本日は昭和の日です。
本日は昭和の日です。昭和天皇のお誕生日に当たります。
昭和天皇は大東亜戦争に反対していたことは有名な事であります。
昭和天皇は1989年1月7日に崩御なされました。
激動の時代を駆け廻らられた昭和天皇
大東亜戦勝終結後、マッカーサー回顧録ではこのように記載されています。
「タバコに火をつけて差し上げたとき、私は天皇の手が震えているのに気がついた。天皇の語った言葉は、次のようなものだった」。
天皇は「私は、国民が戦争遂行するにあたって、政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負うものとして、私自身を、あなたの代表する諸国の採決に委ねるため、お訪ねした」。
「私は、この瞬間、私の前にいる天皇が、日本の最上の紳士であることを感じとったのである」。
最後まで沖縄の事を気にかけられておりました。
果たせなかった沖縄訪問…平成に受け継がれた思い
昭和天皇実録では、全国巡幸中は米国施政下のため47都道府県で唯一訪問できず、その後もついに訪れることができなかった沖縄への強い思いもうかがえる。
「訪米前に自分が沖縄に行くことができないかとお尋ねになった旨が伝えられる」。昭和50年4月16日、上京した沖縄県知事に、宮内庁長官から昭和天皇の思いが伝達されたことが記されている。実録は、GHQ(連合国軍総司令部)側に22年、天皇が沖縄の長期占領を望んでいることが伝えられた-と記載されたいわゆる「シーボルト文書」の存在に触れたが、天皇が沖縄への訪問希望を何度も述べた事実の記述もある。
62年に予定された念願の訪問は開腹手術で断念となったが、名代の皇太子時代の天皇陛下に託し、「健康が回復したら、できるだけ早い機会に訪問したい」と決意を記したお言葉全文も、実録に掲載された。
その思いは、天皇陛下が引き継がれている。50年の訪問時には火炎ビンを投げつけられたが、即位前を含め10回ご訪問。「戦争で沖縄の人々の被った災難というものは、日本人全体で分かち合うということが大切ではないかと思っています」。平成24年の誕生日会見で、こう語られている。
このように国民の事を第一としていた昭和天皇
昭和天皇が靖国神社に御親拝を仰ぐ事をおやめになられたのはこの度発表されている昭和天皇実録の公開で明らかです。それにはこのように書かれてあります。
(1)日本基督教協議会ほか6団体による参拝中止の要望書
(2)野党各党からの反対声明
(3)日本社会党議員による国会への質問主意書-が出され議論を呼んだ
そして、日本のマスコミによって靖国神社御親拝を政治問題にされたことにより静かに眠る英霊の方々に迷惑をおかけしたくないという思いが働いたからにほかなりません。
決して所謂戦犯が合祀されているからではなく、うるさい世俗の存在を皆の眠る靖国神社に近づけたくないからだと思います。
この靖国神社の問題は日経新聞のみが見つけたとされる富田メモがマスコミたちの論拠になっておりますが、
古いメモ帳に対して新しいメモを貼り付けている事から後日追加したものであるといわれており、この富田メモ自体が捏造された従軍慰安婦やあり得ない南京事件の次に暴かれることになる歴史的捏造となることでしょう。
この富田メモに関しては桜井よしこさんも疑問を呈しております。
「 『昭和天皇』A級戦犯メモ 富田メモの危うい『政治利用』 」
一部抜粋します。
「私は日本の戦争遂行に伴ういかなることにもまた事件にも全責任をとります。また私は日本の名においてなされたすべての軍事指揮官、軍人および政治家の行為に対しても直接に責任を負います。自分自身の運命について貴下の判断が如何様のものであろうとも、それは自分には問題でない。構わず総ての事を進めていただきたい。私は全責任を負います」決して他人に責任転嫁されない姿勢に感動するのはひとりマッカーサーだけではないだろう。このような天皇を守り通したのが、“A級戦犯”とされた人々、就中、東条だった。
東条は極東軍事裁判で日本を犯罪国家として裁いたキーナン検事に、最初は「日本国の臣民(自分)が陛下のご意思に反してかれこれすることはありえぬことであります」と答えた。昭和天皇は「彼(東条)程朕の意見を直ちに実行したものはない」と語っているが、東条の証言はまさに真実そのものだっただろう。しかし、次の法廷で東条は「(天皇は)私の進言、統帥部その他責任者の進言によって、しぶしぶ(戦争に)ご同意になった」と述べて、証言を変えたのだ。
国際政治の専門家、京都大学教授の中西輝政氏は、
「東条、或いは広田弘毅外相のように天皇の身代わりになって処刑台に立った人々が靖国神社に祀られることに関して昭和天皇が抵抗感をお持ちなわけがありません。もし、お持ちなら、それは人の道に反します。東条も広田も平沼騏一郎も皆、開戦に反対でした。富田メモから“A級戦犯”全てについて天皇が不快に思っていたと結論づけるのは、したがって不完全な解釈だと思います」と語る。
陛下にとっては靖国神社に眠られている英霊の方々は苦楽を共にした存在です。
後々につけられた称号なんて関係ないはずです。
ただ、静かにお眠りになっていただきたいという大御心なだけだと私は思っております。
1946年(昭和21年)
神奈川県 2月19日 - 20日
東京都 2月28日 - 3月1日
群馬県 3月25日
埼玉県 3月28日
千葉県 6月6日 - 7日
静岡県 6月17日 - 18日
愛知県 10月21日 - 23日
岐阜県 10月24日 - 26日
茨城県 11月18日 - 19日
1947年(昭和22年)
大阪府 6月5日 - 7日
和歌山県 6月7日 - 9日
兵庫県 6月11日 - 13日
京都府・大阪府 6月14日
福島県 8月5日
宮城県 8月6日 - 7日
岩手県 8月7日 - 10日
青森県 8月10日 - 11日
秋田県 8月12日 - 14日
山形県 8月15日 - 17日
福島県 8月17日 - 19日
栃木県 9月4日 - 8日
長野県 10月7日
新潟県 10月8日 - 12日
長野県 10月12日 - 14日
山梨県 10月14日 - 15日
福井県 10月23日 - 27日
石川県 10月28日 - 30日
富山県 10月30日 - 11月1日
鳥取県・島根県 11月27日 - 12月1日
山口県 12月1日 - 5日
広島県 12月5日 - 8日
岡山県 12月9日 - 11日
1949年(昭和24年)
福岡県 5月19日 - 21日
佐賀県 5月22日 - 23日
長崎県 5月24日 - 27日
熊本県 5月29日 - 6月1日
鹿児島県 6月1日 - 4日
宮崎県 6月4日 - 7日
大分県 6月8日 - 10日
1950年(昭和25年)
香川県 3月13日 - 17日
愛媛県 3月17日 - 20日
高知県 3月21日 - 24日
徳島県 3月25日 - 30日
兵庫県 3月31日
1951年(昭和26年)
京都府 11月12日 - 14日
滋賀県 11月15日 - 17日
奈良県 11月18日 - 19日
三重県 11月20日 - 25日
1954年(昭和29年)
北海道 8月8日 - 23日
こちらは昭和天皇が全国を巡幸された場所と日時です。
全国くまなく巡幸なされました。
この巡幸にGHQ(アメリカ)は反対していたそうです。
当時の世界常識では戦争に負けた国の最高位にある人物は亡命もしくは国民からの追放などその歴史は途絶えるものでした。GHQがその常識と照らし合わせて国民から歓迎されないと考えるのも無理はありません。
しかし、日本国民は陛下の巡幸を歓迎していたのです。
これはGHQから見たら異常な事です。
他の国では為政者は住民を弾圧することが普通の事です。
寄り添うことはありません。それが当たり前だったのです。
その後、アメリカではオリンピックの日まで黒人差別が続けえられていました。
亜細亜では有色人種の独立運動が最終段階を迎えていました。
その切っ掛けである大東亜戦争、そして国際連盟での日本の人権宣言
すべて日本が主役としてかかわってきた時代です。
そしてその時の国家元首が昭和天皇なのです。
昭和の日を大切に祝いましょう。
(ブラッキー)
人気ブログランキングへ
にほんブログ村
コメント: