はてなキーワード: 作用とは
ニトログリセリンは狭心症の治療薬で、血管拡張作用があるんだよ。
https://www.kegg.jp/medicus-bin/japic_med?japic_code=00067151
唇よりも、血管のひび割れ防止だろう
だが週末、熊本でなにかあるのか知らんがホテル満室で追い出されたので旅に出る。(泊まれるが法外に高い)
どっちがいいかChatGPTに聞いたら「どっちもいいよ!」みたいなふざけた回答しやがった。
おまえはいつもそうだよ。二択で質問してるのに玉虫色の回答で責任を回避しようとしやがる。
どっちか選べと指示したら「鹿児島」だと答えたので鹿児島に決定、はい責任はChatGPTな。
途中吉野家で朝食をとる。「牛すき鍋定食肉二倍盛り」。朝なのでビールは無し。バス旅でおしっこ危険。
俺は吉野家では「並牛」「牛鮭定食」「牛すき鍋定食肉二倍盛り」しか頼まない。
人生初吉野家から40年間これを貫いている。あと吉野家以外の牛丼屋はパチモノでありクソである。
キン肉マン問題や嫌なら食うな問題などどうでも良い。牛丼は吉野家である。異論は認めない。
吉野家下通店のドアは手動である、なぜ自動ドアにしないのか謎。理解不能。これだけは吉野家を許せない。
熊本の大衆は育ちが悪く品性が低めなので開けたドアを閉めない。ドアをきっちり閉めたら負けだと思っている。
熊本にはそこらじゅうに「あとぜき」の張り紙がある。熊本弁で「開けた扉を閉めろ」という意味だが、
そんな張り紙をあちこちで見かけるほど奴らはことごとく閉めない。
まして吉野家の手動ドアなど完全に閉まることはまずない。閉めろと念入りに張り紙はしているが誰も閉めない。
徒歩、桜町バスターミナルに着くと20分後出発の便がある、鹿児島行きバス路線があるのは知っているが時刻表までは調べていない。
チケットを購入。
旅慣れている俺はファミマで颯爽とお茶とチョコとワッフルを購入。
バスに乗る。
熊本のバスはクソ遅い。市内慢性的渋滞なのに市内から高速道路までのアクセス道路が無い。首都高的な、バイパス的な道路がなく
桜町バスターミナルから熊本ICにたどり着くだけで一時間かかる。新幹線ならもう鹿児島に着いている。
だがバスなら4200円で鹿児島まで行ける、新幹線だと7700円
バス一択である、金は無いが時間はたっぷりある。そもそも急ぎの旅ではない。バスの車窓も含め旅なのだ。
それにしても遅い、市内でいちいちバス停に止まり乗客を乗せる。高速バスなのにぜんぜん高速じゃない。
ようやく高速道路に入り山中をひたすら走り、無駄に鹿児島空港に立ち寄り、3時間半で鹿児島中央駅に到着。14時くらいだったと記憶している。
鹿児島は20年ぶり。今の駅ビルに建て替わる直前の鹿児島中央駅(当時西鹿児島駅)にしか来たことがなく現在の立派な駅ビルには薩摩藩の貫禄を感じた。観覧車もあるし。
駅前をふらついていると市内観光循環バスを見つけた。230円でぐるっと一周できる。80分乗って230円。どう考えてもお得。乗るしか無い。これで主要観光地全部行ったことになる。
乗ってから数分で気付いたが、そういえばこれ20年前も乗ったわ。見覚えあるわ。行動パターンが20年変わってない俺。
西郷どんの洞窟ショボっとか思いつつ、20年前も見たわ、みたいな。
俺は日本全国、世界各地行っているのでたいていのモノは初見でも感動も無いが、二度見であるからさらに新鮮みもまったくない。
16時。アホらしくなり途中天文館で降り(ほぼ一周してる)、銀だこで腹ごしらえ。
安定の銀だこ、どこで食ってもハズレはない。
鹿児島に来たからと言うて嬉しそうに黒豚だの地鶏など食わない。どうせまずい。よくて値段相応
高度に資本主義が発展し、かつ食品の保存、輸送が極限まで進化した我が国。
朝に豊洲で仕入れた魚が午後には那覇空港に到着し空港の中の寿司屋で提供されるのだ。
美味い魚や肉や野菜は大資本が狩り尽くし、一般市場にはそのお溢れしか回ってこない。
地元だから新鮮で高品質で安い、なんて幻想にすぎない。もうそんな時代ではない。
美味いもの食いたきゃ金を出さなければならないし、品質は都会も田舎も変わらない。
ハイボールとたこ焼き、最高であり、庶民の幸福であり、食いながら宿を探す。
宿は取っていない、取れなきゃ満喫でもいいのだ。この時間になるとホテルは空室よりもマシと捨て値で部屋を売り出す。
案の定、東横イン7000円を見つける。予約し銀だこお会計しチェックインに向かう。徒歩5分
ちなみに銀だこのスタッフはみな可愛かった。鹿児島は女子のレベルが高いように思う。熊本には悪いが熊本はアレだ。
熊本は男は扉を閉めない、女はヘチャ。ではいいとこ無しのようだが、俺は熊本が大好きだ。なんなら引っ越ししてもいいと思っている。
息子が友達と離れたくないと拒絶したので断念したが、でもキミクラスで浮いててボッチって嘆いてなかったっけ?まぁいい。
ともかくホテルにチェックイン、暇つぶしにテレビを見る、スマートテレビはネトフリにも対応、颯爽とログインして「斉木楠雄のΨ難」の続きを観る。鹿児島まで来てなにやってんだと思うだろうが、いいのだ。こういうのでいいのだ。
21時。小腹が空いた。週末の鹿児島の繁華街、どんなものかパトロールに出発。
グッと来る店がまったくない、Bar、キャバクラ、居酒屋、なんでもいいから1軒くらいと思ったが、無い。
仕方がないので客がそこそこ入ってるラーメン屋に入ったが、ぜんぜん美味くない。な?だろ?
ホテルに戻り寝る。
朝、さてどこに行くか、ノープラン。アホらしいので即戻りでもいい気がしてきたが、せっかくだし、桜島に行く。
フェリーに乗る。チケットは無く桜島の下船時に支払うという合理的オペレーションはグッドである。そして安い。250円だったか。
金額を確かめようと念の為にググったら検索要約に130円と出てきた。どっからそんな値段が出てきたのか。これだからAIは。
古い値段なのか、小児運賃を誤判定しているのか、意味わからん。
それにしても桜島は偽物である。おまえ島を名乗っているが島じゃねぇじゃん、繋がってんじゃん、現状ただの半島であり錦江湾のノドチンコである。桜半島に改名しなさい。島じゃないんだから。
無論、ただの地名であるという言い訳もありましょう、例えば島原は島でも無いし原っぱでも無い、島が付く地名などゴマンとあり、地名と実態は別物であり、安田さんが安いわけでも田んぼなわけでもない、それらの一種であるという言い訳だろうが、俺は許さない。
とか思いながら桜半島を眺めていると船は出発した。デッキではアホみたいにうどんを食うてるアホがいる。クソ高いのに美味いわけが無い。
テレビでタレントがうまいうまいと言うてるのを見て自分も食いたくなったのだろう、美味いわけが無い。
船は15分で到着。元船乗りの俺としてはこの手のフェリーの操舵技術には感服する。
自動車のCMなどでキツキツ駐車スペースにスピンで滑りながらピタリと止める、みたいな演出あるじゃん。
ともかく桜半島に到着。
降りる、250円払う。Suicaで払おうとしたが使用する人はほとんどいないのだろう、都度タッチ端末を起動しているのか知らんが応答がすこぶる遅い。
なんぞ?
なんか人がたくさん走ってきた。マラソン大会してやがる。うっざ、さっきのはスタートの合図
この手の観光地にはたいていレンタル自転車があるもので、案の定あったので借りに行ったら今日はマラソンだからダメだと。ふぁっく
わざわざ活火山の真下でマラソン大会やってんの。3000人集まってんの、アホかと。
徒歩で海岸沿いに向かう
ビジターセンターなる観光施設があったので入る、土産屋があり溶岩石が売っていた。300円。
マイクラにハマってる息子が最近やたらと溶岩溶岩とうるさいので買っていこうと思ったが、
ここってそこらの石全部溶岩じゃねぇの?
海岸沿いに恐らくかつて溶岩だったのではなかろうか的な石ころを拾ってカバンに詰めた。300円儲かった。
なぁに子供にはわかるまい。ただの石でもいいのだ。
かつこの行為が厳密には法律違反ではなかろうとかいう懸念もあるが、俺の中では違法性は阻却されると判断している。
鹿児島に戻る。
ちなみに船の出発ジングルが長渕剛であった。俺は長渕が嫌いである。
人格、品格というのはその人がアイデンティティ確立において誰もが何かしら持つ劣等感をどのように消化するか、が大きく作用する。
彼は音楽に関しては天才である。体系的音楽教育を受けずギター一本で多くの人の記憶に残る名曲を生み出してきた才能は凄いのであり、俺も若い頃、まだ自分でピアノを弾いていた頃には彼の曲をいくつか弾いた。コード進行はシンプルであり、奇抜な音楽要素を取り入れるわけではなく、しかし優しく強いメロディーは誰の頭にも残る。
が、彼は自己プロデュース能力やタレント性、カリスマを宗教にしてしまった。
アホを信者に搾取することは悪いことではない。宗教屋はみなやってる、それで救われるやつもいる。
が、彼は劣等感の克服を歪んだ形で完結させ、歪な宗教に昇華させた。俺はそれを嫌悪するのだ。
ワンテイクというYoutubeのチャンネルにも出ているが、説法がながぇのよ、普通のアーティストは「行きます」程度の一言で演奏開始するのだが、彼は人生口上を長々と30分近く喋ってから演奏に入る。うぜぇぇぇぇ、のであり、嫌いだ。
さて、俺は帰りのフェリーの甲板で涼んでいた。外気温19度、日差しもあり普通に暑い。散々歩かされたので汗ばんでいる。
が、近くに高校生の修学旅行のグループ行動らしき集団がいて、「さーむーい」「マジありえなーい」みたいな私弱いアピールして女子の真横でTシャツであり、俺がおかしいのか、JKがブっているのか、みたいな絵面であり、俺はJKたちに笑われていた。
鹿児島中央駅まで戻り指宿まで行く、まだ時間はある、片道1時間ちょい。指宿で降りずにそのまま乗り続けるとJR路線最西端の西大山駅まで行けるらしく、かなり魅惑的であり、てかそのまま枕崎まで行きたいが、アホではないので帰りをシミュレーションすると無理ゲーであることがわかり諦めて指宿で降りる。
というか、鹿児島県は上白石萌音様を生み育てた聖域であり、指宿はかの大漫画家川原泉先生を生み出した伝説の地である。
堪能せねばならない。
指宿駅前に食堂だか居酒屋だか料理屋みたいなのがあり、2500円の定食を食う。きっと川原泉先生もここで飯を食われたに違いないと考えると美味さは倍増する。実際美味かった。だが、どうやらその日は指宿で全国かつお祭りとやらが開催されているようで(店にポスターが貼ってた)、車で10分ほどの会場でなんかやってるらしい。13時半なのでまだ間に合う。俺が計画的に行動し、事前リサーチしていれば間違いなくそれをターゲットにしていただろう、カツオは俺の好きな魚ランキング10位内には入るほど好きだ。残念
地ビールがあったので飲む、美味い、おかわりしてしまった。これが間違いだと気づくのは30分後である。
14時半、帰路、鉄路かバスか。どちらもアリのようだ。来るときJRだったので時間かかるが景色の良さそうなバスもよかろうとバスで帰ることにした。ちなみにJRはクソであり、せっかく海岸沿いを走っているのに藪で景観が台無しである。
JRが軌道外の雑草を放置しているため車窓は最悪のコンディション。
言い訳をすると乗車直前にトイレには行ってる、アホでは無いのだ。
あと1時間ちょい我慢は「むり」との決断を下し、途中「観音崎展望所」バス停で途中下車。
道の駅だからトイレくらいあるだろう、あった、おしっこした。セーフ。間に合った。次のバスを検索すると絶望しか無かった。2時間後。
最寄り駅まで徒歩20分。20分くらいは歩くが、列車が来るのは1時間後。ふぁっく。ド田舎死ね。
結局小一時間海岸で桜半島を眺めながら佇むことになった。気候が良いのが救い、桜半島はきれいだった。
ようやく時間が来たので生見駅から列車に乗る。「ぬくみ」と読むらしい、勉強になった、残り人生で活かせる機会は無いだろうが。
生見駅での乗客は俺一人だが、枕崎や指宿から乗ってきたのであろう観光客で空席ゼロ。外人だらけ。
ちなみに生見駅の側には「この付近で大便した奴はぶっ殺す 家主」的な看板があちこちにありどんな治安だよと思った。
本来の目論見では鹿児島中央から4400円でバスで熊本まで戻る予定だったが、この時間だともはや新幹線ワープしかない。
指宿在来線から新幹線に乗り換えようとしたのだが、改札内に新幹線切符売り場は無いらしい、一度改札を出てから買い直しだとか。
都会育ちの俺は新幹線とは5分に一本走っているものという常識がありそのような感覚だったが、時刻表を見ると絶望しかなかった
はぁぁぁぁぁ?
よんじゅうよんぷん?待ち?なんで接続列車にしないの?その前が3分間隔出発で次が44分の空白ってなんなの?
なんでばらけないの?アホなの?
が、良い、許す。俺はちょっと機嫌が良い。
実は指宿からの帰路に衝撃的な出会いがあった。途中でJK3人組が乗ってきたのだが、その一人が俺の初恋の人にそっくりだったのだ。
瓜二つというて良い、とはいえ初恋の人に最後に合ったのは35年前なので記憶が定かではなく写真も持っていないので相当補正がかかっているかもしれんが、顔立ち、スタイル、雰囲気がそっくりだった。俺が余命一ヶ月とかならアレでソレしてしまったかもしれない。だが俺はあと50年生きる予定なのでそんな事で刑務所には入りたくない。
コーヒーを飲む。そういえば出張に電動鼻毛カッターを持ってくるのを忘れた(バックのどこを探してもない、入れたはずなのに)ので隣のヨドバシで買うか思案、だが、よくよく考えてみると鼻毛カッターを使うのは1週間から10日に一度である。
出張はあと2週間だから使っても1回、もしくはせいぜい2回であり、自宅に戻れば前のがある、別にそれで困ってない。
パナソニック製で10年前に購入したものだが、電池式なのでバッテリーヘタリもない。そもそも毎日使うものでもない。
そしてこの歳で新しい電動鼻毛カッターを購入したとしてあと何回使うだろうか。鼻毛がどうでもよくなるのが80歳くらいだとして、週一使うとして残りざっと1400回である。
あ、けっこうあるな、新しいの買ってもいいかな、人生最後の電動鼻毛カッター、いやいやいや、今のやつで人生最後まで走り切れるのでは。
とか考えてたら30分が過ぎ、ホームに向かう、新幹線ホームに喫煙所があると思いきやなかった。大都会熊本駅にはあるんだけどね。
新幹線発車。
車内アナウンスで「座席に荷物置くな」と言うているのにお隣の中年女性はガン無視。
俺は三列シートの真ん中にふんぞり返って座っている。なぁに乗車率3割も無い。
ちなみに三列シートは真ん中だけちょっと幅が広いのだ。
18分のインターバルがあるのでのんびり新幹線ホームの喫煙ルームでタバコを吸う。
吸い終わり、ん?豊肥本線ってこの時間そんなに間引き運転だったっけ。調べると
18:43発があった。余裕で乗り換え間に合うじゃん。ジョルダンふぁっく
なんやかやホテル到着、急いで帰ったのは理由がある、荷物が届く。
スーツケースを宅配便で送っている。ホテルというかウィクリーが預かってくれないので近所のコンビニから Permalink | 記事への反応(0) | 16:52
心霊現象信じてなさすぎて、自分が経験した体で怖い話してくる人のこと「そういう嘘つくタイプの人なんだ〜」って思っちゃう。
ていう話を友達にしたら、「いやいや心霊現象はほんとうにあるよ!!」って自分が体験した幽霊の話してきて、マジで無敵だなこの人って思った。
追加
誤解があったらあれなんだけども、心霊スポットもホラー映画もお化け屋敷も普通に怖い。なんなら平均以上に怖がりな方だと思う。
でもそれって、「安全が確保されてようが激しいジェットコースターは怖い」みたいなもんなんじゃないか?人間の生存本能だか想像力だか知らないけど、そういう脳の作用によって怖いっていう感情が生み出されてるだけであって、だから幽霊がいるとか信じるとかにはならなくないか。
タタルスキーの運命と選択を 心理作用 × 広告魔術 × 皮肉の三層構造 で色分けした図解形式で文章化して可視化します。
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[広告魔術](緑)
[皮肉](赤)
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[1章] 詩人志望
├─ 青:興奮・戸惑い
├─ 青:快感・罪悪感・野望
└─ 赤:国民を動かす魔術師だが、国民の意識=広告虚構に縛られる
⸻
🔹 読み解きポイント
2. 広告魔術(緑)
• 詩的表現 → 無意識誘導 → 社会象徴 → 国家統合 → 絶対魔術
3. 皮肉(赤)
• 選択のたびに「自由や権力を得るようで、実際は虚構の支配下に置かれる」
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では、タタルスキーの心理作用と広告魔術の流れを フローチャート形式 で章ごとに可視化した形を作ります。
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[2章] 興奮・戸惑い
│
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│
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[7章] 快感・罪悪感・野望
│
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▼
│
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• 個人レベルの無力感 → 快感・陶酔 → 完全覚醒・絶対権力感
• 詩的直感コピー → 社会象徴 → 国家規模統合 → 絶対魔術
• 個人心理 → 小規模社会 → 社会全体 → 国家・歴史レベル
4. 章の連動性
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1 無力感・創作欲求 詩的直感コピー 個人心理への刺激、自己表現の快感
3 好奇心・社会観察 ブランド文化分析 社会的価値観の理解、間接的影響
5 理解・陶酔・倫理迷い 消費者心理データ活用 個人→小規模社会への心理誘導
6 快感・倫理葛藤・覚醒 社会的象徴操作 社会レベルでの行動・認知への影響
7 快感・罪悪感・野望 政治的イメージ応用 国民意識への初期操作、政治的覚醒
8 快楽・陶酔・完全覚醒 国家規模統合コピー 国民全体の意識統一、国家神話化
9 快楽絶頂・覚醒・権力感 虚構現実融合技法 社会全体の行動・価値観が広告に支配される
10 完全覚醒・陶酔・絶対権力感 絶対広告魔術(コピー=呪文、イメージ=現実化) 国家・社会・歴史レベルで現実操作、虚構と現実完全融合
⸻
🔹 読み解きポイント
• 無力感・創作欲求 → 快感・陶酔 → 完全覚醒・絶対権力感
• 詩的表現・基本コピー → 無意識誘導・社会的象徴 → 国家規模統合・絶対魔術
• 個人レベル → 小規模社会 → 社会全体 → 国家・歴史レベル
4. 章の連動
• 心理作用の深化と広告魔術の進化が、社会・国家への影響拡大に直結
⸻
このマトリクスを見ると、
1 詩的直感のコピー 「光が差す朝に、夢は動き出す」 個人の感情を揺さぶり、創作的快感を与える
2 基本コピー制作 「このシャンプーで髪も心も軽やかに」 商品特性を伝えつつ、購買意欲を刺激
3 ブランド文化分析 「この靴はあなたの歩みを語る」 消費者心理に合わせ、社会的ステータスと結びつける
4 無意識誘導コピー 「この香りを纏えば、誰もが振り返る」 記憶・感覚・無意識に作用、欲求を喚起
5 消費者心理データ活用 「72%の人が感じた、幸せの一口」 データを根拠に信頼感・安心感を演出、購買心理を設計
6 社会的象徴操作 「この車に乗るあなたは、都市の英雄」 ブランドを社会的価値やステータスと結びつけ、集団心理を誘導
7 政治的イメージ応用 「新しい未来を共に創ろう」 国民意識に訴え、政治家や政策への信頼・期待を形成
8 国家規模統合コピー 「この国は、私たちの夢で輝く」 言葉・映像・色彩・象徴を統合、国民全体の意識統一
9 虚構現実融合技法 「テレビで見たあの街が、あなたの街になる」 虚構のイメージを現実以上の影響力として認識させ、社会全体を誘導
10 絶対広告魔術 「私たちの物語こそ現実だ。信じる者に力を」 コピー=呪文、イメージ=現実化、国家・社会・歴史を操作、タタルスキー完全覚醒
⸻
• 無意識誘導や社会的象徴で、個人心理を集団・社会レベルに拡大
• 政治家へのコピー、国家イメージの統合で、虚構を現実として認識させる
⸻
このシナリオ化を使うと、タタルスキーの広告魔術が 段階的に心理・社会・国家・歴史レベルまで拡張する過程 が、視覚的に理解できます。
1 詩的直感のコピー 「光が差す朝に、夢は動き出す」 個人の感情を揺さぶり、創作的快感を与える
2 基本コピー制作 「このシャンプーで髪も心も軽やかに」 商品特性を伝えつつ、購買意欲を刺激
3 ブランド文化分析 「この靴はあなたの歩みを語る」 消費者心理に合わせ、社会的ステータスと結びつける
4 無意識誘導コピー 「この香りを纏えば、誰もが振り返る」 記憶・感覚・無意識に作用、欲求を喚起
5 消費者心理データ活用 「72%の人が感じた、幸せの一口」 データを根拠に信頼感・安心感を演出、購買心理を設計
6 社会的象徴操作 「この車に乗るあなたは、都市の英雄」 ブランドを社会的価値やステータスと結びつけ、集団心理を誘導
7 政治的イメージ応用 「新しい未来を共に創ろう」 国民意識に訴え、政治家や政策への信頼・期待を形成
8 国家規模統合コピー 「この国は、私たちの夢で輝く」 言葉・映像・色彩・象徴を統合、国民全体の意識統一
9 虚構現実融合技法 「テレビで見たあの街が、あなたの街になる」 虚構のイメージを現実以上の影響力として認識させ、社会全体を誘導
10 絶対広告魔術 「私たちの物語こそ現実だ。信じる者に力を」 コピー=呪文、イメージ=現実化、国家・社会・歴史を操作、タタルスキー完全覚醒
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• 無意識誘導や社会的象徴で、個人心理を集団・社会レベルに拡大
• 政治家へのコピー、国家イメージの統合で、虚構を現実として認識させる
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このシナリオ化を使うと、タタルスキーの広告魔術が 段階的に心理・社会・国家・歴史レベルまで拡張する過程 が、視覚的に理解できます。
🟩 『ジェネレーションP』タタルスキー広告魔術技法リスト(章別)
1 詩的直感のコピー 言葉のリズム・語感・象徴を用いて感情に訴える 個人レベルの心理刺激、創作快感
2 基本コピー制作 商品やサービスの特徴を伝えつつ心理誘導 消費者の購買意欲喚起
3 ブランド文化分析 消費者行動や社会階層を観察、心理トリガーを把握 社会的傾向の理解、広告戦略の基礎
4 無意識誘導コピー 視覚・言語・記憶に残る表現で無意識に作用 個人心理の操作力向上
5 消費者心理データ活用 統計やデータをもとにターゲット心理を設計 個人→小規模社会への影響
6 社会的象徴操作 ブランドイメージを社会的価値やステータスと結びつける 社会全体の認知に作用する広告設計
7 政治的イメージ応用 政治家や国家イメージを広告手法で操作 国民意識の操作兆候、政治的覚醒
8 国家規模統合コピー 言葉・映像・色彩・シンボルを統合、無意識に訴える 国民全体の意識統一、国家神話化
9 虚構現実融合技法 虚構イメージを現実以上に信じさせる演出 社会全体の行動・価値観が広告に支配される
10 絶対広告魔術 コピー=呪文、イメージ=現実化ツールとして完全統合 国家・社会・歴史レベルで現実操作、タタルスキーの完全覚醒
⸻
🔹 技法の特徴まとめ
⸻
この表を見ると、タタルスキーの技法は 個人心理の操作から国家規模の神話創造まで段階的に進化 していることが一目でわかります。
🟩 『ジェネレーションP』タタルスキー広告魔術技法リスト(章別)
1 詩的直感のコピー 言葉のリズム・語感・象徴を用いて感情に訴える 個人レベルの心理刺激、創作快感
2 基本コピー制作 商品やサービスの特徴を伝えつつ心理誘導 消費者の購買意欲喚起
3 ブランド文化分析 消費者行動や社会階層を観察、心理トリガーを把握 社会的傾向の理解、広告戦略の基礎
4 無意識誘導コピー 視覚・言語・記憶に残る表現で無意識に作用 個人心理の操作力向上
5 消費者心理データ活用 統計やデータをもとにターゲット心理を設計 個人→小規模社会への影響
6 社会的象徴操作 ブランドイメージを社会的価値やステータスと結びつける 社会全体の認知に作用する広告設計
7 政治的イメージ応用 政治家や国家イメージを広告手法で操作 国民意識の操作兆候、政治的覚醒
8 国家規模統合コピー 言葉・映像・色彩・シンボルを統合、無意識に訴える 国民全体の意識統一、国家神話化
9 虚構現実融合技法 虚構イメージを現実以上に信じさせる演出 社会全体の行動・価値観が広告に支配される
10 絶対広告魔術 コピー=呪文、イメージ=現実化ツールとして完全統合 国家・社会・歴史レベルで現実操作、タタルスキーの完全覚醒
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🔹 技法の特徴まとめ
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この表を見ると、タタルスキーの技法は 個人心理の操作から国家規模の神話創造まで段階的に進化 していることが一目でわかります。
🟦 『ジェネレーションP』全章まとめ表
章 主要テーマ 主要イベント タタルスキーの心理 広告魔術の作用 社会・国家への影響 物語的役割
1 初期の詩人時代 詩人として活動、就職難、広告業界との出会い 無力感・幻想・創作欲求 まだ魔術性は未熟、詩的直感が基礎 個人レベルの心理操作 タタルスキーの起点、広告への潜在的接触
2 広告業界入門 初めてのコピー制作、代理店勤務開始 興奮・戸惑い・適応 消費者心理を読み始める 個人の購買意欲操作 広告世界への導入
3 消費社会の観察 ブランド文化と消費者行動の理解 好奇心・驚き・社会観察 商品イメージと心理操作の基本 社会レベルではまだ間接的 消費社会の構造理解
4 コピーの高度化 高度なコピー制作、心理誘導の学習 成功体験・快感・自己効力感 無意識に働きかけるコピーの創造 個人心理の操作力増大 コピーライターとしての成長
5 消費者心理の深掘り 消費者データ分析、心理的トリガー理解 理解と陶酔・倫理的迷い 心理誘導の設計力が向上 個人→小規模社会への影響 広告技術の深化
6 社会への拡張 大規模クライアント対応、社会的影響の自覚 快感・倫理葛藤・覚醒 広告が社会に作用する認識 社会レベルでの意識操作の兆し 個人コピーから社会コピーへの拡張
7 政治的応用 政治家との接触、広告技術の国家的応用を意識 快感・陶酔・罪悪感・野望 広告魔術を政治的レベルで理解 国家イメージ操作の初期段階 広告→社会→政治への拡張の始まり
8 国家規模の魔術 国家キャンペーンへの参加、広告統合 快楽・陶酔・完全覚醒・権力意識 広告=国家魔術、コピー=呪文 国民意識統一、国家神話化 タタルスキーが国家規模の魔術師として覚醒
9 虚構と現実の融合 キャンペーン完成、広告が現実を超える 快楽絶頂・覚醒・権力感・倫理昇華 虚構が現実を支配 社会全体が操作され、虚構が現実化 クライマックス前、広告魔術の極点
10 最終覚醒 国家規模広告完成、虚構と現実統合 完全覚醒・陶酔・絶対権力感 言葉とイメージで現実を創造 国家、社会、歴史レベルで操作完了 クライマックス、タタルスキー=虚構の支配者として完成
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🔹 まとめポイント
1. 心理の変化
• 無力な詩人 → コピーライターとして快感 → 国家規模の操作者として覚醒
• 個人消費 → 社会影響 → 国家規模のイメージ操作 → 虚構と現実統合
• 個人の購買意欲 → 社会行動 → 国民意識統一 → 国家神話化
4. 物語の核
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第10章は、『ジェネレーションP』のクライマックスおよび結末 であり、
ここで物語のテーマである 「消費・広告・権力・神話の相互作用」 が完結します。
⸻
タタルスキーは、広告を通じて 国家規模の神話を完全に操作 する段階に到達します。
• コピーや映像は、個人の購買意欲だけでなく、国民全体の意識に作用
• メディア、街頭広告、テレビ、SNS…すべてが統合された巨大キャンペーン
• 虚構が現実より強い影響力を持ち、国民は意識せずに操作される
ここでタタルスキーは、広告魔術師としての力を完全に自覚する。
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2. 罪悪感の昇華
3. 完全覚醒
タタルスキーはもはや個人ではなく、虚構と現実の統合体として描かれる。
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ペレーヴィンはここで、広告が 現代社会の宗教・魔術であること を最終的に象徴化する。
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◆ 5. 終章としての意味
項目 内容
主要イベント 国家規模の広告キャンペーン完成、虚構と現実が融合
象徴 広告=魔術/コピー=呪文/ブランド=神話/タタルスキー=虚構の支配者
物語的役割 タタルスキーが広告魔術師として完成し、物語の主題(消費・権力・神話)を最高潮で体現する章
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• 広告と権力の関係性:広告は単なる商業ツールではなく、社会・国家を動かす魔術
• 個人と社会の関係性:個人は操作されるが、魔術師(タタルスキー)は現実をデザインできる
• 現代社会の寓話:消費、イメージ、権力、神話が不可分の関係にあることを示す
タタルスキーは、個人としては虚構に操られる側でもあるが、同時に虚構を現実化する側でもある、
現代社会における「詩人=魔術師」の究極像 として描かれています。
⸻
第10章は、
⸻
第9章は、タタルスキーが 広告魔術の力を最大限に発揮し、国家規模で現実を“再構築”する段階 です。
ここで、物語のテーマである 言語・イメージ・権力の融合 が極点に達します。
⸻
タタルスキーは、広告代理店と国家関係者の共同プロジェクトを遂行。
• 目的は国民意識の統一とブランド化(=国家イメージの神話化)
彼のコピーは単なる文章ではなく、**人々の思考や感情に直接作用する“呪文”**として機能する。
⸻
第9章の核心は、広告の虚構と現実の境界が消失する描写 です。
• 街頭広告、テレビ、SNS、新聞…すべてが統合され、国民は無意識にイメージを受容
• 実際の現実よりも、広告が提示する虚構の方が強い影響力を持つ
タタルスキーはこの瞬間、自分が現実を創造していることを実感する。
⸻
1. 快楽と陶酔
2. 罪悪感の昇華
• もはや罪悪感すら力の一部となる
3. 覚醒の完成
ここでタタルスキーは 広告魔術師としての最終形態に到達 する。
⸻
第9章では、タタルスキーの魔術が 三重のレベルで作用 します。
⸻
◆ 5. 第9章の象徴的整理
項目 内容
物語的役割 タタルスキーが広告魔術の究極的成果を実感し、虚構と現実の融合を達成する章
⸻
第9章は、
タタルスキーが広告魔術の頂点に到達し、虚構と現実の境界を完全に溶かすクライマックス手前の章
です。
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第7章は、タタルスキーが 広告の力を社会的・政治的レベルで試す段階に入る章 です。
ここで、彼は単なるコピーライターから “イメージを現実化する存在” へと変貌します。
広告と権力の境界が曖昧になり、物語のテーマである 「言語・イメージ・権力の融合」 が本格化します。
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タタルスキーは代理店の仕事を通じ、初めて 政治家や国家関係者 と直接接触します。
• タタルスキーは「広告手法を国家規模に応用する」という構想を耳にする
彼は初めて、自分のコピーが個人消費ではなく社会全体に作用する可能性 を直感する。
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• 消費者心理は、もはや商品ではなく「イメージ」「物語」を購買する
• タタルスキーは、広告=現代の儀式・魔術であることを再確認する
「人々は商品を買うのではない。
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• タタルスキーは、広告が「現実を改変するツール」になることを実体験する
彼は自覚する。
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• 罪悪感と陶酔が交錯する
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タタルスキーは、自分のコピーが 単なる商業文章ではなく、現代の詩のように機能している ことに気づく。
• 語感の美しさ
これらが、政治的プロパガンダや社会的イメージ形成にも応用可能であることを悟る。
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◆ 6. タタルスキーの変貌
第7章での彼の変化:
2. 行動指針の確立
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◆ 7. 第7章の象徴的整理
項目 内容
物語的役割 タタルスキーが広告魔術を社会・政治レベルで初めて実践し、覚醒する章
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第7章は、
タタルスキーが広告の力を国家規模で実感し、政治的覚醒を遂げる決定的な章
です。
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第6章は、タタルスキーが 広告の力を社会的・政治的文脈で意識し始める章 です。
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◆ 1. 新しいクライアントの登場
タタルスキーの代理店に 大規模なクライアント が登場します。
• 外資ブランドではあるが、ロシア国内向けの政治的・社会的メッセージも含む
この時点でタタルスキーは
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タタルスキーは単なる文章ではなく、広告キャンペーン全体を設計する任務を負います。
• 商品の機能や利点ではなく、消費者の心理的・感情的反応を操作
世界を改変する道具だ。」
ここで、タタルスキーは広告と社会操作の相似性に気づき始めます。
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• どのイメージが購買欲を刺激するか
タタルスキーは、詩人としての直感を駆使して無意識を“読み解く”。
• これまでのコピーは単純な文章だったが、今や「人間心理を操作する設計図」となる
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• 商品の魅力は誇張され、消費者はそれを真実として受け入れる
ここでペレーヴィンは、広告の**「現実超越的な力」**を象徴的に描写します。
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第6章の後半で、タタルスキーは初めて 政治的権力と広告の接点 に触れます。
• 「ブランド=国家イメージ」の同一化という概念が暗示される
タタルスキーはここで、
広告の才能は単なる消費社会だけでなく、国家規模のイメージ操作に応用可能
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• これまでの詩的直感が新しい力として具現化
3. 野望の芽生え
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◆ 7. 第6章の象徴的整理
項目 内容
主要イベント 高度な広告戦略に携わり、政治的応用の兆しを掴む
物語的役割 タタルスキーが“広告→社会→政治”の拡張を初めて意識する章
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第6章は、
タタルスキーが個人消費の魔術師から、社会的・政治的魔術師へと意識を拡張する重要な章
です。
中国と戦争をしかねない右翼政権の危険を、日本人は感じ始めてきた。右翼政権がなぜ危険なのか。実は、高市早苗総理らの右翼勢力は、西側先進諸国の通常の国家観(第一の国家観)とはまったく別の国家観(第二の国家観)を有していることが根本的な問題だ。これを理解せずに右翼リスクを理解することはできない。この二つの国家観を理解すると、現在の政局、国防上のリスク、これからの日本がめざす方向がはっきりと見えてくる。次の文章(高校卒業程度の国語力で理解することができる。新聞社説一つ分ぐらいの分量)を読むことで基本知識が頭に入る。ぜひお読みください。
賛同なさるかたはリツイートしてください。多くの人がこの二つの国家観を理解すれば、日本は現在の危機を脱することができます
世界が警戒する日本の「極右化」〜私たちはいま、重大な岐路にいる https://gendai.media/articles/-/51438
より抜粋
二つの国家観(人間のためにつくられたしくみとしての国と、人間を超えた集合的生命としての国=国体)を対比させて考えると、「ウルトラ・ナショナリスト」勢力の行動様式や、そのめざすものを理解しやすくなる。そして、現状を放置すれば、これから日本社会がどのような被害をこうむるかも予想できる。
第一の国家観では、国家を、ひとりひとりの人間の共存と福祉のための公共財である機械装置と考える。
国は水道や電気や医療や交通網のように、ひとびとの生存にとってきわめて重要なものだ。その意味で、危険な国家メンテナンス業務をおこなっている自衛官は、高圧線上で危険な業務をしている技師と同様に、尊敬されて当然である。
また、国に軍隊があるのも当然である(この観点から、日本が普通の先進諸国なみのリベラル国家になった後で憲法9条を改正すべきだと主張する筆者は、「リベラル・タカ派」と呼ばれることがある)。
この第一の国家観からすると、「ウルトラ・ナショナリスト」勢力のいう愛国心は、水道管や電線を愛の対象にするような、奇怪なフェテシズムの情熱である。すくなくとも、日本で愛国心というとき、そのような意味で語られることが多い。
そのような愛国心ではなく、苦労して磨き上げた、ひとりひとりの人間のための公共財機械装置の性能のよさに対するプライド、という意味での国家プライドはあるかもしれない。
国家が愛国心などというフェテシズムを万人に要求する制度は、日本国装置の性能の悪さとして、国家プライドを大いに傷つけるだろう。ただし、この国家プライドを新しく「愛国心」と名づけることも可能である。
それに対し、第二の国家観では、国家はひとりひとりの生命を超えた、より高次の崇高なる集合的生命とみなされる。このような現実感覚を生きるひとびとにとって、国家装置の防衛メンテナンスのための危険業務組織(軍隊)は、集合的生命の男根のように感じられる。
アメリカに負けて憲法九条を押しつけられたのは、「全能感を断念しなさい」と去勢されてしまったような、屈辱の体験である。
また集合的生命の根本にあるはずの神聖にして侵すべからず天皇を、単なる「象徴」にされてしまったのは、河童に尻子玉を抜かれ、腑抜けにされてしまったような屈辱である。
そして雄々しき大日本帝国は、自由だの人権だの民主主義だの甘ったるいおしろいをぺたぺた塗られて、女にされてしまったと感じる。
第一の国家観は、ひとびとの安全と生命を守りながら繁栄をもたらそうとうするリアリズム政治のための基本である。国益の計算や戦略的思考も、この国家観を前提としなければ何の意味もない。また軍隊は、この国家観にしっかり基礎づけて保有されなければならない。
第二の国家観は、非常時に短時間「だけ」、ひとびとを狂わせるための興奮剤である。必要がないときに使ってはならない。そして21世紀の世界でそれが必要になる時は、もうない。いまではこういったドラッグは、貧しい国々で誤用され、悲惨な流血や国土の荒廃をもたらす廃棄すべき毒物でしかない。
この毒物ともいうべき第二の国家観はどのようにして生まれたか。江戸幕府が支配していた日本列島は、列強の植民地にされる危険にさらされていた。
クーデター成功後、最弱国日本、最弱明治政府を背負った指導者たちは、ゆっくり変化する時間的余裕がないなかで近代国家をつくりあげるために、集合的生命感覚に酩酊させるしかけを、当時入手可能な素材からでっちあげるしかなかった。
それが天皇を中心とする集合的生命としての国体(という共同錯覚)である。そしてこの興奮剤は効いた。国家の集合的生命感覚は、天皇を中心とする国体として、ひとびとの魂の底に埋め込まれていった。
生存のための必要に駆られてこのような興奮剤を使うときは、そのまえに目覚まし時計をセットしておき、時がくれば醒めるようにしておかなければならない。目覚まし時計を管理すべき指導層は、大衆を騙すための薬物にのめりこんではいけない。
しかし、昭和初期から敗戦にかけて、指導層のあいだでも「〇〇は国体にそぐわない」やら「不忠」やらといった、自家中毒が蔓延するようになっていった。ヤクザが売り物の覚醒剤に手を出すように、国家の中枢までもが、緊急用大衆操作劇薬の自家中毒にやられたのだ。
狂気の興奮剤におかされた指導層は、アメリカと戦争をするといった愚行に走り、敗戦の条件交渉にいたっては国民の生命や安全という本来の目的(第一の国家観)よりも国体護持(第二の国家観)などという幻想の薬物を大切にするありさまであった。国家の指導者として、これほどでたらめな酩酊者たちは類をみない。
学者も含め多くの人たちは、昭和初期から敗戦までの日本のありさまを「軍国主義」と呼んできた。軍国主義の社会であれば、軍事的成功を第一の優先事にするはずである。
しかし、戦争中の日本はそうではなかった。合理的に国益を追求したり、戦争に勝ったりすることよりも、国体を護持すること、国体をひかり輝かせることが優先された。
集合的生命としての国体は、単なる全体への外形的服従の積み重ねから成るものではなく、臣民ひとりひとりが自発的に個人であることをやめ、〈全体において永遠の今になる〉ことの内側から高次の命としてひかり輝く。
カミカゼ自爆攻撃などで死ぬ瞬間こそが、その永遠の今であり、人として生まれた最高の栄誉であり、「本当に生きること」である。それは華やかに花が咲いたような生のきらめき(散華)でなければならない。
このような国体の覚醒剤的な疑似哲学作用は、軍隊の合理的運用すら破壊した。
太平洋戦争では、みこまれる戦果と自軍の損失を計算すれば無意味であることが明白であっても、散華の輝き自体が目的となった軍事作戦がなされた(これは即身仏のような自殺儀式であって、軍事的な「作戦」とは言えないのかもしれない)。
毎日新聞記者の栗原俊雄は、このような輝きを後世に残すためと称して、自爆特攻作戦が続けられた例を紹介する(栗原俊雄「日本人が終戦まで「特攻」を止められなかった、驚きの理由」)。
また、航空機の援護なしに戦艦大和を沖縄に派遣するのも、国体を輝かせるための集団自殺である。これが抗いがたい空気となったのである。
もちろん、国体のなかでは「西欧流」の個人主義は徹底否定され、すべての臣民が自発的に集合的生命の一部で「あらねばならぬ」のであるから、すべてが強制である。戦争終結の成り行き次第によっては、一億玉砕というすさまじい「自発的」な散華が、すべての人に強制されたかもしれない。
世界が警戒する日本の「極右化」〜私たちはいま、重大な岐路にいる
gendai.media
世界が警戒する日本の「極右化」〜私たちはいま、重大な岐路にいる(内藤 朝雄) | 現代ビジネス | 講談社
日本中、さらに世界中で「森友疑惑」が報じられ、ひとびとの関心を集めている。国内で芝居見物のようににぎわっている一方で、世界では、日本の現政権と右傾化がどうなるかという関心からこの疑惑を報じている。現政権は日本を戦前の社会に戻そうとしている「ウルトラ・ナショナリスト」政権であると考えられており、日本が戦前のタイプの社会に戻るかどうかは、大きな関心事だからだ。この社会は、これからどうなってしまう...
最終更新
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伝統的にはテーマ別(弦理論、量子重力、場の理論、応用)に配列されるが、抽象数学の観点からは対象(研究トピック)と射(方法・翻訳)の網として捉える方が有益。
ここでいう対象は「エントロピーと情報論的記述を担うブラックホール研究」「幾何学的・位相的構成を担うコンパクト化とカラビ・ヤウ/F-理論的話題」「場の対称性・一般化対称性を取り扱う場の理論的構造」「計算的探索手法(データ、機械学習を用いる弦景観の調査)」など。
各対象間の射は、双対性の導入、圏的な接続(例:量子情報を介した場と重力の橋渡し)、モジュライ空間上の写像(ある物理量を別の表現へ変換する手続き)と考えられる。
この視点に立てば、個々の研究は、局所的な結果(対象の内部構造の解析)とそれを別の対象へ移すための普遍射(双対性、再規格化群、ホログラフィーなど)の2つの側面を持つ。
研究の進展を測るには、単に新しい計算結果が出たかを見るだけでなく、それがどのような新しい射(方法論的翻訳)を導入し、他の対象へどれだけ容易に伝播できるかを評価するべき。
近年の発展は、物理的データを層(sheaf)的に整理する試みと親和性が強い。
コンパクト化、特にF-理論やゲージ束構成に関する議論は、物理的情報(荷、ゲージ群、モードの分布)を局所データと大域的データの重ね合わせとして扱うことに等しい。
これは数学的には基底空間上の層の圏を考えるような話で、局所的条件の整合性(コヒーレンス)と大域的制約(トポロジー的閉鎖条件)が鍵。
古典的な幾何的直観(多様体、ホモロジー)を拡張して非可換やカテゴリ化された対象で物理を再表現する流れにある。
結果として、従来のスペクトル(場のスペクトルや質量スペクトル)に対応する数学的不変量が、より高次の層的・圏的構造へと一般化されつつある。
これにより同じ物理現象を別の圏で見ると簡潔になる例が増え、研究の再利用性が高まっている。
弦理論・場の理論で繰り返し現れるのは対称性が構造を決めるという直観。
抽象数学では対称性は対象の自己射(自己同型)群として扱われるが、対称性そのものが射の層あるいは高次の射(2-射やn-射)として表現されるケースが増えている点が特に重要。
つまり、単に群が作用するのではなく、群の作用が変形可能であり、その変形がさらに別の構造を生む、という高次構造が物理的意味を持ち始めている。
この流れは一般化対称性やトポロジカル部位の議論と密接に結びつき、場の理論における選好位相的不変量を再解釈する手段を与える。
結果として、古典的なノーター対応(対称性⇄保存量)も、より高次の文脈で新しい不変量や保存則を導出するための起点になり得る。
ブラックホールと量子情報、カオス理論との接点は話題だった分野。
ホログラフィー(重力側と場の側の双対)を抽象的に言えば二つの圏を結ぶ双方向のファンクター(翻訳子)と見ることができる。
これにより、量子的冗長性やエントロピーに関する命題は、圏の間を行き交う射の情報(どの情報が保存され、どの情報が粗視化されるか)として扱える。
カオスとブラックホール、量子力学に関する概念の整理が試みられている。
たとえばブラックホールにおける情報再放出やスクランブリングは、ファンクターがどのように情報を混合(合成)するかという高次射の振る舞いとして可視化できる。
こうした議論は、従来の計算的アプローチと抽象的な圏的フレームワークの橋渡しを提供する。
何が低エネルギーで実現可能かを巡るスワンプランド問題は、いまや単一の反例探しや個別モデル構築の話ではなく、モジュライ空間の複雑性(位相的な目詰まり、非整合領域の広がり)として再定式化されつつある。
抽象数学的に言えば、可能な物理理論の集合は単なる集合ではなく、属性(スカラー場、ゲージ群、量子補正)を備えた層状モジュライ空間であり、その中に禁止領域が層的に存在するかどうかが問題。
この視点は、スワンプランド基準を局所的整合条件の族として扱い、整合性を満たすための可視化や近似アルゴリズムを数学的に定義することを促す。
弦景観やモデル空間での探索に機械学習やデータ解析を使う研究が増えているが、抽象数学に引き寄せると探索アルゴリズム自体を射として考えることが有用。
ある探索手続きがモジュライ空間上の点列を別の点列へ写すとき、その写像の安定性、合同類、収束性といった性質を圏的・位相的な不変量で評価できれば、アルゴリズム設計に新しい理論的指針がもたらされる。
数学的定式化(幾何・位相・圏論)と物理的直観(ブラックホール、カオス、場の動的挙動)をつなぐ学際的接合点を意図して設計される。
これは単一圏に物理を閉じ込めるのではなく、複数の圏をファンクターで結び、移り変わる問題に応じて最も適切な圏を選択する柔軟性を重視するアプローチ。
学術コミュニティのあり方に対するメタ的な批判や懸念も顕在化している。
外部の評論では、分野の方向性や成果の可視性について厳しい評価がなされることがあり、それは研究の評価軸(新知見の量・質・再利用可能性)を再考する契機になる。
見えてきたのは、個別のテクニカルな計算成果の蓄積と並んで、研究成果同士を結びつける翻訳子(ファンクター)としての方法論の重要性。
抽象数学的フレームワーク(圏、層、モジュライ的直観、高次射)は、これらの翻訳子を明示し、その普遍性と限界を評価する自然な言語を提供。
今後の進展を見極めるには、新しい計算結果がどのような普遍的射を生むか、あるいは従来の射をどのように一般化するかを追うことが、有益である。
ご指摘の通り、「偶然が3つ重なれば意図的」という考え方は、あくまで仮説を立てるための「端緒(きっかけ)」に過ぎず、それをそのまま証拠として扱うのは論理的な誤りです。
質問にあるセリフの出典と、なぜ昨今のネット議論でこれが誤用されがちなのか、論理的・心理学的な観点から解説します。
このセリフの出典は、イアン・フレミングの『007』シリーズの小説『ゴールドフィンガー(Goldfinger)』**(1959年)です。
作中で悪役のオーリック・ゴールドフィンガーが、ボンドに対して以下のように語ります(シカゴの古い言い回しとして紹介されます)。
"Once is happenstance. Twice is coincidence. Three times is enemy action."
ユーザー様が「探偵小説か何か」と記憶されていたのは鋭い点ですが、実際は「スパイ小説」であることが、この言葉の性質を決定づけています。
探偵(司法)の論理:「疑わしきは罰せず」。真実を明らかにし、法的な証拠を求める。
スパイ(戦争)の論理:「疑わしきは排除する」。生き残るために、リスクを過大に見積もる。
つまり、このセリフは「証拠がなくても、3回重なったら攻撃とみなして反撃せよ」という危機管理のヒューリスティック(経験則)であり、真実を証明するための論理ではないのです。これを現代のネット上の議論や法的な「証拠」として持ち出すこと自体が、文脈を無視した誤用と言えます。
ネット上で「偶然の一致」を列挙して「これが証拠だ」とする手法が多く見られるのは、以下の心理学的・統計的な現象で説明がつきます。
無作為で無意味な情報の中から、規則性や関連性を見出してしまう知覚作用のことです。陰謀論を信じやすい人は、このパターン認識機能が過剰に働いているという研究結果もあります。
納屋の壁に無数に発砲した後で、弾痕が集中している箇所に後から的(マト)を描き、「すごい腕前(意図的な命中)」だと主張する論理の誤りです。
ネットという膨大な情報の海(無数の弾痕)があれば、「偶然の一致(弾痕の集中)」は確率的に必ず発生します。そこだけを切り取って提示すれば、あたかも意図的な計画があったかのように見せかけることが可能です。
ユーザー様の解釈は論理的に正当です。「3つの偶然」は、アブダクション(仮説形成)の出発点にはなり得ますが、それ自体はインダクション(帰納的な証拠)ではありません。
特にビッグデータやインターネットのように母数が巨大な環境では、「3回程度の偶然」は日常茶飯事であり、それを意図の証明とするのは、ノイズをシグナルと誤認する典型的な確証バイアスです。
いや、そこまで極端に言う必要ある?もちろん日本単独の外交や情報、防衛力整備だけで中国を完全に抑止できるわけじゃないし、0か100かで言えば確かに限界はある。でも抑止力ってのは単純に「軍隊をどれだけ出すか」だけじゃなく、政策、経済的・軍事的なシグナル、地域同盟との連携など複合的に作用するものだよ。日本が自衛隊を動かさなくても、日米安保体制の信頼性を高めたり、防衛力を整備したり、外交で毅然とした立場を示すこと自体が、中国に対する心理的・戦略的抑止には一定の意味がある。0ではないけど「カス」扱いするのは論点を単純化しすぎ。要は日本単独では十分じゃないかもしれないけど、それを積み重ねることでアメリカの行動と相乗効果を生むことが可能だし、戦略的に無視できるレベルの影響ではない。安全保障の現実は単純な0か1で語れるほど単純じゃないんだよ。
女どころか男にすら人間関係から除外されてるから、「こんなイケメンなら初対面や親しくない女を襲っても受け入れられる」みたいな関係性抜きの見た目の話に偏り、女が最も気にする他者や社会からの評価という視点が常に欠けてるんだよな
なので女なんて自分のパートナーと息子ちゃん以外の男は全てフラットな路傍の石レベルの存在であり、初対面や知らない異性でシコったり買ったり盗撮痴漢など性加害して射精するのは男だけなのを認められないだけ
そういう性差が理解できないから、いい年した童貞おじさんが「女はジャニーズやイケメンに襲われたら受け入れるし擁護する」みたいな妄言を撒き散らして恥をかいてたわけだ
男が自分のスペックより上の女を手に入れるのは学校や職場等での自由恋愛しかないわけよ
ブサでも低身長でも「周りに好かれてる人、信頼されてる人」という評価を得られればそれだけで恋愛や結婚に持ち込める
しかしそんな協調性や能力があったらこんなとこで暴れてないからな
https://anond.hatelabo.jp/20250825103147
自由恋愛不可能な発達障害アスペ男性が、初対面や親しくない相手に「この技を使えば都合がいい女が一発で手に入る」という詐欺を鵜呑みにする 「恋愛工学」の被害女性が増えてる ...
交渉術の本とかでも信頼要素無視するやつも多いんよな。 まあ複雑で難しい要素を排して簡単な法則で語る方が受けるんだろうけど
一緒に体動かすとか
その中で、気が利く・優しい人柄ってにじみ出てくるものだし。
それに似てるっちゃ似てる。
市民ミュージカルやったことないけど、共同作業で複数の物を作り上げると一体感が出て交際に繋がりやすいってのはわからんでもない
ネットでバラバラの意見を主張してる人らに「くっつけばいい」と主張するのは男しか見たことない
女は自由恋愛でコミュ力や評価を確認し、好感を持てる言動、関係性が発生してからようやく「この男と結ばれたい」とスイッチが入る
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自分がやからしたから分かるけど、非モテは女子にアプローチしてる時に距離感が測れてないことが多いと思うのだ
@
学校や勤務先でも選り好みして、級友や同僚上司に日常の挨拶もろくにしないくせに、たまに好みの子がいると距離感なく入り込んで嫌がられる、「人間関係の車間距離がわからない人」も多いかと。付き合わないか結婚かの極端な選別しかしてない、出来ない。
https://anond.hatelabo.jp/20250923103250
結婚や恋愛における、長年の知り合いの低スペや中スペが初対面のハイスペイケメンより優位な理由が言語化されていた
https://anond.hatelabo.jp/20250822105151
婚活やナンパよりも自由恋愛補正の方が低スペック男が上物女とマッチングできる
ホイ卒には難しい映画であった。42点。
イェール大学とかいう名前だけはやたら聞いたことがあるおそらくおハイソな大学で巻き起こるレイプ疑惑を軸とした「正しさ」の物語。
ジュリア・ロバーツは哲学科の教授でテニュア目前、同じく教授のハンクとは良きライバルであり同僚であり友人であり不倫相手。しかしある日、自分の生徒である黒人女のマギーがハンクを不同意性交で告発!しかし、ハンクもマギーも信用に足る相手ではなく、また自分自身もそうであることを思い出し苦悩するジュリア。いろいろあって過去の罪と向き合ったジュリアは幸せになったらしいよ……カット!という映画。
とにかくさぁ、出てくる会話がハイソサエティすぎて保育園卒の俺には全く理解できんのよ。
ジュリアが哲学科の講義で語る哲学的議論が明らかに展開に作用しているのは理解できるんだけどどういう意味かはまったく分からん。あなたは悪としての第三者を仮定しているけどその仮定自体が一方的なお前の思い込みに過ぎないではないか!的なことをアジア系の学生に詰めた後に、同じくマギーに対して一方的な思い込みで詰問(ほぼ誹謗中傷)し殴られるシーンとか象徴的だったけどさ。
これに限らず作中では「いやお前が言うんかい」みたいなところがいっぱい出てきてクラクラする。
例えば冒頭でテニュアを目指すジュリアに対してKYDKが「でも時流的にイケるでしょ。今は危ないのは白人シス男性だし」とか言い出してジュリアは冷静にブチ切れて「被害者意識だけ達者」「実力で選ばれたと思えないのはかわいそう」だの散々詰問したりする。
しかしのちにジュリアは学校の処方箋をパクって薬を調達していたことがバレてそれを口実にテニュアの承認を無期限延期されてしまう。特権階級を使ってズルしたのを咎められるわけ。
男女同権的に先進的でイケてる男を演出していたハンクもいざ訴えられたらなんかこうセコセコセコセコ余裕なさげにオーバーリアクションで「相手から誘ってきたからさぁ!」とか言い出して情けないし、後にジュリアを押し倒そうとして拒否される。お前もさぁ。お高く留まった学者センセイがチンポに脳を乗っ取られるの悔しくないわけ?
レイプ被害者を自認するマギーはマギーで無駄に挑発的で論文もパクりだし親は金持ちで寄付金ランカー。そしておそらくマギーがハンクを誘ったのは事実なんだよね。マギーはジュリアに強いあこがれを持っており、さらにおそらくヘテロ。事件の直前にジュリアが過去に合意の関係だった相手にレイプをでっち上げた記事を発見し自身に取り込んでいる。そしてジュリアが自分の味方にならず、敵になったと確信した瞬間にその罪をマス・コミに告発してしまう。
しかし本当には何があったかわからないまま、つまりマギーから誘ったのか、ハンクが押し倒したのかはわからないまま、時は5年後に進みジュリアは学部長に、ハンクはコンサルにマギーは婚約者と幸せにしていることが分かり「力になれなくてスマンゴ」「一緒に破滅して同一化したかったが間違っていたゴメンゴ」と謝罪し合ってエンド。と同時にカットがかかって映画は終わる。
「こんな幸せな結末、物語の中だけですよ」という強い警鐘なんだろうけどとはいえ、何が起こったのかようわからんからなぁって感じ。ハンクの側に立てばカラードでジェンダーマイノリティの女性という圧倒的社会強者に踏みつぶされた身体的強者の物語だし、マギーの側に立てばジュリアへの恋慕を邪魔されたジェンダーマイノリティの復讐譚だし、ジュリアの側に立てば友人(不倫相手)と生徒(社会的弱者)の間に挟まれた上に過去に襲われるトラウマストーリーだし。もう頭おかしくなっちゃう!!!
ジュリアが15歳の時にパパの友人に恋してエッチしちゃうも、そのうち捨てられてブチ切れてレイプをでっちあげ彼は破滅。その後罪を告白するも社会的立場を失った彼は自殺する。というトラウマを抱えているのだけれど、これも仮に両思いだったとしても今の基準で言えば十分にレイプだよね。夫である医師も「だとしても彼は絶対に拒絶すべきだった」って言ってたけど、ワイトもそう思います。
旧人類として性的暴行を性的暴行と捉えられずに、しかし嘘として性的暴行を武器に使った女ジュリアと、新人類として(おそらく)合意の上であっても立場が圧倒的に上の男性との性行為を、しかし嘘として性的暴行として武器として使った女マギーの対比は何となく感じたかな。
その②
AIによる技術革新は社会を変革するか?というシナリオを考えると気になるのって、「AI技術を過大に評価してんじゃないの?」という点。
新技術による効率化・高度化によって社会が変革するなら、PCが普及することによって、現代でもすでにそれが起こっていてもおかしくないのではないか。
PCが普及した時代って、たしかに効率化はすごかったけど、「みんなに富が行き渡ったか?」と言われると、ほぼ No なわけで。
実際は、生産性だけ上がって賃金は伸びず、利益は企業や一部の高技能層に集中した、ということになる。
なんでそうなってしまったのか。
PCは仕事を「置き換え」せず、ただ「効率化」しただけだったから。
WordやExcelで早く仕事できるようになっても、そのぶん仕事が増え、労働時間が減るどころかむしろ増えた。
「人がいなくても回る」状態にはならず、「人がもっと働く」方向に作用した。
GDPは伸びるのに賃金は伸びない、という「デカップリング」現象が日米で発生して、追加の利益は労働者じゃなく、企業や資本に溜まっていった。
PC化でスケールメリットが巨大化し、勝者総取り(Microsoft など)の構造が生まれ、高スキル層だけ賃金が上がり、その他の層は停滞。格差が広がった。
当時は新自由主義が主流で、再配分は縮小。最低賃金は上がらず、資本課税も弱く、技術の恩恵を社会に戻す仕組みが整わなかった。
決定的なのは PCが「労働を効率化」したのに対し、AIは「労働そのものを代替」すると考えられる点。
「人間の仕事自体が消える → 所得モデルが崩壊 → 再配分しないと社会そのものが壊れる」という、放置できない規模の変化だから、BIや公共AI、富の再分配みたいな制度改革を避けられない、という理屈。
AIは労働の前提そのものを崩すので、制度改革を強制するタイプの技術、というのが大きな違いと言われる。
本当にそうなるのか?
さぁ…