はてなキーワード: 押井とは
ワイは、「天使のたまご」未見者だった。
その価値はあったのか?
と問われると、このように答える。
まず、天使のたまごを見たことがないから、とりあえず見てみたい。
というワイのような人間。
には、それだけの理由だったらもっとリーズナブルに見れる方法を選択をしてもいいかもしれない。
せっかくの4Kリマスターの大画面の上映という、今生には二度と訪れない機会を逸しさせるかもしれない懸念を持ちつつも、このような提案をするのには理由がある。
「天使のたまご」というのは、若き頃の押井守監督が、それをつくったがために3年間全く仕事が来なくなってしまったという記念すべき作品である。
あまりにも前衛すぎたために、見るものが理解不能であり(押井監督並みの知性を持っていれば可能)、予算を使って自己満足な作品を作ったことに対する、因果応報である。
私も、これを見る前までは、なるほど気持ちはわかるが、若いアニメ監督に対してそれはあまりにも厳しすぎる対応だったのではないのか?
などと思っていたが実際に見てみると納得してしまった。
「こんなもんつくったら、そりゃ仕事の依頼なんてくるわけがねえよ」
と深く深く得心した。
たぶん知性も知識も圧倒的に不足してて、下敷きとしている背景がわからないことが影響してることと、
その内容が
「見るものに強烈な眠気を催すためだけに作られたとしか思えないシーン」
それだけ、ただそれだけを集めてひとつの映像作品にしたとしかいいようないものだからだ。
たしかこの「天使のたまご」というのは押井守にとって重要な作品といえる。
その後の、押井作品の個性というものが、ビューティフルドリーマーよりも色濃く出ているとさえ言えるかもしない。
だから押井守作品が好きな人なら、一度は見ておくことはオススメする。
ただそれがIMAXなりドルビーシネマなりという体験として必要か?と言われるとやや難しい。
劇場版パトレイバーや、攻殻機動隊、イノセンスンなど、今後もリバイバル上映される可能性がある作品とは違い、
今後二度と、IMAXやドルビーシネマで見る機会は、絶対にこないだろうと言える、この機会を逃したらもう終わりであることが間違いがない
「天使のたまご」のリバイバル上映であるが、それをあえてスルーすることを推奨するのは非常に危険なのだが、
頭いい人は、たぶん概ね、押井守が天使のたまごで何をやろうとしてたのかは理解が出来ると思う。
それ以外の人は、自分が起きて映画を見ているのか、それとも眠ってしまって夢を見ているのかがわからなくなる映像だと思う。
とはいえ、まあ二度とない機会なんだから、せっかくだし一番でかい画面で見とけ、とも言えなくもない。
なんかそういう気分にもなってこさせるところが押井守作品の凄みだと思う。
なんかね、押井作品って、あとに余韻みたいなものが残るんだよね。
その余韻の再確認みたいなことがしたくなって、それが映画の価値を上げてると思う。
いま読んでいる「出発点 1979〜1996」(対談を含む宮崎駿の発言集)収録の夢枕獏との対談の中で、ずっと暖めていた企画として「アンカー」という映画のことが語られていた。
宮崎 じつは提案したいことがあるんです。ずっと形にならないまま、暖めている映画の企画があるんですよ。実写でできたらいいけど、だめならアニメーションでもいいやと思っているんですが。
(略)
宮崎 ストーリーはあまり具体的になっていないんですが、題は「アンカー」にしようと思っているんです。リレーの最終走者という意味の“アンカー”で、あるバトンを渡されてしまう青年の話なんです。舞台は現代の日本の都会、たとえば東京で、予備校に行っている青年が、ある闘いにまきこまれてしまう。ところがその闘いは、大決戦じゃないんです。きわめて日常的な枝葉末節の闘いで、勝っても何の評価もされないんですよ、バトンを次の人に渡せるだけで。
(略)
宮崎 それで、もしその闘いに負けたり、拒否したりすると、受験に失敗し、恋人ができてもすぐに逃げられ、就職も失敗し、交通事故を起こして交通刑務所に入れられ、そういう形で世間から抹殺されていく(笑)。闘いに勝っても、受験に成功するかどうかは、お前の能力しだいだっていわれる(笑)。
(略)
宮崎 背景には、そんなことが成立するかどうかわかりませんが、日本の歴史の底流にある、開明派と鎖国派の対立みたいなものがある。新しがりやの日本人と尊皇攘夷の思想にとらわれている日本人とのバランスが、いつもゆれ動いていてね。そういうシンジケートが日本の全町村にわたって存在していて、闘いがくりかえされているわけです。
(略)
宮崎 それで、予備校に行くために下宿した青年が、ピンチヒッターとしてバトンを渡されてしまうわけですが、ある女の子を守らなければならなくなる。それもカワイコちゃんで絶対に守ってあげたい、と思うような子じゃないんです。洟たらしの娘なんだけど、どうやって守っていいかもわからないんです。
(略)
宮崎 女の子が敵の手にとりこまれてしまうと、彼女の持つ潜在能力を封じ込めてしまうかもしれない。ただ、バトンを青年に渡したグループが、女の子の力を使うかというと、使わずに次に受けついでいくだけで。
夢枕 それは、なんのために?
宮崎 いつかの決戦のために。
夢枕 どういう力なんですか?
宮崎 一種のESP(超能力)なんですね。そういう話のなかで、みんながよく知っている東京の風景が、じつはちょっと目線をかえることで、全然ちがうものに見えてくるといいなあと思っているんです。悪役らしい悪役も出てこないんですよ。銭湯の番台に座っているオバアさんが、ひょっとしたらとんでもない大物かもしれないんですよ(笑)。
(略)
宮崎 ラーメンをゆでてる気むずかしそうなオッサンが、じつはとんでもないことをやっているかもしれないし。そんなものが作れないかと思って、できたら獏さんに本を書いていただいて、それを原作にして、映画化できないかなあ、なんて妄想をはたらかせていたんですけどね。
こういう現実の風景のすぐ隣に知らない世界が存在するという発想は、現在だと森見登美彦とか万城目学とかわりと例があるので(予備校通いの青年が主人というのもこの辺を連想させる)、そこまで新味はないかもしれないが、この対談は86年(ラピュタ前)。かなり斬新なアイディアだったのではないだろうか。
しかも、宮崎駿による現代劇、それも東京が舞台の作品だ。当時は、現代日本をメタファーを介さずに描くつもりがあったというだけで興味深い。
「実写でできたらいいけど、だめならアニメーションでもいいや」もなかなかに衝撃的。宮崎駿の実写作品!
対談の最後に夢枕獏にもう一度念を押してるところを見ても、社交辞令などではなく本気でやりたい企画だったようだ。
「アンカー 宮崎駿」でググってみると、宮崎駿プロデュース、押井守監督で企画が動いていたらしい。たしかに言われてみればいかにも押井守向きの内容だが、結局は方向性の違いで頓挫したようだ。
(押井守の発言によれば、押井はヒロインをハナタレのチビにしようとしたが宮崎駿が美少女を強硬に主張したとのことだが、この対談では宮崎自身が「洟たらしの娘」と語っている?)
決裂するのはしょうがないとしても、それで企画そのものがボツになってしまったのは非常に残念だ。暖めてきた企画なんだから、自分が監督・脚本でやってくれればよかったのに…
いま実際に掘り起こしてどうにかなる企画とまでは思わないが、ラピュタの次がトトロではなくもしも「アンカー」だったらその後のジブリはどうなっていたのか。想像してみるだけでおもしろい。
https://b.hatena.ne.jp/entry/4778092331231403169/comment/bigburn
アニメ・ゲーム系ライターの多根清史氏がこんな発言してるけど、シロマサ氏は攻殻機動隊1.5巻でSACに文句言いまくってるだろ
この話は当初、「シリーズのうち1話だけ僕と北久保氏にくださいね」 という事で社長、監督共に了承してもらい、2人で進めていたもの。実作業が始まると作品は監督のものになり、シナリオも修正された。まぁそんな予感もしてたけどね・・・・・・残念。
p.227
放送第2話に当たるこのTが実質上アニメスタッフのカラーが前面に出た第1話でもある。その話で9課の面々があまりにも「役立たず」として描写されており残念だった。
アニメ版Tもそれなりに面白いお話なのだが・・・・・・。 草薙が顔を出して名乗ったり、それを一般警官が知っていたりね。
p.323
憶えているだけで4回 「あのやる気のないブルマはやめてください」とお願いしたが、却下された。
p.337
そもそも「原作改変しながら協力的だった」ってまず協力が先だろ?
そのシロマサ氏の数々のプロット提供や助言を無視して、約束も反故されても協力的なわけじゃないだろ
あのSAC名物「世の中に不満があるなら~」に対して
冒頭のセリフで、「あぁ TV版の草薙ってこういう人物なんだ………」と分かり、 僕の出番は無さそうなので、以降プロットの制作をやめた。
p.201
騒ぎたい人が大げさに言い出すだろうけど、あくまでもシロマサ氏は文句言ってるだけでキレてないからな
本書ではこの他にも多数批判されてるけど、テレビアニメ関係者にしっかり感謝も述べているし評価もしてる
https://b.hatena.ne.jp/entry/4778092331231403169/comment/q-Anomaly
あとこのブコメ「メディアの違いを理解しましょう」とか原作者は大人の態度取ってるだけと言いたそうだけど
シロマサ氏はイノセンスだって何度も繰り返し見てるぐらいお気に入りだし、こんだけ文句言ってるSACだろうが攻殻の映像作品に関してはキレてないわ
強いファン自称してるけどPIECES Gemですら読んでないだろ?
もともとシロマサ氏は押井監督好きで(一番好きなのは天使のたまご)、GHOST IN THE SHELL見て、思ってたより改変してないって拍子抜けしたかのような感想だったしな
実際押井監督も脚本の伊藤氏も、複雑な原作を映画の尺に収めるためにシンプルにまとめる方向性だったし、フチコマ削ったのもシロマサ氏は真っ先に評価してる
とにかくこの手の原作改変話は原作改変自体を批判したかと思えば、自分がただ原作より先に見た原作改変作品は擁護したり、自分の意見に都合よく原作者持ち出したり、無視したりする輩が多すぎる
アニメの脚本家が原作マンガの表現を「ノイズ」って言って改変したことで炎上した事件があったじゃないですか。
増田はその作品について原作もアニメも見てないので内容そのものには口出しできないけど、あの発言が燃えた理由についてはちょっと思うところがあるのでいっちょ噛みします。
(なお、増田は作品を未視聴です。したがって改変そのものの是非については論じませんのであしからず。)
つまり「アニメのクオリティアップを目指して原作改変するのはアリ?」って話。
アニメ化のときって監督や脚本家の判断で設定やストーリーが原作から変更されるのはよくあることじゃん。でも、この改変が少なければ少ないほど良いと考える人が一定数いるじゃん。これをここでは「原作準拠主義」と呼ぶことにする。今回の炎上の発端も、原作準拠主義的な、「原作の表現を脚本家がノイズ呼ばわりするのはどうなの?」という意見よね。悪意を込めて言い換えると「脚本家ごときが原作者様に口出しすんな」みたいな。(これはわかりやすさ重視の悪い誇張です。)
他の作品でも原作から大きく改変すると「原作レイプ」なんて言葉で叩かれることがあるし、やっぱり原作ファンは改変を嫌う傾向が強い。でもその気持ちは分かる。増田も『ビブリオ古書堂の事件手帖』で主人公の髪型が黒髪ロング(原作小説)からショートカット(ドラマ版)に変わったのが納得いかなくて、ドラマは見なかったくらいなので。
一方で、大きな改変があっても名作扱いされる作品もある。『うる星やつら ビューティフル・ドリーマー』や『攻殻機動隊(GHOST IN THE SHELLやSAC)』とか。もちろんアンチもいるけど、全体的には名作扱いされてるよね。まぁ、ビューティフル・ドリーマーは高橋留美子原作マンガの映画化というよりは、押井監督作品と認識されがちなので、またちょっと話が違うのかもしれないが。
いずれにしても、あのインタビューで怒ってた人のうちいくらかは、原作準拠主義だったんじゃないかなと思う。
次に、炎上ポイント2つ目。改変対象が性的描写だったこと。これによって、表現規制論争に巻き込まれた感がある。いや、巻き込まれたというか、まさに未成年の裸体を描くことへの抵抗として水着への変更をしているので、性的描写の表現規制論争そのものかもしれない。ここについては作品未視聴なので特に意見はなし。一般的には入浴シーンだと「湯気」「すりガラス」「水面で隠す」みたいな処理が多いので、水着を着せるという処理はちょっと珍しいなと思ったくらい。
余談だけど、怒ってる人を揶揄するコメントで「そんなにぼっちちゃんの裸が見たかったの?」というコメントがあったので、原作マンガでも別にぼっちちゃんのおっぱいや局部が描かれたわけじゃないんじゃないの?と思ってググったら、わりとおっぱいは描かれていた。えっちじゃん。
さらに余談。インタビューで「現実の女の子は胸の大きさの話なんてしない」って発言があって、まぁそれはそうかもしれないけど、現実でしないからアニメの会話でも採用しないっていうのは違うんじゃない? 演出効果があるなら現実には言わないセリフでも入れるべきだし、逆にセクハラ的なら現実にありふれててもカットするべきじゃん。あるいは「普通は言わないけどこのキャラは言う」っていう個性の演出もありだし。
ていうか現実っぽさで言えば、「一人で家で水風呂に入るのにわざわざ水着を着る」人も現実にはいないと思うんですよね。
炎上ポイントの最後は単純に「脚本家本人が嫌いだから叩く/逆に擁護する」っていう感情論。ようするに脚本かくあるべしみたいな主題から外れた「ノイズ」だけど、実はこれが炎上の本質だったんじゃないのって思う。
これについても増田は特に意見はない。まぁ嫌いなやつを否定するために雑な理屈を捏ねるのは見ていて気持ちいいものではないけど。
まあいいけど人気は出ないよね。
うる星やつら、とかも期待だけはとてつもなく大きかったけどいざ始まれば1話以外は誰も見ない。
らんまとかもそうだし。
その理由は色々とあるんだろうけど、あえてヒットした要素を外してしまうからなんだと思う。
でもさ、実際にヒットしたアニメは押井のうる星なわけじゃない?
それを完全に無視するのはどうかと思う。
偉大なアニメをリメイクするに当たり、アレンジをどうするのかは鬼のようにもっと考えないといけないと思う。
なんちゅーか、もう一度大ブレイクを起こさせてやる!!という気概は欲しいよね。
ちょっと面白いアレンジ思いついたから見て見て、私を見てえええええ!!
みたいなノリなのは嫌。