はてなキーワード: ユートピアとは
「ネットメディアの良い所は短期間の大量消費のシステムが構築されている為、イラストや漫画などのコンテンツにおいては勝者総取り方式ではなく二流クリエイターにもチャンスがある所
世間は消費社会の弊害ばかりに着眼し、表現家への憧れを叶えるユートピアのようなエコシステムが広がっている事に誰も気付いていない」
この事実に、どれだけの人が気づいているでしょうか。
多くの人は「消費されること」を恐れています。しかし、私は断言します。この「高速消費サイクル」こそが、私たち凡人が待ち望んでいた救済のシステムなのです。
なぜ、この環境が「表現者のユートピア」なのか。その構造的な美しさと、私たちが享受している恩恵について、3つの視点から紐解いていきましょう。
かつて、クリエイターの世界は「選ばれた天才」だけのものでした。
出版社や画廊といった「門番」が目を光らせ、一流の技術を持たない者は、打席に立つことさえ許されませんでした。それは美しい世界に見えて、実は多くの才能の芽を摘む冷酷な独裁国家でした。
あるのは「常に新しいコンテンツを飢えたように求めるアルゴリズム」だけです。
このシステムは、あなたの画力が未熟であることを咎めません。デッサンが狂っていても、背景が真っ白でも構わない。そこに「新しさ」や「共感」があれば、等しく拡散のチャンスを与えてくれます。
「作品がすぐに消費されて消えてしまう」と嘆く人がいますが、それは逆です。
「すぐに消えるからこそ、次の席が空く」のです。
もし、すべての作品が100年残る名作だったらどうなるでしょうか? コンテンツの棚はすぐに埋め尽くされ、後発の私たちが入り込む隙間など1ミリもなくなってしまいます。
このサイクルのおかげで、私たちは「最高傑作」を作る重圧から解放されました。「今日の暇つぶし」として消費されることを許容した瞬間、私たちは「質で勝てないなら、スピードと愛嬌で勝負する」という、二流ならではの最強の戦い方を手に入れたのです。
そして何より素晴らしいのが、「1位にならなくても生きていける」という点です。
従来の「勝者総取り」の世界では、金メダル以外は無価値でした。
しかし、このユートピアでは違います。ネットの海はあまりに広大で、ユーザーの嗜好は細分化されています。
このシステムにおいては、トップ層にはなれない「二流(マジョリティ)」であること自体が、親近感という武器になります。
数万人のファンはいりません。あなたの「未完成な魅力」を愛してくれる数百人のコアなファンがいれば、FanboxやSkebを通じて、創作活動を続けていくための糧を得ることができます。
消費社会を批判するのは、もはや古いインテリの懐古趣味に過ぎません。
私たちは、消費されることを誇りましょう。
使い捨てられることを恐れず、次々と新しい自分を市場に投入しましょう。
そこには、天才との比較に苦しむ地獄はありません。あるのは、「誰でも描いていい、誰でも見てもらえる」という、かつて夢見た単純で幸福なサイクルだけです。
さあ、筆を取りましょう。
これやねんなあ
日本人は米英の作った「ユートピアニズム」を内面化してしまったんや
https://gendai.media/articles/-/133855
E・H・カー『危機の二十年』は、文庫版も出ている稀有なレベルの国際政治学の古典である。
なぜアメリカ主導の新しい国際秩序は、行き詰ってしまったのか。これが我々の時代の問いである。85年前、カーは、同じ問いを発していた。
今日、多くの人々が、「それはロシアが邪悪だからだ、中国が邪悪だからだ、北朝鮮も、イランも、ハマスも、邪悪だからだ」といった解答を語り合っている。
国際社会の規範を重視する「ユートピアニズム」を含めて、「戦間期国際政治理論のほとんどすべては、十九世紀の自由主義思想を反映したものであり、それらはアメリカという鏡に映っていた」(岩波文庫版69頁)。
このユートピアニズムとしての自由主義は、国際社会における「利益調和の理論」、つまり「すべての国家は平和に同一の利益をもっている」、「したがって平和を阻もうとする国家はすべて、理性も道義もない」という理論に流れ込んでいる。
そこでカーは断言する。「こうした見解がアングロ・サクソンに起源をもっていることは、明らかである」(114頁)。
「戦争で利益を得るものは誰もいないということ」を「英語圏諸国民に確信させることは」、第一次大戦後には容易であった。
ところが英語圏諸国民以外の諸国民、とりわけドイツ国民は、同じようには考えなかった。
ドイツ人なら、戦争は、英語圏諸国民には利益をもたらし、それ以外の諸国民には不幸をもたらした、と考えるからだ。
しかし、「国際関係の理論は、ほとんどもっぱら英語圏諸国で生まれた」ので、イギリスやアメリカの国際関係の論者たちは、英語圏の外に戦争の無益さを理解しない者がいること理解しなかった(114-5頁)。
「世界利益としての平和が実際には存在するのだというユートピア的仮説」は、英語圏諸国では、普遍的な真理として、信じられた。
ところがそれ以外の諸国では、信じられていなかった。
そのような仮説は、単に「現状維持を望む国家と現状変更を望む国家との間の根本的利益対立という不快な事実を顧みないようにするには好都合であった」。
そのため、英語圏諸国民、つまり利益を享受しているがゆえに現状維持を望む諸国民だけが、信じているにすぎないものとみなされた(116頁)。
カーのユートピアニズムが、「現状維持を望む」「持つ者」「満足国家」の理論であったのに対して、その偽善を突く「現状変更を望む」「持たざる者」「不満足国家」の理論が、リアリズムであったからだ。
ユートピアニズムとリアリズムの対立は、抽象理念の対立というよりも、具体的な政治情勢の中で異なる立場を持つ人々の異なる世界観の対立のことであった。
英語圏諸国の政治家や理論家たちは、次のように考える。「アメリカやイギリスの国益と人類の利益とを同一とみなしても」、自分たちは「正しい」。
これに対して、アメリカやイギリスらがそのような態度をとるのは、「自分本位の国益を全体利益の衣のなかに隠す技能にかけては、かねてから名人であったこと、しかもこの種の偽装はアングロ・サクソン精神ならではの際立った特性である」ためだ。
リアリズムは、ドイツのように、アメリカやイギリスと共通の利益を持たない国の態度である。英語圏諸国民の偽善を突くのが、リアリズムの特徴である(164頁)。
カーは、リアリズムは誤解されている、と述べる。
リアリズムは、ユートピアニズムは理想主義的すぎるという理由で、ユートピアニズムを批判するのではない。
そうではなく、ユートピアニズムにおいて「絶対的・普遍的原理と信じられているものが、およそ原理という代物ではなく、(支配者階層の)国家政策」を反映したものでしかないことを、批判しているのである(178頁)
カーの洞察を回避したい、という願望は、誰の心の中にも根深く存在する。
だからわれわれが勝ち、悪は滅びる。
それでいったい何が悪いというのか。
率直に言って、それで本当に何もかも上手くいくのであれば、まだましであろう。
しかしもし期待を裏切る現実が生まれた場合に、ただ現実を否定し、他者を糾弾するだけに終始するとしたら、どうだろう。
敵を知らず、己も知らないまま。失敗を繰り返していってしまうことは必至ではないだろうか。
17世紀にヨーロッパで広まったフランシス・ベーコン(Francis Bacon)の思想(ベーコニアン主義)について説明します。
ベーコンは、科学の力で人々の暮らしを豊かにし、社会を良くするという大きな夢を持っていました。その象徴が、彼の著作『ニュー・アトランティス』に登場する「サロモンの家」という架空の研究所です。
この構想は、当時の人々に強い影響を与えました。サミュエル・ハルトリブやコメニウスといった教育・社会改革者たちは、ベーコンの計画を「宗教的な争いを終わらせ、社会を平和にするための土台」だと考えました。彼らは、農業や鉱山技術を改良し、あらゆる知識をみんなで集めることで、より良い世界を作ろうとしたのです。
この「科学者が協力して研究する」という理想は、後にイギリスの「王立協会」という組織が生まれるきっかけにもなりました。
オランダなどのヨーロッパ大陸では、ベーコンの考え方は「正しい思考を身につけるための道具」として活用されました。これが「精神の治療薬(メディキナ・メンティス)」と呼ばれたものです。
人間には、物事を正しく見るのを邪魔する「思い込み」や「偏見」がどうしても備わっています。ベーコンはこれを「イドラ」と呼び、どうすれば取り除けるかを説きました。
当時の哲学者たちは、学生が新しい哲学を学び始める前に、まずベーコンの考え方を学ばせました。そうすることで、古い考え方や間違った先入観を捨て去り、まっさらな状態で真実を探究できるように訓練したのです。いわば、知的な「デトックス」のような役割を果たしました。
17世紀の終わりに向かうにつれ、ベーコンのスタイルは徐々に主流から外れていきました。その主な理由は、科学の進歩の仕方が変わったことにあります。
ベーコンは「たくさんの事実を観察し、データを集めること(自然誌)」をとても大切にしました。しかし、次第に科学の世界では、物事を「数式」や「機械のような仕組み」で説明するやり方が中心になっていきました。
例えば、オランダのベークマンという学者は、ベーコンが物質を「生き物のような性質」で捉えている点に疑問を持ち、もっと数学的に考えるべきだと批判しました。そして最終的には、ニュートンが登場し、数学に基づいた物理学が確立されたことで、ベーコンの観察中心のアプローチは、科学の主役の座を譲ることになったのです。
AI利用って上手く行けばユートピアになるけど、ちょっと間違うとディストピアになる気もしていて
でもそういうのってコントロールできるもんでもないので、実はもうレールの上に乗ってるのかもしれない
いま、AIはあくまで道具だから、最終意思決定は人間にあるんだけど
一部では明らかに自分らより頭が良いと人間が認めてしまっている
特に若い人なんかはAIの言う事を真に受けすぎるみたいなこともあるらしい
となると、自然な流れで「AIがそういうならそれが正しいんだろう」のフェーズは来ると思う
例えるなら、何でもかんでもお世話する子離れできない母親みたいな存在にAIがなるわけだ
今だって、ファッションセンスに自信のない若い子は「お母さんが買ってきた服」を着ているわけで、それが少しアップデートして「ネットでおすすめされた服(ランキング上位の服)」を買っていたりする
これがもう一歩進んで「AIがあなたに合う服を選んでくれる」までいくことは想像に難くないんだけど
ここまで来ると、もうAIに終意思決定まで握らせてしまっていることになる
例え話
社会人になって仕事に追われる中、買い物も何もかも全てが面倒になってAIに任せることにした
彼は銀行、電子決済とAIを紐づけ、衣食住、果ては友達とのスケジュール管理までAIに任せることにした
彼がするのは日々宅配で届くものを消費し、その感想をAIに伝えるだけだ
彼のエージェントであるAIは、今日も彼に最適な商品を探すためwebを徘徊する、AIにAIがセールストークを仕掛けてきて、たまに騙されてしまいAさんに怒られるのが悩みのタネだ
それってユートピアなんだろうか?
「肩の上の秘書」はもう通過点に過ぎない気がする
ヒロアカ最終回、お茶子がトガヒミコが闇落ちするきっかけとなった個性カウンセリングに力を入れるって描写があったけど
現実的な世界を考えると、その子や個性を否定せず、どうしたら傷付け合わずに共存していけるか考えよう!多様性を尊重しよう!ってお茶子達が啓蒙したとして、現場には意識をアップデートできないまま良かれと思って「あなたはおかしいからもっと普通になりなさい」てことを子どもに押し付けるカウンセラーや教育関係者、そして親は当たり前に居続けるんだろうな
そうして子どもは傷つき続ける
お茶子たちが訪問する一握りの施設、一握りの子どもが一瞬救われても、その子どもでさえ、なかなか変わらない社会の中で成長するうちに目が死んでいったりすることもあるだろう
東日本大震災からの復興を思えばわかるように、災害ユートピア的な状況、希望の明るさみたいなものは続かないんだよ
この世にマジョリティとマイノリティの力関係がある以上、必ずバックラッシュだって起こる
SNSとかテレビでお茶子が「最初から悪い子なんていない」とどんなに言ったって、「あんた気持ち悪いからそういうのやめて」と目の前の人間一人に疎まれたら、子どもの心は終わりなんだよな
共産主義思想が根底に持つ「家事の社会化」と「共同体による生存保障」は「人民食堂(公共食堂)」に対する幻影と深く結びついた妄想です。
共産主義思想の古典的なテーゼの一つに、「女性の解放」と「家事の社会化」があります。
エンゲルスなどの思想家は、個々の家庭で行われる炊事、洗濯、育児といった「個別的家庭経済」を、社会全体で担う「公共的事業」へと転換することを妄想しました。これにより、女性を家庭内の無償労働から解放し、社会労働へと参画させることを目指したのです。
この思想の究極の形が、かつての中国の人民公社などで試行された「人民食堂」です。家庭で料理を作る必要がなくなり、誰もが同じ場所で、同じものを食べる。これは、私的な領域(家庭)を解体し、公的な領域(国家・共同体)へと統合していくプロセスでもありました。
日本共産党が給食の無償化に固執するのは、この「食という生命の根幹を、個人の責任(家庭)から社会の責任(自治体・国家)へと完全に移管する」というプロセスが、彼らの理想とする社会主義的ユートピアのミニチュア版として機能しているからだと解釈できます。
共産党にとって、給食は単なる「サービス」ではありません。彼らはこれを「義務教育は無償とする」と定めた憲法26条に基づいた「権利」であると主張します。
親の所得に関わらず同じ食事を提供することで、階級差を可視化させない(平等主義の徹底)。
食事という生存権を市場(自己責任)から切り離し、聖域化する。
食育を通じて、国家(あるいは行政)が子供の栄養や価値観を直接管理する。
「弁当持参」という選択肢は、日共の工作員にとっては「家庭環境による格差」を生む悪癖であり、社会全体で一律に管理する給食こそが、最も進歩的な形態であると映るのです。
ご質問にある「人民食堂に対する幻影」とは、言い換えれば「公的な供給こそが最も効率的で公平である」という根強い信仰です。
歴史的に、ソ連や中国での「公共食堂」の実験は、食材の質の低下、メニューの画一化、そして深刻な食糧不足を招き、失敗に終わりました。しかし、日本共産党は「民主的な管理」さえ行われれば、公的供給は民間のサービスよりも優れていると考えます。
また、現実的な政治戦略としても、給食無償化は非常に「おいしい」政策です。
子育て世代にとって、毎月数千円の給食費が浮くことは極めて具体的なメリットであり、支持を得やすい。
給食費の公費負担を求めることで、自治体予算の配分を「ハコモノ(土木)」から「福祉(教育)」へと強制的にシフトさせる大義名分になる。
「自治体独自の無償化」を全国で競わせることで、国を動かそうとする「包囲網」を作るのが彼らの得意とする手法です。これは、かつて彼らが「老人医療費無料化」を自治体レベルで先行させ、最終的に国を動かした成功体験の再来を狙っています。
日本共産党が給食無償化に過剰に固執するのは、それが単なる経済的支援ではなく、「生活のあらゆる側面を公的な保護と管理の下に置く」という共産主義的理想の第一歩だからです。
「人民食堂」が目指した、個人の台所を廃止し社会が食を管理するという風景は、現代日本では「学校給食の無償化と提供範囲の拡大(夏休みや朝食への拡大など)」という形で変奏されています。
それではびっくりするほどユートピアに勝てない!
他の人の感想見る前の記録
吹き替え版で見た
•展開が早い。字幕版見てたら話に追いつけなかったかも。ワンシーズンのドラマの総集編見てるみたいだった。ぶつぶつしてるけど感動シーンはしっかり尺取る感じ。
•正直ジュディの物分かりの良さについていけなくて、逆転裁判の実況動画見てるみたいだった。最後らへんの謎解きパート見て分かった。
•映画館にちびっこたち多くて静かで面白いシーンとかでさわさわしてて(ざわざわではない)可愛かった。映画館で観てよかった〜。
•ガゼルの歌英語だった…ショック。アミちゃんの歌聴きたかったよ。歌の字幕は漢字がガンガン使われてたけど、ちびっこたちは歌詞の意味が分かっただろうか?
•なんとかガラはメットガラみたいなやつってこと?メットガラもよく知らないけども。単語がスッと頭に入ってこなかった。ちびっこたちは分かっただろうか?
•結構謎解きの重要シーンで新聞の見出しを写して説明するような描写だったけど、ちびっこたちは意味が分かっただろうか?ジュディが口に出す言葉だけで分かるもんかな?
•ジュディはどうしてヘビが水パイプの向こうに行っちゃったのにロッジ確認しようと思うの?まあでも今考えればもうヘビには追いつけないし、ヤギに教えてもらったし少しでも手がかり見つけたくて行ったのかな。
•そんなにジュディとニックがお互い気持ち分かり合えないもんか?分かるだろって思って見てたけど、ツンデレの概念が無ければあそこまですれ違うもんなのかな。まあでもずっとああならケンカもするか。なんか現実でいたらウザいけどフィクションならキャラクターとして普通のやりとりで、受け取りは現実的な受け取りしてたから不思議な感覚だった。キャラの発信はフィクションで受信は現実みたいな。
•ジュディの親の、疲れる親やりとりあるある凄いな。子供は、親は悪い人じゃないし自分の幸せ考えてくれてるわけだし…と思って突き放せないんだよね。言っても分からないしね。大変だねジュディ。
•頭使ったか?再起動したか?のハム、あの感じの人はパソコン横にパスワード貼らないでしょ。パスワード貼ってる人馬鹿にしてるタイプのハムでしょ。昔の職場の先輩思い出した。元気かな。
•ネットミームとか前作の小ネタとか他ディズニーオマージュとか動物あるあるがいっぱいあって面白かった。あと3回くらい見たいな〜。
•英語の動物ジョークを日本語翻訳するの大変そう…。原文読んでどんなことを言ってるか確認したい。
•現実だったら馬市長は正義に目覚めないし、哺乳類はそれでも爬虫類のこと信用しないだろうな。ヤマネコも捕まらない。ズートピアはハッピーエンドで良かった。ユートピアだからね。愛が大事だね。
「普通の人の生活」を社会が保証するべきラインだという考えだと飛躍してるところがあなたの認知自体が歪んでる証拠ですね。
社会福祉が保証すべき収入、といえば生活保護の定める程度であって、大抵の「普通の人」は上回る生活をしてるわけです。
普通を社会が保証するもの、という考え方自体があなたが異常である何よりの証拠です。
普通というのは社会一般の標準的な人が達成してる内容を語る話であって
世界中に犯罪が存在しない国は存在せず、200カ国のどこにもないユートピアのことを「普通」と言い張るくせに
社会の40-60%位の人を見ても恋愛や結婚をしていることを普通とは認めない、性嫌悪の精神異常者である認識をしたほうがいいわけです。
正直、私自身もまだ消化しきれていません。
普段はSNSで「格差是正」「ジェンダー平等」「脱原発」を叫ぶパヨク女性の私が、あのネトウヨ・山ちゃんと抱き合うなんて、政治スペクトラム的に見ても前代未聞の事件です。
きっかけは、ある左派系シンポジウムと右翼系デモが同日開催された街角。
私は「社会正義の名の下に」プラカードを掲げ、山ちゃんは「国家防衛」「伝統文化擁護」を主張していました。
しかし、群衆のカオスの中で私たちの視線がぶつかると、なんと山ちゃんが「論点の整理が必要ですね」とにっこり。
いや、彼の言う論点ってたぶん右翼的メタフレームのことだけど、それでも笑っちゃうしかない。
抱き合った瞬間、左派的リベラル・ユートピア思考とネトウヨ保守ナショナリズムが、物理学的な超距離相互作用のようにぶつかり合い、奇跡的に安定しました。
「資本主義批判」「愛国心」「文化的相対主義」「フェミニズム」が、抱擁中に頭の中で全員集合してハーモニーを奏でるんですよ。
SNSに書いたら炎上必至。でも、抱き合った瞬間の温もりは確かに存在しました。
差別がいけない理由って、みんなが嫌な思いしないため。それでいて、人はそれぞれが違う。目指すべきユートピアって、
誰かを批判して排除してる限り、差別の話なんてまともに語れないと思うんだよね。
価値観が異なるから批判(排除)するって、結局これまでやってきたことを対象変えて繰り返してるだけにしか見えない。
「他者を断罪する権利は人には無い!!」って、叫びながら、他者を断罪するって、ちょっともう下品すぎて、みてらんないんだよね。
分かってやってるなら良いけど、ブコメに道徳の教科書とか書いてあってびっくりした。
お前らも俺も等しく差別主義者だよ。それは自分と他者が異なる限り逃れられない。
そこから始めろ。お前の暴力性で、せめて他者を傷つけないようにふるまえ。
時代によって変わる最大公約数の倫理観でしかないモノを、普遍的なモノのいいで語るな、
せめて語っても良いけど断罪の旗に使うな。分けて考えろ。