はてなキーワード: 文化とは
宗教って、そもそも潜在的な侵略手段の側面あるよなって思うんだよ。
構造として見ると、
「この神は絶対的に正しい」
「この教えに従うべき」
「従わないと駄目」
って価値観を広げて、
人を従わせる性質を持ってる。
しかもそれって、
共同体を作って、
そこに帰属意識を持たせる。
結果として、
人を統治したり、
秩序を作ったりするシステムでもある。
で、こういう性質ある以上、
本来かなり慎重にならないといけないと思うんだよな。
だってそれ、
結局、
扱いも慎重であるべきなんだろうなって思うわ。
表面的に秩序正しく、礼儀正しく自制する日本社会の背後には、誰もが無言で我慢している集団状態が隠されている。多くのストレスは言われず、文句を言われず、誰もが心にそっと蓄積され、現代日本の最もリアルな日常となっている。
サービス残業、長時間通勤、ディルド、業績至上の雰囲気は依然として普遍的だ。疲れていても、直接断る人は少なく、我慢が「職場の美徳」になる。
1.2人間関係の忍耐と自制
日本の職場は協調と雰囲気を重視し、不満は率直に言えず、不満は表に出せない。
二、生活の中にどこにもいない隠れた束縛
電車のマナー、公共道徳、話し方……日本の社会のルールは細かい。人々は常に自粛し、間違いを犯すことができず、長期的に緊張状態にある。
養老、医療、年金、ラブグッズ、子育てのコストは増え続けている。未来は不透明だが、黙って引き受けるしかなく、公開されることは少ない。
悩みも苦しみも不満も自分で消化することに慣れ、ストレスが溜まっていく。
3.2沈黙忍耐は強さとみなされる
表現の弱さは成熟していないと見なされやすいため、沈黙を選ぶ人が増えている。穏やかに見える日常は、実は無数の忍耐が積み重なってできている。
おわりに
日本社会の安定と礼儀は、ストレスがないのではなく、すべての人が静かに我慢している。職場、生活、心理の三重のストレスが絡み合い、独特の社会感情が形成されている。この沈黙の忍耐を読んでこそ、現代日本の本当の姿を理解することができる。
あれって単に生きるうえでの戦略だよね
なにか不都合があった時、人間は弱いからそれをそのまま受け入れることが難しい(受け入れられる強い人もいるが)
「誰かのせい」「何かのせい」にすることで気が楽になるし次に進めるというのがある
その「誰か」を自分にするか他人にするか、半々にするか、それだけであり、実はその選択自体に人間性は関係ないんじゃないかと思う
ただ、当然他責思考を口に出してしまえば周りから嫌われていくから、そういうのを察してしまう人ほど、責任の所在の行き場がなくて自責に行きやすいんじゃないかと思っている
あるいは、それすらもできない人は「叩いてもいい人」に向きがちで、それが政治家だったり世間で話題になってる炎上してる人や弱い者だったりする
面白いのは時代や文化によってこの他責思考の割合が違う気がしていて
例えば周りが他責思考が多い社会ほど、皆他責思考になるんじゃないかと思っている
AさんとBさんと問題があったとして、AさんBさんが他責なら、一応議論は進むし、AさんBさんが自責でも一応議論は進むが
Aさんが他責でBさんが自責なら、悪いのはいつもBさんとなってしまい、社会としては不健全化する
不健全化すると個人はともかく社会としてはストレスが溜まるので、ある程度バランスを取り、自責/他責率が変わるんじゃないかと思っている(この仮説は子供の頃から思っていた)
また、ある意味で自責が多いというのは社会が完全に回っている証拠のような気がしていて、スタートラインを保証されているほどに周囲が自責以外を許さない環境になるんじゃないかと思う
要は自己責任論が強くなるんだが、これはこれで失敗を許さない社会になるので息苦しくなるわけだが(まさに今の日本)
現代人が忘れてしまっているのが「無責・無罰」で、昔の人はたとえば「バチが当たった」「前世で悪いことをした」「お天道様の気まぐれ」のような
もうどうしようもない物を持ち出すことでストレスを闇に葬るのが上手かったんじゃないかと思うんだが、時代が進む毎に「悪い人探し」を始める流れが強くなってるんじゃないかなあという気がしないでもない(どうだろう?)
あ、何の話だっけ?
「あっは~ん、うっふ~ん」は、昭和の時代に流行したコミカルな色気の表現で、主にテレビ・映画・漫才などのエンタメから広まりました。
もともとは艶っぽい女性が発する声や仕草を模したもので、特に吉本興業系の漫才師やコメディアンたちが、色っぽい女性のモノマネをするときに使い始めたとされています。
昭和30〜50年代のテレビバラエティ全盛期に、コントや漫才の「お色気シーン」の定番フレーズとして定着し、やがて「わざとらしい色気」「古くさいセクシーさ」を表すお約束のギャグ表現として広く認知されるようになりました。
むしろ日本の「伝統的」家庭料理はレベル低いでしょ。高度成長期以降の専業主婦文化になってからが酷い。
料理のセンスもない女が大量に主婦になって生活のためだけの料理をするようになり相当レベルが下がったと思う。スーパーや食料品メーカーも生活料理に合わせた商品ばかり作るようになって、調味料や一次・二次加工品も低レベルなものだらけになった。
そのうちキャラ弁とか料理と関係ない無意味な方向にこだわりを発揮し始めたりめちゃくちゃになった。
カレー作ろうと思って基本的なスパイスを買っただけで「家族の生活を考えていない自己満足野郎」みたいにディスられる世界だぞ。レベル高いわけないじゃん。
今は専業主婦も減ったしセンスない人間は料理しなくてもいい世界になったから食のレベルはむしろ上がっていくまであると思うぞ。
食文化の担い手は必ずしも「その国の人間」である必要はない。世界を見渡せば、ギリシャの食堂でギリシャ料理を作るのが移民であったり、ロンドンでインド料理を支えるのがバングラデシュ系の職人であったりする。日本の外食産業もすでに多くの外国人労働者なしには成立しなくなっており、今後移民・外国人労働者の受け入れが進めば、「日本の食」の担い手は変わりながらも水準は維持・更新される可能性がある。むしろ移民が少ない現在の日本でこそ、いわゆる「本国の味」が温存されているという逆説的な見方もできる。需要の担い手と供給の担い手は別々に考える必要がある。
次に、食文化はその国の内側だけで完結するものではない。1963年、韓国は日本の明星食品から無償で技術供与を受け、インスタントラーメンの製造を開始した。以来、韓国はインスタントラーメンを独自に発展させ、今や世界一の一人あたり消費量を誇り、辛ラーメンは100カ国以上で販売されるグローバルブランドになったし、その韓国では日本式の生ラーメン文化が爆発的に広がっており、ソウルだけで約1200店舗にまで日本式ラーメン店が増え、水鶏系から油そば、家系、二郎系まで、日本のラーメン文化そのものが深く受け入れられている。中国と地続きでありながら、インスタントラーメンに続いて生ラーメン文化までもが日本から根付くというのは、食文化の伝播がいかに地理的条件を超えるかを示している。増田は日本国内の需要低下だけを見ているが、日本の食文化が「外需」として評価され、そこからまた日本へフィードバックが来るという循環も十分にあり得る。
さらに、AIと翻訳技術の発展は、世界の食の平均底上げをもたらす可能性がある。日本の食が「落ちる」方向にしか目を向けていないが、XのリアルタイムAI翻訳をはじめ、動画プラットフォームでのレシピ共有やオンライン料理教室の普及により、世界の料理人や一般人が良質な料理技術にアクセスしやすくなっている。これは日本の食の相対的優位が縮まるとも言えるが、同時に「日本の食から学びたい」という世界の需要が増大する面もある。世界交流の加速は、日本の食文化を希薄化させるとは限らず、むしろ一種の「輸出財」として再評価させる契機になり得る。また、日本人の食への飽くなき欲求は世界の食文化を吸収するポテンシャルをまだ残していると思う。
「自炊離れ→外食チェーン化→美食文化の衰退」という図式は、一定の説得力を持ちつつも、国内消費者の行動だけに議論を限定しすぎている。食文化の強度は、その国の人間が全員料理上手かどうかではなく、どれだけ多様なプレイヤーと交流しながら更新され続けるかによって決まる。
桃から生まれた男は、いまや株式会社オニガシマソリューションズの鬼退治プロジェクト推進室長、通称・桃太郎であった。
昔は「日本一のきびだんご」で人心を掌握できたが、現代はそうもいかない。
犬は正社員だった。首から社員証を下げ、名刺入れを持ち、社用PCには会社指定のセキュリティシールが貼られている。福利厚生で歯石除去まで出るらしい。
猿の社員証には大きく「派遣」と書かれ、キジに至っては首にかけるタイプではなく、クリップ式で羽に挟むと微妙に痛い仕様だった。
桃太郎は咳払いをした。
「今回の鬼退治案件ですが、犬さんには現場リーダーをお願いします。猿さん、キジさんは犬さんの指示を受けて動いてください」
犬がうなずいた。
「承知しました。ではまず、猿さんは鬼ヶ島入口の監視、キジさんは上空からの偵察をお願いします。あと、日報は17時までに共有フォルダへ」
猿が手を挙げた。
「ああ」
犬は少し困った顔をした。
「派遣の方はセキュリティ上、社内フォルダに入れないので、日報は僕に口頭でお願いします。僕がそれを転記します」
「じゃあ僕が書いたこと、犬さんの成果になるんですか?」
キジが小さく鳴いた。
「キッ……」
犬には箱入りの高級きびだんご。黒蜜きなこ味、個包装、社名ロゴ入り。
猿がそれを見比べた。
「桃太郎さん、これ、犬さんのだけ箱が違いません?」
「犬さんは正社員なので、退職金前払い相当分のきびだんごポイントが付与されています」
「うちは関知できません」
キジがまた鳴いた。
「キッ……」
今度は「言い方が人事」という意味だった。
道中、犬はリーダーらしく的確に指示を出した。
「猿さん、そこの枝に登って敵情確認を。キジさん、低空飛行で周辺警戒をお願いします」
「了解です」
「あと、作業中にケガをした場合、犬さんは労災申請フローA、猿さんとキジさんは派遣元経由でフローBです」
猿が枝から落ちかけた。
「いまそれ言う?」
キジは空を飛びながら尋ねた。
「休憩は?」
犬は手帳を開いた。
「犬は11時半から一時間。猿さんとキジさんは業務委託ではないですが、就業場所が屋外なので、派遣契約書上は“適宜”となっています」
「適宜って、誰が決めるんですか」
「現場って誰ですか」
犬は胸を張った。
「私です」
猿は枝の上で遠い目をした。
昼になり、桃太郎たちは浜辺で休憩した。
そこには会社支給のウォーターサーバーが置いてあった。冷水と温水が出る、最新型である。
犬が紙コップを取った。
「あ、猿さん、キジさん」
「はい?」
「申し訳ないんですが、こちらのウォーターサーバーは正社員福利厚生設備なので、派遣の方は使用をお控えください」
猿は波の音を聞いた。
「海水飲めってことですか?」
「いや、そういう意味ではなく」
「じゃあ何を飲めと」
犬は気まずそうにリュックを探った。
「毎日来てる来客って何?」
桃太郎は黙ってきびだんごを食べていた。なぜなら桃太郎は上長だが、こういう話になると急に「制度の問題だから」と言って遠くを見るタイプの上長だった。
猿がぼそっと言った。
「鬼より先に倒すべきもの、見えてきたな」
「何者だ!」
犬は一歩前に出た。
「株式会社オニガシマソリューションズとの契約不履行および近隣村落へのコンプライアンス違反について、是正勧告に参りました」
鬼はひるんだ。
「なんだその怖い言葉は」
猿は横から飛びかかり、鬼の金棒を奪った。キジは上空から鬼の目をつついた。犬は後方で叫んだ。
「猿さん、ナイスです! ただし金棒の持ち帰りは備品管理規程に抵触します!」
「戦闘中に規程読むな!」
キジが鬼の頭上を旋回した。
「キッ、キッ!」
三匹の活躍により、鬼たちはあっという間に降参した。
桃太郎は宝を回収し、満足げに言った。
「皆さんのおかげです。特に犬さん、リーダーシップが光りましたね」
猿が眉をひそめた。
「いや、最前線で殴ったの僕ですけど」
キジも羽を広げた。
「偵察と目つぶし、私ですけど」
「でも評価シート上、派遣の方は桃太郎さんの直接評価対象外なので……」
「知ってた」
帰り道、猿とキジは黙っていた。
猿が言った。
キジが言った。
「キッ」
村に戻ると、桃太郎は全社向けに発表した。
「鬼退治プロジェクトは無事成功しました。今後は雇用形態を問わず、同じ現場で戦う仲間として尊重する文化を醸成していきます」
犬が拍手した。
その翌週、社内のウォーターサーバーには新しい貼り紙がされた。
“どなたでもご利用いただけます”
猿はそれを見て、少し笑った。
「お、進歩じゃん」
キジも嬉しそうに水を飲もうとした。
“ただし紙コップは正社員用です”
犬は静かに目をそらした。
そして桃太郎は、誰よりも静かに、新しいプロジェクト名を考えていた。
犬が言った。
桃太郎は腰の刀を抜いた。
「通すんだよ」
猿とキジは顔を見合わせた。
紙コップはなかったので、手と羽と舌で。
それでも水は、まあまあうまかった。
明治維新以来、日本人が白人コンプレックスをアジア人差別で代償しようとした、というのは的確で、150年経ってもその心理に気づいていない、気づきたくない人が多すぎる根深い問題
東博で今やっている加賀百万石展、前田家が東洋である日本の文化を蒐集し保存し、美意識を磨いていた長い歴史を、明治になって似合わない洋装洋画像や日本の風土にあわない欧州工芸に生活を切り替えて日本独自の文化と美に上書きしたのを見て悲しくなった
必死で脱亜入欧しようとしたことには理由があり、変化の正の面を否定はしない。だからこそ確実に負の面があったことも認知すべき
明治で日本の根幹がグラグラになったまま、アイデンティティのより所を補填する愛国や戦争に突き進んで、完全敗北から文化がほぼ完全に欧米配下に入っていったのも大きい
それでも日本文化を保存したり生活の中で江戸以前から風習として息づいている「日本」を何とか保っているが
本来の日本文化が明治以降にくいこんだ白人コンプレックスに上書きされて、アジアへの共感や帰属意識を失い、西洋の敗北とアジア興隆で文化的な帰属先もなく一人負けのガラパゴス精神鎖国になっている。そして貧しくなってまた根のないアイデンティティのより所を排外愛国に求める空気がある。かなり危険な状態
日本の食文化は衰退していく、という主張には同意するが、原因は自炊の有無ではない。
蕎麦の食べ方として最も美味しいのは釜揚げ蕎麦だと最近実感している。
釜揚げ蕎麦は出雲などで食されているが、私は別に出雲出身でもなければ出雲に親戚筋がいる訳でもない。
ただ単に自分で色々な食べ方を比較してみた結果、やはり釜揚げ蕎麦が最高に美味しいのである。
釜揚げ蕎麦の作り方は極めて簡単だ。乾麺か生麺の蕎麦を鍋で茹で、それを(ザルに落として冷水で洗ったりはせずに)そのまま茹で汁ごと丼に入れ、そこに薬味の刻みネギと麺つゆを直接投入して食するのである。インスタントラーメン並みに簡単に調理できる上に、もり蕎麦、ざる蕎麦、かけ蕎麦などよりも蕎麦の香りと味わいが実感できて最高に美味しい。
ところが、実際に自分で釜揚げ蕎麦を作ろうと思うと、様々な精神的攻撃が発生する。
まず、茹で上がった蕎麦をトングで挟んで丼に入れ、その次に茹で汁を丼に注いでいると
「おいおい、蕎麦は茹でたらザルにあげて冷水で締めるんだよ。そんなことも知らないのか?この馬鹿が。野蛮人かよ?w」
「釜揚げ蕎麦?そんなものはねえよ!釜揚げうどんはあるけれど釜揚げ蕎麦なんてねえよw馬鹿かお前w」
と俺を罵倒してくる。
こういう馬鹿は無視して茹で上がった蕎麦と茹で汁を丼に入れて食卓に運び、そこに薬味の刻みネギと麺つゆを投入しようとすると、今度は別の奴が現れる。
「何やってんのあんた、釜揚げっていうのはね、別の小さな器に温かいつゆを用意して、薬味もそこに入れて、釜揚げした麺をそれにつけて食べるの。あんた馬鹿?」
そこで俺はこう言う
「いや、それは『釜揚げうどんの』食べ方だろ?釜揚げ蕎麦の場合は、麺つゆと薬味は釜揚げの蕎麦の上に直接投入するんだよ。何故だか分かるかい?蕎麦の茹で汁は『蕎麦湯』といって飲む習慣があるが、うどんの茹で汁、いわば『うどん湯』を飲む習慣はない。だから釜揚げうどんではわざわざ別につゆを用意するが、蕎麦湯をに飲む蕎麦文化では、直接つゆを入れていいんだよ」
すると奴は言う
「なーに言ってんのよ、アンタはただ茹でた蕎麦を冷水で冷やしたりするのが面倒くさいだけなんでしょ?ズボラなだけなのに分かったような理屈で言い逃れしてんじゃないわよこのバーカ」
このような罵声に耐えつつ、やっと釜揚げ蕎麦を食べる。美味い。なんと美味いのだ。実在しない暴言で傷つけられた心を癒すように優しい味が口の中に広がって行く。
こういう精神的問題を過去にネット上で精神科医に相談してみたことがあったが、これらが自らの空想、想像であることを自覚できている時点で統合失調症でも解離性障害でもないとの回答を得た。
これを単なる「放課後のスポーツや文化活動」と解釈しているうちは、日本社会の本質を捉えることはできない。部活とは、教育という美名の下に偽装された、日本独自の「空気」の醸成機関であり、極めて強固な「小宇宙」としての共同体なのである。
西洋的なスポーツの概念では、それはあくまで個人の「楽しみ」であり「技術の向上」を目的とする「遊び(Game)」である。しかし、日本の部活においては、それが「野球道」や「剣道」といった具合に、容易に「道」へと転化してしまう。
ここで言う「道」とは、論理的なルールを超越した絶対的な規範である。そこには、外部の人間には到底理解しがたい、以下のような特質が見て取れる。
儀礼の絶対化: 挨拶の角度から、道具の手入れ、グラウンドへの一礼に至るまで、機能性とは無関係な儀礼が最優先される。
「連帯責任」という戒律: 一人の部員の不始末が部全体の活動停止に繋がる。これは近代的な法治主義(個人責任)ではなく、村社会の「縁座」の論理である。
山本七平が喝破した「空気」の支配が、最も純粋な形で現れるのがこの部活という空間だ。
例えば、真夏に水を飲まずに練習を続ける(かつての常識)、あるいは怪我を押して出場するといった行為が「美談」とされる背景には、生理学的な合理性など存在しない。そこにあるのは、「ここで水を飲んではいけない」「休んではいけない」という、その場を支配する「空気」への絶対服従である。
この空気(臨在感的把握)に抗う者は、非国民ならぬ「非部員」として、共同体から事実上の追放(シカトや疎外)を余儀なくされる。ここでは「個」の意志は、共同体の維持という至上命題の前に、完全に抹殺されるのである。
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このシステムを維持する「司祭」の役割を担うのが、教師(顧問)である。
彼らは本来の職務である教科指導を二の次にしても、部活動の指導に没頭することを「徳」とされる。土日を返上し、無給に近い状態で奉仕するその姿は、近代的な労働者のそれではなく、一種の宗教的情熱に突き動かされた修道者のそれである。
生徒もまた、その「自己犠牲の精神」を空気として吸い込み、「先生がこれだけやってくれているのだから」という情緒的な絆によって、さらなる規律へと縛り付けられていく。
それは、日本社会という巨大な「空気の組織」に適合するための、高度な精神的訓練所なのである。理不尽な上下関係を、論理ではなく「身体的感覚」として受け入れ、組織の論理を個人の論理に優先させる――この「日本教」の洗礼を、彼らは多感な思春期に徹底的に叩き込まれるのだ。
この「珍妙な制度」が温存されている限り、日本人が真の意味で「個」として自立し、論理的な組織運営を行うことは、おそらく今後も至難の業であろう。
日本の食は世界一だと言われる。ミシュランの星の数がどうとか和食がユネスコに登録されたとか、そういう話ではなく、もっと漠然とした雰囲気、なんとなくみんなそうかもしれないと思っている。コンビニのおにぎり一個でも、町の定食屋の日替わりでも、水準が高いのは事実だ。
だが、それがいつまでも続くのかはかなり疑わしい。
独身者が増えた。昔なら女性が担っていた家庭料理の技術が家庭の中で継承されなくなり、男女ともに自炊スキルを持たないまま大人になる人間がどんどん増えている。知人の独身男性はアラサーなのに自炊スキルゼロで、冷凍食品とコンビニのヘビーユーザーだ。俺は独身中年男性だが自炊してる!とか反発する奴もいるかもしれないが、自分たちが少数派なのは分かっているだろうに。外食といえばチェーン店一択でサイゼリアを「コスパ最高」「別に美味いだろ」と絶賛する。それはまあわかる、サイゼリアはたしかにそこまで劣悪な品質ではないだろう。でもそんな連中が増えた社会は美食に関心のない社会だろう。
個人店には入りづらいという人が増えた。値段が読めないとか、雰囲気がとっつきにくいとか、各々それっぽい理由を述べる。「デパ地下で総菜買ってうちで飲むのが一番コスパいい」という話を聞くたびに、なんとも言えない気持ちになる。コスパとタイパだけで飯を選ぶようになったとき、料理人の技術や店の空気や食材の背景みたいなものはどこに行くんだろう。
そして酒だ。美食と美酒は切り離せないと、少し前まで当たり前のように言われていた。料理に合わせてワインを選ぶとか、魚には日本酒とか、そういう話ではなく、もっと根本的に、良い食事の席には良い酒があるという前提が共有されていた。それが今、飲まない、飲めない、飲みたくない、飲む人の近くにいたくない人間がものすごい勢いで増えている。ソバーキュリアスなんて言葉も出てきた。これも別に悪いことではない。でも、料理と酒が一緒に発展してきた歴史を考えると、酒を嫌う日本人が主流になっていく社会で、料理の水準だけが独立して高まり続けるというのはあり得ないだろうと思う。ラノベ作家や漫画家などサブカルチャーに携わる人間も酒が飲めない酒飲みの気持ちが分からない酒なんて要らないだろう、とXで堂々と振る舞っている。本当に興味のある文化の幅が狭い"文化人"が増えたのを感じる。
作る人間が減り、金をかけない人間が増え、個人店が潰れ、酒を飲む人間も減っていく。その社会で、日本の食の水準が今のまま維持されるか?需要がなければ供給は細る。それだけの話だ。
日本の食が世界一かもしれないというのは、まさに今この瞬間だけの話で、時間とともに終わっていくのだろうと今ここに書いておきたい。
表現の法規制は、一度導入されると対象が拡大する傾向がある。 これは歴史的に繰り返し確認されてきた事実である。
この構造を理解せずに「嫌いな表現だけ規制してほしい」と主張することは、自らの首を絞める行為になりうる。
以上の諸問題を貫くのは、「自分(たち)の表現・欲望・不快感は正当であり、他者のそれは不当である」という非対称的な自己正当化の構造である。
| 自陣営の行為 | 自己正当化の論理 | 他陣営の同種の行為に対する態度 |
| 未成年キャラのR-18 BL | 「フィクションだから問題ない」 | 「ロリコンは犯罪予備軍」 |
| 男性キャラの性的客体化 | 「女性の手によるものだから搾取ではない」 | 「女性キャラの性的客体化は性差別」 |
| 実在男性のRPS | 「愛情表現の一形態」 | 「実在女性の性的画像は性的暴力」 |
| コミュニティ内の嫌がらせ | 「自浄作用」「マナー違反への指摘」 | 「男オタクのハラスメント文化」 |
この表が示すのは、同一の行為を自陣営と他陣営で正反対に評価するダブルスタンダードである。
本稿で検討した問題群は、いずれも「自分の欲望に対する無自覚と、他者の欲望に対する不寛容」という同じ根から生えている。腐女子文化には豊かな創造性と共同体的な連帯があり、それ自体は文化的に価値のあるものである。しかし、その内部に存在する暴力性・排他性・ダブルスタンダードを直視しなければ、自らが攻撃してきた「不寛容な社会」の鏡像になるだけである。
そして何より、性的表現の法規制という刃は、一度抜けば自分にも向かう。この認識なくして表現規制を軽々しく求めることは、腐女子文化を含むオタク文化全体の存立基盤を自ら掘り崩す行為であることを、すべての当事者が理解すべきである。
BL(ボーイズラブ)文化は、男性同士の恋愛・性愛を描くフィクションを中心に発展してきた。しかし、その消費構造が実在のゲイ・バイセクシュアル男性を素材として搾取しているのではないかという批判は、当事者コミュニティから繰り返し提起されてきた。
具体的には以下の論点がある。
これらの主張には一定の妥当性がある。しかし、「フィクションだから無関係」という論理は、RPSや実在コミュニティへの侵入行為には適用できない。また、「理解の入口になった」という功利的正当化は、当事者が現に被る不快や搾取を帳消しにする根拠としては不十分である。
より深刻なのは、この問題が指摘されたとき、腐女子コミュニティの一部が「ホモフォビアと戦ってきたのは我々だ」という自己正当化に走り、当事者の批判を封殺する力学が働くことである。マジョリティ(異性愛女性)がマイノリティ(ゲイ男性)の表象を占有し、かつその批判に対して「我々こそ味方だ」と主張する構造は、植民地主義的な知の収奪と相似形をなしている。
『イナズマイレブン』(主要キャラクターは中学生)、『忍たま乱太郎』(忍術学園の生徒は10歳前後の設定)など、明確に未成年と設定されたキャラクターのR-18 BL二次創作は、pixiv・同人誌即売会・SNSなどで大量に流通している。
| 論点 | 現行法の状況 |
| 著作権侵害 | 二次創作は原著作物の翻案権・同一性保持権を侵害しうる。権利者が黙認しているに過ぎず、合法ではない。いわゆる「グレーゾーン」は法的に保護された領域ではなく、権利者の好意に依存した状態である。 |
| 児童ポルノ該当性 | 日本の「児童買春・児童ポルノ禁止法」は実在の児童を対象としており、創作物(絵・小説)は現行法上は児童ポルノに該当しない。ただし、国際的にはフィクションも規制対象とする国がある(豪州、カナダ等)。 |
| わいせつ物該当性 | 刑法175条のわいせつ物頒布罪の適用可能性は理論上残るが、同人誌に対する摘発例はほぼない。 |
法律上「違法ではない」としても、10歳や13歳に設定されたキャラクターの性行為を詳細に描写し、それを大量に流通させる行為が倫理的に問題ないと言えるかは別の問いである。
腐女子コミュニティ内では「キャラクターは絵であり実在しない」「被害者がいない」という論理で正当化されることが多いが、この論理は男性向けの「ロリコンもの」に対しても同様に適用されなければ一貫しない。にもかかわらず、後述するように、男性向けの未成年キャラクター性的表現には激しく反対しつつ、自陣営の同種の表現には寛容であるというダブルスタンダードが指摘されている。
一部の権利者はガイドラインで性的二次創作を明示的に禁止している。しかし多くの場合、個別の対応コストや炎上リスクを恐れて黙認しているに過ぎない。この黙認を「許可」と読み替える文化的慣習は、権利者に本来不要な負担を強いている。
近年、英語圏の社会正義運動(いわゆる「Woke」)の言説——特にジェンダー論、ポストコロニアル批評、インターセクショナリティなど——が、日本のSNS上で選択的に翻訳・引用され、特定の表現を攻撃するための武器として使用される事例が増加している。
Woke言説そのものが問題なのではない。ジェンダー論やポストコロニアル批評は学術的に重要な知的伝統である。問題は、それらの理論が本来持つ複雑さや内部批判を捨象し、自陣営に都合の良い部分だけを切り出して「正義の棍棒」として使用する態度にある。
これは理論の誠実な適用ではなく、権威の借用による言論封殺である。そして、この手法が最も頻繁に向かう先が、男性向けのオタクコンテンツである。
「マシュマロ」「Peing」などの匿名メッセージサービスを利用した攻撃的メッセージ(通称「毒マロ」)は、腐女子コミュニティにおいて深刻な問題となっている。内容は以下のようなものである。
毒マロや晒し(SNS上で特定の作者・作品を名指しで批判すること)の結果、創作者がアカウントを削除し作品を非公開にする「筆折り」は日常的に発生している。これはコミュニティ内部の表現弾圧に他ならない。
特に注目すべきは、加害者もまた女性であり、被害者もまた女性であるという点である。「女性が女性を潰す」構造は、フェミニズムの言説では説明しにくいため、しばしば不可視化される。
腐女子コミュニティでは、特定の行動規範(「検索避け」「鍵垢での運用」「R-18はワンクッション」等)について定期的に激しい議論が発生し、「学級会」と呼ばれる。これ自体はコミュニティの自治として機能しうるが、しばしば規範の押し付けと逸脱者への制裁に変質する。
腐女子コミュニティの一部には、以下のような暗黙の序列意識が存在するとの指摘がある。
この序列は、「BLは高尚なフィクションだが、夢小説や男女の恋愛は自己投影で低俗」という偏見に基づく。
ここに深刻な矛盾がある。腐女子コミュニティの一部は、自らの表現が社会から偏見を受けてきた歴史を語りつつ、同じ女性向け創作者コミュニティ内で別のジャンルを蔑視・攻撃している。被抑圧者が別の被抑圧者を踏みつける構造であり、「連帯」の理念とは正反対の実態である。
近年、以下のような事例が繰り返し報告されている。
これらの運動に共通するのは、主観的な不快感(「お気持ち」)を客観的な権利侵害であるかのように主張する論法である。「私が不快に思う」→「それは社会的に有害である」→「規制されるべきだ」という三段跳びは、法的な権利論としては成立しない。
しかし、SNS上の炎上は企業にとって実害をもたらすため、法的根拠がなくとも事実上の表現制限として機能している。これは私的検閲(private censorship)の問題である。
最も深刻な問題は、男性向けの性的表現を攻撃する主体が、自らは第2章で述べたような未成年キャラクターのR-18 BLを消費している場合があるという点である。
オシャレさ・センスの良さ・高尚さを誇示するために作家の名前を挙げてポケモンバトルする文化がキモい。
気持ちは分からんでもないが、いい歳してやってるのはマジでキモい。
とか書いてて思ったが、それだけじゃないな。そもそも他人の書いた本を読んでるだけの100%受動的な行為に「読み方」とか言って自己表現っぽさを醸し出してるところがキモいんだな。
カナダ全体の公式な若年失業率(15〜24歳)は直近で約13.8〜14.3%程度です。
一方で、
「新卒(recent graduates under 25)」だけでも11.2%
という構造です。
少なくとも「新卒で正社員に入りやすい」という点では、Japan は先進国でもかなり特殊です。
理由は主に4つです。
研修込み
これは欧米ではかなり珍しいです。
欧米だと、
experience required
internship必須
になりやすい。
小売
などで慢性的に人不足です。
日本企業は「新卒無職」を比較的ネガティブに見るため、卒業前に囲い込む圧力が強い。
逆に、Canada や United States は、
卒業後に探す
数か月無職
も珍しくありません。
「就活は大変」
日本のネットユーザーの一部に、奇妙な「勝利条件」が定着している。リアルでのコミュニケーションを避け、オンラインでも積極的に拒絶されること、すなわち無視・ブロック・炎上・排除されることを、むしろ自分の正しさや純粋さの証明として受け止める人々だ。彼らにとって「勝ち」とは、相手に反応されないこと、集団から弾き出されること、沈黙の海に沈むことである。こうした病理は、匿名性に守られた日本のネット文化が長年育んできた特有の歪みと言える。
背景には、1990年代後半からの2ちゃんねる文化がある。実名を晒さず、顔も見せず、責任を負わないまま攻撃や皮肉を浴びせ合う空間。そこで培われたのは「空気を読む」ことの逆説的な極端化だ。反応されれば負け、絡まれると面倒、褒められても胡散臭い。理想の状態は「存在を認められず、静かに漂う」ことなのだ。この傾向はSNS時代に加速した。彼らにとって拒絶は「俺は間違っていない、周りが腐っている」という自己肯定の証拠になる。ひきこもり研究でも指摘されるように、社会的つながりの希薄化と承認欲求の異常な形骸化が重なる。リアルで拒絶される恐怖を、ネットで「自ら選んだ勝利」として再解釈することで、心のバランスを取っている。
病理の根は深い。長時間労働、低賃金、将来不安、人間関係のストレスで疲弊した人々が、ネットを「安全な逃げ場」とする一方で、そこでも本物のつながりを恐れる。匿名性が攻撃性を増幅し、集団極性化を起こす環境では、穏やかな会話より「叩かれること」や「無視されること」の方がエネルギーを消費せずに済む。結果、コミュニティは細分化し、エコーチェンバー内でしか生きられなくなる。外部の声は即座に「荒らし」認定され、拒絶される。
こうした人々は、決して少数ではない。40代ひきこもり問題や、若者の「ドライ志向」の裏側にも通じる。日本社会の「調和優先」「不都合な真実の拒絶」という構造が、ネット上で極端に増幅されていると言える。コミュニケーションを拒絶されることを勝利条件に選ぶのは、究極の防衛機制だ。しかしそれは、孤独を美化し、成長を拒否する悪循環を生む。本当の勝利は、拒絶されることではなく、拒絶されてもなお繋がろうとする勇気にあるのかもしれない。ネットがリアルを侵食する今、日本人はその病理からいつ目を覚ますのだろうか。(約980文字)
元ツイート
こんなことをお願いするのもどうかと思いますが、ご飲食されるテーブルの上に人形やグッズの類を置かない様お願いします。
まれにテーブルの上に人形やグッズをずらりと並べてる方がいらっしゃいますが、今後はお断りさせて頂きます。
理由のひとつは提供時に誤って汚損した場合、スタッフ一同責任を負えないからです。
ぬい撮り文化→あんま好きじゃないけど個人的にはさっさと終わらせるなら迷惑かけてないし別にいい
さえぼう先生のいうパブ文化云々→詳しくないからよくわからない
さえぼう先生のいう他の迷惑行為差し置いて云々→気持ちはわからなくない
小さい子供はOK→なんで?やっぱり汚損の責任取れないって理由だけだと説明付かない。やっぱ本音は「いい大人」がぬい撮りするのがキモいからってこと?
衛生云々→でも最悪腹壊すのはぬいママだけならどうでもよくね。スマホ程度の菌レベルでしょ
埃が出そう→なるほどたしかに
大人の幼稚な行動を正当化するな→ぬい撮りの光景苦手だけど害はない物にこの論調はもっと苦手。
他のテーブルをジロジロ観察する人→嫌だ…
個人的にぬい撮り風景が苦手なのは不衛生そうだからでもいい大人がみっともないからでもなくその場の世界観を犯してるように見えるからという感覚。アクスタやフィギュアもやだ。でも見ないようにすれば別にいいか…と思ってる。
前作から参戦予想として挙がりやすかったけど、ディスカバリーで味方としてのワドルディ像が強調されて以降、グッズ・コラボでもワドルディの登場頻度が高くなり、地位が相当上がった感あるので、ワドルディ代表として満を持して参戦すると予想。
功罪は色々ありつつも、日本ゲーム文化の一つとなったソシャゲから誰か出すなら、まあまず彼らかなあ。技のネタはGBVSやリリンクから取れるし、ドラガリでサイゲと任天堂の縁もある。リリンクのアッパー版がSwitch2で出るからその宣伝にもなるし。
まあそれ抜きにしても、ここ十年くらいの日本ゲームを代表する存在の一つであることは間違いない。エヴァ新作の脚本やるなどヨコオタロウの知名度も上がってるし。
ストファイ、KOF、鉄拳と来たら次はギルティギアじゃね?(異論は認める) 最新作のGGSTが評判良いし、壁破壊ギミックとかはステージでの原作再現が捗りそう。ロマキャンをどう落とし込むかが悩みどころではあるが。
―――――↓これ以降大穴枠↓―――――
色々言われそうではあるがなんやかんや期待したい。マイクラ、(Miiコスだけど)Undertaleと、同人ゲーの参戦も増えてきたので、そろそろ日本の同人ゲームを代表する存在である東方が来てもおかしくないのかなと。
大元がエロゲーだので色々言われそうではあるが、昨今の大手中国ソシャゲなど、世界的に影響与えまくってる存在ではあるし、あってもいいんじゃないかなあ。
・蛍/空(原神)
中国でのスイッチ関連サービスが停止したことから、任天堂の中国上でのビジネスがあんまり上手くいってない感ある上、チャイナリスク的なアレも多分あり、下手したらソラ以上に参戦難易度がハードになってそうではあるが、3Dアニメ調ソシャゲブームを起こし、近年のゲーム業界に衝撃を与えた存在ではあるので、ワンチャン参戦しねえかなと思っている。
・花海 咲季(学園アイドルマスター)
「何言ってんだお前」と言われるのはわかってる。わかってるのだが、何か彼女の生き様見てると、もはやなんかスマブラでもやっていけるんじゃないかと思い始める。アイマスは、ラブライブやバンドリ、プロセカのような二次元音楽コンテンツの(多分)元祖であり、格も十分だと考える。ステージも映えそうだし。格闘技もやってたみたいな設定にすればいけるよ多分
なぜ日本だけリベラルは若者から嫌われてデモも気持ち悪いと思われてるんだろうか
日本のリベラルの活動は世界に紹介しても恥ずかしくないレベルだし海外からも日本共産党の評価は高い