はてなキーワード: 血筋とは
「天皇家の血筋を証明するためにDNA鑑定を受けろ」なんて話を耳にすると、私はなんだか「あーあ、またか」と思って、言いようのない虚脱感を覚えちゃうわけ。
それは単に「右だ左だ」っていう政治的なスタンスの話じゃなくて、もっと根本的な、現代人が陥っている「ボタンの掛け違い」。
そもそも皇室における「血統」っていうのは、生物学的なACGTの塩基配列データなんかじゃない。それは、数千年にわたって積み上げられてきた儀式とか、神話とか、あるいは歴史の連続性っていう「物語」が一体になった、とてつもなく分厚い「パッケージ」そのものなんだわ。
それを「最新の機械で測れば正解が出る」と思い込んじゃうのはさ、OSの思想をまるで理解しないで、ハードウェアの型番だけチェックして「これが本物だ!」って叫んでるようなものなの。
どれだけ高精度のシーケンサーを使っても、そこに「神性」や「象徴としての正統性」なんてものは映らない。
だって、そんなものはデータの中には最初から入ってないんだから!
現代っていうのは、目に見えない権威や伝統を信じる力を、すっかり失くしちゃった時代。その代わりに、みんなが縋り付いているのが数値っていう新しい神様なんだわ。
なんでもかんでも白黒つけなきゃ気が済まないっていうのは、一種の幼児性ギャオンなのね。グレーゾーンとかよくわかんないけど、そうなってるらしいっていう神秘性を抱えたまま生きていく耐性が、もうヘロヘロに低くなっちゃってる。だから、文化だとか精神性だとかいうものにまで、0か1かの判定を持ち込んじゃう。
科学っていうのは事実は出すけど、意味は作ってくれないンだよ。DNAが一致したっていう事実は出せても、だから尊いっていう解釈は、人間の合意と文化の領分なわけ。
この境界線が引けなくなった結果、私たちは自分たちが立っている文化の土台を、自ら計測器で掘り崩してるわけ。これじゃあ、立ってる場所がなくなるのも当たり前だわな?
かつて私たちは共同幻想っていうバカでかいOSの上で、国家だの伝統だのっていう物語を共有して生きていたけど、今そのOSはバグだらけで、もうまともに動いてないんだ。
ネットのおかげで、あらゆるものの裏側が暴かれちゃって、世界の解像度が上がりすぎちゃった。そうなると、幻想を維持するための余白が許されなくなる。おまけにコスパなんていう最強の毒素が、非合理な儀式を無駄だ〜って切り捨てていく。
大きな物語がバラバラに解体されて、誰もが自分は何者なのかっていう問いに、ポカンと口を開けて立ち尽くしてる。自尊心の拠り所を失った人々は、SNSのいいねとか年収みたいな、すぐに蒸発しちゃう外部承認っていう燃料を燃やして、必死に自分を維持しようとする。
でも、そんなのすぐ消えちゃうよ?
思えば、かつて戦争っていうのは、この共同幻想を維持するための強烈な、そして暴力的な装置だったんじゃないかと思うわけ。
個人的な迷いや損得勘定を、圧倒的な死のリアリティでねじ伏せて、集団のアイデンティティに強制的にシンクロさせる。そこには「何のために生きるか」っていう問いへの答えが、否応なしにパッケージされていたんだわ。
でも、今の日本にはその強烈なHowがない。
命を懸けるほどの物語を失った私たちは、その空白を埋めるために、DNA鑑定みたいな手近で安価な科学の正解に縋り付いちゃってさ、ニセモノの正統性を確認し合ってる。なんだか、悲しいよ。
神秘性を剥ぎ取られた世界に残るのは、冷たい数値と、管理しやすいデータとしての人間だけ。
すべてを数値化して、論理化して、ハックし尽くした先に待っているのは、自由なんていうキラキラしたものじゃなくて、真っ暗で深い虚無かもしれない。 大きなOSが壊れた今、私たちはバラバラになった個として、自分たちだけの小さな理を構築し直すしかないんだ。。
血という記号以上に、その血に宿る意味をどう守るか。あるいは、物語が消えた荒野でどう立ち続けるか。
科学っていう道具に振り回されるんじゃなくて、システムの構造を理解した上で、自分の納得感をどう設計していくか。現代におけるサバイバルっていうのは、案外、そういう地味でバカめんどくさい思考の積み重ねにあるんじゃな?まあ、知らんけどね!
もう少し具体的に言うと、
この「散り散りになった元家臣たち」を
「里見家が滅びたときに落ち延びてきた武士の一人が、この土地で百姓になり、その子孫が斎藤家だ」
という由来説明。
要するに、
昨今の「日本の女性クリエイターがいなかった」との誤解にまつわる話で、「紀貫之は平安時代に土佐日記を書いたじゃん」って話が出てくるけど、そこで「当時の仮名は漢字より格下扱いだったのを、どう解釈してるのか」という趣旨のブコメがあったので個人的な所感を書きます。なお、自分は別に国文の専門家というわけではなく、単なる古典オタクの増田です。
まず、かなが「格下」という話ですが、漢字は公式なものであり外に出す文書に使われるもので思想を記すもの 、かなは非公式なものであり内々のもので心情を記すものです。前者は男の領域で、後者は女の領域ですね。当時の社会構造において、男がやることと女がやることは明確に区別をされておりました。これは現代では差別と言われることですが、当時は必然的な分業です。格上か格下かでいうと、公が格上で私は格下、それはそうですね。
ただ、「格」という概念には上下はあるものの、格上こそ価値が高く、格下は価値が低いかというと必ずしもそうではない。和服の世界の格もそれに近いものがあって、ユースドで5000円で買った留袖と、50万円の作家ものの紬とでは、価値が高いのは後者ですが、前者のほうが格上です。格が求められるシーンにはどんなに高価でも格下は着ていけないし、格上だからといっていつでも着られるということはない。格上でないといけないシーンもあり、格下でないといけないシーンもあるわけです。格下が女と紐付けられていることは必ずしも差別とは言い切れない、そういう要素もあるかと思います。さらにいうと、当時は男女差別以上に出自での差別が厳然としてあったわけですしね。
さて、紀貫之ですが、紀氏という氏族自体、すでに当時は落ち目でした。まあ貴族ではあるんですけど、中央で偉くなれるような血筋じゃない。学者になるか国司になるかがキャリアのゴールです。さらにいうと貫之は父親が早く亡くなり、母の職場(宮中で女性に舞楽を教える部署)の託児所で育ったシンママの子です。父も頼れず母の実家も頼れない、当時としては産まれたときから負け組なのですが、和歌の名手としては名高く、天皇からお声がかかり本邦初の勅撰和歌集を作るほどの第一人者です。漢字の世界ではパッとしないが、かなの世界では大活躍できるそういう人なわけです。
古今集の仮名序文「やまとうたは人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」とか読むと、たぶん「和歌が認められたぜ!」ってすっごい嬉しかったのが伝わるし、それと裏腹の社会的な地位の低さに、忸怩たる思いもあったんじゃないでしょうかね?
で、日記です。当時の日記は男が漢字で書く「業務日誌」でした。男が書く日記を女が女手で書いたらどうだろう、と、かなの世界の第一人者の紀貫之が、地方駐在から中央に帰るときにそう思ったというのは、まあなんかわかる気がします。土佐日記当時50代で従五位下だよ?土佐では国司として地元民からチヤホヤされ偉そうにできても、都に帰ったら無職の下っ端貴族よ?
まあ、そんなこんなで「かなは格下扱い、だからこそできることがあるんだぜ!」とかなの世界のおじさんは思ったんじゃないかな?「歌がヘタな客がやってきて子供のほうがよっぽどうまかったのよ」「駐在中にお家のメンテを頼んだ隣人がロクに仕事をしなかったんだけどムカつくのは私だけでしょうか?あ、お礼はちゃんとしますけどね」「駐在中に亡くなった娘のことを思うと何をみても悲しくて仕方がない」なんてのは漢字じゃ書けないでしょと。漢字で書くと単なる「家内の些事」でしかないですしね。
女になりたかったというより、かなで書きたいことがあり、かなで表現したかったんだと思います。日記をかなで書く言い訳として女になった、そういうことかと。そもそも和歌の世界では男が女になりきって恋歌を詠んだり、言ってもいない場所や、やってもいない恋を詠むのは普通、ネカマ嘘松当たり前で、そういう下敷きはありますしね。
そこで日記をかなで書いてもいいんだ、という名分ができて、そこから女性が日記を書くようになったという流れがつながります。
まとめると、かなは「格下」であったけれども、芸術の分野では和歌は漢文とならんで評価されていた。ゆえに天皇自ら和歌集を編纂させたし、歌人として名をのこす女性もいた、というのは本当。一方、社会的に差別はあって、芸術を評価する立場にいるのはだいたい男だったし、そこに差別がなかったということはない。いくら歌が上手くても出世はできない。(死んで1000年近くたってから従二位なんて遺贈されてもねえ)
ただ、格上格下については、どっちかというと分業と解釈するほうがしっくりくるかな?という所感です。女に男の役割はできなかったし、男に女の役割はできず、越境するには嘘が必要だったし、その嘘は認められていた。それは今日では差別と解釈されるわけですけどね。
というか、日本において芸能とか芸術とかいうのは、神事以外は基本的には「格下」なので、それを差別というならまあ差別なんですが「格下としつつも、良きものについてはやんごとなき方が評価し、後世に継承される」そこはわりと一貫しているので、そういうとこが日本におけるクリエイターの立ち位置の特殊性でもあり、「日本は差別が残る後進国」ってことにしたい人からは今ひとつ理解されづらいのかも。歴史的にクリエイター全体がエディターより格下で、日本においては編集者やらディレクターがやたらいばっていて、そっち側には男女差別は色濃く残ってるわけよ。クリエイターなんて替えが効く木っ端商売なんだから男だろうと女だろうと関係ないってわけ。それをまとめて宣伝して金にするやつが権力持ってて、そこは一部を除いてボーイズクラブだよね。
すごいシニカルに考えると、クリエイターの到達点って園遊会にお呼ばれしたり勲章もらうことだったりするので「上つ方に認められればすべての差別はチャラ」という身分制があるだけといえなくはないし、そういう言い方すると自称先進国様からもご理解いただけるのかもね?
俺も女性天皇も男系もなんなら天皇制なんかどうでもいいって人間なんだけど、そんな俺も愛子さまの将来は心配なんだわ。
そんな激重の家庭事情の娘にプロポーズできる男そういないと思うんだよね。
これがね、方向性が決まってりゃいいよ。
結婚したら皇室を抜けるってのが確定なら、あるいは即位が決定事項なら、相手の男だってそのつもりで覚悟決めて突撃できる。
宙ぶらりんのままだと相当キツイよ。
バックアップとして結婚しても皇籍離脱しないとか引き戻される可能性があるとかだったらどうなると思う?
いいとこのお嬢だった美智子さまや雅子さまだって叩かれたわけだし、叩かれない男なんかいないよ。
小室さんみたいに、愛子さま連れて海外に連れ出すような男じゃないと無理だと思う。
日本にいたらさあ、愛子さまも相手の男も、部下としても上司としても同僚としてもちょっとごめんだわ。
営業とか渉外とかさせたくないし、窓口とか電話番とかもさせたくない。
誰とも関わらない1人で資料室で資料整理みたいな辞めさせ部屋の仕事しか任せたくないけど、パッパが天皇陛下の娘とかその旦那にそれもはばかられるしさ。
赤の他人の俺だって、愛子さまが伴侶をみつけて、子供に恵まれて幸せな家庭をみせつけてくれることをどっかで望んでる。
愛子さまの人生だから、それこそ子なしを選んでも、あるいは望んでも恵まれなかったとかいう場合もあるかもしれない。
離婚するかもしれないし、それから障害を持った子が生まれたり、子供がヤンキーになっちゃったり、子供に恵まれなくて特別養子縁組で孤児を養子に迎えたり、いろんな人生がありえるけど、それだって本人が望んだ人生なら構わない。
俺はね、どんな形でもやっぱり愛子さまには後悔がない人生をまっとうしてもらいたいなとちょっと願ってる。
そんな具合で、赤の他人の俺が、愛子さまの将来を案じるってことは、皇室っえのはいい感じに日本国と日本国民の統合の象徴として機能してるんじゃねーかなと。
でもそれをいうと女性天皇や女系を認めろって話になって、愛子さまを苦しめるからさ、皇室典範は未来永劫変えません!って宣言して、愛子さまは結婚して皇室離脱を目指してもらいたいよ。
予定通りに次が秋篠宮さま、その次が悠仁さま、その次が生まれなかったら、断絶でいいんちゃうかな?
あるいは悠仁さまの娘に即位させるか、娘も生まれなかったら養子でもいいけどさ、誰を養子に迎えるかは悠仁さまとそのときの皇后が決める話で、男系の旧宮家だかなんだか知らんけどそれはやめてやれよ。
普通によくあるように、施設暮らしの子供から1人お迎えすればいいんじゃないの?
悠仁さまに男子が生まれるか以前に、悠仁さまが結婚できるかもわからんよ。
話が散らかったけど、俺は天皇制の行末よりも、愛子さま、佳子さま、悠仁さまが自分の人生をまっとうしてくれることのほうが大事だよ。
大前提として、尾田先生へのリスペクトは今も微塵も揺らいでいない。週刊連載という過酷な環境下で、30年近くジャンプの看板を背負い、第一線を走り続けている。とても人間業とは思えないし、奇跡と言っても過言ではないだろう。
何よりもしんどいのは、麦わらの一味の、いや一味に限らず長年愛してきた既存キャラクターたちの扱いが、目を覆いたくなるほど疎かになっていることだ。
私の心が折れたのは、巷でも物議を醸した、エルバフにおけるウソップの扱いである。
リトルガーデン編を読んで以来、ウソップがエルバフに至るまでどんな活躍を見せ、いかにして「勇敢なる海の戦士」へと成長するのか、何年も胸を躍らせて待っていた。にも関わらず実際に描かれたのは期待を裏切るような姿だった。
不評を察して慌てて差し込まれたような、薄っぺらで付け焼き刃のスピーチが読みたかったわけじゃない。
私が見たかったのは、ボロボロになりながら、格上の敵に当たって砕けて、それでも知恵と勇気で辛勝をもぎ取る、あの泥臭くて憎めないウソップが成長した姿だ。
そもそもウソップは、病床の母を励ますために「海賊が来た、父ちゃんが帰って来たんだ」と嘘をつき、両親を亡くした心痛から病床に伏すことが多かったカヤのために嘘の冒険譚を語る、誰かを救うための「嘘」を吐く漢だったはずなのだ。
だがワノ国では、偽薬を売る“ガマの油売り”として描かれ、その嘘を信じて父を救おうとしたおトコに対し、明確な贖罪もないまま終わってしまった。
もちろん、ウソップ含め、ワンピースのキャラクターに清廉潔白さや完璧さを求めているわけではない。むしろ失敗はいくらでもあっていい。ただ、それを泥臭く乗り越える過程こそが魅力だったはずだ
最近はこうした、過去の積み重ねを裏切るような描写が少なくない。そのたびに、作者への信頼が揺らいでいく。何か意図があるのかもしれない、後の展開への布石かもしれない、そう信じて待ちたい気持ちさえ、応えられることのない虚しい期待に終わってしまう。
この不信感は、ゾロのバックボーンの扱いにも通じている。スリラーバーク編から示唆されていたリューマとの繋がりや血筋の話が、物語の深部に組み込まれることなく、最終的にSBSで事務的に明かされたことには強い落胆を覚えた。
そもそも、5年という長い時間を費やしたワノ国編で、本筋に関わる大きな謎として明かされたのはプルトンの在処くらいで、それすら決戦後に数ページで処理されてしまった。ワノ国の人々がその秘密をどう語り継ぎ、どんな歴史的背景を背負ってきたのかといった部分はほとんど描かれていない。
その一方で、太陽の神ニカ、ロジャーたちがラフテルで笑った理由、オーロ・ジャクソン号の巨大な卵、ヒノキズの男、ルフィの夢の果てなど、「伏線」という名の新設定ばかりが、既存キャラの描写を押し退けるようにして際限なく追加されていく。
しかし、それら新設定を担うキャラクターや世界観が、かつてのような魅力を持っているかと言われると、正直疑問が残る。伝説のバーゲンセールのような状態で、かつてのロジャーに感じた底知れなさや未知への期待を超えることはない。
おでんやロックスやハラルドにしても、「どれだけ凄まじい規格外の行動をしたか」という武勇伝の羅列が中心で、その行動の根源にあるはずの血の通った人間性と、その人間性に説得力を持たせるための掘り下げの描写が十分になされていないように思う。伝説を伝説たらしめるための「凄さの演出」が先行しすぎていて、彼らがどれだけ活躍しても記号的な凄さ以上の印象が残らない。
エルバフ編のメインゲストキャラとも言えるロキでさえ、十分魅力的に描けているとは言い難い。彼の語りから始まったはずの回想は、突如ナレーターにマイクを奪われ、ロキ自身が直接関与していないゴッドバレー編が物語の中心となった挙句、ロキと彼の父ハラルドの親子物語は、まるで「おまけ」のエピローグのような扱いに成り下がっていった。
さらに最近では、五老星に謁見し「ある海賊について話がある」と発言したあのシャンクス似の男の正体が、実はシャムロックであったという衝撃の事実さえもSBSで開示されてしまった。
本来であればあの場で言及された「ある海賊」が誰なのかを明かすタイミングこそが、「なぜあれはシャンクスではなかったのか」「どんな背景と意図を持った発言だったのか」が結びつく、読者にとっての答え合わせの瞬間になり得たはずだ。
それを物語の中ではなく、SBSという形で先に明かしてしまうのは、せっかく成立し得た「伏線回収」を自ら手放しているようなものだ。
「最終章で尺がないから設定開示がSBS送りになるのも仕方ない」という擁護をよく耳にするが、エルバフ編冒頭で突如差し込まれた「レゴの城で迷子になる」という、コラボ商品の販促のようなアニオリ的「遊び」を描く余裕があるなら、できないなんてこともないはずだと、一読者たる素人は考えてしまう。これは見当違いだろうか。
新世界編後半で突如現れたイムvsニカという新設定を軸に、それらを補強するために新キャラが乱立し、既存のキャラクターが物語の端へ追いやられていく。追いやられるだけならまだしも、既存キャラの設定とは矛盾した、ともすると既存キャラの魅力を棄損しかねない描写が付け足されることすらある。
そして、乱立される新設定も、今の物語においては「新たな謎の匂わせ」で読者の期待感を煽るか、「設定の開示」という仮初のカタルシスを演出するための舞台装置に過ぎない。
この現状では、読者が20年以上積み上げてきたキャラクターへの情熱が置き去りにされていると読者が感じるのも無理はない。
これだけの連載期間を共にしてきて、一味を含めた既存キャラの成長や関係性、バックボーンがいまだに描写不足に感じられるこの現状が、悲しくて仕方がない。
麦わらの一味はいまや事あるごとに使い回された持ちギャグと「ルフィは海賊王になる男だ」という定型句を唱えるだけのbotのような扱いで、物語の核心である空白の百年の謎からは全くの蚊帳の外だ。
大好きだったワンピースをの最新話を読むと、悔しいながらも、反転アンチの言葉に頷いてしまう。
今のワンピースは楽しくない。
中国の京劇とか韓国・朝鮮の何かに寄せてるのが不自然だと思う。
在日朝鮮人の李相日が「国宝」を手掛けるのも、藤原氏が朝鮮人で
https://ameblo.jp/ghostripon/entry-12090900472.html
https://ameblo.jp/ghostripon/entry-12771830824.html
みたいな話もある。
能楽には、朝鮮人の藤原氏が日本を破壊する以前の話が出てくる。
けれど、本来の天つ神や国つ神は温暖湿潤気候や亜熱帯で育ってるので
韓流細目ではない人がかつて存在した事で人気が出たというのはある。
けれど、現在ではテレビにしろYouTubeのCMにしろ朝鮮人ばかりで
パッチリ二重まぶただと排除される。何の罪にも問えない国分太一は排除され
https://w.atwiki.jp/kolia/pages/313.html
検索したら上位に出るからリンクしてみたけど、この手のサイトは
YouTuberは、ほぼ例外なく朝鮮顔であり、右翼チャンネルもそういうもの。
自民党が孫正義を敵視などはしておらず、むしろLINEヤフーなどに
ありのままに見ていたら、保守政党を当選させるなどありえない。
ニュースで、中山美穂さんが残した二十億円の遺産を、息子さんが相続放棄したという話を読んだ。
数字だけ見れば、ちょっとした都市開発プロジェクトが回りだしそうな額だ。
でも、そのお金はすぐに現金化できるわけではなく、大半は売りづらい不動産や、中身のよく分からない資産の束として、どこか宙吊りになっているらしい。
そこに相続税として十億円近い現金を十か月以内に払ってください、と言われる。
その玄関先に、誰も頼んでいない巨大な荷物が、ある日いきなり届いてしまったようなものだ。
開けるか、開けないか。受け取るか、受け取らないか。そのどちらかを選ばなければならない。
相続税というのは、たぶん駅前の横断歩道に引かれた白線みたいなものだ。
そこを渡るとき、人は一度立ち止まり、自分の位置と車の流れを確認する。
もし横断歩道がなければ、車はもっと速く走り、人は「渡れる人だけ勝手に渡ればいい」という無言のルールにさらされることになる。
税金という白いラインは、本当は誰かを懲らしめるためではなく、富の流れがあまりにも勢いを増して暴走しないように、社会全体の速度を少しだけ落とすために引かれている。
少なくとも建前としては、そういう話になっている。
ところが現実の相続となると、その横断歩道はやけに入り組んだ幾何学模様になり、信号機は青と赤を同時に点滅させ、脇では「抜け道はこちらです」と書かれた怪しげな小路が口を開けている。
そうでない人は、正面から正直に渡ろうとして、途中で車列の真ん中に取り残される。
そこに「国家の横暴だ」と叫びたくなる気持ちが生まれるのは、そんなに不思議なことではない。
何も対策をしていない高額の遺産が、うまく処理されずに国庫へすべり込んでいく光景は、たしかに「没収」と呼びたくなる風景をしている。
じゃあ、それを国家の強奪ある、と定義していいのかといえば、そう話を単純にしてしまうのもやはり乱暴だ。
僕らはすでに
「一定規模以上の財産が、ノーチェックで血筋だけを伝っていく社会は、どこかで歪む」
ということを、
歴史のいろんな棚から証拠写真みたいに取り出せる年代に生きている。
努力の蓄積ではなく、
果たして公平感を見いだせるのかどうか。
それを少しだけ弱めるための仕掛けとして、相続税という横断歩道はそこにある。
都市のマンションが、マトリョーシカ人形みたいに、祖父母、両親、子へと入れ子になっていく。
富は特定の階層の間で凝固し、外側にいる人たちは窓ガラス越しにその光景を眺めることになる。
でも、触れてみれば分厚く固い。
相続税のない社会というのは、ときにそういう種類のガラスを静かに厚くしていく。
僕らのいる国では、ガラスを薄くする代わりに、税金という紙やすりで表面を削ろうとしている。
ただ問題は、その紙やすりの扱い方があまり上手とは言えないことだ。
もうひとつ考えたいのは、「そもそも、その遺産は本当に相続されることを前提として準備されていたのか」という点だ。
遺言もなく、遺産の中身もよく分からず、生前に「これをおまえに託す」と語られた記憶もないまま、ある日突然、役所から書類が届く。
「あなたは多額の財産を相続できます。ただし、それに伴ってかなりのリスクも背負います。期限は十か月です」
これはもう、慎ましく暮らしていた人の玄関先に、巨大な冷蔵庫を置いていく悪戯のようなものだ。
その冷蔵庫の電気代やメンテナンス費用のことは、とりあえず誰も教えてくれない。
そう考えると、「極めてカジュアルに相続させる」という現在の仕組み自体に、どこか時代遅れの影が差しているのかもしれない。
本来なら、一定規模を超える遺産については、「家族にどこまで残し、社会にどこまで還元するのか」を、被相続人自身にもっと強く、しつこく問い直すプロセスが必要だったのだろう。
そういう問いかけを組み込まないまま、「法律上は自動的にあなたが引き継ぎます」というレーンに乗せてしまうから、相続人は、受け取るか、全部捨てるか、どちらかしか選べない角に追い詰められる。
本当は、もっとグラデーションがあってもいいはずだ。たとえば、生活基盤にあたる部分まではほぼ無傷で家族に残し、それを超える部分は、税金というかたちでも、寄付でも、公益信託でもいいから、少しずつ社会に溶かしていく。そうすれば、国家が一方的に没収する、というイメージからは距離を置けるし、「何も考えなければ全部子に渡る」という惰性の相続からも、少しだけ離れられるかもしれない。
結局のところ、相続税の是非というより、「遺産というものを、家族と社会のあいだでどう分け合うのか」という設計の問題に近い。
国家が強欲すぎれば、人々はシステムから逃げ出し、抜け道だけが洗練される。
家族主義が強すぎれば、富は血筋の中で濃縮され、社会の床はきしみ始める。
その中間をどこに置くかという問いは、きっと簡単には答えが出ない。
でも、少なくとも「最初から国家の横暴だ」とか「税金こそ絶対の正義だ」とか、そういう簡単なスローガンの外側で、ゆっくり時間をかけて考えるべき問題なのだと思う。
私なりに考えたのだが科学的な見地ではなく個人の思いだけで書いたので、実際に研究が出ているところがあれば教えて頂きたいです
大学のグループ・ディスカッションの中で、家族という集まりを作るのは人類の特徴というような内容の話があった
大事な場合もあるかもしれないが、それは生物的なものではなく社会的なものだと思う
なぜか?
血のつながりが生物として何らかの特徴や効力を持つなら赤ちゃんの取り違え事件とか、誰の子どもか分からなくてDNA鑑定だとか、そんな事は起きないと思う
ファンタジーとかだと血筋でなんか共鳴したりする作品もあるかもしれないけどさ・・
動物として、他人の子どもを害する性質が人類にはあると言っている人もいるが・・・多分デマだ
赤ちゃんが母親から産まれたとき、その時点で赤ちゃんが母親や父親と実際に会うのは初対面だ
最初は初対面という条件は血が繋がってようが里親だろうが親戚だろうが近所の人だろうが変わらない
家族として受け入れるかどうかだと思う
親が「この子は私の実の子だ」という意識を強く持ってもそれは後天的な社会的な影響だと思う
逆に血が繋がってなくとも取り違えなどが起きてしまえば違う子どもに対して「この子は私の実の子だ」という意識を持ってしまう
血の繋がりを大事と思うのは生物としてではなく社会的なものだろうというのはこのような理由である
これまでを踏まえると血の繋がりの効力は後天的な要素にまでは影響があっても、本質的に生物的な部分には関係がないと考える
これで大人や子どもなど人を対象とした研究や実験結果の適用範囲が予測できるのではないだろうか?
例えば親の自覚には血の繋がりの有無が影響を及ぼすかもしれない、
今産まれたばかりの赤ちゃん側からの親を思う気持ちと知らない人の相手を思う気持ちは多分等しい
競馬の競走馬のことをサラブレッドと呼ぶが、一昔前はアラブ馬と呼ばれる馬も競走馬として走っていた。
アラブ馬は虚弱なサラブレッドに比べて足が遅いが頑丈で悪路に強かったので主に軍馬として生産されていたという。
戦後になって馬の用途が競走馬のみとなった結果、スピードに劣るアラブ馬の競争は人気がなく、徐々に廃れていったということになっている。
とはいえ生産者ならともかく競馬をギャンブルとして楽しんでいる身としては、速度の違いも見た目の違いもわからなかったので上の説明には納得していない。
アラブとサラブレッドは基本的に別のレースを走っていたのだが、たまにアラブレースで無双する強いアラブ馬がサラブレッドのレースに出走することがあった。
そんな時、普段は競馬にドラマを見いださない自分でも血筋の差を超えて勝ってくれるんじゃないかと期待したもんだが、アラブ馬が大差負けするのが常だった。