はてなキーワード: タブーとは
女をあてがってもらえなくて苦しんでる弱男とか、性欲がなくなればある程度その苦しみも楽になるんでしょ?
知障の男もさ、性犯罪起こしても自分で責任が取れないんだから、女性に迷惑かける前に性欲は薬で減退させてもいいんじゃないの?本人たちはそれで苦しむわけでもないんでしょう。
それ以外にも、政治家とか、バリキャリとか、性欲は邪魔だけど働きたいって人たちはたくさんいるんじゃないの?
なぜ性欲を減退させる薬の話だけは毎回タブーのように扱われるのか、全く理解できない。男社会だから性欲を減らすなんてとんでもないという共通認識でもあるのか。
男で性欲で苦しんでる人がいて、男の性欲に苦しめられている女性たちがいる以上は、薬の利用の是非について語るのは悪いことではないし、積極的に進めてもいいと思ってる。
住んだと言っても出張でキッチン付きホテルに長期滞在しただけなのでアパートを借りたとかそういう類ではないけども。雑感を書きなぐる。
普通にスーパーはあって物は買えるし。良いところはウォルマートやターゲットなどのアメリカでデパートと称されているものは食料から家電、家具、服、カー用品、薬など
ほぼ全部がひとつの店舗に揃ってて買えるところ。買い物はしごする必要がない。
米や醤油などは日系スーパーにいけばあるが、ちょっと良い食料品店に行くだけでも買える。
米は当然カリフォルニア米だけど別に悪くない。そのまま米に何も乗せずに食べるのはちと難しいかもだけど。
家は…一般的なアパートも見せてもらったが泊まっていたホテルとあまり変わらないかった。
ある程度の価格帯のアパート・ホテルなら必ず食洗器がついているのでシンクが小さい。
洗浄力はバカにしていたがちゃんと汚れが落ちている。水をじゃんじゃん使ってるんだろうたぶん。
トイレの便座は冷たい。まあしゃあない。
高い。とにかく高いけどステーキハウスはアホみたいに厚い肉が出てくるし
そのへんのハンバーガーショップのハンバーガーは美味しい。ただどこも肉の味orソースの味しかしない。
ただ半年もそんなもの食べてたら飽きるから寿司とかでも食べようと思うとあきれるほど高い。
日本人がいる寿司屋で高いならまだ納得できるが米人しかいない寿司屋で死ぬほど固いシャリの寿司を出されて$50はかなりガッカリした。
ちなみにラーメンの店もよくあるがスープがぬるくてガッカリする。
メキシコ人のやってるフードトラックで食べるタコスが一番味と値段のつり合いがいいと感じた。
■意外によかったところ
トイレ問題。公衆トイレは少ないがスーパーなどの店舗のトイレはだいたいほとんどの地域でキレイで問題なかった。
田舎のガソリンスタンドのトイレは汚かったり、使うときに施錠されているからカギを借りて返すなど面倒だった。
特によかったところはほぼ必ず手洗い場にペーパータオルと石鹸があること。
ハンカチがない国なので必須ではあるが日本でもこれは真似してほしいところ・・・
野菜や肉類
安くはないがちゃんとしたスーパーなら洗浄済みでそのまま使える野菜が売られているので料理は楽。
肉類は例えばベーコンなら何もしていないプレーンなものからスモーク、メープルと種類豊富。
当然だが車がないと生活できないのでレンタカーを借りて走った。半年で1万キロくらい走り日本にいたころよりも運転した。
正直日本の道路よりも快適。チャリも歩行者もほぼゼロで運転マナーも比較的良い。時々バカみたいに飛ばしているのは見るけど急いでる奴は急がせておけばいいので。
別に英語出来なくても生活するくらいなら無問題に近い。だって不法移民だってあいつら英語しゃべれないし世の中が英語出来ない奴でも生活できるようになっている国だから。
サンフランシスコ、ロサンゼルス、ラスベガス、シカゴ、インディアナポリス、ニューヨーク、そのほかマイナー地域含めて15州20地域くらい転々とした。
正直しんどかったけどもいろんなアメリカ地域を見ることができてラッキーだったと思う(会社の金だし)。
過去に趣味で日本一周をしたので日本の大体の地域はいったつもりだが、各地域、各県で方言や文化を含めて違う部分はたくさんあるけど
アメリカに関しては大雑把に東西南北の地域のクセ(英語だったり料理の味付けだったり)が若干あるだけで別に方言というような方言もなく
※スマン、中南部は行ってないんだ……一番南でアラバマのバーミンガム。そこでは老人としか喋ってないから老人の訛りなのか南部系かわからなかった…
その地域の名物料理って言ってもシカゴピザみたいなパンみたいなピザだったりニューヨークビザみたいに薄くてデカいやつだったり。そんなに変わらない。
ちょっと面白かったのはサンフランシスコで仕事をしていた時は金曜日にそもそも来ない奴がいて(サーフィンでもしてるのか知らないが)、
ノースカロライナで仕事をしていた時は一応金曜日の朝に休む連絡はあったし、午後から休むわ!って言って帰るやつもいた。
政治に関して書くと(丁度去年の大統領選の時期にいたので)、あまり同僚から話を聞くことは出来なかったが(タブーに近いんで)
住宅地にいくと家の前にトランプ支持!かハリス支持!のプラカードを刺している家をよく見た。たぶんストビューでも見ることができると思う。
サンフランシスコやロサンゼルスあたりのもともとハリス支持の地域と比較的内陸側のトランプ支持の地域でハッキリと支持層が分かれているのが家の前を見てわかった。
綺麗な整備されている住宅街はハリスのプラカード、田舎の家の前にはトランプみたいな。
車にもステッカーでどちらかを貼っているのを見た。白髭蓄えた爺さんが運転しているデカいアメ車のトラックにVOTE!TRUMP!のステッカーが貼って会ったり。
ちなみに田舎の観光地のお土産屋に行くとトランプ支持アイテム、帽子やTシャツなどのどこで買えるんだそれ!?って思うものが買える。
さらには「トランプショップ」というトランプグッズ専門店もある。アパレルやステッカーだけではなく調味料の瓶にトランプの写真が使われてたりもうやりたい放題だった。
リカーショップに行ったら「どこから来たの?」「日本だよ」って会話から「海外のコインを集めてるんだ。もしよかったら貰えないか?」と言われその時はなかったから次行った時に小銭を渡した。
新500円玉と50円玉が食いつきよくてAmazing!って言ってたな。
同僚に勧められたヨセミテ国立公園ってところに行ってみたら、本当にただ自然があるだけの何もないところなのになんだか感動したのは覚えてる。夜になって車から降りたときの星空が忘れられない。本当に天然のプラネタリウムだった。
アメリカの森の中で時々1本だけ、たまには複数本黒焦げになった木があるのは雷が落ちて焼け焦げた木だと聞いた。
カリフォルニアの山火事が日本でもニュースになってたけどアレはてっきりキャンプとか釣りに来てた人の火の不始末だと思ったら雷落ちて燃え広がったものだとわかった時の自然の凄さたるや。
日本からアメリカに日本車を持って行く人がいることは知っていたけどたまたま駐車場で見かけてドライバーと話をした。
車検ステッカーや車庫証明のステッカーもついていて「日本から持ってきた証拠だよ!ところでこのステッカーってとういう意味?」と聞かれ返答に困った……車庫証明はパーキングパーミットでいいと思うけど車検ステッカーの数字の意味。和暦はどう英語で表現すればいいのか未だにわからない。
こんなに沢山ブコメやらなんやらつくの初めてでびっくり。長い駄文を読んでくれた人がいたことに感謝です。
・医療について
実は一度病院にかかった。皮膚科、眼科などの専門医の予約は基本的に取れない(1,2ヶ月待ち)らしく、アージェントケアというとりあえず何でも診てくれる医者のクリニック?に行ってから、治らなければ専門医に行ってくれと言われた。幸い治ったので助かった……。会社で保険に入れてもらっていてそれで対応したので薬代以外の手出しはなかったが薬代で$40ほどした。日本だとジェネリック使って1000円もしないけど。これが全て自腹だとかなり大変…。
・大麻について
都市の治安が悪そうなところ、あとニューヨークの公園ではよく臭った。
俺は「腐ったビールの臭い」のように感じた。臭いは強烈で臭うエリアを車で通りがかるだけで車のエアコンから侵入して臭ってくる。本当に勘弁してほしい。
そして日本に帰ってきてからもたまに都内を歩くとどこからか臭ってきて「あー大麻やってるのいるな」とわかる。アメリカほど強い臭いではないけど
タバコは高い。行ったところではケンタッキー州が安くてマルボロが$7くらい。それがニューヨークだと$15まで跳ね上がる。
高いのでアメリカ人はVAPEをよく吸っている。あとニコチンの入った紙?ガム?のようなものとか。
建物の中は完全に禁煙(カジノ以外)なのでホテルも喫煙室というものがそもそも存在しない。全て禁煙。
携帯灰皿文化がないのか吸い殻はみんなポイ捨てしてる。道路は吸い殻だらけ。
メンソールタバコは州によって禁止、カリフォルニアが禁止のはず。
そもそもアメリカ銘柄のメンソールは全体的にメンソール感が薄いので日本のマルボロのアイスブラストのようなものは存在しない。
日本のような民放がない?らしくケーブルテレビを契約しないと番組は見れない。BBCみたいなニュースだけは契約しないでも見れるんだっけな?
ホテルなのでケーブルテレビが契約されていたが、日本で言うならスカパーの専門チャンネルが沢山あって見放題のイメージ。
芸能界において、女性タレントが男性ファンの支持を得ながらキャリアを築く一方で、実際には業界内の人脈や経済的な支援、いわゆる「パトロン」的存在に依存している側面があることは、しばしばタブーとして語られてきた。特にアイドルや若手女優のような「清純性」が売りにされる存在に対し、ファンの多くはそのイメージを現実と混同し、恋愛やスキャンダルの報道に強く反発する傾向がある。
だが現実には、芸能界もまた資本と権力が交錯する社会の一断面であり、イメージ戦略やマーケティングに支えられた虚構の上に成り立っている職業世界である。ファンが「裏切られた」と感じるとき、それは彼女たちの人間的側面をあえて見ないようにしてきた自分自身の欲望との落差に他ならない。「アイドルはトイレに行かない」と本気で思っているわけではないだろうが、彼女たちを理想化し、偶像化する視線が、芸能の構造的矛盾を生んでいることもまた否めない。
さらに言えば、「女の美貌」は自然に育つものではない。それは多くの場合、男性の性欲と承認欲求に応えることを無意識のうちに学び、社会の中で「好まれる女」であることを反復し続けた結果として形づくられる。他方で、同性の女性たちからの「女らしさ」への同調圧力も見逃せない。ルックス、スタイル、話し方、仕草——それらが評価される環境の中で、美貌とは社会的に構築されるものであり、性的に魅力的であることと社会的に無害であることのバランスの上で保たれる仮面である。芸能界は、その極端な圧縮モデルにすぎない。
こうした構造を前提にしながらも、親が自分の子どもをこの業界に進ませようとするならば、冷静に問い直すべきだろう。まるで夢を追うかのように見えて、実際には「見られる商品」としての自己をどこまでも磨き、売り、耐える世界である。自己実現と称しながら、実は“性と虚像の取引”を繰り返すこの業界に進むことを、親が応援するというのは、ある意味で子を博打の場に差し出す行為とも言える。もし本当に応援するなら、せめて「この道は簡単に綺麗事ではすまされない」と正直に教えるべきだ。近所の人間に何を言われようとも、心から「誇らしい」と思えないなら、むしろその不安を言葉にすべきである。
唯一、社会的に一定の倫理と公共性が担保される領域があるとすれば、それは民間放送ではなく、半官半民の構造をもつNHKのようなメディアに限られるかもしれない。もちろんそこにも矛盾や限界はあるが、少なくとも「芸能を手段にした自己商品化と搾取」が野放しで進行する状況とは一線を画している。芸能を職業とすることは否定されるべきではない。しかし、それが「幻想産業」である以上、踏み込む者には現実を直視する覚悟と、支える者には倫理的な自覚が求められる。
世の中の人並み以上の顔を持っている人はわからないと思うんですけど、そういう人は女扱いされないんですよ。良い意味でも悪い意味でも。
でも男じゃないから男いじりもなくて、ある意味平等かもしれません。
いじめられたこともないです。あまりにも恐ろしいデザインだから。
一回だけ、中2の頃クラスの男子が私の顔について怖い、と呟いているのが聞こえました。これが全てを物語っているのではないでしょうか。ここまでくるといじるとかないんですよ、完全にタブー扱い。
友人の結婚式でサプライズ企画したときですら最後のムービーで映されなかったですからね。美醜以前の問題で、なんというかもう放送禁止の汚物みたいな、見るに耐えないものなんでしょう。
結婚で足洗った元ヤリマンによる、女側の遊び癖……いわゆるヤリマン論もいっちょ書いてみっか?移動中で暇なのよ。
女という生き物は、股を開けばよほどのことがない限り無碍に扱われることはない。ただし、それをやることで「対話できる人間」から「欲を吐き捨てる穴」にランクダウンし、戻ることはかなわない。
その最たる例がメンヘラ、被虐、片親など、信頼できる異性家族がいない(父、兄、弟など)ゆえに、男性性にすがりたくて体を張っているやつらだ。
「外からは決して見えないところにいる」が大筋の答え。
「対話できる人間」の社会では性欲を出すことは最大のタブーであり、人ならざる行為だからだ。
だからこそ、対話が必要な社会より、クラブやアプリのように「遊びに行く場所」での開示が明瞭かつ手早いのである。
これは男女差があると思うが、女側は圧倒的に「選べる側」なのである。ヤリマンやってると、ときたまべらぼうに相性がいい男と出会うことがある。理性などなくなるほどに。エロマンガだけの世界じゃないぞ。佐伯ポインティのTHE猥談みたいな展開は50人と遊べば2〜3人とある。その場合でも、2度目はめったにない。なぜか?
自分が「対話できる人間」から「欲を吐き捨てる穴」に近づいていくのが恐ろしいから。いわゆる快楽落ちを恐れている
・有名人
・お金もち
・宿代わり、足代わり
この中に「友人としての相性がよい」は無い。絶対に無い。友人のままでいたい場合はセックスしたくないから。ぬいペニみたいなもん。
普通〜〜〜〜のいい人だったんだろうなあ。
遊び慣れしすぎてチャラいやつは怖いし、チャラいやつに寄っていける女は、やらずに帰るなんていう理性はないから。
話してみたらいい人だから、やりたくない。と思われる程度に、いい人間で、よい友人になれる人なんだろう。
そりゃ怯えてたに決まってんだろ!!!!!都内だとほぼ毎週どっかしらでHIVの無料検診が行われていたため、月1〜2で利用していたぞ!
性的な魅力に依存することが、自傷行為を行ってるような気分なので、多分性行為そのものが好きだったわけじゃないな〜と、結婚してから気づいたって感じです。「女」じゃなくて「人間」として存在できる世界、なんて楽なんだ〜。
元増田だ
そういえばなんとはなしにトラウマという言葉を使ってしまったのだが、この言葉はそもそもがあやふやな単語だったといまでは反省している。
どういう意味合いで使ったのか、そしてこのエントリーに俺の言うところのトラウマにまみれたような奴らがすごい勢いでたかりだしているのを見ると、それなりの人々に刺さった、もしくは喧嘩を売る結果になったのだろうと勝手に思っている。
これも俺は苦しみながら書いているから多分長いし読みにくい文章になるだろう。
トラウマって言うと、例えば戦争時代のトラウマで銃声を聞いたら殺人鬼になる、みたいなクソな定義の物語はたくさんあるんだが、トラウマは俺は「なにか後押しするもの」ではなく「なにかブレーキになるもの」というものとして書いている。
もうちょっと言うなら「自分がなにか主体的なことをしようとするとトラウマに邪魔されてしまうので受動的ななにかに逃げるもの、この邪魔をするものがトラウマ」という感じで書いている。
例えばこういうシナリオだ。
「・・・でも取ったからってなにか意味あるのか?そもそも俺英語好きでもなんでもないし、好きでもなんでもないものをキャリアに活かすのって苦痛だし、大体今どき英語喋れるやつなんて腐るほどいる、そこに俺が飛び込んだところでどうせ食い物にされて終わるだろう」
というこの2つ目の理屈だ。出来る奴らはこうは考えるだろう。
誠にシンプルだと思う。増田の反応を見てればわかるけど、前者の多いこと多いこと。
そして「本当に何もしないでやめること」のバツが悪いから今度はこう考える。
「アイツラは何時間も勉強するが、俺達は何時間も動画を見る、これってつまり同じことだろ」
プライドはあるもんな?アイツラがやっていることとなにか当価値なことをやっている、と思いたいんだろ?
能動的にやっているか受動的にやっているか、で全然違うのにこうやって結局「今のままの自分でいることを正当化する」ために「あーでもないこーでもないと屁理屈をこねる」がこういう奴らの性質だ。
言っといてやるが、受動的なことなんてのは何時間でもやってられるんだよ。能動的なことをやるときが人間は辛いし、取捨選択はしても逃げるべきじゃないことなんだ。
じゃぁなんで「今のままの自分でいたいのか」もっというと「俺にのしかかる重大な問題を解決することをここまで徹底的に拒むのか」というところの根本を知る必要があるだろうということを俺はいっている。
こういうトラウマだらけの奴らがまず能動的にやらなきゃならないのは「トラウマの正体を把握してどうやって生きていくかを決断する」という点だ。
この時点で出来る奴らよりはかなり重たいハンデを背負っていることは言っておく。本当に大変だと思う。
千葉県にある鋸山なんていう誰でも登れる山を登る条件に、一旦チョモランマ制覇を条件付けられてるのがお前らだ、ってことだからな。
出来る奴らはそのまま内房線に乗って向かうところをお前らはまず世界最高峰をクリアせよと言われているんだ。
そしてお前らのスマホは「鋸山の情報ならいくらでも差し上げますよ、チョモランマに登るとかそんなのはお前にトラウマを植え付けたアイツラがやるべきことだ、お前がやることじゃない、お前は間違っていない、アイツラが悪い、お前は何もしなくていい」と甘い言葉を囁いてくるんだ。
出来る奴らにもここはわかってあげてほしいと思っている。うっとおしいことこの上ないが、彼らがトラウマを持った責任は彼らにはなく、解決の責任だけが彼らにある、ということなんだ。不条理だと思う。
はっきりいうとこれは本当に個人差があると思う。幼稚園の頃にはもうトラウマまみれになっている子供もいれば、就職してからの人もいるだろう。
ただ、一つ言えることはたとえば「俺は自分の意思を主張してはいけないのだ」と思う瞬間がどこかにあり、そこに周囲の奴らが乗っかった期間があり、結果自分の意志を主張することが本人の中でタブーとして固定される、ということだ。
例えばやんちゃな子供がいたとする、親がいたずらをかなりきつめに諌めた後で子供がやんちゃをしなくなったとする。
親としては「やっと言うことを聞き入れてくれた」と安堵するかもしれないが、このとき子供の心にあるのは「自分の意思で動くと何が起きたかわかったもんじゃない、自分の意志は全部押さえつけて周囲の人の機嫌が良くなりそうなことだけ選んでいこう」になってしまうが、親は「いい子になってくれた」としか思わなくなる。
しばらくすると何を勧めてもやらない子供、怒鳴りつければ言うことを聞く子供、となっていく。
この行動原理がトラウマなのだが、その子供は「こうやって生きていく」が自然に刻み込まれているせいでそれがトラウマだとは全く気づかない。親も気づかないし、むしろそのトラウマを持ってくれていたほうが楽なので、トラウマを活用するようになる。
これは親だけじゃなくて、いじめっ子、取引相手、仕事上の関係者、友人、知人、と言った人々が本当になんの気なしに使っていることもある。
例えば、お前らがかりに出来る奴らだったとするが、友人リストの中に「俺のお願いにYesということが前提の付き合い」のやつはいないだろうか?
「そんなやつはいない、俺は誰がNoと言っても普通に聞き入れる」と思うかもしれないが、Noとい言われたらそのままじゃぁいいや、となる人と、微妙に食い下がりたくなる人がいないだろうか?そいつらがトラウマで生きている奴らだと思っていいだろう。
お前らも実はこういうトラウマを持った奴らをうっすら差別している、ってことには気づいてほしいと思っている。なんでこいつがNoって言うと食い下がりたくなるんだろう、なんでこいつがNoって言うと結構ムカついて引きずるんだろう、って考えてみろ。
トラウマまみれのお前ら、思い出を掘り返してみろ、「あぁ、自分は自分の考えを持っちゃだめなんだな」と思った瞬間はないか?その瞬間はすごく大事だと思う、そこを起点に誰かにほってもらうとものすごい勢いで出てくると思うぞ。
お前はYesとNoの両方をすんなり使えるか?これが出来るとできないとで人生の重さは格段に変わるぞ。
辛いし苦しいし、何なら適当なやつに攻撃したくなるかもしれないから本当にしんどいのだがやって見る価値はあると思う。
だけどな、セミナーとかスピとかだけは頼るな、これはお願いだ、お前らの精神がボロボロになる。
これは残念なことだが、俺はないと思っている。外科手術が必要な傷跡は一生消えないようなものだ。だが、トラウマがはっきりと見えてば「トラウマを持って生きていく」という方法は身につくだろう。
見えないままに生きていると、いたずらに気分に振り回されてしまい、人生がグダグダした単なる惰性になってしまうが、自分はトラウマのせいでこう考えてしまうのだ、ということが把握できれば「その考えに従うか否か」を選択する余地が生まれる。
こここそが重要だ。
「自分はこういう人間だから仕方がない」と思っているのか「自分はこう考えがちだがトラウマのせいでそう思うのだから従うかどうかは選択して良い」と思っているのかだけでも出来るやつほどじゃないが、だいぶ軽くなることは間違いがない。
ただ、ここには「助力を得ながらでもいいから自分でたどり着く必要がある」ということが重要だ。だからカウンセリングを受けたほうがいいと言った。
あぁ辛い苦しい、という気持ちを持ちながら書いたのだから、もし自分がトラウマに苦しめられていると感じているなら、一歩踏み出すことを考えてもいいと思う。
ちなみにこの「一歩」が「まずチョモランマを制覇せよ」っていうくらいに辛いことだ、っていうのは周囲の人もわかってあげてほしい。
女性のAED問題や、札幌の介抱わいせつ逮捕事件、草津町長冤罪事件、乳腺外科医冤罪事件、東京科学大の女子枠など、それはおかしいだろってニュースが多く、それをChatGPTに放り込んでいったら、論文を書いてくれたので、残しておきます。
こんな文章、自分のSNSでさえ好評を憚られるので(白饅頭さん、小山(狂)さん、YSさん、めるめるさんなど、こっそりいいねをつけることはありますが)、匿名で置いておきます。
近年、ジェンダー平等が公共政策や教育、メディアにおいて繰り返し謳われている。しかしその内実は、多くの場合「女性の支援」に集中し、男性の負担構造は温存されたままである。とりわけ、社会的に弱い立場に置かれた男性にとって、日本社会はますます生きづらい空間となっている。本論文では、このような「名ばかりの平等」が構造的男性差別として作用している実態と、それに対していかにして制度的・倫理的な修復が可能かを考察する。
現代日本のジェンダー政策には、以下のような非対称性が存在する:
これらの構造は、男性を常に“責任主体”とし、女性を“支援対象”とする社会通念と制度に支えられている。
この非対称性に異議を唱えると、「女性蔑視」「ミソジニー」「差別主義者」として社会的に制裁を受けることが多い。特にアカデミアやメディアにおいては、フェミニズム的価値観が事実上の「検閲装置」として機能し、構造的男性差別の指摘自体が“語ってはならないタブー”と化している。言論の自由が奪われたとき、制度の歪みは修正される術を失う。
日本学術会議をはじめとする学術機関は、本来ならば中立的・客観的な知見から社会に提言を行うべき立場にある。しかし実際には、特定の思想(反防衛・反資本・フェミニズム)への傾倒、公費による活動にもかかわらず説明責任の欠如、政策的実効性に乏しい提言と、過去の誤りに対する訂正や謝罪の欠如といった問題が指摘される。アカデミアが公的影響力を持ちつつも責任を取らない構造は、制度腐敗の典型例である。
草津町長冤罪事件は、「被害者の声は信じるべきだ」という道徳的スローガンが、誤った断罪と社会的抹殺を生む構造になりうることを示した。虚偽申告によって一人の町長の名誉が踏みにじられたにもかかわらず、その加担者(著名フェミニスト・支援団体)は誰も責任を取らず、謝罪もしていない。このような「信じることによる加害」は、責任の不在という最も危険な社会病理である。
多くの若い男性が、「いくら論じても無駄だ」「一度、社会が壊れるしかない」と口にする。これは厭世的感情ではない。むしろそれは、真剣に向き合い続けてきた者の“最後の倫理的選択”である。責任を負わない者が公的空間を占拠し、声を上げた者が沈黙を強いられる社会において、崩壊は“沈黙の報復”であるとも言える。
本稿は、制度的男性差別の構造とその背後にある言論の抑圧を記録し、たとえ社会が崩れても、理性が語っていた証拠を残すために書かれた。今、構造を変える意志を持つ者がいなくても、いつかこの記録が再建の素材となることを願う。
本来日本でもぼっち飯はタブーだった。学校で一人で食べてると担任に頼まれた学級長から声かけられたものだ。便所飯なんて闇の文化もあるのだが・・・それは別の話
どうも孤独のグルメとかいうのが流行って一人飯が許容されてしまったんだよな。コロナの影響もある?少子化に歯止めがかからない原因の一つでもある。
ずっとこの話を誰かにしたかった!圧倒的に青山景「よい子の黙示録」(全2巻)
作者の自死により強制連載終了。最終第2巻は書き溜め&構想資料の収録になってる。
クラスメイトを教祖に祭り上げて新興宗教を興そうとする小学生と彼の謀略に翻弄される新米教師が主人公。
女教師×小学生のサービスショットがありつつも安定した画力と練り上げられたプロットで刊行当時(2012年)には暗黙のタブーであったろう「宗教」というテーマに、編集部もよくぞゴーを出したと唸らされる渾身作。
安部首相の件以降宗教が必ずしもアンタッチャブルな話題とは言えなくなったここ数年に連載が始まっていれば確実に話題になっていたはず。
10年先を行っていたとはこのことかと、この先どんな展開が32歳当時の作者の頭の中にあったのかと想像すると何回読み返しても感慨深くなる。
あの絵で続きが読みたかった。
本当に創造的な人間は、社会の空気や常識に無批判に従うことをしない。
むしろその空気に対して一定の距離を保ち、必要であれば逆らうことすら厭わない。
それは反抗心ではなく、より高い原理に従って行動しているからである。
その原理とは「倫理」である。倫理とは、時代や文化に依存しない普遍的な規範であり、人間として守るべき本質的な価値基準だ。
創造的な人は、この倫理に照らして物事を判断し、行動を選択する。
一方で、「空気を読む」という行為は、集団における同調圧力に屈することと紙一重である。
空気はしばしば、その場の和を乱さないために理性や正義を犠牲にすることを求める。
しかし、創造とは常に「いまここにないものを形にする」行為であり、現状維持や既存の枠組みからの逸脱を伴う。つまり、創造性と空気読みは本質的に相容れない。
例えば、ガリレオは当時の教会の「空気」を読まず、地動説を主張した。
エリザベス・ブラックウェルは、女性が医学を学ぶことがタブーとされた時代に、その空気を無視して医学の道を切り開いた。
これらの人物は、倫理的に誠実であろうとしつつ、空気に従うことを拒んだことで歴史を動かした。彼らが空気を読んでいたら、その先の世界は閉ざされたままだっただろう。
重要なのは、彼らが「わがまま」だったのではないということだ。彼らは私的な欲望ではなく、公益、真理、正義といった倫理的価値を軸に行動していた。
つまり、空気を読まないからといって社会不適合者ではない。むしろ、倫理を最上位に置いているからこそ、空気を超えて行動できるのである。
現代社会においても、イノベーションを起こす人々は、時に「変人」扱いされる。しかし、その行動には一貫した倫理が通底している。
目先の評価や常識への迎合ではなく、人間として正しいことを貫こうとする強い意志がある。その軸があるからこそ、空気に飲まれずに独自の発想を貫き、結果として社会に新たな価値をもたらすのだ。
真にクリエイティブな人間は、倫理を重んじながら空気に従わない。それは、内面に強固なコンパスを持ち、集団心理や空気の圧力に流されることなく、自らの思考と信念に基づいて世界を再構築しようとする姿勢に他ならない。