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はてなキーワード: 挙母とは

2024-08-24

anond:20230311185311

挙母。ころもと読むんだけど、生まれ愛知じゃなかったので読めなかった。

2024-03-30

anond:20240328113256

豊田市トヨタくるまでは挙母だった

2023-07-28

anond:20230726141744

豊田佐吉なら名古屋の人なんじゃなかったか?たしか土地必要だったか挙母町(いまの豊田市)に息子の豊田章一郎が作ったのじゃなかったか

2023-02-02

トヨタ自動車土地名前を変える力がある

本社機能移転すると品川が第二豊田と呼ばれることになる可能性がある

というジョーク

本社あくま豊田市で東京本社移転するって話

本当に名前変わるんだったら文京区が第二豊田区になってるだろ

その理屈で言うと品川は第三豊田

っていうかトヨタって本社東京本社別に存在するって初めて知った

へぇ

トヨタ、東京本社の移転検討 品川駅周辺へ: 日本経済新聞


市名の「豊田(とよた)」は、市内に本社を置くトヨタ自動車と、同社の創業者一族の姓「豊田(とよだ)」に由来する。 濁音で「とよだ」と誤読される事があるが、正しくは清音で「とよた」である

市制を敷いた当初は、「挙母市(ころもし)」という名称であった。しかし、自動車産業が本格的に軌道に乗り始めた1958年商工会議所から市宛てに市名変更の請願書が提出された。理由は、トヨタ自動車本社のある挙母市が全国有数の「クルマのまち」に成長した点と、地名の「挙母」が読みにくいという点であった(「挙母(ころも)」が長野県の「小諸(こもろ)」と混同されることもあった。また、市名変更前に生産されたトヨタ車の銘板にはカタカナで「愛知県コロモ市」と書かれていた)。「挙母」という地名には古代以来の歴史があり愛着を持つ市民も多く、一時は賛成と反対で市を二分するほどの論議が展開されたが、1959年1月名称が「豊田市」に変更された。

なお、日本の市で、明確に私的団体に由来する市名を持つのは、この豊田市と、天理教本部のある宗教都市である天理市奈良県)のみである[注釈 1]。

注釈 1

他に自治体名と、その自治体に立地する企業名が同一な例として、日立市日立製作所が立地、茨城県)や日野市日野自動車が立地、東京都)などがある。いずれも、自治体名の方が先行しており、のちに企業の方が、立地する自治体名を社名に冠したものである。なお、岡山県には、藤田組の名を冠した藤田村及び金光教の名を冠した金光町存在したが、前者は1975年岡山市合併され、後者2006年合併浅口市となり、それぞれ消滅した。

豊田市 - Wikipedia


明確に私的団体に由来する自治体名って海外だと何かあるのかしら

面白そうだけど、ぱっと思いつかないし調べるの大変そうだ

ここらへんかねえ

企業由来町名(地名コレクション)

企業城下町 - Wikipedia

2022-10-22

anond:20221022135327

MS地名に弱い気がするけどころもは挙母になるんか

Googleのは程よい

MS-IMEは「ころも」で「拳母」が変換されるのやめてほしい

愛知県豊田市の昔の名前「ころもし」は、

挙母市」(挙手の挙)であって、

「拳母市」(拳銃の拳)じゃないです。

「拳母」なんて地名はないです。

この誤変換のせいなのか、国土地理院の「国土数値情報 バス停留所データ」で上挙母(うわごろも)が上拳母(うわけんも?)になってます

これに引きずられて地図サイトmapion最近まで「上拳母バス停」(うわけんも)になってました(現在修正済み)

マイクロソフトのせいで日本地名地図が歪められてます

はよ直して!

2022-05-23

世界トヨタはかつて食器作りをしていた

トヨタ自動車日本で有名な自動車メーカーであることは言うまでもないことだが、その前身食器メーカーであったことはあまり知られていない。

豊田市愛知県北部位置しており、瀬戸市岐阜県多治見市と隣接している。

瀬戸市日本六古窯の一つである瀬戸焼で有名であり、東日本では陶磁器全般瀬戸物と呼ぶほどに広く流通していた。

多治見市もまた陶磁器名産地であり、アニメ化もされた「やくならマグカップも」の舞台と言えば説明が早いだろう。

豊田市瀬戸市を中心とした猿投地区古代から窯業が盛んであり、日本の三大古窯の一つである猿投窯跡群を形成していた。

今でこそ豊田市に窯業のイメージはあまりないが、トヨタ自動車製造事業化する以前は、瀬戸市多治見市と同じく窯業を主産業とする町であった。

窯業は縄文時代縄文土器から存在する生活に不可欠な産業で、時代と共に需要は大きくなっていき、明治維新によってさらに窯業製品需要は大きくなる。

西洋建築の勃興による煉瓦(れんが)の需要石油製品化学薬品を保存する甕(かめ)の需要送電線を支える碍子(がいし)の需要である

しかしながら、瀬戸焼はこうした需要に応えることはできなかった。

愛知県内で、最新の窯業技術産業を担ったのは常滑焼だった。

常滑焼もまた日本六古窯の一つだが、愛知県知多半島位置する常滑市伊勢湾に面しているので、海運で日本各地の需要を支えることができたからだ。

一方で、瀬戸常滑に対抗しようと流通力を強化するために鉄道を敷設したが(後の名鉄瀬戸線)時すでに遅く、近代産業から撤退して食器作りを中心とした伝統産業へと回帰していった。

常滑では明治時代伊奈製陶が創業して、INAXLIXIL企業名を変えながら国内の窯業で高いシェアを誇っている。

トイレや洗面器ではTOTOに次いで国内シェア2位で、タイルについては国内どころか世界で1位のシェアである

一方で瀬戸からはそのような大企業は生まれていないことから愛知県内の窯業で近代産業を担ったのは常滑ということが理解できるだろう。

ここでようやくトヨタの話になるが、明治時代豊田市存在しておらず、その前身である挙母町でも近代産業を支えるほどの陶磁器製品生産することはなかった。

そんな時代に、豊田佐吉挙母町で陶工長男として生まれた。

佐吉小学校卒業後に家業食器作りの修行をするが、父が伝統製法固執して経営が伸び悩んでいることに苦心していた。

18歳のころ、家業を立て直す唯一の道は最新技術を学ぶことと考え、東京方面出奔する。

その折で、東京上野で開催していた内国勧業博覧会を何度も見て、最新の窯業技術を目に焼き付けた。

そして東京から帰郷し、当時最新鋭の台車トンネル窯を製造した。

それ以前の窯は、製品を人力で運び入れてから予熱・焼成・冷却の全工程を何日もかけて行った後に、人力で運び出す必要のある代物だった。

種類にもよるが陶磁器焼成に1000~1400℃まで加温する必要がある一方で、人力で搬出入する際はもちろん窯の中に入れる温度まで下げなければならない。

これでは、温度の大幅な上下必要なので時間がかかるだけでなく熱効率も悪い。

一方で台車トンネル窯なら、製品を乗せた台車をレールに沿って動かすので、人が窯の中に入って搬入出する必要はない。

窯は温度分布のついたトンネル状の部屋になっており、台車トンネルを進行することで自動的かつ連続的に予熱・焼成・冷却ができるので、温度管理も簡易だ。

この台車トンネル窯により食器自動的大量生産できるようになったので、佐吉豊田自動食器株式会社設立することとなった。

会社設立後の経営右肩上がりだったそうだが、明治から大正へと年号が変わる頃には製品輸送に悩まされることになった。

歴史的挙母町の物資輸送矢作川の船運が担っており、豊田自動食器食器工場製造した食器類も例外ではなかった。

しかし、知多半島方面への用水供給目的とした愛知用水の開発により、矢作川の水量が減り船運が困難になった。

食器生産量は増える一方で矢作川の船便は縮小していき、代替としての馬車や人力車輸送にも限界があった。

それでも、当時は三河鉄道の敷設中であり(後の名鉄三河線)、開通によって挙母から国鉄刈谷駅鉄道輸送可能となるのは決まっていた。

しかし、それまで待ちきれない佐吉の息子の喜一郎は、自動車を独自製造して食器自動輸送することを考えた。

喜一郎は食器販売の滞りで需要の無くなった台車トンネル窯を分解して自動車部品にした。

そして、窯の燃焼ガスを動力台車運転する機構を応用して、台車に燃焼機関を乗せることで自動車の製造成功した。

さらに、食器自動輸送するだけでなく、自動車を製造販売することにも思い至った。

それだけでなく、喜一郎は将来自動車が大量生産されることを予測して、食器台車に乗せて連続的に生産するように、自動車も台車に乗せて連続的に生産する仕組みを考案した。

これが現在自動生産で主流となっている、ライン生産方式である

このようにして豊田自動食器に設けた自動製作部門分離独立したのが現在トヨタ自動車株式会社であることは、もはや説明するまでも無いだろう。

なお、食器工場第二次世界大戦空襲によって焼失し、喜一郎の経営判断により食器製造部門は切り捨てて自動生産へと舵を切ったので、豊田自動食器株式会社現存していない。

話は少しそれるが、トヨタ自動車前身豊田自動織機である、という誤記ネット上でよく見かける。

もちろん正しくは豊田自動食器なのだが、「食器」と「織機」で読みが同じなので誤変換してしまうのだろう。

それだけならまだいいが、トヨタミシン製造していたというヨタ話(トヨタだけに)も一緒に流布していることもある。

豊田市挙母町)で窯業が盛んだったことは地理的にも考古学上でも明らかなのに、なぜそのような勘違いをしてしまうのだろうか。

仮にトヨタミシン製造していたとして、それがどう自動車製造に繋がるのか、理解に苦しむばかりである

2019-03-08

「過ぎたるものが二つあり」集

家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八

「唐の頭」とは唐物中国製)の珍しい兜のこと。

追記:指摘があったので訂正します。「唐の頭」とは正確にはヤクの毛の兜飾りのことです。武田信玄石田三成が描かれるときに、よく兜に付いているカツラみたいなやつのことですね。珍しくて高価なものではあるのですが、三河武士あいだでやたらと流行っていて、十人いたら七・八人はヤクの毛をつけていたらしいです。というのも、ヤクの毛を大量に積んだ貿易船が難破して三河に漂着したから、棚ぼたで手に入れたんだとか。そら「過ぎたるもの」と言われますわ。

本多平八」とは徳川四天王のひとり、本多忠勝(1548生)のこと。

三方ヶ原の戦いに先立つ一言坂の戦いで、退却する徳川軍の殿を本多忠勝がつとめた。

家康に過ぎたるものが」はその活躍を称賛した落首である

治部少に過ぎたるものが二つあり 島の左近佐和山の城

治部少は石田三成(1560生)のこと。

島左近」(1540生)はもともと筒井氏に仕えていた武将で、一説には当時の三成の禄高の半分である二万石で召し抱えられた。

関ヶ原の戦いで討ち死にしたが、敵の足軽が後々まで悪夢に見たというほどの戦いぶりだったという。

佐和山城」は三成が改修した城で、五層の天守閣を備えた立派なものだったが、中に入ってみると極めて質素な造りだった。

駿河には過ぎたるものが二つあり 富士のお山に原の白隠

富士のお山」とはもちろん富士山のこと。

白隠」とは「臨済宗中興の祖」と言われる高僧・白隠慧鶴(1686生)のこと。

大量の書画を残しており、その作風は荒々しくバランスの崩れたものだが、それが逆に迫力を生んでいるとして現代でも人気が高い。

本所に過ぎたるものが二つあり 津軽屋敷に炭屋塩原

本所とは東京都墨田区地名

津軽屋敷」とは、本所にあった津軽藩の広大な江戸屋敷のこと。

火災ときに版木ではなく太鼓を叩くのが「本所不思議」として知られている。

「炭屋塩原」とは、炭団を改良して一代で豪商となった炭屋の塩原太助(1743生)のこと。

明治期には「塩原多助一代記」として立身出世物語が語られ大人気となった。

亀山に過ぎたるものが二つあり 伊勢屋蘇鉄に京口御門

亀山とは、現在三重県亀山市にあった、東海道亀山宿のこと。

伊勢屋蘇鉄」とは、亀山宿の旅籠伊勢屋の庭にあった蘇鉄の名木のこと。

現在亀山市の文化会館移植されている。

京口御門」とは、亀山宿の西端、つまり京へ向かう道に作られた門のこと。

坂の頂上に建てられ、下から見上げると壮観だという。

岩槻に過ぎたるものが二つあり 児玉南珂と時の鐘

岩槻藩は埼玉県さいたま市にあった小藩。

児玉南珂」(1746生)は高名な儒学者

祖父江島生島事件江島の弟だったため甲斐流罪となり、南柯は甲斐で生まれ岩槻藩士養子となった。

儒学を学んだ南柯は、藩の要職歴任し、隠居後は私塾・遷喬館を立ち上げて子弟教育に努めた。

「時の鐘」とは、城下に時を告げるために1671年に設置された鐘のこと。

改鋳されたもの現在まで残っていて市指定有形文化財となっている。

青山に過ぎたるものが二つあり 鳶の薬缶に原宿山車

青山東京都港区の地名

「鳶の薬缶」とは「薬缶平」と呼ばれた幕末の火消し・平五郎のこと。

本職は鳶職人で、頭がハゲていたので「薬缶」と綽名されたらしい。

原宿山車」とは、青山熊野神社の祭りで使われる山車のこと。

都座に過ぎたるものが二つあり 延寿太夫鶴屋南北

都座とは江戸にあった歌舞伎劇場の一つ。

「延寿太夫」とは、歌舞伎伴奏音楽として発展した浄瑠璃清元節」を創始した、初代・清元延寿太夫(1777生)のこと。

鶴屋南北」とは、「大南北」とも呼ばれる歌舞伎狂言作者、四代目・鶴屋南北(1755生)のこと。

一ノ関に過ぎたるものが二つあり 時の太鼓建部清庵

一関藩は、仙台藩から分知されて成立した小藩で、現在岩手県一関市にあたる。

「時の太鼓」とは、城下に時を告げるための太鼓のことだが、これは幕府から特別許可されたもので、鐘ではなく太鼓が設置されるのは非常に珍しかったらしい。

建部清庵」(1712生)は蘭学を学んだ名医で、『解体新書』で有名な杉田玄白の盟友であった。

八代に過ぎたるものが二つあり 天守屋根乞食の松

これは加藤家が改易されたあとに熊本藩に入った細川忠興の評らしい。

八代城は、熊本県八代市にあった城で、1622年に完成したもの地名から松江城」とも言う。

熊本藩本城はかの熊本城であり、一国に二城あるのは特例である

その気兼ねもあったのか、城は未完成放置されており、天守閣だけは壮麗だったというが、それも1672年落雷消失した。

乞食の松」とは、「浜のお茶屋」とも呼ばれる松浜軒庭園にあった松のことらしいが、詳細は不明

保土ヶ谷に過ぎたるものが二つあり 苅部清兵衛に花見寿司

保土ヶ谷とは、現在神奈川県横浜市にあった、東海道程ヶ谷宿のこと。

「苅部清兵衛」とは、その程ヶ谷宿本陣・名主・問屋を務めた苅部家の当主が名乗る名跡のことで、地元の名士として代々慕われたという。

花見寿司」は程ヶ谷宿名物で、現在でもその伝統を引き継ぐ店があるとか。

挙母には過ぎたる物が二つあり 大手御門に海老名三平

挙母とは、現在愛知県豊田市にあった小藩のこと。

挙母城は、三河尾張美濃信濃遠江伊勢近江が見えるということで七州城とも呼ばれ、「大手御門」とはその立派な正門を指している。

海老名三平」とは、挙母藩の剣術師範役に代々指名された海老名当主名跡で、落語家のことではない。

岸和田に過ぎたるものが二つあり だんじり祭りに千亀利のお城

岸和田とは、現在大阪府岸和田市にあたる岸和田藩のこと。

だんじり祭り」は全国でも有名なお祭りで、1703年から始まったという。

「千亀利のお城」とは岸和田城の別名で、五重の天守に総構えの立派なものだったが、天守閣1827年に焼失している。

鴨方に過ぎたるものが三つあり 拙斎 索我 宮の石橋

鴨方藩は備中の小藩で、現在岡山県浅口市にあたる。

「拙斎」とは、儒学者西山拙斎(1735生)のこと。

松平定信に「昌平坂学問所朱子学を教えるべき」と訴え、これが「寛政異学の禁」の原因となったという。

「索我」とは、絵師田中索我(1742生)のこと。

京都に出て絵を学び、仙洞御所の屏風を描いている。西山拙斎とは親友同士だった。

「宮の石橋」とは、鴨神社参道にある石橋のこと。

川ではなく道に掛かっていて、立体交差となっているのが特徴。

京極に過ぎたるものが三つあり にっかり茶壺に多賀越中

京極とは、讃岐丸亀藩主の京極家のこと。

「にっかり」とは、刀剣乱舞でも有名となった名刀「にっかり青江」のこと。

「茶壺」とは、二代目藩主京極高豊が好んで収集した、陶工野々村仁清の茶壺のこと。

多賀越中」とは、京極家の筆頭家老を代々務めた多賀当主名跡

三原には過ぎたるものが三つあり

三原とは、広島藩の支城である三原城があったところで、現在広島県三原市のこと。

その「過ぎたるもの」とは、まず石高のわりに壮麗な「三原城」。

三原城主であり広島藩筆頭家老であった浅野忠真(1618生)に、徳川家光の娘・月渓院が一目惚れし、駄々をこねて彼の側室に入ったために使用許可された「葵の御紋」。

日光東照宮工事にあたって、難所をわずか十日で仕上げて称賛を集めた家臣「鈴木方衛」の三つだそうな。

安中に過ぎたるものが三つあり

安中とは、現在群馬県安中市にあたる安中藩のこと。

「過ぎたるもの」とは、藩政を改革して名君と謳われた藩主の「板倉勝明(1809生)」。

現在も名所とされる「安中杉並木」。

第六代安中藩主板倉重形のときに作られたという、城下に時を知らせるための「安中様のお太鼓」(一ノ関だけの特別扱いだったはずでは…!?)。

桜田に過ぎたるものが二つあり 火ノ見半鐘に箕輪の重兵衛

桜田東京麻布のあたり。

「火ノ見半鐘」は江戸で最も高いと言われる火の見櫓があったから。

箕輪の重兵衛」は桜田町の名主を代々務めたという家の名跡

永坂に過ぎたるものが二つあり 岡の桜と更科蕎麦

永坂は現在東京麻布永坂町のこと。

「岡の桜」は、御番医師・岡仁庵の屋敷に植えられていた大きな枝垂れ桜のこと。

更科蕎麦」はそのまま更科そばのことで、蕎麦御三家の一つである蕎麦処・更科が永坂にあったことにちなむ。

保科には過ぎたるものが二つあり 表御門に森要蔵

保科とは上総国飯野藩主の保科家のこと。

「表御門」は、三大陣屋と呼ばれる飯野陣屋の門のこと(か?)。

「森要蔵」(1810生)は幕末の著名な剣豪で、保科家に剣術指南役として仕えていた。

この飯野藩保科家の江戸屋敷麻布網代にあった。

森要蔵は藩に召し抱えられたあと、近所の麻布永坂・岡仁庵の屋敷の一部を間借りして道場を構え、

更科そばの初代も、この屋敷に反物商として出入りしていたところ、

蕎麦を打つのが上手いということで藩主から蕎麦屋になることを勧められ、

同じく麻布永坂に店を出した、という縁がある。

高取に過ぎたるものが二つあり 山のお城に谷の昌平

奈良まれ儒学者森田節斎の言葉であり、高取とは現在奈良高取町にあたる高取藩のこと。

「山のお城」は高取城のこと。

日本国内では最大規模の山城で、その白漆喰が輝く様を「巽高取 雪かと見れば 雪ではござらぬ土佐の城」と評した言葉が残る。

「谷の昌平」とは、幕末儒学者・谷三山(1802生)のこと。

若年の頃に聴力を失うが、勉学に励んで大成し、高取藩に召し抱えられて尊王攘夷を説いた。

新城に過ぎたるものが二つあり 前の小川太田白雪

新城は、現在愛知県新城市にあたるが、「新城藩」は藩主安中藩に移封されたため1645年に消滅、代わって旗本の菅沼氏が入った。

「前の小川」とは、新城陣屋の堀へ水を引き入れるために作られた運河のことらしいが、現在存在しない。

太田白雪」(1661生)は、地元名家の生まれで、松尾芭蕉門下の俳人となった。

土浦に過ぎたるものが二つあり 刻の太鼓と関の鉄砲

土浦藩は、現在茨城県土浦市にあたる小藩。

「刻の太鼓」は、例によって城下に時を知らせるための太鼓のこと。

「関の鉄砲」とは、関之信が開いた「関流砲術」のことで、その宗家土浦藩の鉄砲指南を代々務めていた。

下総に過ぎたるものが二つあり 成田不動に久保木蟠龍

下総下総国のことで、現在千葉県北部茨城県西部のあたりを指す。

成田不動」とは、言わずと知れた成田山新勝寺のこと。

久保木蟠龍」とは、儒学者久保木清淵(1762生)のこと。

伊能忠敬と親交が深く、忠敬亡き後は大日本沿海輿地全図の完成を手伝った。

金沢に過ぎたるものが二つあり 刀正次 兜興里

金沢はもちろん現在石川県金沢市、加賀藩金沢城下のこと。

「正次」と「興里」はどちらも鍛冶師で、刀を打たせれば正次が、兜を拵えれば興里が優れていると言われていた。

そこで正次の刀で興里の兜を斬ったところ、兜は両断できなかったが欠け、刀には刃こぼれがなかったため、引き分けということになった。

しかし実のところ、興里は兜が割られないよう小細工をしており、それがなければ正次に負けていただろうと分かっていた。

悔しがった興里は刀を打つようになり、後に「長曽祢虎徹」として知られる名工となった、という伝承があり、歌舞伎演目になっている。

「正次」は志摩兵衛正次という名らしいが、こちらはよく分からない。

番町に過ぎたるものが二つあり 佐野の桜と塙検校

番町とは、東京都千代田区地名

佐野の桜」とは、旗本佐野政言の屋敷にあった見事な枝垂れ桜のこと。

「塙検校」は塙保己一(1746生)のことで、盲人として検校にまでなりながら、著名な国学者でもあった。

秋元に過ぎたるものが二つあり 無の字の槍と岩田彦助

秋元とは、現在埼玉県川越市にあたる川越藩主の秋元喬知のこと。

「無の字の槍」とは、藩祖・泰朝が家康から賜った十文字槍のことで、鞘に「無」の金文字があった。

岩田彦助」(1658生)は、川越藩家老を務めた儒学者のこと。

松山に過ぎたるものが二つあり 河原布衣徒に千秋の寺

松山は、現在愛媛県松山市にあたる伊予松山藩のこと。

河原布衣徒」は河原にいる乞食のことと思われるが、芸が上手かったことを言っているのか、よくわからない。

千秋の寺」はそのまま千秋寺のことで、昔は二十余棟からなる大伽藍があったが、戦火で失われたらしい。

勢州桑名に過ぎたるものが二つあり 銅の鳥居に二朱女郎

勢州伊勢のことで、つまり現在三重県桑名市のこと。

「銅の鳥居」は桑名宗社の青銅製の鳥居のこと。

「二朱女郎」は二朱銀で買える安い遊女のこと。

谷田部に過ぎたるものが三つあり 不動並木広瀬周度 飯塚伊賀

谷田部は現在茨城県つくば市にあった谷田部藩のこと。

「不動並木」とは、谷田部藩主細川興昌(1604生)が植えたもので、沿道に二百本ほどの松が並んでいたというが、現在はない。

広瀬周度」(1782生)は、杉田玄白門下の蘭学医でありつつ、画家としても活躍したという人物

飯塚伊賀七」(1762生)は発明家で、自宅の向かいにある酒屋まで往復するからくり人形や、人力飛行機などを作っていたという。広瀬周度から蘭学知識を得ていたとも。

徳山に過ぎたるものが三つあり 藩主墓所と桜の馬場奈古里人

徳山は、長州藩支藩で、現在山口県周南市のあたりにあった徳山藩のこと。

藩主墓所」は、徳山毛利家の菩提寺である福山大成寺にある歴代当主墓所のこと。

「桜の馬場」とは、初代藩主毛利就隆によって作られた藩士の調馬場のことだが、数百本の桜が植えられて名所となった。

奈古里人」(1671生)は、万役山事件に伴う徳山藩改易の際に活躍し、徳山藩再興運動の中心となった人物

2016-12-17

[]

今日豊田市結構な車出ですこと。

豊田市郷土資料館に行ってきましたわ。

川上から寄贈された土蔵が敷地の対角に二つも移設されています

カマド跡の野外展示はプラスチックカバーに大量の水滴が付着して

砂漠で水を得る方法状態でした。

民俗資料館煙突付きアイロン(炭を入れます)が可愛らしいです。

変わったところでは戦艦の36cm砲弾が置いてありました。

常設展示はとても綺麗に展示されていて、

石器時代から江戸時代までよくまとまった展示物がありました。

酒呑ジュリン遺跡のお名前から同族匂いを感じてしまいました。

展示されている石棒が、火山岩の岩脈を首元に使ったもので、

はじめてみる形状でしたわ。

でも、わたくしのような淑女はじっくり見てはいけませんわ。

自慢の収蔵品らしき大塚古墳の装飾付須恵器は、

壷の上に四つの壷が寄生した形状で、丸みが連続する様子からは、

縄文時代土偶に通じるものを感じました。

同様に豊穣への祈りが込められていたのでしょうか?

江戸時代豊田市は小規模な大名旗本などに分割統治されていたそうです。

その中では大きな尾張藩家老の寺部渡辺家(徳川十六将の渡辺守綱が祖)が一万四千石で、

大名挙母内藤家が一万石(のちに一万五千石)と

地位石高が逆転した関係にあったようで、

近所づきあいが多少ぎくしゃくしたかもしれませんわね。

はてなのみなさんは好きそうですけど。

特別展には昔の輸送道具が置かれていました。

藁や柳、竹という素材から様々な道具を作り出す昔の人の手技には感心しきりです。

わたくしは鰭で箸より重いものを持ったことがありませんので・・・・・・おほほほ。

2013-11-11

ほんとだよ

母体数 が 昔 中った から いいかえた だけだよ

戦前の本みてみ 「母体」「母体数」「母数」 だから

豊田市 の 市街地 のことを むかしから 「挙母町」というからね。

その 因縁 は むかしから 「よくいわれる」

もうすこし いおうか? まあ おれがかかんでも 「本屋で買え」 な。わるいことはいわん。 料理本 しか かわねえ から わからねえんじゃねえの?

 
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