はてなキーワード: 天道とは
世の中には「聞いたけど無視する」「読んだけどスルーする」という事象がある。
「ブクマがついていないから誰にも読まれていない」というわけではないようなものだ。
「無視された=聞いていない、スルーされた=読まれていない」と、即座に考えると危険である。
あくまで仮説でなければならない。
そもそも存在していないのか、届いた上で反応されなかったのか、届いていないのか、届いたが意図が伝わった上で反応されなかったのか、届いたが意図が伝わっていないのか、いろいろあるが相手が反応するまで不明だ。
「黙っているから聞こえていない」と考える向きもある。
公共の場でぺちゃくちゃ話している人間を見て「うるさいと思われていると考えないのかな」と考えたことはあるだろうか。
彼らは「うるさいと思われているがわかっていてうるさくしている」「何も言われないから、自分たちはうるさくないと思っている」「そもそも考えていない」などさまざまな理由を持つ。
この違いは非常におもしろい。
無反応の場合、それが作為なのか不作為なのか、わからないのである。
自分の諸行動すべてに、誰もがすべて反応するわけではない。
だがもし、自分の行動について意図して無反応だった人間が、自分の預かり知らないところで膨大な数いるとしたらどうだろうか。俺はこの集合体を「お天道さま」と考えている。
誰も自分の諸行動を見ていないわけではなく、見た上で、あえて全員がスルーしているとしたらどうだろうか。これは届いているが無視されている。
逆に、自分は諸行動を見える場所でやっているとは思っているが、誰にも見えていなかったとしたらどうだろうか。これは無視ではなく届いていないのだ。
ここで言うガチとは、お守りをハサミで切るのにも特に抵抗はなく、悪い事したやつに不幸が降りかかってもバチが当たったとか思わず、事故物件であっても清掃が行き届いているかくらいしか気にしない人間のことだ。
でも、正月には初詣に行っておみくじを買うし、家人が「やっぱ悪い事は出来ないね、お天道様が見てるから」と言えば相づちを打つし、海外出張の前にお守りをもらえばちゃんと持っていく。それはまあ一種の社会性フィルタってやつだ。
そもそも、信仰は大半の人間にとって有用であるし、宗教というシステムも一部の例外を除いてはとても良く出来ていると思っている。有史以来宗教によって殺された人間は数多くあれど、宗教によって救われた人間だってそれ以上に多いはずなんだ。
だから彼らの信じるものを否定する理由などないし、気分を害するようなことをしても誰も得しないと思ってる。「無神論者たるもの信仰心を持った人を論破すべし」みたいになったら、それこそ宗教めいていて気持ちわりぃや。好きの反対は無関心ってな。
もう10年ぐらい前の話、平日の昼間にバイトが休みだったからてきとうに近所を散歩していると、
農道の端に立っている女性がいた。8月の終わりだってのに真夏のピークは去ってないはずなのに
袖がちぎれたパーカーを着ていた
何をするでもない、ただ畑を見つめて立っていた
変な女だなと思って、しばらくしてまたそこに
行くとやはり立っている。頭からは血を流しているしく、助けようと思ったがどんなに声をかけても反応しない
ずっと立っている
どうすればいいのか分からない俺は友人に話して、友人とその場所に行ってみることにした
そして、友人はその女を見るや近づいて、何か話したかと思えばそのまま引き返した
さらに数日後、そこに行ってみると女はどこにも
いなかった。友人に何をしたか聞いてみたら
きょとんとした顔で「あなた、死んじゃってますよ」って伝えただけだよと
驚くことにそこにあった被害者の写真はあの女ではないか。現場もあの農道だった
で、友人にそのことを伝えたら
「そんなこともあるさ」とか言うし
今の日本の全体として。宗教の力も共同体としての力もどんどん薄まって、
「お天道様が見てる」とか「ご先祖様に顔向けできない」みたいな感覚もかなり機能しなくなってきた。
だからモラルやマナーを守るのも、「社会秩序を守るのが結局自分にとって得だから」みたいな、
自分自身、かなりの部分そういう思考で生きてきたが、子どもに教育していてそれでいいのか?と思えてきた。
最近知恵が付いてきたのか「で、それをして俺に何の得があるの?」みたいに言われたりして、
こういう時に「損得とかじゃなくて人としてそうすべきなんだ」みたいな言い方しても全然響かない。
仕方なく損得論で話しても、「でも、それだとリターンに対してコストが見合わなくない?」とか言われたりして。
ひろゆきのクソに影響されてるのか知らんが、生意気にも論破しようとしてきやがる。
結局、「人生経験の足りないお前ごときがリターンとコストを正確に見積もれると思うな」と一喝して黙らせたのだが、
事の発端がなんなのかっていうと、「ご近所さんにちゃんと挨拶しろ」って話なんだよね。
こんなことで、防犯上のメリットとか、ご近所トラブルリスク回避とか、自分で言っててそういう問題か?って思ったんだよな。
やっぱモラルとして挨拶しろ、でいいような気もするが…でも実際子が言ってることも分からんでもないんだけど。
自分も子どもの頃、親父に理論的に説明されずに頭ごなしに叱られて腹立ったことも何度もあるし。
うーん、難しい。
現世の天下の民が困窮しているようでは、この国は滅びてしまう。政治を担うには相応しい器ではない小人どもに国を治めさせておけば、災害が次々と生じてしまうと、昔の聖人は、後世の人々に強く言い残している。
徳川家康公も「善い政治とは、身寄りもない人たちに対して、もっとも深い哀れみを掛けてあげることだ」と言われた。
ところがどうか?
これまでの240~50年もの間、戦乱はなかった。しかし、社会の上層部の者たちは、贅沢の限りを尽くすようになってしまった。
大事な政策を担う役人たちは、公然と賄賂を贈ったり、賄賂を受け取ったりしている。
そのくせ、自分たちが支配している民、百姓たちからは、重い税を取り立てている。
ただでさえ、重い年貢や賦役に苦しんできた多くの人々は、このような無体な強要に追いまくられ、出費がかさみ、貧困に苦しめられるようになってしまった。
民の恨みに呼応して、天も怒っている。
近年、地震、火災、山崩れ、洪水等々の自然災害が頻発するようになった。
そして、ついに、食糧危機までもが発生してしまった。 これぞ、天が下している深い戒めである。
ところが、上層部は、この天の戒めの意味に気付いていない。器が小さく奸計ばかりをめぐらす輩たちが政治を牛耳っている。
下々の民を彼らは悩ませ、米や金銭を取り立てることばかりに熱中している。
目の前で起こっている天災や天罰を見ても畏れ入ることもなく、餓死寸前の貧民や乞食を救おうともせず、山海の珍味を食し、妾宅に入り浸たり、揚屋や茶屋に高位の武家の家来たちを招待して、高価な酒を湯水のごとく飲んでいる。
多くの人々が難渋しているのに、絹の着物を着て、芝居の役者や芸子たちを引き連れて、世の中が平穏であるかのように、つまり、危機状態にあることを知らぬげに、歓楽にふけっている。
なんたることか。
これでは、昔、紂王が連夜、酒宴を催していたという故事そのものではないか。
いま、奉行や役人たちが緊急に取り組まなくてはならない事態は、自分たちならできる政治力でもって、これら不届きな輩を取締り、下々の庶民を救うべきではないのか。
彼らは、それができなくて、堂島での相場にのめり込み、録をかすめ取ることばかりしている。
このような役人や商人たちの所業は、天道や聖人の御心に叶うはずはなく、天は、許してくれないだろう。
いままで、じっと我慢していた私たちは、もはや我慢することに耐えられなくなった。
私たちには、湯王や武王の威勢はなく、孔孟の人徳もないが、天下のために、親類縁者に被害が及ぶことも厭わず、この度、有志で話し合って蜂起した。
そして、彼らが隠し持っている金銀銅貨、あちこちの蔵屋敷に保管されている扶持米を運び出して、人々に配る。