世界が望んでいる日本
世界中で日本人による日本バッシングが疑問視されております。
一般の人はともかく新聞や放送機関などのメディアが反日であることが世界中の人々に疑問視されております。
ある外国人は嫌いであるのであれば日本から出ていけばいいのにと言いますし、自国の素晴らしさを知らないかわいそうな人々との話も聞こえます。
特定亜細亜の方針に沿った報道しかできない報道機関、マスメディア
捏造を行ってでも日本を貶めたいNHKを筆頭とするテレビ局
彼らが何をもってそのような報道を行っているのでしょうか?また、自由がなぜあるか考えてもいない人間たちに自由を謳歌する権利はあるのでしょうか?
捏造を繰り返し全く反省しない報道機関たち、もはや修正できる段階を超えているのかもしれません。
亜細亜の中でもっとも早くから日本の支配を受けていた台湾では日本の統治時代を懐かしく思っている人が多いことは周知の事実でしょう。
日本が統治した植民地ではほとんど独立戦争は発生しておりませんし、独立できた国もありません。
逆に統治を現地の人間にある程度任されていたという事も覚えておかなくてはなりません。
台湾人の方はこのように話します。
【それぞれの70年 台湾から】(3)「目を覚まし、誇り取り戻して」
■“蛮行”でっちあげる日本人教授
「内地(日本本土)から来た先生は優しくて素敵(すてき)だった。日本統治時代は、私にとって黄金時代だったのよ。本当によい時代に生まれて幸せでした」
4月中旬、楊素秋さん(82)に、彼女が住む台北市内で話を聞いた。楊さんは、鍼灸(しんきゅう)師の兄、楊應吟氏とともに、日本教育を懐かしむ1人だ。日本統治時代に話していた美しい日本語を台湾に残そうと、勉強会などを開く「友愛グループ」の会員でもある。
楊さんは昭和7(1932)年、南部の台南市で電気店を営む台湾人家庭に生まれた。父も日本統治下の生まれで、すっかり「日本人」になっていた。
楊さんは、日本人と台湾人両方が在籍する小学校に通った。当時、台湾には小学校と公学校があった。日本人や、楊さんのように日本語を常用する台湾人は小学校に、普段台湾語を話す台湾人は公学校に通った。
「先生こんにちは!」
放課後、自宅にカバンを置くと、小谷霊明氏という教師の家に行くのが、楊さんの日課だった。3年生の途中から5年生のはじめまで担任だった小谷氏は、いつもお菓子を出してくれた。鳥取県出身で、当時20代と若かったが、三つ指をつく礼の仕方や、食事の作法も教えてくれた。
「この子は本当に面白い声の持ち主だ。何万人に1人かもしれない」
小谷氏は、地元のラジオ局に楊さんを連れて行き、子供向けラジオ劇の語り手をやらせてくれた。
台湾だけでなく、内地でも流れる全国放送で、台湾を紹介したこともある。放送直前には、台南のデパート屋上で練習した。小谷氏は、お金を入れると動く木馬で遊ばせてくれ、あんみつもごちそうしてくれた。何より楽しい時間だった。
3年生の冬、太平洋戦争が始まった。
4年生の秋だっただろうか、何かと遊び相手になってくれた「竹田」という教生(教育実習の学生)が出征した。大好きな先生だった。児童みんなで台南駅で見送った。
その後の学校の朝礼。君が代斉唱の後、学校長が「今日は悲しいお知らせがあります」と切り出した。竹田先生がサイパンで戦死したと報告した。楊さんはその場で号泣した。
× × ×
そんな時代は中学1年生だった昭和20(1945)年の敗戦で終わった。
新たに台湾を統治したのは、日本の敵だった中国国民党だ。父に突然、「私たちは今日から中国人だ」と言われた。「なんで?」と問い返しても、父は目にうっすら涙を浮かべるだけだった。「戦争に負けたからだ」とは悔しくて言えなかったのだろう。
翌年、国民党軍が大陸から進駐してきた。楊さんら近所の人々は駅に出迎えに行った。予定から8時間も遅れてきた兵隊を見て、群衆からため息が漏れた。
ボロボロの服に素足で、肩に担いだてんびん棒に鍋釜をぶら下げ、道に痰(たん)を吐き捨てた。
規律に厳しい日本軍とは正反対で、非常に不格好に見えた。「こんな兵隊さん、認めたくない」と暗澹(あんたん)たる気持ちになった。
楊さんは高校卒業後、幼稚園や商社勤務、病気の子供の支援、通訳などの仕事を経験した。
終戦から約30年後の42歳の時に、初めて日本本土を訪れ、かねて望んでいた靖国神社に参拝した。「竹田先生、そして日本の兵隊さんたち、ありがとうございました」と手を合わせた。
楊さんは、靖国参拝が中国、韓国のみならず、日本国内でも批判的に見られることに、今でも納得がいかないという。
「国を守るために家族と別れ、故郷を離れ、命をささげた人の霊になぜ『ありがとう』といえないのか」
2度目の訪日時は、小谷氏の故郷、鳥取の水産会社で商談があった。
水産会社の社長が手を尽くし小谷氏の自宅を探し当ててくれた。だが、連絡を取ると、前の月に亡くなっていた。亡くなったという“現実”を受け止めたくなかったため、墓参りには行かなかった。
× × ×
10年ほど前、九州の大学教授だという男性が、楊さんにインタビューにやってきた。「日本統治時代はどうでしたか」と聞くこの教授に、楊さんは「素晴らしかった」と応じた。
教授「そんなことはないでしょう。差別はあったはずだ。日本人教師に殴られなかったか」
楊さん「まったくありません」
教授「日本人は小学校に通うのに、台湾人の多くは公学校に入れられた。これは差別でしょう」
楊さん「日本人か台湾人かではなく、日本語ができるかできないかで学校を分けたのです。それはおかしなことではないでしょう」
教授「かわいそうに、あなたは洗脳されているんですね」
この教授は植民地における日本の“蛮行”の証言が、是が非でも欲しかったのだろう。思い込みを押しつける態度に、楊さんは腹を立てて「あなたに教えられる学生がかわいそうよ」と言って席を立った。
間もなく戦後70年を迎える日本をどう見ているのか。楊さんはこう語った。
「戦前、台湾に来た日本人は、みんな誇り高かったのに、いつから誇りを失ってしまったの。もっとしっかりしてほしい。私は、日本人の本来の気性を信じています。必ず目を覚ます日が来るはずです」(田中一世)
『犬が去って豚が来た』国民党軍が台湾に来た当時このように話されていたそうです。
規律のとれた日本軍に対して国民党軍の堕落さが目についたようです。
水道やトイレの存在も知らない人が多く、水道の蛇口だけを購入して水が出ないと苦情を言った兵隊もいたそうです。
それだけ国民党軍の来台は衝撃的であったと聞きます。
その後に起きる白色テロもあって国民党軍の評価は相当低いのでしょう。
もし評価が高ければ最初の印象なんて吹き飛びます。
日本兵が台湾へ出兵した当時、高砂族(原住民)と戦いながらの統治でした。
しかし、日本兵が残虐な事をしながら侵略したという事はあまり言われることがありません。
寧ろ、大東亜戦争の折に高砂族と共に手を取り合って東南アジアで戦い抜いたという話を耳にします。
悪い話はよい話をもって塗り替えられるという事でしょう。
そして良い話も悪い話に塗り替えられるのです。
そしてそのどちらが伝えられるかはその印象次第という事でしょう。
日本は世界から自己反省が大きすぎるとも言われております。
戦争が終わって70年二世代前の話になりましたが、いまだ日本は脱却できていないと言われております。
前文に記載した台湾の人の話も日本が誇りと自信を取り戻してほしいと思っての事でしょう。
我が国は戦後体制の脱却として自ら戦後を終わらせなければなりません。
中共の人間も言っております。
「中国の文化で重要なのは自己反省」最高指導部
中国共産党序列4位の兪正声・人民政治協商会議主席は8日、北京の人民大会堂で自民党の額賀福志郎元財務相らと会談し、安倍晋三首相の米議会やジャカルタでの演説について「中国人は侵略を受け、犠牲を与えた(日本は)教訓を酌むべきなのに、その部分が淡々としており不満だ」と述べた。
「中国の文化で重要なのは自己反省だ。他国にこれほどの災難を与えたのに反省しないのであれば、日本が過ちを繰り返すのでは、と懸念せざるを得ない」とも指摘した。中国最高指導部メンバーが、米議会演説などへの態度を表明したのは初めて。
首相は、米議会で先の大戦への「痛切な反省」を示したが、中国としては、「侵略」や「おわび」に触れなかった米議会演説をベースにした戦後70年の首相談話では受け入れがたいとの意思を示した形だ。
日本の総理大臣がとアメリカの議会で話した議題に対して全く関係のない中共が意見を言うなんてちゃんちゃらおかしいです。
支那の内乱に巻き込まれた日本は大変な苦労をしました。毛沢東も行っているように日本が蒋介石と対峙しなければ共産党軍の勝利はあり得ませんでした。
反省すべき点は共産党軍と国民党軍を討伐できなかったことです。
当時、支那では統一政権というものがありませんでした。清が滅んだあと内乱状態だったことはご存知だと思います。
コミンテルンの策謀により巻き込まれた我が国、そこで止めれなかったことが問題であって日本が起こした過ちは戦争に負けたことだけです。
戦ってもいない共産党軍に言われる筋合いはありません。
共産党は毛沢東が行った4000万人にも及ぶ虐殺を鑑みてから話をしてもらいたいものです。
好きに言われっぱなしはいけません。正々堂々と反論していかないといけません。
特定亜細亜からのみ言われている靖国神社参拝の反対意見
真っ向から反論していきましょう。
(ブラッキー)
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