はてなキーワード: シェイクスピアとは
・「さあ行くぞ(ガチでレジェンド過ぎるキャラ名) 俺の舌と身体を貸してやる!」
かっこよすぎやろ
・数多のコピーバンドが演奏しまくったレジェンド名曲の元ネタ歌手みたいな
どっかでみた「数多のコピーバンドがどれだけ演奏しても結局勝つのは
漫画力によって読者ワイが
キャラクターの演技力を分らせられるタイプの役者描写、ありがてぇ…
全然雰囲気違うテーマなのにめちゃくちゃ面白い作品をお出ししてくれるの
ほんま天才すぎる
500年前のシェイクスピアの描いた
・なんか北斗の拳みたいになったなと思ったら北斗の拳元ネタだったでござる
赤ペン先生通り越すんやなって
摂取できない栄養素 ハルロド作石先生は腐女子への媚がない作家さんという
イメージがあるのでより一層染み入る
どんな苦境でもシェイクくんを支えてくれ
陰ながら寄り添ってくれる健気幼馴染くんは
シェイクスピアに健気に寄り添い支え続けるし一周回ってようわからん…(好き )
一人だけ風と木の詩やん…ってなった
・ワースくん、本屋さんを信頼できねえ…と言いつつも
まああの人の持ってくる種本がないとそもそも脚本始まんねえもんな…
・キャラの過去掘り下げエピで小学館?でやってた方のスキャン画像が
見開きででてくるのめちゃくちゃ大人の都合感じたな…
なんか色々あったんやなって…
出てくるのは同じキャラなのに出版社とか編集さんとか変わると全く別物になるんだなと思った
顔の前で腕を組んで自信満々顔のシェイクが黒背景で言い放つ「(ガチレジェンド名作 )だ!」が
・毎回巻末に載る資料の量がエグい
・実質ロミジュリ前で最終巻だが
めちゃくちゃ読んでて気持ちのいい所で終わったし
ロミジュリは子供同士の恋愛の話だからリチャードは演者として出ないから
残念だけど…まあ…しゃーないか…楽しませてくれてセンキュー!と
潔く諦めがついた
アイズ・オブ・マーチ(The Ides of March)は、古代ローマ暦の3月15日を指し、紀元前44年にユリウス・シーザーが暗殺された日として歴史的に有名です。シェイクスピアの戯曲『ジュリアス・シーザー』の「3月15日を警戒せよ」というセリフで知られ、転じて「不吉な日」「危険が迫る日」の代名詞ともなっています。
歴史的背景: ローマ暦では「Idus(イードゥス)」が月の真ん中(13日、または3・5・7・10月は15日)を指し、3月は15日でした。
シーザーの暗殺: 紀元前44年3月15日、ローマの独裁官ジュリアス・シーザーが議場でブルータスらに暗殺されました。
文学的引用: ウィリアム・シェイクスピアの戯曲『ジュリアス・シーザー』において、占い師がシーザーに暗殺の危険を予告する言葉として有名です。
音楽・映画: アメリカのバンド名(1970年のヒット曲「Vehicle」で知られる)や、ジョージ・クルーニー監督・主演の映画『スーパー・チューズデー 〜正義を売った日〜』(原題: The Ides of March)のタイトルとしても使われています。
オタク反戦デモ絡みで「ガンダムは反戦か否か」という話題が出てきた中でこんなのを見つけた
https://x.com/zonaha/status/2035955915921502668
https://x.com/jq9zeb4i5344663/status/2036021961005162704
そういや富野監督は萌え声嫌ってる、というのも聞いたことあるなぁ
監督には申し訳ないけどシェイクスピアやフロイト読むのはきついよ
何が悲しくて勉強や仕事の息抜きの合間にもう一本勉強せにゃいけんのじゃ、となっちゃうよ
反戦デモに賛同している「オタク」を見てるとものの見事にこう言うのが好きな人ばっかなんだよね
ChatGPTに概算させてみたんだけど、紀元前3000年から20世紀までに、世界で生まれて30歳まで生き延びた人間は約240億人らしい。
いわゆる「古典作品」は、この膨大な母集団の中から生まれてきたわけだ。
村上春樹の『ノルウェイの森』には「出版から半世紀生き残った作品しか読まない」というセリフが出てくる。
人と時間のフィルターをくぐり抜けた作品だけが残る。効率はいい。
でも、よく考えるとこの考え方は「前提が違う」。
これらをすべてクリアしたごく一部だけが「作品」として世に出る。
240億人の中で、その条件を満たして作品を残せた人間は、せいぜい数百万、下手すれば数十万だろう。
つまり古典とは、「最初から選ばれた母集団」+「時間フィルター」を通過したものだ。
一方で現代はどうか。
誰でも書ける、公開できる、残る。
その代わり、フィルターは「事前」ではなく「事後」にかかる。
しかも速度が異常に速い。
音楽も同じだ。
当時、プロの音楽家になれる人間は環境的に極端に限られていた。
今はどうか。
数万円で楽器が手に入る。
その代わり、生き残れるのはほんの一握り。
フィルターは桁違いに厳しい。
ここまで考えると疑問が出てくる。
なら、「ある程度フィルターがかかって、まだ古びていない現代作品」の方が合理的じゃないか?
で、個人的な話。俺語りのターン
「人間の本質はすべてシェイクスピアに書かれている」なんて聞けばシェイクスピアを読む
人間関係も、権力も、愛も、裏切りも、全部わかる、だってさ。ふむ。
筒井康隆が山下洋輔と遊んでいると知れば、赤塚不二夫まで繋がり新宿カルチャー文学も一通りおさえた。
でも21歳くらいで、ぱたりと小説を読まなくなった。
「もう大体わかったから」。
清く正しく生きろ。
それでも生きろ。
もちろん表現は無数にある。
でも骨子はほぼ同じ。論語とて同じ。
それを一度見切ると、残るのは「娯楽」だけになる。
いわゆる転生アニメで脳を休ませてる。いいんだよああいう馬鹿っぽいので
俺はピアノが弾ける(た)しクラシックにも知見がある、が、YOASOBIと上白石萌音しか聞かん
それでいいと思ってる。
そもそも容姿も性格も非モテだしモテたいとも思っていない、人間が苦手なASDおばさん(ブス)なんだが、男性の割合と非正規の割合が高く、高齢化している職場で、立て続けにおじアタックに遭遇して参っている。
おじがお菓子をくれる→もらいっぱなしも申し訳ないのでお返しをする→おじがくれるのが女性用の物品になったりして「職場でのお菓子交換」を逸脱してくる→食事に誘ったりしてくる→断ったり相手の期待から外れる行動を取ると不機嫌になる→そこで初めて「今までの行為は全部おじアタックだったのかよ…」と気づく
という流れを、この二年ほどの間、約三人のおじで繰り返した。何なんだ?そういうおじばっか大集合してる職場なのか?????
こうも続くと自分に何か非があるのかと思えてくるのだが、おじの中にはそれまでほぼ会話したこともなく、こっちは名前すら知らなかったのに、長文の手紙(おじ構文)を渡してきた猛者もいた。
こちらはいい年のおばであり、自分がおじにタゲられるとも思っていないので「お菓子が好きな(手紙にはスイーツ蘊蓄が書かれていたりした)愉快な人なんだな」と解釈して受け取り、一方的にもらいっぱなしも負担なので都度お返しをしていたんだが、いつも愛想のよかったそのおじは、昨日週が明けて顔を合わせたら急に無愛想になっていた。挨拶しても真顔で、拗ねたように目も合わせない。用事があっても必要最低限しか言葉を発さない。
おじとは業務も別だし、そもそもおじの存在をここしばらく意識もしていなかったくらいで、何か怒らせるような事をしたとも思えない。理由を考えてみて最終的に『バレンタインデーのチョコをあげなかった』以外に思い当たらなかった。
いや待って?????
そしてやっと気づいたのだった。私がおじをお菓子の蘊蓄を語るのが好きな愉快なおじさんと解釈している時、おじは私と『良好な関係を築いている』と解釈していたのだと。お返しをしたりしたのがおじにとっては脈ありサインであり、期待していたバレンタインデーにチョコを用意されなかったのはおじにとっては裏切りに等しかったのだと。
書いてて思うが本当にどうかしている。
どうかしているが、こういうおじがこの職場では三人目なのである。
助けてくれ、私が何かしたのか?今まで生きてきて、こんな頻度でおじの妄想に巻き込まれるようなことなかったんだが。口下手なのでおじを転がしておじサーの姫になってるわけでもない。ただただ、「人を不快にさせないよう、愛想よくしよう」と心がけているだけだ。それもこれもASD女は無表情でいるとよく失礼だとか感じが悪いと言われるからだ。
大体、一人で暴走して期待して、期待を裏切られると拗ねていじけて不機嫌になるおじ達、女よりよっぽど恋愛脳じゃないか????
何を恋に恋してるんだ。
少なくとも私と同じ高齢独身おばで若い男子にアプローチしてる奴一人もいないぞ。全員淡々と仕事していて趣味やオタ活にしか興味ない。恋愛しているにしろ職場の外でやっている。
いや当たり前だろ。
その気になる→脈ないのに脈アリサインを勝手に受信して、相手の意思も確認せずますますその気になる→期待を裏切られて拗ねる
恋愛脳に巻き込むにしても相手を見てくれ。非正規で働く金のない高齢独身おばだぞ。どう考えても地雷物件だし、そうでなくともなんか訳ありだろうがよ。
まあでもあれなんだろうな……発達とか発達グレーとして生きてきた女特有の自己肯定感の低さが、勘違いおじを引き寄せるのは多分あるんだろう。
私はうつ病をやり、この会社に入ったのはうつが寛解してからだった。病気の影響なんだろう、うつをやってから会った支援員のような人からは、自己評価が低すぎる、自信がなさすぎるとよく言われてきた。そういうところがおじに夢を見させるのかもしれない。
とある医師はシェイクスピアを引用し、不幸は不幸を呼び寄せると言った。誰かが事故で障害を負う。障害が残ったために仕事を失い、将来を悲観してアルコール依存になり、そのために家族を失い……といったように、障害というひとつの不幸は別の不幸と連れ立ってやってくるのだと。そのすべてを引っくるめて障害という経験の全体像になるのである。
つまり私のASDという障害は自己肯定感をドン底に下げ、そのために勘違いおじを引き寄せ、ストレスを爆増させ、メンタルを病んで転職するしかなくなる、という何層もの不幸を引っくるめたものが全体像なのである。
なるほど!!!
火曜日(昼)追記。本来、今日の日記は朝に一度だけ書けば十分なはずだった。
ルーチンというのは、反復可能性と予測可能性によって価値を持つ。
ところが、午前中の出来事が僕の内部状態(というより、僕の神経系の割り込み処理)を強制的に発火させた。
よって緊急追記だ。僕は非効率を嫌うが、例外処理が必要なときに例外を拒否するのは、ただの愚か者の頑固さだ。
朝の時点での進捗は、例の背景独立性を持つ超弦理論の非摂動的定式化の続きを進めることだった。
僕が昨日から考えているのは、弦の世界面Σを単なる2次元多様体として扱うのではなく、(∞,1)-トポス内部の測度付きスタックとして再定義する枠組みだ。
重要なのは、世界面の点集合を使うのをやめること。点という概念自体が、量子重力ではあまりにも脆弱で、局所性への執着は病的ですらある。
だから僕は、世界面を安定曲線の導来モジュライスタック 𝓜̄_{g,n}の上にファイバー化した高次幾何の対象として扱い、弦の摂動展開を積分ではなくコホモロジー的プッシュフォワードとして書き換えている。
要するに、弦の散乱振幅を ∫*{𝓜̄*{g,n}} ω みたいな原始的表現で済ませるのではなく、導来代数幾何の言語で
π_* (𝒪_{Vir} ⊗ ℒ^{⊗c})
のような普遍的な場の理論の圏論的像として扱う。ここでπは世界面の普遍曲線からモジュライへの射で、ℒは決定的線束。cは中心電荷。
これを計算するのではなく、存在を保証するのが目的だ。計算できるかどうかは二流の問題だ。存在しない理論を計算するのは、ただの数学的自慰だから。
ただしこのままだと、理論は綺麗だが物理としては空虚になる危険がある。
そこで僕は、対象を単なる(∞,1)-圏の上でなく、対称モノイダル(∞,2)-圏で扱い、TQFT(位相的量子場理論)とCFT(共形場理論)の中間にあるエントロピー的変形を導入した。
具体的には、世界面上の作用を関数として定義するのをやめて、作用を因子化ホモロジーで評価される自然変換として置く。局所作用密度?そんなものは古典物理の遺物だ。
僕の新しい仮説はこうだ。
弦理論は、もはや10次元時空に弦が存在する理論ではない。弦理論とは、自己双対なE_∞-代数Aの上に構成される場の圏F(A)が、ある種のKoszul双対性を満たすという主張そのものだ。
X ≃ Spec(A)
として後から出現する。背景は入力ではなく出力だ。背景独立性とは、背景を仮定しないことではなく、背景が自然同型類としてしか意味を持たないことだ。
この枠組みで、Dブレーンは部分多様体ではなく、A加群の導来圏D(A-mod)の中の特異対象として現れる。
さらに、開弦と閉弦の相互作用は、HochschildコホモロジーHH^*(A)の構造として再構成される。閉弦がHH^*(A)に対応し、開弦はA加群の自己拡張Ext^*(M,M)に対応する。
HH^*(A) ≃ End(Id_{D(A-mod)})
という高次圏論的恒等式の物理的影だ。これを理解できない人間が弦理論を語るのは、猿がシェイクスピアを引用するのと同じくらい滑稽だ。
さらに今日の午前中、僕は例の問題に踏み込んだ。つまり、弦理論のランドスケープがなぜ無数に見えるのか、という問題だ。
多くの人間はこれを「真空がたくさんある」と雑に言うが、それは理解ではなく逃避だ。僕の見立てでは、真空が多いのではない。観測者が、(∞,1)-圏の中で同値なものを区別してしまっているだけだ。
要するに、ランドスケープとはモジュライ空間ではなく、モジュライスタックだ。そしてスタックの同値関係を無視して点集合に落とすから、無限の真空が現れる。
愚かな射影だ。真空は点ではなく自己同型群を持つ対象だ。そこに重力のゲージ冗長性が絡むと、もはや点的直観は死ぬ。
この考えをさらに推し進めると、宇宙の選択は確率ではなく、圏の中の測度の押し出しに対応する。
つまり多世界解釈の分岐も、ヒルベルト空間のベクトルが分裂するのではなく、対象の分解系列が変化する現象として扱うべきだ。
分岐とは直交分解ではなく、半直積構造の変化だ。量子測定は、射の合成則が局所的に変形するイベントだ。
この時点で、僕は朝の日記の時点より明らかに先に進んだ。問題は、その進捗を邪魔する外乱が発生したことだ。
結果、冷蔵庫の扉が周期的に開閉されていることがわかった。これは異常事態だ。
冷蔵庫は必要なときにだけ開くのが正しい。無意味な開閉はエネルギー散逸であり、エントロピー増大であり、文明への裏切りだ。
僕が「冷蔵庫の扉を開けたり閉めたりすることで、君は熱力学第二法則に対する小規模なテロ行為をしている」と指摘すると、ルームメイトは「ただ昼飯を探してただけだ」と言った。
探す?
冷蔵庫の中身は有限集合だ。探すという行為が発生するのは、記憶と整理の失敗である。
僕は冷蔵庫の内容物をカテゴリ分けし、配置を最適化する計画を提案した。
乳製品を左、野菜を右、調味料を上段、タンパク源を下段。さらに扉ポケットには使用頻度で重み付けをした確率分布を割り当てる。
これにより期待探索時間を最小化できる。ルームメイトは「お前の人生って疲れないの?」と言った。
疲れる?
さらに隣人が突然ドアをノックして「ランチ一緒にどう?」と言ってきた。
僕は即座に拒否した。僕の火曜日の昼は、弦理論と、食事と、弦理論のためにある。
会話という非決定的プロセスに時間を割くのは、ガベージコレクションされるべき愚行だ。
隣人は「たまには外に出たら?」と言った。僕は「外部環境はノイズ源であり、僕の内部モデルの収束を遅らせる」と説明した。
隣人は意味がわからない顔をした。当然だ。人間の平均的認知能力は、宇宙の理解に対してあまりに貧弱だ。
その後、友人Aからメッセージが来た。「昨日言ってた次元の折り畳みって、要するに紙を折るみたいなやつ?」と。
僕は返信する気が失せた。紙を折る?次元のコンパクト化を折り紙で理解しようとするのは、ブラックホールを炊飯器で理解しようとするのと同じだ。
「コンパクト化とは、局所的にはR^dだが大域的にはR^d×Kであるような繊維束構造を持つことだ。KはCalabi–Yau三次元多様体で、重要なのはそのホロノミーがSU(3)である点。紙を折る話は忘れろ。」
友人Bからはさらにひどい。「それってスピリチュアル?」と来た。
僕は携帯を机に伏せた。量子重力の数学をスピリチュアルと混同するのは、微分方程式を占いと呼ぶのと同じだ。文明はなぜこれほど脆弱なのか。
ここで僕の習慣の話になる。
僕は午前11時47分に必ず手を洗う。理由は単純で、手の汚染度が統計的に最大になる時間帯がそこだからだ。
僕の生活は確率過程だが、適切な観測と介入によってマルコフ連鎖を制御できる。
僕は歯磨きも厳密に3分40秒で終える。短すぎれば不完全、長すぎれば歯肉が損傷する。僕は無意味な気分ではなく、最適点で生きている。
そして昼食は、必ず同じカロリー、同じ栄養素比率にする。今日も例外ではない。僕は摂取するタンパク質量を固定し、糖質は脳のグルコース需要に合わせて調整する。
弦理論を考える脳は、ただの臓器ではない。計算装置だ。計算装置に不規則な燃料を入れるのは犯罪的だ。
昼の進捗として、僕はこれから次のことをやる。
第一に、導来モジュライスタック上の弦場の圏を、因子化代数として明示的に構成する。
これができれば、弦理論の「摂動展開」と呼ばれてきたものは、実際にはE_2-代数の変形理論として統一される。
摂動とは小さなパラメータ展開ではなく、モジュライの境界成分への制限のことでしかない。
第二に、ゲージ重力対応を等式ではなく随伴関手として定式化する。
AdS/CFTは対応ではない。ある圏から別の圏への関手であり、しかもその関手はモノイダル構造を保存し、さらに双対性を与える。つまり
F : 𝒞_bulk → 𝒞_boundary
時空の次元が落ちるという幼稚な理解は捨てるべきだ。落ちるのは次元ではない。情報の符号化形式が変わるだけだ。
第三に、ブラックホール情報問題をエントロピーで語るのをやめて、トレースで語る。
ブラックホールの熱力学エントロピーは、圏論的にはある対象の次元、より正確にはトレースの値に対応する。
つまり、エントロピーとは物理量ではなく、圏の不変量だ。ホーキング放射は確率過程ではなく、トレースの分解だ。
これができれば、情報パラドックスは「情報が失われるか否か」という子供の議論ではなく、「トレースがどの圏で評価されているか」という問題に置き換わる。
つまりパラドックスは物理ではなく、言語の誤用だ。世界は矛盾していない。矛盾しているのは人間の表現だ。
この理論が正しければ、僕が朝に考えていた多世界的分岐も、トレースの分解として理解できる。
宇宙の分岐は、世界が割れるのではなく、観測者が属する圏が変わることだ。
観測者が別の圏に移るたびに、同じ対象の異なる不変量が見える。
だから「別世界の僕」がいるように見えるだけで、本質的には同じ構造を別の関手で見ているだけだ。
ここまで書いた時点で、僕は気づいた。今日の昼の日記は、朝の日記より遥かに重要だ。
朝の僕はまだ古い直観を引きずっていた。昼の僕はそれを捨てた。進歩とは、知識を積み上げることではなく、間違った直観を破壊することだ。
最後にもう一つ記録しておく。
さっきルームメイトがまた「お前って本当に友達いるの?」と言った。
僕は答えた。「友達とは、僕の研究の自由度を減らす制約条件だ。必要ならラグランジュ乗数を導入するが、目的関数を歪めるなら削除する。」
これから僕は、昼のコーヒーを淹れる。豆の量は14.7g。抽出温度は93℃。抽出時間は2分20秒。誤差は±3秒以内。
とんでもない思い上がりだと思うんだよなあ。
特定の場面に対して「これはAのパクリだね。まあAもBのパクリなんだけどさ」みたいな事言うのが考察だと言い張る態度が本当に無理だ。
そしてそうやってドヤ顔するために名作をわざわざ2倍速で見る。
アホだ。
重要なのは何を引用してるとかオマージュしてるかとかじゃないだろ。
まあ、それが出来ないから必死になって「理論武装ゴッコ」をしてるんだろうけどさ。
それ自体はいいよ。そういう開き直りをして自分がさも立派な人間みたいな振りをしたがる気持ちは分かるよ。
でもそれを何世代も続けてきた果てに「俺はこういう風にロクロを回すんだって先輩や師匠の背中を見て学んできたんだ。ここじゃ元ネタあてクイズで百人一首出来るかどうかなんだ」みたいになるのは流石に違うだろ。
そんなのはメチルアルコールのことを本物のアルコールだと思いこんで生きていくようなもんだぞ。
なあ、そろそろ本当の「知識」に対して真剣に向き合った方がいいんじゃないのか?
もちろんそれは美術館に行って実物を見た名画の数を増やせとかシェイクスピアや聖書を原語で読めとかそういう話じゃない。
大事なのは「目の前にある表現物から作者のメッセージをちゃんと感じ取るために必要な能力」なんだよよ。
まあ、眼の前にある作品が単なるパロディで「はい、この元ネタ分かる人!分かったらオタクポイント10点!次の問題はちょっとマニアックだから20点だ!」でしかないこともあるけどよ・・・あるけどよぉ・・・そういうしょーもないボーナスポイントを本題だと思うのはもういい加減やめようぜ?
マジで俺はもう無理になってきてる。
このままオタクが表現を単なるオタククイズの手段にし続けるなら俺はもうついていけない。
本当にバカバカしいよ。
同窓会で教師の元ネタで盛り上がるような中身のなさを延々と続けてたらいつまでも心がガキのままだよ。
そしてこれは何もいわゆる「オタクコンテンツ」だけの話じゃないよ。
たとえばNHKの時代劇だってすぐに時代劇オタククイズとして俳優シャッフルみたいなことをして時代劇オタク同士でニタニタしようとする。
そういうのを有難がる消費者もしょーもないし、そういったしょーもない消費者に媚びようとする作り手のショボさは見てられない。
アホだよ。
電車図鑑を丸暗記したのをママに褒めてもらおうとする幼稚園児のレベルで創作や消費をするのはもう卒業しよう。
頼むぜ。
鍋に弾丸を受けながらでオススメされていて気になってたんだけど、マガポケで配信開始されたと聞いてちょっと読んでみた。
お前らもちょっと読んで欲しい。
センスがすげえ。
https://pocket.shonenmagazine.com/title/03049/episode/428731
な。
すんげえだろ?
ティム・バートンフォロワーなのは明らかなんだけど、それで終わらずに日本漫画風にKAWAII感じになってる。
なんかフランスとかイタリア持っていったらワンチャン向こうでボルテスVみたいになれるんちゃうかぐらいのパワーがある。
んで調べたら1994年にコミックボンボンで連載されていた漫画なんだと。
なんで?
1994年連載ってのも驚きだけど、コミックボンボンってのがもう意味がわからない。
なんでコロコロのライバルがティム・バートン風味のピカレスクアクションやってんだよちょっと対象年齢おかしいから。
でもこういう「どういう層にどう読ませれば良いのか分からないような漫画」を受け入れるのってボンボンやチャンピオンみたいな雑誌だけなんだろうな。
ある意味では当時そういう雑誌のそういう枠が空いてたからやれた作品なんだと思う。
これなにが凄いって普通に子供でも読めるような内容になってることだと思う。
言い回しに余計な複雑さとか前提知識とかがなくて、凄い直球で来るんだけど、エスプリは全部効いてる。
大人がやるならシェイクスピアをパクるとか、昔の芸能人の話をするとかで誤魔化しがちな所をただありのままに描いてくる。
それが「どんな世界でも普遍的な表現」として機能した結果として、没入感を深くしてる感じはあるよ。
あとストーリーの作りもシンプルに「この一番格好いい少年が主人公ですよ」って語りかけてくる感じでいいね。
全体的な表現もグロやシニカルさが抑えられた結果ダークロマンとしての王道ど真ん中になってて、それがホラー風味の世界で正義の大悪党やる主人公とドンピシャっていうか。
本当に面白い。
センスがいい。
とにかくセンスがいい。
名画や名作のオマージュ入れまくりでどこまで著作権的にセーフなのか怪しささえあるけど、それが危うさとして読者に訴えかけるような感じもある。
でも不思議なのがこの漫画があんま評価されてないことなんだよね。
ボンボンやコロコロに載ってた作品群に特有の滑られがあるんだろうか。
もう二回りぐらい知名度が高くても良いような気がしてならんのだが。
それもコロコロの有名漫画がやるような「純粋な熱血者としての格好良さ」とかじゃなくてさ、もっとこう「正義とか悪とか関係なくなるようなとにかく純粋に生き方が格好いい」っていう格好良さ。
Tomatometer(批評家支持率):73% 【Fresh】
Audience Score(観客支持率):52% 【Rotten】
「映像は最高だが、心に響かない」: 「背景美術には10/10(満点)をあげるが、ストーリーには2/10をあげる。キャラに全く感情移入できないまま終わった。これは112分間の豪華なミュージックビデオだ」
「細田守に何を期待すべきか?」: 「『サマーウォーズ』や『バケモノの子』で見せた、あの温かな人間ドラマはどこへ消えたのか? 難解すぎて子供と一緒に観るには不向きだ」
日本で生まれた「懲役112分」という言葉。それは海外では、一部の批評家によって「魅惑的な悪夢」と翻訳され、一般層には「退屈な贅沢」と受け止められました。
https://www.metacritic.com/movie/scarlet-2025/
メタスコア:61 概ね好意的(Generally Favorable)
肯定的(Positive): 3件 (30%)
賛否両論(Mixed): 7件 (70%)
92点:TheWrap
「『スカーレット』は、細田守にとってこれまでで最も物語的な野心に満ちた作品かもしれない。史上最も有名な物語の一つを脚色し、歪曲させ、新たな複雑さの層と、何世紀にもわたる新しい極めて貴重な文脈を加えている。」 (William Bibbiani 筆)
90点:Screen Daily
「この大人向けアニメーションがこれほどまでに心を揺さぶるのは、脚本・監督が、そのスペクタクルを深い感情の底流で強化することに徹しているからだ。」 (Tim Grierson 筆)
70点:Next Best Picture
「細田作品に常につきまとうアキレス腱(弱点)だが、その物語は初歩的な道徳論へと退行してしまい、彼が作画で描き出す豪華な想像力とは完全に不協和音を起こしている。その野心的な大掛かりな展示は常に高く評価されるだろうが、彼が考察するテーマへのより深い意味付けもまた、評価に値するものであってほしかった。」 (Josh Parham 筆)
60点:Slashfilm
「復讐に身を捧げることは、幸福な人生から自分を遠ざける自己処罰の行為である。その心情には敬意を表するが、物語が混乱しており、時折主人公スカーレット自身を見失っているため、共鳴できる部分は限られている。」 (Devin Meenan 筆)
58点:The Film Stage
「クローズアップを極端に少なくしたことで、細田はスケールの大きさを魅力的な映像と履き違えてしまい、ファンが不可能だと思っていた事態を招いた。つまり、ありふれた(ジェネリックな)ルックの映画を作ってしまったのだ。」 (Jourdain Searles 筆)
58点:IndieWire
「『スカーレット』は、過度に平凡な物語の代償として、アニメーションと演出のスキルをフラストレーションが溜まるほど無駄遣いしている。」 (Adam Solomons 筆)
50点:Slant Magazine
「机上の構想では、アニメの巨匠・細田守による『スカーレット』は間違いなくしびれるような内容に聞こえる。」 (Jake Cole 筆)
50点:The Associated Press
「細田は『竜とそばかすの姫(Belle)』に『美女と野獣』を接ぎ木し、時には不器用ながらも、時には啓発的な効果をもたらした。しかし『スカーレット』では、『ハムレット』と現代を橋渡しすることに苦労している。これは大きな挑戦であり、細田のような才能ある映画制作者が挑むべきものだが、実を結んではいない。」 (Jake Coyle 筆)
50点:RogerEbert.com
「インスピレーションに満ちているが凝りすぎている。シェイクスピアの『ハムレット』をアニメ化した『スカーレット』は、見事なスタイルで始まるが、その後大きな崖から転落する(失速する)。」 (Robert Daniels 筆)
「アニメーション長編としては、『スカーレット』は異例なほど野心的だ。それは『ハムレット』に近い、実存主義的で平和主義的な復讐の寓話である。ヒロインが立ち止まって物事の意味を自問自答する場面が多く含まれているが、別の言い方をすれば、重苦しくて(退屈で)気取っているということだ。」 (※筆者名なし)
https://www.youtube.com/watch?v=icWr1MbnaDg
【ワンピース】四皇シャンクスの正体は天竜人である伏線がビブルカードで判明!五老星との関係や頂上戦争での扱いはシャンクスが天竜人だからだった!?【ONE PIECE考察】
MONSTERsJOHN TV
2019/03/04
2019年!!!!
んでまあこの動画の概要見たら2018年の頃から既に言ってる!!!
もうめちゃくちゃだろ!!!!
先週までの段階ですら「いやまだ確定じゃないだろ」って扱いだったわけで、それが7年前に「シャンクスは二重スパイだと思う」とか言い出したらもう完全に予言者では?
いや、予言者ではないんだろうな。
凄いな。
凄い界隈だ。
ワンピースすごすぎる。
こういうファンがいるんだな。
そりゃ中には恋するワンピースみたいなの描くやつも出てくるわな。
シャーロック・ホームズとか水滸伝とかと並ぶような作品なんだ。
スゲーわ。
こんな漫画を「ワタシもオタクだよ。ワンピース全巻読んでるし」とか言ってた奴らがいたのか。
ワンピース全巻「ちゃんと」読んでた人は間違いなくオタクだわ。
俺は7年前に読めるはずだった伏線なんて完全に信じずに「まーだコイツラはうそつきノーランドごっこかよ」と馬鹿にしてたもんなあ
『果てしなきスカーレット』を観た。
細田守云々を抜きにしても激クソにつまらない映画であり、業界人がかろうじて擁護している映像美的な部分も近年の人気作品(指輪とゲースロとマッドマックスとアナ雪とエルデンリング)の寄せ集めでしかなく陳腐極まりなかったのだが、それは俺個人の感想で、別に他人が褒めようが貶そうがどうでもよい。はっきりいって細田守と見れば何でも叩こうとする今のネット環境のほうが異常だ。むしろ、今細田作品を擁護しようとするほうが勇気ある人間だと言っていいだろう。
「『果てしなきスカーレット』がわからないやつはシェイクスピアという古典がわからないやつだ」とほざいているスカ褒めポストを。
はあああ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜?????????????
おまえ、『ハムレット』観たことある? 誰の訳でもいいから、読んだことある??????
もし知ってたら、「『果てしなきスカーレット』を理解できないやつは『ハムレット』を知らない」なんて、口が裂けてもいえねえぞ。
『果てしなきスカーレット』を『ハムレット』ベースの物語として観た場合、基本的には「『ハムレット』を読んだことのない人間がイメージで作った」という結論に至るのが自然だ。
前提として、ある古典を、それも何百年も前の物語に則って何かを作ろうとする場合、原典より、より濃く、深く、複雑に作ろうとするだろう。最低でも、原典の味をそのままにしておこうと考えるはずだ。
それをあろうことか、細田守は鍋に大量の水をぶちこんで薄めてしまった。
たとえば、敵役たるクローディアス。『スカーレット』でも『ハムレット』でも主人公が付け狙う憎き叔父だ。
スカーレットの終盤(ネタバレ?知るか)、クローディアスは後悔をにじませながら天上の存在に祈りを捧げる。
始めは俺も「おや」と思った。
というのもこれは『ハムレット』にもあるシーンだからだ。クローディアスが前王殺害を懺悔する(しているように見える)場面。
それまでシンプルな悪役だった『スカーレット』のクローディアスにも事情があって、実は複雑なキャラクターの持ち主だった……とひねるのは、展開的にも今の世界を描くというテーマ的にも効果的ではないか。もしかして、多少は脚本がうまくなったのか、細田守?
だが、その期待は十秒後に裏切られる。クローディアスの懺悔は偽の懺悔だったのだ。彼はどこまでも単純な悪でしかなかった。
この調子で、一事が万事、原典のキャラクターたちが改悪されていく。
ローゼンクランツとギルデンスターンは多少しょうがないとはいえ、母親のガートルードはひどい。『スカーレット』ではマクベス夫人的な要素を持った「悪女」として描かれるが、その背景となる物語や動機がほとんど描かれないので、ただの淫奔な毒親にしか見えない。『ハムレット』では、わけのわからん息子と現在の夫とのあいだで板挟みになって苦しむかわいそうな人だったのに。
しかし、一番かわいそうなのはレアティーズだろう。ハムレットの恋人オフィーリアの兄にしてハムレットの良き友人。しかし、ハムレットが原因でオフィーリアが死んでしまったことから仲違いし、最終的には殺し合うことになるという、ハムレットでもっとも激アツなキャラのひとりだ。
このレアティーズが『スカーレット』では「クローディアス率いる悪の組織幹部C」くらいのポジションになり、特に深堀りも見せ場もないまま、小悪党として惨めに退場していく。
『ハムレット』を一行でも読んだことある人間なら、まずこんな扱いは思いつかないはずだ。
とはいえ、細田守が『ハムレット』を読んでいないとは思わない。タイトルは釣りだ。
読んでいる証拠は、両作にとって重要なくだりである「父王の亡霊が語りかけるシーン」にある。
『ハムレット』では冒頭に死んだ父王が現れ、ハムレットに「復讐せよ」と語りかける。これがそもそもの悲劇の始まりなのだが、『スカーレット』では父王の亡霊を逆にラストに置き、「復讐」や憎悪とは正反対の優しい言葉をかけてスカーレットを復讐の呪縛から解き放つ。つまり、父の言葉が『ハムレット』では呪縛、『スカーレット』では解放になるわけだ。
巧い反転だとは思う。そもそもの物語と話運びがカスでなかったならば。
『ハムレット』にはこういう嘆きがある。「この世の関節が外れてしまった」。弟が兄を殺し、その妻を奪い、正統な後継者である兄の息子から王位を簒奪する。狂った世界である。こういう狂った世界を正すには自分が狂うしかない、というのは『ハムレット』のひとつの読みだ。
『スカーレット』で描かれる現代の世界の鏡像としての作品世界も「関節が外れてしまった」世界といえる。だから、『ハムレット』をベースにするのはある意味で正解ではあった。だが、狂い方に失敗してしまった。狂えなかったのだ。だって、細田守って世界とかたぶんどうなっていいって思ってる人だもん。常に「個人」と「自分」を描いてきたことは、これまでの作品が証明している。
ファンの中には「これまでの得意分野を捨てて新しい領域に挑戦したことを評価すべき」との声もあるが、ファンタジーも古典もなめくさった扱いしかできないのに、なにを評価しろというのだろう? 人には向き不向き、そして心を込められるかどうかがある。
『竜とそばかすの姫』は駄作だったかもしれないが、少なくとも細田守の魂が幾分かは込もっていた。だが、『スカーレット』は? これこそ、虚無以外の何物でもない。
おそらく、『ハムレット』の「生きるべきか死ぬべきか」という名台詞に「生きること」という作品テーマを見出したのだろう。別に間違っているとまではいわないが、安易にすぎる。全体的に、安易にすぎるのだ。序盤で、坊主頭の聖を始めてみたスカーレットが「僧侶か? なら寺に行け!」というセリフがある。素でよくわからないギャグだろう。これは『ハムレット』でハムレットがオフィーリアにかける「尼寺へ行け!」という有名なセリフのオマージュだ。
なるほど。だから?
わからない。俺にはなぜここで「尼寺へ行け!」の引用が出てくるのかまったく説明できない。意味も脈絡もない。
『スカーレット』の問題は、『ハムレット』にかぎらずあらゆる要素がすべてそのような安易さの織物で出来ていることだ。どこかで聞いたようなセリフ、どこかで見たような展開。すべてが軽い。
俺の前のもう二度と「古典がわからないやつは『スカーレット』がわからない」などと言ってくれるな。お前も『バケモノの子』で『白鯨』がどんな扱いされてたか、観ただろ? ああいうやつだぞ? 細田守っていうのは。お前たちはどうせ『スカーレット』を映画館で一度っきりしか観ないのだろう。SNSでマウントを取る目的で観て、明日にはもうきれいさっぱり忘れるのだろう。
だが、俺は今日も観る。初日と土曜で一回ずつ観て、また今日も観る。なぜって?
たしかに「またケモショタかよwwwwww」と僕たちオタクは好き放題彼の作風をイジってきたし、『竜とそばかすの姫』のときも「あーはいはいこの竜が喋るんでしょ?」と思ったら本当に喋ったので笑っちゃったし、『未来のミライ』は残念ながら見損ねてしまったんだけどもショタが尻尾バイブでアナル絶頂のCMが流れてきたときは「自重wwwwww」などと思ったわけだが、「よっしゃ、じゃあケモショタ抜きで作るぞ」という決意表明のもとお出しされた作品を見たときの感想は「ケモショタのほうが良かった……」という感じになってしまった。
そもそも僕は細田守にケモショタを捨ててほしいわけではなかったのだ。むしろ個人的には彼の描くショタや制服少女はすごく好きだ。監督を「またケモショタw」とイジるというのは、まあ愛情表現のようなものであって本気でやめるべきだと思っていたわけではない。彼に対してネット民が辛辣だったというのも、アンケートなどを取ったわけではないので実際に「皆」がどう思っていたかはわからないのだが、少なくとも増田としては「細田くん! 君に一般向けは向いてない! オタク向け作品を作ろう! ファミリー向けを取りに行くのはあきらめて、ポスト宮崎駿への色気も封印して、オタク向け作品で好きなだけ性癖(誤用)を描こう! ショタやケモノやケモショタやイケオジや可愛いけど薄味な女子高生の理想郷を作ろう!」というつもりだった。
要するに、「一般向けのつもりで作っときながらケモショタ出してんじゃねえよ」というのは「ケモショタ出してんじゃねえよ」という意味ではなく「一般向け作るのやめなよ」という意味だったのだ。しかし細田守は前者の意味に解釈したようで、今回は一切ケモショタ抜きの作品をお出ししてきた。国民的アニメ監督という立ち位置にありながら『すずめの戸締まり』で本気の足裏サービスカットをぶち込んできた新海誠とは逆方向への覚悟の決まり方だが、そういうことじゃねえんだよな~~~~~~~!!!1!!
ただ、「面白いと思ってこいつのことイジってたら、真に受けてほんとにやりやがったw」というのはまごうことなきいじめっ子のセリフであり、細田守監督がどれだけネットの声を気にしていたかはわからないが、彼の作風をイジっていた者の一人としては真剣に反省せざるを得ない。無神経にイジっててすみませんでした、監督。
で、本編の感想なんですが。
「日本のオタクからイジられすぎて海外向けに舵を切った?」という感想になりました。わかりやすいハムレットの導入(でもハムレット踏まえといてレアティーズのあの扱いは何なの!? 友として死ねよ!)、しかし主役は女性、途中で謎の多様性演出が挟まり(おお、DEIに栄光あれ!)(ちゃんとハワイ語やハワイ舞踊の監修入れてたのは偉いと思うよ。ハワイ文化が出てくる必然性を気にしないのであれば)、脈絡もなく歌って踊ってのシーンを挿入しコミカルでお間抜けな敵を配置し(このあたりはマジでディズニー感があった)、いわゆるアニメ絵的なキャラ造形を封印してものすごい迫力の映像美に力を入れる、というのは、従来の「日本のアニメ映画」だった細田守作品から脱却しようともがいているように思われた。それが良いか悪いかは価値観次第だが、「日本のアニメ映画」を期待していた者としては寂しいものがあるというか、僕は細田守作品のキャラデザ好きだったよ……という寂しさに襲われてしまった。
問題は海外向けアニメ映画だと割り切って見たところでストーリーの出来などが色々と厳しいというところで、ちょっと思ってた以上に脚本が支離滅裂というか、「これはきっと僕の理解力が低くて筋を追えてないんだろうな」と思いながら見てたけどネット上でも不評でちょっと安心した。『おおかみこどもの雨と雪』は今改めて見てもよく出来てたよ。やはり奥寺佐渡子……奥寺佐渡子はすべてを解決する……!
聖くんがあれだけ忌避してた殺人に手を染めたところに何のフォローもないのってどういうことかしら? あれだけ登場人物の気持ちを全部言葉に出しちゃうマンな細田守監督なのにこのシーンの聖くんの感情がいっちょんわからんので「???」ってなってしまう。彼はどういう決意でもってあのひとたちを射殺そうと思い至って殺したあとはどう考えていたの? いや、「お前そういうのはいちいち言葉にするもんじゃなくて表情や動作から読み取るものなんだよ。それが映像作品を見るうえでの読解力だろ」ってのはそれはそうなんだけど、上述のように「でも細田守はこれまでいちいち言葉にしてたじゃん」っていうのと、「すみません! 僕には読み取れませんでした!」っていうのが両方ある。みんなは読み取れましたか? 読み取れたひとは根拠を添えて教えてほしい。マジでわからんかったので。
最後のほうは「宗教の映画?」って感じでした。ラストの演説はもうしょーもない。主人公にそこまで言わせるなら共和政に移行させろよとしか言えないファンタジー作品ってままあるよね(『BASARA』の「それが、それこそが新しい国ぞ!」っていうセリフは今でも印象に残ってる)(『汝、暗君を愛せよ』はちゃんと主人公が共和政への道を敷いてる作品なのでみんな読もう!)(全然関係ないけど最近のプリキュアって主人公に意識高いこと言わせる割に王国とか女王とか王女とか出てきて彼らが(象徴的な君主制ではなく)実権を保持してる描写もあるので何でそこだけ封建的なんだよって言いたくなりません?)。
あとヒロインの名前がスカーレットでファンタジー風のPVだったので「なるほどヨーロッパ風のファンタジー世界なんだな!」と思って見始めたら16世紀デンマーク王国が舞台と冒頭で明言されててビックリ仰天。スカーレットって英語ですよね……? なんで歴史上のデンマーク王国の王女の名前に採用されてるんです……? 「たまたま異世界にデンマークっていう国があるんだよ」っていう逃げは本編の展開で潰されてるのでマジで現実世界のデンマークが舞台だからねこれ。正気? それとも「一度も現実世界の日本のことだとは言ってないです」って言い張る? っていうかクローディアス王の配下でコーネリウスっていうやつが出てくるんだけど「クローディウス」「コーネリウス」か「クローディアス」「コーネリアス」のどっちかに統一しろよって思った。もしかしてこの2つが同じ語尾の名前だと気づいてないんです? いやまさか、そんなそのへんに一山いくらで転がってるなろう作家並のファンタジー世界構築センスしか持ってないのに歴史ファンタジーの大作映画を作ろうなどと考えていたなどということはないだろう……ないよね? そもそも論で言うとさぁ、シェイクスピアの登場人物が日本では英語読みに基づいた表記をされてるのはシェイクスピアが英語で書いた前近代の作家だからであって、現代日本の作家が何でデンマークの人名を英語読みするんだよ!
あ、最後に目覚めてからの断髪スカーレットちゃん可愛かったね。身体のラインがピッチリ出るドレス姿、『おおかみこどもの雨と雪』での花の造形にも繋がるフェティシズムを感じて良き。もしかして細田守って腋チラ描写が好きだったりする? 新海誠の足フェチと違ってそこまでわかりやすくないから僕の節穴アイでは気づかなかった。反省。服を切られて恥ずかしがるスカーレットちゃんの声エロくて良かった。あと映像美はすごいよ。『サマーウォーズ』とか『バケモノの子』とか『竜とそばかすの姫』とかで見た浮遊する巨大生物演出が研ぎ澄まされていた。あれは映画館で見る価値があった。時間の都合で何も考えずにIMAXにして正解だったわ。これ『時をかける少女』で見た! みたいな感慨に襲われる演出もあったし「お前タイムリープしてね?」みたいな話の筋だったからもうなんか実質『時かけ』ってことで良くない? 良くないですかそうですか。
結論としては、万人向けではないけれども、まあ、オタクなので、話題作の情報を手に入れるために、そして同好の士と語らうために見に行っても、まあ、うん、数千円ぶんの損しかしないと思う。見たあとに同好の士と語らいたくなるという意味では非常に優れた映画だと感じた。映画会社はそろそろ懲りろよというか、スクリーン配分の見直しをしよう? な?