改憲の精神と海道東征
この5月3日、憲法を改正する神奈川県民の会主催の憲法フォーラムにおいて、文芸評論家で都留文科大学教授の新保祐司氏を招いた「日本の伝統と精神を憲法の柱に」と題した講演会がありま
した。氏は、法律論はともかく文芸論(日本人の心情論)として、現憲法は「われらの」憲法ではないと批判し、その改正は、日本の伝統と精神の歴史の縦軸を踏まえたもの、既に土に帰した先祖の歴史に規制されたものでなければならないと強調しました。そして国民に働きかける改正の運動として、ストレートだけではダメで、文化と連動した精神運動が必要であるとし、信時潔の「海道東征」の再評価を進めていきたいとのことでした。
以下、新保氏のお話の要旨です。
●現憲法は「われらの」憲法ではない
氏は昭和28年生まれ、高校は、横浜本牧にある横浜緑が丘高校で、目の前に米軍に接収された長いフェンスで仕切られた米軍将校の高級住宅地が広がり、登下校の折りなどは、昔の大きなアメ車が路地を走り、同世代のアメリカの若者から意味なく罵声を浴びせられたりしたとのことです。
氏の高校時代の昭和44年頃ですら、占領・被占領の差別意識が残っていたと言うのですから、遡った終戦直後の昭和22年の憲法発布の頃は、占領者の差別意識は想像以上のものがあったでしょう。そのような時代と環境の中で、押しつけられた憲法を今だ墨守している日本人とは一体何かと氏は指摘し、これ以上改憲を先送りすれば、日本人に道徳的な頽廃を更にもたらすであろうと言います。
文芸評論家の河上徹太郎は昭和20年10月、戦後の自由は「配給された自由」と言いましたが、GHQにより配給されたのは更には「配給された平和」であり「配給された憲法」でした。
その憲法発布の昭和21年11月3日、発布の式典が執り行われましたが、天皇陛下が来られてから、万歳が起こり、陛下がお帰りになった間は正味1分、散っていく人々は誰一人、連れとの会話で憲法のケの字も口にしなかったとの冷ややかな光景だったとのことです。
翌昭和22年5月3日の施行に当たっては、新憲法施行記念国民歌「われらの日本」が作られました。作詞は土岐善麿、作曲は信時潔です。信時潔と言えば、あの「海ゆかば」の作曲者です。大友家持の歌に曲をつけたもので、戦前は第二国民歌と言われるほど、愛唱されました。
「海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 大君の 辺にこそ死なめ かへり見は せじ」
また信時潔には、昭和15年、皇紀2600年奉祝曲として作られた交声曲(カンタータ)「海道東征」の傑作があります。作詞は北原白秋です。戦後は封印され忘れ去られました。
この「海ゆかば」、「海道東征」の素晴らしさに比べて、「われらが日本」は新保氏によれば全く比較にならないほどの凡作とのことです。信時潔は「占領下」の憲法を記念する曲を作るのに気乗りがしなかったのでしょう。そして忘れ去られました。
現行憲法は、「占領下」という特殊な状況の中で、「われらの憲法」としては受け入れられなかったのです。「われらの憲法」でないことを、国民は黙認してはならないのです。
●「歴史の目」を意識した改正こそ
この5月1日、 超党派の国会議員らでつくる「新憲法制定議員同盟」は東京・永田町の憲政記念館で「新しい憲法を制定する推進大会」を開催しまし、97歳の誕生日を迎える会長の中曽根氏は挨拶で「長い間改正できずに申し訳ない」と述べました。一体誰に対して申し訳ないのか。中曽根氏は「日本の歴史に対して申し訳ない」と言ったのです。正に正論です。日本を取り巻く内外の環境変化に現在の視点で合わせるだけの改憲、すなわち「歴史の横軸」だけの改憲ではダメで、「歴史の縦軸」を踏まえたものでなければ真の改憲にはならないと言うのです。
憲法が国家の根本規範であるからには、環境の変化への適応という便宜主義だけで改憲してはならない。改憲を発議する国会議員、国民投票をする国民には、「既に土に帰したる先祖」、「まだ生まれ来ぬ未来の国民」の利益を考える「歴史の目」が是非とも必要と理解しなければならない、この認識を持って内在的な改憲で圧勝しなければ、日本人本来の憲法にはならない、と新保氏は強調します。
●「配給された憲法」護守は精神的欺瞞、道徳的に問題
「配給された憲法」そのものが問題ですが、それを70年間も押し頂いてきた責任は、国民にあります。今まで改正のチャンスはサンフランシスコ講和条約締結の折りなど3回はありましたが、いずれも看過して来ました。本来は「配給された憲法」という一点でだけでも、改憲されなければならないものであったにも係わらずです。「平和憲法を守れ」と言っている人達と同じように、精神的欺瞞に堕していたと言わざるを得ない。「配給された憲法」を押し頂いているのは、独立の国民として道徳的に問題だと言うのです。
平成25年4月、第一次安倍政権誕生後の世論調査では、改憲賛成は61.3%でしたが、直近の世論調査では、40.3%です。なぜ6割が4割になったのか。なぜサンフランシスコ講和条約の折りに改憲しなかったのか。ここに戦後日本人の精神の問題があります。そこにメスを入れなければならない。
第一次安倍内閣の時、安倍氏は、「美しい国」を著し、戦後レジームからの脱却を唱えましたが、1年で頓挫しました。安倍氏は一体何をしようとしたのか。ここで旧約聖書におけるモーセの「出エジプト記」が思い出されると氏は言います。
紀元前13世紀、エジプトの繁栄の中で、ユダヤ人は奴隷として虐待されていました。それを救うために、モーセは人々をエジプトから連れ出し、約束の地に向かいました。しかし砂漠の中を40年間さまよい歩きます。多くの人がモーセに不満を持ちます。モーセはその都度なだめます。脱落する人は多数に上ります。そして残った根性のある者が、約束の地カナンに居着いたと言うお話です。
さて戦後の話です。繁栄していたエジプトとはアメリカのこと、日本人はアメリカの精神的奴隷としてフェンスに囲まれた戦後レジームの中で生きてきた、安倍氏は「出フェンス」を目指したのですが、しかし戦後レジームの利得者の大反乱に遭います。朝日新聞を初めとするマスコミの安倍叩きで、安倍モーセは1年で潰されたのです。
しかし矢張り日本です。神風が吹いて第二次安倍内閣ができ、物凄く逞しくなった安倍モーセが復権したのです。
安倍モーセは再び人々を約束の地カナンに向かわせます。しかし砂漠が広がります。人々は不満を口にしますが、逞しくなった安倍モーセは、アベノミクスという肉鍋も用意します。支持率4割ではカノンの地にたどり着けないのです。
ここで分かることは、アベノミクスがよいから安倍支持ではないのです。カノンの地に行くこと、それにはフェンスの中で培養された奴隷精神から脱しなければならないと新保氏は言います。それは容易なことではありません。
●外形的担保としての歴史軸
時代の変化、環境の変化に対して、改定しなければならない内容は、環境問題、緊急事態対応など、大体は分かっていることです。状況の変化には対応していかなければなりません。しかしそれに歴史軸を加えることが是非必要であるとして、外形的な担保として新保氏は次の2点を特に強調します。
①歴史的仮名遣いの採用
自民党の憲法草案、産経新聞社の「国民の憲法」は、現代仮名遣いで書かれています。しかし憲法は日本人の精神の根幹を形成するものであるとするなら、歴史的仮名遣いを採用すべきです。憲法が歴史的仮名遣いになっていることで、現代仮名遣いの社会に於いても、正当な歴史軸を振り返ることが出来るようになるのです。
②公布する日は2月11日であるべし
大日本帝国憲法は、明治22年2月11日の紀元節に交付されました。改正憲法が大日本帝国憲法に繋がるものとして、公布日は是非2月11日にすべきです。改憲はその縦軸の意識を持って行う必要があるからです。
●国民運動としての文化運動
改憲への国民運動は、ストレートだけではダメで、国民の心に働きかける文化運動は是非とも必要です。ここで「海道東征」が登場します。
「海道東征」は、北原白秋作詞、信時潔作曲による交声曲(カンタータ)です。昭和15年、皇紀2600年を祝賀する奉祝曲として作られました。白秋晩年の大作、信時の代表作です。海外から祝典曲としてリヒャルト・シュトラウス、ベンジャミン・ブリテンなどが応募した中で、「海道東征」が採用されたのです。
「海道東征」は、日本の神話を元にしたもので、天地開闢、国産み、天孫降臨、神武東征、大和政権の樹立までの物語を扱っています。海道東征とは、九州から畿内への海路を指したものです。
Wikipediaによれば、曲は全体としてロマン派の様式を用いた簡素な書法の中に日本の各種旋法が自然な形でとりこまれ、音による万葉集の趣がある、戦闘的な音楽はわずかに第七曲に見られるだけであり、日本の明るい未来を言祝ぐ信時らしい平明かつ雄大な叙事詩となっている、とのことです。演奏時間は約50分です。
明治維新は、江戸幕府の武家政治を朝廷に返すという「王政復古」として行われました。どこまで復古するかと言えば、神武創業です。従って日本の近代は、神武創業から始まっていると言えます。歴史の縦軸を重視した日本の国柄に相応しい憲法を考える時、神武創業に遡る文化運動として「海道東征」の再評価とその演奏が期待されるのです。国民が「海道東征」は素晴らしい、心にしみると思ったときに、改憲における歴史の縦軸が現実化するのです。
「海道東征」は、皇紀2600年祝典曲であったため、戦後は封印されてしまいました。戦後の演奏はわずか3回、直近では昨平成26年、熊本市で演奏され、そして本年11月20日に、大阪で大阪フィルハーモニー交響楽団のもとで演奏されるとのことです。
新保氏は、神武東征に倣い、熊本、大阪の次は是非東京で、更には復興なった仙台でと夢を馳せました。
●戦後教養の偏りを正せ
上野の東京芸術大学美術館で、竹内久一作の「神武天皇立像」が展示されています。木彫りの3メートルもの巨像です。
竹内久一は明治時代の彫刻家で今はすっかり忘れ去られていますが、明治22年の作で、その明治22年と言えば、2月11日の紀元節に大日本帝国憲法が公布された年です。その時代の気運が象徴されているような作品とのことです。新保氏も像の存在も竹内久一も知らなかった、像は長年東京芸大の倉庫に保管されたままであったとのこと、神武天皇を知らない日本人もいる、ここに戦後民主主義における日本人の教養の偏り、教育界の偏りがあります。この偏りを正す運動もしながら、憲法改正の運動をする必要があると新保氏は言います。
北原白秋は、甘い切ない叙情詩の世界から、晩年になって万葉集、古事記、日本書紀などの古典を学び、自己のボキャブラリーを増やし、自分の精神を洗い直し、その結果として「海道東征」の傑作を生み出しました。
戦後の日本は、アメリカにより洗脳されてきましたが、今こそその洗浄の機会です。日本人とは何か、日本の国柄とは何かを追求したその先にこそ憲法改正があると新保氏は強調しました。
昭和16年に演奏された「海道東征」が下記サイトで紹介されています。
https://www.youtube.com/watch?v=oMWN7bRtznw
以上
(うまし太郎)
した。氏は、法律論はともかく文芸論(日本人の心情論)として、現憲法は「われらの」憲法ではないと批判し、その改正は、日本の伝統と精神の歴史の縦軸を踏まえたもの、既に土に帰した先祖の歴史に規制されたものでなければならないと強調しました。そして国民に働きかける改正の運動として、ストレートだけではダメで、文化と連動した精神運動が必要であるとし、信時潔の「海道東征」の再評価を進めていきたいとのことでした。
以下、新保氏のお話の要旨です。
●現憲法は「われらの」憲法ではない
氏は昭和28年生まれ、高校は、横浜本牧にある横浜緑が丘高校で、目の前に米軍に接収された長いフェンスで仕切られた米軍将校の高級住宅地が広がり、登下校の折りなどは、昔の大きなアメ車が路地を走り、同世代のアメリカの若者から意味なく罵声を浴びせられたりしたとのことです。
氏の高校時代の昭和44年頃ですら、占領・被占領の差別意識が残っていたと言うのですから、遡った終戦直後の昭和22年の憲法発布の頃は、占領者の差別意識は想像以上のものがあったでしょう。そのような時代と環境の中で、押しつけられた憲法を今だ墨守している日本人とは一体何かと氏は指摘し、これ以上改憲を先送りすれば、日本人に道徳的な頽廃を更にもたらすであろうと言います。
文芸評論家の河上徹太郎は昭和20年10月、戦後の自由は「配給された自由」と言いましたが、GHQにより配給されたのは更には「配給された平和」であり「配給された憲法」でした。
その憲法発布の昭和21年11月3日、発布の式典が執り行われましたが、天皇陛下が来られてから、万歳が起こり、陛下がお帰りになった間は正味1分、散っていく人々は誰一人、連れとの会話で憲法のケの字も口にしなかったとの冷ややかな光景だったとのことです。
翌昭和22年5月3日の施行に当たっては、新憲法施行記念国民歌「われらの日本」が作られました。作詞は土岐善麿、作曲は信時潔です。信時潔と言えば、あの「海ゆかば」の作曲者です。大友家持の歌に曲をつけたもので、戦前は第二国民歌と言われるほど、愛唱されました。
「海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 大君の 辺にこそ死なめ かへり見は せじ」
また信時潔には、昭和15年、皇紀2600年奉祝曲として作られた交声曲(カンタータ)「海道東征」の傑作があります。作詞は北原白秋です。戦後は封印され忘れ去られました。
この「海ゆかば」、「海道東征」の素晴らしさに比べて、「われらが日本」は新保氏によれば全く比較にならないほどの凡作とのことです。信時潔は「占領下」の憲法を記念する曲を作るのに気乗りがしなかったのでしょう。そして忘れ去られました。
現行憲法は、「占領下」という特殊な状況の中で、「われらの憲法」としては受け入れられなかったのです。「われらの憲法」でないことを、国民は黙認してはならないのです。
●「歴史の目」を意識した改正こそ
この5月1日、 超党派の国会議員らでつくる「新憲法制定議員同盟」は東京・永田町の憲政記念館で「新しい憲法を制定する推進大会」を開催しまし、97歳の誕生日を迎える会長の中曽根氏は挨拶で「長い間改正できずに申し訳ない」と述べました。一体誰に対して申し訳ないのか。中曽根氏は「日本の歴史に対して申し訳ない」と言ったのです。正に正論です。日本を取り巻く内外の環境変化に現在の視点で合わせるだけの改憲、すなわち「歴史の横軸」だけの改憲ではダメで、「歴史の縦軸」を踏まえたものでなければ真の改憲にはならないと言うのです。
憲法が国家の根本規範であるからには、環境の変化への適応という便宜主義だけで改憲してはならない。改憲を発議する国会議員、国民投票をする国民には、「既に土に帰したる先祖」、「まだ生まれ来ぬ未来の国民」の利益を考える「歴史の目」が是非とも必要と理解しなければならない、この認識を持って内在的な改憲で圧勝しなければ、日本人本来の憲法にはならない、と新保氏は強調します。
●「配給された憲法」護守は精神的欺瞞、道徳的に問題
「配給された憲法」そのものが問題ですが、それを70年間も押し頂いてきた責任は、国民にあります。今まで改正のチャンスはサンフランシスコ講和条約締結の折りなど3回はありましたが、いずれも看過して来ました。本来は「配給された憲法」という一点でだけでも、改憲されなければならないものであったにも係わらずです。「平和憲法を守れ」と言っている人達と同じように、精神的欺瞞に堕していたと言わざるを得ない。「配給された憲法」を押し頂いているのは、独立の国民として道徳的に問題だと言うのです。
平成25年4月、第一次安倍政権誕生後の世論調査では、改憲賛成は61.3%でしたが、直近の世論調査では、40.3%です。なぜ6割が4割になったのか。なぜサンフランシスコ講和条約の折りに改憲しなかったのか。ここに戦後日本人の精神の問題があります。そこにメスを入れなければならない。
第一次安倍内閣の時、安倍氏は、「美しい国」を著し、戦後レジームからの脱却を唱えましたが、1年で頓挫しました。安倍氏は一体何をしようとしたのか。ここで旧約聖書におけるモーセの「出エジプト記」が思い出されると氏は言います。
紀元前13世紀、エジプトの繁栄の中で、ユダヤ人は奴隷として虐待されていました。それを救うために、モーセは人々をエジプトから連れ出し、約束の地に向かいました。しかし砂漠の中を40年間さまよい歩きます。多くの人がモーセに不満を持ちます。モーセはその都度なだめます。脱落する人は多数に上ります。そして残った根性のある者が、約束の地カナンに居着いたと言うお話です。
さて戦後の話です。繁栄していたエジプトとはアメリカのこと、日本人はアメリカの精神的奴隷としてフェンスに囲まれた戦後レジームの中で生きてきた、安倍氏は「出フェンス」を目指したのですが、しかし戦後レジームの利得者の大反乱に遭います。朝日新聞を初めとするマスコミの安倍叩きで、安倍モーセは1年で潰されたのです。
しかし矢張り日本です。神風が吹いて第二次安倍内閣ができ、物凄く逞しくなった安倍モーセが復権したのです。
安倍モーセは再び人々を約束の地カナンに向かわせます。しかし砂漠が広がります。人々は不満を口にしますが、逞しくなった安倍モーセは、アベノミクスという肉鍋も用意します。支持率4割ではカノンの地にたどり着けないのです。
ここで分かることは、アベノミクスがよいから安倍支持ではないのです。カノンの地に行くこと、それにはフェンスの中で培養された奴隷精神から脱しなければならないと新保氏は言います。それは容易なことではありません。
●外形的担保としての歴史軸
時代の変化、環境の変化に対して、改定しなければならない内容は、環境問題、緊急事態対応など、大体は分かっていることです。状況の変化には対応していかなければなりません。しかしそれに歴史軸を加えることが是非必要であるとして、外形的な担保として新保氏は次の2点を特に強調します。
①歴史的仮名遣いの採用
自民党の憲法草案、産経新聞社の「国民の憲法」は、現代仮名遣いで書かれています。しかし憲法は日本人の精神の根幹を形成するものであるとするなら、歴史的仮名遣いを採用すべきです。憲法が歴史的仮名遣いになっていることで、現代仮名遣いの社会に於いても、正当な歴史軸を振り返ることが出来るようになるのです。
②公布する日は2月11日であるべし
大日本帝国憲法は、明治22年2月11日の紀元節に交付されました。改正憲法が大日本帝国憲法に繋がるものとして、公布日は是非2月11日にすべきです。改憲はその縦軸の意識を持って行う必要があるからです。
●国民運動としての文化運動
改憲への国民運動は、ストレートだけではダメで、国民の心に働きかける文化運動は是非とも必要です。ここで「海道東征」が登場します。
「海道東征」は、北原白秋作詞、信時潔作曲による交声曲(カンタータ)です。昭和15年、皇紀2600年を祝賀する奉祝曲として作られました。白秋晩年の大作、信時の代表作です。海外から祝典曲としてリヒャルト・シュトラウス、ベンジャミン・ブリテンなどが応募した中で、「海道東征」が採用されたのです。
「海道東征」は、日本の神話を元にしたもので、天地開闢、国産み、天孫降臨、神武東征、大和政権の樹立までの物語を扱っています。海道東征とは、九州から畿内への海路を指したものです。
Wikipediaによれば、曲は全体としてロマン派の様式を用いた簡素な書法の中に日本の各種旋法が自然な形でとりこまれ、音による万葉集の趣がある、戦闘的な音楽はわずかに第七曲に見られるだけであり、日本の明るい未来を言祝ぐ信時らしい平明かつ雄大な叙事詩となっている、とのことです。演奏時間は約50分です。
明治維新は、江戸幕府の武家政治を朝廷に返すという「王政復古」として行われました。どこまで復古するかと言えば、神武創業です。従って日本の近代は、神武創業から始まっていると言えます。歴史の縦軸を重視した日本の国柄に相応しい憲法を考える時、神武創業に遡る文化運動として「海道東征」の再評価とその演奏が期待されるのです。国民が「海道東征」は素晴らしい、心にしみると思ったときに、改憲における歴史の縦軸が現実化するのです。
「海道東征」は、皇紀2600年祝典曲であったため、戦後は封印されてしまいました。戦後の演奏はわずか3回、直近では昨平成26年、熊本市で演奏され、そして本年11月20日に、大阪で大阪フィルハーモニー交響楽団のもとで演奏されるとのことです。
新保氏は、神武東征に倣い、熊本、大阪の次は是非東京で、更には復興なった仙台でと夢を馳せました。
●戦後教養の偏りを正せ
上野の東京芸術大学美術館で、竹内久一作の「神武天皇立像」が展示されています。木彫りの3メートルもの巨像です。
竹内久一は明治時代の彫刻家で今はすっかり忘れ去られていますが、明治22年の作で、その明治22年と言えば、2月11日の紀元節に大日本帝国憲法が公布された年です。その時代の気運が象徴されているような作品とのことです。新保氏も像の存在も竹内久一も知らなかった、像は長年東京芸大の倉庫に保管されたままであったとのこと、神武天皇を知らない日本人もいる、ここに戦後民主主義における日本人の教養の偏り、教育界の偏りがあります。この偏りを正す運動もしながら、憲法改正の運動をする必要があると新保氏は言います。
北原白秋は、甘い切ない叙情詩の世界から、晩年になって万葉集、古事記、日本書紀などの古典を学び、自己のボキャブラリーを増やし、自分の精神を洗い直し、その結果として「海道東征」の傑作を生み出しました。
戦後の日本は、アメリカにより洗脳されてきましたが、今こそその洗浄の機会です。日本人とは何か、日本の国柄とは何かを追求したその先にこそ憲法改正があると新保氏は強調しました。
昭和16年に演奏された「海道東征」が下記サイトで紹介されています。
https://www.youtube.com/watch?v=oMWN7bRtznw
以上
(うまし太郎)
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