るから→都合のいいこの宇宙がある、の人間原理帰結するのではなく

じゃなくって

無限物理法則状態を持つ宇宙存在するから無限にあるならその中の1つにこの宇宙が含まれていても確率的な問題を抱えずに「人間の居る宇宙」という条件はクリアできるって話だろ

例え天文学的確立の低い出目だって無限宇宙サイコロ無限に振ってれば人間絶対出るって話

逆に言えば無限にあるからこそ人間想像する以上の宇宙がオムニバースには存在して

全く物理法則が違い魔法存在する世界もあるし、逆に瓜二つの宇宙存在する確率が十分すぎるほどある

しろ絶対存在否定しうる根拠が揃っていない

であるからして、虚構世界は我々と関係性がなくとも実在しうる条件は十分満たしている

って解釈をいましたけど内容はどんなのかは読んでないので分からん

まあ、この宇宙だけしか存在しなかったとしてもまさか1回こっきりで太陽系地球人間なんてできるわけないので

ビッグバン宇宙的死を無限に繰り返したと仮定してもいいだろう

エンドレスエイト論の三浦俊彦増田

古書店の雑に積まれた本の中で存在感を放っていた「虚構世界存在論」を手に取ってから20年くらいになるか。

可能世界哲学」「多宇宙輪廻転生」と購入してきた。

一般向けの論理学入門でありながら理屈ハードで手応えのある二見書房の「論理パラドクスシリーズは好評

のようだが、増田の好みではないので買ってない。


サウンド・オブ・サンダー」として近年映画化されたブラッドベリタイムパラドクスもの「雷のような音」を

虚構世界存在論」で取り上げていたこともあり、SFに強い哲学者として認識している。小説の方は合わなかった。


三浦俊彦の得意分野は、「可能世界」を用いたフィクション論、「人間原理」を用いた意識論。とサプリメント


可能世界論、とは何かはwikipediaでも読んで欲しいが、もし暴走トロッコの先にドラッカーが居たら、とか

プロレスラー専用列車があれば、とか現実ではない仮定について、論理的に扱う仕組み。

そのハードコア一派に様相実在論というのがあり、そういう可能世界仮定存在記述上の論理ではなくってな

全部実在してっから、いやマジで、と主張して、急にそんなこと言われてもいやソレはないわー、と異端視されてる。

これだけで、もう架空戦記異世界モノですよね、OK

その実在している他の可能世界と、我々が唯一認識している現実とを区別するものは、我々が居るという

関係性だけの違いである。


この辺りで人間原理スライドしてよろしいか

真空のゆらぎからビッグバンが生じ、宇宙の各定数には様々なあり方が有り得たはずなのに、なんでこんなに人間

存在するに都合よくできているのか。それはね、人間が見ているからだよ。

人間宇宙を観察する時には、人間存在できるような宇宙でなければならない。

こういう理屈は判るんだが理由説明しきれない自己撞着的な話が人間原理

これって、この現実に我々が居るという関係性の話だよね。


宇宙は様々な形でありえた、また実際にある、というマルチヴァース、多世界解釈、サイクリック宇宙論物理学の話。

それと様相実在論をつなげ虚構実在論にも踏み込みフィクションをも真面目に哲学的に語る。

これが三浦スタイル


なろうもカクヨムも在るんだよ。

2014-06-13

http://anond.hatelabo.jp/20140613085444

その包括式みたいなもので比べてる物自体おかしい。

「”この宇宙”>次元パラレルワールド時間>光」

まず、時間は単に次元の一つ。そういう意味では「次元>時間」とは出来るだろう。

ただ、「次元」というのはその時間とか空間とかの単位であって、

いわゆる「時空」の事を言いたいのでは?

「時空>時間 or 空間

光、もまたぜんぜん違う軸に居るものだけど、単なる物質なので入れ物の中にある、という意味では時空や"この宇宙"なんかの中にあるものだろう。

パラレルワールド、と考える時は、時空が違う物が他にあるとかんがえるのだと思うので、

そういう意味では時空、はパラレルワールドの中にあるのかと。

パラレルワールド>時空>光」

"この宇宙"ってのは定義次第。

「この」が今いる「パラレルワールド」を示すなら時空と同一だし、

パラレルワールドも含んだ一番の大きな枠組、としても別におかしくはないだろう。

けど、物理よりな一般的には多分、今いるこの「パラレルワールド」を指すと思う。

色々な宇宙がありうる、と言った表現をするし、

人間原理等の話をするときには「人間が居るこの宇宙では」という話になる。

アニメとかだと、「宇宙」をもっと上の包括物にして、「この宇宙」については「この歴史」とかに言い換えてるのも多いかも。

その点で、増田は「歴史」を時間、と考えたのかな?その場合時間パラレルワールド、になると思うけど。

2013-08-22

http://anond.hatelabo.jp/20130822093717

マジレスすると、数学上、その様な記述が可能だというだけ、と言うのが現状。

その体型を拡張してビッグバンにつなげ、現宇宙に無矛盾につなげることが出来る。

その"あわ"みたいな状態をキチンとイメージ出来るやつなんて居ない。

この"あわ"ではないが、ホーキング自身、自身も用いている余剰次元と言った物を信じるが、

具体的にイメージは出来ない、と話している。(それでも"イメージ図"は出している。ただ、それは無理矢理図式したもので、真の余剰次元は表していない)

そもそも人間4次元世界に生きているので余剰次元は"イメージ出来ない存在"なのかもしれない。

同様に、ビッグバン前は、人間存在し得ないので、人間ビッグバン以前を"知る事が"出来ない存在なのかもしれない。

これもまた人間原理の1つ。



まりドラゴンボール世界では悟空存在し、大猿になり、ナメック人が攻めてきて、セル天下一武道会をやっちゃう、なんてことは事実で、認識出来ている人間は居る。

一方、我々の世界ではそれらを漫画の中のものとしてなんとなく見ることはできるが、それらが実際に存在し、破壊が行われる、などということは現実として受け入れられない。

ちょっとずれてる気もするが、"ビッグバン前"とか"宇宙の外"の世界の話ってのは、現在はそのレベルの話であると考えても良いくらいなもの

2013-06-21

http://anond.hatelabo.jp/20130621121948

均衡が利益を最大にするんじゃなくて、

そういった状況は必ず生まれる、と言う前提でその中で最大利益を求めるってことでしょ。

そりゃ、皆が皆、最大レベルで働いたら利益としては最大になる(その他の社会的混沌は別として)

まあ、全く別方向から考えて、

働き蟻の原理はどこをみてもある当たり(生き物じゃなくてもすべてが完璧な物は珍しいわけで)

なんだかんだでそういう"甘え"のある人間が居ることが

その後の人類全体に取っての(もしくは地球?宇宙?にとっての)

大利益に寄与してきているんじゃないか、っていう人間原理を説いてみる。

2013-04-14

http://anond.hatelabo.jp/20130414211613

最近俺の周りで盛り上がった話。順不同。

数学鉄板だな。あとはまぁ仕事の話。

2012-09-29

ペット家畜のちがい、あるいは教育の失敗

面白い2chまとめ記事を見つけた。いわゆる命の大切さを自覚させる教育についてのもの

「豚を殺して食べる授業ってあったじゃん?あれってやり方が悪いよな」

http://oryouri.2chblog.jp/archives/7471447.html

元記事では「ブタがいた教室

http://goo.gl/DV423)(Wikipedia

http://goo.gl/D07Pw)(amazon

という映像作品が焦点になっている。これは生徒たちに生きているものを食べるという意味を考えさせるという目的で、1年間「食べる約束」でPちゃんと名づけられた子ブタ飼育する児童の活動の記録だ。容易に予想される通り、殺すべきか殺すべきでないかを巡って児童らは激論を闘わすことになる。以下、この作品における子供たちと家畜(あるいはペット)としてのブタとの関係について少し考えてみようと思う。なお、児童の下した最終的な決断がどのようなものであったかはここでは重要ではない。

とくに考えてみなくとも、この教育方法愛玩動物家畜意図的に混同させてしまっている点で偏向していることはすぐ看て取れる。牧場屠殺場の労働者と異なって、児童たちにとって家畜を殺す選択とは生活上の要請や主体的な投企ではないし、それらに束縛された社会的な半義務から解放されている。かれらは「ブタとともにいる今のこの経験」をまったく外部から与えられた教育機会として甘受しているにとどまるため、必然的に(屠殺という)未来との緊張的な関係はほどかれてしまう。つまりブタは形式的には家畜として存在していても、児童たちにとっては犬や猫のようなペットとなんら変わらないし、その素朴な誤認が改められることもない。

農家で働く人々のなかには、家畜愛称で呼んで慈しみながら育てる者もおそらいるかもしれない。だが、衛生管理、給餌、畜舎環境整備、精神状態への配慮、成長の仕方への注視といった諸々の世話は、家畜を取り扱う職務というひとつ社会的役割の枠の中で分化した業務である。したがって、それが職務である限りにおいて動物との関係は尊重されるのであり、家畜への愛情とはひとつひとつ労働の只中から立ち現れるものだ。だからペットのように対象を没入的に愛玩することが先行しているわけではないし、そうした依存は成立しようがない。この意味で、公共的領域に属する家畜は私的領域人間を慰めることに専念するペットと同一視することはできない。

この教育が欠陥を抱えているのはまさにそこで、生物を食べるということの意味を考えさせるはずが、ペット家畜として扱う行為の是非がそれ以前に立ち現れてくる羽目になることだ。あるいは、「教育機会として与えられたブタを、教育目的として屠殺すること」という奇妙な倫理問題が登場してくることになるのだ。だからブタの形式的な存在よりもむしろブタとの実質的な関係を重んずる児童ならば、きっと殺すことに猛反対することになるだろう。それも、生命の尊さという観点からではなく、先ほどまでは愛玩していた動物教育用だからという理由で屠殺することの倫理的な疑問からである

生命を奪って食物をいただくことは非常にありがたいことなのだ屠殺はやむを得ないのだ)」という結論に子供たちが至ると教師が期待していたのならば、その教師は教育権力子供の阿りにあまり幻想を抱いていると言わねばならない。なぜならば、当座の問題として、子供たちにとって「ペットとしてのブタ」が同時に「家畜としてのブタである必要は一切ないのだから感情に束縛された反対者がこのことに気づくかどうかは別として、この葛藤は両者を厳密に区別さえすれば解決する話ではある。我々が生活的・社会的意味から屠殺要請されているのは家畜用のブタという一般的な対象であって、Pちゃんという特定的に指示された一匹のブタではないだろう。

こうなると初期の教育目的から大きく外れた論理子供たちを支配するようになっているのが理解できるだろう。屠殺がそれ自体として容認されるべきか否か、また、容認されるとして我々はそのことをいかに受け止めるべきなのかという課題は置き去りにされる。うってかわって幅をきかすのは、「それが屠殺から回避されるべきペットであるか否か」という二択問題でしかない。

つまるところ児童の躊躇と反発は、動物一般を屠殺することにではなく、愛情を受けるに値するペット屠殺することに向けられることになる。もし教師がこの洞察の対象を臆面もなく「命の尊さ」と名づけ、児童らがそれを真に受けるとしたら、それは教育的にも、児童感覚を支配する論理から言っても、致命的な取り違えを犯すことになる。なぜなら、そこで問われている生命価値とは、その動物が与えられている人間愛情という尺度によって一律に測られるものにすぎないからだ。この錯誤は一部の動物愛護団体も陥っている、言うまでもなく極めて未熟な人間原理である

屠殺に賛成する児童にしても、その意見後ろ盾となっているのはそのブタ屠殺されなければならない社会的制約にあるのではない。先にも述べたように、「ペットとしてのブタ」が同時に「家畜としてのブタである必然性に欠けているため、それを論拠とすることはできない。代わりにあるのは、教師やクラスの皆と「食べる約束」で育てたのだから言葉通り(あるいは教師や学校の期待通り)食べるべきだという自閉的な教条主義しかない。そうした子供たちを支えているのは、ブタは一時的にはペットであったかもしれないが、家畜という名目は残っているのだから今や再び家畜に戻るべきだという同一性への信念である。したがって、生活的・社会的要請という家畜の意義はやはりかれらの目には隠されたままだ。

こうした事態はなぜ起こるのだろうか。まだ児童ペット家畜の類別がつかないからでは決してない。生活上の要求や社会的責務と切り離された、教育という特殊な環境によって本来の弁別がゆがめられてしまったところに原因はある。一般的に家畜ペット存在は公共的・私的という形ではっきりとした線引きがなされており、特に家畜に関してはその取り扱いに恣意性がはたらく余地はない。ところが、社会的要請という文脈から切り離してこれを教育という場に持ち込んだ途端に、垣根は崩されて恣意性が生まれることになる。つまり、そのブタ家畜になることもできるし、ペットになることもできる。その不安定さがすでに本来の家畜とは別物である以上、当然「生きているものを食べる」という普遍的な行為考察する可能性から遠く離れることになる。

結論として、この教育が「命の価値」や「生きているものを食べる」ことについて考えることを目指しているとしたなら、それは完全な失敗だと思う。教育の目指すところが悪いのではない。学校の一クラスの中に一匹の家畜を持ち込んで、なお家畜意味が無条件に保たれると思いこんだ教育者の甘い認識こそが問題なのだ。それは単に牧場見学職場体験を学校の内側で再現することではない。家畜は数え切れないほどの社会的紐帯繋ぎとめられた動物である限りで家畜と呼び習わされるのであって、周りを取りまく環境との避けがたい関わりを黙殺したところで家畜の理解にたどり着けるわけがない。

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