はてなキーワード: 弦楽四重奏とは
ある音楽家が、これまでのリリース作品がすべてAIベースの制作環境で作られていたことを、その環境を商品として販売開始することで明かした。
この記事は、それを告発するものではない。むしろ、その製品が宣伝通り機能した場合にこそ私たちが直面する問い——「感動していた曲は、何によって作られていたのか」「作曲がプロンプト設計に移るとき、聴き手は何を聴いているのか」——について、ひとりの聴き手/作り手として考えたことを書いておく。
1~4節はその商品の分析がメインなので、ゴシップ的な話に興味のない人は5~7節だけ読めば十分。
Twitterで、気にかけていたアカウントがあった。フォロワーは二千人規模だが、Hyperpop以降の日本のシーンで頭角を現している一人、という認識が自分の中にあった。界隈の主要な音楽家たちからもフォローされている、といえば規模感が伝わるだろうか。リリースされる曲には、たんに「いい音楽」と片付けるのは難しい構成の巧妙さと音選びの新しさがあって、追ってはいないまでも名前は頭にあった。
そのアカウントが最近、自分の制作環境を商品として販売し始めた。価格は14,900円、「AI音楽制作環境」として売り出されていて、製品ページの宣伝文句はこうなっている——「『気持ちよくて驚きのある曲を作って』——そのくらいの指示から、コード進行・歌詞・Sunoプロンプトまで一貫して出力します。」さらに、既発のアルバムとEPは「全てこれを軸に制作されている」とも明記されていた。
最初に湧いた感情は、「ああ、そういう工程で作られていたのか」という、ある種の冷めの感情だった。AIを使っていることそのものへの反発ではない。SunoのようなAI音楽生成ツールの進化については以前から耳にしていた。出力自体のクオリティを否定するつもりもない。そうではなく、「何に対して感心していたのか」という、自分の受け取り方の根元が揺らぐ感覚、とでも言えばいいだろうか。
この感覚を、個人的ながっかりエピソードとして飲み込んで済ませてもよかった。けれど製品ページを読み進めるうちに、これは自分一人の話ではなく、いま音楽を聴く/作る側に共通してくる問題になっていくだろうと思い直した。以下はその整理になる。
製品ページから読み取れる範囲で、何が売られているのかをまず整理しておく。評価は後回しにする。
製品としての訴求は、おおむね三層からなる——(a)独自の音楽生成エンジンであること、(b)感覚的な指示から完成物が自動生成されること、(c)学習ツールとしても機能すること。
実際に買って触ったわけではないので、以下は推測の域を出ない。ただ、製品説明を読み解くと、構造的にいくつかの疑問が浮かぶ。
まず、''「Python疑似コード」という語の含意''について。「疑似コード」はPythonの形で書かれていても実行されないテキスト、つまり構造化されたプロンプト/参照資料のことを指すのが通例だ。Claudeプロジェクトに.zipをアップロードする形式である以上、これはClaudeが読み込むルール文書群であって、独立して走る独自エンジンではない可能性が高い。MIDI出力部分などは実行可能コードだろうが、「コードを選ぶ」「歌詞を書く」といった音楽的判断のコアは、Claude本体の自然言語推論能力が上限になる。これ自体は悪いことではない。よく練られたプロンプトパックは、Claudeの出力の一貫性と専門性を上げる。ただし「独自エンジン」という響きが含意するものとはかなりの距離がある。
次に、''Sunoへの依存度''について。製品の主要アウトプットのひとつが「Sunoプロンプト」である以上、最終的に音として鳴る部分——音色の質感、ミックスのバランス、演奏のニュアンス——を生成しているのは、この製品ではなくSunoのほうということになる。つまり、この製品の価値の相当部分は「Sunoを上手く使うためのプロンプト設計の職人技をパッケージしたもの」であって、Sunoが進化すればその層の価値は急速に目減りする。
三つ目に、''「all built by hand」の含意''について。86,000行という規模が、本当に人間が手で書いたものなのかは、製品説明からは判別できない。ジャンル研究ノートやStyle語彙データベースといった文書は、AIに「このジャンルについて詳細なルール文書を書いて」と指示すれば相当量が出てくる種類のものである。骨格は人間が作っていたとしても、肉付けをAIに任せている可能性は十分ある(そしてその場合、「手作業で書いた」という説明の重みはかなり変わってくる)。
繰り返すが、これらは推測にすぎない。実際に買って開ければ印象が変わる可能性は十分ある。ただ製品ページの記述だけを根拠に判断する限り、「独自の音楽生成エンジン」「作編曲の学習ツール」という訴求は、実態を控えめに言っても過剰包装しているように見える。
この製品に対する考えられる反応は、「宣伝通りに動くのか?」という疑問だろう。
しかし、立ち止まって考えると、本当に問うべきは逆側であることがわかる。
仮にこの製品が宣伝通りに機能するなら——「気持ちよくて驚きのある曲を作って」という指示一行から、コード進行・歌詞・Sunoプロンプト・MIDI・MP3まで一貫して出力されるなら——自分が感心していた曲は、その程度の指示から出てきたものだった、ということになる。下準備としての疑似コード整備や、出力に対する微調整は当然あるにしても、一曲一曲の制作工程の中心がそこにあったのなら、感心の源は作り手の耳ではなく、ツールの出力分布の中にあったことになる。たしかに創作物は優れていたかもしれないが、「それが優れていたのは上手くSunoを使いこなしていたから」という、エンジニアリングの問題だったということになる。
機能しないなら誇大広告の問題で済む。機能するならば、「聴き手は何を聴いていたのか」という、より根本的な問いが立ち上がる。皮肉なことに、製品としての完成度が高いほど、この問いは重くなる。
ここで思い出しておきたい話がある。2023年のゲンロンのイベントで、音楽家のtofubeatsが、Spotifyのサジェストで流れてきた曲に心を動かされ、作曲者を調べたらAI生成曲だと知って深いショックを受けた、という経験を語っていた。彼自身がオートチューンで声を加工し、歌声から人間性を排して作曲するタイプの作家でありながら、である。「非人間的な曲が、本当に人間によって作られていないこと」が判明したときの空虚さを、彼は正直に語っていた。
この空虚さが何から来るものなのかは、6節でもう少し踏み込んで考えてみたい。ただ先に言っておくと、それは「AIは音楽を作ってはいけない」という種類の話ではない。むしろ、「聴くとき、自分は何と対面していたつもりだったのか」という自己認識の問題になる。そしてそれは、作り手が工程を開示しないまま商品を売り始めた瞬間、聴き手の側で解決することが不可能になる種類の問いでもある。
誤解されたくないので、はっきり書いておく。この文章は、AIで音楽を作ることへの全面的な否定ではない。
作曲の歴史は、すべてを人間が設計し人間が作る歴史だけではなかった。偶然性、システム、自動化、外部の力を取り込む試みは、ジョン・ケージから、ブライアン・イーノ、アルゴリズミック・コンポジションまで、20世紀以降の音楽史の重要な部分を形作ってきた。AIの導入はその系譜の延長にあって、それ自体を否定するのは筋が悪い。
近年の例で言えば、菊地成孔は自身が主宰するギルド「新音楽制作工房」でAIを活用していることを早くから公言している。NHKドラマ『岸辺露伴は動かない』の劇伴ではMaxを用いたAI生成による弦楽四重奏が使われており、菊地本人が「作曲者のクレジットもないし、著作権のありかがわからない」という問題をNHK出版経由でJASRACと協議し、「新音楽制作工房」名義のクレジットで処理することで決着させた、という経緯まで公にしている。つまり、どう使い、どう扱い、誰の名のもとに出すかを、彼は工程ごと開示している。
ここでの違いは、「AIを使うか使わないか」ではなく、「どう使い、どう開示し、何を自分の名のもとに出すか」にある。「AIの使用は隠していない」という表明と、「どの工程をAIに委ねたかを開示する」こととの間には、大きな距離がある。
そしてもうひとつ、避けて通れない論点がある。Sunoを含む音楽生成AIが、何を学習データにしているかという問題だ。2024年6月、RIAA(全米レコード協会)はSony Music・Universal・Warner Musicを代表してSunoとUdioを著作権侵害で提訴した。Suno側は、レコード会社の著作権で保護された録音物を使用したことを概ね認めた上で、フェアユースを主張している。2025年末にはWarner MusicとSunoがライセンス提携で和解したが、訴訟全体はまだ決着していない。
つまり、いまSunoで曲を作って発表することは、その学習データが何で、どのような経緯で集められたかが法的に争われている状態のモデルを使うことを意味する。これは「使ってはいけない」と言いたいのではなく、「自分の作品がどういう供給ラインの上に立っているか」を無自覚なままにはできない、ということだ。そして、そのモデルを使って生成した曲で「作曲者」を名乗り、その制作環境を商品化して収益化する、という連鎖の倫理性は、まだ業界全体として合意が取れていない。
この記事の射程は、その倫理そのものを裁くところまでは届かない。ただ、「いい曲さえできれば制作過程はなんでもいい」という論法に、即座に頷くことはできない、という姿勢だけは明示しておきたい。
ここで、4節の末尾で保留にした問い——tofubeatsが味わった空虚さは何から来るのか——に戻ってくる。
創作物を聴く側は、作り手の工程をつねに見ているわけではない。それでも、作品を受け取るときには「制作への真摯さと、出来上がった作品のクオリティは、どこかで結びついている」という、いわば感覚的な信頼をもって聴いている。これは創作と鑑賞の間に長く存在してきた暗黙の契約のようなもので、あるシンガーソングライターが書いていた通り、手間暇掛けようが掛けまいが最後には一緒くたに扱われる時代でも、違いの分かる人はいるはずだと信じて丁寧に拵える——という姿勢を、作り手と受け手の双方が(明示的ではないにせよ)共有してきたから、音楽は単なる音の配列ではなく、作り手の痕跡を伴うものとして聴かれてきた。
AIが生成した音楽そのものにも、それ独自の良さがある。これは繰り返し強調しておく。作品としての良さは、工程とは独立に成立し得る。ただし、AI生成された曲を「ひとりの作家が作った作品」として提示し、その仮構された人格のもとに人気を集めることは、この暗黙の契約を根元から破壊する。聴き手が「これを作った人は、たぶんこういう感受性の持ち主なのだろう」と想像しながら聴いていた対象が、実は大部分がプロンプトから生成された出力だったとしたら、その想像は宙に浮いてしまう。作品が悪かったわけではない。悪かったのは、作品と作り手の人格の間にあったはずの関係について、聴き手が抱いていた前提が、工程を開示されないまま利用されていたことにある。
tofubeatsが味わった空虚さは、たぶんこれに近い。「AIが作ったから価値がない」ではなく、「自分は作品を通して誰かの感受性と向き合っていたつもりだったが、その『誰か』が自分が想像していたものとは違っていた」という、受け手側の文脈の宙吊り。この宙吊りは、作り手の側がAIの使用を大まかに表明するだけでは解消されない。「何を自分の判断で選び、何をツールに委ねたか」という工程の粒度での開示があってはじめて、聴き手は自分の感心の行き先を再設定できる。
この視点から見ると、今回の製品販売で起きたことの構造が少しはっきりする。14,900円という価格や、買った人にとっての有用性の問題はもちろんある。ただ、それ以上に大きかったのは、制作環境を商品化するという行為が、既発の作品群を「この環境の実例」として遡行的に位置づけ直してしまうことにある。以前から作品を聴いていた側から見れば、聴き手と作り手の間に結んでいたはずの暗黙の契約の内実が、後出しで書き換えられる感覚がある。
制作工程の開示は、法的義務ではない。ただ、制作環境を商品として売り始めた瞬間、この暗黙の契約を自分から前景化させたことになる。「この環境でこれだけの作品が作れる」という実例として既発のリリースが参照されているのなら、それぞれの作品がどの程度この環境の出力そのものなのか、どの程度は人間の介入によるものなのかは、買う人にとっても、これから聴く人にとっても、重要な情報になる。
最後に、聴き手として、作り手として、これからどうするかを書いておきたい。
聴き手としては、tofubeatsが味わった種類の空虚さを、できれば避けたいと思うひとが大半だろう。しかしtofubeatsがAI生成だと気づくことができたのはクレジットにそう明記されていたからに他ならない。今回の私のケースのように、AI生成であることが明かされていなかったり、将来的に(遡及的に)AI生成であることが明かされるようなパターンはますます増えていくだろう。私たちは、匿名性を保ったままクオリティで勝負して有名になっていくという同人音楽シーンの時代の終焉を目の当たりにしているのかもしれない。作り手と受け取り手の信頼関係が壊れていくなかで、聴き手側からできることはあまりにも少ない。界隈で有名なコンポーザーの多くも今回のアカウントをフォローしていたことも考えれば、制作過程の情報開示を積極的に求めていくこと、プロセスを明らかにしたうえでよいものを作っているひとを評価していくこと等も、その限界は大きいだろう。
作り手としては、自分がやりたいのは、プロンプト一行から出てくるものを受け取る側ではなく、一音ずつ選ぶ側である、とあらためて確認した。それはAIを使わないという意味ではなく、AIを使うにしても、どこで自分の判断を通すかを意識的に設計したい、ということになる。菊地成孔のやり方に近いと言えば近い。作編曲に限らず、これまであらゆるアートと呼ばれる領域について、過程を見せないことは作家の神秘性を増すための重要な要素だった。しかし上にも書いたように、その限界はもうすでに見えてきているように思う。過程を明らかにしたうえで、自身の武器がすべて明らかであるのにそれでも真似できない創造性を見せること。もちろん、あらゆる出力結果は機械学習の餌食になりうるという状況においてこれは綺麗事かもしれないが、成果物がいわゆるAIに食われうるのは変わらないのだとしたら、いかに自身の制作においては透明性を保ったうえでクオリティで受け手を納得させるか、こそが大事になってくるだろう。こうしたムードを作り手の側からも作っていくことが、今後の大きな課題になるのではないかと思う。
「AIがもっといいものを作れるのになぜあなたが作る必要があるのか?」は、「プロの作家がすでにこの世に五万と存在するのに、なぜあなたは作品をつくろうと、その道を志したのか?」という問いと本質的には何も変わらない。作りたいから、作る。伝えたいから、それを形にする。そうした初期衝動が、欲望が、「創造性」という言葉の本質であり、AIに模倣することのできない、あなただけの、私だけの創作物につながるのだから。
AT-LP60Xからのステップアップ、ワクワクしますね!フルオート機からマニュアル機への移行は、レコードを「操作する愉しみ」が一気に増えるタイミングです。ご提案のあった Thorens(トーレンス)TD 403 DD は、2025年後半に発売されたばかりの注目機で、クラシック愛好家には非常に良い選択です。ただ、他にもクラシックの「繊細な響き」や「奥行き」を引き出すライバル機がいくつかあります。クラシック音楽に求められる**「静寂性(SN比)」「回転の安定度」「繊細な表現力」**を重視して、3つの選択肢を比較提案します。1. Thorens TD 403 DD「伝統のブランドで聴く、現代の精密な音」トーレンスは世界最古のオーディオメーカーの一つ。このモデルはダイレクトドライブ(DD)方式を採用しており、メンテナンスフリーで非常に安定した回転が得られます。音の特徴: カートリッジに Ortofon 2M Blue が標準装備されており、解像度が高く、バイオリンの倍音やオーケストラの定位感がハッキリしています。ここが魅力: 付属のトーンアーム「TP150」の精度が高く、将来的にさらに高価なカートリッジ(MC型など)に変えても、その性能をしっかり引き出せます。向いている人: 「歴史あるブランド」の安心感と、カッチリとした現代的な高音質を両立させたい方。2. Technics SL-1200GR2「究極の静寂、オーケストラの背景が深く沈み込む」日本が誇るテクニクスの最新モデルです。DJ用のイメージが強いかもしれませんが、この「GR2」は完全にリスニング志向のハイファイ機です。音の特徴: 独自の新駆動制御技術により、モーターの微振動が徹底的に抑えられています。クラシックの弱音部(静かなパート)でのノイズ感のなさは、この価格帯では随一です。ここが魅力: 「とにかく正確」。ピアノの打鍵の揺らぎや、ホールの空気感が濁りなく再現されます。向いている人: 機器としての完成度や、正確無比なトレース能力を重視する方。3. Rega Planar 3 (MK2 / 2026 Edition等)「音楽の“しなやかさ”と躍動感」イギリスのRegaは、テクニクスとは対照的な「ベルトドライブ方式」の雄です。音の特徴: 非常に軽量で硬い設計思想で作られており、音が「速い」のが特徴。弦楽器のしなやかな動きや、指揮者のタクトの勢いが伝わってくるような、音楽的な鳴り方をします。ここが魅力: 余計な機能を削ぎ落としたミニマリズム。クラシックを「分析的」ではなく「音楽的」に楽しめます。向いている人: 弦楽四重奏やオペラなど、演奏者の体温が伝わるようなライブ感を大切にしたい方。比較まとめ特徴Thorens TD 403 DDTechnics SL-1200GR2Rega Planar 3駆動方式ダイレクトドライブダイレクトドライブベルトドライブ強みバランスの良さ・高級感圧倒的な静寂性と正確性音楽的な表現力・スピード感付属針有(高性能な2M Blue)別売(選ぶ愉しみがある)付属モデル有(Elys 2等)操作感重厚なスイッチ類精密なメカニック感究極にシンプル💡 買い替えのアドバイスAT-LP60Xは「フォノイコライザー」を内蔵していましたが、上記のモデルは外付けのフォノイコライザー(またはフォノ入力のあるアンプ)が必要になる場合が多いです。もしお持ちのアンプに「PHONO」端子がない場合は、予算にフォノイコライザー代(2〜5万円程度)を含めて検討してみてください。まずは、今お使いのアンプやスピーカーの型番を教えていただけますか? それに合わせて、一番相性の良い一台をさらに絞り込むお手伝いができます。
作曲家にして指揮者ジョン・アダムズ、東京都交響楽団を率いてサントリーホールで自作自演をする、しかも指揮者として日本初デビューと聞いてびっくりしたそこのあなた!実は今日演奏会だったんですよ!ヤバ!
なんと19日もやります!場所は東京文化会館!びっくりしたあなた!まだ間に合います!19日は有給取るしかない!
==以下感想==
全体的にモコモコした感じ。かなりテクニカルな曲で完成度は高いのだけど、ホールの響きとはあまりマッチしなかったように思う。この完成度なら19日もいい演奏になると思う。
二曲目:absolutly Jest
エスメ弦楽四重奏団を招いた弦楽四重奏と管弦楽の協奏曲。初演から冒頭部分が書き直されたようで、作曲家アダムズの苦悩がプログラムノートに書いてある。
クソ真面目に冗談やってる感じの演奏だったんだけど、これは都響が必死だったのかそういう方向性の冗談音楽なのか日本人に冗談は分からない的な演奏なのかは
アンコールはベートーヴェンの弦楽四重奏曲第13番第2楽章。めっちゃ聴きやすくて草。現代的な解釈で演奏するとベートーヴェンでもさっぱりするもんだ。
==休憩20分==
間違いなくマスターピース。もう聞けよいいから。これ40年前の曲なんだぜ?めっちゃ今を生きてる音楽じゃん。かっけえよアダムズ。自分で書いた曲を自分で指揮して最高の演奏会作っちゃうのマジやべえよ。もう持ってけ。全部持ってけ。19日も持ってけ。
こんな感じでした。クソ真面目な感想書くと思った!?残念でした!いーんだよこういうので!
拍手鳴り止まなくて演奏会終了が15分押してるからな!最高!二次会やろう!
==残念だったこと==
音楽は不満ないんですけど、楽章のあいだで拍手した前の席の何人かの人にちょっとピキって来ちゃったんです~^^
お前ら咳し過ぎ^^
みんな咳してるから俺も咳しとこ~みたいなノリで咳すんな^^
通りすがりのクラシック音楽ファンです。思いつくままにいくつか。
(1) 書いてある嗜好を素直に解釈すると、ブコメにもあるとおり、モーツァルトの室内楽や協奏曲を片っ端から聴くのがよさそうです。
例えば
・弦楽四重奏 第14〜19番の「ハイドン・セット」、特に副題のつく第14番「春」、第17番「狩り」、第19番「不協和音」(最初しか不協和音じゃないので安心してください)
クラリネット五重奏以外は爽やか楽しい系の選曲を心がけました。まあモーツァルトの長調の音楽ってそんな感じですよね。私はバイオリンを弾きますが、陰キャなので、憂いを知らないかのような音楽にたまに臆してしまいます。
(2) 同様に編成が大きくなりすぎず、明るい…という方向性で思いつくのはハイドンです。
ハイドンの長調もまた、底なしのネアカで私には眩しい音楽たちです。
例えば
・弦楽四重奏 第67番「ひばり」、77番「皇帝」、78番「日の出」(皇帝はドイツ国歌で有名ですね)
(3) 時代的にはバロック〜古典派、ただしお好みにはベートーヴェン以降は入らなさそう…?なように思いましたがいかがでしょうか。省略しましたがヴィヴァルディなんかもキラキラしていてハマるかもしれません。
とはいえ、ベートーヴェン以降の作曲家達も室内楽の名曲は沢山あるので余裕が出てきたらぜひ。
完全に「好きなものを訊かれて早口で消化しきれない量を勧めるオタク」そのものですね、ごめんなさい。
自覚はあるがこんな機会滅多にないので…たくさん書いてしまいました…
ちなみに、名盤については完全に個人の好みになるので私から言えることはありません。というか、片っ端から聴き比べてあーだこーだ言うのが楽しいんだと思います。多分。
クラシックやジャズに興味がないという人も少なくはないでしょう。かなり初歩的な内容になりますが、編成について少しだけでも知れば解像度が上がるかもしれません。音楽は調和の芸術ですが、個々の音に分解して耳を傾けてみるのも楽しいのではないかと思います。
バッハやベートーヴェンなど、いわゆるクラシック音楽などの編成。映画音楽もこれが多いですね。弦、金管、木管、打楽器が編成の基本。
弦は小さい方からバイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバス。
打楽器は……まあ、色々です。スネア、ティンパニ、シロフォン(木琴1)、マリンバ(木琴2)、グロッケン(鉄琴1)、ビブラフォン(鉄琴2)、…etc
ここぞという時に使う持ち替えの楽器というものもあります。フルートの人がピッコロ、トランペットの人がピッコロトランペット、オーボエの人がイングリッシュホルン、他にも色々。
小さい楽器ほど高い音が鳴り主旋律を担当し、大きくなるほど低い音になりリズム隊の担当になります。中間の楽器はそれぞれの橋渡しと言った所でしょう。
弦楽器は和音も出せますが、基本的にオーケストラで使う楽器は単音しか出せません。調和の音楽たる所以でしょう。
楽曲によってはハープやピアノ、その他おもしろ楽器(打楽器による担当が多い気がする)が入ったりもします。サックスは基本入らないのですが、新しめの曲だと使われる事もあります。
楽器ごとに1st、2st、3rd(、4th…)と担当が分かれます。部活などでは、基本上の学年(か実力者)ほど若い数字のパートを担当。ソロは基本1st、曲により2ndが担当。
数字が若いほど高い音を担当し、パート全体で和音を構成します。
ソロパートなど目立てる箇所もありますが、個は埋もれがちかもしれませんね。指揮者に束ねられ、各々が細かく決められた役割のもと調和を目指す編成なのでしょう。
余談ですが、指揮者ってただ棒を振り回しているだけではなくて、コンサート本番に向けて楽団の練習を仕上げる監督の役割も大きいんですよ。
・室内楽
「クラシック」で一括りにされがちですが、オーケストラ以外にも少人数の編成があります。オーケストラが大衆向けの音楽だとしたら、室内楽は音楽が貴族のものだった頃の編成と言えるでしょう。音楽家に演奏させたり、自分らで演奏したり。バッハやモーツァルトが得意とする所ですね。
二人ならデュオ、三人ならトリオ、四人ならカルテット、五人ならクインテット……
編成は色々です。
弦楽四重奏のパッヘルベルのカノンなんかは極めて有名ですね。エヴァの旧劇場版のエンディングで流れた時、感動しました。木管五重奏では、なぜか金管のホルンが入ったりもます。
少人数で個が立つ編成の分、ジャズにも近い側面があるかもしれませんね。
・ジャズ
現代のポップスやロックの原点である、偉大なブラック・ミュージック。
ルーツについては色々言われているようです。その一つに、スコット・ジョプリンに代表されるラグタイムというピアノの曲のジャンルがあります。彼の"The Entertainer"は誰しも一度は聴いたことがあるでしょう。"Bethena"もベンジャミン・バトンで重要なテーマ曲になっていました。
彼の曲を「クラシック」ではなく「ラグタイム」と言えると、ちょっとかっこいいかもしれませんね。
さて、ジャズの編成について。
トリオやカルテットなど、少人数でのセッションとビッグバンドに大別されます。
ドラムス、ウッドベース(オーケストラで使うコントラバスと同じものです。弓は使わずピッチカートだけで弾く場合が多いですね)、エレキベースなどのリズム楽器、トランペット、トロンボーン、アルトサックス、テナーサックスなどのメロディー楽器。あるいはボーカルも。ピアノとエレキギターは万能です。
それぞれから一つずつ以上選ぶのが基本です。ベーシックな編成としては、ドラムス、ベース、ピアノ/管楽器/ボーカルのトリオでしょうか。
しかしジャズは自由な音楽です。リズム隊のベースやドラムにもよくソロが与えられますし、何ならメロディを丸ごと担当する事だってあります。
変わり種でフルートやバスクラリネットという楽器なんかも使われたりします。
大きなクラリネットにサックスみたいなウツボカズラがついててかっこいいんですよこの楽器。ジャズの奏者ではエリック・ドルフィーが有名です。
色々な編成を聴いてジャズという音楽の懐の深さを感じるのもまた一興でしょう。
そして、ビッグバンドについて。ビッグバンドといえばグレン・ミラー。youtubeで色々聴けると思います。どれか一つくらいは耳に覚えがあるでしょう。『茶色の小瓶』や『アメリカン・パトロール』なんかが特に有名ですね。
編成としては、ブラスバンドに近いかもしれません。金管はトランペット、トロンボーン、木管はクラリネットとバリトン〜アルトサックス、リズム隊にピアノ、ベース、ドラムス。オーケストラ同様に、1st、2ndが割り振られます。
少人数でのセッションのライブ感に対して、比較的まとまりのあるサウンドと言いましょうか。予定調和的ではあるかもしれませんが、足並み揃った音の厚みや迫力はまた魅力的なものです。
偏見ですが、中高の吹奏楽部員上がりはビッグバンドかオーケストラに入りがちな気がします。
ジャズの魅力の一つに、キンキンと鳴り響く金管のハイトーンがあります。メイナードファーガソンや、エリック宮城なんかが有名どころでしょうか。「すごい!かっこいいなあ…」となるものですが、こればっかりは実際に自分で楽器をやってみないと凄さが中々分からないものでしょう。
余談ですが、ビッグバンドのトランペットは2ndがソロを吹く事も少なくありません。1stもハイノートで疲れているんでしょうかね。
ジャズにはフュージョンというジャンルもあり、T-SQUAREやウェザー・リポートなどが代表的でしょうか。今はあまり流行りではありませんでしたが、EWIやリリコンという電子管楽器が使われていました。ジャズがスノッブで肩肘張った音楽ジャンルに思われるかもしれませんが、案外ミーハーな所もあるかもしれませんよ。
・吹奏楽
日本の部活ではこれ。たまに間違えられますが、「ブラスバンド」はサックス+金管楽器(+パーカッション)の編成なので、実は異なるものです。サックスも金管楽器なんじゃないか?と思われるかもしれませんが、楽器の素材ではなく音の出し方による分類のため、木管楽器になります。
ブラスバンドにはスーザフォンやコルネット(ほぼトランペットです)、バリトンやアルトホルンなどマイナーな楽器が使われたりもます。
さて、本題の吹奏楽。
基本的にはオーケストラから弦楽器が丸ごと抜け落ち、管楽器にユーフォニアムとサックスが入ります。「吹奏」楽たる所以ですね。
管弦楽曲の吹奏楽編曲では、弦楽器が担っていた主旋律をクラリネットが代わりに担当している印象があります。しかし、弦と管ではやはり表現が異なります。特にピッチカートという弦を弾く演奏法は、管楽器でいくらスタッカートを強調した所で別なものです。にもかかわらず、指揮者に「ピッチカートっぽく弾いて」なんて無茶振りをされる光景はままあるような気がします。
中高生の部活で弦楽器を扱うのが難しい(幼い頃からやっていないと人前で演奏するレベルになるのは難しいという風潮?傾向?があります)という事情のもと、部活では管弦楽ではなく吹奏楽が多く採用されているのではないかと思います。
しかし、吹奏楽独自の編成を活かした曲があまり書かれておらず、オーケストラやジャズ、ポップスの吹奏楽版編曲が多く演奏されがちな気がします。それって別に吹奏楽編成でやる必要なくない?となってしまうので、吹奏楽らしさを活かした快活で明るいサウンドにしようとの苦心が見られますが、どうにもダサい方に転んでしまう印象を受けます。
悪口のようになってしまいましたが、吹奏楽にも独自の良さはあるはずです。コンクールでもよく使われる曲を作っている樽屋雅徳という方は、吹奏楽編成のための曲を書いているので、興味があればぜひ。
彼に会ったのは、人手が足りないからと友人に駆り出された室内楽のイベントだった。
私は普段アマチュアオーケストラの片隅でビオラを弾いているが、コロナ禍でオーケストラの練習は軒並み中止に追い込まれている。
(N響による検証では、管楽器でも一定距離以上の飛沫が飛ばないことは分かったが、練習会場が閉鎖されがちなのでどちらにせよ練習できない。)
そんな中、友人が所属するオーケストラでは、弦楽四重奏や五重奏の数曲を演奏する催しをするという。
予定曲に対して参加希望者が微妙に足りないということで、私にお声がかかった。昨年9月頃の話だ。
初回練習日に会場につくと、私と一緒の組で演奏するメンバーを友人が紹介してくれた。
巷のステレオタイプな研究職のイメージよろしく、眼鏡をかけており、外見にあまり気を遣っていないようだった。
リハーサルが進むごとに、心の機微をよく理解し、優しいことが分かった。そして音は自然で伸びやか。タイプだ。
ただ、こちらも三十余年を生きており、人並みの自制心は持っている。
数回のリハーサルを経て、本番を迎えた。
目を合わせる。息を一緒に吸い、一緒に音を出す。彼が問いかける。私は答える。音楽が少し走り出す。私たちは目くばせをして合わせる。
音楽の根幹が「空間を共有し、呼吸を合わせる」ことにあると再確認する。
コロナ禍で半年以上コミュニケーション自体が激減していたところ、彼との無言の会話は劇薬だった。
本番が終わった後、ご飯に行けるはずもなく、話しながら一緒に帰った。遅くなりがちなところ上手くいってよかったです。でも最後はちょっとばらけちゃいましたね。
話している最中、目を逸らさずに見てくるので動揺した。反則なのでやめないか。瞬間、私は演奏中の光景を思い出して赤面する。
そんなこんなで私はあっさりノックアウトされた。
それから、特に用事もないまま時間だけが過ぎていく。コロナ前ならご飯に誘ったんだろうがこのご時世だ。
友人に探りを入れたが、二年ほど前に「今は仕事の正念場なので恋愛とか結婚とかは考えられない」と言っているのを聞いたという。
かく言う私も、このまま仕事がうまくいけば、半年後に今の居住地を離れる。こんな宙ぶらりんな状態でどうこうするのは申し訳ない。
第一、必死で仕事をしている人に「私のためにあなたの時間をください」と伝える勇気は今の自分にはない。
研究職が今が正念場なのも本当で、考えれば考えるほど、今はそっとするべきという結論になる。私の勝手で邪魔をしてしまうのも悪いしな。
友人の団体には、演奏会の助っ人枠にいつでも呼んでくれと伝えてはあるものの、冬に続き、夏の演奏会も無くなる公算が高そうだ。
というわけで、残念だけど、どうしようもない。
とりあえず、はよコロナ収まってくれ。
君の考えにケチ付ける前に前提の共有をしておきたい。
何が「吹奏楽絡み」なのか意味が分からないし、意味が分からないから疑問にも思いようがない。もう少し詳細に。
まず気に入らない点は色物なのに本物ぶってる点
この本物ぶるというのもやはり意味が分からない。どういう現象を「色物が本物ぶる」のか詳細が欲しい。
そもそも音楽ジャンルをスポーツに比喩することは適切だろうか?
たとえばその比喩が適切であるならば、「フルートオーケストラ」や「弦楽四重奏のための協奏曲(ただし弦抜きオケ)」や「クラリネット四重奏」と「クラリネット五重奏」の違いなどが明確に他のスポーツなどに対応されなければならないはずだ。
簡略化、という主張をするならば、当然弦楽四重奏はオーケストラから簡略化されたものと見做されねばならないし、ピアノとサックスによるソナタもそれに準じなければならないだろう。まさかクラリネット四重奏が四管編成オーケストラの簡略化だ、なんてアホなことは言わないだろうが。
「オーケストラより手軽に曲を完成させる(未経験者可)」「部活(教育の場)の思想にマッチさせる」
っていう辺りの思惑と言っていい。
教育的配慮はあろうが、前者は意味がやはり不明。そんな思惑は聞いたことも体験したこともないが。具体的に誰が明言したの?
簡略化した挙句にジャズとかポップス等、多方面からもつまみ食いした結果((中高生のハートをキャッチするためでしょう。おそらく))
19世紀後半からのオーケストラのジャズつまみ食いはそれこそ作曲家から演奏家まで当たり前のようにしてたわけだけど、そういう事情は無視?
でもそこが日本の中心って全体の底が知れると思わない?
そこまで書いてWASBEとかは無視するんだもんね。
「個性<集団」に相当偏ってる。
私は地区~県レベルの中学と県~支部レベルの高校の吹奏楽部に在籍していた人間だけども、そんな基準は聞いたことないなあ。
普門館に上がるとそういうのが加味されるわけ?
地区大会とか県大会の団体は感動が魅せられていないわけでもないでしょ?
そう思ってるなら、よほどひねくれた考えなんだなあ、と思わざるをえない。
「徹底的に個を排除」「演出は過剰に」という方向に走る
二行目はわからなくもないけど一行目と三行目は別に問題ないよね。
というか吹奏楽って編成事態が中音が分厚くて低音が薄くて個性の薄れた管楽器集団じゃない。
もちろんこれは構造上の特徴だから、それを活かすも殺すも作曲家次第なんだけどさ。
まあ北朝鮮のマスゲームみたいだから音楽じゃないっていうのも読んでてアホだなーって思うけど、まあそれはいいよ本筋じゃないし。
前のとこは省略したけどさ、吹奏楽部あがりのプロ管楽器奏者ってザラにいるのよ、わかる?
で、ジャンルの問題として君は吹奏楽とオーケストラとジャズの違いも説明できなそうだし(ここでオーケストラとジャズを比べないあたりがとても恣意的だよね)
で、そもそもスポーツとの比喩が適切であるかどうかも不明瞭だからここの引き合いも同じく不明瞭。
「日本でクラシックを本当にやるなら東京藝術大学を目指すんだろう」と「そういう高校生は吹奏楽やってる暇はないらしい。」がどういう理路でつながったのだろう?
あと、君勘違いしてるけど今音楽が熱いのは藝大じゃなくて東音ね。あなたいつの人よ?データ古くない?
杞憂だから不安がらなくていいよ、めんどくさくなって前提無視してケチつけまくったけど
ああ、あとちゃんとトラバ返してね。少なくとも上の指摘に適切に返せないようじゃ話にならない。
正直なところ、クラシック音楽を聴いている連中の感覚は、俺の理解の及ぶところにはないんだろう、と感じている。
私自身もクラシックをよく聴くが、印象派や新古典主義以降じゃないと説教臭くて嫌悪してしまう。
もちろんいいものもある。ベートーヴェンの弦楽四重奏やピアノ・ソナタ、グレゴリオ聖歌は好きだ。
でもモーツァルトやバッハはダメ。もう「生理的に嫌い」というのはこういう事を言うんだ、というレヴェル。
しかもそういうの聴いてる人って「お前にはこの音楽の素晴らしさが、価値がわからないというのか。耳が腐っている」臭を放っていて、とっつきにくい。
そしてそういう人は大抵現代音楽を蔑む。「客が入らないオナニー」というわけだ。
私は悲しい。
陰口が渦巻いてる状況に耐えられなくなって誰にも何も言わずオケを辞めた。
他のアマオケに入ったけれど
またオケを好きになれるかもしれないと思ってすごくいろいろ頑張ったけど
他の運営メンバーにうまく仕事振れなくて、フリーライダーを作ってしまい
でも誰にも自分のしんどさを伝えられなくて一人でいろいろ抱え込んで、
第一回演奏会終わった直後に高熱出して寝込んだ。そのオケも辞めた。
楽器を弾くのが全然楽しくなくなったので
バイオリンを試してみたいという友人のところに貸した。
楽器ケース見るのも嫌だった。
どんなに練習しても超えられない壁があって、
自分の体なのに言うこと聞いてくれなくて、もう嫌だと思った。
上手くなりたいのにどうしたらいいのかわかんなくなった。
好きだったはずのものを嫌いになっちゃうのってものすごく悲しい。
学生オケ内の政治力はその人の楽器の腕とニアリーイコールだから
あの時、周りを黙らせるくらい楽器が上手かったら
少しは状況が変わっていたのかなとも思うけれど
そういう訳でもないんだよな。
言いたいことがある時はその場で言わないとだめなんだよな。
去年の秋、システマチックに基礎練を教えてくれる先生と出会って
今は少しずつ基礎の練習からもう一度さらってる。
長いこと蓄積してきた体の癖はそう簡単に抜けてくれないけど
構えを変えたら明らかに響きが変わった。
浅田真央が自分のジャンプの悪い癖を3週間で修正したってTVでやってたけど
それができるのは本当に本当にすごいことだと思う。
あと、たまたま今の学科内で弦楽四重奏のできるメンツが揃ったので
時々四重奏を合わせてる。
まだまだ上手く弾けないところもあるけれど、気の合う4人で弾くのは楽しい。
オーケストラみたいな大規模な組織でなんかするのは向いてなかったみたい。
何人かと雑談してて、コンマス候補の子が席を外した瞬間、悪口の大炸裂。
もう( ゜Д゜)ポカーンとしてなにも言えなかった。
あと、自分の楽器の腕に対してこだわりすぎてたことに最近気づいた。
音質は悪くないんだけど、基礎がないから音程とアーティキュレーションがめちゃくちゃ。
生き急ぐこともないんだよな。
解決すべき課題がきちんと見えてきただけ数年前より格段にラクにはなってる。
今年は楽しく楽器の弾ける年にしたいなあ。
これは、PSP・PS3用の新作ゲーム「無限回廊」の音楽が生まれるまでのエピソードである。
人生は自分自身から見れば一回きりだ。
しかしそれらの人生を傍から眺めてみよう。
すると、生まれ来て、そして死に行くそのさまは、
まさに無限に繰り返される回廊ではないか。
再び自分に視点を戻すと、人生にはさまざまなアクシデントがある。
気がつけば目に見えない人生のターニングポイントを通り過ぎていたり、
突然のジャンプでまったく別の世界に身をおくことになっていたりする。
ありもしない、理想の自分自身の影を目指して歩き続けながら・・・
そして最後は誰もが同じ死という生のゴールにたどり着いていく。
いくら廻りを見渡しても、私たちが自分自身である限りは
自分の前や後に、同じ回廊をさまよった人生があったのか
それともなかったのかを、わたしたちは知る由もない。
私は人生を繰り返すたびに気づかされている。
まるでこの無限の弦楽の重なりのように。
http://www.noisycroak.co.jp/diary/
「あるあるあるー。」
という異世界に迷い込んでしまった方は、
OLE Coordinate System というありえない徘徊行動を
行うソフトウェアの楽曲について調べてみて欲しい。
そこにはいつか見た来客が待ち受けているはずだ。