御英霊の方々へ一杯の水を捧げましょう。
こちらは沖縄の摩文仁の丘にある慰霊碑です。
沖縄での戦いは日本の存亡をかけた戦いでした。
日本全国から若者が集まり日本を護るために戦ったのです。かの有名な特別攻撃隊のほとんどの御英霊が沖縄戦で散華されています。
よく日本を貶めたい人間が『沖縄は捨石となった』とか物知り顔で言いますが、それは間違いです。
沖縄を護らんとして多くの軍人が沖縄を訪れました。戦艦大和も沖縄へ行く途中で沈みました。
沖縄を見捨てるというのであれば九州南端で防衛していたはずです。
そのような事は行いませんでした。沖縄を護るために戦ったのです。
理解しろとは言いません。ただ事実を書いているだけです。
現在の価値観と戦争時の価値観は全く異なります。
国を護ることはすなわち国土を護る事であり、国民を護る事であります、そしてそれは家族を護る事であり、妻や子供を護ることにつながるのです。そのことは覚えていてほしいところですね。
【戦後70年 沖縄戦の真実】現代の価値観では理解されない特攻隊員の“純真”愛国心
沖縄戦では、厳しい戦局を打開し、沖縄を守るために、多くの若者たちが航空特攻に志願して若き命をささげた。現代の価値観では理解されないだろうが、彼らの思いを紹介したい。
昭和20(1945)年3月26日、台湾を目指して沖縄に飛来した広森達郎陸軍中尉率いる「武剋隊」に、航空参謀の神(じん)直道中佐が、沖合の敵米艦隊への特攻攻撃を打診した。広森中尉は即答でこれに応じ、8人の部下に静かにこう言った。
「いよいよ明朝は出撃だ。いつものように俺についてこい。次のことだけはお互いに約束しよう。今度生まれ変わったら、それが蛆虫(うじむし)であろうと、国を愛する誠心だけは失わないようにしよう」
部下たちは「ハイ」と答えた。
軍事評論家の伊藤正徳氏は著書『帝国陸軍の最後4』(角川文庫)に、このように書き記している。
広森中尉らは翌27日、指示された発進時刻と寸秒の狂いもなく飛び立ち、翼を振って別れを告げたのち、西方海上に直角旋回して敵の艦船群に突っ込んでいった。大型艦5隻を撃沈、同5隻を撃破したとされる。広森中尉は三重県出身、享年23。戦死後、少佐に特進した。
沖縄県出身の「軍神」、陸軍特別攻撃隊誠第17飛行隊長、伊舎堂用久(いしゃどう・ようきゅう)大尉についても紹介したい。
伊舎堂大尉は、郷里・石垣島で出撃の日を待っていた。家族が面会にきても、「家族と離れて本土からやって来ている部下たちは家族に会えない。自分だけが会うことなどできぬ」として面会を拒み続けた。
同20(45)年3月26日早朝、伊舎堂大尉は部下の3機とともに、慶良間(けらま)諸島に押し寄せた米艦艇に特攻攻撃をかけるべく、白保飛行場を飛び立った。伊舎堂隊は敵艦隊めがけて猛然と攻撃を開始し、敵空母および戦艦を撃破した。享年24、戦死後、中佐に特進した。
平成25(2013)年8月15日、石垣島の新港地区で、石垣島から出撃した特攻隊員31人の顕彰碑が除幕された。
式典では、伊舎堂隊が宿舎にしていた民家の娘さんが「伊舎堂隊の歌」を歌う一幕があった。歌詞の3番は、式典参列者の涙を誘った。
「母さんの写真にひざまずき お先にあの世と参ります 国のおんため お母さん 花と散ります ああお母さん」
内地の若者も、沖縄の若者も、郷土や家族、そして祖国・日本を守るために至純の愛国心をもって散華したのである。沖縄は決して「捨て石」などではなかった。
【戦後70年 沖縄戦の真実】「沖縄が捨て石となった」は不適切 県民を救わんがために散った命がある
海軍沖縄方面根拠地隊司令官の大田実少将(戦死後、中将に特進)は昭和20(1945)年6月6日、沖縄戦における沖縄県民の献身的な協力と、筆舌に尽くしがたい苦労を報告し、「後世県民ニ対シ特別ノ御高配賜ランコトヲ」との一文を、海軍次官当ての電文の最後に添えた。
1週間後の13日、大田少将は幕僚らとともに、豊見城(とみぐすく)岳陵に構築された海軍司令部壕内で自決を遂げたのである。享年54だった。
戦後整備された壕の入口から長い階段を下りてゆくと、兵員約4000人を収容できる迷路のような全長約450メートルの地下司令部がある。現在は約300メートルだけが一般公開されており、大田少将の司令官室をはじめ、作戦室、幕僚室、暗号室、医療室などが見学できる。
幕僚室の壁には、幕僚が手榴(しゅりゅう)弾で自決した際に無数の破片によってえぐられた生々しい痕がある。大田少将が自決を遂げた司令官室の壁には、必勝の信念を記した「神州不滅」「醜米覆滅」の大きな文字とともに、墨で書かれた文字が鮮明に遺っていた。
「大君の御はたのもとにししてこそ 人と生まれし甲斐でありけり」
大田少将の辞世の句であった。
昭和28(53)年、かつての部下によって大田少将の遺体が発見された。このとき、壕内で多数の将兵の遺体も収容されている。後の遺骨収集でも、さらに約1500人もの遺体が見つかっている。
大東亜戦争末期、沖縄の窮状を打開せんと発令された「菊水作戦」では、日本海軍の象徴たる戦艦「大和」をはじめ、陸海軍合わせて1800余機の航空特攻が繰り出された。従って、戦後言われるような「沖縄が捨て石となった」という表現は不適切であろう。
戦艦「大和」とともに沈んだ乗員は約2700人、菊水作戦の陸海軍航空特攻で散華した将兵は約3000人にのぼる。彼らは至純の愛国心に燃えて、沖縄を救わんがために出撃し、その尊い命をささげたことを忘れてはならない。
旧海軍司令部壕内かある慰霊地区には、「仁愛之碑」なるものが建立されている。これは、冒頭の大田少将の全電文を刻んだ石碑だ。いずれにせよ、この電文を「仁愛」として捉える感情は極めて正常であり、戦後、沖縄に蔓延する日本軍への一方的な憎悪とは一線を画している。
もう一言付け加えておけば、極めて偏狭で歪な言論空間に支配されながらも、この旧海軍司令部壕では、旭日旗がへんぽんと翻っていた。沖縄の中にぽっかり空いた良識ある空間のように思えてならない。
沖縄を護らんとして散華された御英霊の方々に対して侮蔑の言葉を吐くことは沖縄に対して吐くも同等の行為です。
6月23日の慰霊祭の際に安倍総理に対して暴言をはいた左翼活動家がおります。
その人間に対して参加者の方がこのような言葉を発しました。
「6月23日は、沖縄で犠牲になった方々を、国のために尊い命をささげた方々を静かに慰霊する日です。(追悼式で叫んだり、政治発言をするような人々は)本当におかしい。沖縄戦が日本を救ったんです。学徒隊も含めた英霊の方々が日本を救ったんです。有条件降伏に持ち込めたのは沖縄戦のおかげですよ。英霊の方々には感謝するのみです。すべての戦没者に哀悼の誠をささげていた安倍首相にヤジを飛ばすとは何事ですか!」
この言葉が沖縄の民意であると私は信じております。
(ブラッキー)
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