はてなキーワード: 絶版とは
姉夫婦が自己中極まりないポケカ投資家に成り下がってしまった。
いわゆるポケモンカードゲームのシュリンク付きボックスを数年置いて高くなったときに売るといったものだ。
しかしちょうど今は第2次ポケカバブル(というよりトレカ全体でバブル)の最中にあり、絶版ですらない最近発売されたボックスでさえ数倍のプレ値が付いているのが現状。
どんどん膨らむ含み益に姉夫婦はどんどんおかしくなっていってしまった。
例えば
・交換不可のポケセンでパックの状態が悪いとクレームを入れて無理やり交換してもらう
・投資家と言いつつ開封したパックで出たトップレアを即座に売る(売るために買ったんなら転売ヤーと一緒)
といった具合に。
私はポケカのイラストが好きなコレクターなのだが、シュリンク付きボックスとなると鼻息荒くして「家から近いんだから代わりに買って!!!!」とせがむ姉夫婦に嫌気がさしてしまい、断るとしまいには逆上してくるので最近は私まで病んでしまうようになってしまった。
近年ではベトチャイの大量参入もあり、治安の悪さも本当に気持ち悪いばかりだ。
世間から嫌われるポケカ投資なんて夫婦二人でこっそりやってくれればいいのに、巻き込まれる身にもなってほしい。
昔バイトで働いてたカドショでも店長や同僚がトレカの横領でバレて、トレカに関わるとろくなことないんだなぁとは思っていたが、まさか身内でこんなことになるとは思いもしなかった。
家が全焼するか、ただの紙切れになってほしいと願うばかり。
「海賊版」と一括りにされがちだが、実態は大きく2つに分かれている。
一つは、単にタダ乗りするための海賊版だ。単に海賊版といった場合、多くの人はこっちを連想するだろう
つまり本来の意味での海賊版であり、権利者の利益を直接奪う以上、厳しく取り締まるべきだという理屈は当然だ。これに反対する人はかなりの少数派のはずだ。
問題はもう一つの方だ。「ほかにどうしようもない」海賊版である。
正規のルートがすでに消滅し、非公式な形でしかこの世に残っていない作品たちだ。前者が「販売の代替」なら、後者は完全に「保存の代替」になってしまっている。
もちろん、法的にはどちらも違法だ。しかし、社会的な意味合いはだいぶ異なると思う。
そもそも、著作権の目的は第一に「著作者の権利を保護」、そして根本には「文化の発展への寄与」にある。
著作物の公正な利用により、作品が継続して生み出され、文化として発展・蓄積されていく土壌を支えるための制度であり、少なくともクリエイターを満足させるためだけに作られている制度ではない。
正規の入手手段が絶たれた作品について、非公式な情報を違法として徹底的に潰して回ることは、言い換えれば「税金を使ってコンテンツを社会から消す」ということでもある。
もちろん権利者に「流通させない自由」はあるが、流通停止の自由は尊重されても、その「消滅」まで国家が肩代わりして保障する必要があるか別問題だろう。
少なくとも私は、そこまで国家が肩代わりする必要はないと考える。
付け加えるなら、それをすることで創作文化が発展するとか、優れたコンテンツが継続的に生み出される土壌になるとも思えない
現行で流通している作品の違法コピーは、今まで通り徹底的に潰せばいいし、それを税金をジャブジャブ使うことには大賛成だ。
クリエイターの利益を守り、適正な報酬がきちんと支払われることは文化的にも経済的にもメリットは大きい
守るべきなのは「権利者が望むなら作品を消せる権利」ではなく、権利者が正規流通を選ぶ自由と、その選択がある場合に非正規流通を排除できる権限である。
海賊版論争を見るたびに思うのだが、この話で人々が最初にやる間違いはだいたい同じだ。
日本側は「海賊版は窃盗だ。作者に敬意がない」と言う。 海外側は「正規で読めないんだから仕方ない。供給しない側が悪い」と言う。
そして両者とも、自分だけが現実を見ているつもりでいる。 もちろん、いつものことだ。インターネット論争というのは、だいたい自分の見ている半分の真実を宇宙の全真理だと思い込んだ人たちが、残り半分を見ている人間を野蛮人扱いすることで成立している。
だがこの件で本当に面白いのは、双方とも半分ずつ正しいということだ。 そして、半分ずつ正しい議論というのは、完全に間違った議論より始末が悪い。なにしろ本人たちは「自分は正しい経験」を実際に持っているので、相手が何を見てそう言っているのかを理解しようとしない。
その結果、海賊版論争はいつも道徳劇にされる。 盗人だの、既得権益だの、敬意がないだの、時代遅れだの。 気持ちはわかる。人は道徳劇が好きだ。構造の話より、悪人の話のほうがずっと気分がいいからである。
しかし残念ながら、この問題の核心はモラルではない。 価格であり、供給であり、制度であり、インセンティブである。
道徳は「海賊版はいけない」と言うことはできる。 だが「なぜ、いけないことがこれだけ大規模に起きるのか」は説明できない。 それを全部「モラルの低下」で説明するのは簡単だが、簡単であることと有能であることは違う。風邪を全部「気合いの不足」で説明する人間が医者ではないのと同じだ。
海賊版が広がるのは、人々が特別に邪悪だからではない。 正規版より安く、速く、便利だからである。 まずこの当たり前の事実から出発しないと、議論は最初の五分で終わる。
まず、「海外は海賊版に寛容で、日本だけが厳しすぎる」というやつ。 これが魅力的に見える理由はわかる。実際、日本では海賊版に対する嫌悪感がかなり強く、クリエイターの怒りも前面に出やすい。他方で海外では、違法視聴や違法閲覧がかなりカジュアルに語られることがある。だから「日本だけが異常に神経質なんじゃないか」という印象が生まれる。
でも、ここで「海外は自由で進歩的、日本は閉鎖的で遅れている」という、いかにもSNS向きの雑な物語に飛びつくとだいたい失敗する。 違うのは、著作権保護の有無というより、どこに責任を集中させるかという制度設計の差だ。日本は権利者の感覚が強く前に出やすいし、英米圏はプラットフォーム責任やフェアユースの議論が混ざる。見え方が違うだけで、どこも別に著作権を仙人のような寛容さで見守っているわけではない。
次に、日本側に多い「海賊版はモラルの欠如だ」という説明。 これももちろん一理ある。違法コピーなのだから、悪いに決まっている。 だが、何百万人規模で繰り返し起きる行動を、ひたすら人々の人間性の腐敗で説明しようとするのは、説明というより願望である。自分は悪人を見抜いたつもりになれて気分はいいが、なぜその行動が再現されるのかは何一つ説明していない。
逆に海外側には、「正規供給が遅いのだから海賊版が広がるのは当然」という説明がある。 これもかなり正しい。とりわけ連載マンガや毎週更新アニメのようなコンテンツでは、内容そのものだけではなく、みんなと同時に消費すること自体が価値になる。ネタバレは飛んでくるし、議論にも乗り遅れるし、数か月後に合法的に読めますと言われても、その頃には祭りは終わっている。
ただし、これも全てではない。 供給が改善されても海賊版が消えないなら、問題はタイムラグだけではない。そこには「ゼロ円」で「検索一発」で「広告で維持される違法供給」と、「固定費を回収しなければならない合法供給」の競争条件の差がある。
つまり、よくある説明は全部、一理ある。 だが一理あることと、それで全体が説明できることは別だ。 SNSではこの区別がしばしば消える。なぜなら、一理ある話のほうが、複雑だがより正確な話より、ずっと気持ちよく怒れるからである。
マンガやアニメのようなデジタル・コンテンツのやっかいなところは、作るのには金がかかるのに、複製するのにはほとんど金がかからないことだ。
1話作るのは大変だ。 1冊作るのも大変だ。 人件費がかかる。編集がいる。作画がいる。翻訳も必要だ。監修もいる。配信網もいる。固定費は重い。
しかし、いったんできたものを、もう1人に読ませるコストはほぼゼロだ。 すると何が起きるか。 当然、固定費を払っていない側が圧倒的に有利になる。
正規事業者は、その固定費を回収しなければならない。だからゼロ円にはできない。 だが海賊版サイトは、その固定費を負担していない。他人の投資で生まれたものをコピーしているだけなので、極論すればほぼタダで配れる。 この時点で、「正規版が正しいのだから勝つべきだ」という願望は、経済学的にはかなり厳しい。正しさはコスト構造を変えないからだ。
日本で700円が普通でも、別の国では高い。 英語圏では払えても、別の言語圏では厳しい。 なら国ごとに価格を変えればいいじゃないか、という話になるが、デジタル財は国境と相性が悪い。安い地域の価格が高い地域に流れ込むのを完全には防ぎにくい。VPNの時代に、地域別価格は理論上は正しくても、実務上は簡単に穴があく。
しかも翻訳にはコストがかかる。 ライセンス交渉にも時間がかかる。 市場規模が小さい言語圏では、そもそも商売として成立しないこともある。
その結果として起きるのは、非常に単純なことだ。 ある国では合法的に安く速く読める。 別の国では高いか、遅いか、そもそも存在しない。 その空白を埋めるのが海賊版である。
ここで「海賊版利用者は泥棒だ」とだけ叫んでも、たぶん何も起きない。 なぜなら、その人はたいてい、検索一発で読めるゼロ円の選択肢と、見つけるのも面倒で高くて遅い正規版を比べて行動しているからだ。 不快だろうが、それが現実だ。
この問題をさらにややこしくしているのは、単に値段や供給速度の違いだけではない。 著作権そのものに対する感覚が、かなり違う。
日本では、作品は比較的強く「作者のもの」だと感じられている。 これは単に収益権の話ではない。人格の延長として受け止められやすい。だから無断転載や無断翻訳に対して、単なる売上の損失以上の怒りが生まれる。
海外、とくに英米圏には、もちろん著作権保護はあるが、それと並行して「公表された作品は議論や変形的利用の素材にもなる」という感覚が日本より強い。フェアユース的な発想がその象徴だ。
ここでよくあるのが、「海外は自由で、日本は古い」という雑な整理である。 インターネットはこういう二元論が大好きだ。たぶん脳のカロリー消費を抑えられるからだろう。 だが現実はもう少し不快に複雑だ。
日本には日本なりの整合性がある。 作品の同一性や作者の意思を重く見るのは、単なる後進性ではなく、一つの権利思想である。 英米には英米なりの整合性がある。 作品が公共的な議論に開かれるべきだというのも、一つの思想である。
問題は、両方が自分の前提を「普通」と思っていることだ。 そして普通同士がぶつかるとき、人は驚くほど簡単に相手を野蛮人だと思う。
日本では、多くの二次創作は法的にはかなり危ういのに、実務上はかなり広く黙認されてきた。 これは綺麗な制度ではない。かなりいびつだ。 だが、そのいびつさの上でコミュニティが回ってきたのも事実である。 つまり日本では、明文化された一般ルールより、「権利者が最後の統制権を持ったまま、周辺をお目こぼしする」という形で秩序ができている。
英米的な感覚からすると、これはかなり不透明に見えるだろう。 ルールがあるのかないのか、はっきりしろと思うはずだ。 そして「二次創作はよくて海賊版はなぜダメなんだ」という問いも出てくる。
だが日本側の感覚では、そこは全然同じではない。 前者は、少なくとも創造的な付け足しやコミュニティ内部の礼儀の中にある。 後者は、単なる無断コピーの流通だ。 この差は、日本側には大きく見えるし、海外側にはしばしば曖昧に見える。
つまり、ここでも両者は同じ単語を使いながら、別のゲームをしている。
ここで話を少しずらす。
日本では、古い建物を壊して新しく建てることへの心理的抵抗が比較的低い。 街は更新される。建物は入れ替わる。古いものをそのまま残すことより、機能的に更新することのほうに価値が置かれやすい。
一方、欧米では、歴史的建造物の物理的な形態そのものに重い価値が置かれることが多い。 もちろん全部ではないが、「オリジナルを残すこと」自体が道徳的含意を持つ。
これはそのまま著作権の話ではない。 建物とマンガを同じにするのは乱暴だ。 だが、文化的な資産を誰のものとして、どう扱うかという深層の感覚には少し通底するものがある。
日本では、作品は最後まで作者や権利者の意思に強く帰属するという感覚がある。 絶版にしたいなら絶版にする。再公開しないならしない。 乱暴に言えば「それは持ち主の権利だ」という発想だ。
他方で海外には、「公表された文化は公共財的な性格をある程度帯びる」という感覚が日本より強く存在する。 だから「絶版作品をアクセス可能にするのは文化保存だ」という理屈が出てくる。
この理屈は、気持ちはわかる。 実際、消えた作品や読めない作品があること自体を損失だと感じるのは自然だ。 だが、その理屈がそのまま海賊版の免罪符になるかというと、そこはかなり怪しい。 文化保存は美しい言葉だが、翻訳も配信もアーカイブもタダではない。そして、そのコストを誰が負担するのかという最も不愉快な問題になると、急にみんなロマン主義者になる。
つまりここでも、対立は善悪ではなく優先順位の違いだ。 統制を優先するのか。 アクセスを優先するのか。 作者の意思を重く見るのか。 文化の開放性を重く見るのか。
どちらかが完全に正しい、という話にしたがる人は多い。 たぶんそのほうが気持ちがいいからだ。 しかし残念ながら、社会はだいたい、気持ちよさより面倒くささの上にできている。
海賊版の蔓延は、モラルの崩壊ではない。 デジタル財のコスト構造、国際市場の分断、価格差別の難しさ、翻訳とライセンスの遅さが合成された結果である。
ここで「市場の失敗」と言うと、すぐ誰かの悪意の話だと思う人がいる。 いつものことだ。 だが市場の失敗というのは、必ずしも誰かが怠慢だったという意味ではない。 むしろ、全員がそれなりに合理的に動いた結果としても起こる。
日本の権利者は、国内収益を守りつつ海外展開のリスクを管理しようとする。 当たり前だ。 海外のユーザーは、手に入らない、遅い、高い、読めないという状況で、もっとも低コストな選択肢に流れる。 これも当たり前だ。 海賊版サイトは、トラフィックが集まり広告収入が入るなら供給を続ける。 それも当たり前だ。
つまり、全員がだいたい自分の立場で合理的に振る舞った結果、全体としてはひどい均衡ができる。 これが市場の失敗でなくて何なのか。
日本側が見落としがちなのは、「海賊版は悪い」と百万回言っても、便利さと価格で負けている限り、人の行動は変わらないということだ。 海外側が見落としがちなのは、「供給が不十分だから仕方ない」というのは説明にはなっても、正当化にはならないということだ。 権利者の投資回収が完全に崩れれば、長期的には供給そのものが痩せる。当たり前の話である。魔法のように作品が生えてくると思っているなら、それは経済学ではなく信仰だ。
もっと安くする。 もっと速くする。 もっと見つけやすくする。 もっと地域ごとの現実に合わせる。 そして違法供給の資金源を断つ。
要するに、説教より設計である。 断罪より供給である。 徳の話より、インセンティブの話である。
たぶんこれしかない。 なぜなら、人間はインターネットで急に聖人にはならないからだ。
インターネットは国境を消した、とよく言われる。 実際には、消したのは国境そのものではなく、国境が見えなくなるまでの時間だけだった。
法制度の差は残った。 所得の差は残った。 言語の差は残った。 権利処理の遅さも残った。 その上に、誰でも一瞬でコピーできる技術だけが乗った。
だったら海賊版が広がるのは、むしろ当然である。 不道徳だから広がったのではない。 広がるように世界ができていたから広がったのだ。
そして海賊版論争がいつまでたっても噛み合わないのも、同じ理由である。 人々は、自分の道徳感情の話をしているつもりでいる。 だが実際には、価格表が未完成の世界で起きている摩擦を、善悪の物語に翻訳しているだけなのだ。
こういうと冷たいと言われるかもしれない。 しかし冷たいのは現実のほうである。 現実はしばしば、魂の堕落より、流通設計の不備で説明できてしまう。
人は悲劇を道徳劇にしたがる。 だが今回の話はたぶん違う。 これは堕落の物語ではない。 文明の衝突ですら、半分しか正しくない。
高市政権の権力基盤を分析する上で、旧統一教会(世界平和統一家庭連合)の組織票と運動員が果たしている役割は看過できない。この関係性は、高市早苗首相の個人的な思想的共鳴などという抽象的なものではなく、故・安倍晋三元首相が構築した極めて実務的な「票の割り振りシステム」の物理的な継承である。
この強固な結合の原点は、第2次安倍政権誕生直前の2012年4月に遡る。当時、野党で冷や飯を食っていた安倍晋三氏、今井尚哉氏、萩生田光一氏らは、教団のダミー団体「世界戦略総合研究所」の阿部正寿所長らが企画した「高尾山登山」に参加した。教団が集めた300人の若手信者とともに政権奪還(捲土重来)を祈願したこの登山こそが、カルトの動員力によって最高権力を奪取するという成功体験の象徴的儀式であった。
政権奪還後、この関係はシステム化される。2013年6月および2019年7月、自民党本部の総裁応接室において、安倍首相、萩生田光一氏らは、教団の徳野英治会長、太田洪量・国際勝共連合元会長らと密談を行った。教団側は「最低20万票の死守」を誓約し、その証として安倍氏と萩生田氏にエルメスのネクタイを贈呈している。安倍氏はこの見返りとして北村経夫氏ら特定候補へ組織票を計画的に割り振り、自民党内における教団票の「最高差配者」として君臨した。
高市氏はこの強力な集票システムをいかにして引き継いだのか。その接続点(ノード)となったのが萩生田光一氏である。萩生田氏は落選中(2009〜2012年)も旧八王子家庭教会を拠点とし、教団の内部報告書において「摂理的義人」と絶賛されるほどのパイプ役であった。2025年10月の高市政権発足時、裏金問題で党内基盤が脆弱化していた萩生田氏を、高市氏があえて「党幹事長代行」という要職に抜擢した采配は、安倍氏が遺したこの「集票マシン」を陣営の中枢に据え置くためのシステム的要請である。公明党はこの露骨なカルト回帰に反発し連立離脱のトリガーを引いたが、高市陣営にとっては創価学会票を失ってでも、無償の運動員を提供する教団インフラを維持する方が実務的に重要であったと言える。
なお、高市氏自身と教団の関係についても、1992年に決定的な歴史的接点が確認されている。教祖・文鮮明が来日し「我々の言うことを聞く総理大臣をつくろう」と演説した同年、霊感商法の実行犯(「藪野令子」名義で1000万円の念珠等を販売)であり、自民党への工作員(Fレディー)であった阿部令子氏の壮行会が開催された。この場において、若き日の高市氏が登壇し応援演説を行っている。かつて石原慎太郎氏が「秘書の中に朝鮮人参エキスを売り歩き、夜中に書類を物色する信者がいた」と証言したように、Fレディー作戦は政界中枢への明確なスパイ・洗脳工作であった。高市氏の「教団との関係は知らなかった」とする弁明は、この30年以上にわたる共犯関係の歴史の前に完全に破綻している。
物理的な運動員に依存していた集票システムは、2026年衆院選においてデジタル空間への劇的な適応を見せた。高市氏を支持する匿名のショート動画群(いわゆる「サナ活」)は、累計約4億4615万回という特異な再生数を記録した。
この現象のプロトタイプと目されるのが、2016年に設立された教団系の学生組織「勝共UNITE」が提唱した「改活(カイカツ)」という運動メソッドである。彼らはSNSを用いて特定の政治運動を若者文化としてブランディングし、そこに石平氏やアンドリー・ナザレンコ氏といった保守系インフルエンサーを登壇させることで、極端な排外主義を「純粋な愛国運動」へとロンダリングする手法を確立した。
「サナ活」はこのメソッドの完成形である。特筆すべきは、論理的な政策論争を徹底して排除し、「情動」のみをターゲットにしている点だ。高市氏は、脳梗塞で倒れた夫・山本拓氏の介護すら「孤独に戦う健気なヒロイン」という物語(ナラティブ)の小道具として消費した。
歴史的文脈を踏まえれば、これは偶然の産物ではない。1994年、高市氏は『ヒトラー選挙戦略』(小粥義雄著・後に国際的非難を浴び絶版)という書籍に対し、「著者の指導通り勝利への道は『強い意志』だ」と熱烈な推薦文を寄稿している。同書が説く「説得できない有権者は抹殺せよ」「女性は直情的であるため突撃隊にしろ」「事務所の捜索が予想される時は名簿を焼却しろ」といった大衆操作と証拠隠滅のメソッドは、驚くほど現在の高市陣営の振る舞い(SNSでの敵対者への苛烈な攻撃や、不透明な資金処理)と合致している。公職選挙法の「有料ネット広告規制」の穴を突き、無数の匿名アカウントを通じてアルゴリズムをハックするこの手法は、現代における最も洗練されたプロパガンダ装置として機能した。
全国規模のプロパガンダや政治活動を維持するための資金供給源は、正規の政治資金収支報告書の外部に構築されている。その代表例が、「Veanas(ビーナス)合同会社」と宗教法人「神奈我良(かんながら)」である。
Veanas社は2025年12月に設立された民間企業であるが、法人登記住所は高市氏が代表を務める「自由民主党奈良県第二選挙区支部」と完全に一致する。同社は高市事務所の公設第一秘書・木下剛志氏の統制下にあり、青年局長の亀岡宏和氏が代表を務めた。事務所を家賃無償で使用し、6600円の歯ブラシセット等を開放的に販売。さらに地元企業・奈良トヨタから提供された車両を「Veanas号」と名付け、車体にマジックで応援メッセージを書き込ませながら全国を縦断するキャラバン(累計運用費1000万円以上)を展開した。高市氏の私物であるレストア済みのトヨタ・スープラがこの事務所に堂々と展示されていた事実を見ても、木下秘書による「民間企業の活動とは知らなかった」という供述が物理的に不可能(明白な虚偽)であることは明らかだ。
さらに看過できないのは、このVeanas社が、実業家の溝口勇児氏および松井健氏(株式会社neu代表)による「サナエトークン(仮想通貨)」発行プロジェクトと結託していた点である。松井氏は過去のICO案件において数千万円の出所不明な現金を突如持ち込んだ過去を持つ人物であり、今回のサナエトークンにおいても、総発行量の65%を運営がロック無しで保有する詐欺的設計(スローラグ)が組まれ、ローンチ直前に開発者周辺で数千万円規模のインサイダー売り抜けが行われている。政治団体の活動を民間企業(Veanas社)に代行させ、暗号資産という法規制の及ばない領域から裏金を還流させる「トンネル機関」としての運用実態が色濃く滲む。
もう一つの巨大な資金供給源が、川井徳子氏(ノブレスグループ総帥)である。彼女は2024年だけで計4000万円を陣営に献金しているが、その背景には信者のいないダミー宗教法人「神奈我良」を用いた不動産マネーロンダリングの構造がある。競売物件を非課税の宗教法人名義で購入し、民間企業へ現物出資するという手法だ。川井氏の父・春三氏は、チッソ株主総会での水俣病患者襲撃に関与し、戦後右翼のフィクサー・児玉誉士夫から資金提供を受けていた「大日本菊水会」の創設者である。「美しい国」の足元には、こうした暴力的な地下資本が流れ込んでいる。さらに、ドトールコーヒー創業者の鳥羽博道氏からの献金において、法の上限(750万円)を超える1000万円の違法献金が発覚したように、陣営の資金集めには恒常的な遵法精神の欠如が認められる。
教団の組織票と、不透明な巨額資本。これらによってハイジャックされた高市政権は、いかなる政策を出力しているのか。中核を担うのは、第2次安倍政権の「影の総理」今井尚哉氏の後継として官邸を掌握した、経産省出身の飯田祐二・首席秘書官である。
「サナエノミクス(責任ある積極財政)」の実態は、国家の危機管理を大義名分とした、経産省主導による特定企業(京都フュージョニアリング等)への莫大な国費注入(補助金バラマキ)への回帰である。官邸内では、財政規律を重んじる財務省出身の吉野維一郎・首相秘書官らがストッパーとして激しく抵抗しているが、押し切られつつある。
さらに深刻なのは、イデオロギーをマーケティングツールとして消費する政権の「二枚舌」と外交的暴走である。高市氏は国内の保守層に向けて「移民排除」や「台湾有事は存立危機事態」といった勇ましいプロパガンダを発信する一方、裏では安価な外国人労働力導入を推進するNAGOMi(二階氏系財団)に祝電を送っている。しかし、この外交的配慮を欠いた「強硬ポーズ」は現実のハレーションを引き起こした。在大阪中国総領事の薛剣氏が激しく反発する事態を招き、結果としてレアアースの輸出制限など、実体経済に致命的なダメージ(サナエ・ショックによる円安・国債暴落)を与えている。
システムの内部崩壊の兆候も既に見え始めている。共産党の機関紙「しんぶん赤旗」が報じた、高市氏の選挙区支部における約396万円の「パーティー券の寄付金控除偽装(脱税幇助)」疑惑は、極めて詳細な事務所内の内部資料に基づくスクープであった。これは、高市陣営のガバナンスが完全に崩壊しており、忠誠心ではなく利権と恐怖だけで結びついたスタッフの中から、致命的な内部告発(リーク)が相次いでいることを示している。
高市政権を「初の女性保守総理の誕生」という表面的なイデオロギーで評価することは、事象の本質を見誤る。
その実態は、安倍時代から続く旧統一教会の物理的集票システム、公選法の穴を突いたデジタル・プロパガンダ(サナ活)、Veanas社や神奈我良を通じた右翼資本のマネーロンダリング、そして巨額の国家予算を還流させようとする経産省官僚の野心。これら四つの要素が、「高市早苗」という極めて都合の良いインターフェース(器)を介して結合し、互いの利権を極大化させるために稼働している「機能的結合体(エコシステム)」に他ならない。イデオロギーは、この巨大な集金・集票マシンを駆動させるための、単なる潤滑油として消費されているのである。
『METHODS ~押井守「パトレイバー2」演出ノート』アニメ制作の普遍の教科書 読み継がれる理由と復刊の価値
復刊ドットコムに集まったリクエストを受け、2005年にKADOKAWAから復刊された、『METHODS ~押井守「パトレイバー2」演出ノート』。
世界的な映像クリエイターである押井守氏が監督を務めたアニメ映画「機動警察パトレイバー2 the Movie」の演出についてまとめられた本です。
初版が発行された1994年当時は、アニメ制作の基礎を知る術がまだ少なかった時代。同書はアニメ制作を志す人にとっての教科書的な位置付けとして重宝され、多くの人が手に取りました。
また、同書の執筆には押井氏自らが積極的に関わっていたこともあり、アニメ制作を志す人だけでなく、押井守氏のファンにとっても魅力的なものでした。監督の言葉で作品制作の裏側や同氏の思考を垣間見ることができる稀有な体験を提供する本だったからです。
同書が入手困難となっていた時期から、「後世に残すべき本である」「文化的な損失である」といったコメントとともに復刊リクエストが寄せられるようになりました。
初版から30年が経った今でも、その魅力や価値は色褪せていないためか、2005年に復刊が実現した後も、品切れとなる度に再刊を求める声は絶えず寄せられています。
本記事では、復刊されるべくして復刊した『METHODS ~押井守「パトレイバー2」演出ノート』の見所と価値をご紹介します。
2005年に復刊された『METHODS ~押井守「パトレイバー2」演出ノート』(KADOKAWA刊)
当時、押井守氏がアニメ制作において特出していた点は、実写映画のカメラワーク的な要素を取り入れ、アニメの映像表現の新たな境地を開拓したというところにあります。
『METHODS ~押井守「パトレイバー2」演出ノート』で解説されているのは、そうした表現を可能にした「レイアウト」の手法、そしてそこに込められた演出の意図です。
では、そもそもレイアウトとは何でしょうか? 同書の中で押井氏は以下のように定義しています。
P.3 「アニメーションにとってレイアウトとは何か?」より引用“レイアウト”とは要するに画面(カット)の設計図のことであり、“レイアウトシステム”とはこの設計図を基本にして映画(正確にはフィルム)を制作する方法のことです。設計図としてのレイアウトには、様々な情報が込められています。
(中略)
それは各部署に分かれて作業するスタッフにとっては、作業の基準となる仕様表であり、演出家にとっては演出する作品を撮影前に検討するためのシミュレーションの過程でもあります。
アニメを作る、と聞けば、絵を描き、動かすという作業が一番大事だとのイメージを持つ人が多いかもしれません。ですが、アニメ制作の現場では、絵を描くアニメーター(原画マンや作画マン)以外にも、背景美術、演出、撮影など、さまざまな専門を持つ人たちが分業して作品を作り上げています。
監督としての押井氏の役割は、作品の骨子(絵コンテ)を作り、各工程をコントロールし、自身が思い描く完成像を具現化すること。
そして、そのイメージを各担当者に共有するために重要となるのが、ここで言うレイアウトです。
ですが、同書が出版された当時、このレイアウトという概念はまだ曖昧なものでした。レイアウトに限らず、アニメの制作の進め方は監督や現場によってさまざまだったからです。
例えば、監督と一口に言っても、宮崎駿氏のように自ら原画を描いたり、作画修正をしたりする「アニメーター」を出自とする監督もいれば、押井氏や高畑勲氏のように演出をスタートとして全体の舵取りに徹する監督もいます。
そんな中で、押井氏が提示した「レイアウトシステム」の徹底は、当時のアニメ制作現場において、押井氏が作品の出来を背負う監督として、求心力を持ちえた理由のひとつではないかと言われています。
すなわち、押井氏のレイアウトとは、蓄積した映画の記憶とアニメ制作の現場体験を活かし、イメージの意味を具体化してゆき、現場の意識や作業の方向性を示すためのものでもあったのです。
今では、このレイアウトという言葉や概念はアニメ業界で一般化しているといいます。
それは、押井氏のレイアウトを参考とした人たちがアニメ制作を積み重ねていった結果に他なりません。
同書で語られたレイアウトは、押井氏のアニメ制作のエッセンスであるだけでなく、その概念の成立においても重要な意味を持ち、後進のアニメ制作を技術的な面でも精神的な面でも下支えするものとなっているのです。
全てのクリエイターが“学べる”本
ところで、アニメ制作への関心が高まり、種々の指南書が出版されている今現在、『METHODS ~押井守「パトレイバー2」演出ノート』の内容はどのような価値を持って受け止められているのでしょうか。
結論から言えば、現代における同書の大きな価値は、アニメ制作に携わる人に限らず、全てのクリエイターに刺激を与え、学ぶ意欲を掻き立てうるというところにあると言えます。
同書を開けば、アニメを制作するにあたって押井氏が考えていたことの量と密度に、誰もが圧倒されることでしょう。映像の迫力や精密さ、リアリティといった部分だけでなく、作品世界や物語に直接関係しない要素にまで、しっかりと意図が存在するのです。
例えば、「パトレイバー2」の中で描かれる“鳥”について、押井氏は同書で次のように書いています。
P.45 より引用「P2」(筆者注:パトレイバー2)に登場する鳥たちにはどのような象徴的な意味もありません。強いて言うならば、それはこの作品で描かれた「世界」と「物語」に混入されたノイズであり、記号の体系を掻き乱すための異質な記号そのものに他なりません。本篇の外側にあって物語をアウトレンジし、作品を自律的に完結させようと目論む演出家の意図を長距離から射程に収め、射程に入れるそのことだけで脅威となる厄介な長距離砲。それがつまり、“鳥”なのです。
視聴者が気付かないほどの細部でさえも意図を持って描かれていることを端的に示す、「パトレイバー2」の鳥。
このエピソードは一例に過ぎませんが、何か作品を完成させる上で、どこまで計算し、考えるか、という、全クリエイターに共通する普遍的な問いに対して、一つのアンサーを提示していると言えるのではないでしょうか。
そして、もちろん、アニメの演出の教科書としての価値も健在です。
2020年代のアニメ制作の現場は、本書が書かれた当時よりもCG環境は進歩していますが、ほとんどの作業がアナログであった時代の技術や方法論がまったく“古く”なっているわけではありません。ツールは違えど、先達が積み重ねてきたものは、現在のアニメ制作現場にも脈々と受け継がれているからです。
また、押井氏の演出の影響は、アニメ以外の映像制作にも及んでいます。
実写映画の知識・教養をバックグラウンドに持つ押井氏ならではの演出シーンは、日本に限らず海外の映画、特に「想像」によって世界を再構築することが必要とされるSF作品に大きな影響を与えているのです。
ここまで、『METHODS ~押井守「パトレイバー2」演出ノート』の見所や価値を紹介してきました。
一度は絶版になりながらも、多くの復刊リクエストを集め、復刊後も絶えず求められ続けている同書。それほどまでに支持される理由は、時代を経てもその内容が色褪せることなく、むしろ、アニメの歴史の一部を担い、全てのクリエイターに刺激を与える本として、普遍的な価値を持って受け止められていることにありました。
ごく一般的なアニメファンにとって、同書の内容は非常に高度で、全てを理解することは難しいかもしれません。
ですが、天才と呼ばれる押井守氏が作品制作の際に、何を、どういう視点で、どのように捉え、何を考えているのか、という思考を垣間見ること、そしてそのあまりの高度さに衝撃を受けることもまた、同書を読む上での醍醐味と言えます。
白紙の状態から、全てを人の手で描き、作品世界を構築していく上での凄まじいこだわりと努力を目の当たりにできる本は決して多くはありません。
大人から子どもまで、誰もが当たり前に、大量にアニメを楽しむようになったからこそ、同書はこれからも読み継がれていくべき本なのです。
『METHODS ~押井守「パトレイバー2」演出ノート(押井守)』 販売ページ復刊ドットコムにて『METHODS ~押井守「パトレイバー2」演出ノート』(押井守)を販売しています。www.fukkan.com
マンガワンの件で島袋光年氏や和月伸宏氏の過去が蒸し返されてしまっている。
おおむね、彼らは罪を償った上で名前も変えず復帰したので良い、という論調だが、もし現在同じことをしていたらそうなっていただろうかと思う。
特に島袋氏は未成年買春と直接手を出した罪であり、現代なら非難の声は苛烈になっていたのではないか。
2002年 女子高校生への買春で逮捕、のちに余罪で再逮捕、連載中の『世紀末リーダー伝たけし!』は打ちきり、単行本絶版
2005年 『たけし』の連載再開
だがこれが令和の事件だったら、ここまでスムーズに復帰し世間がそれを受け入れるだろうか。少なくとも『たけし』の再開は難しかったのではないか。(『アクタージュ』が今後数年で再販されるか?となるとまず無理だろう)
20年前はまだ、未成年に手を出すことや性犯罪が軽くみられていたことは否めない。被害者感情に配慮するという発想も希薄だった。児童買春は下劣な行為との認識も弱く、それゆえ法的な罪さえ償えば良しとされた、といっても言い過ぎではないと思う。
現在なら復帰できても少年ジャンプには戻れなかったかもしれないし、別名義で他社に移っていたかもしれない。その場合のちの『トリコ』もこの世に存在しなかったことになるが……
マツキに連絡取って、小説書いてたから原作どう?の流れとか倫理観捨ててきたんかって感じ
Web小説良かったから声掛けたらマツキだったならまだわかるんだけどな
打ち切り絶版の必要はマツキのほうはないと思うけど、編集がヤバすぎてマンガワンが呪物だ
読んでる連載があったのに開きたくねぇ
マンガワン時代からの読者で、個人出版移行後も追っていた。紙の単行本全5巻もkindle全7巻も全部持っている。
作品と作者をべた褒めする自分のようなファンが今回のような事態を招いてしまったのではないかと、被害を受けた方、何も知らされずに別作品で作画担当をすることになってしまった方に対して、どうしようもないほどに申し訳なさを感じている。
というのも、堕天作戦を支えたのはファンであったという自負があるからだ。
私の知る限り、堕天作戦は知る人ぞ知る名作、玄人好みの漫画という評価であった。
まだマンガワンに掲載されていた2019年当時、紙の単行本は絶版であったと記憶している。最新の第5巻は電子版しか出ていない、つまり打ち切りも近いと予想されるような状態だった。
そうした状況を何とか変えようとしたファンの働きかけによるものか、2019年の夏、堕天作戦がWEBマンガ総選挙にノミネートされた。
他のゆるふわなラインナップの中で明らかに異色の作品。なんでもいいからとにかく堕天作戦の知名度を上げよう、できれば第1位を取らせてこの傑作を世に広めよう。毎日必死に投票した。投票のために課金もした。多くの読者が一丸となって星を目指していた。
その過程で、電子版しか出ていなかった5巻を紙で出版させた。既刊も重版にさせた。最終的には第3位に入選させた。
正直、件の編集が作者を庇ったと聞いて何の驚きもなかった。堕天作戦にとって、彼は良い編集だった。編集としてのプロフェッショナルさは感じられなかったが、少なくとも熱意だけはあった。
公式アカウントを始めて、広報に努めたのも彼だった。WEBマンガ総選挙の結果も彼なしにはあり得なかっただろう。
加害内容に憤っていることは言うまでもない。本来は子どもを守るべき存在である大人に虐げられ続けてきた被害者の方と、別作品の作画担当の先生が最大の被害者である。
もし私たちがあの作品をああやって存続させなかったら、まだ生まれなかった苦しみがあったのではないかと悔やむばかりだ。
その上で、読者としての怒りもまた止まらない。少なくとも3回は機会があったはずなのだ。2020年2月の逮捕による休載時、2021年6月の被害者の方からの公表要請時、2022年10~11月のマンガワンへの掲載終了と個人出版への移行時。
個人的に特に許せないのが、一番最後の個人出版への移行時である。
当初は個人出版に移行することは発表されていなかった。長い休載と沈黙を挟んで、久しぶりの告知がマンガワンでの掲載を終了することだった。そのため、コメント欄も公式アカウントのリプライ欄も荒れた。この世から堕天作戦がもうすぐ消えてしまう、その最後の日の最後の時間にはしんみりとした空気がマンガワンのコメント欄には漂っていた。
その悲しみが、11月1日になり、公式アカウントで作者自身が個人出版への移行を発表した瞬間、喜びに変わった。私的トラブルによるものなのかと、先生は無事でよかったと、よくあるらしい編集部と揉めた結果ではなくてよかったと。
一体どういう気持ちであのコメント欄を眺めていたのかと、作者に対しても編集部に対しても問い詰めたい。
それとも、読者の声が歪みを生んでしまったのか?
堕天作戦が消えたあと、マンガワンからはしばらく離れてしまった。なので、常人仮面はこれまで読んだことがなかった。山本氏の堕天作戦公式アカウントのポストでも、何らかの別作品に関わっていることは複数回匂わせられていたが、全く気づけなかった。事件の告発に関連するポストの中で、初めて原作者として関わっている可能性を知った。
完結記念キャンペーンで4巻分が無料で試し読みできたので掲載終了前に読める分だけ急いで読んだ。堕天作戦の作者と常人仮面の原作者が同じであるのは明らかだった。
もしマンガワンを離れずに常人仮面を読んでいたならば、編集部や山本氏、あるいは成田氏に一体どういうことなのかと問い合わせをしていたならば、作画担当の先生への被害はまだ抑えられたのではないかと、悔やんでも悔やみきれない。
コメント欄で新たな気づきを得る。盛り上がる話ではコメント数も増える。自分の書いたコメントがいいねを得て上位に表示される。
名前も知らないが、同じ話に対するコメントを通して、緩くしかし確かに繋がっている仲間たちがいる。
漫画アプリというプラットフォームで得られるこれらの体験は、SNSとはまた違うものだ。正確な歴史は知らないが、マンガワンはその先駆者であったと思う。
こんな形でメジャーになった堕天作戦も、マンガワンの黄昏も、どちらも見たくはなかった。しかしそうさせてしまったのは、ファンであった私ではないのか?
ずっとそう考えてしまっている。
(追記)
作品と作者ではなく、言うなれば、作品をめぐるエコシステムの問題だ。
作品の周りに作者がいて、編集・出版社がいて、読者がいる。読者の一部が熱心なファンとして勝手に宣伝したり、新規読者を連れてきたり、コメントで盛り上げたり、作者や出版社を応援したりして、エコシステムの維持に積極的に貢献してしまった。そうしたファンの一人として罪悪感を持っている。
何よりもWEBマンガ総選挙の第3位入選。あれがなければ、作品は惜しまれつつもひっそりと消えていた可能性が高かったはずだ。ファンがいなければ、そうなっていたはずなのにと思う。
もっとも、エコシステムを構成するメンバーだと思っていたのは自分だけで作者や編集からはそうではなかったらしい。休載理由を隠蔽していたことと、なかなか出ない新刊を待ちわびていたのに実は別の作品に取り組んでいたことへの怒りはこういうところからも生じている。
投稿後、ある記事で、「加害者ばかり人生が上手くいくのは辛いです。悔しいです。」という判決後の被害者の方のコメントを読んだ。事件を知らずに応援していたからと言って、許されるわけではないと思う。加害者の「成功」に寄与してしまった者として、まずは向き合いたい。
時系列を整理すると連載はすでに止まっていた。
今回止まったのは、すでに連載終了した別名義作品の単行本の配信や紙出版。
犯罪時に連載していた作品は、逮捕後示談交渉で再開するなと被害者に要請され、示談は成立してないものの再開せずに途中打ち切り状態になった。これは誰もが納得いくのでは。
その後に別名義で別作品を同一出版社の同一フォームで連載開始。今回の民事訴訟判決の騒ぎで同一人物と明らかになり、炎上して絶版が求められ、いろいろ停止となった。ここはもやる人は少なくないだろう。前科があって活動している漫画関係者だってすでに複数いる。
ただ芸能界なんかだと人気タレントの場合は被害者との示談が済んでなければ同じように起用して売り出すことはないだろう。示談がないなら復帰するにしても華やかなテレビ仕事などではなく地味な仕事が多くなる。
今回、賠償金の額や漫画活動再開で揉めて示談が成立することはないが、民事訴訟で決着がついたなら、活動再開することへの論理的批判はできなくなるだろう。
ただし、被害者の怒りは収まってるとも言えず、ネットの処罰感情の盛り上がりに合わせて、今から過去に刑事起訴されてない部分について刑事告訴したり、過去に証拠不十分等で不起訴になった部分について検察審査会に申し立てたりする動きがあると、また刑事事件の被告として活動は制限されることになるだろう。
おかしいと思ったんだよ。あの媒体ではそれなりに人気のあった作品で、丁寧に積み上げていたストーリーも中盤から核心に踏み込むあたりで、泥棒がとんずらこくみたいに急に物語を仕舞い始めて、でもあと3話で打ち切りみたいな雰囲気ではなく描きたい部分を端折ってでも描き切るだけの不自然な余裕があったし、もし打ち切りなら完結後にエピローグが数話続くみたいなことありえないし。
いま考えると最終巻だけ特装版ででも物理の単行本は出さず電子出版のみみたいなのはずいぶんと特異だったなとおもったけど、あれも裁判のタイムリミットとの関係で在庫持たずにできるだけ売って利益にしたい下衆い逃げ方だったんだな。
つまりこういうことか、裁判発覚で絶版→配信停止も織り込み済みだったわけで、それわかって配信停止で見れなくなる本を売ってたのだとしたら、詐欺的ですらあるな。
小学館の不祥事で打線を組んでみたよ(かなり最近のもの中心に、インパクトと時系列を考慮して並べたネタ打線です)
1(中) **原稿紛失&パワハラ訴訟**(2008年・雷句誠『金色のガッシュ!!』)
→ 小学館問題の象徴。カラー原稿5枚紛失+編集のパワハラで提訴→255万円和解
2(二) **セクシー田中さん原作者急死問題**(2024年・芦原妃名子)
→ ドラマ改変トラブル→原作者がSNS告発→自死。小学館にも強い批判殺到
3(左) **性加害罰金刑作者を別名で再起用**(2026年・マンガワン『常人仮面』)
→ 堕天作戦作者(山本章一→一路一)が性加害で罰金→知ってて別名で連載→大炎上+配信停止
4(一) **編集者が性被害者に口止め提案**(2026年・マンガワン関連)
→ 加害漫画家の示談で編集が被害者に「口外禁止」条件を提示→不適切対応認定
5(三) **フリーランス法違反(報酬明示・支払期日違反)**(2025年・公取委勧告)
→ フリーランス191人に報酬額・支払期日を書面で明示せず→初の勧告対象
6(遊) **しろくまカフェ作者にツイート削除強要**(アニメ化トラブル)
→ ヒガアロハ氏が正式契約なしで進行に不信→休載宣言→編集長らが「削除しろ」と圧力
7(右) **女性セブン YOSHIKI名誉毀損訴訟**(2023年〜)
→ 報酬未払い記事繰り返し→1億1000万円提訴(小学館側)
8(捕) **キャンディ・キャンディ絶版&著作権裁判長期化**(水木杏子 vs いがらしゆみこ)
9(投) **いいひと。・14歳など複数漫画家との過去トラブル**(1990年代〜2000年代)
→ 2008年以降ずっと語り継がれる「小学館=作家トラブル体質」の元凶
控え
わかる。自分も増田と同じように感じていて、周りに聞いたり、共産党の出演している番組を見たりもしたんだけど、結局のところ党名にまとわりつく「独裁」とか「暴力革命」とかの誤解がいまだに強くあるように思う(ここのコメントでもちらほらある)。
自分は今回は共産党に入れようと思ってるけど(前回はチームみらいに入れた)、
市田忠義っていう、元日本共産党副委員長の講演の要約を見つけたから貼っておくね。
ー
■党名について
「名前を変えた方がいい」と言う方は、おそらく「共産党」と聞くと「怖い」「暴力革命の党」、あるいは「旧ソ連」を思い浮かべるのだと思います。
また、「自由も民主主義もない今の中国」を思い浮かべる人もいるでしょう。
いくら「そういう国とは違う」と説明しても、親戚のように思われてしまう。
最近亡くなりましたが、私の母は明治36年(1903年)生まれで、小林多喜二*と同い年でした。
母は私にこう言いました。
「忠義、どんな悪いことをしてもいいけど、
『アカ』にだけはなるな」と。
私は母を責める気にはなりません。
母の世代は生まれた時から、学校教育で「『アカ』といえば国賊、非国民」と教えられてきたのです。
ですから、「こういう名前だと誤解する人がいるから、変えたらどうか」と言われるわけです。
しかし、もし党名を変えたら、その誤解は本当に解けるでしょうか。
おそらく、「今は〇〇党だけど、昔は共産党だった」「元共産党が……」という攻撃が必ず起きます。
私たちは正面から、「共産党」という党名に込められた意味を粘り強く説明し、誤解を乗り越えていく道を選びたいと思います。
「共産」という言葉の語源は、ラテン語の「コモリス(共同)」、英語の「コミュニティ」です。
つまり「共産主義」とは、国民同士が争うのではなく、みんなで力を合わせ、共同してよりよい社会をつくっていこうという考え方です。
会場の「コミュニティセンター」も言い換えれば「共産センター」。
「共産」の語源は、みんなが集い、助け合い、共に生きるという理念にあります。
■誇りある党名の由来
「日本共産党」という名前には、侵略戦争に命がけで反対し、主権在民を訴えて闘った先輩たちの、不屈のたたかいの歴史が刻まれています。
戦時中、「戦争反対」と言えば命を落とす時代に、「国民こそ主人公」「女性にも参政権を」と主張した唯一の党が日本共産党でした。
他の党はすべて、「聖戦」と称されたあの戦争に協力・加担しました。
1941年、太平洋戦争の前夜、すべての政党が解散して「大政翼賛会」に合流し、「天皇の政治を支えます」と誓ったのです。
残念ながら、自民党の前身である政友会も、民政党も、社会党の前身である社会大衆党も、すべて侵略戦争に賛成しました。
だから戦後、恥ずかしくて同じ名前では登場できなかったのです。
自民党の党員用教科書『日本の政党』には、こう書かれています。
「日本共産党だけがあの戦争に反対した。したがって、この党はどの党よりも道徳的権威をもっている。」
自民党の人たちでさえ、歴史の真実をねじ曲げることはできなかったのです。
戦後、日本共産党は「アメリカの言いなり」「大企業優先」の政治を改め、国民一人ひとりが主人公の社会をめざして、誰にはばかることなく意見を述べてきました。
しかし、私が初当選したとき、「共産党」と書いて投票した人は820万人いました。
■結びに
「共産党」という名前には、戦争に反対し、人間の自由と尊厳を守ってきた誇りが込められています。
私たちはこれからもこの名前を掲げ、誤解や偏見を正面から乗り越えながら、共に未来を築く道を歩み続けます。
「人間が人間らしく生きられる社会」を信じて、権力に屈することなく書き続けた多喜二。
絶版になった80~90年代のロリ系成人漫画を国会図書館で閲覧している者です。もし利用履歴まで流出していたなら、私の人生は終わりです。あの地底に眠る大書庫は、森羅万象の知が静かに積もる場所だと思っていました。それが、こんなにもあっけなく破られるとは失望しかありません。日本はデジタルを「理解」せずに「利用」だけしようとする。その結果が、件の防犯カメラ映像の流出やアサヒの生産ストップなどです。知識と技術の差を埋めないまま触れてはならない領域に手を出している。デジタルへの理解が深まらないのなら、いっそアナログに戻るべきです。ハンコに戻り、利用規約は紙で保管し、責任の所在を明確にする。それが、情報と人間の尊厳を守る最後の手段なのかもしれません。
漫画読めるサイトでもよくあるビューワーより、漫画の1話~最終話まで(※単行本単位にも切り替えられるようにする。表紙とかそういうのは該当話の後につけて、おまけは独立)、右側か左側の話数一覧から、PCなら話の表紙とかのプレビューをマウスカーソルで表示させて、なんならページ数のジャンプもボタン置いておいて全部1キーで出来るとか、それくらいのを、画像縦並びとかにして、こういう感じのを一元管理すれば絶対殺到すると思ってる
1話から最終話まで読みやすい形で、例えばあの話は何話だったか~みたいなのを、いちいち単行本とかごとに切り替えて表示したり、画面から漫画が表示されてるエリアを見失ってまで話数探したりするっていう検索性の悪さだと、単行本をひっくり返して話探してるのと一緒なんだよね
提供して欲しいのは「見たい話を簡単に読みやすく読める」、例えばアニメでああいう話あったけどあれは何話かなとなったときに探す手間を少しでも省けるようにしてあると、絶対読みやすくなるというか
そういう形で一気に読めるようにするっていうのは、単行本だとあり得ない検索性の良さっていうア上位体験、アドバンテージになるんだと思ってる
もう一つ言うと絶版漫画とかみたいに、物理書籍でもう手に入らない漫画をサブスクで読めるようになるかとか、キャラクターブックとかそういうファンは読めるけど電子書籍とかであんまり読めなさそうな話だとか、まとめて読めるかどうかっていうのが大きいと思うわ
はい、諦めてください。
でも、諦めるべきなのは
諦めるべきなのは、
という幻想です。
出版年鑑があっても、
すべての本を読めるわけじゃないですよね。
絶版もあるし、
入手困難な本もあるし、
でも、本好きはそれでも本を読んでます。
なぜなら、
「完璧に把握する」ことを諦めて、
「入手できる本を楽しむ」ことにしたから。
お互いに教え合うことで、
「一人で」
「完璧に」
「すべてを」
把握しようとすることです。
そうじゃなくて、
「他の人と協力して」
「不完全でも」
「できる範囲で」
楽しむことを選べば、
だから、「国がどうにかすべき」と言う。
でもね、
「一人で完璧にやろうとすること」
であって、
「作品を読むこと」じゃないんです。
ただ、あなたにとって、
「一人で完璧に」というのは、
アイデンティティの核心なのかもしれません。
だとしたら、
「孤独でいること」
かもしれませんね。
それが一番難しいことは分かってます。
でも、それが答えです。