はてなキーワード: ユーモアとは
はてなブックマーク的ユーモアが存在したことないのは何故なのかと思ったけど、まあホッテントリ見ればさもありなんという感じではある
ユーモアも才能か。「ユーモアも才能」って話題には誰も求めてない持論を喜び勇んで開陳し出すんだろうけどね。たったの100文字で
「魔法の国ザンス」は、魔法を使えるのが当たり前の国で生まれた青年が魔法を使えないがゆえに、魔法の国ザンスを追放されるところから始まる物語。
ピアズ・アンソニィ作のファンタジー小説で非常にユーモア色が強く、数十年前にはオススメの海外ファンタジーを挙げていけば最初の方に行き当たる作品だった。
のだが、性的な小ネタが多く、昨今ではコンプラ的にアウトラインにかかっていて大手を振って紹介されることは最早無いだろう。
ある女性キャラは魔法の力により1ヶ月の中で容姿がとても美しい状態から、とても醜い状態へと変化していく。
一方で知能や知性は逆をたどる。
最も美しい状態の時が頭がパッパラパーで、最も醜い状態のときに知性がとてつもなく高くなる。
作品の中で、それは女性の生理を暗喩すると同時に最も美しいときに最も知性が低くなるという状態は様々な想像を起こさせる。
この設定の物語を書いて発表するのは、今の時代には若干の困難を伴うかもしれない。
また別のキャラクターは、極めて美しく性的な魅力に溢れているケンタウロスなのだが、
SEXに対しての道徳心が極めて高く自身に欲情するオスを軽蔑する傾向にある。
また魔法に対する懐疑心がこの世界のケンタウロスは一般的に強いという設定なっている。
しかし、ある事件が起きて、ザンスで一切の魔法が使えなくなるとそのケンタウロスの性的で魅力溢れた容姿は崩れていき、誰からも注目されない存在となる。
実はそのケンタウロス自身は知らないうちに「魅了」の魔法を常時発動していたのだが、それを失った途端にそれまでの特権的な扱いを他者から受けなくなる。
その経験を通じて、そのケンタウロスは魔法や自身の性的魅力が溢れていることに対する考え方を許容する方向へと変えるようになる。
と言った具合に、どうにも今の世の中ではキャンセルされそうな内容を多分に含んでいるのだ。
ハヤカワの古いFTシリーズは同作品も含めて、電子書籍化から完全に置いてけぼりにされており、書籍の方も入手が困難状態が続いている。
チック・リット(英語: chick lit)は大衆小説のジャンルで、「個々の主人公の試練と苦難に焦点を当てた、ヒロイン中心の物語で構成されている」もののことを指す[1]。このジャンルは多くの場合、現代における「女性らしさ」の問題(恋愛関係や女性の友情、職場での問題など)をユーモラスで軽快な方法で取り扱っている[2]。
このジャンルが始まった当初、チック・リットの主人公は「独身、白人、異性愛者、イギリス人かアメリカ人の女性、20代後半から30代前半、大都市圏在住」である傾向が高かった[1]。このジャンルは1990年代後半に人気が出てきて、チック・リットの小説がベストセラーとなったり、チック・リットに特化した出版社ができたりした[3]。チック・リットの批評家の間では、チック・リットのジャンルの始まりはイギリスの作家キャサリン・アリオットのThe Old Girl Network(1994年)であり、チック・リットの「原典」として広く知られているヘレン・フィールディングの『ブリジット・ジョーンズの日記』(1996年)は、これにインスピレーションを受けたものであるということで合意している[4]。
"chick"は英語で「雛鳥」を意味し、転じてアメリカのスラングで「若い女性」を意味する。"lit"は"literature"(文学)の短縮形である。チック・リットの研究者は、この用語の初出は、1995年のクリス・マッツァ(英語版)とジェフリー・デシェルが編集したアンソロジーChick Lit: Postfeminist Fictionであるとしている。これは、マッツァとデシェルの「ポスト・フェミニストの作品を」という呼びかけに応えた22の短編小説を収録したものである[5]。1990年代半ばには、女性作家が女性読者のために書いたフィクションを指す言葉として、様々なメディアでこの言葉が使われるようになった。
この用語を、この用語が生まれる以前の同様の女性向け作品についても適用して、"chick lit in corsets"(コルセットを着たチック・リット)と呼ぶことがある[6]。また、このジャンルの要素と青春物語を組み合わせた、若い読者向けのチック・リットのことを"chick lit jr."(チック・リット・ジュニア)という[6]。
論争
チック・リットは、読者の間では非常に人気となったが、批評家の大半はこのジャンルを支持しなかった。『ニューヨーク・タイムズ』紙の書評において、アレックス・クジンスキー(英語版)はフィールディングの小説を特に非難し、「ブリジットは男に狂わされた無力感に浸っている哀れな姿であり、彼女の愚かさは言い逃れできない」と書いた[7]。作家のドリス・レッシングはこのジャンルを「すぐに忘れられてしまう」とし、ベリル・ベインブリッジ(英語版)は「泡のようなもの」(a froth sort of thing)と呼んだ[8]。編集者エリザベス・メリック(英語版)は、2005年にアンソロジーThis Is Not Chick Lit(これはチック・リットではない)を出版した[9]。メリックはこの本の紹介文の中で「チック・リットのお決まりのパターンは我々の感覚を麻痺させる」と主張した[9]。編集者ローレン・バラッツ=ログステッドは、メリックの本に対抗して2006年にThis Is Chick Lit(これがチック・リットだ)[10]を出版し、このプロジェクトは「怒りから生まれたものである」と述べた[10]。
このジャンルの作家たちは、その弁護に乗り出した。チック・リット作家のジェニー・コルガン(英語版)は、すぐさまレッシングとベインブリッジに反撃した[11]。『グッド・イン・ベッド(英語版)』(2001年)や『イン・ハー・シューズ(英語版)』(2002年)など数多くのチック・リット小説を著したジェニファー・ウェイナー(英語版)は、常にチック・リットを擁護した[12]。『スレート』誌2013年5月22日号では、『ウーマン・アップステアーズ(英語版)』(2013年)の著者である小説家クレア・メスード(英語版)が、女性の小説と主人公の好感度について語ったコメントに対する、ウェイナーの記事を掲載した[13]。ウェイナーはその記事の中で、商業小説、特に女性の商業小説に存在する偏見に疑問を投げかけた。ウェイナーは、『ニューヨーク・タイムズ』紙に"The Snobs and Me"を執筆するなど、チック・リットに対する人々の認識に挑戦し続けている[14]。この記事では、自分の作品を軽視する文化的風土の中で、自分の作品を信じようとする彼女の個人的な葛藤が綴られている[15]。
ダイアン・シップリー[16]などの他の作家もこのジャンルを擁護している。特に、フェミニストのグロリア・スタイネムがウェイナーの意見に共鳴し、女性の文学に対する偏見に注目しながら、自分たちがこの言葉を使っていること、そしてこの言葉が女性や女性の小説について何を語っているのかを問うよう人々に求めた[17]。
その後の状況
出版社がこのジャンルをプッシュし続けているのは、売上が高い状態が続いているからである。作品の市場性を高めようとして、この用語の様々な派生語が造語されてきた。
『リファインリー29(英語版)』のライター、ローレン・ルヴァイン(Lauren Le Vine)は、2016年3月に"The Chick-Lit Books That Won't Destroy The Feminist Inside You"(あなたの中のフェミニストを破壊しないチック・リット本)と題して、女性が女性のために書いた8冊の本を紹介した[18]。ルヴァインは、女性を題材にした小説の文学的伝統には、時に、買い物に夢中になって夫とはぐれた女性が夫を探すという物語が含まれており、このような本はフェミニストの価値観と矛盾しているということを認識している。しかし、ルヴァインはヘレン・フィールディングの1996年の小説『ブリジット・ジョーンズの日記』を紹介する際に、「一人の女性が個人的な満足感(それは彼女にとって愛、キャリアの成功、身体の受容を意味する)を見つけようとすることにのみ焦点を当てた本であり、それはフェミニズム(どの波に乗っても)とは何かということである」と書いている[18]。
『パブリッシャーズ・ウィークリー』誌の編集者であるサラ・ネルソン(英語版)は、2008年に、チック・リットというジャンルの中で考えられるものの定義が、より完成度が高く、「成長した」ものになってきていると示唆している[19]。
2000年、『シドニー・モーニング・ヘラルド』は、女性読者を対象とした小説の新しいトレンドについて、次のように述べた。「ポスト・トーリー、ポスト・グランジの軽やかさの精神が、雑誌を読む女性やテレビを見る女性たちの間に広まっていった。この小説は、『チック小説』(chick fiction)または"chicfic"いう『出版現象』の誕生であり、主題、パッケージ、マーケティングによってすべてが統一されている。キャンディ・ブライトで、ピンクと蛍光色の重い表紙、『キャンディ・ブライト』なタイトルにより、簡単に消化しやすく、良い笑いを提供することをほのめかしている。そのような本は、雑誌の記事、小説や小説化されたもの、テレビと、自宅で一晩で消化できる快適な食べ物のハイブリッドとして市場に位置づけられている[20]。」
チック・リットは一般的に女性が主人公であり、プロットの中でその女性らしさが重要なテーマとなっている。ほとんどの場合で現代世界を舞台としているが、歴史上の時代を舞台とした作品もある。扱われている問題は、しばしば消費主義よりも深刻なものである。例えば、マリアン・キーズ(英語版)の『子持ちクレアの逆転勝利』(Watermelon)は、現代世界で母親であることに悩む主人公を描いている。宗教的なチック・リットの市場も成長している。他のタイプの大衆小説と同様に、著者や出版社は多くのニッチ市場をターゲットにしている[3]。主人公の民族、年齢、社会的地位、配偶者の地位、キャリア、宗教などは様々である。goodreadsでは、チック・リットは恋愛小説のサブジャンルとしては扱われていない。それは、チック・リットは、プロットに恋愛の要素が含まれていることもあるが、恋愛関係と同じくらいにヒロインの家族や友人との関係が重要であることが多いからである[21]。チック・リットのやや厳しいジャンルルールにより、チック・リットの作家が異なるジャンルに進出するのは難しくなっているが、チック・リットは歴史小説に結びつくこともできる。
女性作家の中には、自分の作品が「チック・リット」というレッテルを貼られるのを避けるために行動している人もいる。例えば、『ガーディアン』紙の2010年の記事によれば、ユーモア作家のD・J・コンネルは、自身の作品がチック・リットとされるのを避けるために、ペンネームを「ダイアン」から「D・J」というイニシャル表記に変更した[22]。コンネルは、女性名でユーモアを書くことは、自身の作品を危険にさらすことになり、チック・リットのレッテルが貼られた場合、その作品は真剣に受け取られないだろうと言った。別の例では、作家のルース・ギリガン(英語版)は、自身の作品がチック・リットとみなされることで、どのように一般の人々、エージェント、出版社から軽蔑されたかについて書いている[23]。ギリガンは、大学のキャンパスでの性的暴行についての小説で新しいスタイルを試したが、出版社は明るい花のような表紙を提示し、ギリガンはこれを失礼だと感じた。
昔々、ある寒い大晦日の夜のことでした。街は雪に包まれ、暖かい明かりが家々の窓からこぼれていました。
人々は家族と一緒に年越しを祝う準備で忙しく、足早に通り過ぎていきます。
その喧騒の中、一人の小さな少女が立っていました。名前はリリ。ぼろぼろの服をまとい、裸足で雪の上に立っています。手には何も持っていません。代わりに、彼女自身が「売り物」でした。
「マッチョ……マッチョはいりませんか……?」リリの声は小さく、震えていました。でもその声とは裏腹に、彼女の体は違いました。まだ幼い顔立ちなのに、肩は広く、腕は太く、腹筋は割れ、脚は鋼のように引き締まっています。毎日父親に叩かれながら、雪の中でトレーニングを強いられていたからです。父親は「マッチョな娘を売れば金になる」と言い、彼女を「マッチョ売りの少女」として街に立たせていたのです。
マッチ売りの少女ではありません。マッチョ売りの少女です。人々はちらりとリリを見て、笑い声を上げたり、眉をひそめたりして通り過ぎます。
「かわいそうに……いや、ちょっと怖いな」
「大晦日にそんなもん誰が買うんだよ」誰も声をかけてくれません。
リリのお腹は空き、足は雪で真っ赤に腫れ、冷たさで感覚がなくなっていました。家に帰れば父親が怒り狂ってさらに厳しいトレーニングを課すでしょう。それでも、ここにいなければ生きていけない。
リリは震える手で自分の腕をさすりました。硬い筋肉の感触が、少しだけ温かさを感じさせてくれます。
「マッチョ……いりませんか……一晩だけでも……」
ふと、彼女は目を閉じました。寒さで頭がぼんやりして、幻のような光景が見え始めました。
一本目の「マッチョの火」——彼女が軽く力を込めると、腕の血管が浮き上がり、熱い血流が体を巡るイメージ。目の前に大きな暖炉が現れ、父親が優しく笑って「よく頑張ったな」と頭を撫でてくれます。温かいスープの匂いが漂い、柔らかいベッドが待っています。
でも、力が緩むと、幻は消えました。ただの雪と寒さだけ。
二本目の「マッチョの火」——今度は脚に力を入れ、スクワットのポーズを取ります。太ももの筋肉が盛り上がり、地面を強く踏みしめます。すると、幻の中でリリは大きな舞台に立っていました。観客が拍手喝采し、「すごい筋肉だ!」「君は強い!」と声を上げています。彼女はもう貧しくなく、みんなに尊敬されるマッチョの少女として輝いています。
それもまた、消えました。
三本目、四本目……リリは次々と自分の筋肉に力を込め、さまざまな幻を見ました。豪華なクリスマスディナー。優しいお母さん(もうこの世にいない)。友達と一緒に笑う学校生活。そして、最後に——
祖母の姿。リリがまだ小さかった頃、生きていた祖母が、彼女を抱きしめて言った言葉。
「リリは強い子だね。でも、強さは自分で守るもの。誰かに売るものじゃないよ」
その幻の中で、祖母はリリの手を握り、一緒に雪の街を歩き出しました。寒さはなく、痛みもなく、ただ温かさだけがありました。
「もう大丈夫。来なさい、リリ」リリは微笑みました。最後の力を振り絞って、全身の筋肉を最大限に緊張させました。体中が熱くなり、まるで巨大なマッチョの炎が彼女を包み込むようでした。
次の朝、雪が止んだ大晦日の朝。
人々は角で倒れている少女を見つけました。体は異様に発達した筋肉で覆われ、凍えながらも、穏やかな笑顔を浮かべていました。まるで、最高の「マッチョ」を自分自身に売ったかのように。
彼女の体は冷たかったけれど、どこか満足げで、力強く見えました。
そして、誰かがそっと呟きました。
「マッチョ売りの少女……結局、自分で一番強いマッチョを買ったんだな」
雪は静かに降り続き、街は新しい年を迎えました。
——おしまい。
(アンデルセンの『マッチ売りの少女』をベースに、ユーモアと少しの皮肉を交えて書き直した短編です。マッチョパワー全開で頑張る少女の、切なくもたくましいお話になりました。)
また、不謹慎・不穏当な表現であっても、ユーモアを含む表現であったり、一時的な感情に基づく表現である場合は、問題としておりません。
しかし、実際に投稿が専ら下記のようなものであったり、下記に相当する投稿を一時的ではなく継続的かつ頻繁に行っている場合、論評の範疇を超えた他者への攻撃や差別表現を目的とした利用とみなし、規約・ガイドライン違反としてコメントの公開を停止しています。
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パヨクやらフェミやらを長年継続的に連呼してるネトウヨ・アンチフェミは「論評の範疇を超えた他者への攻撃や差別表現を目的とした利用」とはみなされず、「ユーモアを含む表現であったり、一時的な感情に基づく表現」と解されるらしいぞ。
『猫のゆりかご』は、
👉 カート・ヴォネガットの代表作のひとつです。
⸻
どんな話?
ざっくりいうと:
👉「世界を簡単に終わらせてしまう物質」と、それを巡る人間のバカさを描いた物語
• その過程で「アイス・ナイン」という危険すぎる物質に関わる
⸻
• 人間の愚かさ
⸻
「猫のゆりかご(Cat’s Cradle)」は、糸で作る遊びのことなんですが、
👉実際には猫もいないし、ゆりかごでもない
👉なのに人は「意味がある形」だと思い込む
になっています。
———
『猫のゆりかご』の文脈での “smart aleck” は、ただの「生意気なやつ」より少し深いニュアンスになります。
⸻
この小説では、
というニュアンスが強いです。
⸻
■ なぜそうなるのか
作者の カート・ヴォネガット は、
• 人間の愚かさ
• 「意味なんてないのに分かった気になる態度」
なので “smart aleck” は👇
👉「わかった気になってるけど、結局は浅い人間」
⸻
この作品だと例えば:
⸻
■ 一言でいうと
普通の訳
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👉「お前もsmart aleckじゃないの?」
って突きつけてくる感じがあるんですよ。
——
では、『猫のゆりかご』の登場人物ごとに、“smart aleck” 的な言動や性格を整理して解説します。
⸻
1. ジョン(語り手)
• 特徴:作家でナレーター。皮肉屋で、世界や人間の愚かさを冷めた目で語る。
• “smart aleck” な点:
• 「人間は愚かで無意味なことばかりしている」と分かった気でコメント。
• 読者に向かって皮肉を飛ばす場面が多く、知ったかぶりの口調。
• 例:ホーニッカーの科学者としての行動を観察しながら、「この愚か者たちめ」と語る場面。
⸻
2. フェリックス・ホーニッカー
• 特徴:原爆開発に関わった天才科学者。無責任で自己中心的。
• “smart aleck” な点:
• 自分の科学知識に絶対の自信を持ち、他人の意見を全く聞かない。
• 「自分は世界を理解している」と思い込み、危険なアイス・ナインを作る。
• ポイント:知識はあるが、倫理や責任感が欠けており、まさに「知ったかぶりで危険な人」。
⸻
3. ニュート(ホーニッカーの子ども)
• “smart aleck” な点:
• 冷静で分かっている風に振る舞う。
• ポイント:表面的にはおとなしいが、ジョークや皮肉で賢ぶる典型的“smart aleck”。
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4. ボコノン
• 特徴:架空宗教「ボコノン教」の創始者。人生の不条理を説く。
• “smart aleck” な点:
• しかし、その言葉は真実というより、皮肉とユーモアが混ざった哲学。
• ポイント:世界の本質を理解しているように見えるが、実際は読者に皮肉を伝える装置。
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5. フランク・ホーニッカー & アンジェラ・ホーニッカー
• “smart aleck” な点:
• アンジェラ:理屈っぽく家族や状況をコントロールしようとする。
• ポイント:分かっている風に振る舞うが、結局は自己中心的で浅い判断しかできない。
⸻
■ まとめ
『猫のゆりかご』では、“smart aleck” は単なる生意気キャラではなく:
• 分かった気で世界を語る
• でも実際は無力か愚かさに巻き込まれる
物語全体の皮肉・ブラックユーモアの象徴として機能しているのです。
——
『猫のゆりかご』のあらすじを、流れが分かるようにシンプルにまとめます。
作者は カート・ヴォネガット です。
⸻
あらすじ(ざっくり)
👉 フェリックス・ホーニッカー
⸻
■ 調査でわかってくること
ホーニッカーは天才だけど、
⸻
ホーニッカーの死後、
• フランク
• アンジェラ
• ニュート
の3人の子どもが、その「アイス・ナイン」をそれぞれ持ってしまっています。
⸻
■ 舞台は謎の国へ
👉サン・ロレンゾ
に行くことになります。
そこでは:
👉 ボコノン教
が人々の心の支えになっている
⸻
■ そして起きる最悪の出来事
👉水が次々と凍り始める
結果的に、
というとんでもない展開になります。
⸻
生き残った人々は、
の中で、どう生きるかを考えることになります。
⸻
これは単なる終末SFではなくて👇
• 科学は本当に正しいのか?
https://togetter.com/li/2682884
実際に「海外在住」を名乗りながら日本をビシバシ批判していたアカウントは、言語の壁が取り払われた影響で投稿スタイルを変えたか、減らしたか、そもそも目立たなくなった可能性が高い。
それでも、検索でヒットした中で明確に該当するニュアンスのものを中心に、該当しそうなアカウントを挙げます(重複や実在の海外在住者も混ざるため「自称」度合いは各自判断してください)。現在(2026年4月6日時点)のつぶやき傾向も併せてまとめます。
(海外脱出ネオニート / Tomo-Taro) ← 最も典型例過去のニュアンス: バイオに「シンガポール在住」「日本が劣っている点をビシバシ指摘」と明記。3月〜4月上旬に「海外に出て日本に絶望した点」リスト(人種差別・児童ポルノ・語学力・女性人権など)や「日本はカルト村」など、日本批判全開の投稿を連発。高エンゲージメント。
現在のつぶやき(4月5日以降): まだ完全に静かにはなっていないが、投稿頻度はやや控えめ。4月5日には「税率6割なのにゴミ箱もない」「相続税で全部持っていく」「日本人スタジアムでゴミ拾い」などの日本批判を継続。ただし、以前より「海外比較」を直接的に連発するスタイルは薄れ、歴史ネタや個別愚痴寄りになっている。
@10dondone(マレーシア在住): 過去に日本政治・社会保障・増税を海外移住視点で批判。現在のつぶやき:政治・経済ネタ中心だが、4月上旬以降は高市早苗批判などは減り、移住Tips寄りにシフト。
@foodworkonline(海外在住オンライン秘書): 「日本がすごすぎる」「グローバルスタンダードより日本効率良い」とむしろ日本褒め寄り。現在のつぶやき:在宅ワーク・食品業界ネタ中心で、比較投稿ほぼなし。
@cc63387(海外在住保守): 中国批判がメインで日本下げは少ない。現在のつぶやき:中国教育・ウイグル問題など海外ネタ継続中。
@ToshiOkuzaki(オーストラリア・メルボルン在住): 「海外在住者が日本批判するのは滑稽」とむしろ日本擁護派。現在のつぶやき:一時帰国時の逆カルチャーショックをポジティブに語る投稿継続。
@MasayoshiOgino(ニュージーランド在住): 時間差や日常ネタ中心で日本批判なし。現在のつぶやき:夢や言葉のポジティブ投稿。
@5ducks5(米国在住): 海外生活をユーモアで切り取るが、日本を褒める投稿が多い。現在のつぶやき:米国人の日本旅行談など好印象ネタ。
@chawantakegohan: 自身は在住主張せず、メタで「海外在住で日本遅れてる派が消えた」と指摘。現在のつぶやき:現象を嘆く投稿。
@eigonodo: 「出羽守オワタ」と新機能で批判しにくくなったと指摘。現在のつぶやき:英語学習関連。
@SonohennoKuma: 「出羽守」の意味を解説するメタ投稿。現在のつぶやき:オリエンタリズム批判関連。
X上で「自称海外住みアカウントが急に減った」「架空物語勢がいなくなって寂しいw」という声が爆発的に増えています。4月5〜6日の投稿がほとんどこれ。
理由(コミュニティの指摘): イーロンの言語壁撤廃(翻訳機能強化?)で
英語圏ユーザーや本物の海外在住者が簡単に反論・デバンクできるようになったため
「海外では痴漢ない」「アダルトポスターない」みたいな定番ネタが通用しにくくなった。
今つぶやいていること: 該当タイプのアカウントは、日本下げ比較投稿を控えめにしているか、話題を歴史・税金・個別愚痴にずらしているか
単に投稿頻度を落としている。完全に沈黙したわけではなく、「静かになった」と感じるほど目立たなくなった、というのが実情です。
結論から言うと、明確に10人ピックアップするのは難しいです。
理由:「自称海外住み(出羽守)」と呼ばれるタイプは、特定の有名アカウントが固定でいるわけではなく、低フォロワー層や匿名寄りのアカウントが多い。
検索結果のほとんどが「最近あいつら静かになったよね」というメタ議論(あなたが共有したポストと同類のもの)で、個別の「犯人」アカウントがリストアップされるケースは極めて少ない。
匿名の日記を、フルネーム開示するサイトで共有するのって、振り幅が大き過ぎるんだよ
もう無くしてもいいのでは?
誰も使ってないだろうもはや
2020年初頭、小説『プロジェクト・ヘイル・メアリー』の出版前、発売日すら未定だった時期から、本作の映画化は進められていた。その第一歩となったのは、原作者のアンディ・ウィアーが俳優ライアン・ゴズリングに出版前の原稿を送ったことだ。その意図は謙虚だが、明確だった。映画の主演としてだけでなく、プロデューサーとしての参加も検討してほしい、というメッセージである。
ウィアーは、近未来を舞台に緻密な科学描写と感情を巧みに結びつける作風で評価を築いていた。2011年のベストセラー「火星の人」では、複雑な難問が立ちはだかっても、それを解く人物が魅力的であれば、観客が付いてくることを証明し、2015年に『オデッセイ』として映画化された際には、より大きなスケールでその方程式を確かなものにした。
しかし「プロジェクト・ヘイル・メアリー」は、「火星の人」とは異なり、地球から遠く離れた宇宙で孤立する男から始まり、しかも記憶喪失、やがてはるかに大きな物語へと広がっていくというものだった。原稿を受け取った、ゴズリングは一気に読み切った。
「本当に壮大な旅なんです」とゴズリングは語る。「それに、ライランド・グレースは少しもストイックじゃない。伝統的な意味で勇敢でもないし、自分がヒーローだなんて幻想も抱いていない。でも彼は、挑み続けるんです」
ウィアーが原稿を送ったタイミングは偶然ではなかった。世界がコロナ禍に突入し、映画の撮影が各地で停止、映画館がクローズしていった時期と重なる。映画興行ビジネスは崩壊し、大規模な映画製作の未来には暗雲が立ち込めていた。
「人生でいちばん壮大な映画体験を作るチャンスが来たと思ったら、映画館が閉まっていた」とゴズリングは言う。だが、そんな試練の最中に「プロジェクト・ヘイル・メアリー」と彼が出会ったことは、どこか不思議な巡り合わせを感じさせるものがあった。「この作品は太陽が死にかけている話ですが、同時に深く希望に満ちている。私たちには“不可能な問題”を解決する力がある、諦めなければ奇跡は起こりうると、思わせてくれるものなんです」
「私の売り文句はこうです。“宇宙を揺るがすバディ・ムービー”」
このアイデアだけでも『プロジェクト・ヘイル・メアリー』が従来のサバイバル物語と異なる点が示唆されている。最終的に物語を動かすのは協力しあうことであり、「ひとりでは達成できない」という真理なのだ。
ゴズリングは、このアイデアを映画化したいと即座に反応した、そして作品のテーマと同じく、それには“チーム”が必要だとわかっていた。
「最初に思ったのは、優れたプロデューサーに入ってもらわないと、ということでした。これは不可能じゃないかと思っていた」とゴズリングは言う。「最高の人材が必要だったんだ」
彼が最初に電話したのが、エイミー・パスカルだった。映画スタジオ ソニー・ピクチャーズのトップから転身し、『ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書』、『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語』、『スパイダーマン:スパイダーバース』など幅広い作品を手がけてきたアカデミー賞ノミネート経験のある映画プロデューサーだ。パスカルもまた、ウィアーの原稿をすでに読んでおり、ゴズリングと同じものを感じていた。
「グレースは、私たちと同じごく普通の人。スーパーヒーローでも宇宙飛行士でもなく、凡人です」とパスカルは言う。「でも時間をかけて、途方もない犠牲を払える人間になっていく。その感情の旅、変化こそが柱なのです」
パスカルにとって、SFであることは問題ではなかった。ウィアー作品らしく、ジャンルの外見は、もっと大きく普遍的なハートの部分を美しく際立たせるためのものだったのだ。
「確かにSFです」とパスカルは言う。「でも“信頼”の話でもある。人への信頼、協力しあうことへの信頼。今は皆がお互いを怖がっている時代です。誰もが他者を信じない。誰も人の話も聞こうとしない。各々が自分の部屋に閉じこもって、自分の信じたいものだけ信じ、違う新聞を読み、他者に心を開こうとしない。この映画は“聞くこと”を求める。誰か別の言語を学ばなければならない。相手がどこから来たのか理解しなければ、世界は救えない」
パスカルが正式にプロデューサーとして加わり、企画は形になり始めた。次に必要だったのは、ユーモアと危険、ぬくもりとスケール、その緻密なバランスを取りつつ、エモーショナルな魂を見失わない映画作家を見つけることだった。
「誰がこの映画を引き継ぐべきか、議論の余地はありませんでした」とパスカルは言う。「フィル・ロードとクリストファー・ミラーしかいなかった」
「私たちは、物事が“不可能”に見える時代を生きています。けれどこの映画は、想像力と善意を持って人が集まったときに何が可能になるのかを描くのです」とロードは言う。
プロデューサー、主演俳優、監督が正式に揃い、『プロジェクト・ヘイル・メアリー』は原稿から撮影へ向かうチームが発足した。作品で描かれるミッションと同様に、このチームもあらゆるレベルで協力し合うことで、困難を乗り越えていくことになる──。
TOKYO FMの長寿番組『NISSAN あ・安部礼司 〜BEYOND THE AVERAGE〜』。2006年に産声をあげたこの物語は、ごくごく普通のサラリーマン・安部礼司を主人公に、日本の「平均的」な日常を20年にわたり描き続けてきました。
2006年4月、番組はスタートしました。主人公の安部礼司は、神保町の「大日本ジェネラル」に勤める、至って平凡な30代。物語のコンセプトは「平均的なサラリーマンの日常」であり、昭和の流行歌をBGMに、仕事の悩みや恋模様をユーモアたっぷりに描きました。
当初は独身だった安部くんですが、同僚の倉橋優との不器用な恋がリスナーの心を掴みます。数々のすれ違いを経て、二人は日本武道館でのイベントや公開生放送を通じて絆を深め、ついに結婚。この「等身大の幸せ」が、多くのサラリーマンの希望となりました。
結婚後、物語は安部家の家庭生活へとシフトしていきます。長男・永太、長女・蘭が誕生し、安部くんは「イクメン」の壁にぶつかりながらも成長していきました。
一方で、会社では後輩の飯野平太が「イマドキの新人類」から頼れる中堅へと脱皮し、上司の刈谷勇(安部くんの永遠のライバルであり親友)は、破天荒な言動で常に物語をかき乱しました。彼らの掛け合いは、単なるコメディを超え、変わりゆく日本の労働環境や家族のあり方を映し出す鏡となっていきました。
2010年代後半から2020年代にかけて、物語は大きな転換期を迎えます。働き方改革、リモートワークの普及、そしてパンデミック。大日本ジェネラルの面々も、時代の荒波に揉まれました。
しかし、どんなにテクノロジーが進化し、働き方が変わっても、この番組が描き続けたのは「人と人との温度感」です。日曜日の夕方、黄昏時に流れる80's〜90'sのヒット曲とともに、失敗しても明日からまた頑張ろうと思える「普通」の尊さを伝え続けました。
20年という月日は、安部くんを「平均的な30代」から「ベテランの50代」へと変えました。かつての若手社員は今や管理職の悩みを抱え、子供たちは成長し、社会は激変しました。
それでも、安部礼司は今も神保町で、少し情けなくて、でも最高に温かい日常を積み重ねています。この物語は、リスナー一人ひとりの人生と並走してきた「20年間の戦友」のような存在なのです。
先月はブゴニアを、今月はプロジェクト・ヘイル・メアリーを立川の映画館で観てきた。
自分はSF的な、科学的なものよりも物語で描きたいもの、構造に興味がある。
『ブゴニア』と『プロジェクト・ヘイル・メアリー』は、どちらにも宇宙人が出てくるけれど、その扱いはかなり違うなと思った。
『プロジェクト・ヘイル・メアリー』のロッキーは、最初は不気味で意味のわからない存在として現れる。でも、グレースが時間をかけて少しずつ理解していくことで、最後にはいちばん信頼できる相手になっていく。むしろこの作品で対話できないのは人類のほうじゃないか、とさえ思う。グレースは行きたくないと言っていたのに、その意思はまともに聞かれず、結局は人類を救うための手段として宇宙に送られてしまう。同じ人間同士では対話が成立しないのに、いちばん遠いはずの異星人とは通じ合える。そのねじれがこの作品の面白さでもあると思った。
その点、『ブゴニア』はだいぶ様子が違う。こちらでは、宇宙人そのものが重要というより、「宇宙人だと思い込む人間」のほうがずっと怖く見える。特に青年二人は、相手が何を言ってもちゃんと聞かない。目の前にいる人間そのものを見るのではなく、自分たちの中で作った物語を相手にかぶせてしまう。だから対話不能なのは、宇宙人ではなくむしろ彼らのほうだと感じた。この作品でラストに宇宙人が出てきたのは唐突な展開ではなく、必然だと感じた(こんなこと言っても誰にも共感されないのだけど)。
あと面白いのは、『プロジェクト・ヘイル・メアリー』のストラット(プロジェクトのリーダー的な存在)と『ブゴニア』の拉致された女性CEOが少し似た位置にいることだ。どちらも現実を動かす側の人間で、合理性とか公共性を優先できる強さがある。そのぶん、個人の感情や痛みを切り捨てる冷たさもある。いわゆる“現実世界のスーパーエリート”としての怖さがあると思う。
でも、だからといってグレースがそういった連中にただ搾取されるだけの哀れな人物かというと、全然そうではない。彼は頭が良くて、勇気もあって、ユーモアもあって、義理深くて、ちゃんと感じのいい人として描かれている。そこがすごく大事だと思う。
『ブゴニア』の青年二人も社会の中心にいるタイプではないけれど、彼らはその弱さを妄想や支配に向けてしまう。だから平気で他者を拷問したり、殺害したりする。エコーチェンバーという言葉は知っていても、その意味を理解する事は最後までなかった。
グレースはそうではなくて、孤独や弱さを抱えたままでも他者を理解しようとする。最後にロッキーを助けに戻るのも、その延長にある行動なんだと思う。
なので、この二作を並べてみると、どちらも宇宙人の話をしているようでいて、実はかなり人間の話をしている。
相手を理解しようとする物語なのか、それとも自分の都合のいい物語に閉じこもるのか。
その違いが、ものすごくはっきり出ている気がする。
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岸本佐知子さんのエッセイ集『気になる部分』(白水Uブックス)の中に、まさに「男性の乳首」をテーマにした章(またはエッセイ)があります。その中で彼女は、生物学的に見て男性の乳首が「不要な器官」であることを指摘しつつ、
・せいぜい「乳首当てゲーム」(目隠しして乳首を当てる遊び?)くらいしかない
というような、ユーモアたっぷりでちょっと毒のある視点で「男性の乳首問題」を語っています。
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乳首当てゲームって一般的だったのか?と思って男子校出身の夫に聞いてみたが
「見たことないが、俺は友達いなかったから、あったのかもしれない」との返事。役に立たない。
perplexity.だとこう
おもしろいテーマですね。はてな匿名ダイアリー(増田)っぽい文体で書くと、少し憂いと観察の混じった文章が合いそうです。では、そんなトーンで書いてみますね。
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最近、ちょっとおしゃれなカフェとか、小さなレストランに入ると、たまに「なんか違う」って空気を感じる。
店主が30代〜50代くらいで、たぶん人生の選択肢の中に“別に働かなくてもいいけど、やってる”って感じの余裕が見えるタイプ。
メニューも内装もこだわってるし、センスが悪いわけじゃない。でもそのこだわりの奥に、切実さがない。
お金を稼ぐためでも、生き延びるためでもなくて、「自分の世界を表現するため」にやってるような空気。
それが悪いわけじゃないのに、なんか居心地が悪い。
一方で、年配の店主――70歳前後で、年金プラス小さな定食屋みたいな店をやってる人には、まったくそういう違和感を感じない。
そこには「生活の延長」の匂いがあるというか、人生の一部として自然に店がある。
不思議なのは、同じ「働かなくてもいい」余裕でも、年寄りのそれは許せるし、むしろ安心するのに、真ん中の世代が出す“ゆとり”には、どこか反射的な拒否感があること。
あれは、自分が頑張って働いてるのに、別の生き方を見せつけられてるような気分になるからだろうか。
それとも、自分もああいう風になれないと分かってるから、無意識に苛立ってしまうのか。
「働かなくても良いけど働く」って、すごく贅沢な生き方なのに、見る側には奇妙なザラつきを残す。
多分、そこにある透明な壁を、私はまだ受け入れきれていないのだと思う。
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こんな感じで、増田っぽい“ちょっと愚痴+内省”トーンに仕上げました。