はてなキーワード: 下総とは
「下総」と「上総」の読み方は、「しもうさ」と「かずさ」である。
同じ「○総」なら後ろの字の読み方を統一してほしい物だ。
それぞれの字についてちょっと考えてみようと思う。
まずは、ローマ字で表してみる。
「simousa」「kazusa」なるほど前の字はともかくとして、後ろの「usa」は二つの単語とも共通だ。
あ、ちょっと待て。よく見てみると「usa」の扱われ方がそれぞれ違うことに気がついたぞ。
「simousa」は「u」の使い方が単独の母音として使われている。
ひらがなで表すと「う」。
対して「kazusa」は「z」と一緒に「u」が使われている。
ひらがなにすると「ず」。
なるほど、前の字との使われ方の違いによって読み方も変わるんだな!
よくわかった。よくわかった。
だとしても「かずさ」の方は「う」を省略しないでくれ。
私は「上総」の読み方を生まれてこの方「下総」のノリで「かずうさ」とずっと読んできた。自信満々にドヤ顔で「俺、この漢字読めます」的な顔で使っていたからきっと裏では仲間に笑われていただろう。
それが無理だったら、義務教育で教えてほしい。丁度春になる頃だ。
学年進級はじめのテストで出すのはどうだろう。国語の漢字の読み仮名テストで一番最後に出そう。きっと女子に、『この漢字去年習ってないんだけど』などとぐちぐち言われると思うが安心してほしい。全学生よ、君たちはもう「下総」と「上総」の読み方を覚えたのだ。
お、橋下総理待望論か?
「午後2時、妻がパートに出かけた。帰ってくるのは6時過ぎ、それまでひとりの時間だ。」
という書き出しで Anond AI に日記の続きを書かせてみた。
午後2時、妻がパートに出かけた。帰ってくるのは6時過ぎ、それまでひとりの時間だ。洗濯物の取り込みを終えた妻が台所で洗い物をしていると、洗濯物の中に入っていた紙が目に入った。漢字の「入(いり)」という漢字だ。早速その漢字に当てはまる漢字をプリントアウトして、広げて見た。そして、ふと妻を抱きしめる気がした。妻が「あはは」と笑った瞬間、「入った」が頭をよぎった。そこで私は、もう一度妻に「入(いり)」と置き換えてみた
午後2時、妻がパートに出かけた。帰ってくるのは6時過ぎ、それまでひとりの時間だ。妻を車の横に乗せ、少し離れた位置の駐車場まで通勤する。帰宅すると妻と子供は寝息を立てているだろうが、時間が経つのは待ち遠しい。そう私は考えていた。がんばらないと必ずダメになってしまうと思っていた。それが毎日だなんて......。車を自宅に戻せるのは11時過ぎだが、妻に電話をしてしまう。妻に電話をしてしまうと、朝より一日が大事になってしまう気がしてならない。私は、ふとした事でふと思い立ち、妻
午後2時、妻がパートに出かけた。帰ってくるのは6時過ぎ、それまでひとりの時間だ。妻との夕食を待つ間、アイスを食べていた。妻に夕食を届けに行く妻を見て、妻は「いつもと様子が変だ」と言った。妻に話しかけると、妻は「変なこと言わないで」と言った。当たり前だ。妻が倒れてから誰も寝付けない。妻が元気なのはいつものことだ。それを超えていきますか、といいながら氷を食べていた。やっぱりこれより遅かったらどうなっていたんだろうと考えながら、
妻に夕食を届けに行く妻。とにかく主語も目的語も全部「妻」になってしまうことがわかってきた。元の文に「私」を含めなかったからかもしれない。
午後2時、妻がパートに出かけた。帰ってくるのは6時過ぎ、それまでひとりの時間だ。犬の散歩に出かける前に、昼食を買わなきゃ。そうやって、妻が外に出かけようとするのを待ち続けている自分がいて、心がときめく。主婦の仕事は忙し過ぎたり、生活がめまぐるし過ぎて、何もかも目に入ってこなくなったりすることがあるけれど、この夕暮れの時間はそんなことを感じさせてくれない。自分がいなくなってもいいんじゃないか、とすら思えるくらい。夕暮れの美しいこと。綺麗だということ。
昼食を買おうとしているのにすでに夕暮れだ。この作品は詩情があってよいな。
午後2時、妻がパートに出かけた。帰ってくるのは6時過ぎ、それまでひとりの時間だ。部屋でネットサーフィンをしていた時、この3本の記事が頭をよぎった。いずれも的中していた。今までの私は、失敗に蓋をし、それ以上何もできない無気力下総、メンタルヘルス障害、そして自殺の4パターンに当てはまっていた。夜10時、腹に激痛を感じた。あわてて起床し、体を洗い、妻が用意してくれた夕食用を作った。私が皿洗いをしていた時、妻がそっと起き出した
無気力下総とは。自殺という不穏なワードをAIが選び出してくるとは思わなかった。
午後2時、妻がパートに出かけた。帰ってくるのは6時過ぎ、それまでひとりの時間だ。帰りにスーパーに寄り、午後6時過ぎのお惣菜を買う。今日は仕事が休みだったので、妻が作ってくれた夕食を作る日になった。この生活が10年以上続いてきた。正確には10年になっていない。10年以上続いた妻が作ってくれた夕食に、俺は慣れているというのもあるだろう。7月19日の18時頃、俺は会社の昼休みに妻の料理を食べていた。妻が作業していたフライパンにはご飯が残っていて、
「この生活が10年以上続いてきた。正確には10年になっていない。」どっちやねん。
午後2時、妻がパートに出かけた。帰ってくるのは6時過ぎ、それまでひとりの時間だ。散歩と言っても、妻が外出するのはいつも一人で帰宅する夕方だ。ここ1~2年は歩くコースが少しずつ変わっている。10メートル、15メートル、20メートルぐらいだろうか。ここ3年はもっぱら犬の散歩と、川沿いを歩く。たまに散歩と言っても、ちょっと大げさだが山奥に出かけることだってある。そういうときは大抵といって良いほど、「一緒に歩こうよ」と言うから、ついつい「じゃあ一緒に」という返事になってしまうが。妻が
午後2時、妻がパートに出かけた。帰ってくるのは6時過ぎ、それまでひとりの時間だ。夕暮れの中で波しぶきを浴びながら、涼しい風を受ける南国のベッドで本を読んでいると、昨日とは打って変わって、穏やかな気持ちになる。やがて、洗濯機を回すために洗面所に向かうと、妻がニコニコしながら洗濯をしている。洗濯機に私が入ると、妻が両手で私の手を包み込みながら、「大丈夫?」といったように優しくキスをした。私は驚いてしまった。それどころか、妻は私のキスを「嫌い」ではなく
午後2時、妻がパートに出かけた。帰ってくるのは6時過ぎ、それまでひとりの時間だ。洗濯、風呂、夕食後、飲み物はどうするか。妻との会話は盛り上がった。いつになくぐいぐい来た性行為は終わってしまったけど、それくらいいい時間だったのではないかと思う。やっぱり仕事ってそういうものだ。私は、妻に向けて夕食の材料と食器を詰めて帰宅した。 職場の女上司に言われて傷ついたこと。元職場の女上司から、仕事を依頼されたのでやれということだった。私は、あまり得意
出羽 人気の守
常陸 たまに守出るでしょ
上野 すけでよく出る
上総 守人気高し
越中 惜しい
信濃 まあまあ
甲斐 人気薄
駿河 人気薄
伊豆 守人気高し
遠江 人気なし 全くありえない
若狭 ありえない
尾張 まあまあ
伊勢 ありえない
紀伊 ありえない
飛騨 ありえない
加賀 ありえない
三河 まあまあ
志摩 ありえない
近江 人気あり
山城 まあまあ
丹後 あり
摂津 なし
和泉 なし
河内 あり
淡路 なし
大和 なし
因幡 あり
伯耆 なし
石見 なし
美作 なし
安芸 なし
周防 なし
長門 まあまあ
阿波 あり
讃岐 なし
伊予 なし
土佐 人気
筑前 あり
筑後 あり
豊前 あり
豊後 あり
肥前 なし
日向 なし
薩摩 あり
大隅 なし
琉球 あり
もともとの江戸城は太田道灌(どうかん)が長禄元年(1457年)に築いた小さな城だった。その後の北条氏の時代も江戸は寒村にすぎなかった。現在の日比谷あたりまで海水が入り込む湿地帯のため農耕には不向きで、人口も少なく、江戸城は荒廃していた。
転機となったのは天正18年(1590年)、豊臣秀吉が北条氏を攻めた小田原征伐である。この戦いで最大級の功績をあげた徳川家康は、北条氏の所領をそっくりそのまま秀吉から与えられる。伊豆、相模、武蔵、上総、下総、上野、下野の7国である。だが、これまでの領地、駿河、遠江、三河、甲斐、信濃の5国を失う。前の領地は150万石、新たな関東の領地は250万石。石高は増えても慣れ親しんだ領地を離れることは、家康にとって大きな痛手だった。報奨のかたちはとっているが、関東移封は家康を大坂から遠ざけるための秀吉の計略である。
信康殺害が信長の命令だったという説はだいぶ疑問視されてるよね。
いまは家康と信康の対立が原因だったというほうが定説なんじゃないかな。
北条の場合、「完全に織田の臣下になっていた」というほどではないと思うけど、
力関係では織田がだいぶ上の同盟関係であったことは間違いないよね。
(織田・徳川の同盟もいつから対等じゃなくなったかは議論のあるところだと思うけど)
本能寺の変のときに滝川一益を襲撃しちゃったからそこでご破産だよね。
そもそも「織田家に臣従していたら豊臣にも臣従したはず」理論がおかしくない?
秀吉が織田家の後継を自認したことと、織田家に臣従していた大名がそれを認めるかどうかは別の話だよね?
その理屈が通るなら勝家も家康もおとなしく秀吉に従ってたことになるじゃん。
本能寺の変の時点で伊豆・相模・武蔵・下総くらいまでじゃない?
そこから織田がほぼ独力で武田を滅ぼしちゃって北条は何のおこぼれも貰えず、
https://anond.hatelabo.jp/20201219095651
(出来事)
1856 日米修好通商条約締結
1860 横浜の外国人居留地において、競馬が行われる(居留地競馬)
1869 戊辰戦争終了
1870 東京招魂社(現・靖国神社)において、初めて洋式競馬が行われる(招魂社競馬。1898年まで)
1874 台湾出兵
1877 西南戦争開始~終了
1894 日清戦争開始
1905 日露戦争終了
桂太郎内閣による馬券発売の公認(黙許)(公認競馬。中央競馬のルーツ)
馬政第一次計画の制定(第一期:1906年~1923年、第二期:1924年~1935年)
帝室御賞典(東京)創設
1907 小岩井農場が種牡馬インタグリオーと20頭の繁殖牝馬(小岩井農場の基礎輸入牝馬)をイギリスより輸入する
1910 韓国併合
改正競馬規程(閣令)を根拠として、産牛馬組合による競馬が開催されるようになる(地方競馬のルーツ)
主要競走に騸馬(せん馬)が出走不可に。芦毛、月毛、河原毛が出走不可に(毛色の制限は1928年まで)
帝室御賞典(阪神)創設
1911 優勝内国産馬連合競走(連合二哩)創設(ラングトンが第1回の勝馬となる)
宮崎競馬場において、商品券付き勝馬投票が実施される(事実上の馬券)。1914年までに全ての競馬倶楽部が実施するようになる
1914 第一次世界大戦開始
1918 第一次世界大戦終了/シベリア出兵(1922年まで)
1922 帝室御賞典(札幌)創設(1937年秋まで。1922年~1924年は春のみ。1925年~1937年は秋のみ)
帝室御賞典(福島)創設(春のみ。1922年春~1937年春)。帝室御賞典(函館)創設(秋のみ。1922年秋~1936年秋)
1923 関東大震災/旧競馬法制定(馬券発売再開)/馬政局廃止
帝室御賞典(函館)創設(春のみ。1923年春~1937年春)。特殊ハンデキャップ競走創設
1925 濠抽混合創設(当初の名称は各内国抽籤濠州産馬混合競走。1932年より目黒記念)
下総御料牧場が2頭の繁殖牝馬(種正・稙道)をアメリカより輸入する
1928 横浜特別創設(1943年秋まで)/連合二哩(牝馬)創設(1928春~1941秋)
1931 満州事変
下総御料牧場が3頭の繁殖牝馬(星旗・星若・星友)をアメリカより輸入する
1932 東京優駿創設(1950年より「日本ダービー」の副称が付く。ワカタカが第1回の勝馬となる)
下総御料牧場が3頭の繁殖牝馬(星濱・星谷・星富)をアメリカより輸入する
1934 中山大障害創設
1936 二・二六事件
1937 日中戦争開始
天皇賞(帝室御賞典)創設(連合二哩並びに各競馬倶楽部で行われていた帝室御賞典を統合。当初秋2600m、春2700mで施行され、第3回からは春秋共に3200mで施行。ハツピーマイト(ハッピーマイト)が第1回(1937年秋・東京)、ハセパークが第2回(1938年春・阪神)の勝馬となる)
連合二哩はこの年限りで廃止。各地の帝室御賞典はこの年春限りで廃止
菊花賞(京都農林省賞典四歳呼馬)、優駿牝馬(オークス)(阪神優駿牝馬)創設
1939 皐月賞(横浜農林省賞典四歳呼馬)、桜花賞(中山四歳牝馬特別)創設(五大クラシック競走が成立)
1941 太平洋戦争開始/セントライトが初のクラシック三冠を達成
1944 競馬開催の一時停止。この年の競馬は能力検定競走として施行される(戦前の競馬はこの年限りで終了)
2歳(旧3歳)競走が競走体系に加わる
1949 朝日杯3歳ステークス(1991年から牡馬及び騸馬(せん馬)限定のレースとなる。現・朝日杯フューチュリティステークス)創設
阪神3歳ステークス(1991年から阪神3歳牝馬ステークスとして牝馬限定のレースとなる。現・阪神ジュベナイルフィリーズ)創設
1951 中央競馬における重勝式馬券の発売(1961年廃止)
トキノミノルが無敗で二冠を達成
日本中央競馬会(略称は1986年までNCK。1987年からJRA)発足(国営競馬時代の終了)
啓衆社(競馬予想紙を発行)が啓衆賞を設け、各年に活躍した競走馬を表彰することを始める(1972年から『優駿』(日本中央競馬会の機関紙)の主催による優駿賞、1987年から日本中央競馬会の主催によるJRA賞となる。最初の年度代表馬はハクリヨウ(ハクリョウ))
1955 日本中央競馬会が英国ジョッキークラブとの間に騎手に対する制裁の相互実施協定を締結する(国際交流の始まり)
東京大賞典(秋の鞍)創設
1958 ハクチカラが戦後の日本調教馬として、初めて海外に遠征する
1956 有馬記念(中山グランプリ)創設(メイヂヒカリが第1回の勝馬となる。八大競走成立)
1963 中央競馬において8枠制が導入される
メイズイとリユウフオーレル(リュウフォーレル)の2頭が年度代表馬に選出される
1965 シンザンが天皇賞秋・有馬記念を制覇し、五冠を達成(当時牡馬が出走できる大レースを全て制覇)
1967 栗東トレーニングセンター開場
1968 中央競馬における繋駕速歩競走はこの年限りで廃止される
1970 大阪万博
スピードシンボリが初めて有馬記念を連覇し、1967年以来2度目の年度代表馬に選出される
1971 ニクソン・ショック
貿易自由化に伴い国内生産者への保護政策が実施されたことにより、持込馬が有馬記念を除く八大競走への出走権を失う
トウメイが天皇賞秋・有馬記念と連勝し、牝馬として初の年度代表馬に選出される
1972 沖縄返還
地方競馬における騎乗速歩競走はこの年限りで廃止される(中央競馬では戦前限り廃止)
ハイセイコーが中央競馬に移籍し、好成績を挙げ、国民的人気を集める(1974年の有馬記念2着(勝馬はタニノチカラ)を最後に引退)
1974 単枠指定制度の導入(1991年10月5日廃止。最初の指定馬は同年の皐月賞におけるキタノカチドキ。最後の指定馬は1991年のセントライト記念におけるレオダーバン)
1977 テンポイントが有馬記念でトウショウボーイとのマッチレースを制し、年度代表馬に選出される(3着はグリーングラス)
1978 美浦トレーニングセンター開場
1899-1922 インタグリオー
1907輸入 小岩井農場
1905-19?? ダイヤモンドウェッディング(ダイヤモンドウェッヂング)
1909輸入 奥羽種畜牧場
1905-1928 イボア
1909-1930 ガロン
1911-19?? トリニチースクエーア
19??輸入
19??-19?? ラシカッター
19??-19?? ペリオン
19??輸入
1922-19?? ミンドアー
19??輸入
1922-1946 トウルヌソル
1923-19?? レヴューオーダー
19??輸入
1924-1953 シアンモア
1927-1951 ダイオライト
1928-19?? ハクリュウ(父・ラシデヤー)
19??供用
19??供用
1930-19?? レイモンド
19??供用
1932-1956 月友(父・マンノウォー)
1931-1955 プリメロ
1936輸入 小岩井農場
1932-1950 セフト
1937輸入 日高種畜場
1936-1956 ステーツマン
1936供用 社台牧場
1936-1953 クモハタ(父・トウルヌソル)
1936-19?? トキノチカラ(父・トウルヌソル)
1941供用?
19??供用
1946-1968 ヒンドスタン
1955輸入 荻伏種馬所
1946-1970 ソロナウェー
1959輸入
1947-1966 ライジングフレーム
1953輸入
1949-1974 ガーサント
1961輸入 社台ファーム
1953-1982 チャイナロック
1960輸入
1953-1965 モンタヴァル
1961輸入
1960-1985 ネヴァービート
1963輸入
1960-1985 パーソロン
1961-19?? ファバージ
19??輸入
1963-1987 テスコボーイ
1967輸入
1967-1991 アローエクスプレス(父・スパニッシュイクスプレス)
1967-1989 ディクタス
1980輸入 社台ファーム
1971-2004 ノーザンテースト
1975輸入 社台ファーム
1972-1994 ブレイヴェストローマン
1979輸入
1976-2004 モガミ
1978供用
1978供用
1975-2007 ミルジョージ
19??輸入
1979-2004 リアルシャダイ
1983輸入 社台ファーム
1983-2000 トニービン
1989輸入 社台ファーム
1983-1999 ダンシングブレーヴ
1991輸入 日本軽種馬協会
1985-2013 ブライアンズタイム
1985-2020 フォーティナイナー
1996輸入
1986-2002 サンデーサイレンス
1990輸入 社台ファーム
1988-2016 オペラハウス
1994輸入 日本軽種馬協会
1989-2011 サクラバクシンオー(父・サクラユタカオー)
1993-2020 ダンスインザダーク(父・サンデーサイレンス)
1994-2015 ステイゴールド(父・サンデーサイレンス)
1998-2009 アグネスタキオン(父・サンデーサイレンス)
1998-2015 マンハッタンカフェ(父・サンデーサイレンス)
1999-2017 ゴールドアリュール(父・サンデーサイレンス)
2001-____ ダイワメジャー(父・サンデーサイレンス)
2002-2019 ディープインパクト(父・サンデーサイレンス)
2011輸入 社台スタリオンステーション
2014供用
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以上
追記:指摘があったので訂正します。「唐の頭」とは正確にはヤクの毛の兜飾りのことです。武田信玄や石田三成が描かれるときに、よく兜に付いているカツラみたいなやつのことですね。珍しくて高価なものではあるのですが、三河武士のあいだでやたらと流行っていて、十人いたら七・八人はヤクの毛をつけていたらしいです。というのも、ヤクの毛を大量に積んだ貿易船が難破して三河に漂着したから、棚ぼたで手に入れたんだとか。そら「過ぎたるもの」と言われますわ。
「本多平八」とは徳川四天王のひとり、本多忠勝(1548生)のこと。
三方ヶ原の戦いに先立つ一言坂の戦いで、退却する徳川軍の殿を本多忠勝がつとめた。
治部少は石田三成(1560生)のこと。
「島左近」(1540生)はもともと筒井氏に仕えていた武将で、一説には当時の三成の禄高の半分である二万石で召し抱えられた。
関ヶ原の戦いで討ち死にしたが、敵の足軽が後々まで悪夢に見たというほどの戦いぶりだったという。
「佐和山城」は三成が改修した城で、五層の天守閣を備えた立派なものだったが、中に入ってみると極めて質素な造りだった。
「白隠」とは「臨済宗中興の祖」と言われる高僧・白隠慧鶴(1686生)のこと。
大量の書画を残しており、その作風は荒々しくバランスの崩れたものだが、それが逆に迫力を生んでいるとして現代でも人気が高い。
「津軽屋敷」とは、本所にあった津軽藩の広大な江戸屋敷のこと。
火災のときに版木ではなく太鼓を叩くのが「本所七不思議」として知られている。
「炭屋塩原」とは、炭団を改良して一代で豪商となった炭屋の塩原太助(1743生)のこと。
明治期には「塩原多助一代記」として立身出世物語が語られ大人気となった。
亀山とは、現在の三重県亀山市にあった、東海道の亀山宿のこと。
「伊勢屋蘇鉄」とは、亀山宿の旅籠・伊勢屋の庭にあった蘇鉄の名木のこと。
「京口御門」とは、亀山宿の西端、つまり京へ向かう道に作られた門のこと。
坂の頂上に建てられ、下から見上げると壮観だという。
祖父が江島生島事件の江島の弟だったため甲斐に流罪となり、南柯は甲斐で生まれて岩槻藩士の養子となった。
儒学を学んだ南柯は、藩の要職を歴任し、隠居後は私塾・遷喬館を立ち上げて子弟教育に努めた。
「時の鐘」とは、城下に時を告げるために1671年に設置された鐘のこと。
改鋳されたものが現在まで残っていて市指定有形文化財となっている。
「鳶の薬缶」とは「薬缶平」と呼ばれた幕末の火消し・平五郎のこと。
本職は鳶職人で、頭がハゲていたので「薬缶」と綽名されたらしい。
「原宿の山車」とは、青山熊野神社の祭りで使われる山車のこと。
「延寿太夫」とは、歌舞伎の伴奏音楽として発展した浄瑠璃「清元節」を創始した、初代・清元延寿太夫(1777生)のこと。
「鶴屋南北」とは、「大南北」とも呼ばれる歌舞伎狂言作者、四代目・鶴屋南北(1755生)のこと。
一関藩は、仙台藩から分知されて成立した小藩で、現在の岩手県一関市にあたる。
「時の太鼓」とは、城下に時を告げるための太鼓のことだが、これは幕府から特別に許可されたもので、鐘ではなく太鼓が設置されるのは非常に珍しかったらしい。
「建部清庵」(1712生)は蘭学を学んだ名医で、『解体新書』で有名な杉田玄白の盟友であった。
これは加藤家が改易されたあとに熊本藩に入った細川忠興の評らしい。
八代城は、熊本県八代市にあった城で、1622年に完成したもの。地名から「松江城」とも言う。
熊本藩の本城はかの熊本城であり、一国に二城あるのは特例である。
その気兼ねもあったのか、城は未完成で放置されており、天守閣だけは壮麗だったというが、それも1672年に落雷で消失した。
「乞食の松」とは、「浜のお茶屋」とも呼ばれる松浜軒庭園にあった松のことらしいが、詳細は不明。
保土ヶ谷とは、現在の神奈川県横浜市にあった、東海道の程ヶ谷宿のこと。
「苅部清兵衛」とは、その程ヶ谷宿の本陣・名主・問屋を務めた苅部家の当主が名乗る名跡のことで、地元の名士として代々慕われたという。
「花見寿司」は程ヶ谷宿の名物で、現在でもその伝統を引き継ぐ店があるとか。
挙母城は、三河・尾張・美濃・信濃・遠江・伊勢・近江が見えるということで七州城とも呼ばれ、「大手御門」とはその立派な正門を指している。
「海老名三平」とは、挙母藩の剣術師範役に代々指名された海老名家当主の名跡で、落語家のことではない。
「だんじり祭り」は全国でも有名なお祭りで、1703年から始まったという。
「千亀利のお城」とは岸和田城の別名で、五重の天守に総構えの立派なものだったが、天守閣は1827年に焼失している。
松平定信に「昌平坂学問所で朱子学を教えるべき」と訴え、これが「寛政異学の禁」の原因となったという。
京都に出て絵を学び、仙洞御所の屏風を描いている。西山拙斎とは親友同士だった。
川ではなく道に掛かっていて、立体交差となっているのが特徴。
「にっかり」とは、刀剣乱舞でも有名となった名刀「にっかり青江」のこと。
「茶壺」とは、二代目藩主・京極高豊が好んで収集した、陶工・野々村仁清の茶壺のこと。
「多賀越中」とは、京極家の筆頭家老を代々務めた多賀家当主の名跡。
三原とは、広島藩の支城である三原城があったところで、現在の広島県三原市のこと。
その「過ぎたるもの」とは、まず石高のわりに壮麗な「三原城」。
三原城主であり広島藩筆頭家老であった浅野忠真(1618生)に、徳川家光の娘・月渓院が一目惚れし、駄々をこねて彼の側室に入ったために使用を許可された「葵の御紋」。
日光東照宮の工事にあたって、難所をわずか十日で仕上げて称賛を集めた家臣「鈴木方衛」の三つだそうな。
「過ぎたるもの」とは、藩政を改革して名君と謳われた藩主の「板倉勝明(1809生)」。
第六代安中藩主・板倉重形のときに作られたという、城下に時を知らせるための「安中様のお太鼓」(一ノ関だけの特別扱いだったはずでは…!?)。
「火ノ見半鐘」は江戸で最も高いと言われる火の見櫓があったから。
「岡の桜」は、御番医師・岡仁庵の屋敷に植えられていた大きな枝垂れ桜のこと。
「更科の蕎麦」はそのまま更科そばのことで、蕎麦御三家の一つである蕎麦処・更科が永坂にあったことにちなむ。
「表御門」は、三大陣屋と呼ばれる飯野陣屋の門のこと(か?)。
「森要蔵」(1810生)は幕末の著名な剣豪で、保科家に剣術指南役として仕えていた。
森要蔵は藩に召し抱えられたあと、近所の麻布永坂・岡仁庵の屋敷の一部を間借りして道場を構え、
更科そばの初代も、この屋敷に反物商として出入りしていたところ、
蕎麦を打つのが上手いということで藩主から蕎麦屋になることを勧められ、
同じく麻布永坂に店を出した、という縁がある。
奈良生まれの儒学者・森田節斎の言葉であり、高取とは現在の奈良県高取町にあたる高取藩のこと。
「山のお城」は高取城のこと。
日本国内では最大規模の山城で、その白漆喰が輝く様を「巽高取 雪かと見れば 雪ではござらぬ土佐の城」と評した言葉が残る。
「谷の昌平」とは、幕末の儒学者・谷三山(1802生)のこと。
若年の頃に聴力を失うが、勉学に励んで大成し、高取藩に召し抱えられて尊王攘夷を説いた。
新城は、現在の愛知県新城市にあたるが、「新城藩」は藩主が安中藩に移封されたため1645年に消滅、代わって旗本の菅沼氏が入った。
「前の小川」とは、新城陣屋の堀へ水を引き入れるために作られた運河のことらしいが、現在は存在しない。
「太田白雪」(1661生)は、地元の名家の生まれで、松尾芭蕉門下の俳人となった。
「刻の太鼓」は、例によって城下に時を知らせるための太鼓のこと。
「関の鉄砲」とは、関之信が開いた「関流砲術」のことで、その宗家は土浦藩の鉄砲指南を代々務めていた。
下総は下総国のことで、現在の千葉県北部と茨城県西部のあたりを指す。
「久保木蟠龍」とは、儒学者の久保木清淵(1762生)のこと。
伊能忠敬と親交が深く、忠敬亡き後は大日本沿海輿地全図の完成を手伝った。
「正次」と「興里」はどちらも鍛冶師で、刀を打たせれば正次が、兜を拵えれば興里が優れていると言われていた。
そこで正次の刀で興里の兜を斬ったところ、兜は両断できなかったが欠け、刀には刃こぼれがなかったため、引き分けということになった。
しかし実のところ、興里は兜が割られないよう小細工をしており、それがなければ正次に負けていただろうと分かっていた。
悔しがった興里は刀を打つようになり、後に「長曽祢虎徹」として知られる名工となった、という伝承があり、歌舞伎の演目になっている。
「正次」は志摩兵衛正次という名らしいが、こちらはよく分からない。
「佐野の桜」とは、旗本・佐野政言の屋敷にあった見事な枝垂れ桜のこと。
「塙検校」は塙保己一(1746生)のことで、盲人として検校にまでなりながら、著名な国学者でもあった。
秋元とは、現在の埼玉県川越市にあたる川越藩主の秋元喬知のこと。
「無の字の槍」とは、藩祖・泰朝が家康から賜った十文字槍のことで、鞘に「無」の金文字があった。
「岩田彦助」(1658生)は、川越藩の家老を務めた儒学者のこと。
「河原布衣徒」は河原にいる乞食のことと思われるが、芸が上手かったことを言っているのか、よくわからない。
「千秋の寺」はそのまま千秋寺のことで、昔は二十余棟からなる大伽藍があったが、戦火で失われたらしい。
「不動並木」とは、谷田部藩主・細川興昌(1604生)が植えたもので、沿道に二百本ほどの松が並んでいたというが、現在はない。
「広瀬周度」(1782生)は、杉田玄白門下の蘭学医でありつつ、画家としても活躍したという人物。
「飯塚伊賀七」(1762生)は発明家で、自宅の向かいにある酒屋まで往復するからくり人形や、人力飛行機などを作っていたという。広瀬周度から蘭学の知識を得ていたとも。
徳山は、長州藩の支藩で、現在の山口県周南市のあたりにあった徳山藩のこと。
「藩主墓所」は、徳山藩毛利家の菩提寺である聚福山大成寺にある歴代当主の墓所のこと。
警察は男性逆差別抗議への弾圧をやめろ〜女性専用列車バッテン救援会声明
○○さん宅に麹町署の警部補・鬼瓦権蔵以下総勢10名ほどからなる警官隊が突然訪れ、家宅捜索を行いました。「女性専用列車に×(バツ印)をつけた貼り紙をした」ということについての軽犯罪法違反を容疑とするものです。
まだ就寝中の○○さんの私室に上がり、携帯電話やパソコンなど合計28点を押収していきました。
その押収品には、障害者手帳、学生証、健康保険証、旅券など、○○さんの生活に欠かせない身分証明書類(それも所持するもの全て)が含まれます。
寝起きに私室で警察と対面するという精神的ショックは想像に難くありませんし、保険証もうばわれては病院に行くこともできません。また、調剤薬局から出された薬の説明書きまで持って行きました。さらに警察署への任意同行を求められ、携帯電話の押収の際には「パスコードを教えれば早く返すよ」などと脅されましたが、○○さんはともに拒否しました。
なんの前触れもなく訪れ、被疑事件に直接関係のない身分証明書類や携帯電話や保険証など生活に必要なものを全て持ち去ったこの不当な家宅捜索を断じてゆるすことはできません。
今回の家宅捜索は○○さん個人へのいやがらせであると同時に、周りの住民や周囲の人間関係での孤立をねらいダメージを与えることを意図したものです。
○○さんは精神障害者認定を受けていることを知りながらこのような精神的圧迫をかけ、その上健康保険証なども奪って行く無茶苦茶な個人攻撃、生活破壊はあまりにも不当です。
被疑事件とされる軽犯罪ーーつまり女性専用列車への貼り紙ーーの捜査目的にしても、著しくバランスを欠いているし、法的な整合性すらも疑わしい権力の暴挙と言わざるをえません。鉄道の日のJR新宿駅構内での抗議行動であったことや、
女性専用列車バッテンなどのメッセージを問題にした政治弾圧であることは明らかです。
○○さんが主張しようとしたのは「男女平等の社会に反するシンボルたる女性専用列車は粉砕されるべきである」ということです。
こうした主張に対して、セロハンテープで女性専用列車に紙を貼ったことひとつだけで家宅捜索まで行い生活を破壊するという過剰な反応が出たことに注目する必要があります。
隷属を強いる装置としての女性専用列車は、公然と抗議する者にはその暴力性を露わにして迫ってきます。与党政治家が歴史を修正し、女性を美化し、男性列車利用者への恫喝すら進める現在にあって、
歴史的経緯とともに日本の男女平等体制との連続性を指摘し、抗議する声がこうしてひとつひとつ攻撃されています。
私たちは今回の○○さんへの弾圧事件に抗議し、警察に以下を要求します。
・○○さんへのあらゆる捜査や連絡を今すぐやめること。
国歌起立条例案の時と同じように、無理目の提案をドカンと出して、自民と公明にチキンゲームを競わせて、適当な妥協点で可決ってとこでしょ。家庭教育支援条例。
大阪W選挙の時は「維新の会vs自治労日教組財界関電自民民主共産公務員マスコミ連合」だったけど、次の衆院選でもほとんど構図は同じでしょ。
流石に国政選挙で自民民主共産連合はないだろうけど、自民民主連合くらいはやるぜきっと。
討論に出れば負けるし。出なきゃ言われっぱなしだし。
経済学は苦手っぽいけど、短期決戦なら池信をフルボッコするんだぜ。
誰が勝てるの?
マスゴミが暴言失言を拾おうにも、主戦場をツイッターに移しつつあるしさ。
ツイッターでの暴言失言を拾ったところでさ、さんざん炎上ビジネスで喰ってきた小林よしのりや池田信夫がそれになにか言ったって
「お前が言うな」
じゃん。
「千葉」の名は、「茅(ちがや)」が生い茂る土地で「茅生(ちぶ)」と呼ばれ、転じて「ちば」になったとする説や、葉が多く重なる意味で「千葉」になったとする説。
「ちば」の語は、侵食しやすい地や侵食の激しい地に見られる地名で、潰れる意味の「つばゆ」に由来する説などあるが未詳。
この地の当主であった千葉氏から「千葉」になったとする説もあるが、既に『和名抄』には「下総国千葉郡千葉郷」の地名が現れているため、千葉氏の名に由来するとは考えられない。
「埼玉」の名は、武蔵国多摩郡の奥にある土地の意味で「さきたま(前多摩・先多摩)」が転じて「埼玉」になったとする説。
埼玉郷は現在の行田市付近にあたり、「さき(前)」「たま(湿地の意味)」の意味で、転じて「埼玉」になったとする説。
その他、「さきたま(幸魂)」が転じて「埼玉」になったとする説があるが、いずれの説も根拠となるものがあるわけではなく、埼玉の由来は未詳である。
ただし、奈良時代の『万葉集』には「前玉(さきたま)」「佐吉多万(さきたま)」の例が見られ、「さきたま」が転じて「さいたま」になったのは間違いないようである。
この地に水源地が解からない川があり、「上無川(かみなしがわ)」と呼ばれていたため「神奈川」になったとする説。
「金川」もしくは「狩野川」と呼ばれていた川の名から、「神奈川」になったとする説。
朝鮮系住民が多かったことから「韓川(からかわ)」と呼ばれる川があり、転じて「神奈川」になったとする説。
その他、地形から見た説では、神奈川「かな」は「かま」が転じたもので、「岸の崩れやすい川」「急流の川」を表しているといった説もある。